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題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 11

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/08/23(土) 23:34 2001:ce8:127:e3a4:31f7:5e96:5679:281a(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:31f7:5e96:5679:281a)

御書拝読で判る大聖人のお立場 11


第十章 大聖人の御本仏としての確信と御振舞 後編


「南無妙法蓮華経と我が口にも唱え候故に、罵られ、打ちはられ、流され、命に及びしかども勧め申せば法華経の行者ならずや。法華経には、行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む。四の巻には、仏を一中劫罵るよりも、末代の法華経の行者を悪む罪深しと説かれたり。七の巻には、行者を軽しめし人々、千劫阿鼻地獄に入ると説き給えり。五の巻には、我が末世末法に入って、法華経の行者有るべし、その時、その国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等集まって国主に讒言して流し失うべしと説かれたり。しかるに、かかる経文かたがた符合し候い畢わんぬ。未来に仏に成り候わんこと、疑いなく覚え候。」(松野殿御返事 新1998-9頁・全1389-90頁)建治4年2月 57歳御作 
現代語訳:南無妙法蓮華経と私自ら唱えた為に、罵られ、打たれ、流罪に処せられ、命にも及ぶ難を受けたけれども、弘通し続けていますが、(どうして私が)法華経の行者でないのでしょうか。法華経には、「法華経の行者をうらむ者は、阿鼻地獄に堕ちる人である」と定めています。法華経の第四の巻法師品には、「仏を一中劫の長い間罵る罪よりも、末代の法華経の行者を悪み敵対する罪はなお深い」と説かれています。第七の巻不軽品には、「法華経の行者を軽んじた人々は、千劫という長い間阿鼻地獄に入る」と説かれています。五の巻の勧持品には、「釈迦滅後の末法に入ったならば、法華経の行者が必ず出現します。その時、その国には持戒・破戒等の多くの僧侶が集まって、国主に讒言して、法華経の行者を流罪に処して失きものにしようとする」と説かれています。だから(日蓮の身は、)この様な経文にことごとく符合したのです。従って未来に成仏することは疑いないものと確信するのです。
※大聖人の確信「未来に仏に成るだろう事は疑いない」、だからこそ、現在私達は、日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇しているのです。


「日蓮はわるき者にて候えども、法華経はいかでかおろかにおわすべき。ふくろはくさけれども、つつめる金はきよし。池はきたなけれども、はちすはしょうじょうなり。日蓮は日本第一のえせものなり。法華経は一切経にすぐれ給える御経なり。心あらん人は、金をとらんとおぼさばふくろをすつることなかれ、蓮をあいせば池をにくむことなかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらわるべし。よって臨終わるくば、法華経の名をおりなん。さるにては、日蓮はわるくても、わるかるべし、わるかるべし。」(窪尼殿御返事<金と蓮の事> 旧では、西山殿御返事 新1980-1頁・全1476頁)建治・弘安期
現代語訳:日蓮は悪い者と言われていますが、(弘教する)法華経は、どうして、いい加減なものでありましょうか。(例えば、)袋は臭くても詰めている中の金は尊いのです。池は濁っていても蓮は清浄なのです。日蓮は日本第一の僻者です。しかし法華経は一切経に勝れた経なのです。(経を求める)心のある人が、金を取ろうと思うならば臭い袋を捨ててはなりません。蓮を愛するなら濁った池を憎んではなりません。悪いと云われても、仏に成りたければ、法華経の力が顕われるでしょう。従って臨終が悪かったならば、法華経の名折れとなるでしょう。そうであるならば、日蓮は悪い(と言われていて)も、悪いでよいのです、重ねて悪いでよいのです。
※世間でどの様に悪口を言われようと、「衆生が仏に成れば真実も明らかになる」とのお考えなのです。そして大聖人への非難が、そのまま御本仏である証拠となるのです。


「中有の道にいかなる事もいできたり候わば、「日蓮がでしなり」となのらせ給え。わずかの日本国なれども、さがみ殿のうちのものと申すをば、そうなくおそるること候。日蓮は日本第一のふとうの法師。ただし、法華経を信じ候ことは、一閻浮提第一の聖人なり。その名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給わば、いかなる悪鬼なりとも、よもしらぬよしは申さじとおぼすべし」(妙心尼御前御返事<病之良薬の事> 新1964頁・全1480頁)弘安元年8月16日 57歳御作
現代語訳:中有の道にあって、どの様な事でも起きれば「日蓮の弟子である」と名乗りなさい。小さな日本国ですが相模守殿の家来であると言えば、理由もなく恐れられる事があります。日蓮は日本第一の不当な法師です。ただし、法華経を信じ奉る事は一閻浮提第一の聖人です。その名は十方の浄土にも聞こえています。必ず天地も知っている事でしょう。日蓮の弟子であると名乗られるならば、どの様な悪鬼もまさか(日蓮の名を)知らないとは言わない筈です。
※「一閻浮提第一の聖人」との表現こそが、日蓮大聖人が「末法の本仏」である事を示しています。


「日蓮となのること、自解仏乗とも云いつべし。かように申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところ、さもやあらん。経に云わく『日月の光明の、能く諸の幽冥を除くがごとく、この人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅す』と。この文の心よくよく案じさせ給え。『斯人行世間(この人は世間に行じて)』の五つの文字は、上行菩薩、末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明・煩悩の闇をてらすべしということなり。」(寂日房御書 新1269頁・全903頁)弘安2年9月 58歳御作
現代語訳:(私が)日蓮と名乗ることは自解仏乗(自ら仏乗を解す)ともいうべきです。この様にいえば利口ぶっている様に聞こえますが、道理に従えば、そういう事もあるでしょう。法華経如来神力品に「日月の光明が能く諸の幽冥を除くように、斯の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅する」とあります。この文をよくよく考えてください。「斯人行世間(斯の人は世間に行じて)」の五つの文字は、上行菩薩が末法の初めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明を指し出して、無明煩悩の闇を照らすだろうという事なのです。
※此処では、「上行菩薩が妙法の五字の光明で無明煩悩の闇を照らす」と第三者的に述べておられますが、実際は、ご自身を「上行菩薩」或いはそれより上と自覚され、自解仏乗(自ら成仏の法である法華の教理を悟ること)されておられると解釈すべきです。


「究竟円満の仏にならざらんより外は、法華経の御敵は見しらさんなり。一乗のかたき、夢のごとく勘え出だして候。」(慈覚大師事 新1378頁・全1019頁)弘安3年 59歳御作
現代語訳:究竟円満(究竟即の位に到達し一切の願行満足した)仏にならない限りは、法華経の御敵は見分ける事はできないでしょう。(ところが日蓮は)一乗の法華経の敵を、夢の様に見分けたのです。
※法華経の敵を見分けられた事が「仏になられている」証拠ではないでしょうか。


◎「日蓮は日本国の諸人にしゅうし父母なり」(開目抄 新121頁・全237頁)文永9年2月 51歳御作 との御文があります。この「主師親」の三徳の「主」の徳は、衆生を守る、「師」の徳は、衆生を導き教化する、「親」の徳は、衆生を慈愛する、という力・働きをいい、三徳具備を衆生救済の条件とされ、御本仏の証とされています。
日蓮正宗では、この「開目抄」を「人本尊開顕の書」とされ、佐渡流罪をもって「末法の御本仏」に「発迹顕本」されたと捉えています。一切衆生を「成仏」させようと専念される日蓮大聖人を、私達学会員も「末法の御本仏」として御尊崇申し上げるのです


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