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庶民烈伝を読了して (番外) 投稿者:りゅう
投稿日:2007年 5月17日(木)20時42分51秒 通報 編集済
「聞書 庶民烈伝」を読む (参考までに・番外編)
この長期連載の始まる直前、竹中氏は同じ『潮』誌上に、「反創価学会キャンペーンをめぐって」という論考を4ヶ月連続で執筆した。当時、いわゆる“月刊ペン”に端を発し、以後延々と繰り返された反学会報道の欺瞞性と謀略性を暴き、「言論のフェア・プレイ」を回復させるために、頼まれてもいない“学会の助っ人”として論陣を張ったものだ(1983年2月発行、「仮面を剥ぐ」幸洋出版 に所収。「溝口澄江さん」の言う“爆弾を落とす”とはこのこと)。
その三回目の記事を閉じるにあたり、次のように述べて、どこまでも庶民と「共生同死」しゆく自身の美学を披瀝している。
【今、私の心は、青春の日におとずれたことのある町々や村々を、飛光のごとく駆けめぐっている。山梨県道志村、昭和二十四年初夏・農民組合結成オルグ(同二十七年秋・山村工作隊)。北海道小樽、これはより早く敗戦の翌二十一年夏・飢餓放浪の途上。大分県日田市、ここはふるさと福岡の隣県、筑後川の源流に近い。耶馬渓に遊んだのは、小学校五年生、紀元二千六百年(昭15)。
少年時代は東京下町育ち、戦前の下谷車坂、稲荷町、神吉町、万年町細民街、浅草六区、花屋敷、五重塔。山谷の泪橋界隈、日本堤。三階建ての豪勢な家が建ち並んで、森(しん)としていたあれは吉原、深川八幡、人形町、水天宮。旧東海道、ジェームス坂、お台場の見える海。
神楽坂、毘沙門天の縁日、露店(さんずん)のカーバイトのにおい。ベイゴマ、ケン玉、相撲メン。合の子弁当、「ええ、ハヤラ一丁!」(ハヤシライス)、すしや横丁、釜めし、屋台のやきそばの香り。鞍馬天狗、李彩の南京手妻、ひょうたん池、人間――わが町、なぜか牧口常三郎の足跡と、想い出は通じあうのだ。そこに「庶民烈伝」、名もなき人々の生活と、歴史と、信仰がある。
センチメンタルに言うのではない、一九六八年(昭43)、山谷労働者と都庁に乱入して、私は逮捕された。
五八年(昭33)、三流夕刊紙の記者として、浅草六区のストリップ小屋に売文の出発はあった。そして四八年(昭23)、上野地下道で赤旗をふっていた。十年ひとむかしを、陋巷(ろうこう)の記憶は三たび刻む。反学会キャンペーン、信仰をおとしめる人々に無名・無告の庶民への連帯はあるか? 現在の創価学会について、ほとんど私は無知である。
〔中略〕
『潮』以外の学会系出版物に寄稿したことはなく、『聖教新聞』を本稿のためにはじめて購読した。ようするに私は、学会とまるで縁なき衆生であった。だがしかし、当たりまえの学会員、老若男女の貌(かお)は、親しい感情で胸底に去来するのである。京浜蒲田駅の線路ぎわのボロ屋に住居していた春秋、昼間もごろごろしている(実は売れない原稿を書いているのだが)私を、菓子やいなりずしを土産に折伏にやってくるおかみさん。
半年間ものあいだ、ラーメン・餃子をツケにしてくれた中華料理店の若夫婦、家賃を長いこと待ってくれた大家さんも学会員だった。親切なその人達が、“選挙違反”の仲間を奪い返そうと、交番に突っこんでいった姿を、忘れることができない。私はあなたがたに恩義がある、この文章で、その借りをいくらかは返すことができただろうか?】(1982年12月号)
「喧嘩屋」とも呼ばれ、歯に衣着せず徹底して“野干”を斬りまくった竹中氏だったが、決して品性を失わず、ユーモア、そして優しささえたたえた文章は、何年経っても色褪せることはない。
(管理人さん、再度お世話になりました。感謝します)