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宿坊2の掲示板


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[150]

題名:フェイク 第1785号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/04/03(木) 01:26 2a02:6ea0:c130:2000:3dd7:f2eb:486e:aff6(IPv6:) (2a02:6ea0:c130:2000:3dd7:f2eb:486e:aff6)

(発行=25.03.30)

「竜年光を信用するな」と戸田先生
大阪事件の無罪に難癖つける「慧妙」を破す ④
嫉妬、不知恩、退転、反逆で悲惨な末路

日蓮正宗の謀略紙「慧妙」が不知恩の反逆者・竜年光の駄文を引用して大阪事
件で池田先生が無罪になったことに難癖をつけている。

この竜は平成十九年三月、多臓器不全で死んだので、死者に鞭打つ悪口は書き
たくないが、竜の生き様を後世への戒めとするため、簡潔に記すことにする。

竜の作文は「慧妙」の記事と同様、ウソが多く信用できない。第二代会長の戸
田先生も「竜年光を信用するな」と言われていたと草創期の幹部が語っていた
が、池田先生の「若き日の日記」に注目すべき記述がある。

「二時、R宅にゆく。交通事故の弁償金、八万円也を、整理してあげる。心か
らの礼もいわず、いやな同志と思う。利己主義と権威主義の同志ほど、情けな
きものはなし」(昭和二十八年一月八日)

この「R」とは竜年光である。当時、二十五歳だった池田先生は、竜の腐った
性根を鋭く見抜いていた。

それでも正道を歩ませてあげたいと包容した池田先生の誠意を裏切ったのが竜
である。

竜は昭和三十年、学会の支援により品川区議に当選して、同三十四年には都議
になり、同六十年に定年退職するまで公明党の世話になっていた。

生来、己の栄誉栄達のみを考える卑しい男で、国会議員には推薦してもらえず、
都議を辞める際も「品川区の区長になりたい」と身勝手なことを言い出した。

結局、そんな我がままは叶えられず、錯乱した竜は学会と党を裏切り、悪辣な
手を使って激しく攻撃するようになる。嫉妬、不知恩、退転、反逆という「裏
切り者」の典型のような悲惨な末路をたどった輩である。

特に、宗門問題が表面化した直後の平成三年一月十二日、大石寺内事部に日顕
宛の手紙を届け、以来、日顕と結託して学会の破壊を画策。平成三年十一月七
日に「創価学会による被害者の会」なるグループ設立の記者会見を行い、発足
後は幹事になった。

翌四年四月、学会の法人解散を求める「要望書」を東京都に提出したが、都は
門前払いにした。これらの活動資金を提供したのが日顕で、竜に一千万円を送
金していた。

また平成十一年十一月には性懲りもなく、都に「住民監査請求」を送りつけた
が、またもや門前払い。

そこで学会の会館使用に関して難癖を付ける裁判を起こしたが、これも一蹴さ
れた。この裁判は学会の支援活動を妨害するのが目的だったが、その狙いが裏
目に出て、法廷の場で学会の正当性が証明される結果になったのである。

更に、竜は卑劣な信平狂言事件への関与、「四月会」関係者との繋がり、妙観
講総会への参加に加えて「創価学会解散撲滅の会」を作るなど、数々の学会攻
撃の陰謀に加担。権力と金に狂った竜は色欲にも狂って愛人との密会を重ねて
いた。

竜の色情狂ぶりは六歳下の愛人の日記に「今夜も爆発」と淫らな逢瀬が赤裸々
に綴られていた。「今夜は二人とも激しく青年男女の様に燃えた」「三日続け
て燃える。毎夜重ねる爆発が一日毎に最高だねとは先生(竜)の言葉」。こん
な下衆野郎の駄文を「慧妙」は乱用するから宗内でも嫌われ、信用されないの
だ。



[149]

題名:フェイク 第1784号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/04/02(水) 17:41 2a02:6ea0:e00c:0:1b85:45c2:40f7:14bd(IPv6:) (2a02:6ea0:e00c:0:1b85:45c2:40f7:14bd)

(発行=25.03.29)

戦時中の学会弾圧と根は同じ
大阪事件の無罪に難癖つける「慧妙」を破す ③
検察の派閥の領袖が選挙違反で有罪に

大阪事件を審理した田中勇雄裁判長は退官後、弁護士として活動したが、事件
当時の被告だった池田室長に好印象を持っていた。

複数の法曹関係者によると「ワシ(田中裁判長)の目から見たら池田室長は他
の人と違う。輝いている。この人は将来、もの凄く偉くなる人。まあ、見てて
みい。ワシの目に狂いはない」と語っていたとのことだ。

更に、後年、懐かしそうに「学会の皆さんは、礼儀正しいですな。驚きました」
等とも述懐していた。

無罪判決については次の点が判決の決め手だった。
「(検察の指摘する)池田さんが指示したという日より以前に戸別訪問の動き
があった。池田さんが会合で話すよりも前なんです。これでは、あかんじゃな
いか。それで検事の調書がいっぺんに崩れた」と。

一方、検事たちのその後は悲惨であった。
大阪事件で買収関係を担当した検事は肺癌で急逝した。五十歳の若さだった。

池田室長の虚偽の供述調書を作成した検事は肝不全から昏睡状態に陥って五十
七歳で死去した。
更に、横暴な態度で池田室長を取り調べた検事は退官後、弁護士になったが、
間もなく死亡した。

検察界では派閥争い

かつて検察界には戦時中、特高警察が検挙した思想犯を取り調べて起訴する「
思想検事」派と脱税などの経済事件を摘発する「経済検事」派の二つの派があ
り、激しく派閥争いをしていた。

思想検事派の領袖が岸本義広で最高検次長検事の時、公安調査庁長官の藤井と
治安対策にあたったが、その藤井は学会が初めて選挙に挑んだ時に破壊活動防
止法で取り締まるとも発言した。

それ以前の戦時中、東京地検の次席検事(昭和十九年八月)、検事正(二十年
三月)になった岸本は創価教育学会の弾圧に関する詳細を把握していた。

昭和三十年に法務事務次官になった岸本は主要ポストを自分の配下で占め、岸
本派の竹原精太郎が大阪地検の検事正の時に起きたのが大阪事件である。

特高警察―思想検事派の岸本―岸本派の竹原、この系統を見ると、戦時中、学
会を壊滅状態に追い込んだ弾圧と大阪事件とは根が同じと言ってよいだろう。

思想検事派のトップの岸本は東京高検検事長に就任。ライバルの経済検事派の
馬場義続と検事総長の椅子を争ったが敗北。自民党から衆院議員になって法務
大臣を狙い、馬場派が多い検察幹部の総入れ替えを考えたのかも知れない。

昭和三十五年十一月に行われた総選挙で岸本は旧大阪五区から出馬。札束が飛
び交う当時としては選挙史上最大の違反事件と言われた選挙で、岸本は最下位
で当選したが、選挙違反に問われた。

十八人に四百三十二万円をばら蒔いた、という買収容疑で、かつての部下の取
り調べを受けた。次の総選挙にも再出馬したが落選。昭和三十九年三月の一審
判決で、執行猶予つきながら禁固一年三カ月、公民権停止三年の判決が下った。

控訴中の四十年九月十日、静養先の山梨県・増富温泉で心臓麻痺のため死去。
享年六十八。刑事被告人のため死去に際しての叙位、叙勲の沙汰はなかった。



[148]

題名:フェイク 第1783号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/04/01(火) 16:52 2a02:6ea0:e00b:0:55a8:a165:6bbe:b9d6(IPv6:) (2a02:6ea0:e00b:0:55a8:a165:6bbe:b9d6)

(発行=25.03.28)

公判の合間を縫って会員を激励
大阪事件の無罪に難癖つける「慧妙」を破す ②
夜行列車で早朝に到着、会館で勤行・唱題

不当逮捕された池田先生の無罪が確定した大阪事件について、学会の関西方面
の責任者であった西口良三氏が回想していた。今号では、その要旨を紹介する。
   ◇   ◇
昭和三十一年の「まさかの戦い」に続く翌三十二年の大阪の参院補欠選に端を
発した大阪事件は冤罪事件ですが、池田先生が不当逮捕されました。

以来、昭和三十七年一月の無罪判決まで四年半に及んだ大阪での公判は八十四
回、先生が出廷の際、車を運転したのが私でした。

新幹線が開通していない当時、夜行列車で早朝、大阪駅に到着された先生を私
一人が出迎えていました。

先生は「ありがとう。さあ、行こう!」と言われ、関西本部に着くと、朗々と
勤行・唱題されていました。そして公判の合間を縫って兵庫、京都、奈良へと
関西の会員の激励に動かれていました。

車で二時間、三時間の所へ行く時も、先生が車中でゆっくりされることは一度
もなかった。

折角の機会なので何か声をかけて頂けるか、と期待していたが、ご指導をいた
だいたことはありません。先生は絶えず、ノートをご覧になり、何かメモを記
したりされていました。

また、目を閉じて、お題目を唱えられていました。

こうして、先生は公判の闘争をされながらも、会員の激励に全魂を込められて
いたのです。

昭和三十六年十二月十六日、大阪地裁での公判で検察側は禁固十カ月と公民権
停止を求刑。戸別訪問の容疑としては余りにも過酷な求刑でした。

池田先生は雄弁でした。「宗教を信ずるものが選挙活動をやるのがなぜ、悪い
か」と言われ、異色の弁論に取材に来ていた司法記者たちは驚いていた。

先生は「選挙支援は憲法に保障された国民の権利である」等々と真っ向から主
張された。一切の陳述を終えた後、先生は裁判長に静かに語りかけられました。

検事に「選挙はやる、絶対に勝ってみせる」

「この事件で逮捕された私が拘置所から出ました時、私の恩師である戸田城聖
先生は『勝負は裁判だ。裁判長は必ず分かるはずだ。裁判長に真実を分かって
もらえれば、それでいいじゃないか』と言われ、やがて、先生は亡くなりまし
た。

取り調べがいかに不当であっても、裁判が公正であれば、人々は冤罪に泣かず
にすみます。無実の罪を着せられようとした民衆にとって、最大の希望となり
ます」と礼を尽くされた。

閉廷後、近づいてきた公判担当の検事に向かって先生は鋭く「横暴で不当な取
り調べは断じて許さない」「私は民主主義が続く限り、選挙をやる。絶対勝っ
てみせる」と堂々と言われた。

それから一カ月後の昭和三十七年一月二十五日には当然のことながら無罪判決
でした。

その翌日の昭和三十七年一月二十六日、東京での本部幹部会で公明政治連盟へ
の支援が発表されました。

更に、昭和三十九年十一月十七日の公明党の結成へと続いていきました。
その第一歩は、大阪事件という一大冤罪事件から踏み出されたのです。



[147]

題名:フェイク 第1782号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/03/31(月) 17:23 2605:6440:2000:4000:45be:15bf:80fb:9206(IPv6:) (2605:6440:2000:4000:45be:15bf:80fb:9206)

(発行=25.03.27)

崩れ去った検察当局の目論見
大阪事件の無罪に難癖つける「慧妙」を破す ①
不当逮捕、手錠かけ食事抜きで取り調べ

邪宗・日蓮正宗法華講支部の一つ、理境坊に所属する妙観講と若い無任所坊主
が主体となって発行している「慧妙」の記事は屁理屈と誤報が多く、宗内でも
嫌われて「『慧妙』の記事を信用すると後で困ることがある」等と言われてい
る。

そこで本紙も最近は無視しているが、たまたま目にした三月一日付で約七十年
も前の大阪事件を取り上げ、池田先生(当時は青年室長)が無罪になったことが
面白くないらしく、反逆者の竜年光が先生を貶めるために書いた駄文を乱用し
て難癖をつけているが笑止千万!!

大阪事件とは昭和三十二年の参院の大阪地方区補欠選挙で、池田室長をはじめ
多数の学会員が公職選挙法違反の容疑で逮捕されたが、判決で池田室長の無罪
が明らかになった。

この選挙で一部の会員から違反者が出た。大阪市内で煙草を渡し、また戸別訪
問で逮捕された者もいた。

裁判の結果、それぞれ罪科に応じて刑に処せられた。「慧妙」は「末端切り」
等と的外れの批判をしているが、検察当局の目論見は、単なる選挙違反の取り
締まりではなく、違反行為の責任を池田室長に被せて学会の弱体化を図ること
だった。その狙いは法廷で崩れた。

起訴された刑事事件の有罪率は九九%を超えるとのことだが、それを覆したの
が大阪事件であった。

池田室長が逮捕されたのは、昭和三十二年七月三日。大阪拘置所に移監し、起
訴して有罪に結び付けようとする検事との攻防戦が続いた。手錠をかけたまま
夕食も食べさせないで深夜まで取り調べ、そのうえ手錠をかけたまま外に連れ
出し、拘置所のあった本館と別館の間を往復させた。

脅して自白を強要して書き上げた検察調書は信用性があるのか、池田室長自身
が検事に罪を自白したというが、本当なのか、法廷は調書を証拠として採用す
るのか、却下するのか――これが裁判の焦点であった。

選挙運動は憲法が保障

法廷で争われた公職選挙法違反の容疑は買収関係と戸別訪問関係二つに分けら
れ、池田室長の嫌疑は戸別訪問に関わるもので、買収では起訴されていない。

池田室長に関する容疑は「戸田会長、学会本部は無事」という検事との約束を
信じて供述した検察調書のみで証拠は何もない。

裁判は買収関係から始まり、昭和三十六年二月まで五十回以上の公判が開かれ、
関係者は有罪を告げられた。既に初公判から三年以上が経過し、この間に戸田
先生は逝去、後継の池田室長が第三代会長に就任していた。

昭和三十六年十二月の最終陳述で池田会長は四点にしぼって証言した。

第一に学会が選挙運動を行うことは憲法に保障された国民の権利であること。
第二に従来、戸別訪問は軽い刑だが、大阪地検の禁固刑は過酷であること。第
三に大阪地検の検事が極めて横暴であったこと。第四に恩師・戸田先生の「勝
負は裁判だ。裁判長は必ず分かるはずだ。裁判長に真実を分かってもらえれば
いいじゃないか」との言葉を紹介し、公正な審判を要請した。

判決の日の昭和三十七年一月二十五日、池田会長は田中勇雄裁判長から「無罪」
の判決を受けたのである。




[146]

題名:今はなきteacup掲示板より

名前:井の中の蛙は卒業しませう

MAIL 投稿日: 2025/03/26(水) 20:51 118.103.63.142 (118.103.63.142)

庶民烈伝を読了して (番外)  投稿者:りゅう
投稿日:2007年 5月17日(木)20時42分51秒   通報 編集済
「聞書 庶民烈伝」を読む (参考までに・番外編)

 この長期連載の始まる直前、竹中氏は同じ『潮』誌上に、「反創価学会キャンペーンをめぐって」という論考を4ヶ月連続で執筆した。当時、いわゆる“月刊ペン”に端を発し、以後延々と繰り返された反学会報道の欺瞞性と謀略性を暴き、「言論のフェア・プレイ」を回復させるために、頼まれてもいない“学会の助っ人”として論陣を張ったものだ(1983年2月発行、「仮面を剥ぐ」幸洋出版 に所収。「溝口澄江さん」の言う“爆弾を落とす”とはこのこと)。
 その三回目の記事を閉じるにあたり、次のように述べて、どこまでも庶民と「共生同死」しゆく自身の美学を披瀝している。

【今、私の心は、青春の日におとずれたことのある町々や村々を、飛光のごとく駆けめぐっている。山梨県道志村、昭和二十四年初夏・農民組合結成オルグ(同二十七年秋・山村工作隊)。北海道小樽、これはより早く敗戦の翌二十一年夏・飢餓放浪の途上。大分県日田市、ここはふるさと福岡の隣県、筑後川の源流に近い。耶馬渓に遊んだのは、小学校五年生、紀元二千六百年(昭15)。

 少年時代は東京下町育ち、戦前の下谷車坂、稲荷町、神吉町、万年町細民街、浅草六区、花屋敷、五重塔。山谷の泪橋界隈、日本堤。三階建ての豪勢な家が建ち並んで、森(しん)としていたあれは吉原、深川八幡、人形町、水天宮。旧東海道、ジェームス坂、お台場の見える海。
 神楽坂、毘沙門天の縁日、露店(さんずん)のカーバイトのにおい。ベイゴマ、ケン玉、相撲メン。合の子弁当、「ええ、ハヤラ一丁!」(ハヤシライス)、すしや横丁、釜めし、屋台のやきそばの香り。鞍馬天狗、李彩の南京手妻、ひょうたん池、人間――わが町、なぜか牧口常三郎の足跡と、想い出は通じあうのだ。そこに「庶民烈伝」、名もなき人々の生活と、歴史と、信仰がある。

 センチメンタルに言うのではない、一九六八年(昭43)、山谷労働者と都庁に乱入して、私は逮捕された。
 五八年(昭33)、三流夕刊紙の記者として、浅草六区のストリップ小屋に売文の出発はあった。そして四八年(昭23)、上野地下道で赤旗をふっていた。十年ひとむかしを、陋巷(ろうこう)の記憶は三たび刻む。反学会キャンペーン、信仰をおとしめる人々に無名・無告の庶民への連帯はあるか? 現在の創価学会について、ほとんど私は無知である。
  〔中略〕
 『潮』以外の学会系出版物に寄稿したことはなく、『聖教新聞』を本稿のためにはじめて購読した。ようするに私は、学会とまるで縁なき衆生であった。だがしかし、当たりまえの学会員、老若男女の貌(かお)は、親しい感情で胸底に去来するのである。京浜蒲田駅の線路ぎわのボロ屋に住居していた春秋、昼間もごろごろしている(実は売れない原稿を書いているのだが)私を、菓子やいなりずしを土産に折伏にやってくるおかみさん。
 半年間ものあいだ、ラーメン・餃子をツケにしてくれた中華料理店の若夫婦、家賃を長いこと待ってくれた大家さんも学会員だった。親切なその人達が、“選挙違反”の仲間を奪い返そうと、交番に突っこんでいった姿を、忘れることができない。私はあなたがたに恩義がある、この文章で、その借りをいくらかは返すことができただろうか?】(1982年12月号)

 「喧嘩屋」とも呼ばれ、歯に衣着せず徹底して“野干”を斬りまくった竹中氏だったが、決して品性を失わず、ユーモア、そして優しささえたたえた文章は、何年経っても色褪せることはない。

(管理人さん、再度お世話になりました。感謝します)


[145]

題名:フェイク 第1781号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/03/26(水) 18:30 2a02:6ea0:e00c:0:1b85:45c2:40f7:14bd(IPv6:) (2a02:6ea0:e00c:0:1b85:45c2:40f7:14bd)

(発行=25.03.25)

御開扉料、塔婆料が三千円に
値上げラッシュが続く財政悪化の日蓮正宗
機関誌「大日蓮」「妙教」や弁当代も

信徒が激減して財政難に苦しむ日蓮正宗大石寺では本年一月から御開扉料(
奉安堂の参拝料)を二千円から一・五倍の三千円に値上げしたばかりだが、四
月からは塔婆料も同じく現行の一本二千円から三千円に値上げすると発表した。

日如は令和三年の「新年の辞」で「法華講員八十万人体勢構築の誓願を立て、
僧俗一致・異体同心して、勇猛果敢に折伏戦を展開してきた結果、日本国内寺
院所属の法華講員の総計が八十万人を超え、見事、誓願を達成することが出来
ました」と述べていたが、財政悪化は信徒が増えていないことを物語っている。

そのため邪教・顕正会からも「宗門が本年元旦から御開扉料を従来の一・五倍
に値上げしたのは信者数(登山者)の減少に伴う減収分を補うためであろうが、
その利養に貪著するさまは邪宗のそれと同じである」(「顕正新聞」三月五日
付)と愚弄される始末だ。

日蓮正宗が「謗法だ」と批判する有名な神社仏閣でも拝観料、参拝料は概ね無
料で、有料でも二百円とか五百円程度が多く、高くても概して千円未満である。

ただ、世界遺産の法隆寺(奈良県斑鳩町)は今年三月から拝観料を大人は千五百
円を二千円に、小学生は七百五十円から千円に値上げした。法隆寺は「仏像な
どの文化財の維持管理に必要な費用や人件費が上昇しており、貴重な文化財を
次世代に引き継ぐため、ご協力とご理解をお願いしたい」と話している。

唐突に一・五倍の千円も値上げした大石寺には国宝などは何もない。登山者は
益々減るに違いない。

また、日蓮正宗は御開扉料と塔婆料だけではなく、値上げラッシュが続く。四
月からは機関誌の「大日蓮」も三百円から四百円になり、子ども向けのような
幼稚な「妙教」も四百円から五百円に値上げする。加えて、登山者用の弁当も
六百円から七百円に値上げするということだ。

御授戒料だけは入信者が殆んどいないため値上げしても意味がないから、今の
ところ値上げの発表はないようだ。

江戸時代に目薬を販売

かつて、六十六世・日達法主は「お寺さんは商売人じゃないから、金を儲ける
ことはできない」と語っていたが、実は江戸時代、宗門は金融業を営み、目薬
の販売もしていた。

金融業については改めて詳述するが、左の図は大石寺が目薬を販売していた頃
の看板である。「薬方相伝之事」によると要法寺から大石寺の法主になった日
盈が会津の実成寺にいた時、母親が眼病を患ったが、夢に見た目薬を作って治
療して治ったらしい。

その後、日盈は目薬の販売に努め、大石寺に晋山した後、目薬の作り方を弟子
の日傳に伝えた。以来、この目薬は「一子相伝の秘薬」になり、日傳は甥の清
十郎に相伝した。看板に書いてある「清三郎兵衛」とは清十郎が改名した名前
である。

商魂逞しい宗門は「日蓮商宗」の名称が相応しい。




[144]

題名:内輪でしか通じない論法は失笑を買うだけ

名前:井の中の蛙は卒業しませう

MAIL 投稿日: 2025/03/24(月) 18:56 p7751126-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp (118.6.144.125)

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/78e866k4jc/

>更に大事なのは、宗門が「戒壇本尊」と声高に言っている「楠板本尊」が、
>大聖人の御文にも全く見当たらない様に、
>決して大聖人の直造でも弘安2年10月12日に建立された物でも無く、
>歴然とした作者不明の後世の模作であるという事です。

https://watabes■injun.■atenablog.com/entry/2021/02/13/221343

(■はh)

戒壇本尊の正統性が学問的見地から担保出来ないことを創価学会が公式に認めたのであれば、やはり創価学会は日蓮宗身延山に公式に謝罪をすべきであると思います。それまで小樽問答をはじめ、多くの創価学会員が戒壇本尊の正統性を持ち出して身延山日蓮宗を「邪宗」呼ばわりしてきたことはきちんと謝罪して清算すべきでしょう。

また創価学会は大石寺64世水谷日昇本尊を学会常住の本尊とする教義を白紙撤回すべきでしょう。大石寺の法主の書写した本尊というものは基本として「戒壇本尊を書写したもの」となっているのですから、それを根本尊敬として本部の本尊とすることは矛盾します。

ところが、そういった当たり前の議論を当たり前のこととして受け止めることが多くの創価学会員にはできない。「確かに私たちが間違っているかもしれませんね」と認めることができない、そういう精神構造を醸成してしまっている組織こそが創価学会、そして大石寺の日蓮正宗という教団なのでしょう。


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題名:師匠と我らとの関係 33(現時点で宛名不明の門下に宛てられた御抄)(完)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/03/21(金) 19:57 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 33(現時点で宛名不明の門下に宛てられた御抄)(完)


「現時点で宛名不明の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 


「この法華経において、また機により時により国によりひろむる人により、ようようにかわりて候をば、等覚の菩薩までもこのあわいをばしらせ給わずとみえて候。まして末代の凡夫は、いかでかはからいおおせ候べき。しかれども、人のつかいに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなくもなし、またこざかしからず。一人はきわめてはかなく、たしかなる。この三人に、第一はあやまちなし。第二は、第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆえに主の御ことばに私の言をそうるゆえに、第一のわるきつかいとなる。第三は、きわめてはかなくあるゆえに私の言をまじえず、きわめて正直なるゆえに主の言をたがえず。第二よりもよきことにて候。あやまって第一にもすぐれて候なり。第一をば月支の四依にたとう。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡にして正直なるものにたとう。」(衆生身心御書 新2041頁・全1591頁)建治期
現代語訳:この法華経においては、人々の機根により、時により、国により、弘める人により、様々に変わっているのを等覚の菩薩でもこの事を知らないと思われます。まして、末代の凡夫がどうして知ることができるでしょうか。けれど、例えば人の使いにも三種の人がいます。一人は非常に賢しく、一人は愚かでもないがまた賢くもなく、一人は極めて愚かであるが明解です。この三種の使いの中で、第一の使いは過ちがありません。第二の使いは第一の使いほどではないですが少し賢しいので、主人の言葉に自分の言葉を添えるから最も悪い使いとなるのです。第三の使いは極めて愚かな為に、自分の言葉を交えず、極めて正直なので主人の言葉を違えず、第二の使いよりもよい使いとなり、どうかすると第一の使いよりも勝れた使いとなるのです。第一の使いをインドの四依にたとえ、第二の使いを中国の人師にたとえ、第三の使いを末代の凡夫の中でも、愚癡ですが正直の者に譬えるのです。
※前半部分の欠損の為、執筆年代・対告衆は不明ですが、信心強盛で教養を有する人と考えられています。爾前の諸経は、衆生の機根に応じた随他意で法を説き、法華経は仏の本意を説いた随自意の経であり、難解であっても信心が有れば自然に成仏すると明かしている。更に、インド・中国・日本の3国、正像末の三時における仏法流布経緯を論じて、真実の法である法華経の行者の功徳の深大さを御教示されています。


「願くは、我が弟子等、師子王の子となりて、群狐に笑わるることなかれ。過去遠遠劫より已来、日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕す師には値いがたかるべし」(閻浮提中御書<師子王御書> 新2048頁・全1589頁)弘安元年
現代語:願いとしては、日蓮の弟子等が師子王の子となって、群なす狐に笑われてはならないのです。過去の遠遠劫より以来、日蓮の様に身命を捨てて、強敵の咎を露顕させ諫める(真実の)師に遭遇することは難しいのです。
※本抄も断簡の為に、対告衆・系年は不明ですが、師子王の子である日蓮門下の我々は、常識豊かに何者にも負けない覚悟と行動が必要なのです。


「仏になり候ことは、凡夫は志と申す文字を心えて仏になり候なり。志と申すはなに事ぞと委細にかんがえて候えば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたずね候えば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うえたるよに、これはなしてはきょうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごりょうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは、薬王のひじをやき雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいおとらぬ功徳にて候えば、聖人の御ためには事供よう、凡夫のためには理くよう、止観の第七の観心の檀はら蜜と申す法門なり。まことのみちは世間の事法にて候。(白米一俵御書<事理供養御書> 新2053頁・全1596-7頁)弘安期
現代語訳:仏に成るという事は、凡夫が志という文字を心得て仏に成るのです。志というのはどの様な事かと詳しく考えてみれば、それは観心の法門の事です。この観心の法門というのはどの様な事かと尋ねてみれば、ただ一枚しかない衣服を法華経に供養するのが身の皮を剥ぐ事になるのです。また、飢饉の世に、これを供養してしまえば今日の命をつなぐ物もない時に、ただ一つの食物を仏に供養する事が、身命を仏に奉った事になるのです。これは薬王菩薩が臂を焼き、雪山童子が身を鬼に与えた事にも劣らない功徳であって、聖人の為には事供養、凡夫の為には理供養であるというのが、摩訶止観巻七の観心の修行の中の檀波羅密という法門なのです。真実は、世間の事法がそのまま仏道なのです。
※著作年月日・対告衆は不明ながら、信徒が白米等を御供養され、その返書として供養の意義を述べられています。人に衣と食の二つの財があり、特に食で命を繋ぎ、命は一切の財の中で第一の財とされ、古来この命を仏に供養する事で成仏すると云われています。この原理から、白米の供養は、自分の命を供養した事になる、と感謝されています。


「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども、一善にかつことなし。譬えば、多くの火あつまれども、一水にはきえぬ。この一門も、またかくのごとし。」(異体同心事 新2054-5頁・全1463頁) 
現代語訳:日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるだろうと思われます。悪は多くても一善に勝つことはありません。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまいます。この一門もまた同様なのです。
※述作年・対告衆は不明、異体同心の重要さを述べられています。組織内ではそれぞれ多様性のある個人であっても、目的観・強盛な精神力が一致していれば、少数でも目的を成就し、正義は必ず悪に勝利するのですね。


「爾前の経に二つの失あり。一には、『行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず』と申して、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かざる過なり。二には、『始成を言うが故に、なおいまだ迹を発かず』と申して、久遠実成の寿量品を説かざる過なり。この二つの大法は、一代聖教の綱骨、一切経の心髄なり。
 迹門には、二乗作仏を説いて、四十余年の二つの失一つを脱したり。しかりといえども、いまだ寿量品を説かざれば、実の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水にやどる月のごとく、根無し草の浪の上に浮かべるに異ならず。また云わく『しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり』等云々。この文の心は、華厳経の『始めて正覚を成ず』と申して始めて仏になると説き給う、阿含経の『初めて成道す』、浄名経の『始め仏樹に坐す』、大集経の『始めて十六年』、大日経の『我は昔道場に坐す』、仁王経の『二十九年』、無量義経の『我は先に道場にして』、法華経方便品の『我は始め道場に坐す』等を、一言に大虚妄なりと打ち破る文なり。
 本門寿量品に至って始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ、四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ。因とは修行、弟子の位なり。爾前・迹門の因果を打ち破って、本門の十界の因果をときあらわす。これ則ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界にそなえて、実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」(寿量品得意抄 新2142頁・全1210-1頁)
現代語訳:爾前の経には二つの失があります。一つには「行列配布を設けた為に、なお未だに権を開いていない」と言って、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説いていない過失です。二には「初成正覚を言う為に、なお未だに迹を発いてない」と言って、久遠実成の寿量品を説いていない過失です。この二乗作仏と久遠実成という二つの大法は、一代聖教の網骨であり、一切経の心髄なのです。
迹門では、二乗作仏を説いて、四十余年の二つの過失の内一つを脱したのです。しかしまだ、寿量品を説いていないので、真実の一念三千も顕わせず、二乗作仏も確定できないのです。あたかも水に宿る月の様に、根無し草が浪の上に浮かんでいるのと変わらないのです。また言うには「しかるに善男子よ、私が実に成仏してからすでに無量無辺百千万億那由佗劫である」と、この文の意味は、華厳経の「始成正覚」と言って、始めて仏になったと説いている文、阿含経の「初成道」の文、浄名経の「始坐仏樹」の文、大集経の「如来成得仏道、始十六年」の文、大日経の「我昔坐道場」の文、仁王経の「二十九年」の文、無量義経の「我先道場」の文。法華経方便品の「我始坐道場」の文等を、一言のもとに大虚妄である、と打破した文なのです。
 本門寿量品に至って、始成正覚が破られたので、四教の果は破れ、四教の果が破られたので四教の因も破れたのです。因とは修行中の弟子の位の事です。爾前迹門の因果を打ち破って本門の十界の因果を説き顕します。これが即ち本因本果の法門です。つまり、九界も無始の仏界に本来具わり、仏界もまた無始の九界に具わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千なのです。
※本抄は、旧版では対告衆不記載の文永8年4月の御作とされていましたが、新版では執筆年も不記載になっています。内容は、やや難解ですが仏法の大綱を示し、寿量品の肝心である南無妙法蓮
華経が一切衆生の成仏得道の真実義である、と結ばれています。


◎大聖人の御書全般を通して感じるのは、大聖人は、貴賤・僧俗・男女を差別せず平等に扱われ、「命は第一の財」が生命の尊厳や人権尊重の基本となり、信心強盛な仏法を貫く事により互助の精神と生きる意義を見出し、個人の人間革命(成仏)と万人の成仏を願い、それが家庭革命及び大衆全体の幸福つまり家庭・社会環境の変革に繋がり、世界に広まれば世界広宣流布となっていく、と訴えておられる事です。そして創価学会が、この大聖人の御遺命を実現させようとしているのです。更に大事なのは、宗門が「戒壇本尊」と声高に言っている「楠板本尊」が、大聖人の何処の御文にも全く見当たらない様に、決して大聖人の直造でも弘安2年10月12日に建立された物でも無く、歴然とした作者不明の後世の模作であるという事です。


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題名:師匠と我らとの関係 32(諸方面に散在する門下に宛てられた御抄)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/03/06(木) 12:30 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 32(諸方面に散在する門下に宛てられた御抄)


「諸方面に散在する門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 


「仏、本願に趣いて法華経を説き給いき。しかるに、法華経の御座には父母ましまさざりしかば、親の生まれてまします方便土と申す国へ贈り給いて候なり。その御言に云わく「しかして、彼の土において、仏の智慧を求め、この経を聞くことを得ん」等云々。この経文は、智者ならん人々は心をとどむべし、教主釈尊の父母の御ために説かせ給いて候経文なり。この法門は、ただ天台大師と申せし人ばかりこそ知っておわし候いけれ。その外の諸宗の人々知らざることなり。日蓮が心中に第一と思う法門なり。父母に御孝養の意あらん人々は、法華経を贈り給うべし。教主釈尊の父母の御孝養には、法華経を贈り給いて候。」(刑部左衛門尉女房御返事 新2074頁・全1400-1頁)弘安3年10月 59歳御作
現代語訳:仏は本来の誓願に従って法華経を説かれたのです。しかしながら、法華経の会座には父母がおられなかったので、親が生まれ変わられている方便土という国へ法華経を贈られたのです。その時の言葉に「しかも、彼の国において仏の智慧を求めて、この経を聞くことができる」と言われました。この経文に、智者である人々は、心を留めるべきです。(これは)教主釈尊が父母の為に説かれた経文です。この法門は、ただ、天台大師という人だけが知っておられ、その外の諸宗の人々は知らない事なのです。(そして)日蓮が心の中で第一と思う法門です。父母に孝養しようとする意志のある人々は、父母に法華経を贈るべきです。教主釈尊も、父母への孝養の為に法華経を贈られているのです。
※本抄は、尾張国高木郡(愛知県扶桑町)に住む尾張刑部左衛門尉殿(生没年不明)女房に贈られた御文で、内容は母十三回忌の供養を大聖人に奉った事に際して、内外の経典を通して親の恩の中でも母の恩が重く、母への真実の報恩は法華経を信じて追善供養する事である、と明かされています。


「構えて構えて、所領を惜しみ、妻子を顧み、また人を憑んであやぶむことなかれ。ただひとえに思い切るべし。今年の世間を鏡とせよ。そこばくの人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは、このことにあわんためなりけり。これこそ宇治川を渡せし所よ。これこそ勢多を渡せし所よ。名を揚ぐるか、名をくだすかなり。人身は受け難く、法華経は信じ難しとは、これなり。「釈迦・多宝・十方の仏、来集して我が身に入りかわり、我を助け給え」と観念せさせ給うべし。」(弥三郎御返事 新2085頁・全1451頁)建治3年8月 56歳御作
現代語訳:十分に心して、所領を惜しんだり妻子を顧みたり、また人をたのみにして、あやぶんだりしてはなりません。ただひとえに思い切るべきです。今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、自分が今まで生き永らえて来たのはこの事に遭遇する為なのです。これこそ宇治川を渡す所であり、これこそ勢多を渡す所なのです。(この法戦に勝って)名を揚げるか名を下すかの境目なのです。人身は受け難く、法華経は信じ難しとはこの事です。釈迦・多宝・十方の仏が来集して我が身に入り替わり、我を助けたまえと観念して行きなさい。
※士気を鼓舞する有名な御文ですね。内容は、全編で念仏を破折していますが、此処では法難に対する信心の在り方・心構えを教示されています。本抄を贈られた弥三郎の事績は明らかでなく、伊豆方面の門下として紹介した船守弥三郎とは別人の可能性があります。


「ここに日蓮、いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕し給わざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり。これ全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中の大牟尼世尊、分身の諸仏、すりかたぎたる本尊なり。されば、首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅、その外、不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、しかのみならず、日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩、天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つらなる。その余の用の神、あにもるべきや。宝塔品に云わく「諸の大衆を接して、皆虚空に在きたもう」云々。これらの仏菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれずこの御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。これを本尊とは申すなり。」(日女御前御返事<御本尊相貌抄> 新2086-7頁・全1243頁)建治3年8月 
現代語訳:ここに、日蓮はどういう不思議でしょうか。正法時代の竜樹、天親等、像法時代の天台、妙楽等でさえ、顕わすことが無かった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、初めて、法華弘通の旗印として顕わしたのです。この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではありません。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、並びに十方分身の諸仏の姿を、あたかも板木で摺るように摺りあらわした御本尊なのです。従って、首題の妙法蓮華経の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座を占めています。釈迦・多宝、更に、本化の四菩薩は肩を並べ、普賢、文殊等、舎利弗、目連等が座を屈しています。更に、日天、月天、第六天の魔王や、竜王、阿修羅が並び、その外、不動明王と愛染明王が南北の二方に陣を取り、悪逆の提婆達多や愚癡の竜女も一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼である鬼子母神や十羅刹女等、そればかりでなく、日本国の守護神である天照太神、八幡大菩薩、天神七代、地神五代の神々、全ての大小の神祇等、本体の神が皆この御本尊の中に列座しているのです。それ故、その他の用の神がどうして、もれるはずがあるでしょうか。宝塔品には「諸の大衆を接して、皆虚空に在り」とあります。これらの仏・菩薩・大聖等、更に法華経序品の説会に列なった二界八番の雑衆等、一人ももれずに、この御本尊の中に住し、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来有りのままの尊形となっています。これを本尊というのです。
※日女御前は、池上氏の妻とも松野後家尼の娘とも云われていますが、詳細は不明です。本抄では、本尊に関する経釈を引いて相貌を明らかにし、自己の胸中の肉団に本尊が存在し、仏法の根本は「信」にある事を述べておられます。


「この法華経には、我らが身をば法身如来、我らが心をば報身如来、我らがふるまいをば応身如来と説かれて候えば、この経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳をそなえ候。南無妙法蓮華経と申すは、これ一句一偈にて候。しかれども、同じ一句の中にも肝心にて候。「南無妙法蓮華経と唱うるばかりにて仏になるべしや」と、この御不審、所詮に候。一部の肝要、八軸の骨髄にて候。人の身の五尺六尺のたましいも一尺の面にあらわれ、一尺のかおのたましいも一寸の眼の内におさまり候。また、日本と申す二つの文字に、六十六箇国の人畜田畠・上下貴賤・七珍万宝、一つもかくること候わず収めて候。そのごとく、南無妙法蓮華経の題目の内には、一部八巻二十八品六万九千三百八十四の文字、一字ももれずかけずおさめて候。されば、「経には題目たり、仏には眼たり」と楽天ものべられて候。記の八に「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」と妙楽も釈しおわしまし候。心は、略して経の名ばかりを挙ぐるに、一部を収むと申す文なり。一切のことにつけて、所詮・肝要と申すことあり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱え候わば、正しく法華経一部を真読にあそばすにて候。二返唱うるは二部、乃至百返は百部、千返は千部、かように不退に御唱え候わば、不退に法華経を読む人にて候べく候。(妙法尼御前御返事<一句肝心の事> 新2098-9頁・全1402-3頁)弘安元年7月 57歳御作
現代語訳:この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれていますので、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えているのです。南無妙法蓮華経というのは、一句一偈なのです。しかし、同じ一句の中でも肝心の一句なのです。「南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏に成れるのか」とお尋ねですが、この疑問は最も大切な事です。法華経一部の肝要であり、八巻の骨髄なのです。 人の身は五尺、六尺であっても、魂は一尺の顔に現れ、一尺の顔に現れている魂も一寸の眼の中に収まっています。また、日本という二つの文字に、六十六か国の人畜、田畠、上下、貴賎、七珍万宝が一つも欠けることなく収まっています。その様に、南無妙法蓮華経の題目の中には、法華経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字が一字も漏れず、欠けずに収まっています。そうであれば、「経には題目が大事であり、仏には眼が大事である」と白楽天も述べられています。妙楽大師も法華文句記巻八に「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と釈されています。その意味は、略して経の名だけを挙げても、その中に法華経の全体を収めているという文です。全体の事に付けて、所詮、肝要という語句があります。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目です。従って、朝夕唱目を唱えるならば、正しく法華経一部を真読されていることになるのです。二遍唱えることは二部、百遍は百部、千遍は千部読むことになり、この様に、怠りなく唱えるならば、怠りなく法華経を読む人なのです。
※本抄では、法華経の一句一偈の謂れを質問する事は稀であると褒められ、六難九易の譬を説かれています。そして法華経の題目(南無妙法蓮華経)は一切経の肝心であり、不退に唱題する人が法華経を読む人(即ち法華経の行者)であると述べられています。妙法尼(岡宮妙法尼、生没年不明)は、駿河国(静岡県)岡宮の人で夫や兄に先立たれるも、信仰厚く大聖人から信頼され、長文の本抄を賜っていますが、弘安5年2月に逝去されたと言われています。同名で、四条金吾の母や中興入道の母等もおられた様です。


「法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり。今、本門の即身成仏は「当位即ち妙なり。本有にして改めず」と断ずるなれば、肉身をそのまま本有無作の三身如来と云える、これなり。この法門は一代諸教の中にこれ無し。文句に云わく「諸教の中においてこれを秘して伝えず」等云々。(中略)
なおなお即身成仏とは、迹門は能入の門、本門は即身成仏の所詮の実義なり。迹門にして得道せる人々、種類種・相対種の成仏、いずれもその実義は本門寿量品に限れば、常にかく観念し給え。正観なるべし。」(妙一女御返事<事理成仏抄> 新2133-4頁・全1261-2頁)弘安3年10月
現代語訳:法華経の即身成仏に二種類があります。一つは迹門の理の即身成仏であり、もう一つは本門の事の即身成仏です。今本門の即身成仏とは、当位即妙・本有不改と決定する所のものであり、凡夫の肉身そのままの姿が、本有無作の三身如来であるというのはこの事をさしているのです。この即身成仏の法門は釈尊一代四十余年の諸教の中においては説いていません。従って天台大師も、法華文句の中に「諸教の中では、この即身成仏の法を秘して伝えていない」と言っています。(中略)
なお、即身成仏とは、迹門は能入の門であり、本門は即身成仏の実義そのものを説いています。迹門で得道したとされている人々も、また種類種・相対種の成仏も、何れも即身成仏の実義は、本門寿量品に限るので、常に深く確信して信心に励んでいきなさい。それが正しい悟りなのです。
※本抄では、即身成仏にも迹・本・観心の別があり、妙法の題目を受持する事が成仏の本因となる、と御教示されています。ところで、妙一女と妙一尼を同一人物とされていました。しかし大聖人は、同時期のそれぞれの御消息文、例えば「妙一尼御前御消息 新1697頁・全1255頁 弘安3年5月」に対して「妙一女御返事<即身成仏法門> 新2124頁・全1255頁 弘安3年7月」と本抄の様に、末文に再度宛名を後付けしていますが、別名なのです。従って、同人物と検証されるまで別人物として扱うことにしました。


「その上は、私に計り申すに及ばず候。叶い叶わぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし、信のよわきはにごるがごとし、信心のいさぎよきはすめるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとおぼしめせ。」(日厳尼御前御返事 新2135頁・旧1262頁)弘安3年11月
現代語訳:その上は自分勝手に御本尊の功徳を推し量ってはいけません。あなたの願いが叶うか叶わないかは、御信心によるのです。全く日蓮が失ではありません。例えば、水が澄めば月はきれいに映り、風が吹けば木の枝が揺れる様に、人の心は水の様なものであり、信人が弱いのは、水が濁っている様なものです。信心でスッキリするのは水が澄んでいる様なものです。木は仏法の道理の様なものであり、風がその木を揺り動かすのは、ちょうど修行して経文を読む様なものです、と心得ていきなさい。
※日厳尼(生没年不明)は、高橋六郎兵衛入道の関係者とされています。願いが叶うか否かは、信心の強弱による、と譬を挙げてご教示されています。


◎大聖人御在世当時、各地に御門下が散在していたとはいえ、日蓮仏法は既成仏教に比べると、まだまだ少なかった様です。現今は、創価学会の宗門離脱により、一気に世界広宣流布の気運が高まってきていますね。


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題名:師匠と我らとの関係 31(駿河方面の門下に宛てられた御抄)後

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/02/24(月) 20:42 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 31(駿河方面の門下に宛てられた御抄)後


「駿河方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編


「この経の修行に重々のしなあり。その大概を申さば、記の五に云わく『悪の数を明かすとは、今の文には説・不説を云うのみ。ある人これを分かちて云わく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪因に十四あり。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり』。この十四誹謗は在家・出家に亘るべし。恐るべし、恐るべし。過去の不軽菩薩は、『一切衆生に仏性あり。法華経を持てば必ず成仏すべし。彼を軽んじては仏を軽んずるになるべし』とて、礼拝の行をば立てさせ給いしなり。法華経を持たざる者をさえ、『もし持ちやせんずらん、仏性あり』とて、かくのごとく礼拝し給う。いかにいわんや、持てる在家・出家の者をや。この経の四の巻には『もしは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀ることあらば、その罪多きこと、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり』と見えたり。あるいは『もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ』とも説かれたり。これをもってこれを思うに、忘れても法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか。その故は、法華経を持つ者は必ず皆仏なり、仏を毀っては罪を得るなり。かように心得て唱うる題目の功徳は、釈尊の御功徳と等しかるべし。」(松野殿御返事<十四誹謗の事> 新1987-8頁・全1382頁)建治2年12月 55歳御作
現代語訳:法華経の修行にも重々の段階があります。その概略を述べると、妙楽大師の法華文句記の五の巻には「悪の数を明らかにするとは、今の文(法華経の譬喩品)には『説不説』とだけ説いている。ある人は、これ(悪)を分類して述べている。『先に謗法の悪因を列挙し、次に悪果を述べる。悪因には十四の謗法がある。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善である』」とあります。この十四誹謗は、在家出家の両方にわたるので、謗法の罪を恐れなければなりません。過去の不軽菩薩は、「一切の衆生には、皆仏性がある、法華経を持つならば、必ず成仏する、その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽んずることになる」と言って一切衆生に向かって礼拝の行を立てたのです。(不軽菩薩は)法華経を持っていない者でさえも、「もし(将来に」持つ事になる(という、本来)仏性がある」として、この様に敬い礼拝したのです。ましてや(法華経を)持っている在家・出家の者は、当然(尊敬しなければならないの)です。この法華経第四の巻の法師品には「もし在家の身であれ、出家であれ、法華経を持ち説く者に対して、一言でもそしるならば、その罪報の多い事は、釈迦仏を一劫の間、直に(面と向かって)そしった罪よりも重い」と、説かれています。或いは普賢菩薩勧発品に「もし事実にしても、事実でないにしても(法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い)」とも説かれています。これらの経文に照らして考え合わせれば、忘れても、法華経を持つ者を互いにそしってはならないのです。その理由は、法華経を持つ者は必ず、皆仏なのです。仏をそしれば罪を受けるのです。この様に心得て唱える題目の功徳は、仏の唱える功徳と等しいのです。
補足:妙楽大師が、法華経譬喩品から法華文句記の六に次の「十四種の法華誹謗」を立てました。 ①憍慢=増上慢、慢心の意。おごりたかぶり仏法をあなどること。②懈怠=仏道修行をなまけること。③計我=我見、自分の勝手な考えで、仏法教義を判断すること。④浅識=仏法道理が解らないのに求めようとしないこと。⑤著欲=欲望にとらわれて仏法を求めないこと。⑥不解=仏法教義を解ろうとしないこと。⑦不信=仏法を信じないこと。⑧顰蹙=顔をしかめ仏法を非難すること。⑨疑惑=仏法教義を疑って迷うこと。⑩誹謗=仏法をそしり悪口をいうこと。⑪軽善=仏法を信じている人を軽蔑し馬鹿にすること。⑫憎善=仏法を信じている人を憎むこと。⑬嫉善=仏法の信者を怨嫉すること(和合僧を破る働きをする)。⑭恨善=仏法を修行する者をうらむこと。
以上の①驕慢から⑩誹謗までは御本尊を受持する事により、謗法の罪を免れることができます。しかし、⑪軽善から⑭恨善までは、正法に帰依していても、善人を軽んじたり、同志を怨嫉等すれば功徳を受けられないので、気をつけなければなりません。根本は、御本尊を信ずるか、信じないかによって、一切が決定されます。だから、念仏無間地獄抄(新748頁・全97頁)に「譬喩品の十四誹謗も不信をもって体となせり」とあります。
※松野殿(生没年?-建治4(1278)年)とは、松野六郎左衛門入道のことです。本抄では、信心があれば、日蓮の唱題と凡夫の唱題に勝劣は無く、十四誹謗に触れて法華経行者を謗る事を戒められています。


「仏法をばがくすれども、あは我が心のおろかなるにより、あるいはたとい智慧はかしこきようなれども、師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなおしくならいうることかたし。たとい明師ならびに実経に値い奉って正法をえたる人なれども、生死をいで仏にならんとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七つの大事出現す。たといからくして六つはすぐれども、第七にやぶられぬれば、仏になることかたし。その六つはしばらくおく。第七の大難は天子魔と申すものなり。」(三沢抄 新2011頁・全1487頁)年10健治4年2月 57歳御作
現代語訳:仏法を学んでも、或いは自分の心が愚かな事により、或いはたとえ智慧があり賢い様であっても、師匠によって自分の心が曲がってしまうのを知らずにいる為に、仏教を正しく習学し会得する事は難しいのです。たとえ正師および実経に遇えて正法を得た人であっても、生死を出離して仏に成ろうとする時には、必ず影が身に添う様に、雨の時に雲がある様に三障四魔と云って七つの大きな障魔が現れて来るのです。たとえ辛うじて六つは通過したとしても、第七番目に破られたならば仏に成ることは難しいです。その六つはしばらく置くとして、第七番目の大難は天子魔というものです。
※三沢殿(三沢小次郎、生没年不明)とは、駿河国富士の三沢(静岡県富士郡柚野村)の領主とされ、本抄では仏法を正しく学ぶ事の難しさを説き、仏道を成就する時、大難が起こる理由が述べられています。


「妙法蓮華経の徳、あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は、悪変じて善となる。玉泉と申す泉は石を玉となす。この五字は凡夫を仏となす。されば、過去の慈父尊霊は、存生に南無妙法蓮華経と唱えしかば、即身成仏の人なり。石変じて玉と成るがごとし。孝養の至極と申し候なり。故に、法華経に云わく『この我が二子は、すでに仏事を作しつ」。また云わく「この二子とは、これ我が善知識なり』等云々。」(内房女房御返事 新2033頁・全1423頁)弘安3年8月59歳御作
現代語訳:妙法蓮華経の徳を大略申し開きます。毒薬が変じて薬となるとの譬えの様に、妙法蓮華経の五字は、悪が変じて善となるのです。玉泉という泉は石を玉に変えると云われますが、この五字は凡夫を仏に変えるのです。だから、過去の慈父尊霊は、存命中に南無妙法蓮華経を唱えたのですから即身成仏の人なのです。それはちょうど石が変じて玉となる様なものです。これこそ孝養の至極と云うべきで、法華経の妙荘厳王本事品に(浄蔵・浄眼の二子が父母を教化したことを褒めて)「この我が二人の子が、既に仏事をなした」とあり、また、「この二人の子は、これ(この行為)が我が善知識である」と説かれています。(これこそ法華経の功徳なのです)
※本抄は、駿河国(静岡県)庵原郡内房に住む内房女房(内房尼御前)が、亡父の百か日法要に際して供養された御返事ですが、唱題する功徳を様々な点から御教示されています。


「地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方等と申す経も候。しかれども、委細にたずね候えば、我らが五尺の身の内に候とみえて候。さもやおぼえ候ことは、我らが心の内に父をあなずり母をおろかにする人は、地獄その人の心の内に候。譬えば、蓮のたねの中に華と菓とのみゆるがごとし。仏と申すことも、我らが心の内におわします。譬えば、石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我ら凡夫は、まつげのちかきと虚空のとおきとは見候ことなし。我らが心の内に仏はおわしましけるを知り候わざりけるぞ。」(十字御書 新2036頁・全1491頁)弘安4年1月
現代語訳:地獄と仏とは、何処に存在するのかと探究すると、或いは地の下にあるという経文もあり、或いは西方等におられるという経もあります。しかしながら、詳細に探究すると、私達の五尺の身の内に存在すると説かれています。そうかもしれないと思われることは、私達の心の中に父を侮り、母を疎かにする人は、地獄がその人の心の中にあるということです。たとえば、蓮の種の中に花と実とが見られる様なものです。仏というのも私達の心の中にいらっしゃるのです。たとえば、石の中に火があり、珠の中に財がある様なものです。私達凡夫は、まつげが近くにあるのと虚空が遠くにあるのとは見ることができません。私達の心の中に仏がおられるのを知らないのです。
※本抄は、駿河国(静岡県)富士郡重須の地頭・石河新兵衛能助(生没年不明)の妻(南条時光の姉で純真な信心を貫き、妙一尊尼の称号を賜る)に与えられた書で、最初に年頭の御供養のお礼と功徳について述べられ、「地獄と仏」を定義し、法華経を信じる人の功徳を説いています。


「当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思い、あるいは法華経に肩を並べて斉しと思い、あるいは勝れたり、あるいは劣るなれども機にかなえりと思えり。しかるに、如来の聖教に随他意・随自意と申すことあり。譬えば、子の心に親の随うをば随他意と申す、親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり。仏、一切衆生の心に随い給う故に。法華経は随自意なり。一切衆生を仏の心に随えたり。諸経は仏説なれども、これを信ずれば、衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点もこれを深く信ずれば、我が身即ち仏となる。譬えば、白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白物を入るれば白くなるがごとし。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す。」(新池殿御消息 新2059頁・全1437頁)弘安2年5月 58歳御作
現代語訳:今の人は人師の言を如来の金言と思い、或いは法華経に肩を並べて同等と思い、或いは勝れていると思い、或いは劣っているけれども衆生の機根に適っていると思っています。ところが、如来の聖教に随他意と随自意と云う言葉があります。例えば、子供の心に親の随うのを随他意といい、親の心に子供が随うのを随自意というのです。諸経は随他意です。仏が一切衆生の心に随って説かれたからです。法華経は随自意です。一切衆生を仏の心に随わせて説かれたからです。だから、諸経は仏説ですが、これを信じると、衆生の心に随ったので、永久に仏にはなれないのです。法華経は仏説であり仏智です。一字一点でもこれを深く信じれば、我が身は即仏となります。例えば、白紙を墨で染めると黒くなり、黒漆に白い物を入れると白くなる様なものです。毒薬が変じて薬となり、衆生が変じて仏となるのです。だから妙法というのです。
※新池殿とは、遠江国磐田郡(静岡県袋井市)新池に住む新池左衛門尉(生没年不明)の事で、本抄では、他宗諸経の批判に「随他意と随自意」の教論を用い、宿縁深厚の妙法の信心を貫く様に激励されています。


「この経の信心と申すは、少しも私なく、経文のごとくに、人の言を用いず、法華一部に背くことなければ、仏に成り候ぞ。仏に成り候ことは別の様は候わず。南無妙法蓮華経と他事なく唱え申して候えば、天然と三十二相八十種好を備うるなり。「我がごとく等しくして異なることなし」と申して、釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。(中略)
これらの法門を能く能く明らめて、一部八巻二十八品を頭にいただき、懈らず行い給え。また某を恋しくおわせん時は、日々に日を拝ませ給え。某は日に一度、天の日に影をうつす者にて候。この僧によませまいらせて、聴聞あるべし。この僧を解悟の智識と憑み給いて、つねに法門御たずね候べし。聞かずんば、いかでか迷闇の雲を払わん。足なくして、いかでか千里の道を行かんや。返す返す、この書をつねによませて御聴聞あるべし。}(新池御書 新2067-9頁・全1443-4頁)弘安3年2月 59歳御作
現代語訳:この経の信心というのは少しも我見なく経文の通りに、人の言を用いず、法華経一部に背くことがなければ仏に成るのです。仏に成るということは別のことではないのです。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく唱えていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのです。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊の様な仏に簡単に成るのです。(中略)
これらの法門をよくよく明らかに知って法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行しなさい。また私を恋しくなった時は日々に太陽を拝んでください。私は日に一度、天の太陽に影を映す者です。この僧に読ませられて聞きなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きください。聞かなければ、どうして迷いの雲を払えましょう。足がなくて、どうして千里の道を行けましょうか。かえすがえすも、この書を常に読ませて、お聞きください。
※本抄には、「鎌倉より京への道のり」や「雪山の寒苦鳥」等多くの譬えが述べられ、信心修行の在り方や法門が示され、よく理解して信心に励むよう指南されていますね。


◎この地方の大聖人門下として、他にもおられますが、書きれませんでした。それ故に、重要御文を御紹介できていないで漏れているかもわかりませんが、どうかお許しください。


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題名:師匠と我らとの関係 30(駿河方面の門下に宛てられた御抄)中 

名前:サム

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師匠と我らとの関係 30(駿河方面の門下に宛てられた御抄)中


「駿河方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 中編


「仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなににかせん。ただあつき・つめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。しかるに、善知識に値うことが第一のかたきことなり。されば、仏は善知識に値うことをば、一眼のかめの浮き木に入り、梵天よりいとを下して大地のはりのめに入るにたとえ給えり。しかるに、末代悪世には悪知識は大地微塵よりもおおく、善知識は爪上の土よりもすくなし。」(三三蔵祈雨事 新1940頁・全1468頁)建治元年6月 54歳御作
現代語訳:仏になる道は善知識に勝るものはありません。私の智慧が何の役に立つでしょうか。ただ熱さ寒さを知るだけの智慧でもあるのならば、善知識こそが大切なのです。でも、善知識に値うことが第一に最も難しい事なのです。だから、仏は善知識に値う事を、一眼の亀が浮木に入る様なものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通す様なものであると譬えられているのです。ところが、末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ないのです。
※本抄は、身延から富士郡西山(静岡県富士郡芝川町西山)に住む西山殿(生没年不明)に宛てたお手紙です。内容は、真言宗の三蔵(善無畏、金剛智、不空)の祈雨が暴風をもたらし失敗した現証から、真言宗は亡国の悪法であることを示され、この御文では、成仏するには善知識が必要ですが、末法は悪知識が多く、善知識に遭遇する事は難しいと述べています。


「日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず。(中略)
仏法はさておきぬ、上にかきぬること、天下第一の大事なり。つてにおおせあるべからず。御心ざしのいたりて候えば、おどろかしまいらせ候。日蓮をば、「いかんがあるべかるらんとおぼつかなし」とおぼしめすべきゆえに、かかる事ども候。むこり国だにもつよくせめ候わば、今生にもひろまることも候いなん。あまりにはげしくあたりし人々は、くゆるへんもやあらんずらん。(中略)
されば、「さのみやはあるべき。いおうや日蓮はかれにすぐべき」とはわが弟子等おぼせども、仏の記文にはたがわず。「末法に入って、仏法をぼうじて無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をえたらん人は爪上の土よりもすくなし」と涅槃経にはとかれ、法華経には「たとい須弥山をなぐるものはありとも、我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたし」と記しおかせ給えり。大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちないおん経・最勝王経等に、「末法に入って正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの、王臣等にうったえてあらんほどに、彼の王臣等、他人がことばについて、一人の正法のものを、あるいはのり、あるいはせめ、あるいはながし、あるいはころさば、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等、りんごくの賢王の身に入りかわって、その国をほろぼすべし」と記し給えり。今の世は似て候ものかな。」(三三蔵祈雨事 新1941頁・全1468頁)建治元年6月 54歳御作
現代語訳:(日蓮が)仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはありません。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはありません。(中略)
仏法(それ自体の勝劣)はしばらく置きます。是までに述べてきた事は、天下第一の大事なのです。人づてに(軽々しく)語ってはなりません。(貴殿の)御志が大変厚いので、(あえて)驚くほどの事を申し上げたのです。日蓮(の諌言)を、「どれ程の事があろうか、疑わしい」と思っていた為に、この様な事(蒙古襲来)が起こったのです。蒙古国が強く攻めて来るならば、今生にも法華経が広まる事もあるでしょう。日蓮をあまりにも激しく迫害した人々は、後悔することもあるでしょう。(中略)
そうであれば、(日蓮が慈覚・智証の誤りを指摘しても)「そんな事があるだろうか。ましてや日蓮は彼等より勝れているのだろうか」と我が弟子等が思っているけれども、仏の記した経文には違わないのです。「末法に入って、仏法を謗り無間地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、正法を信受する人は爪の上の土よりも少ない」と涅槃経に説かれ、法華経には「設え須弥山を擲げる者はあっても、末法に法華経を経文の様に説く者はまことに稀である」と記し置かれています。大集経・金光明経・仁王経・守護経・般泥洹経・最勝王経等には「末法に入って正法を行ずる人が現れれば、邪法を信ずる者が王臣等に訴えるので、王臣等はその人の言葉を信じて、一人の正法を持つ者を、罵ったり、責めたり、流罪にしたり、殺せば、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等が隣国の賢王の身に入り代わって、その国を亡ぼすであろう」と記されています。今の世は(これらの経文に説かれた事と)似ているでしょう。
※大聖人は、仏法勝劣の判断法の一つ「三証論」を述べられています。証文(文証:文書・記録等の証拠)と道理(理証:理論的・筋道が通ていること)が必要で、それよりも大事なのが現証(現実の証拠)だと仰せなのです。一般社会でも重要で、例えば薬剤では、文(文献)、理(薬理作用や薬物動態)、現(薬効)であり、機器系統では、文(取扱説明書、設計図、操作手順書等)、理(構造とアルゴリズム)現(有用性)等が該当するでしょうね。


「大事の法門と申すは別に候わず。時に当たって、我がため国のため大事なることを少しも勘えたがえざるが、智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘え、未来をしり、三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなし。たとい仏にあらねども、竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は、仏程こそなかりしかども、三世のことをほぼ知ろしめされて候いしかば、名をも未来まで流されて候いき。詮ずるところ、万法は己心に収まって一塵もかけず、九山八海も我が身に備わって日月・衆星も己心にあり。しかりといえども、盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児の水火を怖れざるがごとし。外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法を片端片端説いて候なり。しかりといえども、法華経のごとく説かず。しかれば、経々に勝劣あり、人々にも聖賢分かれて候ぞ。」(蒙古使御書 新1947頁・全1473頁)建治元年9月 54歳御作
現代語訳:大事の法門というのは別の事ではありません。時に当たって、我が身の為、国の為に、大事な事を勘えて少しも間違わないのが智者なのです。仏が尊いというのは、過去を勘へ、未来を知り、三世を知っておられるからであり、これに勝る智慧はありません。たとえ仏で無かっても、竜樹・天親・天台大師・伝教大師等という聖人・賢人等は、仏ほどではないけれども、三世の事を粗知っておられたので、名を未来まで伝えられたのです。所詮、万法は己心に収まって、一塵も欠けてはいません。九山八海も我が身に備わり、日月・衆星も己心に収まっています。しかしながら、盲目の者には鏡に映る影が見えず、嬰児が水火を怖れない様に、凡夫には己心に収まる万法が見えないのです。外典の外道や内典の小乗・権大乗等は、皆己心の法を片端片端に説いているのです。そうと言っても、法華経の様には説いていないのです。だから、経々に勝劣があり、持つ人々にも聖賢が分かれるのです。
※本抄も西山殿に与えられた書で、前年の蒙古襲来(文永の役:文永11年10月)の事実から、書経を引いて誤った宗教に依る責めの現証を述べています。本文では、三世を知るのが聖人・賢人であると述べられています。

「経ならびに天台・妙楽の心は、一切衆生を供養せんと、阿羅漢を供養せんと、乃至一切の仏を、尽くして七宝の財を三千大千世界にもりみてて供養せんよりは、法華経を一偈、あるいは受持し、あるいは護持せんはすぐれたりと云々。経に云わく「この法華経の乃至一四句偈を受持する、その福の最も多きにはしかじ」。天台云わく「人は軽く法は重きなり」。妙楽云わく「四つは同じからずといえども、法をもって本となす」云々。九界の一切衆生も仏に相対してこれをはかるに、一切衆生のふくは一毛のかろく、仏の御ふくは大山のおもきがごとし。一切の仏の御ふくは、梵天三銖の衣のかろきがごとし。法華経一字の御ふくの重きことは、大地のおもきがごとし。「人は軽し」と申すは、仏を人と申す。「法は重し」と申すは、法華経なり。」(宝軽法重事 新1949頁・全1475頁)建治2年5月 55歳御作
現代語訳:法華経並びに天台大師、妙楽大師の意は「一切衆生に供養するよりも、また阿羅漢を供養するよりも、あるいは三千大千世界に満つるほどの七宝の財を一切の仏に供養するよりも、法華経の一偈を受持し、あるいは護持する方が勝れている」との事です。法華経薬王菩薩本事品には「此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」と説かれ、天台大師は法華文句巻十で「人は軽く法は重きなり」と解釈し、妙楽大師は「四つ(親が子供を護り育成する時系列として、生・養・成・栄)同じからずと雖も法を以て本と為す」と述べられています。(これらの文につい)九界の一切衆生の福を仏の福に相対して比較すると、一切衆生の福は一毛の様に軽く、仏の御福は大山の様に重いのです。一切の仏の御福は梵天の三銖の衣が軽いのと同様あり、法華経の一字の御福の重いのは大地が重いのと同様なのです。天台大師が「人は軽く」と言うのは仏の事を人と言うのです。「法は重い」と言われた「法」とは法華経の事です。
※本抄も西山殿に与えられた書です。法華経薬王菩薩本事品等を引かれ、七宝を供養するより法華経を受持する功徳の方が勝れている、つまり宝は軽く法は重い事を示されています。


「法華の行者をやしなうは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に「仏舎利変じて米と成る」とは、これなるべし。かかる今時分、人をこれまでつかわし給うこと、うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかわらせ給うか。その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。『仏種は縁より起こる。この故に一乗を説く』なるべし。」(高橋殿御返事<米穀御書> 新1953頁・全1467頁)作成日不明
現代語訳:法華経の行者を養うのは、慈悲の中の大慈悲のお米でしょう。一切衆生を利益するからです。だから「仏舎利が変じて米となる」というのは、この事なのです。この様な今時分に人をこちらまで遣わされたことの嬉しさは、言い様が無いほどです。釈迦仏や地涌の菩薩が、あなたの御身に入り替わられているのでしょうか。その国の仏法流布は、あなたにお任せします。「仏種は縁によって起こる。その為に一乗(法華経)を説く」とあります。
※高橋六郎兵衛入道(生没年不明)は、駿河国(静岡県)富士郡南方の賀島に住し、富士地方の弘教の中心的存在でした。四十九院の法難や熱原の法難では多くの大聖人門下を外護されました。
本抄の内容は、米の効用について仏法者の立場から述べ、法華経の行者を養う大慈悲の米は、一切衆生を利益し、その供養の功徳は、はかりしれないと御教示されています。


「皆人はにくみ候に、すこしも御信用のありし上、これまでも御たずねの候は、ただ今生ばかりの御事にはよも候わじ。定めて過去のゆえか。御所労の大事にならせ給いて候なること、あさましく候。ただし、つるぎはかたきのため、薬は病のため。(中略)
しかも法華経は「閻浮提の人の病の良薬なり」とこそとかれて候え。閻浮の内の人は病の身なり。法華経の薬あり。三事すでに相応しぬ。一身いかでかたすからざるべき。ただし、御疑いの御わたり候わんをば、力及ばず。」(高橋入道殿御返事 新1960頁・全1462頁)建治元年7月
現代語訳:(世間の人々)皆が日蓮を憎んでいるのに、(貴方は)少しでも日蓮を信用して頂いた上に、此処(身延)まで訪ねて来られた事は、只、今生ばかりでなく、きっと過去の因縁によるものでしょう。御病気が重くなられたのは、意外な事です。但し、剣は敵を討つ為に、薬は病気を治す為のものです。(中略)
その上に、法華経には「閻浮提の人の病の良薬である」と説かれています。閻浮提の内の人々は病の身ですが、法華経の薬があります。(病気回復の為の)三事は既に相応しています。貴方がどうして助からない事があるでしょうか。但し、(貴方に法華経を)疑う心があるなら、(日蓮の力は)及ばないのです。
※病身の高橋六郎兵衛に与えた書で、この御文では、高橋入道の信心の厚さをたたえ、病気の事を心配されて、法華経の功徳を説き、何処までも疑いなき信心を勧め、激励されています。
補足:「三事」は法華初心成仏抄では「よき師・よき檀那・よき法」(新695頁・全550頁)であり、新田殿御書では「経・仏・行者」(新1725頁・全1452頁)となっています。此処では御抄の内容から「経・仏・行者」を指すと思われます。詳しくは新田殿御書に「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願、必ず成就せんか。」(新1725頁・全1452頁)とあります。


「おさなき人の御ために、御まぼりさずけまいらせ候。この御まぼりは、法華経のうちのかんじん、一切経のげんもくにて候。たとえば、天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠のたま、いえにははしらのようなることにて候。このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子をおやのあいするがごとく、いおの水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等の、あつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給う法にて候。よくよく御信用あるべし。」(妙心尼御前御返事<御本尊護持の事> 新1965頁・全1477頁)建治元年8月 54歳御作
現代語訳:あなたの幼子のために御守り御本尊を授けて上げましょう。この御本尊は法華経の肝心であり、一切経の眼目です。例えば、天では日月、地では大王、人では心、宝の中では如意宝珠、家では柱の様なものです。この曼陀羅を身に持てば、王を武士が護る様に、子を親が愛する様に、魚が水を頼みとする様に、草木が雨を願う様に、鳥が木を頼みとする様に、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影の様に護られる法門なのです。よくよく御信用してください。
※妙心尼御前は、持妙尼御前とも窪尼とも呼ばれ、高橋六郎兵衛入道の妻のことです。この御文は、妙心尼の子に御守御本尊を授けられ御本尊の功徳を述べられています。


「また妙の文字は、花のこのみとなるがごとく、半月の満月となるがごとく、変じて仏とならせ給う文字なり。されば、経に云わく「能くこの経を持つは、則ち仏身を持つなり」。天台大師云わく「一々文々これ真仏なり」等云々。妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておわしますを、我らが眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり。譬えば、はちすの子の池の中に生いて候がように候はちすの候を、としよりて候人は眼くらくしてみず、よるはかげの候をやみにみざるがごとし。されども、この妙の字は仏にておわし候なり。またこの妙の文字は、月なり、日なり、星なり、かがみなり、衣なり、食なり、花なり、大地なり、大海なり。一切の功徳を合わせて妙の文字とならせ給う。または如意宝珠のたまなり。」(妙心尼御前御返事<妙の字功徳の事> 新1972頁・全1484頁)建治2年又は同3年5月
現代語訳:妙の文字は、花が果となる様に、半月がやがて満月となる様に、変じて仏と成られる文字です。だから、経には「能く此の経を持つ人は則ち仏身を持つなり」と説かれ、天台大師は「一一文文是れ真仏なり」等と述べられているのです。妙の文字は三十二相・八十種好を円満に備えられている釈迦如来であられますが、我等の眼が拙いので文字と見ているのです。例えば蓮華の果が池の中に生えている様なものです。蓮華はあっても、年寄りは目が悪くて見えず、夜は影があっても暗くて見る事ができない様なものです。しかし、この妙の文字は仏であられるのです。また、この妙の文字は、月であり、太陽であり、星であり、鏡であり、衣であり、花であり、大地であり、大海なのです。一切の功徳を合わせて妙の文字となられたのです。または、如意宝珠の珠なのです。
※「妙」の一字は成仏の種であり、全ての功徳を含んだ如意宝珠である、と明示されていますね。


[139]

題名:フェイク 第1780号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/02/05(水) 21:07 2605:6440:2000:1000:8a50:4001:744f:9d1d(IPv6:) (2605:6440:2000:1000:8a50:4001:744f:9d1d)

(発行=25.02.04)

折伏は低迷、登山者等も減少
衰退する日蓮正宗、僧侶主導が大失敗
法道院が門前でビラ配布の顕正会員を黙認

衰退の一途を辿っている日蓮正宗の凋落ぶりが一段と顕著になっている。「誓
願目標」と称している折伏が低迷しているのに加え、登山者、元旦勤行や本山
での講習会、各末寺の御講などの参加者も減少している。

 このうち特に、折伏の停滞が全国的に激しく、昨年の目標達成の寺院は全国
五百九十七支部中、僅か五支部、それも目標の低い支部で過去最低を更新した。

焦った宗門は新年早々の一月九日の宮崎・熊本布教区をはじめ各地で布教区別
の折伏推進僧俗指導会を開いて「誓願目標を達成せよ」と檄を飛ばしている。

しかし、信仰心が薄く、折伏精神もない坊主や講員に対して、いくら檄を飛ば
しても〝糠に釘〟で参加者は〝馬の耳に念仏〟と聞き流しており、目標達成が
幻想に終わるのは明らかだ。

日蓮正宗では「僧侶主導の広宣流布」と言いながら坊主は実践しない。号令を
かけるだけで法華講員に折伏させる仕組みの「僧侶主導」は大失敗である。

「僧侶主導」とは本来、大聖人、日興上人のように出家が布教の最前線で実践
することだ。だが、今の宗門に出家はいない。肉食妻帯の堕落した〝在家坊主
〟ばかりである。

現在、開催している僧俗指導会では実践経験のない役僧達が観念論を述べるだ
けだから説得力はない。

また、講員はノルマに追われて勧誘しているため、その言動には相手を思いや
る慈悲の欠片もない。

戸田先生は「不幸な人、悩んでいる人が気の毒だから折伏するのだよ」と語り、
池田先生の指導も同じで、単に信徒を増やすのが折伏の目的ではない。

ところで、僧俗指導会と言えば、布教部長だった当時の阿部信彰(日明)が「毎
日が実践である」「自行化他の信心が大事だ」と強い口調で締め上げていた。

だが、布教部長を解任されてからは「やる気が感じられない」という評判だ。

常在寺(都内池袋)の法華講員の某氏は「本堂の入り口の前に置いてあった折伏
の大きな成果表も撤去されました」と語っている。

顕正会は最悪の邪教

確かな筋の情報によると、二月一日(土)、法道院(都内池袋)の門前で、五~六
人の顕正会員が法華講員だけでなく一般の通行人にも宗門批判のビラを配布し
ていた。

この法を下げる愚行を破折する講員はいなかったし、受付の付近にいた数人の
坊主も見て見ないふりで放置していたということだ。

顕正会は大聖人の仏法を「悪しく敬う」最悪の邪教だ。変節漢で的外れの予言
を繰り返し、一昨年十月に急死した浅井昭衛に洗脳された会員は「治安フォー
ラム」によると東日本大震災の被災地に行って救援活動ではなく布教活動に血
道を上げていた狂信の徒である。

こんな顕正会員の暴挙を黙認する軟弱な信心の坊主や法華講員に折伏を強要し
ても出来る筈がない。

日如は元旦勤行で「勇猛果敢に折伏を」とか、広布唱題会でも「邪義邪宗の謗
法を退治し」と訴えていた。

こんな檄を飛ばすよりも、日如や役僧らが折伏をして手本を示すことが先決事
項だが、それが出来ないから〝日蓮小宗〟になり、やがて〝日蓮消宗〟になる
のだ。




[138]

題名:師匠と我らとの関係 29(駿河方面の門下に宛てられた御抄)前 

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/02/02(日) 12:16 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 29(駿河方面の門下に宛てられた御抄)前


「駿河方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 前編
(駿河方面の各寺院で奔走する出家門下達)

「駿河」とは、現在の静岡県東部(伊豆方面を除く)を指し、富士裾野の要衡の地を占めています。この方面での御文を、前・中・後の3編に分けてご紹介します。


「駿河国蒲原庄四十九院の供僧・釈日興等、謹んで申す。寺務・二位律師厳誉のために、日興ならびに日持・承賢・賢秀等の学ぶところの法華宗をもって外道・大邪教と称し、往古よりの住坊ならびに田畠を奪い取り、寺内を追い出ださしむる謂れ無き子細のこと。右、釈迦一代の教えの中には天台をもって宗匠となす。如来五十年の間には法華をもって真実となす。これ則ち諸仏の本懐なり。そもそも、また多宝の証誠なり。上一人より下万民に至るまで、帰敬年旧り、渇仰日に新たなり。しかるに、厳誉律師の状に云わく「四十九院の内に日蓮が弟子等居住せしむるの由、その聞こえ有り。彼の党類、仏法を学びながら外道の教えに同じ、正見を改めて邪義に住せしむるの旨、もっての外の次第なり。大衆等評定せしむるに、寺内に住せしむべからざるの由候ところなり」云々。ここに因って、日興等たちまちに年来の住坊を追い出だされ、すでに御祈禱便宜の学道を失う。法華の正義をもって外道の邪教と称することは、いずれの経、いずれの論文ぞや。諸経多しといえども、いまだ両眼に触れず。法華の中に諸経を破るの文これ有りといえども、諸経の裏に法華を破るの文全くこれ無し。詮ずるところ、已今当の三説をもって教法の方便を破摧することは、さらに日蓮聖人の莠言にあらず、皆これ釈尊出世の金口なり。」(四十九院申状 新877-8頁・全848頁)弘安元年3月 57歳御作
現代語訳:駿河の国蒲原の庄にある四十九院の供奉僧らが謹んで申し上げます。寺務である二位律師厳誉が、日興並びに日持・承賢・賢秀らが学んでいる法華宗を外道大邪教と名付け、長年住んでいる住坊並びに田畑を奪い取り、寺内を追い出したのは正当な理由の無い事であり、この詳細を申し上げます。右は釈尊一代聖教の中では天台大師を師と仰いでいます。釈迦如来五十年の説法では法華経をもって真実とします。これは、即ち諸仏の本意であり、また多宝の証明しているところです。上一人より下万民に至るまで昔から帰依され、今も日に日に渇仰されています。ところが、厳誉の書状には「四十九院の中に、日蓮が弟子らが居住しているとの風聞がある。彼らの仲間は仏法を学ぶと言いながら、外道の教えに与し、正見を改めて邪義の教えを容認している。これはとんでもない事である。寺内の僧侶達が評議した結果。寺内に居住させられないとの結果になった」とあります。これによって、日興等はたちまちに長年居住してきた住坊を追放され、既に祈祷の機会や仏法修学の道を失ってしまいました。法華教の正義をもって外道の邪教と称するのはいずれの経、いずれの論文によるのでしょうか。諸経は多く存在するけれども、法華経を外道邪教としている文は見たことがありません。法華経の中で諸経を破折した文はありますが、諸経の中で法華経を破折した文は全くありません。結局、已今当の三説をもって法華経以外の諸経を方便として破折するのは日蓮大聖人が勝手に言っている事ではなく、これらは全て釈尊がこの世に出現されて述べられた金言なのです。
※駿河国蒲原荘(静岡県静岡市蒲原町)の四十九院の供僧であった日持・承賢等が、寺内を追い出された事に対して、大聖人の草案で鎌倉幕府に訴え出た訴状です。当時、大聖人に帰依した日興上人等は、四十九院を拠点として富士方面への弘教を展開していたが、これを憎んだ寺務の二位律師厳誉は、法華宗を外道邪教として住坊や田畠を奪い寺内を追い出しました。これに対して、日興上人達4人は厳誉の横暴非道を責め日蓮仏法の正義を明確にする公場対決を求めて、本抄を幕府に提出したのです。


「駿河国富士下方滝泉寺の大衆、越後房日弁・下野房日秀等、謹んで弁言す。当寺院主代・平左近入道行智、条々の自科を塞がんがために遮って不実の濫訴を致すの謂れ無きこと。
 訴状に云わく「日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経あるいは真言の行人は、皆もって今世・後世叶うべからざるの由、これを申す」云々〈取意〉。(中略)
訴状に云わく「今月二十一日、数多の人勢を催し、弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は馬に乗り、熱原の百姓・紀次郎男を相具し、点札を立て、作毛を刈り取り、日秀の住房に取り入れ畢わんぬ」云々〈取意〉。この条、跡形も無き虚誕なり。日秀等は行智に損亡せられ不安堵の上は、誰人か日秀等の点札を叙用せしむべき。はたまた、尩弱なる土民の族、日秀等に雇い越されんや。しかのごとく弓箭を帯し悪行を企つるにおいては、行智といい、近隣の人々といい、いかでか、弓箭を奪い取り、その身を召し取り、子細を申さざるや。矯飾の至り、よろしく賢察に足るべし。日秀・日弁等は当寺代々の住侶として行法の薫修を積み、天長地久の御祈禱を致すのところに、行智は当寺霊地の院主代に補せられながら、寺家の三河房頼円ならびに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せて、「行智、法華経においてはこれを信用せざるなり、速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書けば、安堵すべし」との旨、下知せしむるのあいだ、頼円は下知に随って起請を書いて安堵せしむといえども、日禅等は起請を書かざるによって所職の住坊を奪い取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢わんぬ。日秀・日弁は無頼の身たるによって、所縁を相憑み、なお寺中に寄宿せしむるのあいだ、この四箇年のほど、日秀等の所職の住坊を奪い取り、厳重の御祈禱を打ち止むるの余り、悪行なおもって飽き足らず、法華経の行者の跡を削らんがために謀案を構えて種々の不実を申し付くるの条、あに在世の調達にあらずや。
およそ行智の所行は、法華三昧の供僧・和泉房蓮海をもって法華経を柿紙に作り紺形を彫り、堂舎の修治をなす。日弁、御書き下しを給わり構え置くところの上葺榑、一万二千寸の内八千寸、これを私用せしむ。下方の政所代に勧め、去ぬる四月、御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月、弥四郎男の頸を切らしむ〈日秀等頭を刎ぬと擬することをこの中に書き入れよ〉。無智・無才の盗人たる兵部房静印をもって過料を取り、器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、あるいは寺内の百姓等を催し、鶉を取り、狸を狩り、狼落の鹿を殺し、別当の坊においてこれを食らい、あるいは毒物を仏前の池に入れ、そこばくの魚類を殺し、村里に出だしてこれを売る。見聞の人、耳目を驚かさざるはなし。仏法破滅の基、悲しんでも余り有り。
かくのごときの不善・悪行、日々相積もるのあいだ、日秀等、愁歎の余り上聞を驚かさんと欲するによって、行智条々の自科を塞がんがために種々の秘計を廻らし、近隣の輩を相語らい、遮って跡形も無き不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬するの条、言語道断の次第なり。冥につけ顕につけ、戒めの御沙汰無からんや。
詮ずるところ、仏法の権実といい、沙汰の真偽といい、淵底を究めて御尋ね有り、かつは誠諦の金言に任せ、かつは式条の明文に準じて禁遏を加えられば、守護の善神は変を消し、擁護の諸天は咲みを含まん。しからば則ち、不善・悪行の院主代・行智を改易せられよ。はたまた、本主この重科を脱れ難からん。何ぞ実相寺に例如せん。誤らざるの道理に任せて日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙り、堂舎を修理せしめ、天長地久の御祈禱の忠勤を抽んでんと欲す。よって状を勒し、披陳す。言上、件のごとし。」(滝泉寺大衆陳状<滝泉寺申状> 新880-5頁・全849-53頁)弘安2年10月 58歳御作
現代語訳:駿河の国・富士郡下方荘(静岡県富士市)の滝泉寺の大衆僧、越後房日弁・下野房日秀等、謹んで申し上げます。当滝泉寺の院主代である平左近入道行智が数々の自ら犯した罪を覆い隠し、明らかになる事を防ごうとして、罪をでっちあげて訴えを起こしたのは、全く不当な事です。訴えの状には、「日秀や日弁が日蓮房の弟子と名乗って、法華経以外の経または真言を修行する人は皆、今世も後世も願いは叶わない、と言っている」と大要この様にあります。(中略)
行智らの訴状に、「今月二十一日、(日秀は)数多くの者達を誘い出し、弓や矢を身につけて、院主所有の建物の中に打ち入り、下野坊日秀は馬に乗り、熱原の農民の紀次郎は武具を付けて立て札を立て、農作物を刈り取り、日秀の住む房に取り入れた」と大要その様に言っています。この事は全くのでたらめです。日秀は行智から不当に住坊を追われ、身を寄せる住居も無い身ですから、一体誰が日秀らの立て札を用いるでしょうか。また立場の弱い土地の農民達が、わざわざ日秀らに雇われるでしょうか。この様に日秀らが弓や矢を身に付けて悪の所行を企てたのであれば、行智といい、近隣の人々といい、どうして弓矢を奪い取り日秀らの身を召し取って、事の次第を言わないのでしょうか。これらの申し立ては偽り至極であり、よろしく御賢察いただきたいのです。
日秀や日弁等は、当滝泉寺代々の僧として、仏道修行を積み重ね、国主の長寿と民の平和を祈ってきたのですが、行智は神聖な当滝泉寺の院主代の任務に就きながら、寺僧である三河房頼円並びに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せつけて「法華経は信用できない法である。お前たちもすぐさま法華経の読誦するのをやめ、ひたすら阿弥陀経を読んで念仏をとなえるという起請文を書けば、居る所を保証してやろう」という内容の命令を下したので、頼円は命令に従って起請文を書いて安心したのですが、日禅らは起請文を書かなかったので、住んでいる坊を奪い取ろうとした時、日禅は(滝泉寺の地を離れ、河合の実家へ)帰ったのです。日秀・日弁は頼るところが無い身なので、縁を頼って、まだ寺の中に身を寄せていたのですが、(建治二年から今年までの)この約四年間は、日秀等の住職としての坊を奪い取り、厳重に法華経の祈りを禁止しようとするあまり、これまでの悪行に飽き足らず、さらに法華経の行者の形跡を無くそうとして謀略を巡らして、様々な虚偽を周りに言いつけたのです。この事は仏在世の提婆達多そのものではないでしょうか。
大体、行智の行為は、法華三昧堂で給仕する僧の和泉房蓮海に命じて、法華経をほぐして渋紙とし、それを切り取り、型紙として建物の修理に使っています。日弁に書き下した状をたまわって準備していた上葺き用の板材・一万二千寸の内八千寸を勝手に私事に使用しています。下方荘の政所の代官をそそのかし、去る四月に、(大宮浅間神社で行われた流鏑馬の)神事の最中に、法華経を信心している四郎を刄物で切りつけ、去る八月には弥四郎の頸を切らせました。(日秀等が頚を刎られた様に言い立てた事を書き入れなさい。)智慧無く才能も無い盗人である兵部房静印を使って罰金を取り、優れた才能の持ち主であると言いふらして、当(滝泉)寺の供僧に任じ、ある時には寺域内の農民を使って鶉を取り、狸を狩り、猪用の罠にかかった鹿を殺して、別当(である院主)の坊で、これらを食べ、或いは本堂前の池に毒仏を投げ入れて多くの魚類を殺し、村里に出してこれを売るのです。これを見たり聞いたりした人は、耳や目を疑ったのです。仏法を破滅させる根源であり、これほど悲しい事は他にありません。この様な不善や悪行が日々積み重なるので、日秀等は嘆きのあまり上に訴えようとしましたが、行智は数々の自分の罪を隠そうとして、種々の計略をめぐらし、近隣の人々を誘い入れて、何の根拠も無い嘘を言いつけて、日秀らを陥れようとはかったのであり、これは言語道断です。(仏法上の)冥罪においても(国法上に)顕われる罪においても、これを懲らしめる処罰が無い筈がありません。所詮、仏法の権教・実教の問題といい、(行智がした)命令や行為の真偽といい、徹底して調べさせ、仏の金言を根本として、御成敗式目の条文に従って、正邪を明確にされるならば、日本国を守護する善神は災難を消し留め、正法を擁護する諸天は笑みを含んで喜ばれるでしょう。そうであれば、不善や悪業を行う院主代の行智は罷免されるでしょう。また、本主もこの重い罪を免れないでしょう。岩本実相寺と同一に扱う事はできません。正しい道理に基づいて日秀・日弁等は、安心できる御処置を受け、寺院の建物を修理してもらい、世の平和を祈る忠誠を尽くす事を願っています。だからこの状を刻みにつけて御覧に入れるのです。以上、申し上げます。
※本抄は、前半は大聖人、後半は日興上人の執筆で幕府問注所に提出した訴状です。内容は、諌暁と訴えに大別され、此処では後半の院主代・行智の悪行は在世の提婆達多であり、日秀・日弁の行動を援護されています。


「夫れ、法華経の妙の一字に二義有り。一は相待妙、麤を破して妙を顕す。二は絶待妙、麤を開して妙を顕す。爾前の諸経ならびに法華已後の諸経は、「麤を破して妙を顕す」の一分これを説くといえども、「麤を開して妙を顕す」は全分これ無し。しかるに、諸経に依憑する人師、彼々の経々において破・顕の二妙を存し、あるいは天台の智慧を盗み、あるいは民の家に天下を行うのみ。たとい「麤を開す」を存すといえども、破の義免れ難きか。いかにいわんや、上に挙ぐるところの「一向に権を執す」あるいは「一向に実を執す」等の者をや。しかるに、彼の阿闍梨等は、自科を顧みざる者にして嫉妬するのあいだ、自眼を回転して大山を眩ると観るか。まず実をもって権を破し権執を絶して実に入るるは、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀なり。実をもって権を破する者を盲目となせば、釈尊は盲目の人か、乃至天台・伝教は盲目の人師なるか、いかん。笑うべし。」(実相寺御書 新1933-4頁・全1453頁)建治4年1月 57歳御作
現代語訳:そもそも法華経の妙の一字に二つの義があります。一つは相待妙といって、麤(そ)法を破して妙法を顕(す義)です。二つは絶待妙といって、麤法を開会して妙法を顕(す義)です。法華経已前(爾前)の諸経並びに已後の諸経は、「麤を破して妙を顕す」義の一分は説いているけれども、「麤を開して妙を顕す」義は全く説いていません。それなのに、法華経以外の諸経に依っている人師は、それぞれの経々に破麤顕妙・開麤顕妙の二妙の義があるとしたり、あるいは天台大師の智慧を盗んだりしています。これは民の家で天下の政治を執る様なものです。たとえ麤法を開く(開会する:真実を開き顕して一つに合わせること)義があるといっても、真の開会ではなく、麤法を破す義を免れることはできません。まして上に挙げた様に「予測通りに権教に執着」したり、「全く実教に執着」する等の者は言うまでもりません。そうであるので尾張阿闍梨等は、自分の誤りを顧みない者であり、他人を嫉妬したまま、自分が眩いしているのを知らずに大山が回っていると思う様なものです。まず実教をもって権教を破し、権教の執着を絶って実教に入れるのが、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀です。実教をもって権教を破する者を盲目であると言うならば、釈尊は盲目の人なのでしょうか。また天台大師、伝教大師は盲目の人師なのでしょうか。どうでしょう。笑うべきです。
※本抄は、天台宗の実相寺(静岡県富士市岩本)の住侶であった豊前房(生没年不明)に与えられており、同じ実相寺の住侶である尾張阿闍梨が大聖人の折伏行を誹謗しているとの報告に対する御返事です。破折の方法を教えられ、「法華経の妙の二義」を知らなければ、仏法を会得したことにならないと述べられています。実相寺は、大聖人が同寺所有の一切経を研鑽された寺院であり、同寺の所化であった日興・日源上人等が大聖人の滞在中に日蓮門下になった縁ある寺院です。
補足:麤法とは、粗雑な劣った法のことで、妙法に対する反対語です。例えば、大乗教に対して小乗教は麤法であり、法華経に対して爾前の諸経は麤法となるのです。
「相待妙・絶待妙」についての解説は、本拙ブログ内の「日蓮仏法用語シリーズ」を参照してください。


「熱原の百姓等安堵せしめば、日秀等、別に問注有るべからざるか。大進房・弥藤次入道等の狼藉のことに至っては、源、行智の勧めによって殺害・刃傷するところなり。もしまた起請文に及ぶべきことこれを申さば、全く書くべからず。その故は、人に殺害・刃傷せられたる上、重ねて起請文を書き、失を守るは、古今未曽有の沙汰なり。その上、行智の所行、書かしむるごとくならば、身を容るる処なく、行うべきの罪、方無きか。あなかしこ、あなかしこ。この旨を存し、問注の時、強々とこれを申せ。定めて上聞に及ぶべきか。また行智、証人を立て申さば、彼らの人々、行智と同意して百姓等が田畠数十刈り取る由これを申せ。もしまた証文を出ださば、謀書の由これを申せ。ことごとく証人の起請文を用いるべからず。ただ現証の殺害・刃傷のみ。もしその義に背く者は、日蓮の門家にあらず、日蓮の門家にあらず。」(伯耆殿等御返事 新1937頁・全1456頁)弘安2年10月 58歳御作
現代語訳:熱原の百姓等が安心できる様になったならば、日秀等は別に問注する(訴訟で双方の陳述を問い記録する)必要はないでしょう。大進房や弥藤次入道等の狼藉の事については、その根源は行智の勧めによって殺害刄傷した事にあります。もしまた起請文を書くべきである等と言われても、決して書いてはなりません。その理由は、人に殺害刄傷された上に、こちらが重ねて起請文を書いて相手の罪を守るなどは昔から今までかつてない事件だからです。その上、行智の行いが申書に書かれてある通りならば、身を置く場所もなく、処断すべき罪も方法も無いでしょう。この旨をしかと心得て問注の時、強盛にこの事を主張するならば、必ず上聞に達するでしょう。また行智が証人を立てて申し立てをするならば、その証人達の同類が行智と同意して百姓等の田畠数十を苅り取った者である事を言いなさい。もしまた、証文を出すならば、偽書であると言いなさい。悉く証人の起請文を用いてはなりません。ただし現証の殺害刄傷のみは言いきりなさい。もしこの道理に背く者は日蓮の門家ではありません。重ねて日蓮の門家ではありません。
※「熱原の法難」に直接関与された、日興・日秀・日弁等(当時、富士熱原地方に所在)に宛てた御文を全文掲載しました。此処で明確に重要なのは、宗門が大聖人直造とし戒壇本尊と称する「楠板本尊」の建立日とされている弘安2年10月12日の日付で本抄が送られており、戒壇本尊建立の子細が何処にも一言も述べていない事です。大聖人の側近とも云える日興上人以下僧侶に対してです。つまり、本抄には、戒壇本尊建立の実態の影すら無く、宗門側の主張が全くの虚偽である証拠の一つになるのです。


「今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。「彼ら御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉る」云々。ひとえに只事にあらず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易わって、法華経の行者を試みたもうか。例せば、雪山童子・尸毘王等のごとし。はたまた、悪鬼その身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五の五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓いはこれなり。大論に云わく「能く毒を変じて薬となす」。天台云わく「毒を変じて薬となす」云々。妙の字虚しからざれば、定めて須臾に賞罰有らんか。伯耆房等、深くこの旨を存して問注を遂ぐべし。平金吾に申すべき様は、「去ぬる文永の御勘気の時の聖人の仰せ、忘れ給うか。その殃いいまだ畢わらず。重ねて十羅刹の罰を招き取るか」。最後に申し付けよ。」(聖人等御返事 新1938頁・全1455頁)弘安2年10月 
現代語訳:今月十五日酉時の御手紙、同じく十七日酉時に到着しました。「彼等が処刑された時、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えた」との事、全く普通の事ではありません。きっと平左衛門尉の身に十羅刹女が入り替わって法華経の行者を試したのでしょうか。雪山童子、尸毘王等の例と同じです。又は悪鬼がその身に入った者なのでしょうか。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・梵天・帝釈等が五五百歳の法華経の行者を守護するとの御誓いはこの事です。大智度論には「能く毒を変じて薬とする」とあります。また天台大師は「毒を変じて薬とする」と解釈しています。妙法が虚事で無いならば、必ず忽ちに賞罰があるでしょう。伯耆房等は深くこの旨を心得て問注を遂げなさい。平左衛門尉に申すべき事は、「文永八年の迫害の時、日蓮聖人の言われたことを忘れたのか、そのための災いもいまだ畢っていないのに、重ねて十羅刹女の罰を招き取ろうとするのか」と最後に申し付けなさい。
※日興上人等の門下に贈られた本抄もほぼ全文を掲載しました。貧しき熱原の農民が,言われなき罪によって拷問や処刑時に題目を必死に唱えたとの報告を受けて、庶民・大衆の手に妙法が確実に弘教された事を知り、大聖人は、遂に「民衆仏法の基盤が確立」を実感しこの事実を「出世の本懐」とされたのでしょうね。弘安2年10月1日付の御書「聖人御難事」に高々と述べられている「出世の本懐」が此れなのでしょうね。


◎今回は、駿河に存在した3つの寺院(四十九院・滝泉寺・実相寺)に御苦労された御僧侶の紹介となりました。此の内、3つの御文は、弘安2年10月の御作でありながら、「楠板本尊」の記述は皆無であり、宗門の「作り法門」である事が、改めて明確になったのではないでしょうか。


[137]

題名:「どこまでも仏教を解説する」

名前:TOUKA

MAIL 投稿日: 2025/01/26(日) 16:14 2405:6584:5180:2100:75f8:d52d:ffed:1de(IPv6:asahi-net-jpnic-jp-20160518) (2405:6584:5180:2100:75f8:d52d:ffed:1de)

こんにちわ
仏教の解説をしています。見ていただけると嬉しいのですけれど。
https://www.youtube.com/@tebukurowositakogitune
(途中からではなく、最初から見ていただかないと理解できない構成になっています。)


[132]

題名:師匠と我らとの関係 28(南条家及び時光に宛てられた御抄)後

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/01/21(火) 22:37 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 28(南条家及び時光に宛てられた御抄)後


「南条家及び時光に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編


「今、日蓮は、聖人にはあらざれども、法華経に名をたてり。国主ににくまれて我が身をせく上、弟子・かよう人をも、あるいはのり、あるいはうち、あるいは所領をとり、あるいはところをおう。かかる国主の内にある人々なれば、たとい心ざしあるらん人々もとうことなし。このこと事ふりぬ。なかにも今年は、疫病と申し、飢渇と申し、といくる人々もすくなし。たといやまいなくとも、飢えて死ぬことうたがいなかるべきに、麦の御とぶらい、金にもすぎ、珠にもこえたり。彼のりたがひえは、変じて金人となる。この時光が麦、何ぞ変じて法華経の文字とならざらん。この法華経の文字は釈迦仏となり給い、時光が故親父の左右の御羽となりて、霊山浄土へとび給え、かけり給え、かえりて時光が身をおおい、はぐくみ給え。」(時光御返事 新1880-1頁・全1550頁)弘安元年7月 57歳御作
現代語訳:今、日蓮は、聖人ではないですが、法華経の御名を立てました。(その為に)国主に憎まれて、自分が責められるばかりでなく、弟子や往き来する人までも、罵られたり、打たれたり、領地を取られたり、住所を追われたりしました。この様に国主の領内に居住する人々であれば、たとえ志があると思える人々も訪れることはありません。この事は新しいことではないです。それにしても、今年は疫病や飢饉などで、訪れて来る人々が少ないのです。たとえ、病にかからなくても、飢えて死ぬことは疑いないと思っていたのに、あなたが送ってくださった麦は、金よりも勝れ、宝珠の有り難さを越えているのです。あの利吒(雑宝蔵経等に説かれた長者の子息、子細は省く)の稗は変わって金人となりました。今、時光から送られた麦が、どうして法華経の文字にならない事があるでしょうか。この法華経の文字は釈迦仏と成られて、時光の亡き父上の左右の翼となって、霊山浄土へ飛翔されて、帰って来ると、時光の身を覆い育まれるでしょう。
※大聖人は南条時光の御供養の偉大さを説かれ、供養の麦が法華経の文字に変じて釈迦仏となり、時光と亡父を守護すると、述べられています。


「日蓮、種々の大難の中には竜の口の頸の座と東条の難にはすぎず。その故は、諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。あるいはのり、せめ、あるいは処をおわれ、無実を云いつけられ、あるいは面をうたれしなどは物のかずならず。されば、色心の二法よりおこりてそしられたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。ただし、ありとも、法華経の故にはあらじ。さてもさてもわすれざることは、しょうぼうが法華経の第五の巻を取って日蓮がつらをうちしことは、三毒よりおこるところのちょうちゃくなり。(中略)
第五の巻は一経第一の肝心なり。竜女が即身成仏あきらかなり。提婆はこころの成仏をあらわし、竜女は身の成仏をあらわす。一代に分絶えたる法門なり。さてこそ、伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたることを十あつめ給いたる中に、即身成仏化導勝とはこのことなり。この法門は天台宗の最要にして、即身成仏義と申して、文句の義科なり。真言・天台の両宗の相論なり。竜女が成仏も法華経の功力なり。文殊師利菩薩は『唯常宣説妙法華経(ただ常に妙法華経のみを宣説す)』とこそかたらせ給え。」(上野殿御返事<刀杖難の事> 新1888-9頁・全1555-6頁)弘安2年4月 58歳御作
現代語訳:日蓮が受けた種々の大難の中で、竜の口の頸の座と東条小松原の難ほどの大難はありません。その理由は、諸難の中でも身命を捨てるほどの大難はないからです。罵られたり、責められたり。処を追われたり、讒言をされたり、面を打たれた事などは、(この二つの大難に比べれば)物の数ではありません。だから、色法と心法との二法から謗られた者は、日本国の中では日蓮一人だけです。たとえ難にあった人がいたとしても法華経の故ではないでしょう。それにつけても忘れられない事は、(竜の口法難の時、松葉ヶ谷の草庵で)少輔房が法華経の第五の巻を取り出して、日蓮の面を打った事は、貪瞋癡の三毒から起こった打擲(ちょうちゃく:打ったり叩いたりすること)なのです。(中略)
法華経第五の巻は一経第一の肝心です。(此処に)竜女の即身成仏が明らかに説かれています。提婆達多は心の成仏を表し、竜女は身の成仏を表しています。一代経において他に説かれていない(深遠な)法門です。だからこそ、伝教大師は法華秀句の中で法華経が一切経に超過して勝れている事を十箇条挙げられましたが、その中で即身成仏化導勝と云われているのがこの事です。この法門は天台宗における最も肝要なもので、即身成仏義と言って法華文句第八の巻の義科(重要な法門を説く為に設けた科目のこ)の一つです。これについては、真言・天台の二宗の間に争論がありますが、竜女の成仏も法華経の功力であって、文殊師利菩薩が竜女を教化するのに「唯常に妙法華経を宣説す」と語られています。
※法華経の第五の巻と大聖人御自身とを大難と仏法流布の関係から明かされ末法の御本仏の内証を示され、最後に時光の一層の信心を促しています。


「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。去年・去々年のやくびょうに死にし人々のかずにも入らず、また当時、蒙古のせめにまぬかるべしともみえず。とにかくに死は一定なり。その時のなげきはとうじのごとし。おなじくは、かりにも法華経のゆえに命をすてよ。つゆを大海にあつらえ、ちりを大地にうずむとおもえ。法華経の第三に云わく『願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜん』云々。」(上野殿御返事<竜門御書> 新1895頁・全1561頁)弘安2年11月 58歳御作
現代語:願いとしては、我が弟子達よ、大願を起こしなさい。去年や一作年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったとしても、現在、蒙古が攻めてきたならば、死を免れることができるとは思えないのです。とにかく、死は一定(必ず起こること)なのです。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同様なのです。同じことなら、かりに法華経のために命を捨てなさい。これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものと思いなさい。法華経第三の巻・化城喩品に「願わくは此の功徳により、広い範囲の一切に及ぼし、私達と衆生と、皆共に仏道を成じましょう」と説かれている通りです。
※本抄の内容は、竜門の故事等を例示して信心を貫くことの至難さを御教示されています。本抄に、御書新版では「進上、上野殿 あつはらのものの事」、「これは、あつはらのことのありがたさに申す御返事なり」とあり、熱原法難時に信者の中心者として活躍された南条時光に対して感謝され、本抄で上野賢人と称賛されています。


「念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値って法華経をひろむれば、王臣・万民ににくまれて、結句は山中に候えば、天いかんが計らわせ給うらん。
 五尺のゆきふりて、本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たえて命すでにおわりなんとす。かかるきざみに、いのちさまたげの御とぶらい、かつはよろこび、かつはなげかし。一度におもい切ってうえしなんとあんじ切って候いつるに、わずかのともしびにあぶらを入れそえられたるがごとし。あわれ、あわれ、とうとくめでたき御心かな。釈迦仏・法華経、定めて御計らい給わんか。」(上野殿御返事<適時弘法の事> 新1896-7頁・全1562頁)弘安2年12月
現代語訳:念仏、禅、真言、律宗を信ずる時代に生まれあわせて、法華経を弘めれば、王臣や万民に憎まれ、あげくにこの山中の身となったのです。諸天がどの様に計らわれるのでしょうか。五尺も雪が降り積もり、元々人の通わない山道は塞がり、訪ねて来る人もいません。衣服も薄くて寒さを防ぐこともできません。食物も絶えて生命も既に尽きようとしている時に、生命を妨げるご訪問は、一方では喜び、一方では歎かわしく思うのです。一度に思い切って飢え死にしようと覚悟を決めていたのに、(白米をお送り頂いた事は)消えかけた灯に油を注入された様なものです。あわれ感動する気持ちです。なんと尊くめでたい御志でしょうか。釈迦仏・法華経が決定され御計画をされたのでしょうか。
※大聖人が寒さや食事に困窮された御心境を述べられ、南条時光の御供養に大変感謝されています。ところが現宗門は、大聖人直造で「戒壇本尊」と称されている、金文字・漆塗りの豪華な「楠板本尊」が、弘安2年10月12日」に御建立された、と宣揚されています。科学が進歩した現在、大聖人の御文や歴代法主の文証のみならず、物的証拠の年代鑑定を実施すれば、「楠板本尊」は、後世の模作であり、宗門の虚偽が明確になるでしょうね。


「貴辺はすでに法華経の行者に似させ給えること、さるの人に似、もちいの月に似たるがごとし。あつはらのものどもかかえおしませ給えることは、承平の将門、天喜の貞任のようにこの国のものどもはおもいて候ぞ。これひとえに法華経に命をすつるゆえなり。まったく主君にそむく人とは、天、御覧あらじ。その上、わずかの小郷におおくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもいやらせ給いて、ぜに一貫おくらせ給えるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたえ、りたが合子の中なりしひえを辟支仏にあたえたりしがごとし。とうとし、とうとし。」(上野殿御返事<須達長者御書> 新1919頁・全1575頁)弘安3年12月
現代語訳:あなたが既に法華経の行者に似ておられることは、猿が人に似、餅が月に似ているようなものです。熱原の者達をあなたが大事にされていることに対して、承平年間の平将門や天喜年間の安倍貞任の様であると、この日本国の者達は思っています。これはひとえに法華経に命を捨てる(覚悟がある)為であって、全く主君に背く人とは、天は御覧にならないでしょう。その上、わずかの小郷に多くの公事を課せられて、自身は乗るべき馬も無く、妻子は着るべき衣もありません。その様な身ですが、法華経の行者が山中で雪に責められ、食物も乏しいでしょうと心配されて、銭一貫文を送られた事は、貧女が夫婦二人で一つの衣を着ていたのを乞食に与え、利吒が器の中にあった稗を辟支仏に与えた様なものです。尊いことです、重ねて尊いことです。
※当時南条家は、熱原の農民への世話や大聖人への御供養等、大変な御苦労をされていました。大聖人はこれを理解され、感謝されていたのですね。


「まことや、まことや、去年の九月五日、こ五郎殿のかくれにしはいかになりけると胸うちさわぎて、ゆびをおりかずえ候えば、すでに二箇年十六月四百余日にすぎ候か。それには母なれば御おとずれや候らん。いかにきかせ給わぬやらん。(中略)
日蓮は所ろうのゆえに人々の御文の御返事も申さず候いつるが、このことはあまりになげかしく候えば、ふでをとりて候ぞ。これも、よもひさしくもこのよに候わじ。一定、五郎殿にゆきあいぬとおぼえ候。母よりさきにげんざんし候わば、母のなげき申しつたえ候わん。」(上野殿母御前御返事<大聖人の御病の事> 新1927頁・全1583-4頁)弘安4年12月
現代語訳:本当なのですね、去年の九月五日に故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸のうちが騒いで、指折り数えれば、既に二か年、十六か月、四百余日が過ぎてしまいました。尼御前は母ですから、何か便りがあった事でしょう。どうして聞かせて頂けないのでしょうか。(中略)
日蓮は病気の為に、人々からのお手紙にも返事を書かないでおりましたが、五郎殿のことはあまりにも嘆かわしい事でしたから、筆を執りました。日蓮も永くはこの世にはいないでしょう。(そうであれば)必ず五郎殿に行きあうだろうと思っております。もし尼御前より先にお会いしたならば、尼御前の嘆きを申し伝えましょう。
※南条時光の母に宛てた御消息文です。故五郎殿(1265~1280)とは、南条兵衛七郎の五男で、南条時光の弟。七郎五郎とも呼ばれました。誕生以前に父の兵衛七郎は死去しています。容貌も勝れ、立派な青年となった様ですが、弘安三年九月、十六歳の若さで急逝されました。
大聖人御自身の御容態も述べられ、南条五郎の死を悼まれ、母御前を励まされています。


「この上野七郎次郎は、末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども、心は善人なり。その故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給わざる上、たまたま信ずる人あれば、あるいは所領、あるいは田畠等にわずらいをなし、結句は命に及ぶ人々もあり、信じがたき上、はは・故上野信じまいらせ候いぬ。またこの者嫡子となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさめ、あるいはおどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候えば、すでに仏になるべしと見え候えば、天魔・外道が病をつけておどさんと心み候か。命はかぎりあることなり。すこしもおどろくことなかれ。」(法華証明抄 新1931頁・全1586-7頁)弘安5年2月61歳御作
現代語訳:この上野の七郎次郎(時光)は末代の凡夫で、武士の家に生まれて悪人と言うべきですが、心は善人です。その理由は、日蓮の法門を上一人より下万民にいたるまで信じない上に、たまたま信ずる人がいれば、所領や田畑等に煩いが生じて、あげくには命に及ぶ人もあり、信心をすることは難いのに、母の尼御前や故上野殿は信仰されたのです。またこの人(七郎次郎)は嫡子となって、誰も(法華経の信仰を)勧めないのに、心底から信仰され、上下万人より(他宗を)諌められたり、脅かされたりしながらも、結局(法華経を)捨てる心が無くておられ、既に成仏されそうに見えたので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのでしょう。命は限りがあることであり、少しも驚いてはなりません。 
※この御文の後、大聖人は時光を悩ます鬼神等を𠮟責されています。
結局、南条時光(正光元<1259>年-元弘2<1332>年)は、病を克服して、法難後も幕府弾圧による窮乏の中で、妻・妙蓮と共に9男4女の子供を育てながら御供養を続けられ、入道して法名を大行、妻は妙蓮と称しました。


◎南条家(上野殿)への御文は、大変多く遺されており、紹介しきれないのが残念です。
大聖人滅後も南条時光夫妻は、身延の日興上人に対して真心で御仕えし、身延の地頭・波木井実長の謗法離反により、正応2(1289)年に日興上人が身延を離山された際に、時光夫妻は大石が原を寄進され、後に大石寺、妙蓮寺が建立されています。
南条家の子供達や親族も時光夫妻の感化を受け、大石寺3祖日目の母の蓮阿尼は時光の姉、4世日道の母は時光の長女、5世日行の母は時光の次女、妙蓮寺4世日相は時光の8男、5世日限は9男であり、大石寺6世日時、8世日影、9世日有も南条家出身で繋がっています。
もし歴史上、南条家が存在していなければ、日蓮仏法が創価学会の出現まで令法久住できなかったかも知れませんね。


[131]

題名:師匠と我らとの関係 27(南条家及び時光に宛てられた御抄)前

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/01/12(日) 01:13 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 27(南条家及び時光に宛てられた御抄)前


「南条家及び時光に宛てられた御抄」における弟子との関係 前編


「南条」とは、元々伊豆国南条郷(静岡県田方郡韮山町)を指し、駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市上野)の地頭であった南条家が、かつて南条郷に住んでいたので、この様に呼ばれました。南条家又は上野家の南条兵衛七郎夫妻、七郎次郎(時光)夫妻、七郎五郎等代々が、大聖人に帰依され、信心を貫かれました。今回も前後二編として紹介させて頂きます。


「もしさきにたたせ給わば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし。『日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なり』となのらせ給え。よもほうしんなきことは候わじ。ただし、一度は念仏、一度は法華経となえつ。二心ましまし、人の聞きにはばかりなんどだにも候わば、よも、『日蓮が弟子』と申すとも御用い候わじ。後にうらみさせ給うな。ただし、また法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給い候わば、あわれ、とくとく見参して、みずから申しひらかばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候えば、とどめ候いぬ。」(南条兵衛七郎殿御書 新1831頁・全1498頁)文永元年12月 43歳御作
現代語訳:もし(日蓮より)先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等にも申し上げなさい。「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子です」と名乗りなさい。よもや粗略な扱いはされないでしょう。ただし、一度は念仏、一度は法華経を唱えるという様に、二心があって、人の風聞を恐れる様な事がもしもあるならば、「日蓮の弟子」と名乗っても、お用いにはならないでしょう。後になって恨んではなりません。但し法華経は今生の祈りともなるのですから、ひょっとして生き延びられることがあれば、一刻も早くお会いして、日蓮からお話ししたいです。言葉を文章にしても尽くせません。文章は真心を尽くし難いので、これで留めます。
※南条兵衛七郎入道行増(?-文永2年)は南条時光の父で、北条家の家臣で氏は平氏であり、南条殿・上野殿と呼ばれるのは本冒頭の通りです。兵衛七郎は、大聖人から本抄(別名「慰労書」「小松原法難抄」)を賜って、念仏の執情を断って信心を貫いたとされています。


「浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。たとい無量億歳のあいだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば、ただいつも地獄なるべし。このこと、日蓮が申すにはあらず、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めおき給いしなり。されば、権教を修行する人は、火にやくるものまた火の中へいり、水にしずむものなおふちのそこへ入るがごとし。法華経をたもたざる人は、火と水との中にいたるがごとし。法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給うは、なお、火より火の中、水より水のそこへ入るがごとし。いかでか苦患をまぬかるべきや。等活・黒縄・無間地獄の火坑、紅蓮・大紅蓮の氷の底に入りしずみ給わんこと疑いなかるべし。法華経の第二に云わく『その人は命終して、阿鼻獄に入らん。かくのごとく展転して、無数劫に至らん』云々。故聖霊はこの苦をまぬかれ給い、すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。」(上野殿後家尼御返事 新1832-3頁・全1504-5頁)文永2年7月
現代語訳:浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏と言います。これに迷うのを凡夫と言います。これを悟ることができるのが法華経です。従って、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのです。たとえ無量億歳の間、権教を修行しても法華経から離れるならば、いつも地獄なのです。この事は日蓮が言うのではなく、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が定めおかれたのです。だから権教を修行する人は、火に焼かれる者がさらに火の中に入り、水に沈む者がますます淵の底に入る様なものです。法華経を受持しない人は火や水の中に入っていく様なものです。法華経誹謗の悪知識である法然や弘法をたのみ阿弥陀経や大日経等を信じている者は、なお火より火の中に、水より水の底に入るようなものです。どうして苦患をまぬかれることができるでしょうか。等活、黒繩、さらに無間地獄の火坑、紅蓮、大紅蓮地獄の氷の底に落ちて沈んでしまうことは疑いありません。法華経第二の巻の譬喩品に「其の人は命終して後、阿鼻地獄に堕ち、展り転って無数劫に至る」とあります。故聖霊はこの苦を免れています。既に法華経の行者である日蓮の檀那だからです。
※上野殿後家尼は、上野尼御前・上野殿母(尼)御前とも呼ばれ、松野六郎左衛門入道の娘・南条兵衛七郎の妻・南条七郎次郎時光や蓮阿尼(大石寺三祖日目上人の母)の母の事です。
本抄で浄土と地獄、仏と凡夫の定義を明確に述べられ、妙法受持の者は地獄即寂光と覚り、妙法誹謗の者は地獄に堕ちると戒めておられます。


「わがおやのわかれのおしさに、父の御ために、釈迦仏・法華経へまいらせ給うにや。孝養の御心か。さることなくば、梵王・帝釈・日月・四天、その人の家をすみかとせんとちかわせ給いて候。いうにかいなきものなれども、約束と申すことはたがわぬことにて候に、さりとも、この人々は、いかでか仏前の御約束をばたがえさせ給うべき。もしこのことまことになり候わば、わが大事とおもわん人々のせいし候。またおおきなる難来るべし。その時「すでに、このことかなうべきにや」とおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。さるほどならば、聖霊、仏になり給うべし。成り給うならば、来ってまぼり給うべし。その時、一切は心にまかせんずるなり。かえすがえす、人のせいしあらば、心にうれしくおぼすべし。」(上野殿御返事<大難必定の事> 新1843頁・全1512頁)建治元年5月
現代語訳:親との別れを惜しんで父親の追善の為に、釈迦仏・法華経へ差し上げられたのでしょうか。孝養の御心でしょうか。その様な事が無ければ、梵王、帝釈、日天・月天、四天がその人の家を住処にしないと誓われたことでしょう。言ってもどうにもならない者であっても、約束という事は違えないのが常識ですので、この人々が仏前の御約束を違えられる事がどうしてあるでしょうか。もしこの事が本当なるのであれば、自身が大事と思う人々が信心を制止し、また大きな難が来るでしょう。その時に「まさにこの事が叶うに違いない」と確信して、いよいよ強盛に信心すべきです。そうであるならば、聖霊は成仏されるでしょう。成仏されたならば、来られて守護されるでしょう。その時、一切は心のままなのです。くれぐれも人の(信心の)制止が有ったならば、(難来るを覚悟して)心に喜びを感じていきなさい。
※まず亡父(南条兵衛七郎入道)への孝養を称えられ、信心を制止させようと大難が来るでしょうが、それを見破り、一層の信心に励むようにご教示されています。


「今の御心ざしみ候えば、故なんじょうどのは、ただ子なればいとおしとはおぼしめしけるらめども、かく法華経をもって我がきょうようをすべしとは、よもおぼしたらじ。たといつみありていかなるところにおわすとも、この御きょうようの心ざしをば、えんまほうおう・ぼんてん・たいしゃくまでもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経もいかでかすてさせ給うべき。かのちごのちちのなわをときしと、この御心ざし、かれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり。」(南条殿御返事<大橋太郎の事> 新1860頁・全1534頁)建治2年閏3月 55歳御作
現代語訳:今の貴殿(南条時光)の御志を見ると、故南条殿は、親子であるから、いとおしいとは思われていたでしょうが、この様に法華経をもって自分の孝養をしてくれるだろうとは、よもや思われなかったでしょう。たとえ、罪があって如何なる所におられようとも、このご孝養の志を、閻魔法王も、梵天、帝釈天までも知っておられるでしょう。釈迦仏、法華経もどうして捨てられることがあるでしょうか。彼の稚児が父の縄をといたことと、貴殿の御志とは少しも違うものではありません。この返書を、涙によって書いているのです。
※南条時光の故父への孝養に関連して、本抄の前半で大聖人は、源頼朝の勘気を受けて囚われていた九州の大名・大橋太郎をその子息が法華経読誦の功徳で救った、という故事を詳しく引かれています。此処でも大聖人は、時光のご孝養の姿に感動されて述べておられるのですね。

「今、日蓮は、賢人にもあらず、まして聖人はおもいもよらず、天下第一の僻人にて候か。ただし、経文ばかりにはあいて候ようなれば大難来り候えば、父母のいきかえらせ給いて候よりも、にくきもののことにあうよりもうれしく候なり。愚者にて、しかも仏に聖人とおもわれまいらせて候わんことこそ、うれしきことにては候え。智者たる上、二百五十戒かたくたもちて、万民には諸天の帝釈をうやまうよりもうやまわれて、釈迦仏・法華経に『不思議なり、提婆がごとし』とおもわれまいらせなば、人目はよきようなりとも、後生はおそろし、おそろし。さるにては、殿は法華経の行者ににさせ給えり。うけたまわれば、もってのほかに、人のしたしきも、うときも、『日蓮房を信じては、よもまどいなん。上の御気色もあしかりなん』と、かとうどなるようにて御きょうくん候なれば、賢人までも人のたばかりはおそろしきことなれば、一定法華経すて給いなん。なかなか色みえでありせばよかりなん。大魔のつきたる者どもは、一人をきょうくんしおとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめおとすなり。」(上野殿御返事<梵帝御計らいの事> 新1866-7頁・全1538-9頁)建治3年5月 56歳御作
現代語訳:今、日蓮は賢人でもなく、ましてや聖人とは考えもせず、天下第一のひねくれ者でしょうか。ただ経文にだけは符合している様に大難が起こって来たのですから、父母が生き返られた事よりも、憎い者が事故にあった事よりも嬉しいことです。愚者でありながら、しかも仏に聖人と思われる事こそ嬉しいことです。智者である上に二百五十戒を固く持って、万民には諸天が帝釈を敬う事よりも敬われても、釈迦仏や法華経に「不審である。提婆達多の様だ」と思われたならば、人目は良い様であっても後生は恐ろしいことです。重ねて恐ろしいことです。ところで、殿が法華経の行者に似ていると伝え聞くと、思いの外に親しい人も疎遠な人も「日蓮房を信じては、さぞかし苦労するでしょう。主君のおぼえも悪かろう」と味方の様なふりをして教訓します。そうすると、賢人でさえも人の謀り事は恐ろしいことなので、必ず法華経を捨てられるでしょう。かえって素振りを見せない方が良いでしょう。大魔がついた者達は、一人を教訓して退転させると、それをきっかけにして多くの人を攻め落とすのです。
※大聖人は、ご自身をひねくれ者ではないかと卑下されていますが、経文通りに「大難来る」を御存知で行動されておられるので明確に聖人なのですね。本抄では、法華経の行者である南条時光に、魔人が甘い誘いで正法を退転させるべく働きかけて来るが、信心を貫く様にご教示されています。


「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々は、あしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは、法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。これにものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至、きさきの大臣已下にないないとつぐがごとし。わざわいのみなもとなり。正法・像法にはこの法門をひろめず。余経を失わじがためなり。今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、ただ南無妙法蓮華経なるべし。こう申し出だして候もわたくしの計らいにはあらず、釈迦・多宝・十方諸仏・地涌千界の御計らいなり。この南無妙法蓮華経に余事をまじえば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬれば、とぼしびせんなし。雨のふるに、露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬にまた薬を加えたることなし。」(上野殿御返事<末法要法の事> 新1874頁・全1546頁)弘安元年4月 57歳御作
現代語訳:日蓮の弟子達の中に、法門を知った振りをする人々が、(かえって)間違いを犯している様なのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の肝心で、人の魂の様なものです。これに事物を並べる事は、后が二人の王を夫とし、また后が大臣以下の者に内密に情を通じる様なものであって、災禍の根源なのです。正法や像法にはこの法門を弘める事はありませんでした。それは余経を失わせない為です。今末法に入ったならば、余経も法華経も無益であり、ただ南無妙法蓮華経以外に益は無いのです。こう言い出したのも、私見ではありません。釈尊・多宝如来・十方の諸仏・地涌千界の菩薩の考え定められた事なのです。この南無妙法蓮華経に余の修行を交えるならば、大変な間違いです。太陽が出たならば、灯は無意味です。雨が降ったなら、露は何の役に立つでしょうか。赤児には乳より外の物を与えるべきでしょうか。良薬にまた他の薬を加えることは無いのです。
※本抄は、南条時光の御供養に感謝し、石河兵衛入道(夫人は時光の姉)の姫御前の死去について述べられ、姫御前が臨終の際に念仏を唱えず題目を唱えた事を称えられ、「末法では南無妙法蓮華経以外には益なし」と種脱相対した妙法信仰の立場を説かれているのですね。


[128]

題名:フェイク 第1779号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2025/01/05(日) 01:38 2a02:6ea0:e00b:0:55a8:a165:6bbe:b9d6(IPv6:) (2a02:6ea0:e00b:0:55a8:a165:6bbe:b9d6)

(発行=25.01.04)

今年も減少、やはり八十万達成は虚報
邪宗・日蓮正宗各末寺の寂しい元旦勤行
常在寺、常泉寺など主な寺も低迷

邪宗・日蓮正宗各末寺の寂しい元旦勤行 日蓮正宗の各末寺の元旦勤行の参加
者が今年も減少したことが法華講連合会の有力筋、及び宗門の複数の関係者の
話で明らかになった。

なかでも前布教部長の阿部日明が居座っている常在寺(豊島区南池袋)、重役の
藤本日潤がいる常泉寺(墨田区向島)、能化である髙野日安の平安寺(京都市右
京区)をはじめ常生寺(さいたま市、住職は平野選道)、法常寺(銚子市、小栁雄
剛)、興福寺(広島市、濱﨑永行)、妙源寺(松山市、大橋慈興)、立正寺(福岡市、
岩城永学)など主要な末寺でも参詣者が軒並み減っているということだ。

初詣といえば、明治神宮(東京)、川崎大師(神奈川)、伏見稲荷神社(京都)、住
吉大社(大阪)、鶴岡八幡宮(神奈川)、浅草寺(東京)、熱田神宮(愛知)、氷川神
社(埼玉)、太宰府天満宮(福岡)などが参詣者数で例年、上位を占めている。

これらの神社仏閣は毎年、数百万人の初詣の人達で賑わう。更に、それらを大
きく上回って最大規模となるのは創価学会の会館に歓喜に燃えて集う人々によ
る新年勤行会である。今年も世界百九十二ケ国・地域のSGIメンバーが「世
界青年学会 飛翔の年」を勇躍、スタートした。

それに比べて日蓮正宗の末寺は寂しいもので、なかには元旦勤行を実施できな
かった末寺もあったようだ。

某末寺の坊主の話によると「以前は三日と四日に大石寺への初登山を実施して
いたので、全体の約半数近くの末寺では元旦に引き続いて二日にも勤行会を行
っていた。だが、平成二十六年から二日と三日に初登山を実施するように変更
になったので、二日の勤行会が出来なくなり、末寺への参詣者が減った」との
ことだ。

ところが、それで本山への初登山者が増えたかと言うと、そうでもない。

宗門関係者によると、二日の登山者数は一万数千人で、御開扉は三回。三日の
登山者数は約五千人程度だったという。宗門が「邪宗だ、謗法だ」と批判して
いる神社仏閣の参詣者の数百万人とは比較にもならないほど少ない。

この醜態を見ると、宗門の各末寺で法華講員が増えていないことが分かる。

改革同盟の渡辺雄範住職は「早瀬日如は実践した体験がないから折伏が難事中
の難事とは知らずに、お寺に連れて来るだけだから簡単だろう、と能天気なこ
とを言っていた」とのことだ。

その日如が「法華講員八十万体勢の構築」と出来もしない目標を打ち出し、令
和三年一月一日付「大白法」に掲載の「新年の辞」で「日本国内寺院所属の法
華講員の総計が八十万人を超え、見事誓願を達成することが出来ました」と突
然、発表した。

この「法華講員八十万体勢の達成」が真っ赤なウソで、無謀な打ち出しが無残
な結果に終ったことは明白だ。実際の信者数は八十万人の約二割弱で、今も低
迷しているのが実情である。



[123]

題名:師匠と我らとの関係 26(伊豆及び甲斐方面の門下に宛てられた御抄)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/12/25(水) 10:38 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 26(伊豆及び甲斐方面の門下に宛てられた御抄)


「伊豆方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 

大聖人は、弘長元(1261)年5月12日から伊豆の伊東(静岡県伊東市)に流罪され、弘長3年2月22日に赦免となるまでの2年弱、当地で苦難の生活を送られています。


「我ら衆生、無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて、『無始色心、本是理性、妙境妙智(無始の色心は、本よりこれ理性にして、妙境・妙智なり)』の金剛不滅の仏身とならんこと、あにかの仏にかわるべきや。過去久遠五百塵点のそのかみ『唯我一人』の教主釈尊とは、我ら衆生のことなり。法華経の一念三千の法門、『常住此説法』のふるまいなり。かかるとうとき法華経と釈尊にておわせども、凡夫はしることなし。寿量品に云わく『顚倒の衆生をして、近しといえども見ざらしむ』とは、これなり。迷悟の不同は沙羅の四見のごとし。一念三千の仏と申すは、法界の成仏ということにて候ぞ。(中略)
凡夫即仏なり、仏即凡夫なり。一念三千・我実成仏これなり。しからば、夫婦二人は、教主・大覚世尊の生まれかわり給いて日蓮をたすけ給うか。伊東とかわなのみちのほどはちかく候えども、心はとおし。後のためにふみをまいらせ候ぞ。」(船守弥三郎許御書 新1723-4頁・全1446頁)弘長元年6月 40歳御作
現代語訳:我等衆生は、無始よりこのかた生死海の中にありましたが、法華経の行者となって「無始の色心は本よりこれ理性にして、妙境・妙智である」と、金剛不滅の仏身となるであろうことが、どうして彼の釈迦仏に替わることでしょうか。過去久遠五百塵点のその初の唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なのです。(これが)法華経の一念三千の法門であり、仏の常住此説法の振る舞いなのです。この様な尊い法華経と釈尊なのですが、凡夫は知らないのです。寿量品にいう「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこの事をいうのです。迷いと悟りによって不同があるのは、釈尊在世の人々が沙羅林を四通りに見てきた様なものです。一念三千の仏というのは、法界の全てを成仏することなのです。(中略)
凡夫は即ち仏であり、仏は即ち凡夫です。一念三千、我実成仏とはこの事です。そうであるならば、弥三郎殿夫婦二人は教主大覚世尊が生まれ変わられて日蓮を助けらてたのでしょう。伊東と川奈の道程は近いけれども心は遠いです。後日の為に文を差し上げておきます。
※沙羅林の四見とは、沙羅林も衆生の機根・境涯により見え方が違い、像法決疑経には、①土沙草石壁、②金銀七宝の清浄荘厳せる処、③三世諸仏所行の処、④不可思議諸仏の境界にて真実の法体と見る、とあります
船守弥三郎(生没年不詳)は、伊豆伊東の川奈の漁師、大聖人が伊豆に流罪された時、夫婦揃って大聖人を外護されました。 本抄は、別名「伊豆配流事」と云い、大聖人は船守弥三郎夫妻に感謝され、御供養の功徳を述べられ、必ず成仏すると約束されています。


「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願、必ず成就せんか。」(「新田殿御書 新1725頁・全1452頁)弘安3年5月 59歳御作 新田信綱夫妻に贈る
現代語訳:経は法華経であり、顕密第一の大法(顕教・密教の二教の中で最も優れた教法)です。仏は釈迦仏であり、諸仏の中の第一の仏です。行者は法華経の行者に相似しています。三事は既に相応しています。檀那の一願は必ず成就するでしょう。
※新田四郎信綱(生没年不詳)は、伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡畑毛)に住み、日蓮正宗第三祖日目師の兄に当たります。本抄で、仏(釈迦仏)法(法華経)僧(法華経行者)の三宝(三事)が具わっている檀那の祈りは、必ず成就すると説いています。


「甲斐方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係

甲斐は甲州とも云い、現在の山梨県に当り、大聖人が佐渡配流から帰られ文永11(1274)年5月から弘安5(1282)年9月までの晩年9年間を過ごした身延(山梨県南巨摩郡身延町)も同地方に含まれます。


「日蓮、凡夫たるの故に仏教を信ぜず。ただし、このことにおいては水火のごとく手に当ててこれを知れり。ただし、「法華経の行者有れば、悪口・罵詈・刀杖・擯出せらるべし」等云々。この経文をもって世間に配当するに、一人もこれ無し。誰をもってか法華経の行者となさん。敵人は有りといえども、法華経の持者は無し。譬えば、東有って西無く、天有って地無きがごとし。仏語妄説と成る、いかん。予、自讃に似たりといえども、これを勘え出だして仏語を扶持す。いわゆる日蓮法師これなり。」(波木井三郎殿御返事 新1810頁・全1371頁)文永10年8月
現代語訳:日蓮は凡夫である為に、仏の教えを信じる事ができません。但し、ここに述べた事については、水や火の様に、手に当てて(その冷たさ、熱さがわかる様に)知ることができるのです。但し、「(末法に)法華経の行者がいるならば、悪口され、ののしられ、刀杖を加えられ、所を追い出されたりするであろう」と説かれています。この経文をもって、(現在の日本国の)世間に当てはめてみると、一人もこの文に当てはまる人はいないのです。いったい、誰を法華経の行者としたらよいのでしょうか。(法華経の行者の)敵人はいるけれど、(真実の)法華経を持つ者はいません。たとえば、東が有って西が無く、天が有って地の無い様なものです。(これでは)仏の言葉は妄説となってしまうが、どうですか。私(日蓮)が、自讃に似ているけれども、これ(法華経の行者は誰か)を考え出して仏の言葉を扶け顕わしましょう。いわゆる日蓮法師(私)が、これ(法華経の行者)なのです。 
※本抄の波木井三郎は、波木井六郎実長(貞応元年~永仁5年)と云い、甲斐源氏の末裔・甲州南部三郷(波木井・御牧・飯野)の地頭ですが、日蓮門下となり、後に入道して法寂房日円と称します。南部三郎光行の六男で南部六郎実長とも呼ばれていました。
大聖人は、本抄でも明らかに御自身が法華経の行者である事を宣言されていますね。


「貴辺は、武士の家の仁、昼夜殺生の悪人なり。家を捨てずしてこのところに至って、いかなる術をもってか三悪道を脱るべきか。能く能く思案有るべきか。法華経の心は、当位即妙・不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。天台云わく『他経は、ただ善にのみ記して悪に記せず。今経は皆記す』等云々。妙楽云わく『ただ円教の意のみ、逆即是順なり。自余の三教は逆順定まるが故に』等云々。爾前分々の得道の有無のこと、これを記すべしといえども、名目を知る人にこれを申すなり。しかりといえども、大体これを教うる弟子これ有り。この輩等を召して、ほぼこれを聞くべし。その時これを記し申すべし。」(波木井三郎殿御返事 新1813-4頁・全1373頁)
現代語訳:あなたは武家の人であり、昼夜にわたって殺生を生業とする悪人です。家を捨てず、世間を離れないまま、現在に至っては、どの様な方法で、未来に三悪道を免れる事ができるのでしょうか。よくよく思案されるべきです。法華経の本意は、「当位即妙・不改本位」といって、罪業を捨てずに、その身のまま成仏することができるのです。天台大師は文句の七に「法華経以外の他経は、但善人にのみに成仏を許して、悪人に成仏を許していない。法華経は全ての人に平等に成仏を記している」と言っています。妙楽大師も文句記の八に「ただ円教たる法華経の本意は、逆がそのまま順となるという事である。それ以外の別教、通教、蔵教すなわち爾前経は逆は逆、順は順と定まってしまっている」と言っています。爾前経に分々の得道が有るか無いかという事も、ここに記さなければなりませんが、(この問題は)仏教の名目をよく知っている人に述べています。
※武士の本業が、武闘だからといって悪人(殺生の罪)なのかどうかは別として、「法華経は万人皆成仏の法」である事を文証を引いて御教示されています。大聖人滅後、大聖人の教えに背き日興上人の身延離山の因と成る数々の謗法を犯したのは無念ですね。


「『有情は生死の六道を輪廻す』と申して、我らが天竺において師子と生まれ、漢土・日本において虎・狼・野干と生まれ、天には鵰・鷲、地には鹿・蛇と生まれしこと数をしらず。あるいは鷹の前の雉、猫の前の鼠と生まれ、生きながら頭をつつきししむらをかまれしこと数をしらず。一劫が間の身の骨は、須弥山よりも高く、大地よりも厚かるべし。惜しき身なれども、云うに甲斐なく奪われてこそ候いけれ。しかれば、今度、法華経のために身を捨て命をも奪われ奉れば、無量無数劫の間の思い出なるべしと思い切り給うべし。」(大井荘司入道御書 新1822-3頁・全1377頁)建治2年2月
現代語訳:「有情(感情や意識を持つ全ての生類)は生死六道を輪廻する」と云われ、我々がインドで師子と生まれ、中国や日本においては虎や狼や野干と生まれ、天には鵰や鷲と生まれ、地には鹿や蛇と生まれた事は数知れません。或いは鷹の前の雉や猫の前の鼠と生まれ、生きながら頭をつつかれ、肉を噛まれたりしたことも数えきれません。(こうして)一劫の間(生まれては死ぬを繰り返し)の我が身の骨は須弥山よりも高く、大地よりも厚いでしょう。惜しい我が身ですが、言うに甲斐も無いほど簡単に生命を奪われて来たのです。そうであれば、今度、法華経の為に身を捨て、命を奪われるならば、これこそ無量無数劫という長い間の、この上ない思い出となると、思い切ってください。
※大井荘司入道(生没年不明)は、甲斐源氏の流れをくむ甲斐国(山梨県)大井荘の荘務めを司る荘司であり、孫に肥前房日伝がいます。本抄は、前文で「登竜門の譬え」から成仏の難しさを、本文では「生死の六道輪廻」から法華経信徒の尊さを説いておられますね。


◎大聖人は、「賢人の習い、『三度国をいさむるに、用いずば山林にまじわれ』ということは定まるれいなり」(報恩抄 新253頁・全323頁)との古例にならって当時の幕府所在地を離れ、身延の地で広宣流布の大願を託して各地に散在している強信な弟子檀那に御文を通して折伏戦の総指揮を執られると共に、令法久住の為に御弟子の育成に尽力されたのですね。


[122]

題名:「サムさんとやら」さん 又は 「それって悪魔の証明の類でしょう」さん

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/12/19(木) 14:33 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

(いい加減な名前の人)へ

>そもそもサムなる御仁が何ら根拠なく当方を法華講員と決めつけた上で、お門違いの質問を吹っかけてきたので、こちらの見解を提示したまでのことですよ。

私を名指しして頂いた事に感謝です。
でも、私は、貴方を「法華講員さん」と決めつけて申したのではありませんよね。
「もし~ならば」とお尋ねして、「そうであればお答えください」と質問したのです。
そして、貴方の言いがかりが始まったのです。

>まもなく傘寿を迎えられるご老人に今さら物申すのも詮無いことではありますが、
特定の宗教ドグマに固執し、辻褄合わせの言葉遊びに没入する日常を虚しく思わないですか?
まるで創価学会が自分の世界のすべてになっているかのような貴方ご自身、
今日までほんとうに幸せな人生を送ってこられたと言えますでしょうか…?

〇であれば、私の体験談記事を是非見てください。
現在、年金生活ながら、ボランティア活動も含めて、充実した余生を送っていますので、ご心配なく。


>功徳は〝受ける〟ものではなく、、、
本来の語義は梵語で人徳を意味するgunaの音訳であって
功徳は自らが〝積む〟もの。見返りを求めずして他者へ施す善行の謂です。
どういうわけだか昔から大石寺系教団というか富士門流界隈では、功徳を〝御利益〟の同義語と見なす誤用が罷り通っていますね…

〇功徳について、多くの解釈があるでしょう。
仁王般若経疏巻上には「功徳とは、功に施すを功と名づけ、己に帰すを徳と云う」
勝鬘宝屈巻上には「徳は得なり、功は修めて所あるが故に功徳と名づけるなり」
法華経法師功徳品には「法華経を受持・読・誦・解脱・書写する功徳として六根清浄の果報を得る(以是功徳。荘厳六根。皆令清浄。<是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん>)」(略す)
此処から御義口伝巻下には『「功徳」とは、「六根清浄」の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「六根清浄」なり。されば、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳い有るなり。「功」も幸いということなり。または、悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。「功徳」とは、即身成仏なり。また「六根清浄」なり。法華経の説文のごとく修行するを、「六根清浄」と意得べきなり云々。』
とあります。
私は、単なる「受ける」だけの意味ではなく、「修行して自己を人間形成する」事を述べているつもりです。

日蓮仏法の私なりの解釈 3 (功徳と利益の形態 前) | 明るい未来へ弟子として生きる

個人情報の保護も大切ですが、貴方は、自身の立場やハンドルネーム(もしや「セロニアス」さん)を明らかにせず、当掲示板を何の権限も無いのに勝手に否定する事は如何なものでしょうか。


[121]

題名:小作人・散骨・セロニアスさんへ

名前:環状線 外回り 天王寺駅 

MAIL 投稿日: 2024/12/17(火) 22:40 2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615(IPv6:) (2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615)

<<たしか黒川某のツイートでは2017年末に閉業されたそうで、、、
ストリートヴューの画像を見る限り居住実態の有無も確認が難しいですね。
今どちらにお住まいか存じませんが、ずいぶん前から経済的困窮を強いられて
きたんじゃないですか?
さる筋から借金を肩代わりする条件で当該掲示板を池田原理主義者ホイホイ仕
様に改変させられたんじゃないですか? 反執行部を詐称する得体のしれない
有象無象に事実上、板を乗っ取られるような形で、>>


⇒ 板を乗っ取られるとか借金とか、何の確認もせず牛のよだれみたいに、
次から次へウソを書き連ねる、世間広しと雖もこのようなアンポンタンが
存在するとは世も終わりですな。

小作人・散骨は 黒川=れいな の何を知っているのかな?
どのような人物か、信用に足る人かどうか、
何しろ憶測、推測、思い込み、決め付け、



貴方は信用ではない人物だと断定。


[120]

題名:創価学会 非活プログ 【 即身成仏について 】 破折

名前:環状線 外回り 天王寺駅  

MAIL 投稿日: 2024/12/17(火) 18:12 2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615(IPv6:) (2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615)



「即身成仏」という語は法華経に説かれたものではありません。
言ってしまうと、「即身成仏」という概念は弘法大師空海によって
作られた造語です。

(弘法大師空海 774年〈宝亀5年〉- 835年)
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/12/08/061405


【即身成仏】
妙楽の『文句記』巻八の四には「若し即身成仏にあらずば、此の竜
女の成仏及び胎経の偈は云何が通ぜんや」とある。また、『法華経』
提婆達多品第十二に説かれる八歳の竜女の成仏について最澄の『法
華秀句』巻下・即身成仏化導勝八には「能化所化倶に歴劫無し。妙
法の経力を以て即身に成仏す」と見える。これらの釈から、即身成
仏の義は『法華経』の義によって天台家で立てた主要の法門である
ことが知られる。

(妙楽大師 711年から782年まで生きた人物)

非活プログの間違いです。



[119]

題名:小作人・散骨・セロニアスさんへ

名前:環状線 外回り 天王寺駅  

MAIL 投稿日: 2024/12/17(火) 17:33 2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615(IPv6:) (2a0a:8f40:9:2000:ef81:7a5f:dfaf:f615)



>こんな与太話を書き散らしている連中をいつまでのさばらしておきますか?
https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=10607

⇒ これが与太話なら名誉毀損!  中国共産党から暗殺されるでしょう。
  君の場合は憶測、推測、思い込み、決め付け等々与太話としている点。

 創価学会非活ブログの掲示板は何の興味もありません。小作人が一人で満足していたらよろしい。

>だいたい弘安二年(という設定)から時間が経過してるのだから後代の法主が書写に際して仏滅後の年数ぐらいは変えてくるでしょう。

⇒ 勉強不足これも憶測、推測、思い込み、決め付け、無知をさらけ出しています。

小作人・散骨・セロニアスさん、貴方は円滑な人間関係を構築するのが出来ない、
呼ばれてもいないのに横から食ってかかってひたすら意味不明の罵詈雑言を並べ立てるしか能しか持ち合わせていない。

そもそも宿坊の掲示板と小作人・散骨・セロニアスさんとは何の関係もないはず。
それともあるのですか? 

常に難癖つけてきてログ流し、恥の上塗りになるだけだから、もうやなさい。
学会の教義に間違いがあるのなら、学会本部に言いなさい。来るところが間違っています。

小作人・散骨・セロニアスさん、無意味な投稿は削除します。


[118]

題名:やはり自宅からは投稿ブロックされるな

名前:さあ宿坊こと土井庸禎さん

MAIL 投稿日: 2024/12/17(火) 16:19 118.103.63.157 (118.103.63.157)

外出先からの書き込みも難儀するね。

ほんでもって宿坊こと土井さん。あちらの掲示板、斬り捨て御免みたいなネット廃人は論外として、こんな与太話を書き散らしている連中をいつまでのさばらしておきますか?

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=10607
https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=11495

いやしくも「宿坊の掲示板」と銘打ってるんだから貴方の沽券にかかわることでしょう?
それとも所詮こいつらの同類だったんですか?貴方も。

師走で多忙なんでしばらくロム専に戻りますが、鶴首して貴方(たち)が処断を下すか否かしばらく見守ることにしませう。
横からちょっかいかけてくるアタオカは無視することにして。

さて仕事に戻るとするか…


[117]

題名:116の方

名前:それ、キャラ作ってるつもり?

MAIL 投稿日: 2024/12/17(火) 16:16 118.103.63.157 (118.103.63.157)

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/78e866k4jc/log=116

まず前半は私じゃなくて気楽非活さんのブログ内の文言への難詰のつもりだろうけど、
それなら書いた本人に直接問い質したほうがいいでしょう。
ブログのプロフィール欄に連絡先を明記してありますよ。まあ返り討ちにあうのが関の山でしょうが…

だいたい弘安二年(という設定)から時間が経過してるのだから後代の法主が書写に際して仏滅後の年数ぐらいは変えてくるでしょう。

後半部分は土井さん宛に書いたのに何で貴方がコメントするの?
もしかして貴方、宿坊=土井庸禎さんご本人なんですか? たぶん違うと思いますが。

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/08/12/000000

>ジョン・ロールズは社会を規律する正義の論理は、他者と共存するための相互の合意によって成立するものと考えました。
>正義とは自分たちの無謬性を否定し、相互の合意によって構成されなければならないものだと私は思います。

貴殿が土井さんなのか全く無関係の他人かは存じませんが、普段から教団コミュニティという「閉ざされた世界」に引きこもってしまって、異なる思想や価値観を持つ人と触れ合う機会もないから他者と共存するための相互の合意なんてまず不可能なわけです。円滑な人間関係を構築するのが困難だから。
だから呼ばれてもいないのに横から食ってかかってひたすら意味不明の罵詈雑言を並べ立てるしか能がないのでしょう。

これ以上ヘタな難癖つけてきても恥の上塗りになるだけだから、もうやめときなさい。
ネットに入り浸ってばかりいないで現実社会に根を張り、まともな対人関係が築けるよう努力したほうがいいんじゃない?

さて、土井庸禎さん。
いつまでも逃げてないで早急に決断を下しなさい。


[116]

題名:小作人・散骨・セロニアスさんへ

名前:環状線 外回り 天王寺駅

MAIL 投稿日: 2024/12/16(月) 18:53 2a02:6ea0:c132:0:86bd:27a0:9371:5cb4(IPv6:) (2a02:6ea0:c132:0:86bd:27a0:9371:5cb4)

>大石寺の法主の書写した本尊というものは基本として「戒壇本尊を書写したもの」となっているのですから、
>それを根本尊敬として本部の本尊とすることは矛盾します。

⇒ 矛盾しているのは小作人・散骨・セロニアスの方でしょう。

ちゃんと確認作業をしなさい。されたのなら判ると思うが、歴代法主書写本尊は『仏滅後二千二百三十余年之間』で、
戒壇本尊は『仏滅後二千二百二十余年之間』です。


>大石寺4世日道・『三師御伝土代』

『御伝土代』の編者は大石寺4世日道ではなく、大石寺第六世日時です。

>今はどうか知りませんが旧板では台湾独立派の関係者も絡んでたみたいですね。
>埼玉S氏の査問騒動のころ唐突に電話を寄越した後輩がいろいろ内情を探っていたようです。
>中3まで鶏の足が4本と思い込んでたのにちなんだハンネでしばらくのあいだ書き込んでいた
>のが、運営側から恫喝か脅迫を受けたのか、錯乱状態になり音信不通になってしまいました。

>いいかげん腹を括りなさい。洗いざらいぶち撒けたら済む話です。

何を言いたいのか全く判らず、理解不能です。
内容を見れば日蓮正宗、創価学会に恨みを持っているみたいだね。
いまだに親鸞上人のこと好きなの!


[115]

題名:てなわけで

名前:土井庸禎さん

MAIL 投稿日: 2024/12/16(月) 15:48 p7751126-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp (118.6.144.125)

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/78e866k4jc/log=112

黙して語らずを続ける限り、ご自分の立場を悪くするばかりですよ。
ここで時たまフェイク(ニュース)を貼り付けているだけじゃ埒が明かないでしょう。
いいかげん腹を括りなさい。洗いざらいぶち撒けたら済む話です。

↓こちらのブログ記事に目を通してみてご一考ください。

過去を認める姿勢。
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/04/17/212423

あの掲示板、今はどうか知りませんが旧板では台湾独立派の関係者も絡んでたみたいですね。
埼玉S氏の査問騒動のころ唐突に電話を寄越した後輩がいろいろ内情を探っていたようです。
中3まで鶏の足が4本と思い込んでたのにちなんだハンネでしばらくのあいだ書き込んでいた
のが、運営側から恫喝か脅迫を受けたのか、錯乱状態になり音信不通になってしまいました。

神戸・元町から滋賀県湖南市に逃亡、今は大阪・吹田市居住のようです。

https://www.facebook.com/%E7%B2%9F%E6%B4%A5%E7%B4%94%E5%B9%B3-100035305867131/

あるいは最初から運営側の撹乱工作員として私の足を引っ張るつもりだったのか…

東日本大震災の前のことですが、保田妙本寺のシンパ(?)とも頻繁に接触していた模様。

ひょっとして貴方(たち)もこいつのことご存知じゃないですか?


[114]

題名:113の方

名前:それって悪魔の証明の類でしょ

MAIL 投稿日: 2024/12/16(月) 15:47 p7751126-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp (118.6.144.125)

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/78e866k4jc/log=113

>だったら創価学会、大石寺すべての掲げる教義が根幹からデタラメと客観的証拠の
>提示が必要だと思いますが如何でしょう。

はて?・・・そんなの必要ありますか?

そもそもサムなる御仁が何ら根拠なく当方を法華講員と決めつけた上で
お門違いの質問を吹っかけてきたので、こちらの見解を提示したまでのことですよ。

根本教義が後付けで創作したものなんだから、愚にもつかない論争への所見などあろうはずもない。ただそれだけのこと。

ならば呼んでもいないのに横から割って入った貴殿に逆にお聞きしますが、
「創価学会、大石寺すべての掲げる教義が根幹からデタラメ」ではない客観的証拠を
提示していただけますか? どこまで行っても単なる個人的解釈の域を超えないものと思いますが如何でしょう?

で、仮に大石寺と派生教団ぜんぶ引っくるめて教義の根本からデタラメだとして、
貴殿にとって何か困ることでもあるのですか? 今日までの全人生が否定されるとでも???

絶対的な価値基準を措定し、ドグマへの無条件な帰依を前提とする生き方を続けている限り、
自分から世間を狭くしていく一方ですよ。

ちなみに大石寺系教義の欺瞞については主に下記のブログを参考にしております。

https://watabeshinjun.hatenablog.com/

一度目を通してみて異存があれば当人に直接メールするなどして議論すればいい。
以前、古川利明氏の書籍を引用した記事に事実誤認があったので私の方からメールで指摘したところ、素直に受け入れて記事を取り下げたこともあり、とても誠実で真摯な御人柄ですね。

何はともあれ貴殿もいまだ〝井の中の蛙〟であるとの自覚が芽生えてもいないご様子。
下の気楽非活さんの指摘にもある通り常日頃「自分たちの論理に上がってくる人間だけを相手にする」ばかりだから、そんな頓珍漢な突っ掛かり方で墓穴を掘るんじゃないですか?

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/02/13/221343

それから件の掲示板のことですが、勇気も何も、当方アクセス制限をかけられていて、投稿はおろか閲覧も串を刺さないと見られない状況なんですが(こちらの掲示板も場所によっては書き込みできなかったりしますね)外出時にWi-Fiスポットを見つけてはちょくちょくゲリラ的に書き込んでますよ。


[113]

題名:Re:土井なんとかさんへ

名前:環状線 外回り 天王寺駅

MAIL 投稿日: 2024/12/15(日) 13:58 2a02:6ea0:c12e:0:99e0:ed47:c32c:abec(IPv6:) (2a02:6ea0:c12e:0:99e0:ed47:c32c:abec)


>創価学会をはじめ大石寺系教団すべての掲げる教義が根幹からデタラメとの見解を有しておりますので

だったら創価学会、大石寺すべての掲げる教義が根幹からデタラメと客観的証拠の
提示が必要だと思いますが如何でしょう。

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/
この掲示板に書き込む勇気がおありかな?


[112]

題名:そんなことより

名前:土井なんとかさん

MAIL 投稿日: 2024/12/15(日) 11:49 fs420b3ca8.hygk112.ap.nuro.jp (66.11.60.168)

末期症状と言われて久しいが、無印板のこの酷い有り様をどう思ってらっしゃるか?
https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/

結局この手の社会不適合者が鬱憤晴らしに来ているだけの痰壷に成り果てましたな…
http://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=11495

ecoなんちゃらと貴方(たち)は長い付き合いだそうじゃないですか…

そんなこんなで閑話休題。

十年前、戒壇本尊を事実上否定する会則変更に先立ち、集団的自衛権容認の閣議決定でもって安保法制定に弾みが付いたタイミングで、その名の通り〝信濃町の人びと〟が突如現れたのを契機として執行部糾弾会場に変貌していった様子を概観すれば子供でも分かることです。

当該掲示板が不満分子や仮面活動家の回収装置、誘蛾灯のような役割で
終始一貫して信濃町官僚の管制下にあることを素直に認めたらどうです?

https://s.tabelog.com/mie/A2404/A240402/24002403/
https://navimie.com/0595-63-7565/

たしか黒川某のツイートでは2017年末に閉業されたそうで、、、
ストリートヴューの画像を見る限り居住実態の有無も確認が難しいですね。
今どちらにお住まいか存じませんが、ずいぶん前から経済的困窮を強いられてきたんじゃないですか?
さる筋から借金を肩代わりする条件で当該掲示板を池田原理主義者ホイホイ仕様に改変させられたんじゃないですか? 反執行部を詐称する得体のしれない有象無象に事実上、板を乗っ取られるような形で、、、

そんな感じで、こちらの過疎板はどうなのか知りませんが、あちら無印板では貴方がとっくの昔に管理者権限を剥奪され意のままにならない現状なのは誰の目にも明らかです。

されど曲がりなりにも貴方が開設した掲示板なら、それ相応の責任の取り方というものがあるんじゃないですか?
最後ぐらいはきちんと始末をつけなさい。すべて真相をありのままに打ち明けることです。
十年一日、定職にも就かず場末の掲示板に昼夜分かたず張り付いているような人生の落伍者たちに、貴方のほうから引導を渡してあげなさい。
それが慈悲というもんじゃないですか?


[111]

題名:いつの間にらご指名いただいたようですが

名前:サムさんとやら

MAIL 投稿日: 2024/12/15(日) 11:48 fs420b3ca8.hygk112.ap.nuro.jp (66.11.60.168)

当方、法華講なる集団とは一切無関係ゆえ、折角のご質問ですが返答を寄せる立場にはありません。悪しからず。

そもそも創価学会をはじめ大石寺系教団すべての掲げる教義が根幹からデタラメとの見解を有しておりますので、背広を着た坊主と袈裟を着たヤクザの些細な口論に関わり合う気など毛頭ございません。

まもなく傘寿を迎えられるご老人に今さら物申すのも詮無いことではありますが、
特定の宗教ドグマに固執し、辻褄合わせの言葉遊びに没入する日常を虚しく思わないですか?
まるで創価学会が自分の世界のすべてになっているかのような貴方ご自身、
今日までほんとうに幸せな人生を送ってこられたと言えますでしょうか…?

下記のブログ記事、とても参考になると思いましたので是非ご一読を。

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/08/12/000000
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/04/17/212423
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/01/30/104433
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/02/13/221343

それから、、、功徳は〝受ける〟ものではなく、、、

https://ameblo.jp/kingdog136/

下の友岡雅弥さんのツイートにもあるように
本来の語義は梵語で人徳を意味するgunaの音訳であって
功徳は自らが〝積む〟もの。見返りを求めずして他者へ施す善行の謂です。

https://x.com/MobiusRebellius/status/930615458134241280

どういうわけだか昔から大石寺系教団というか富士門流界隈では、功徳を〝御利益〟の同義語と見なす誤用が罷り通っていますね…

ひとまず私からは以上です。


[110]

題名:師匠と我らとの関係 25(佐渡方面の門下に宛てられた御抄)後

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/12/11(水) 22:54 2001:ce8:127:e3a4:35cb:ab7e:2924:56a1(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:35cb:ab7e:2924:56a1)

師匠と我らとの関係 25(佐渡方面の門下に宛てられた御抄)後


「佐渡方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編


「上ににくまれたる上、万民も父母のかたきのようにおもいたれば、道にてもまた国にても、もしはころすか、もしはかつえしぬるかにならんずらんとあてがわれてありしに、法華経・十羅刹の御めぐみにやありけん、あるいは天とがなきよしを御らんずるにやありけん、島にてあだむ者は多かりしかども、中興次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は、年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とおもわれたりし人の、『この御房は、ゆえある人にや』と申しけるかのゆえに、子息等もいとうもにくまず、その已下の者ども、たいし彼らの人々の下人にてありしかば、内々あやまつこともなく、ただ上の御計らいのままにてありしほどに、水は濁れどもまたすみ、月は雲かくせどもまたはるることわりなれば、科なきことすでにあらわれて、いいしこともむなしからざりけるかのゆえに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らいばかりにて、ついにゆり候いてのぼりぬ」(中興入道消息 新1769頁・全1333頁)弘安2年11月 58歳御作
現代語訳:お上(幕府)に憎まれている上に、万民(日本国中の人々)にも、父母の仇の様に思われているので、佐渡への道中でも、佐渡の国においても、殺されるか餓死するかでしょう、と佐渡流罪の判決を下されたのです。ところが、法華経・十羅刹女の御加護によるものでしょうか、或いは、天が日蓮に全く罪科が無い事を御覧になっていたからでしょうか。佐渡ヶ島には日蓮を憎む者は多かったのですが、中興の次郎入道という老人がおられました。この人は、年配の上に、心は賢く、身は壮健で、佐渡の人々からも尊敬を集めている人でした。この次郎入道が「日蓮という僧は、何かいわれのある人にちがいあるまい」と言ったからでしょうか、彼の子息等も日蓮をひどく憎むという事はありませんでした。それ以下の者達も、大体は、中興一族に仕える人々の下人であったから、主君の意向が浸透して、内々に日蓮に害に加えるという事も無く、ただ幕府の指示の通りにしていました。そうするうちに、水は濁っても再び澄み、月は雲に隠れてもまた晴れるのが自然の道理であるように、日蓮に罪科の無いことがもはや明白となり、自界叛逆難、他国侵逼難など、かねてから言っていたことも外れなかったからでしょうか、北条氏一門や御家人の有力者達は「日蓮の罪を許すべきではない」と強硬に主張したにもかかわらず、相模守殿の御裁決によって、ついに流罪を解かれて鎌倉にのぼったのでした。
※本抄を賜った中興入道(生没年不明)は、本文にある中興次郎入道(生没年不明)の息子で佐渡国中興(新潟県佐渡郡金井町中興)に住み、父の次郎入道が流罪中の大聖人に会って信徒となったのに随い門下となり大聖人を外護されています。大聖人は、中興一族の消極的ながら、大聖人を外護されていた事に感謝されていますね。


「貴辺は故次郎入道殿の御子にておわするなり。御前はまたよめなり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにおわすればや、故入道殿のあとをつぎ、国主も御用いなき法華経を御用いあるのみならず、法華経の行者をやしなわせ給いて、としどしに千里の道をおくりむかえ、去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて、その面に南無妙法蓮華経の七字を顕しておわしませば、北風吹けば南海のいろくずその風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿その風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。いわんや、かのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月のごとく浄土をてらし、孝養の人ならびに妻子は、現世には寿を百二十年持って、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給わんこと、水すめば月うつり、つづみをうてばひびきのあるがごとしとおぼしめし候え等云々。これより後々の御そとばにも、法華経の題目を顕し給え。」(中興入道消息 新1771頁・全1334-5頁)
現代語訳:あなたは、亡き次郎入道殿の御子息でおれます。御前はまたそのお嫁さんです。大変御賢明であられたお方の御子息とお嫁さんでおられるからでしょうか、故入道殿の御意志を継いで、国主も用いられていない法華経を信仰されるのみならず、法華経の行者である日蓮を養わせるのに、毎年毎年千里の道を往来し、幼くして亡くなられた娘御前の十三年忌には、一丈六尺の卒塔婆を建立し、その表面に南無妙法蓮華経の七文字を書き顕され、北風が吹けば南海の魚類はその風にあたって大海の苦悩を離れ、東風が来れば西山の鳥や鹿はその風を身に触れて畜生道を免れて都率の内院に生まれるでしょう。ましてや、この卒塔婆の建立に喜び、手を触れ眼に見る人々の功徳がどれほど偉大な事でしょうか。亡き父母もこの卒塔婆の功徳によって、天の日月の様に浄土を照らされ、孝養の人たるあなたおよび妻子は、現世には百二十年までも長生きして、後生には父母と共に霊山浄土に進まれるでしょう事を、水が澄めば月が映り、鼓を打てば響く様に、お考えください。これより後々の卒塔婆にも法華経の題目を書き顕しなさい。
※「民衆仏法の確立」を確信し、大聖人が出世の本懐を遂げたとされた弘安2年10月より1か月半が過ぎていますが、此処でも「楠板本尊」の記述はありません。本文では、卒塔婆自体の功徳を述べたのではなく、大聖人の御自筆ではありませんが、一大秘法である南無妙法蓮華経の七文字が書かれた事に対する功徳を述べておられるのです。


「経の文には『いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず』とも、あるいは『もし法師に親近せば、速やかに菩薩の道を得、この師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん』とも云えり。釈には『本この仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住せん』とも、あるいは云わく『初めこの仏菩薩に従って結縁し、またこの仏菩薩において成就す』とも云えり。この経釈を案ずるに、過去無量劫より已来、師弟の契約有りしか。我ら、末法濁世において、生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも、諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を、口に唱え、心に信じ、身に持ち手に翫(もてあそ)ぶこと、これひとえに過去の宿習なるか」(最蓮房御返事 新1780頁・全1340頁)文永9年4月 51歳御作 
現代語訳:法華経の文には「あらゆる諸仏の国土に常に師と共に生まれるであろう」とも、或いは「もし法師に親しく交わるならば、速やかに菩薩の道を得るであろう。この師にしたがって学ぶならば、無数の仏を拝見することができるであろう」とも説かれています。法華玄義の釈には「もとこの仏に従って初めて仏道を求める心を起こし、またこの仏に従って不退の境地に住するであろう」とも、或いは法華文句記に「初めこの仏菩薩に従って結縁し、還ってこの仏菩薩のもとで成就する」とも云われています。この経や釈を考察してみると、計り知れない過去から、師弟の約束があったのでしょうか。私達が、末法濁世において生を南閻浮提の大日本国に受け、恐れ多くも諸仏出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、心に信じ、身に持ち、手にもてあそぶ(大切に振る舞う)事は、ひとえに過去の宿習なのでしょうか。
※本抄は、最蓮房が「生死一大事血脈抄」を賜った2か月後に頂いた御抄です。此処では計り知れない師弟の因縁を述べられています。
最蓮房(生没年未詳)は、法名を日栄または日浄と云い、京都の生まれ、天台宗の学僧だったが、佐渡流罪中に大聖人に帰依し。病弱の為に説法的な弘教はできていませんが、仏法基礎をりかいされているので、大聖人から「生死一大事血脈抄」「祈祷抄」「諸法実相抄」「当体義抄」「「立正観抄」「十八円満抄」等の重要な法門御書を賜っています。大聖人身延入山後に 赦免され、京都に帰り次いで甲州(山梨県)下山に本国寺を開いたと伝えられています。


「日蓮、末法の初めの五百年に、生を日域に受け、如来の記文のごとく三類の強敵を蒙り、種々の災難に相値って、身命を惜しまずして南無妙法蓮華経と唱え候は、正師か邪師か、能く能く御思惟これ有るべく候。上に挙ぐるところの諸宗の人々は、「我こそ法華経の意を得て、法華経を修行する者よ」と名乗り候えども、予がごとく、弘長には伊豆国に流され、文永には佐渡島に流され、あるいは竜の口の頸の座等、この外種々の難、数を知らず。経文のごとくならば、予は正師なり善師なり、諸宗の学者はことごとく邪師なり悪師なりと覚しめし候え。この外、善悪二師を分別する経論の文等これ広く候えども、兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。」(最蓮房御返事 新1781-2頁・全1341-2頁)
現代語訳:日蓮が末法の初めの五百年に生を日本に受け、如来の予言の通り三類の強敵により迫害を蒙り、種々の災難にあって身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師なのか邪師なのか、よくよくお考えいただきたいです。先に挙げた諸宗の人々は、自分こそ法華経の意を心得て法華経を修行する者であると名乗っていますが、日蓮が受けた様な難には遭ってはいません。日蓮は、弘長元年には伊豆の国に流され、文永八年には佐渡の島に流され、或いは竜の口で斬首刑の座にすわる等、この他の種々の難は数えきれないほどです。経文通りであるならば、自分こそ正師であり、善師なのです。諸宗の学者はことごとく邪師であり、悪師であるとお考えください。このほか、善悪の二師を区別する経論の文等は多くあるけれども、これまでに御存知なので申し上げるまでもありません。
※本抄でも、大聖人御自身こそが、経文通りに大難を受け、正師である事を明確に宣言されていますね。


「貴辺、年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は、我がごとく正理を修行し給え。智者・学匠の身となりても、地獄に墜ちては何の詮か有るべき。詮ずるところ、時々念々に南無妙法蓮華経と唱うべし。
上に挙ぐるところの法門は、御存知たりといえども、書き進らせ候なり。十八円満等の法門、能く能く案じ給うべし。ならびに当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、前々に書き進らせしがごとく、委しくは修禅寺相伝日記のごとし。天台宗の奥義これに過ぐべからざるか。一心三観・一念三千の極理は、妙法蓮華経の一言を出でず。あえて忘失することなかれ、あえて忘失することなかれ。伝教大師云わく「和尚、慈悲有って、一心三観を一言に伝う」。玄旨伝に云わく「一言の妙旨、一教の玄義」云々。寿量品に云わく「つねに自らこの念を作す。何をもってか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得しめんと」云々。「つねに自らこの念を作す」の「念」とは、一念三千、生仏本有の一念なり。」(十八円満抄 新1803頁・全1367頁)弘安3年11月 最蓮房に与える
現代語訳:あなたは、これまでの権宗(大日経や観経などの権教を依経とする宗教)を捨てて、日蓮の弟子となられました。真実、(あなたは)国の平和・安穏を維持させるのに相応しい智人です。大局的に、私(日蓮)の弟子等は、私と同じ様に正理(正しい教え・正法)を修行していきなさい。智者・学匠の身となっても、地獄に墜ちればどうすることもできません。結局、時々(時間に応じて)・念々(思いに応じて)に南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。
上に列挙した法門は既に御存知ですが、書いて差し上げたのです。十八円満等の法門をよくよく思案されるがよいでしょう。それと共に、当体蓮華の相承等の日蓮が己証の法門等は、前々に書き贈っていた通りです。詳しい事は、修禅寺相伝日記にある通りであり、天台宗の奥義はこれ以上の物は無いでしょう。一心三観・一念三千の極理は、妙法蓮華経の一言を出ていないのです。この事を決して忘れてはなりません。重ねて決して忘れてはならないのです。伝教大師は「和尚は慈悲によって一心三観を一言で伝えた」と言い、玄旨伝には「一言の妙旨である。一教の玄義である」と言っています。法華経如来寿量品には「何をもって、衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することを得させようかと、仏は常に自ら念じているのである」と説いています。「毎自作是念」の念とは、一念三千であり、衆生と仏との本有の一念なのです。
※最蓮房に贈られた「十八円満抄」は、天台宗の奥義とされ「修禅寺相伝日記」にある十八円満の法門を解説し、成仏得道は、天台の法門ではなく南無妙法蓮華経を唱え弘教すること、と諭されています。弘安2年10月より約1年後、天台教学を知る最蓮房に鉄壁の日蓮教学を説かれているのです。最蓮房には、本シリーズで提示させて頂きました「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄」を贈られており、富木常忍に匹敵する程の知的求道者だったのでしょう。


◎大聖人は佐渡流罪中の文永9(1272)年1月16日に塚原三味堂において、念仏者や真言師等、諸宗の僧・数百人を相手にして完全論破屈伏させています(塚原問答、種々御振舞御書 新1237頁・全918頁に詳しい)。此の事が発端で佐渡中に大聖人の名前が知れ渡り、多数の信徒が生まれたと思われます。その中に阿仏房夫妻や国府入道夫妻がおられたのでしょう。彼・彼女達は、佐渡から鎌倉や身延への道のりを純朴な信心で御供養を携えて何度も往復された様です。現在では、e-mailや電話で素早く連絡・報告ができ、便利な乗り物で往来でき、御供養も簡単に送付する事ができますが、当時は死を覚悟の行動だったのでしょう。頭が下がる思いです。


[109]

題名:投稿番号 102.103 および106 の方に 

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/12/01(日) 20:06 2001:ce8:127:e3a4:28dd:9e14:2234:a4ee(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:28dd:9e14:2234:a4ee)

「やっぱり」さんと「意味不明ですな」さんは、同一人物なのでしょうか。また、「元創価の現法華講員」さんなのでしょうか。
私は、来年4月で79歳になる老年・創価学会員です。
宿坊さんは、11年前にブログを立ち上げた時の師匠なのですよ。
もし、貴方が法華講員さんならば、お聞きします。誠実にお答えください。

大石寺48世法主 日量上人 編集『富士大石寺明細誌』の記載からです。
(〇は私の所感です)
1.「本門戒壇の板大漫荼羅(楠板本尊)」(『富士大石寺明細誌』富要集5巻334頁)
〇大聖人直造とされているが、その為の証拠は何も無く、作者不明の後世の模作なのです。
2.「日蓮大聖人の肉附の歯」(『富士大石寺明細誌』富要集5巻335頁)
〇広宣流布の暁には、歯は歯肉で覆われ光を放つそうですが、国際学会に発表すれば笑い物になり、宗教の権威は全く無くなるでしょうね。
3.「文永元年の紺紙金泥の漫荼羅」(『富士大石寺明細誌』富要集5巻336頁)
〇一般には、文永8年10月の「楊枝御本尊」が最初の大聖人直造本尊とされています。
従って、「文永元年の漫荼羅」は、全くの偽物だった事が判明し、現在は宗門でも宣伝しなくなったのです。

以上の日量上人の三つの記述に対する証拠の文献提出、又は感想を是非、聞かせて頂けるでしょうか。


[108]

題名:師匠と我らとの関係 24(佐渡方面の門下に宛てられた御抄)前

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/12/01(日) 11:10 2001:ce8:127:e3a4:bc98:30e3:4f0c:f622(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:bc98:30e3:4f0c:f622)

師匠と我らとの関係 24(佐渡方面の門下に宛てられた御抄)前


「佐渡方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 前編


大聖人は、竜の口の法難後、文永8(1271)年10月10日に相模国・依智を出立し、11月1日に流罪地・佐渡(新潟県の佐渡島)塚原三味堂に入り、文永11(1274)年3月に赦免により鎌倉に向けて佐渡を出国するまで約2年5か月の間、佐渡に留まった。その間、「開目抄」「観心本尊抄」「顕仏未来記」等の多くの重要御書を御著作され、佐渡在住の幾多の門下を育成されています。今回も前・後編に分けてご紹介します。


「この曼陀羅は、文字は五字七字にて候えども、三世の諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月のごとし、地には須弥山のごとし。生死海の船なり、成仏得道の導師なり。この大曼陀羅は、仏の滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内にはいまだひろまらせ給わず。」(妙法曼陀羅供養事 新1726頁・全頁)文永10年 52歳御作 千日尼に宛てられた御書と思われる
現代語訳:この曼陀羅は、文字は五字七字であるけれども、三世諸仏の御師であり、一切の女人の成仏を約束する印文なのです。冥途ではともしびとなり、死出の山では良馬となり、天にあっては、日月の様であり、地にあっては須弥山の様なものです。生死の苦海を渡る船である。成仏得道に導く師である。 この大曼陀羅は、仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内にはいまだ広まっていないのです。
※千日尼(生没年不明)は、阿仏房日得の妻です。本抄は千日尼に与えられた御文と思われ、「曼陀羅(御本尊)は、五字七字ですが、信心した功徳として、一切衆生の導師、世の救済、病の治療の大良薬となる(取意)」と述べられています。


「いよいよ信心をはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らん者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よしにくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。「如説修行」の人とは、これなり。法華経に云わく「恐畏の世において、能く須臾も説かば」云々。悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候時、正法を暫時も信じ持ちたらん者をば天・人供養あるべしという経文なり。この度、大願を立てて、後生を願わせ給え。少しも謗法不信のとが候わば、無間大城疑いなかるべし。」(阿仏房尼御前御返事 新1730-1頁・全1308 頁)健治元年9月
現代語訳:ますます信心に励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、在家の男女や出家の僧尼が必ず憎むでしょう。憎むのならば憎んでください。(あなたは)法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任せなさい。「如説修行」の人とはこういう人なのです。法華経の見宝塔品には「恐畏の世に於いて、よくわずかの間でも説く」とあります。これは悪世末法の時、三毒強盛の悪人達が集まっている時に、正法をわずかの間でも信じ持つ者を天人が供養するであろうという経文なのです。今度は、大願を立て後生を願っていきなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城に堕ちることは疑いないでしょう。
※本抄は、阿仏房尼(千日尼)が謗法の罪報の浅深軽重について質問した御返事で、大聖人は謗法を強く戒められ、千日尼の信心と求道心を称え折伏を勧められています。


「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。もししからば、貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり。
今、阿仏上人の一身は地・水・火・風・空の五大なり。この五大は題目の五字なり。しかれば、阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、これより外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝をもってかざりたる宝塔なり。多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもえば、さにては候わず、我が身を供養し給う。我が身また三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給え。ここさながら宝塔の住処なり。経に云わく「法華経を説く処有らば、我がこの宝塔その前に涌現す」とは、これなり。あまりにありがたく候えば、宝塔をかきあらわしまいらせ候ぞ。子にあらずんば、ゆずることなかれ。信心強盛の者にあらずんば、見することなかれ。出世の本懐とは、これなり。」(阿仏房御書 新1732-3頁・全1304頁)建治2年3月 
現代語訳:末法に入って法華経を持つ男女の姿より他には宝塔はないのです。そうであるならば、貴賎上下を選ばず南無妙法蓮華経と唱える者は、そのまま我が身が宝塔であり、我が身がまた多宝如来なのです。妙法蓮華経より他に宝塔はないのです。法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経なのです。今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大です。この五大は題目の五字です。だから阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房なのです。こう信解するより他の才覚は無益です。聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔です。あなたは多宝如来の宝塔を供養しておられるのかと思えばそうではありません。我が身を供養しておられるのです。我が身がまた三身即一身の本覚の如来なのです。この様に信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。このところがそのまま宝塔の住処です。法華経見宝塔品に「法華経を説く処には、わがこの宝塔がその前に涌現する」と説かれているのはこの事です。あまりにありがたい事なので、宝塔を書き顕して差し上げます。わが子でなければ譲ってはならりません。信心強盛の者でなければ見せてはなりません。日蓮の出世の本懐とはこの(宝塔の本尊)事なのです。
※阿仏房に贈られた本抄は、別名「宝塔御書」と云い、阿仏房が御供養奉納の際、質問された宝塔涌現の意義について答えられ、「宝塔とは御本尊であり、南無妙法蓮華経と唱える者は、その身が宝塔であり多宝如来であり三身即一身の本覚の如来である」と述べられ、深い信心を愛でられています。


「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩うまれかわり給いてや、日蓮を御とぶらい給うか。不思議なり、不思議なり。この御志をば日蓮はしらず、上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ。別の故はあるべからず、あるべからず。宝塔をば夫婦ひそかにおがませ給え。委しくはまたまた申すべく候。」((阿仏房御書 新1733頁・全1304-5頁) 
現代語訳:阿仏房よ、あなたはまさしく北国の導師とも云うべきでしょう。浄行菩薩が生まれ変わって日蓮を訪ねられたのでしょうか。まことに不思議な事です。あなたの厚いお志の由来を日蓮は知りませんが、上行菩薩が御出現されその御力にお任せして頂いた事によるのでしょうか。別の理由はないででしょう。宝塔を夫婦ひそかに拝んでいきなさい。詳しい事はまた申し上げましょう。
※阿仏房は号、日得は法諱(法名)であり俗名を遠藤左衛門尉為盛と云い、もと北面の武士順徳上皇が佐渡に流された時、共に来て定住されたと伝えられています。大聖人が佐渡流罪中に、論詰しようとするが逆に折伏され、念仏を捨て、妻の千日尼と共に帰伏したとされています。以後、大聖人佐渡流罪中のご給仕に加え身延入山中にも3度尋ねられ、弘安2年3月91歳で死去されたと伝えられています。
大聖人は、阿仏房を北国の導師や浄行菩薩の生まれ変わりとまで述べられ、深い信心の称賛を越えた厚い信頼が覗われますね。


「この経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり、師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり、鷲のごとし。 (中略)
かかるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻の方便品よりうちはじめて、菩薩・二乗・凡夫、皆仏になり給うようをとかれて候えども、いまだそのしるしなし。たとえば、始めたる客人が、相貌うるわしくして心もいさぎよく、よく口もきいて候えば、いうこと疑いなけれども、さきも見ぬ人なれば、いまだあらわれたる事なければ、語のみにては信じがたきぞかし。その時、語にまかせて大いなること度々あい候えば、さては後のこともたのもしなんど申すぞかし。一切信じて信ぜられざりしを、第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり。譬えば、くろき物を白くなすこと漆を雪となし、不浄を清浄になすこと濁水に如意珠を入れたるがごとし。竜女と申せし小蛇を現身に仏になしてましましき。この時こそ、一切の男子の仏になることをば疑う者は候わざりしか。されば、この経は女人成仏を手本として説かれたりと申す。」(千日尼御前御返事 新1737-8頁・全1310-1頁)弘安元年7月 57歳御作
現代語訳:この法華経は一切経に勝れているのです。地を走る者の王であり、師子王の様です。空飛ぶ者の王であり、鷲の様です。(中略)
この様に尊い法華経という御経は、どの様な法門かといえば、第一巻の方便品第二の始めから菩薩、二乗、凡夫等が皆仏に成ると説かれていますが、まだ成仏した証拠はありません。例えば、初めて逢う客人の姿が麗しく、心も清らかで、話す言葉に疑うところがないとしても、これまで見知らない人ですから、まだ話の内容が実際に証明されなければ言葉だけでは信じ難いのです。その時、言葉通りに重要な事がたびたび証明されれば、それで後の事も信頼できるなどと言うのです。一切の人々が法華経を信じながらも信じ切れないでいたのを、第五巻の提婆達多品に即身成仏という法華経第一の肝心が説かれ。譬えば、黒い物を白くすること、漆を雪とし、不浄の身を清浄にすること、濁水に如意宝珠を入れた様なものです。竜女という小蛇を現身のまま仏に成されたのです。この時こそ、一切の男子の成仏できる事を疑う者はいなかったのです。だからこの法華経は、女人成仏を手本として、一切衆生の成仏を説かれたというのです。
※本抄は別名「真実報恩経の事」と云い、法華経こそが女人成仏の唯一の経である事を御教示されています。


「法華経第四の法師品に云わく「人有って仏道を求めて、一劫の中において、合掌し我が前に在って、無数の偈をもって讃めば、この讃仏によるが故に、無量の功徳を得ん。持経者を歎美せば、その福はまた彼に過ぎん」等云々。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候。まことしからぬことにては候えども、仏の金言にて候えば疑うべきにあらず。その上、妙楽大師と申す人、この経文を重ねてやわらげて云わく「もし毀謗せん者は頭七分に破れ、もし供養せん者は福十号に過ぎん」等云々。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにもその功徳すぎたり、また、濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は、頭七分にわるべしと云々。」(国府尼御前御書 新頁・全頁)健治元年6月 54歳御作
現代語訳:法華経第四巻の法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とあります。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末法悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れている、と説かれているのです。真実とは思えぬ事ですが、仏の金言であるから疑うべきではありません。その上、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人はその福が仏の十号に過ぎるであろう」と述べています。この釈の心は、末法の法華経の行者を供養する事は、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているという事です。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるという事です。
※国府尼(生没年不明)とは、国府入道の妻のことです。本抄では、国府尼と千日尼の御供養を感謝し、法華経法師品の文を引いて、法華経受持の讃嘆と供養の功徳を説かれています。


「人の御心は定めなきものなれば、うつる心さだめなし。さどの国に候いし時御信用ありしだにもふしぎにおぼえ候いしに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし、また国もへだたり、年月もかさなり候えば、たゆむ御心もやとうたがい候に、いよいよいろをあらわし、こうをつませ給うこと、ただ一生二生のことにはあらざるか。この法華経は信じがたければ、仏、人の子となり、父母となり、めとなりなんどしてこそ信ぜさせ給うなれ。しかるに、御子もおわせず、ただおやばかりなり。「その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」の経文のごとくならば、教主釈尊は入道殿・尼御前の慈父ぞかし。日蓮は、また御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国に候か。宿善とうとく候。」(国府入道殿御返事 新1756-7頁・全1323頁)建治2年4月 国府入道夫妻に与える 55歳御作
現代語訳:人の心は一定しないものであり、移り変わる心はとらえようがありません。佐渡の国で逢った時、日蓮の法門を信用された事でさえ、不思議に思っていましたが、この身延の地まで、夫の入道殿を遣わされたあなたの御志はまことに不思議です。また、国も遠く隔たり、年月も重なっていますので、信仰にゆるむ心も生ずるかと案じていましたが、ますます強盛な信心の姿をあらわし、功徳を積まれている事は、ただ一生、二生だけの浅い因縁ではないのでしょう。この法華経は信じ難いので、仏は、人の子となり、父母となり妻となるなどして、衆生に信じさせようとされるのです。ところであなた方には子もおられず、親ばかりです。法華経譬喩品の「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」の経文の通りならば、教主釈尊は入道殿と尼御前の慈父なのです。日蓮は、また、あなたがたの子である筈ですが、しばらく、日本国の人を助けようと、国の中央にいるのです。あなた方が前世に積んだ善業は尊いのです。
※国府入道(生没年不明)は佐渡国国府(新潟県佐渡郡真野町)の住人で、大聖人が流罪の時、弟子となり、夫婦揃って種々の御供養や外護をされ、大聖人が身延入山後も御供養を続けて、純真な信心を貫いたとされています。本文でも国府入道夫妻の御供養を喜ばれ、教主釈尊が夫妻の父であり大聖人が息子である、と夫妻の前世の善業として称賛されています。


[107]

題名:フェイク 第1778号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/11/28(木) 14:16 2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3(IPv6:) (2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3)

(発行=24.11.26)

雨の中のお会式、御練りは中止
要法寺から十七世日精が持ち込んだ茶番劇
信徒から隔絶した日蓮正宗の信仰

日蓮正宗の総本山大石寺で二十・二十一日の両日、宗門の二大行事の一つであ
るお会式を実施していたが、二日間とも冷たい雨が降り続いた。特に、初日の
午後五時半からは、宗門が「古式豊かな絵巻」等と自慢している御練りの予定
であったが、激しい雨のため中止せざるを得なかった。

 学会員がお会式に参加していた頃は晴天続きであった。だが、日顕が嫉妬に
狂って「C作戦」を強行した後、お会式の時は連続六年、降りしきる冷雨が全
山を襲い、なかでも平成四年と八年には諸天善神の強い怒りを感じさせる豪雨
のため御練りを中止した。

因みに、過去にお会式の御練りを中止したのは第六十世日開の時の昭和六年、
それに第六十二世日恭の昭和十四年に、それぞれ一度だけ前例がある。

日開は日顕の戸籍上の父親(実父は高野日深との説が有力)で、御本尊を誤写し、
日蓮大聖人の正墓は身延山久遠寺にある旨の念書を当時の文部大臣に提出した
大謗法の坊主である。

また、日恭は学会に神札を受けるように強要して、仏罰により昭和二十年六月、
大石寺の大火に包まれて焼死した。

この二人の法主は宗史に悪名を刻む極悪僧だが、六年も連続して雨に見舞われ、
二度も御練りを中止した日顕は、日開や日恭よりも更に悪辣な天魔坊主だとい
う事実を末永く記録に残す必要がある。

そして日如もまた、これら極悪坊主の仲間入りをしたと言えよう。

お会式の際、日如は寿量品の説法をするのが常だが、権威づけのために難解な
仏法用語を多用して法主だけが仏法を極めているかのように装うが、これは大
聖人の仏法を〝訓詁注釈〟の領域に封じ込め、信徒の日常生活から隔絶したも
のにしているに他ならない。

二日目の行事は午前二時三十分からの勤行衆会に始まり、同九時三十分から献
膳・読経、申し状奉読、お花くずしと続き、中心的な行事は申し状奉読である。
時の権力者に出された諫暁の書である「立正安国論」などを坊主が次々に奉読
していた。

だが、戦時中、時の権力に迎合し、国家諫暁もしないで、神札を受け、御書を
削除し、御観念文を改変した宗門が今更、少数の法華講員の前で申し状を奉読
しても何の意味もない。

お会式の翌日は快晴

大石寺でのお会式の現在の様式は京都の要法寺から持ち込まれたもので、造像
読誦論の謗法坊主・日精が第十七世になった寛永九年(一六三二年)頃に出来た、
と大石寺が認めている。

大石寺は「他宗では絶対に見ることができない本宗独特の儀式」「日蓮正宗の
歴史の長さを示す古式豊かな行事」と宣伝しているが、これは真っ赤なウソで、
要法寺や身延系寺院など邪宗の猿真似の茶番劇である。

登山者は濡れてうつむきながら下山。富士宮の地元の人達が「冷たい雨が降っ
て異常な寒さだと思っていたら、大石寺で何か行事をしていたのか」と、納得
したような顔で苦笑していた。

お会式の翌日、前日までの冷雨とは打って変わって快晴になり、白雪の富士山
が綺麗だった。



[106]

題名:はて?

名前:意味不明ですな

MAIL 投稿日: 2024/11/24(日) 16:24 118.103.63.154 (118.103.63.154)

104の文面が何の繋がりもなく102と103の返しになってませんけど???


[105]

題名:師匠と我らとの関係 23(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)後 

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/11/19(火) 22:31 2001:ce8:127:e3a4:bd12:30d9:a7da:aa58(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:bd12:30d9:a7da:aa58)

師匠と我らとの関係 23(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)後


「鎌倉方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編


「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には『もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん』ととかれて候。」(妙一尼御前御消息 新1696頁・全1254頁)健治元年5月
現代語訳:法華経を信ずる人は冬の様なものです。冬は必ず春となります。いまだかつて冬が春とならずに秋に戻ったなどという事は、聞いたことも見たこともありません。同様に、いまだかつて法華経を信ずる人が凡夫になってしまったなどという事も聞いたことがありません。法華経方便品には「もし法を聞くことができた者は、一人として成仏しない者はない」と説かれています。
※誰もが口ずさむ有名な御文ですね。 
妙一尼(生没年不明)は、強盛な信者で、妙一女・辨殿尼御前・王日女と同一人物との説や六老僧の日昭の縁者で夫も大聖人門下とされ、わずかな所領もも信仰の為に没収されるが、なおも佐渡へ身延へと下人を遣わして大聖人への供養や給仕を怠らなかったとされ、純真な信心を貫かれた女人と拝されます。


「信心と申すは別にはこれなく候。妻のおとこをおしむがごとく、おとこの妻に命をすつるがごとく、親の子をすてざるがごとく、子の母にはなれざるがごとくに、法華経、釈迦・多宝、十方の諸の仏菩薩、諸天善神等に信を入れ奉って、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、信心とは申し候なり。しかのみならず、「正直に方便を捨つ」「余経の一偈をも受けず」の経文を、女のかがみをすてざるがごとく、男の刀をさすがごとく、すこしもすつる心なく案じ給うべく候。」(妙一尼御前御返事 新1697頁・全1255頁)弘安3年5月
現代語訳:信心というのは、特別これといって難しいものではありません。妻が夫を思う様に、また夫が妻の為には命を捨てる様に、親が子を捨てない様に、子供が母親から離れない様に、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・諸天善神に信を入れて、南無妙法蓮華経と唱え奉ることを信心というのです。
※本抄は「信心本義事」と云われ、「信心とは本尊を信受し唱題すること」を、譬を挙げて「御教示されています。


「法華経は三世の諸仏発心のつえにて候ぞかし。ただし、日蓮をつえはしらともたのみ給うべし。けわしき山、あしき道、つえをつきぬればたおれず。殊に手をひかれぬればまろぶことなし。南無妙法蓮華経は死出の山にてはつえはしらとなり給え。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし。日蓮さきに立ち候わば、御迎えにまいり候こともやあらんずらん。またさきに行かせ給わば、日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべく候。このこと少しもそら事あるべからず。日蓮、法華経の文のごとくならば、通塞の案内者なり。ただ一心に信心おわして霊山を期し給え。ぜにというものは用にしたがって変ずるなり。法華経もまたまたかくのごとし。やみには灯となり、渡りには舟となり、あるいは水ともなり、あるいは火ともなり給うなり。もししからば、法華経は「現世安穏、後生善処」の御経なり。」(弥源太殿御返事 新1699頁・全1227頁)文永11年2月 53歳御作
現代語訳:法華経は三世の諸仏の発心の杖なのです。ただし日蓮を杖や柱と頼りにしても良いのです。険しい山や悪い道では杖をつけば倒れないのです。特に手を引かれるならば転ぶことはありません。南無妙法蓮華経は、死出の山では杖や柱となり、釈迦仏、多宝仏、上行等の四菩薩があなたの手を取られるでしょう。日蓮が先に霊山に立つならば、お迎えに来ることもあるでしょう。また、あなたが先にお行きになるならば、日蓮は必ず閻魔法王にも詳しく申しあげましょう。この事は少しも虚偽の事ではないのです。日蓮が法華経の文の通りならば、通塞の案内者なのです。唯一心に信心をされて霊山を期してください。銭というものは用いように依って変わるのです。法華経もまた同じです。闇には燈となり、渡りには舟となり、あるいは水ともなるのです。だからこそ、法華経は「現世安穏後生善処」の御経なのです。
※弥源太とは、鎌倉幕府の要人でもあった北条氏の一門の北条弥源太入道のことで、大聖人に帰依し太刀を供養されたお礼として本抄・別名「善悪二刀御書」が贈られています。
此の御文は、南無妙法蓮華経こそが、三世にわたってもっとも究極の仏法であることを断言されているのですね。さらに日蓮大聖人こそが、この南無妙法蓮華経の法と一体である久遠元初の自受用報身如来であることを宣言された御文と拝することができますね。


「日蓮は、いずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず。持戒・破戒にも闕けて無戒の僧、有智・無智にもはずれたる牛羊のごとくなる者なり。いかにしてか申し初めけん、上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字を、先立って、ねごとのように心にもあらず南無妙法蓮華経と申し初めて候いしほどに唱うるなり。詮ずるところ、よきことにや候らん、また悪しきことにや侍るらん、我もしらず、人もわきまえがたきか。 (中略)
ただ法華経ばかりこそ、三身円満の釈迦の金口の妙説にては候なれ。されば、普賢・文殊なりとも、たやすく一句一偈をも説き給うべからず。いかにいわんや、末代の凡夫、我ら衆生は、一字二字なりとも、自身には持ちがたし。(中略)
今、日蓮はしからず。『已今当』の経文を深くまぼり、一経の肝心たる題目を、我も唱え、人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の、自体は正直ならざれども、自然に直ぐなるがごとし。経のままに唱うれば、まがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我らが身に入らせ給わずば唱えがたきか。また、それ、他人の弘めさせ給う仏法は、皆、師より習い伝え給えり。(中略)
賢人と申すは、よき師より伝えたる人、聖人と申すは、師無くして我と覚れる人なり」(妙密上人御消息 新1708-10頁・全1239-40頁)建治2年3月 55歳御作
現代語訳:日蓮は、いずれの宗の元祖でもありません。またその流れを汲むものでもありません。持戒破戒の者でもなく、無戒の僧であり、有智、無智という概念からもかけ離れた牛羊の様な者です。それがどの様に言い始めたのか、上行菩薩が出現して弘められるべき妙法蓮華経の五字を、その出現に先立って寝言の様に心にもなく南無妙法蓮華経と申し始めたように唱えているのです。所詮、この事は良いことでしょうか。また悪い事でしょうか。私自身も知らないし、人も判定はできないでしょう。(中略)
ただ法華経だけが、三身円満の釈迦如来の金口から出た妙説です。だから普賢・文殊であっても簡単に一句一偈をも説かれなかったのです。まして末法の凡夫の我等衆生は、たとえ一字二字であっても自身には持ち難いのです (中略)。
今、日蓮はそうではありません。(法華経こそが)已今当の経文(の中で最も難信難解であり最勝であるとの信念)を深く守り、一経の肝心である題目を自分も唱え、人にも勧めています。ちょうど麻の中に生えた蓬や黒線を印した木が、それ自体は曲がっていても自然に真っすぐになる様なものです。法華経の教え通りに題目を唱えているから、曲がった心がないのです。まさに仏の御心が我らの身にお入りにならなければ唱えることはできないでしょう。また、他の人が弘められた仏法は、皆師匠から習い伝えたものです。 (中略)
世に賢人というのは、よい師匠から習い伝えた人をいうのであり、聖人というのは、師がなくて自ら悟った人のことをいうのです。
※妙蜜上人(生没年不詳)は、鎌倉くわが谷に住む方で、夫婦揃って大聖人のもとに再三供養を届けられ、激励の御手紙を頂いており、立派な信仰者であった事が想像されます。
聖人とは自ら悟った人であり、日蓮大聖人は、末法に出現された大いなる聖人なのです。私達は後世に賢人と云われる様に、師匠に応えられる行動をすべきですね。


「金はやけばいよいよ色まさり、剣はとげばいよいよ利くなる。法華経の功徳は、ほむればいよいよ功徳まさる。二十八品は正しきことはわずかなり、讃むる言こそ多く候えと思しめすべし。」(妙密上人御消息 新1713頁・全1241-2頁)
現代語訳:金は焼いて鍛えれば、増々色がよくなり、剣はとげば一層よく切れる様になります。同様に、法華経の功徳は讃嘆すればするほど、増々功徳も明らかになるのです。法華経二十八品は正しい道理を説いた箇所はわずかで、讃めた言葉ばかりが多いという事を心得ていきなさい。
※大聖人も池田先生も、誉めて激励されていますが、此れこそが法華経の指導原理の応用なのでしょうか。


「末法には法華経の行者必ず出来すべし。ただし、大難来りなば、強盛の信心いよいよ悦びをなすべし。火に薪をくわえんに、さかんなることなかるべしや。大海へ衆流入る。されども、大海は河の水を返すことありや。法華大海の行者に諸河の水は大難のごとく入れども、かえすこと、とがむることなし。諸河の水入ることなくば、大海あるべからず。大難なくば、法華経の行者にはあらじ。天台云わく「衆流、海に入り、薪、火を熾んにす」等云々。」(椎地四郎殿御書 新1720頁・全1448頁)弘長元年4月御作か?
現代語訳:末法には法華経の行者が必ず出現します。但し、大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきです。火に薪を加えるに火勢が盛んにならない事があるでしょうか。大海には多くの河水が流れ込みます。けれど、大海は河水を返すことがあるでしょうか。法華経の行者という大海に、諸河の水が大難として流れ込みますが、押し返したり、咎めたりすることは無いのです。諸河の水が入ることが無ければ大海はありません。大難が無ければ法華経の行者ではないのです。天台大師が「河水が集まって海に流れ入り、薪は火を熾んにする」というのはこの事なのです。
※椎地四郎(生没年不詳)は、駿東郡(静岡県)の門下で、四条金吾と交友があった様ですが、詳細は不明です。
難を乗り越えて(河水の流入)人格が作られ(大海の形成)、大聖人は、大難に何度も遭遇して法華経の行者である事を証明されたのですね。


「法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは、過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云わく『また正法を聞かず、かくのごとき人は度し難し』云々。この文の意は、正法とは法華経なり、この経をきかざる人は度しがたしという文なり。法師品には『もしこの善男子・善女人乃至則ち如来の使いなり』と説かせ給いて、僧も俗も、尼も女も、一句をも人にかたらん人は如来の使いと見えたり。貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。」(椎地四郎殿御書 新1720-1頁・全1448頁)
現代語訳:法華経の法門を一文一句でも、人に語ることは過去の宿縁が深いのだと思っていきなさい。法華経方便品に「亦正法を聞かず、是の如き人は度し難し」とあります。この文の意味は、正法とは法華経であり、法華経を聞かない人は救い難い、という文です。法華経法師品には「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。是の人は則ち如来の使なり(詳文)」と説かれており、僧も俗も尼も女も一句をも人に語る人は如来の使いなのです、と解釈できます。あなたはすでに俗であり、この善男子の人なのです。
※我々創価学会員の中でも、御書を拝読し妙法の素晴らしさを友人に語っている人は、大聖人が仰せの様に、「如来の使い」に間違いないですね。


◎今回ご紹介した人以外にも、鎌倉には、日蓮門下の御僧侶以外にも大学三郎、桟敷女房など、信心強盛な俗信徒が多く在住していた様ですが、今回は割愛させて頂きました。どうぞお許しください。


[104]

題名:法華講員さんですね 

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/11/19(火) 22:28 2001:ce8:127:e3a4:bd12:30d9:a7da:aa58(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:bd12:30d9:a7da:aa58)

やっぱりさん


貴方は、法華講の方ですね。所属を明確にせずに、悪態だけをつく文章が当にその事を物語っています。
然しながら、貴方の態度、表現が、貴方の将来及び衰微する宗門の将来を予知している事に気付くべきですね。

保田妙本寺の鎌倉日桜師は、日蓮正宗を「作り法門」と揶揄されておりました。
大聖人作で戒壇本尊と称した「楠板本尊」が、実は作者不明の後世の模作であると、判明しつつある現在では、日蓮正宗は元通りの田舎寺の弱小教団となってきているのです。
今考えると、学会破門・正本堂破壊の宗門の所業は、大聖人の思し召しだったのかも知れませんね。学会は「作り法門」の宗門と別れる事により、逆に世界宗教に発展しつつあるのです。


[103]

題名:だいたい察しがつくけど

名前:やっぱり

MAIL 投稿日: 2024/11/05(火) 17:00 118.103.63.158 (118.103.63.158)

https://www.asahi.com/sp/articles/ASSC5165BSC5PTIL00DM.html

この件でみな大わらわか?


[102]

題名:これって

名前:やっぱり

MAIL 投稿日: 2024/11/05(火) 16:33 118.103.63.158 (118.103.63.158)

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=11049

論調からして宿坊本人じゃねえの?
いろいろ下手な芝居打ってもすぐにバレるよ。いいかげん白状したら?


[101]

題名:師匠と我らとの関係 22(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)前

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/10/30(水) 19:10 2001:ce8:127:e3a4:8cb8:a1f3:e854:cf82(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:8cb8:a1f3:e854:cf82)

師匠と我らとの関係 22(鎌倉方面の門下に宛てられた御抄)前


「鎌倉方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 前編 


鎌倉は、大聖人が延応元(1239)年18歳から文応元(1260)年39歳の21年間、及び文永5(1268)年47歳から文永8(1271)年50歳の3年間、およそ25年の間在住した当に本陣の地であり、多くの門下が誕生しています。その中から一部ですが、私が独断で気付いた御文を御紹介します。(勝手ながら、紹介すべき御文を追加させて頂いたので、前・後編に修正させて頂きました)


「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。「前の六重は修多羅に依る」と申して、大意より方便までの六重は先の四巻に限る。これは妙解にして、迹門の心をのべたり。「今は妙解に依って、もって正行を立つ」と申すは、第七の正観、十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千これよりはじまる。一念三千と申すことは迹門にすらなお許されず。いかにいわんや、爾前に分たえたることなり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。ただし、真実の依文判義は本門に限るべし。されば、円の行まちまちなり。(中略)
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべきことは南無妙法蓮華経なり。心に存すべきことは一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には、ただ一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は、三世の諸仏、皆、南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も、因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。」(十章抄 新1665頁・全1274頁)文永8年5月 三位房に与える
現代語訳:「摩訶止観」は十章から構成されています。大意、釈名、体相、摂法、偏円、方便、正観、果報、起教、旨帰です。「前の六重は修多羅に依る」とあり、大意から方便までの六重(六章)は解了の部で、前四巻に限ります。この解了、即ち妙解は迹門の心を述べています。今、「妙解に依って以て正行を立つ」とある第七の正観章は、十境・十乗の観法の説明であり、本門の心を述べたものです。一念三千の法門はこの章から始まります。一念三千の法門は迹門にさえ許されていません。ましてや爾前の諸経には絶えてない法門なのです。一念三千の出処は略開三顕一の十如実相の文ですが、その義は本門に依っています。爾前の諸経は迹門の義に依って判ずべきであり、迹門の文は本門の義に依って判ずべきです。真実の依文判義はただ本門に限るのです。そして、円教の修行も種々あるのです。(中略)
真実の円教の修行として、常に口に唱えるべき事は、南無妙法蓮華経です。心に観ずべきは一念三千の観法です。しかしこれは、智者の行解(修行と知解のこと、仏法を修行しその教えを解了すること)です。日本国の在家信仰者は、ただ一向に南無妙法蓮華経と唱えるべきです。名称には、必ず実体にいたる徳があります。法華経に十七種の名があります。これは通名です。別名は三世の諸仏が皆、南無妙法蓮華経とつけられています。阿弥陀如来や、釈迦如来等の諸仏も因位の時の修行は、必ず心に一念三千を観じ、口に唱えたのは南無妙法蓮華経なのです。
※三位房(生没年不詳)は、大聖人の高弟の三位房日行のことで、三位公・三位殿とも呼ばれ、本抄の他に、御輿振御書、法門申さるべき様の事、教行証御書、等を賜っています。しかし、才智に溺れ大聖人の指導に背く事があり、熱原の法難頃退転し、不慮の死を遂げたと推定されます。
補足
A。天台大師の「摩訶止観」の内容:第一章「大意」は、止観全体の大意をまとめ、第二(以下「章」は略す)「釈名」は、止観の名義を明かし、第三「体相」は、止も観も共に同一法性、同一実相の寂照二面であることを述べています。第四「摂法」は、一切の諸法はことごとく実相であり、実相を体とする止観は一切法を摂することを明かし、第五「偏円」は、止観にも種々の事物があるが、爾前の止観は偏理の止観であるのに対し、法華経の止観は円頓止観である事を述べています。第六「方便」は正修止観の準備である二十五の方便行を示し、第七「正観」は、正しく一念三千を示し、その修行の方法として十境十乗の観法を立てています。第八「果報」は、発心して修行した結果として得られた感果を明かし、第九「起教」は、感果によって現れてくる衆生教化と救済の能力を示し、第十「旨帰」は、能化も所化も共に大涅槃の境地に帰入する事を明らかにしています。
B.天親(世親)の法華論・序品七成就の章では、法華経について十七種類の名を挙げています。今列挙してみると、①無量義経 ②最勝修多羅 ③方広経 ④菩薩法 ⑤仏所護念 ⑥切諸仏秘密法 ⑦切諸仏之蔵 ⑧切諸仏秘密処 ⑨生一切諸仏経 ⑩切諸仏之道場 ⑪切諸仏所転法輪 ⑫切諸仏堅固舎利 ⑬切諸仏大巧方便教 ⑭一乗経 ⑮一義住 ⑯妙法蓮華経 ⑰最上法門 の十七種です。これら全ての名は、必ずしも法華経のみに冠せられる名ではなく、他の諸経に冠せられても通用する名なので「これ通名なり」と仰せです。だが、⑯の妙法蓮華経の名は、法華経独特の名では、との疑問は残ります。確かに、天台大師は法華玄義十巻において、妙法蓮華経の五字が法華経全体の意を顕すという観点から、五字の題号を五重玄(釈名、弁体、明宗、論用、判教)に従い論じています。しかし、日蓮大聖人がその妙法蓮華経の五字の題号を〝通名〟とされたのは、釈尊の説いた文上の法華経は末法の下根・下機の衆生には相応しないからでしょう。


「かねがね申せしがごとく、日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず。いかにいわんや、その以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下してもその過有らんやと意得て、宗論すべし。 (中略 文末)
公場にして理運の法門申し候えばとて、雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず。浅ましきことなるべし。いよいよ身・口・意を調え、謹んで主人に向うべし、主人に向うべし」(教行証御書 新1676-7頁・全1282頁)文永12年3月 三位房に与える
現代語訳:機会が有るごとに言ってきた様に、日蓮が弟子等は臆病であってはなりません。彼らの依経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずる時は、爾前迹門の釈尊であっても物の数ではないのです。どうして説明すれば良いでしょうか、それ以下の等覚の菩薩など言うまでもないのです。ましてや、権宗の者どもにおいても同様なのです。法華経という大梵王の位にいるのですから、彼らを民とも下し、鬼畜などと下しても、あえて誤りではないと認識した上で法論をしていきなさい。 (中略 文末)
たとえ公場で道理に適った法門を説明したからといって、悪口を言ったり、粗暴な言葉を吐いたり、自慢気な様子は人に見せてはなりません。それはあさましい事なのです。態度にも、言葉にも、よく注意をはらって、謹んで相手に向かわなければならないのです。
※三位房は 自信家でしたが、臆病な面もありました。大聖人は見抜いておられたのです。     
前文では、少し言い過ぎの様ですが、正論からの発言だからこそ、堂々たる態度で接する事が重要なのですね。そして、文末のこの所作こそが、常識豊かな人の行動なのですね。


「法華経は『正直に方便を捨つ』等、「皆これ真実なり』等、『質直にして意柔軟なり』等、『柔和質直なる者』等と申して、正直なること弓の絃のはれるごとく、墨のなわをうつがごとくなる者の信じまいらする御経なり。糞を栴檀と申すとも、栴檀の香なし。妄語の者を不妄語と申すとも、不妄語にはあらず。一切経は皆、仏の金口の説、不妄語の御言なり。しかれども、法華経に対しまいらすれば、妄語のごとし、綺語のごとし、悪口のごとし、両舌のごとし。この御経こそ実語の中の実語にて候え。実語の御経をば、正直の者、心得候なり。今、実語の女人にておわすか。(中略)
当に知るべし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩、大梵天王・帝釈・四王等、この女人をば、影の身にそうがごとくまぼり給うらん。日本第一の法華経の行者の女人なり。故に、名を一つつけたてまつりて、不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云々。」(日妙聖人御書 新1682-3頁・全1217頁)文永9年5月 51歳御作
現代語訳:法華経は「正直に方便を捨てて」等、「皆是れ真実である」等、「意が質直で柔輭である」等、「柔和質直である者」等と説いており、正直であること、あたかも弓の絃を張った様に、墨繩をうった様な真っすぐな心の者が信ずる御経です。糞を栴檀と云い張っても糞には栴檀の香は無いのです。妄語の者を不妄語であるといっても妄語は不妄語となりませえん。一切経は皆仏の金口の説で不妄語のお言葉です。しかしながら法華経に対するならば妄語の様なもの、綺語の様なもの、悪口の様なもの、両舌の様なものです。この法華経こそ実語の中の実語なのです。実語の法華経は正直の者が信じ会得できるのです。今、あなたは実語の女人でおれるのでしょう。(中略)
まさしく知らなければなりません、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、上行菩薩、無辺行等の大菩薩、大梵天王、帝釈天王、四天王等が、この女人を影が身に添う様に守られるでしょう(あなたは、)日本第一の法華経の行者の女人なのです。それ故に名を一つ付けさせて頂き、不軽菩薩の義になぞられて。「日妙聖人」等と。
※日妙聖人(生没年不詳)は、鎌倉在住の強信者で、寡婦となったが、佐渡におられた大聖人を訪ねた純真な信心を「日本第一の法華経行者の女人」と讃え、本抄で「日妙聖人」の法号を賜っています。


「いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出でたれども、水よりもすさまじ。青きことは藍より出でたれども、かさぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはおわすれども、志をかさぬれば、他人よりも色まさり、利生もあるべきなり。」(乙御前御消息 新1690頁・全1221頁)建治元年8月 54歳御作
現代語訳:益々強盛な信心をしていきなさい。氷は水からできていますが、水よりも冷たいのです。青い色は、藍という草から生まれますが、重ねて染めれば、藍よりも色が鮮やかになります。(信仰も)同じ法華経(御本尊)ですが、信心を強く重ねていけば、他人よりも顔色もすぐれ利益もあるのです。
※乙御前とは、日妙尼(日妙聖人)の娘のことで、大聖人が、信心は修行が深まれば深まるほど強盛になると云う「従藍而青」で例えるほど、母に似て信心強盛な女人だったのでしょうね。


[100]

題名:フェイク 第1777号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/10/25(金) 17:46 2a0d:5600:5b:9000:d145:e2d:dc20:3ae7(IPv6:m247-ltd-newyork) (2a0d:5600:5b:9000:d145:e2d:dc20:3ae7)


(発行=24.10.24)

妙観講の指導教師、日顕の手先で暗躍
日蓮正宗大石寺・理境坊の小川只道が死去
謀略紙の監修や身延派とのパイプ役も

日蓮正宗大石寺の理境坊住職で妙観講の指導教師をしていた小川只道が二十一
日に入院先の病院で死去した。享年八十三歳。僧階は大僧都。二十二日午後六
時から通夜、二十三日午前九時から告別式が行われた。

 告別式の日は雨が降り続いて時折、打ち付けるような激しい雨になり、気温
は十九度、肌寒い日であった。午前八時過ぎから参列者の車両が次々に到着。
裏門の駐車場や三門の西側駐車場も満車になった。

 小川只道は昭和十六年五月十一日に生まれ、俗名は桂一。同三十八年四月に
得度。同四十七年十月に常灯坊の住職の後、同五十二年三月に理境坊の住職に
なり、同五十七年五月には大石寺理事になった。平成十一年三月には理境坊住
職を兼ねて雪山坊住職になり、同十五年四月には大石寺執事に任じられた。

 この小川は学会男子部出身の〝臨得(臨時得度)〟坊主で、男子部時代は任
用試験に二度も不合格。信仰心は薄いが、食うために頭を丸め、宗門の裏の汚
い仕事をやらされてきた。

理境坊の住職として説法しても、説得力がない、つまらないと不評で、御講の
参加者は次第に少なくなったということだ。

 以前、学会青年が五座三座の変遷、御書の刊行などを論じても、小川は何も
知らなかった。これが大僧都で大石寺の執事、理事とは唖然とする。

こんな坊主だから墓檀家の指導も満足にできないが、 日顕は小川を学会攻撃
の先兵として用いた。

平成六年十二月に宗門に復帰した元弁護士で反逆者のペテン師・山崎正友の受
け入れ先として指名したのが理境坊所属の妙観講で、〝狂言訴訟〟の信平信子
も同講に所属していた。

 また、日顕の肝いりで創刊した謀略紙「慧妙」の監修や本山警備会社「清昌」
の運営を任せていた。

今は「慧妙」の監修は辞めているが、親しく交流している身延派日蓮宗とのパ
イプ役もやっていた。

 これに関しては、いつも下劣な言葉で学会を批判している謀略紙「慧妙」が
釈明できないよう実例を示す。

平成六年十一月五日に身延僧が大石寺に参拝に来たことがあった。このことは
身延派の第一部布教師会発行「布教師會報」第二〇号(平成七年三月三十一日
付)に詳細に記録されている。
その中の「日蓮正宗総本山・大石寺研修参拝記」と題する記事は、身延派の布
教師会長で総本山久遠寺内の志摩坊住職・佐藤順映が書いたものである。

これを読むと、大石寺と身延派との親密度が窺えるので、この「大石寺研修参
拝記」の一部を紹介する。

身延僧に電話・礼状

「平成六年度本会の布教研修会が昨秋十一月五日に実施され、参加者八名と少
数だったが、充実した内容となった」と記し、大石寺参拝を大石寺内事部に事
前に通知し、承諾を得て実施したと、次のように書いている。「本会の名にお
いて、大石寺参拝の申請願書を送付して二十日も過ぎてから、当局内事部の理
事から応諾の電話を頂戴し」と明記している。

また「布教師會報」には「二時間以上に亘って懇切なる案内をしてくれた教師
から、ほどなく一通の礼状が届いた。〝皆様の暖かなお心に触れ、外はめっき
り寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げる事ができま
したことを感謝しております〟と。察するに今置かれている大石寺の立場を鮮
明に表しているものと理解するが、うがち過ぎだろうか」

このように身延僧に大石寺参拝の承諾の電話をかけ、その後も参拝に対する礼
状まで送っていたのである。

理境坊で「被害者の会」の設立の会合も

過去には「被害者の会」というのがあって、自分の不幸は全て学会のせいにす
る哀れな者たちのグループが「自由の砦」という機関紙を発行して学会を批判
していた。

この愚劣な「被害者の会」の設立準備の会合を平成六年十月に開いたのも理境
坊であった。

加えて、正本堂の解体工事について、大手建設会社が軒並み断るなか、引き受
ける業者を見つけてきたのも小川の配下である妙観講の最高幹部であったとい
う。

 このような数々の汚れた謗法行為や破壊工作を日顕は喜んでいたようだ。
 また、面白いのは小川が「道祖神」を拝んで御供養を受け取ったということ
だ。

大石寺近郊の熊久保地区 は、江戸時代の寺請制度によって、地域全体が大石
寺の信徒になった地域で、今も約三十戸の全世帯が理境坊の所属になっている。

 その地区内には神社があり、その中には「八幡宮」の扁額を中心に、第五十
三世・日盛の板曼荼羅が二体、安置され、歴代法主の御本尊を何体も持ってい
る家があるが、それらは年一回お盆の時に祀られるだけで、普段はお巻きして
ある。神棚、神札を祀っている家も多いが、小川は信心指導ができなかった。

 この地に日頃は行かない小川が平成三年八月四日、熊久保地区に出向いた。
道路の整備に伴い、道端の「道祖神」を移動させることになり、その厄払いを
するためだ。小川は「道祖神」に向かって合掌し勤行・唱題。謗法厳誡の話な
どしないで、御供養を受け取って帰った。
 
妙観講は解体か?

 こんな小川只道について特筆すべきは、当時は妙観講という名称ではなかっ
た大草一派が所属していた法道院(南池袋)の主管・早瀬日慈に誹謗中傷の限り
を尽くして昭和五十二年十二月に離籍、その大草一派を理境坊に受け入れたこ
とだ。

 大草が「編集並発行者」となって昭和五十三年一月二十五日に発刊した「法
道院信徒209名 離籍の真相」という小冊子がある。

 その「まえがき」で大草は次のように書いている。「私以下、元法道院所属
信徒二百九名は、昭和五十二年十二月二十八日付をもって日蓮正宗法華講・法
道院支部を離籍した」と述べ、法道院に対しては「隠忍自重して『悪口・批判』
することのなきよう慎んできた」と。この「隠忍自重」とは、怒りや苦しみを
じっと抑えて外に表さず、軽はずみな行動をしないこと、という意味である。

大草らは法道院に対して怒りを感じ、苦しみを味わってきたと言っているのだ。

また、離籍の真の理由を公にしなかったのは「法道院主管・日蓮正宗総監早瀬
日慈尊能化の権威・威光を傷つけ汚したくなかったがためである」と書いてい
る。

これでは諸悪の根源が法道院主管の早瀬日慈だと明言しているのと同じである。

本文で「『早瀬一族から次の猊下が出るのは当然のことだ』など、とても信じ
られぬ」等々、早瀬家を愚弄する記事も載せている。

日慈の長男である法主の日如に大草や妙観講員が心底より信伏随従しているの
かどうか、実に疑わしい。

日如は大草一派が法道院から理境坊に移籍して妙観講という名称になった経緯
を〝謀略だった〟と熟知し、日慈に「妙観講と戦いますか」と語っていた。

宗門関係者は謀略集団の妙観講の指導教師に誰がなるのか、色々と噂している
とのことだが、或いは妙観講を解体して講員を各末寺に分散するのだろうか?

大草を今年、大講頭に再任しなかった日如の才覚と決断に注目が集まる。






[99]

題名:師匠と我らとの関係 21(四条金吾に関連する御抄)後

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/10/12(土) 23:38 2001:ce8:127:e3a4:b1ba:4d12:760a:8735(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:b1ba:4d12:760a:8735)

師匠と我らとの関係 21(四条金吾に関連する御抄)後


「四条金吾に関連する御抄」における弟子との関係 後編


「経王御前のこと、二六時中に日月天に祈り申し候。先日のまぼり、暫時も身をはなさずたもち給え。その本尊は、正法・像法二時には、習える人だにもなし、ましてかき顕し奉ることたえたり。師子王は、前三後一と申して、ありの子を取らんとするにも、またたけきものを取らんとする時も、いきおいを出だすことは、ただおなじきことなり。日蓮、守護たるところの御本尊をしたため参らせ候ことも、師子王におとるべからず。経に云わく『師子奮迅の力』とは、これなり。」(経王殿御返事 新1632頁・全1124頁)文永10年8月 52歳御作
現代語訳:経王御前の事は、昼夜に日月天に祈っております。先日差し上げた御本尊は、しばらくも身から離すことなく受持していきなさい。その御本尊は、正法、像法の二時には、習い伝えた人すらいません。ましてや書き顕わした事は絶えて無かったのです。師子王は前三後一と言って、蟻の子を取ろうとする時にも、また獰猛なものを取ろうとする時にも、その勢いは、全く同じです。日蓮が守護の御本尊をしたためるのも師子王に劣らぬ姿勢によって顕したのです。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれなのです。
※経王殿(経王御前)は、四条金吾とその妻・日限女との間に生まれた娘であり、文永9年に生誕したと思われ、この年、四条金吾は、佐渡に流罪中の大聖人に娘の病気平癒の祈念をお願いし、本抄は、それに対する御返事だと思われます。大聖人は大変心配されて、御自身が全生命を注いで図顕された御本尊を四条金吾に授与されたのです。


「この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし。(中略)ただし御信心によるべし。」(経王殿御返事 新1633頁・全1124頁)
現代語訳:この曼荼羅をよくよく信じていきなさい。南無妙法蓮華経は師子吼の様なものです。どの様な病気が障害になるのでしょうか。鬼女母神、十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護する、と経文に説かれています。幸せは愛染明王の様に、福運は毘沙門天の様に備わっているのです。たとえ、どの様な場所で遊びたわむれていても、災難が起こる筈がないのです。悠々と遊行して畏れの無い事は師子王の様なのです。(中略)ただし、御信心によるのです。
※過日授与した御本尊は、強盛な信心があれば、諸天善神が守護されるので、福運に満ちた境涯に成っていくと述べられています。


「法華経の剣は、信心のけなげなる人こそ用いることなれ。鬼にかなぼうたるべし。日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云わく『顕本遠寿をもってその命となす』と釈し給う。経王御前には、わざわいも転じて幸いとなるべし。あいかまえて御信心を出だし、この御本尊に祈念せしめ給え。何事か成就せざるべき。」(経王殿御返事 新1633頁・全1124頁)
現代語訳:法華経という利剣は、信心の殊勝な人が用いてこそ役に立つのです。鬼に金棒なのです。(この御本尊は)日蓮の魂を墨に染め流して書いたのです。信じなさい。(釈迦)仏の本意は法華経です。日蓮の魂は南無妙法蓮華経以上に越えたものでは無いです。妙楽大師の法華文句記に「(此の経の)本地の遠寿を顕わすことをもってその根本となす」と解釈されています。経王御前にとっては、今の禍いも転じて幸いとなるでしょう。心して信心を奮い起こしてこの御本尊に御祈念していきなさい。何事も成就しない訳が無いのです。
※強き信心で御本尊に祈念すれば、経王御前の禍いも転じて幸せとなる、と結ばれています。本抄は、比較的短いお手紙ですが、御本尊に対する重要な御指導が多く書かれているので、続けて御文を紹介させて頂きました。宗門は、弘安2(1279)年より6年も早い文永10(1273)年の本抄の御文を楠板の戒壇本尊の文証としていますが、間違いである事は明白です。


「孔子は九思一言、周公旦は浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ給う。古の賢人なり、今の人のかがみなり。されば、今度はことに身をつつしませ給うべし。よるは、いかなることありとも、一人そとへ出でさせ給うべからず。たとい上の御めし有りとも、まず下人をごそへつかわし   99て、ないない一定をききさだめて、はらまきをきて、はちまきし、先後左右に人をたてて出仕し、御所のかたわらに心よせのやかたか、また我がやかたかにぬぎおきて、まいらせ給うべし。家へかえらんには、さきに人を入れて、とのわき、はしのした、むまやのしり、たかどの、一切くらきところをみせて入るべし。しょうもうには、我が家よりも人の家よりもあれ、たからをおしみてあわてて火をけすところへつっとよるべからず。まして走り出ずることなかれ。出仕より主の御ともして御かえりの時は、みかどより馬よりおりて、いとまのさしあうよし、ぼうかんに申して、いそぎかえるべし。上のおおせなりとも、よに入って御ともして御所にひさしかるべからず。かえらんには、第一心にふかきようじんあるべし。ここをばかならずかたきのうかがうところなり。人のさけたばんと申すとも、あやしみて、あるいは言をいだし、あるいは用いることなかれ。」(四条金吾御書 新1599-1600頁・全1175-6頁)建治4年1月 57歳御作
現代語訳:孔子は「九思一言」にあり、周公旦は(客人があれば)髪を洗っている時は三度直ぐに止めて迎え、食事中の時は三度口中の食を吐いてでも、客を待たせず応対しました。それが古の賢人であり、今の人の鏡です。だから今度は特に自重していきなさい。夜はどの様な事があっても、一人で外へ出てはなりません。たとえ主君がお呼びであっても、まず下人を主君の所に遣わして、内々確かに御主君のお呼びである事を聞き定めて後、腹巻を着て鉢巻して、先後左右に人をたてて出仕し、主君の館の近所の、あなたに心を寄せる人の館か、又は自身の館に鎧を脱ぎおいて参上しなさい。また、家へ帰る時には、先に人を家に入れて、戸の側・橋の下・厩のうしろ・高殿など、いっさい暗い所を見させてから入りなさい。火事の場合は、わが家から出火しても人の家から出火しても、財産を惜しみ、あわてて火をけすところへ近づいてはいけません。まして走り出る様な事があってはなりません。出仕から主君のお供をして帰る時は、御門の所で馬から降りて、用事がある旨を判官に言って、急いで帰りなさい。主君の仰せであっても、夜半に入ってお供して御所に長くいてはなりません。帰る時には、一層、心に深く用心しなさい。帰る機会を必ず敵が狙うからです。人が酒をあげようといっても、怪しんで、あるいは言葉を濁し、ある場合は、はっきり断わりなさい。
※九思一言とは、「九思の末に一言を出す」であり、物事の善悪・是非を充分に考慮した上でなければ言葉を出さない、という意味です。論語李氏に「孔子云く、君子に九思あり。視は明を思い、聴は聡を思い、色は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑は問を思い、忿は難を思い、得を見ては義を思う」とあり、九思は君子の九つ思いで、明・聡・温・恭・忠・敬・問・難・義です。大聖人は、四条金吾が命に及ぶ難を受けている事を知って、事細かに指導されています。


「ご所領、上より給わらせ給いて候なること、まこととも覚えず候。夢かとあまりに不思議に覚え候。御返事なんどもいかように申すべしとも覚えず候。(中略)
かの処はとのおかの三倍とあそばして候上、さどの国のもののこれに候が、よくよくその処をしりて候が申し候は『三箇郷の内に、いかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候えども、とくははかりなし』と申し候ぞ。二所はみねんぐ千貫、一所は三百貫と云々。かかる処なりと承る。なにとなくとも、どうれいといい、したしき人々と申し、すてはてられて、わらいよろこびつるに、とのおかにおとりて候処なりとも、御下し文は給わりたく候いつるぞかし。まして三倍の処なりと候。いかにわろくとも、わろきよし、人にもまた上へも申させ給うべからず候。『よきところ、よきところ』と申し給わば、またかさねて給わらせ給うべし。「わろき処、徳分なし」なんど候わば、天にも人にもすてられ給い候わんずるに候ぞ。御心えあるべし。」(四条金吾殿御返事 新1604-5頁・全1183頁)弘安元年10月 57歳御
現代語訳:御所領を主君から新たに給わったとのお知らせ、真実とも思えぬほどです。夢かと本当に不思議に思い、御返事もどの様に申し上ようかと思ったほどです。(中略)
新しい領地は、これまでの殿岡の三倍もあると言われている上に、佐渡の国の者で、この身延の地に来ていて、よくその土地を知っている者の話によると、「三箇郷の中で、いかだという所は第一の場所であって、田畑は少ないけれども、その徳分は量り知れない」ということです。二か所は年貢が千貫、一か所は三百貫と、この様な場所と聞いています。ともかく今は、同僚にも親しい人々にも捨てられ、嘲笑されているのだから、たとえ殿岡より劣っている場所であっても、ご恩を給わりたい時です。いわんや三倍の所であるという。たとえどんなに悪い土地であろうとも、悪いということを、他人やまた主君に言ってはいけません。良い所、良い場所と言っていれば、また重ねて給わる事もあるでしょう。それを悪い場所だ、徳分が無いなどと言えば、天にも人にも見捨てられてしまうでしょう。深く心得るべきです。
※本抄を「所領加増の事」とされている通り、四条金吾は、遂に、法華信仰で誤解されていた主君・江間氏から、誤解が解けて三倍の所領地を賜ったのです。でも大聖人は、慢心をする事なく自重していく様に指導されています。


「さきざき申し候いしように、「陰徳あれば陽報あり」と申して、皆人は主にうったえ、主もいかんぞおぼせしかども、わどのの正直の心に主の後生をたすけたてまつらんとおもう心ごうじょうにして、すねんをすぐれば、かかるりしょうにもあずからせ給うぞかし。これは物のはしなり、大果報はまた来るべしとおぼしめせ。また、この法門の一門、いかなる本意なきことありとも、みずきかずいわずしてむつばせ給え。大人にいのりなしまいらせ候べし。上に申すことは私のことにはあらず。外典三千・内典五千の肝心の心をぬきてかきて候。」(陰徳陽報御書 新1613頁・全1178頁)弘安2年4月 58歳御作
現代語訳:前々から申している様に「陰徳があれば陽報がある」といって、同僚等はあなたの事を主君に讒言し、主君もまた本当なのかと思われていましたが、あなたが正直な心で主君の後生をお救いしたいと思う真心が強盛であり、数年間も続いたので、この様な利生を受けることができたのです。しかしこれは物事の始まりであって、大果報はまた後に来ると思っていきなさい。またこの法門の人々とは、たとえどの様な不本意な事があっても、見ず、聞かず、言わずして仲良くしていきなさい。おだやかにして、祈っていきなさい。以上申した事は私言ではありません。外典の三千余巻、内典の五千余巻の肝心を取り出して書いたのです。
※四条金吾の所領加増という功徳には「陰徳陽報」の原理が備わっており、これを続ければ大果報もあるだろうと指導されています。


「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午時にこの法門申しはじめて、今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。その中の大難申すばかりなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。その間の大難は、各々かつしろしめせり。(中略)
仏の大難には及ぶか優れたるか、それは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば、仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏の滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人、ただ日蓮一人なり。」(聖人御難事 新1618-9頁・全1189-90頁)弘安2年10月1日 58歳御作
現代語訳:清澄寺という寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、正午の時に、この法門を唱えはじめて以来、今弘安二年まで二十七年を経過しています。釈迦は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の後に、それぞれ出世の本懐を遂げられました。その本懐を遂げられるまでの間の大難は、それぞれに言い尽くせないほどであり、今まで、しばしば述べてきた通りです。日蓮は、二十七年です。その間の大難は、既に各々がよく御存知の通りです。(中略)
これらの難は、仏の大難には及ぶか、あるいは勝れているかどうか、それは知りません。(しかし)竜樹や天親、天台、伝教は日蓮と肩を並べ難いのです。もし日蓮が末法に出現しなかったならば、仏は大妄語の人となり、多宝如来や十方の諸仏も、大虚妄の証明をした事に成ってしまうでしょう。仏滅後二千二百三十余年の間に、一閻浮提の中で、仏の御金言を助けた人は、ただ日蓮一人なのです。
※これまで大聖人御自身が多くの迫害を受けていたのに対して、教育を充分に受けてもいない熱原の農民達に直接難が及びそれにも全く動じない農民達の立派な信心の姿を知り、当時の中級社会であった武家層だけではなく農民等の民衆全般に亘って日蓮仏法が浸透したと確信して、此処に出世の本懐である「民衆仏法の確立」を宣言されたのですね。


「各々、師子王の心を取り出だして、いかに人おどすともおずることなかれ。師子王は百獣におじず。師子の子、またかくのごとし。彼らは野干のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり。
故最明寺殿の日蓮をゆるししと、この殿の許ししは、禍なかりけるを人のざんげんと知って許ししなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず。たとい大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆえに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし。月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし。我ら凡夫のつたなさは、経論に有ることと遠きことはおそるる心なし。」(聖人御難事 新1620頁・全1190頁)
現代語訳:各人は師子王の心を出して、どの様に人が威嚇しても決して恐れる事があってはなりません。師子王は百獣に恐れないのです。師子の子もまた同じです。(正法を誹謗する)彼等は、野干(狐の類)が吼えている様なものです。日蓮の一門は師子が吼えているのです。
故最明寺時頼殿が日蓮の伊豆流罪を赦免したのも、今の執権時宗殿が佐渡流罪を許したのも、日蓮に禍はなく、人の讒言によるもの、と知ったから許したのです。今後はなんと人が言っても、よく事情も聞かずに人の讒言を用いられる事は無いでしょう。たとえ、大鬼神が(味方に)付けた人であっても、日蓮を梵天・帝釈・日天・月天・四天王また天照太神・八幡大菩薩が守護されているので、罰することができないと確信していきなさい。月々日々に、信心を奮い起こしていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそれに便りを得て(襲って)来るでしょう。我々凡夫の劣っている事は、経論に誡め説かれている事でも、自分には縁のない遠い事と思い、恐れる心が無いことです。
※門下に対して、誰がどの様に傲慢に圧力をかけても、屈する事無く王者の気持ちで接しなさい、更に世間の法にも逆らえないが仏法の法則は更に厳しい、と仰せですね。
本抄は、鎌倉在住の在家門下に贈られた御文ですが、大聖人はご自身の出世の本懐として「民衆仏法の基盤確立」を明示され、最後は四条金吾が保存していきなさいと御教示された重要な御書なのです。宗門は、この御文(弘安2年10月1日著作)を大聖人の出世の本懐として楠板本尊が建立(弘安2年10月12日)された文証としていますが、時系列で考えても大きな間違いなのは明らかです。


「先度、強敵ととりあいについて御文給いき。委しく見まいらせ候。さてもさても、敵人にねらわれさせ給いしか。前々の用心といい、またけなげといい、また法華経の信心つよき故に、難なく存命せさせ給い、めでたし、めでたし。(中略)
今度の大事は、この天のまぼりにあらずや。彼の天は剣形を貴辺にあたえ、ここへ下りぬ。この日蓮は首題の五字を汝にさずく。法華経受持のものを守護せんこと、疑いあるべからず。まりし天も法華経を持って一切衆生をたすけ給う。『臨兵闘者皆陣列在前』の文も法華経より出でたり。『もし俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん』とは、これなり。}(四条金吾殿御返事 新1622-3頁・全1192頁)弘安2年10月23日 58歳御作
現代語訳:先頃、強敵と争いがあった事についてお手紙をいただき、詳しく拝見いたしました。それにしても、以前から、あなたは、敵人に狙われていたのでしょう。しかし、普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命された事は、この上もなくめでたいことです。(中略)
この度あなたが強敵から逃れられたのは、この天(摩利支天)の守護によるものでしょう。摩利支天は、あなたに剣形の大事を与え、守護したのです。この日蓮は、一切の諸天善神が守るべき首題の五字をあなたに授けるのです。法華経受持の者を守護する事は断じて疑いないのです。摩利支天自身も法華経を持って、一切衆生を助けるのです。剣形兵法の呪文である「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」の文も結局、法華経の文より出たものです。法華経法師功徳品に、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのはこの意なのです。
※本抄は別名「法華経兵法の事」であり、四条金吾は所領の加増後も、幾度も命を狙われており、常に用心して行動すべきだが、法華経を護持する事が法華経の兵法であり、何の兵法よりも最も優れていると御指南されています。


「ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし。すぎし存命不思議とおもわせ給え。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。『諸余の怨敵は、みな摧滅す」』の金言むなしかるべからず。兵法・剣形の大事もこの妙法より出でたり。ふかく信心をとり給え。あえて臆病にては叶うべからず候。」(四条金吾殿御返事 新1623頁・全1192-3頁)
現代語訳:ただ根本は心が大切なのです。日蓮があなたの事をどの様に祈ったとしても、あなた自身がこの仏法を信じなければ、濡れた火口に火を打ちかける様なもので(無駄になってしまいま)す。(従って、なお一層、自分自身を)励まして、強盛な信力を出していきなさい。過日、強敵に遭遇しながら、無事に助かった事は、全く御本尊の不思議な功力だと思いなさい。いかなる兵法よりも法華経の兵法を用いていきなさい。法華経薬王品の「諸の余の怨敵、皆悉く摧滅す」とある金言は決して空言ではないのです。兵法剣形の大事もこの妙法より出たものです。この事を深く信じていきなさい。あえて臆病では何事も叶わないのです。
※何事も剛盛な信力に加えて、臆病ではなく勇気を持つことが大切である、と大聖人は仰せです。


◎四条金吾(1230-1300)は、大聖人(1222-1282)より8歳若かったが、気象が激しく、純情で忠義の心厚き人で、武道・学問に優れ医術の心得もあったとされています。建長8年27歳頃に大聖人に帰依し、竜の口の頸の座では金吾自身も死を覚悟して御伴され、大聖人が佐渡に流罪されると佐渡の地から開目抄を賜っている。家族や自身の内情を常に大聖人に御報告され、主君江間氏を折伏された際に難を受けらたが怯む事も無く、強信をもって大聖人に御仕いされ、71歳で亡くなられたとされています。まさに我々末代信者の鏡であられたのですね。


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題名:64 

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/10/01(火) 17:17 2001:ce8:127:e3a4:b953:b72e:472f:c90e(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:b953:b72e:472f:c90e)

師匠と我らとの関係 20(四条金吾に関連する御抄)前


「四条金吾に関連する御抄」における弟子との関係 前編


通称・四条金吾は、「四条中務三郎左衛門尉頼基」と云い、父の跡を受けて北条の支族・江馬氏に仕えた武士で、龍ノ口の法難に際しては急ぎ現場に向かわれており、医師として常に大聖人のご体調を気遣われています。だから、大聖人から開目抄や聖人御難事 等の重要御書を含め最も多くの御消息文が贈られ指導されています。従って、ご紹介させていただく御文も多くなりましたので、前・後編に分けてご紹介させていただきます。


「法華経の信心をとおし給え。火をきるに、やすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え。あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや。」(四条金吾殿御返事 新1522頁・全1117-8頁) 文永9年5月 51歳御作
現代語訳:法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られません。強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人及び日本国の一切衆生の口に唄われていきなさい。人は悪名でさえも流すものです。ましてや善き名を流すのは言うまでもない事です。更に言えば、法華経の為の名においては言うまでもないのです。
※本抄は別名「煩悩即菩提の事」ですが、文末に、「左衛門尉」を唐名で「金吾」と称される事から、大聖人も「四条金吾」と呼ばれ、鎌倉方面の在家門下の中心者になっている事に大変喜ばれています。


「凡夫なれば、ややもすれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにもかくのごとく侍るに、前後も弁えざる女人なんどの、各仏法を見ほどかせ給わぬが、いか程か日蓮に付いてくやしとおぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して、日蓮よりも強盛の御志どもありと聞こえ候は、ひとえに只事にあらず。教主釈尊の各の御心に入り替わらせ給うかと思えば、感涙押え難し。」(呵責謗法滅罪抄 新1531頁・全1126頁)文永10年 52歳御作
現代語訳:凡夫なので、ややもすれば後悔する心もありました。日蓮でさえもこの様なのに、物事の前後の分別もつきかねる女性方等は、仏法を理解していない様なので、どれほどか日蓮に付き従ったことを後悔しているかと思うと、実に心苦しかったのです。ところが案に相違して、日蓮よりも強盛な信心があると聞きおよびましたが、これは全く只事ではありません。教主釈尊があなた方の心に入り替わられたのではないか、と思えて感涙押えがたいのです。
※本抄の意義は、正法を弘通する事で、謗法を呵責(相手の非を厳しく責める)して無始以来の重罪を滅しうるからです。四条金吾を大聖人ご自身よりも強き信心のある人物だと褒められていますね。


「他人なれども、かたらいぬれば命にも替るぞかし。舎弟らを子とせられたらば、今生の方人、人目申すばかりなし。妹らを女と念わば、などか孝養せられざるべき。これへ流されしには一人も訪う人もあらじとこそおぼせしかども、同行七・八人よりは少からず。上下のかても各の御計いなくば、いかがせん。これひとえに、法華経の文字の各の御身に入り替わらせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。いかなる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給えと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり。」(呵責謗法滅罪抄 新1538-9頁・全1132頁)
現代語訳:他人であっても、心から語り合えば命にも替わるのです。舎弟等をわが子とされたならば今生の味方となり、傍の目に良いのは言うまでもありません。妹達を娘と思えば、どうして孝養されない事があるでしょうか。日蓮が佐渡へ流された時には一人も訪ねてくる人はないだろうと思っていましたが、同行する者は七・八人を下らなかったのです。上下の資糧もあなた方の御計画が無ければどうにもなりません。これはひとえに法華経の文字があなた方の身に入り替って日蓮を助けているのであると思います。どの様に世間が乱れても、「あなた方を法華経・十羅刹よ助け給え」と、湿った木より火を出し、乾いた土より水を出す様に、強盛な信心で申しているのです。
※大聖人は、四条金吾に全幅の信頼を寄せておられる御文ですね。


「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり。この経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり。「則ちこれ疾く無上の仏道を得ん」は疑いなし。」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)文永12年3月 54歳御作
現代語訳:この法華経を聞いて受ける人は多いのです。でも真剣に聞き信受して、どんな大難が来てもこの法華経を常に憶い持って忘れない人はまれです。受ける事は易しいですが、持つ事は難しいのです。しかし成仏は持ち続ける事にあるのです。この法華経を持つ人は必ず難に遭遇するのだと心得て持つべきです。法華経見宝搭品の「(法華経を暫くも持つ者は)則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」事は疑いないのです。
※基本である妙法受持の難しさを述べておられます。


「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所)』云々。この文、あに自受法楽にあらずや。『衆生』のうちに貴殿もれ給うべきや。『所』とは、一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。『遊楽』とは、我らが色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。『現世安穏、後生善処』とは、これなり。」(四条金吾殿御返事 新1554頁・全1143頁)建治2年6月 56歳御作
現代語訳:一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はありません。法華経寿量品には「衆生の遊楽する所なり」とあります。この文は自受法楽の事を言っているのです。「衆生」の中にあなたが漏れることがあるでしょうか、また「所」とは、一閻浮提を示しており、日本国はその閻浮提の内にあるのです。「遊楽」とは、我々の色心、依報・正報は共に、一念三千の当体であり、自受用身の仏ではないでしょうか(だから遊楽です)。法華経をたもつ以外に遊楽はないのです。法華経薬草喩品にある「現世安穏にして、後に善処に生ず」とはこの事をいうのです。
※本抄を別名「衆生所遊楽御書」と云い、有名な「衆生所遊楽」と「自受法楽」の関係を述べられた御文です。「現世安穏・後生善処」に繋がっているのです。


「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え。」(四条金吾殿御返事 新1554頁・全1143頁)
現代語訳:苦を苦と覚り、楽を楽と開いて、苦しくても楽しくても共に南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。これこそ自受法楽(法楽を自身に受ける)ではないでしょうか。より一層、強盛の信力を出だしていきなさい。
※此処でも「自受法楽」の定義を述べられ、激励されていますね。


「賢人は、八風と申して八つのかぜにおかされぬを、賢人と申すなり。利い・衰え・毀れ・誉れ・称え・譏り・苦しみ・楽しみなり。おお心は、利いあるによろこばず、おとろうるになげかず等のことなり。この八風におかされぬ人をば、必ず天はまぼらせ給うなり。しかるを、ひりに主をうらみなんどし候えば、いかに申せども、天まぼり給うことなし。」(四条金吾殿御返事 新1565頁・全1151頁)建治2年又は同3年 55は56歳御作
現代語訳:賢人は八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのです。八風とは、利(うるおい・利益を得て潤う)・衰(おとろえ・様々に弱く損をする)・毀(やぶれ・世間から軽蔑される)・誉(ほまれ・世間から褒められる)・称(たたえ・人々から称えられる)・譏(そしり・人々から悪口をいわれる)・苦(くるしみ・身心が苦しむ)・楽(たのしみ・身心が楽しい)です。大概は、世間的利益があっても喜ばず、衰えるのを嘆かないなどということです。この八風に犯されない人を、必ず、諸天善神は守ってくださるのです。ところが道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのです。
※別名「八風抄」と云いますが、大聖人は、いよいよ四条金吾に難が襲って来たので、八風に侵されない賢人の心得を説かれておられるのです。


「竜象房、口を閉じて色を変え候いしかば、この御房申されしは、『これ程の御智慧にては、人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候いけり。苦岸比丘・勝意比丘等は、我正法を知って人をたすくべき由存せられて候いしかども、我が身も弟子檀那等も無間地獄に堕ち候いき。御法門の分斉にて、そこばくの人を救わんと説き給うがごとくならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給大聖人はわんずらん。今日より後は、かくのごとき御説法は御はからいあるべし。かようには申すまじく候えども、【悪法をもって人を地獄におとさん邪師をみながら責め顕さずば返って仏法の中の怨なるべし】と仏の御いましめのがれがたき上、聴聞の上下、皆悪道におち給わんこと不便に覚え候えば、かくのごとく申し候なり。智者と申すは、国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ。【これはいかなるひが事ありとも、世の恐ろしければいさめじ】と申されん上は力及ばず。某は文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候わず』とて立たれ候いしかば、諸人歓喜をなし、掌を合わせ、『今しばらく御法門候えかし』と留め申されしかども、やがて帰り給い了わんぬ」(頼基陳状 新1573頁・全1156頁)建治3年6月 56歳御作
現代語訳:竜象房はこれ(日蓮門下の不惜身命の弘教)を聞き口を閉じ、顔色を変えてしまったので、三位房の言ったことは「この程度の知恵では人の不審を晴らそうなどの高言は無用でしょう。昔、苦岸比丘や勝意比丘らは、自分は正法を知ったから人を救ってやろうと思っていたのですが、我が身も弟子・檀那らも共に無間地獄に堕ちました。あなたの法門の程度で多くの人を救おうなどと説法するようであれば、師檀共に無間地獄に堕ちるのではないでしょうか。今日より後は、この様な説法は考え直されるが良いでしょう。この様には言わないと思ったのですが、言わなければ『悪法をもって人を地獄に堕そうとする邪師を見ながら責め顕わさないならば、返ってそれは仏法の中の怨である』との仏の戒めに免れ難い上に、説法を聴聞している全ての人々が悪道に堕ちる事が不便に思われたので、この様に言うのです。智者というのは、国の危機を諫め、人の邪見を止めることこそ智者ではないでしょうか。あなたは、どの様な誤りがあろうとも世間が恐ろしいので諫めない、と言われる以上はどうしようもございません。もはや文殊の智慧も富楼那(ふるな)の弁説も役には立ちません」といって座を立たれると、諸人は歓喜して、掌を合わせ、「今しばらく御法門をお聞かせ下さい」と引き止めました。だが三位房は、そのまま帰られてしまいました。以上の事の他には別のことは何もありません。どうか、御推察ください。法華経を信じて仏道を願うほどの者が、どうして法門の問答の時に悪行を企てたり、悪口を旨とするでしょうか。全て、その事情の経過についてご推察下さい。
※日蓮大聖人は愛弟子の四条金吾に代わって、江間氏に陳状(主君の怒りに対する弁明書)を書かれたのが本抄です。内容は①三位公と竜象房との法論の実態を述べ②讒言者と頼基が対話すれば真相究明できる③極楽寺良観と竜象房の諸行を暴露し江間氏の誤解を糾す④主君の不義に身命を惜しまず諫める頼基こそ忠臣である⑤他宗を破折し重ねて事件の真相究明を請われて結ばれています。


「仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候。法華経には『我深く汝等を敬う』、涅槃経には『一切衆生ことごとく仏性有り』、馬鳴菩薩の起信論には『真如の法、常に薫習するをもっての故に、妄心即ち滅して、法身顕現す』、弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり。かくれたることのあらわれたる徳となり候なり。されば、御内の人々には天魔ついて、前よりこのことを知って、殿のこの法門を供養するをささえんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがためにこの病はおこれるか。上は我がかたきとはおぼさねども、一たん、かれらが申すことを用い給いぬるによりて、御しょろうの大事になりてながしらせ給うか。彼らが柱とたのむ竜象すでにたおれぬ。和讒せし人も、またその病におかされぬ。良観はまた一重の大科の者なれば、大事に値って大事をひきおこして、いかにもなり候わんずらん。よもただは候わじ。」(崇峻天皇御書 新1592頁・全1170-1頁)建治3年9月 56歳御作
現代語訳:仏法の中に、内薫外護という大事な法門があり、これは仏教の原理なのです。法華経不軽品には、「私は深くあなた達を敬う」とあり、涅槃経には「一切の衆生は悉く仏性がある」とあり、馬鳴菩薩の著わした起信論には「真如の法が常に薫習する故に、妄心が即滅して、法身が顕現するのである」と説かれ、また弥勒菩薩の著わした瑜伽論に、同じ様なことが説かれています。隠れた行動が、外に現われて徳となるのです。それゆえ江馬家の御内の人々には、天魔がついて、この内薫外護の原理で江間氏一門が正法の家人となることを知って、あなたが法華経を供養することを防ぎ止める為に、今回の竜象房等の大妄語を作り出したのです。ところが、あなたの御信心が深いので、十羅刹女があなたを護ろうとして、主君の病気を起したのでしょうか。主君はあなたを自分の仇とは思われていないが、ひとたび彼らの言う事を用いた事によって、御病気が重くなり、長引いておられるのでしょうか。彼らが柱と頼む竜象房も、既に倒れてしまった。讒言した人々も、また同じ病に侵されてしまった。良観はなお一層仏法上の大罪ある者ですから、大事件に遭遇し大事を引き起こして、法罰を蒙ることになるでしょう。よもや、只事では済まないでしょう。
※本抄は、別名「三種財宝御書」と云い、大聖人は、四条金吾の短気な性格を心配して、怒りの為に身を滅ぼした崇峻天皇の物語を引かれて戒められ、仏法修行者は自己の行動・生活において立派に振る舞わなければならない、と指導されています。


[97]

題名:フェイク 第1776号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/09/14(土) 00:36 2604:f440:8:1000:1217:5f51:4719:7314(IPv6:) (2604:f440:8:1000:1217:5f51:4719:7314)

(発行=24.09.12)

在家主導で広宣流布は進展
「慧妙」の無知と偏見による批判記事を破す
困窮する宗門を救った戸田先生の先見の明

創価学会の第二代会長・戸田先生が在家主導の広宣流布の道を開き、第三代会
長の池田先生が全世界に妙法の種を植えたことにより、日蓮大聖人の仏法は世
界宗教として百九十二ケ国・地域で花開いている。

立宗以来、誰も成し得なかった大偉業であるが、これに嫉妬して非難中傷する
しか能がない邪宗門の謀略紙「慧妙」九月一日付は、連載「創価学会の歴史改
竄を糺す」で「学会の凶暴性は発足当時から」と題して、見当違いの批判記事
を掲載しているから看過できない。

「慧妙」は学会の宗教法人認可は昭和二十七年で半世紀以上を経過しているた
め当時のことを記憶している人は少ない、と述べて、無知と偏見による批判記
事を書いているが、学会の興隆に焼きもちを焼く古狸坊主の入れ知恵だと思わ
れる。

謀略紙のいう「高圧的かつ凶暴な体質」とは寺院から離れて広宣流布の活動を
するべきだ等の戸田先生の発言を指しているのだが、質の悪い誹謗である。

戸田先生の発言は決して凶暴性などではない。日達法主が「化義の折伏は政治、
経済、文化、あらゆる方面にわたるべきであります」と述べていた通り、戸田
先生の発言は多角的な広宣流布の活動を在家主導で進めていくという意味であ
る。

これは僧侶主導では出来ない。布教活動も停滞して、疲弊している宗門の哀れ
な姿を見かねた戸田先生の先見性に富んだ意見であった。

戦後、学会草創期の宗門は困窮を極めていた。御影堂は雨漏りし、五重塔は更
に状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷んでいた。また、当時の日昇法主
の住居はバラック建てだった。

戦後の苦境時代をよく知る吉田義誠(日勇)は昭和二十二年八月に内事部理事補
を拝命した頃、食べる米はなく、来る日も来る日も芋を食べ、或いは南瓜を食
べて餓えをしのいだ、と述懐していた。

そんな状態でも僧は布教活動も何もしない、法華講員は勤行が出来ないし、折
伏も御供養も登山もしない。

そこで宗門は大石寺の観光地化を進めようとした。

こんな窮状を見た戸田先生が昭和二十七年に登山会を開始し、七十五万世帯を
目指しての折伏を推進した。

これを称えて日達法主は「登山会をすることになって初めて本山は活気づいて
きたのでございます」(昭和四十八年八月三十日、教師講習会)と述べていた。

また、五十九世の日亨上人は「学会の出現がなければ、今ごろ宗門は潰(つぶ)
れていた」と感謝された。 

戸田先生は「何のために折伏するのですか?」という会員の質問に「不幸な人、
悩んでいる人が気の毒だから折伏するのだよ」と答えていた。

池田先生の指導も同じだ。単に会員を増やすのが折伏の目的ではない。「不幸」
と「悲惨」をなくし、自他共の幸せを拡大する慈悲の行為なのである。これが
成果主義の法華講や顕正会と根本的に違う点だ。

最後に日顕の反省の言葉で結ぶことにする。「私の罪障と云はうか、(戸田)先
生の云う、いはゆる坊主根性の為か、昭和二十四年頃の私は、自らの心にある
垣根を作り、それが円融闊達にして師厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事
があったのは、今更、遺憾慚愧此の上もないのである」




[96]

題名:フェイク 第1775号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/09/02(月) 19:50 2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3(IPv6:) (2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3)

(発行=24.08.31)

日顕が本門正宗の邪僧と親交
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ⑤
「大石寺は紆余曲折、細々と生き延びた針金宗」

日蓮正宗は本山の大石寺が富士山の西南の麓に位置することを宣伝文句に転用
して「富士の清流」と称しているが、「清流」だったのは開創の当初と学会が
外護していた期間に限られる。

 大石寺の最初の内紛は、早くも第三祖・日目上人の死後に起こり、僧の本分
を忘れた者たちは相続争いや権力闘争に明け暮れ、清流は次第に濁流となり、
泥流になっていった。

 室町時代には日有上人の留守中、阿闍梨號をもっていた三人が大石寺を売却
し、同上人が帰って買い戻して三人を追放。江戸時代を経て今に至る紆余曲折
の歴史を見ると、謗施を受け、供養の金を資金に金貸し業を営むなど俗悪な処
世術で生き延びてきた。

身延派の学僧で立正大学の名誉教授などを歴任した文学博士の宮崎英修(写真
下)は平成三年の春、次のように語っていた。

「大石寺は昔から、時の権力者に諂(へつら)うなど、クネクネと曲がって細々
と生き延びてきたので、私たちは『針金宗』と皮肉を言っているのです。

しかし、大石寺は『針金宗』を誉め言葉だと勘違いして、自慢しているから滑
稽です。それに今の大石寺の阿部日顕という人は気が短くて、人の意見に耳を
傾けようとしない。器の小さい頑固者だと思う」と。横にいた宗務総長も「全
くその通りです」と苦笑していた。

大石寺は人材不足で邪宗の要法寺から造仏読誦の謗法僧・十七世日精など九人
の法主を迎えた。その後、江戸時代に第二十六世日寛上人の出現によって濁流
が一時期、浄化された。

だが、その後も問題の法主が多い。浅間神社に御本尊を納めた三十三世日元、
貧しい農民らを相手に金融業を営んでいた五十一世日英、激しい確執を続けた
五十二世日霑と五十三世日盛などは現在の宗内では余り知られていないが、法
主としてあるまじき行為だ。

また、国柱会の幹部ら謗法者に御開扉をさせた五十五世日布、日露戦争の時に
戦勝守護の御本尊と称する疑似本尊を特別に供養した「特志者」に一万幅も授
与した五十六世日応は許容できない。

更に、身延派管長の導師で読経・唱題した謗法同座の五十七世日正、御本尊を
誤写した日顕の父の六十世日開、妾狂いで背任罪の六十一世日隆(左に掲載し
た読売新聞の記事を参照) などは言語道断だ。

そして伊勢神宮の神札を受けて焼死した六十二世日恭、神本仏迹論の邪説を唱
えた小笠原慈聞を密かに僧籍復帰させた六十三世日満によって大石寺は〝富士
の濁流〟となっていた。

この謗法の山寺だった大石寺は、学会の外護によって守られた。いみじくも、
五十九世日亨上人は「学会の出現がなければ、今ごろ宗門は潰(つぶ)れていた」
と述懐。学会の出現によって、日蓮大聖人の仏法の偉大さが世界に広く証明さ
れた。学会の存在自体、御仏意の賜物といえよう。

この学会の外護により、日蓮正宗は、かつてないような興隆が見られるように
なった。

邪宗の坊主に色紙二枚を贈った日顕

だが、相承を詐称した日顕が阿部家の墓を禅寺に建立、更に「法主本仏論」を
主張するようになったことで日蓮大聖人の御精神は日蓮正宗から完全に消滅し
た。

また、日顕は学会員への御本尊下付を中止し、学会による月例登山会を添書登
山に切り替えたばかりか、平成三年十一月には学会を破門した。その結果、宗
門は凋落の一途を辿ることになったのである。

この日顕が、かつて邪僧の小野寺日了と親交を深めていた事実について述べる。

小野寺について、顕正会の浅井昭衛は「にわか坊主」と非難していたが、むし
ろ「ペテン坊主」と言った方が適切だろう。

本名は小野寺直だが、「本門正宗・富士山久遠常在院本門寺の上行院日了上人」
と名乗り、日目上人の末裔と自称し、今の大石寺の坊主はニセ坊主だと豪語す
る。「大石寺の坊主はニセ坊主だ」との表現は的を射ているが、それ以外はデ
タラメである。

日顕は、この小野寺と親交を結び、驚くことに色紙二枚に染筆(揮毫)して贈っ
ていた(下の写真参照)。

その一つは「為 小野寺直氏 見雨猛知龍大 昭和己未初秋 日顕花押」と記
し、二枚目は「為 小野寺直氏 見花盛知池深 昭和己未初秋 日顕花押」と
書いていた。

日顕が色紙に書いたのは、御書に「雨の猛きを見て竜の大なるを知り 花の盛
なるを見て池の深きことを知る」と記されており、この御文を借用したのであ
る。

「昭和己未(つちのと ひつじ)とは、昭和五十四年のことであり、日顕が相承
を詐称して七月に〝盗座〟した後の初秋、御書から抜粋した御文を揮毫して宗
教詐欺師のような邪僧に贈っていたのである。

ところが平成三年八月、全国教師講習会では予定していた「十不二門」の講義
を変更して、小野寺日了について長々と批判した。

突然の小野寺批判を不審に思った受講者も多かったようだ。

実は、この前月は添書登山に切り替え、宗門が学会に対する圧力・攻撃を強め
た時であった。こんな時に二枚の色紙に揮毫して邪僧に贈り、親しく交流して
いた事実を学会側に指摘されるのを恐れた日顕が慌てて小野寺を批判し、我が
身を守ろうとしたと思われる。

身延の坊主も参拝

今から約三十年以上も前になるが、富士宮市内の日蓮宗本源寺の僧・本間俊牽
(当時、八十三歳)は次のように語っていた。

「大石寺は昔から〝争いの寺〟なんて言われていましたがね。それで貧しくて
ね。今は学会のお陰で大石寺の坊さん達も皆、経済的に太ってますがね。私は
昭和の初め頃ですが、えー、五年間ほど大石寺へ時々、通っては御開扉を受け
てました。向こうの方から頼まれて行っていたんですよ」

本間が御宝蔵に行く度に大石寺の高僧と一緒に参拝し、親しく懇談したほか、
資料なども寄贈して貰ったことがあるとのことだ。

この本間は六十二世日恭の板本尊が安置された大石寺近郊の文殊堂で毎年八月
に勤行、これには法華講員も参加していた。これが実態である。 (この項、
終り)







[95]

題名:フェイク 第1774号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/09/02(月) 19:36 2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3(IPv6:) (2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3)

(発行=24.08.30)

大石寺と身延派は相互に参詣
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ④
久遠寺の林蔵房を大石寺用の宿坊に

日蓮正宗の謀略紙「慧妙」八月一日付の連載「創価学会の歴史改竄を糺す」欄
で「創価学会が行き着く日蓮宗との〝同化〟」と題し、批判記事を掲載してい
る。

 同紙は初めに「本年五月号より、『創価新報』の紙面が一新した。その紙面
たるや、宗教関係の新聞には見えない」と書いているが、笑止 ! 宗教関係
の新聞には見えないのは「慧妙」の方である。

 毎号、下手な屁理屈ばかり並べて他教団を誹謗中傷する下劣な「慧妙」は宗
内でも嫌われ、世間の人には恥ずかしくて見せられない、という声も聞かれる。

早稲田大学から博士号を授与されたことにより日蓮正宗の僧籍を離れた花野充
道氏は「『慧妙』は最高裁で原告者への賠償が確定した」「宗門が国法の下で
布教をしている以上、国法を犯した出版物を存続させることは、広宣流布の妨
げである」と述べている。

さて、学会が日蓮宗との〝同化〟等と批判している「慧妙」だが、昔から日蓮
宗と〝同化〟しているのは日蓮正宗である。

本紙前号の1773号で詳述した通り、日蓮宗各派と同調して大師号を哀願し
たのは五十七世の阿部日正であった。

また、身延山久遠寺への「立正」の勅額降賜に賛成し、日興上人の身延離山の
精神に違背して「大聖人の正墓は身延にある」旨の「念書」を書いて、当時の
文部大臣に提出したのは日顕の父で六十世の阿部日開であった。

「慧妙」は「学会が行き着く日蓮宗との〝同化〟」等と非難する前に、大師号
請願の際の法主の謗法同座、及び「立正」の勅額降賜に際しての「念書」につ
いて釈明せよ。

今も大石寺は身延派坊主らの来訪には柔軟、寛容であるばかりか、日蓮正宗の
僧俗が盛んに身延派の寺院に行って参拝している。

昔から身延派と
〝親戚付き合い〟

事実、大石寺は身延派とは昔から〝親戚付き合い〟を続けていた。
その証拠に身延山久遠寺は江戸時代に「各門流の登山参詣の際の宿院(坊)」を
定めており、大石寺用の宿坊としては「林蔵坊」を用意していた(左の図を参
照)。それだけ昔から大石寺の僧らが身延に登山・参詣していたということで
ある。

ところが、昭和二十七年に学会員が登山するようになってからは表面上、大石
寺は身延派とは疎遠を装い、特に昭和三十年三月、学会が小樽法論で身延派を
粉砕して以来、両派の交流は途絶えたかのように見えた。

だが、平成三年に悩乱した日顕が波木井実長を絶賛してからは、大石寺と身延
派が急接近して、相互に登山・参詣するなど親密の度合いを増したのだ。

本号では「日蓮正宗の謗法行為」の集大成として、これまでの日蓮正宗と身延
派との親交の主な足跡を列挙する。

但し、余り多いので紙数の関係上、恒例行事となっている法教院の所化の邪宗
巡りなどは割愛し、主な邪宗巡りに限定する。

◆平成六年四月二十四日、東京・華王寺(当時の住職は前川慈肇・故人)がバ
スをチャーターし、三十人余の法華講員と住職の女房も参加して鏡忍寺、清
澄寺、誕生寺の順に身延派の本山格の三カ寺を巡拝した。

◆平成六年十月八日、落合尊福は長野県・信盛寺の法華講員を引き連れて佐渡
に渡って謗法巡り。一行は身延派の妙宣寺、根本寺などを巡拝。講員は賽銭
箱にお金を入れて合掌していた。

◆「?作戦」について謀議(平成二年七月)した七人の中の一人である関快道は
平成七年三月十二日、都内狛江市・仏寿寺の二十数名の法華講青年部や女房
の貞子らを率いて千葉の誕生寺、清澄寺などの寺院を巡拝した(写真左)。こ
れは平成五年の佐渡、翌六年の東北方面に続く三度目の謗法の寺への参詣だ
った。

◆平成七年八月二十日、総講頭・柳沢喜惣次(故人)は、阿部信彰(当時)が住職
をしていた府中市・大修寺の法華講員約二十人を連れて身延山に参詣(写真。
左が柳沢)。夜は宴会に興じた。

◆平成九年四月十八日、大石寺の無任所教師七人が西山本門寺の虫払いに酒や
菓子折りなど御供養の品々まで持参して参詣した。

◆平成九年五月十・十一日、横浜市・応顕寺の舟橋が講員を引き連れて佐渡の
根本寺、妙宣寺、世尊寺、妙照寺などを巡拝した。

◆平成九年八月十七日、東京・宣徳寺の所化二人に引率された法華講員が鎌倉
の龍口寺、極楽寺、収玄寺、妙本寺、安国論寺、妙法寺などの邪宗巡りをし
た。

◆平成九年九月十・十一日、東京・華王寺の一行が「佐渡研修旅行様」のバス
に乗り、一泊二日の日程で佐渡の邪宗寺院を巡拝した。

身延僧らを歓迎

 一方、大石寺を訪問した身延僧らを役僧が歓迎し、歓待していた。

◆平成六年十一月五日に身延派の布教師会一行が大石寺を参拝した。

◆平成七年六月六日、大石寺に「池上鶴林会」なる団体バスが到着。乗ってい
たのは日蓮宗大本山の池上本門寺貫首・田中日淳ら三十二人で、参拝のため
登山してきた(写真)。この一行を歓迎して案内したのは袈裟衣を身に着けた
高野日海(故人)だった。

高野は池上本門寺の貫首ら一行を丁重に出迎えて広布坊、三門から大客殿、御
影堂、正本堂、五重塔まで大石寺内をくまなく案内した後、蓮葉庵で手厚く接
待した。

◆平成九年七月十五日には、身延山の坊主十数人が大石寺と妙蓮寺を訪れ参拝
した。

◆平成九年九月十七日には身延僧約三十人が大石寺に参詣。大石寺坊主の案内
で正本堂などを見学し、御影堂内では身延僧が合掌・参拝した。

◆平成九年十一月十九日に伊豆長岡の身延派日蓮宗の一行が大石寺を訪問。法
衣を着た僧が約五十人の信者を連れて来て参詣した。

◆平成十二年九月二十八日には「身延山大学校」の学生が大石寺に参詣した。

◆平成十二年十二月六日、身延の坊主十七人が大石寺を訪れて客殿や御影堂な
どを見学し参拝した。

◆平成十四年十一月二十六日にも他宗坊主二十数人が大石寺に参詣した。

◆平成十六年四月十三日に 身延僧が大石寺に参詣した。(紙面の都合で以下、
省略)






[94]

題名:フェイク 第1773号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/08/29(木) 18:47 2605:6440:2000:4000:45be:15bf:80fb:9206(IPv6:) (2605:6440:2000:4000:45be:15bf:80fb:9206)


(発行=24.08.26)

五七世法主、身延派管長の導師で勤行
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ③
阿部日正が日蓮宗各派の管長と記念撮影

日蓮正宗の僧俗の謗法行為は数多いが、なかでも第五十七世・阿部日正が日蓮
門下の各派管長と同座し、身延派日蓮宗管長の磯野日筵(写真左)の導師で勤行
・唱題した事実は驚愕する。

日蓮門下の各派管長は大正十一年九月、宗祖の日蓮大聖人に対して天皇陛下か
ら「大師」号を賜りたいと哀願した。これを発案して中心となって運動したの
は顕本法華宗管長の本多日生だった。

大正十一年八月四日、日生は国柱会館で田中智学に面会し、諡号宣下について
意見を聞いた。智学の賛同を得た日生は、日蓮門下の各派管長に交渉し、親交
のあった名士たちの協力も得て、九月十一日付で宮内大臣宛ての請願書を文部
大臣経由で提出した。大師号降賜請願書に署名した各派管長は以下の通り。

日蓮宗管長 河合日辰
日蓮正宗管長 阿部日正
顕本法華宗管長 本多日生
本門宗管長 瀬島日濟
本門法華宗管長 尾崎日暲
法華宗管長 津田日彰
本妙法華宗管長 清瀬日守
日蓮宗不受不施派管長 釋日解

日蓮宗不受不施講門派管長事務取扱 佐藤日柱(名称は当時のもの)および在
家の賛同者十一人(東郷平八郎、加藤高明、床次竹二郎、小笠原長生、犬養毅、
田中智学、佐藤鉄太郎など)の名前が記されていた。

十月十日、宮内省から日生に通知が届いた。そこには「日蓮宗宗祖日蓮へ諡号
宣下候間来ル十三日午前十時参省可有之候也」と記してあった。

十三日、各宗派の管長、管長代理の八人が皇居に参内し、宣下書(右の写真参
照)を受け取った。

この後、宮内省を退出した各派の管長らは築地水交社に移った。この水交社で
奉戴式を行い、日蓮宗管長の磯野日筵(請願時の管長の河合日辰は交代)を導
師として後の七人がそれに従って寿量品を読経し唱題したのだ。

邪宗門の謀略紙「慧妙」は以前、日正は同座しても勤行はしていない等とデタ
ラメな弁解をしていたが、当時の資料によると、勤行した後、日正が挨拶した
ことも記録されている。

この日、宣下書を拝受した各派の管長および管長代務者が揃って記念撮影した
のが右に掲載した写真である。

日蓮正宗の阿部日正が日蓮宗各派管長の邪僧らと仲睦まじく記念撮影に納まっ
ており〝謗法同座〟の動かぬ証拠である。

写真は前列右から顕本法華宗管長の本多日生、日蓮正宗管長の阿部日正、日蓮
宗管長の磯野日筵、本門法華宗管長の尾崎日暲で、後列は本門宗、法華宗、本
妙法華宗、日蓮宗不受不施派の代表である。

日正が日蓮宗各派の管長らと記念撮影
……………………
日蓮宗各派といえば大聖人の法義を破り、獅子身中の虫となった宗派である。
その管長と勤行をすることは「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」と
の日興上人の御遺誡に背く謗法行為であることは明白だ。

大師号の請願運動は日蓮正宗が身延派を〝本家〟を仰いでいる事実を浮き彫り
にしている。

日開が「大聖人の正墓は身延に」と念書

日蓮正宗の法主が身延派日蓮宗に迎合しての謗法行為は続いた。昭和六年十月
の大聖人の第六百五十遠忌を前にして、身延派日蓮宗では大聖人の大師号であ
る「立正」の文字を認めた

 日興上人の離山の精神に違背する大謗法

昭和天皇の勅額を身延山久遠寺に下賜して貰う計画を進めていた。身延派は天
皇の「立正」の勅額(写真左)を得て、日蓮宗各派の中心であることを示そうと
画策したのだ。

昭和六年四月、身延山久遠寺住職・岡田日帰の名で宮内大臣と文部大臣に請願
書を提出した。

すると宮内省及び文部省は、揉め事が絶えない日蓮宗各派が後で争わないよう
に勅額降賜の条件として、他の日蓮宗各派が大聖人の墓が身延山にあることを
認め、身延山への勅額降賜に賛成することを証明する「念書」の提出を求めた。

身延派は庶務部長を日蓮宗各派に派遣し、念書を集めて回った。

この時、日蓮正宗管長の阿部日開(写真下)を含む各派管長が文部大臣に提出し
た「念書」の文面は、次の様なものであった。
……………………
 「 念  書
宗祖日蓮聖人立正大師六百五十遠忌ニ際シ 御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住
職 岡田日帰ヨリ及請願候 立正大師勅額御下賜ノ件ハ 本宗ニ於テモ異議無
之候條 速ニ御下賜有之候様 御取計相成度候也
 昭和六年六月十二日
 日蓮正宗管長
     阿部日開 印
文部大臣 田中隆三殿」
……………………
この念書で大問題なのは「御廟所在地山梨県身延山久遠寺」の一文である。

この念書は大聖人の墓が身延山にあり、身延派日蓮宗こそが大聖人門下の各宗
派の〝本家〟であることを確認させる意味合いをもっていた。

この確認に対して日開は、いとも簡単にこれに同意し、署名、押印した。

日開の身延正墓の承認は、日興上人の身延離山の御心境を踏みにじる大謗法行
為であり、権力に迎合する日蓮正宗の体質を露呈している。

宗門の脆弱な保身体質が開戦時の日恭の好戦的な「院達」、戦時中の神札受諾、
そして戦後の「大石寺の観光地化計画」になって表れた。 (つづく)







[93]

題名:フェイク 第1772号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/08/29(木) 15:43 2001:ac8:28:f000:c1ba:e551:e68e:fe6a(IPv6:m247-ltd-zurich) (2001:ac8:28:f000:c1ba:e551:e68e:fe6a)


(発行=24.0824)

「仏様の体」と言う塔婆をゴミ扱い
霊感商法に似た日蓮正宗の悪質な手口
大石寺墓苑にミニ塔婆が散乱、塔婆供養は減少

日蓮正宗大石寺の墓苑に、今年もお盆の新しい塔婆が立っているが、ミニ塔婆
が目立つ。最近は大石寺の墓檀家、法華講員の間でも塔婆供養をする人が減少
し、お盆や彼岸の際、墓参に来る数少ない人達も安価なミニ塔婆で済ませるよ
うだ。そのミニ塔婆を墓石に立て掛けていて、風で倒れたまま放置されている。

このミニ塔婆はコンビニやスーパーで販売されており、一本百円か百五十円で
手軽に購入できる。

総本山の大石寺の境内にある墓苑ではあるが、誰が書いたか分からないミニ塔
婆が野晒しになっている。宗門は「塔婆は亡くなった方の体を表す」等と説明
しているが、ミニ塔婆は風で倒れたまま、風雨に晒されている(写真左)現状だ。

悪質な商法としては、良く耳にする「ねずみ講」、駅や繁華街の路上でアンケ
ート調査と称して近づき、喫茶店や営業所に連れ込み、商品などの売買契約を
結ばせる「キャッチセールス」、山林、原野の土地販売を仲介する「原野商法」
等々、数多くある。

そんな悪質な商法の中でも代表的なものといえば霊感商法である。単なる壺、
印鑑、置き物などに超自然的な力用があるかのように言葉巧みに思わせて、不
当に高い値段で売り込む商法である。

先祖の因縁や悪霊等の作り話をして「購入すれば不幸から免れる」と、人の不
安につけ込み、高額な品を買わせる。このようなマインドコントロールの手法
を使って荒稼ぎした団体の中では統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)が
広く知られている。

この邪教の霊感商法に似ているのが日蓮正宗の塔婆商法である。宗門が発行し
た「『塔婆不要論』は誤りです!」というチラシには「あなたの大切な先祖も、
正法による塔婆供養を心待ちにしているに違いありません」「(寺に参詣して
)正しい先祖供養を行いましょう。

先祖故人の方々が喜ばれることでしょう」等々と甘言を並べて、二言目には「
塔婆が大事」と叫んでいる。

だが、その実態は全然、違っていた。大石寺や末寺では塔婆をゴミ扱いしてお
り、大石寺墓苑の典礼院裏には朽ち果てた塔婆を放置(写真右)していた。ま
た、千葉市の清涼寺ではガラクタと一緒に放置(写真左)していたのである。

この典礼院や末寺の実態を見ても、塔婆とは日蓮正宗の坊主にとって、信徒の
先祖敬愛の心情につけ込んだ金儲けの手段にすぎないことが分かる。

日蓮正宗が塔婆料
一億円を騙し取る

次に日顕の指示による塔婆詐欺について述べる。

学会の登山会が行われていた当時、本山では塔婆の申し込みが一日に数千本を
超えていた。

ところが、塔婆係の坊主は数人で、ロクに仕事もしていなかったようだ。その
ため書き切れなかった塔婆は溜まる一方だった。

こうして申し込みを受け付けたままで放置されていた塔婆は、昭和六十二年頃
には十万本以上も溜まっていた。

平成二年四月、全国宗務支院長会議で、日顕が驚くべき発言をした。

この日の支院長会議では冥加料の値上げ(塔婆供養千円を二千円に、永代回向
は十万円を二十万円に、大過去帳は五万円を十万円にと、全て倍額という非常
識な内容)について討議したが、席上、日顕の話は驚愕すべきものだった。

「塔婆の申し込みが多くて、本山で書き切れない塔婆が十万本以上も溜まって
しまった。書くのも滅茶苦茶に書いていた。

それなら、いっそ印刷にしようということで、ワシが書いて印刷にすることに
したんだ。

その方が綺麗になるし、スッキリするようになった。それで今までの(十万本
以上も溜まっていた)塔婆は一本だけ大きい塔婆を立てて、ご破算にした」と
言い放った。

つまり、十万本以上の申し込みに対して一本だけ立て、後は素知らぬ顔を決め
込んだのである。

当時の塔婆供養は一本千円であったので、これは明らかに一億円相当の詐欺行
為だ。

宗門は数万人にものぼる塔婆の願主を騙して、一億円の大金を不当に得たので
ある。信徒の追善供養の真心を踏み躙った日顕の背信行為は断じて許せるもの
ではない。

改革僧によると「書き切れない塔婆が十万本以上になったので、どうしようも
なくなった内事部の理事達が日顕に相談に行きました。

すると、日顕は『九尺の塔婆を一本だけ立てて、ご破算にしろ!』と指示した
のです。勿論、ご信徒の方には秘密で、何の説明も報告もなされていません」
とのことだった。

日顕の話を聞いた支院長会議の出席者は「ワッハハ」と爆笑しただけであった。

これが宗門の塔婆に対する認識なのである。口では塔婆は大事だ、と言っても、
腹の中では塔婆供養をする信徒を愚弄しているのだ。

宗門側は学会に対する勧告書の中で「塔婆や戒名などは己義によって不要の化
儀としています。これらは、全て本宗の伝統法義を蔑如するもの……」と偉そ
うに書いていた。

だが、実際は塔婆の扱いは前述の通り杜撰極まりない。「供養をしなければ成
仏は叶わない」等の主張は供養を収奪する口実にすぎない。これが塔婆商法の
手口である。

塔婆は重要だと言いながら、何度も削って薄くなり(写真上)、故人の名前を書
いた表面は無残にも削り取られ、丸まった削りカス(写真中)はゴミとして処分
している。

また、末寺では「ペット塔婆」も流行っていた。「飼猫ミーヤ」「愛猫ニャン
吉」「飼猫グレ子」「愛犬ルビー」など変な戒名を付けたペット用の塔婆(写
真下)を奨励する末寺もあった。






[92]

題名:師匠と我らとの関係 18(下総方面の門下に宛てられた御抄)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/08/20(火) 19:58 2001:ce8:127:e3a4:a987:ef38:c802:4512(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:a987:ef38:c802:4512)

師匠と我らとの関係 18(下総方面の門下に宛てられた御抄)


「下総方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 


下総は、現在の千葉県北部と茨城県南部に相当し、鎌倉時代には日蓮大聖人のお弟子方も多く、主な人は、富木常忍、太田常明(乗明)、曽谷教信等が知られています。今回は、既述した同郷の富木常忍に関する御文を除いて、ご紹介します。


「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候。不軽菩薩の悪口・罵詈せられ杖木・瓦礫をかぼるも、ゆえなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆえかとみえて、「その罪は畢え已わって」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値うゆえに過去の罪の滅するかとみえはんべり〈これ一〉。」(転重軽受法門 新1356頁・全1000頁)文永8年10月 50歳御作 
現代語訳:涅槃経に転重軽受という法門があります。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこの様な重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬ時には人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのです。不軽菩薩の悪口をいわれ、罵られ杖木で打たれ、瓦や礫を投げられたのも、理由がないわけではありません。過去世に正法を誹謗した為と見えて、不軽菩薩品に「其の罪を畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難に値う理由として、過去世の罪が滅せられる、と見えるのです。(これが第一の理由です)
※本抄は、下総の大田乗明、曽谷教信、金原法橋の3人に与えられた御文で、転重軽受の法門を通して、難が来ても強い信心で仏道修行に励むように激励されています。


「次に寿量品と申すは、本門の肝心なり。またこの品は、一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給うことは、三世の諸仏と内証等しきが故なり。ただし、この法門は、釈尊一仏の己証のみにあらず、諸仏もまたしかなり。我ら衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今、教主釈尊の所説の法華経に値い奉ることは、乃往過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。」(太田左衛門尉御返事 新1373頁・全1016頁)弘安元年4月 57歳御作
現代語訳:次に寿量品と言うのは、法華経本門の肝心なのです。また、この品は法華経一部(全巻のこと)の肝心、さらに一代聖教の肝心だけでなく、過去・現在・未来の三世の諸仏の説法の儀式の重大な要なのです。教主釈尊が寿量品の一念三千の法門を悟られた事は、三世の諸仏と内面の悟りが等しい為です。ただし、この法門は釈尊一仏の自らの悟りだけでなく、諸仏の悟りもまた同様なのです。我ら衆生が、無始の昔から六道の生死の苦しみの波浪に沈没したのですが、今の時に教主釈尊が説かれた法華経に逢えたのは、その昔・過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞したからなのです。有り難い法門です。
※本抄は、57歳の厄年をむかえた太田乗明に対して、心身の苦悩を治す大良薬が、法華経寿量品の事の一念三千の法門である事を明かし、文末には、大厄の事は日蓮に任せなさいと保証もされていますね。


「即身成仏と申す法門は、諸大乗経ならびに大日経等の経文に分明に候ぞ。しかればとて、彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて、必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云わく『しかして二つの上慢、深浅無きにあらず。如と謂うは、乃ち大無慙の人と成る』等云々。諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくおそたかきようなれども、これはあえて即身成仏の法門にはあらず、その心は、『二乗と申す者は、鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、【我はすでに煩悩を尽くしたり】と、無余に入って灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず、滅智なれば成仏の義なし。されば、凡夫は煩悩・業もあり苦果の依身も失うことなければ、煩悩・業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば、生死即涅槃とて法身如来ともなりなん』と、二乗をこそ弾呵せさせ給いしか。さればとて、煩悩・業・苦が三身の種とはなり候わず。今、法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして即身成仏と説き給う時、二乗の即身成仏するのみならず、凡夫も即身成仏するなり。(中略)釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとおぼしめされて候ぞ。我が弟子等は、このことをおもい出にせさせ給え。」(大田殿女房御返事・即身成仏抄 新1380-1頁・全1005-6頁)弘安3年7月 59歳御作
現代語訳:即身成仏という法門は、諸々の大乗経や大日経等に明らかにされています。そうだからといっても、その諸大乗教や大日経の人々が即身成仏できるというのは、二種の増上慢に堕ち、必ず無間地獄へ入ってしまう事なのです。法華文句記の巻九には「そうであるならば二種の増上慢には深浅がないわけではない。仏と衆生が一如であるという者は、自身を省みる心のない大恥しらずの人となる」とあります。もろもろの大乗経にある煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は非常に勝れて尊いみたいですが、これはあえて即身成仏の法門では無いのです。その理由は二乗と呼ばれる者は鹿野苑で仏の教えを聞いて、見惑・思惑の煩悩を断じただけで、いまだ塵沙・無明を断じておらず、自分ではすでに煩悩を断じ尽したと思って無余涅槃に入って灰身滅智の者となってしまったのです。身を灰としたのならば凡夫そのままの即身成仏ではなく、心智を滅するのですから成仏の義はありません。これに対して、凡夫は煩悩も業もあり、前生に作った業による苦果の現身を失うことがないので、煩悩・業を種として報身・応身となることができ、苦果の現身があるから、生死即涅槃と、そのまま法身如来となることができると説いて、二乗を叱り戒めたのです。そうだからといって、煩悩・業・苦が法身・報身・応身の種にはなりえないのです。
 今、法華経において、有余涅槃・無余涅槃の二乗がなくした煩悩・業・苦を取り出して、即身成仏すると説かれた時、二乗が即身成仏しただけでなく凡夫も即身成仏したのです。(中略)釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の菩薩・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限ると考えられていました。我が弟子等はこの事を思い出すべきです。
※本抄は、下総国葛飾郡八幡荘中山郷に在住の大田五郎左衛門尉乗明の夫人に与えられた御消息で、即身成仏の実義を明かし、別名を即身成仏抄と呼ばれています。大田乗明の夫人は、夫とともに早くから大聖人の門下となり数編の御消息をいただいており、その内容から仏教についての要素があったことがうかがえます。内容は、法華経のみが二乗・凡夫の即身成仏を説いていうことを明かし、即身成仏は法華経に限るのに、真言に即身成仏の法門を立てて、かえって法華経を誹謗した善無畏や弘法等の誤りを厳しく破折されています。


「予が法門は、四悉檀心に懸けて申すならば、あながちに成仏の理に違わざれば、しばらく世間普通の義を用いるべきか」(太田左衛門尉御返事 新1372頁・全頁1015頁)弘安元年、57歳御作
現代語訳:私の法門は、四悉檀を心掛けて説くならば、とりたてて成仏の理に違わなければ、とりあえず世間の普通の道理を用いていくべきでしょう。
※四悉檀とは仏の教法を四種類に分けたもので、悉檀は成就・宗・理などの意味で、四悉とも云います。大智度論に説かれていて、①世界悉檀は楽欲悉檀ともいい、一般世間の願いによって法を説き、衆生を歓喜させ利益を与える②為人悉檀は各各為人悉檀の略称で性善悉檀ともいい、衆生の機根に応じて法を説き、過檀去の善根を増長させる③対治悉檀は断悪悉檀ともいい、三悪を対治するために貪欲者には不浄を、瞋恚者には慈心を、愚痴者には因縁を説き習得させ、破悪の益を与える④第一義悉檀は真実義悉檀や入理悉檀ともいい、真理を直接説いて衆生を悟らせる、とあります。
本抄は、先ず摂受型の世界悉檀と為人悉檀から仏法に誘引しても、成仏は叶う事を示されています。公場対決よりも対話が求められる現在、常識豊かに友好を深めていきたいですね。


「孝経と申すに二つあり。一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典。今の法華経これなり。内外異なれども、その意はこれ同じ。釈尊、塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ。孝養のことなり。しかるに、六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おえざりしかば、仏にならせ給わず。今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」(法蓮抄 新1420頁・全1046頁)健治元年4月 54歳御作
現代語訳:孝経と言うものに二つあります。一つには外典の孔子という聖人の書に孝経があり、二つには内典の今の法華経です。内典、外典の違いはあっても、その意は同じです。釈尊が塵点劫の間、修行して仏に成ろうと励まれた事は何の為でしょうか、孝養の為です。ところで六道四生の一切衆生は、皆我が父母です。孝養が終らないうちは、仏に成られなかったのです。今、法華経と言うのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経なのです。
※本抄は、曾谷教信入道法蓮に与えられた御文で、法蓮の法華経を読誦しての亡父への追善供養こそ真実の孝養であると、御教示されています。


「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば、必ず輪廻生死のわざわいなるべし。ただし、師なりとも、誤りある者をば捨つべし。また、捨てざる義も有るべし。世間・仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は、仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらうなり。ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。」(曽谷殿御返事 新1434頁・全1055-6頁)健治2年8月、55歳御作
現代語訳:法華経の大海の智慧の水を受けた根源の師を忘れて、他へ心を移すならば、必ず生死に輪廻する禍となるのです。ただし師であっても誤りのある者は捨てなければなりません。しかしまた捨てない場合もあります。これらは世間や仏法の道理によるべきです。末法の僧等は、仏法の道理を知らないで、我慢に執著して、師を卑しや檀那に諂っている。ただ正直であって少欲知足である僧こそ真実の僧なのです。
※宗門の僧は、真の日蓮仏法を知らないで我慢に執著して、大聖人の御心に随わず檀那に諂いながらも威張っています。そして正直でも少欲知足でもない全く稚拙な僧なのですね。


「経に云わく『いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず』。また云わく『もし法師に親近せば、速やかに菩薩の道を得、この師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん』。釈に云わく『本この仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住す』。また云わく『初めこの仏菩薩に従って結縁し、またこの仏菩薩において成就す』云々。返す返すも本従たがえずして成仏せしめ給うべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、しかも主・親の徳を備え給う」(曽谷殿
御返事 新1435頁・全1056頁)健治2年8月、55歳御作
現代語訳:法華経に「在在諸の仏土に常に師と倶に生まれる」と説かれ、また「もし法師に親近するならば、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒沙の仏を見ることができる」と説かれています。釈には「もとこの仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住する」とあり、また「初めこの仏・菩薩に従って結縁し、またこの仏・菩薩によって成就する」とあります。くれぐれも本従を間違えないで、成仏していきなさい。釈尊は一切衆生の本従の師であって、しかも主と親の徳をも備えておられるのです。
※此処での釈尊とは日蓮大聖人の事であり、師弟関係で言えば、池田大作先生と私達・創価学会員にも相当するでしょう。


「『法華経は末法の始め五百年に弘まり給うべきと聴聞仕り、御弟子となる』と仰せ候こと。師檀となることは三世の契り、種・熟・脱の三益別に人を求めんや。『いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず』『もし法師に親近せば、速やかに菩提の道を得、この師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん』の金言違うべきや。提婆品に云う『生ずるところの処にて、常にこの経を聞かん』の人は、あに貴辺にあらずや。その故は、次上に『未来世の中に、もし善男子・善女人有って』と見えたり。善男子とは法華経を持つ俗のことなり。いよいよ信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」(秋元殿御返事 新1456頁・全1070-1頁)文永8年1月、50歳御作
現代語訳:「法華経は末法の始めの五百年に広まることになると聴聞して、御弟子となった」と仰せられている事について、師となり檀那(弟子と同等)となる事は、三世にわたる約束であり、種熟脱の三益の法理も別の人に求めてはならないのです。「いたるところの諸の仏土に、常に師と倶に生まれる」「もし法師に親近するならば、速やかに菩提の道を得ることができ、この師に随順して学ぶならば、恒河の沙のほどの仏を見ることができる」との金言に違いがあるでしょうか。提婆品にある「生まれる処で常にこの法華経を聞く」とのこの人とは、あなたではないでしょうか。その理由は、この前の文に「未来世の中に、若し善男子・善女人あって」と説かれているからです。善男子とは法華経を持つ俗人のことです。一層深く信心に励んでいきなさい。
※秋元殿に対する大聖人の確信あふれる御指導、師と弟子をつなぐ絆の深さ、我々も増々強盛な信心で、師弟の道を歩まなければと決意する次第です。


◎下総方面の門下にも重要御書が贈られていますが、これ等を拝読しますと、富木殿や秋元殿をも含めた、全員仲が良く強盛な信心で結束固くされ、武家社会の妙法家族(創価家族と同様)の様子が分かりますね。私達も広布推進に、更に頑張っていきましょう。


[91]

題名:フェイク 第1771号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/08/17(土) 21:26 unn-149-50-210-17.datapacket.com (149.50.210.17)


(発行=24.08.15)

法華講連合会の理事が浅間神社へ
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ②
神職からお祓いを受けて玉串を奉納

フェイク 第1770号.txt 日蓮正宗の法華講幹部の謗法行為と言えば、富
士地方部長の清功(写真)は、その代表格であろう。

かつて清功は浅間神社参拝の常連であり、曽我神社の総代を兼務していた大石
寺総代の井出光彦と並んで〝大石寺の二大謗法幹部〟と言われている。

今年も七月十日、富士山お山開きが行われ、登山の幕開けを告げるとともに、
登山者の安全を祈願する行事が、富士山本宮浅間大社(写真左)と村山浅間神
社で行われた。

この行事に以前、法華講連合会の理事でもある清功が参加して神職からお祓い
を受けていた事実を本紙で何度か取り上げたので、最近は控えているのか、ま
たは目立たないように参加しているのかは不明だが、平成二十五年には浅間神
社に出向き、参拝していた。

 この時は浅間大社の第二鳥居前では大金剛杖パレード、浅間大社本殿では湧
水献上、浅間大社祈祷殿では開山式などが行なわれ、浅間大社楼門前で行なわ
れた開会式では、浅間大社氏子青年会の深澤亮一会長の発声で清功らが万歳を
三唱していた(写真下)。

また、平成二十四年九月七日、富士山本宮浅間大社の拝殿で中村徳彦宮司を祭
司として富士山の夏山シーズンの終わりを告げる閉山祭が行なわれ、清功も大
社役員、氏子衆や崇敬者などと共に参列した。

ここで清功は神職からお祓いをうけていた(写真上)

この後、神職が約二ヶ月間にわたる開山の終了を報告する祝詞をあげ、参列者
を代表して清功が玉串を奉納した。こんな清功に対しても日如は謗法行為を指
摘したこともなく、注意も指導もできないのだ。

日如の「謗法厳誡」は口だけで、純真な所化には厳しく、大願寺の頃はよく暴
力を振るっていたが、謗法行為には実に寛大で、放置している。

★日如注意も処分もできない腰抜け

富士地方部長が西山
本門寺の法要に参列

法華講連合会の理事で富士地方部長の清功は浅間大社に参詣し、お祓いを受け
ただけではなく、平成二十九年六月六日、富士宮市内の西山本門寺の境内にあ
る織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」にも参列したことがあった。

織田信長は天正十年(一五八二年)六月二日、京都本能寺に宿泊していた時、
家臣の明智光秀の謀反によって寝込みを襲われ、一万数千の軍勢に包囲された
ことを知ると、寺に火を放ち、自害して果てた。

ところが、信長の遺体は見つからなかった。そのため、密かに脱出し別の場所
で自害したという説や、信長を慕う僧と配下によって人知れず埋葬されたとい
う説などが後世に流布した。

また、事件当時は信長の生存説が流れ、光秀と対立する羽柴秀吉は、この噂を
利用して、味方を増やそうとしたと言われている。

西山本門寺の境内にある県天然記念物の樹齢五百年以上の柊(ひいらぎ)の根
元には信長の首が埋葬されているとの伝説があり、「信長公首塚」(写真左)が
建てられている。

供養祭を主催したのは信長公奉賛会で、同会は「織田信長公を供養し、会員相
互の親睦を図る」ことを目的に、平成二十三年に設立された。

供養祭は西山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達
が経を上げ、法華講の富士地方部長の清功も同座して合掌(写真下)、焼香した。

法華講員の謗法を
教導できない日如

改革僧で浄圓寺(栃木県小山市)の渡辺雄範住職は、 日如の謗法容認の姿につ
いて次のように記している。

「あなた(日如のこと)の信心なき懶惰懈怠(らんだけたい)の姿には、およそ
御信徒の模範となり、法華講を教導すべき住職としての資格が認められず、布
教能力も管理・監督能力も全くないに等しいものと言わなければなりません。

まず、あなたは、こともあろうに邪宗日蓮宗の寺院に塔婆供養に通うような者
を、大願寺法華講の班長にしております。

その班長は、そのことを自認しており、祈祷やお祓いは、そちらの方が良いと
まで公然と発言しております。

このことを聞いた私は、大変な問題だと考え、直接あなたに報告をいたしまし
たが、あなたは『しょうがないな』と苦笑するだけで全く問題にしようともし
ませんでした。

もちろん、その班長を呼び付けて破折をするようなこともなく、いまだに班長
として認めております。

法華講が折伏した人の中に退転者が極めて多いのは、本質的には、かようなあ
なたの謗法容認の信心なき姿に原因があることは明らかであります」

日蓮大聖人は「此の度大願を立て後生を願はせ給へ・少しも謗法不信のとが候
はば無間大城疑いなかるべし」「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断
つべし」等と謗法を厳しく誡めるよう述べられている。

相承無きニセ法主でも謗法を放置してはならない。神札の購入を奨励したり、
浅間神社でお祓いを受け、玉串を奉納する法華講幹部を厳しく指導するか、処
分するべきだ。(つづく)







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