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御書拝読で判る大聖人のお立場 2
第二章 虚空蔵菩薩への誓願と修行開始
童名を善日(善日麿、善日童子)と呼ばれた日蓮大聖人は、12歳で清澄寺に登り、道善房を師匠として天台・真言等の教義を学ぶ中で、大きな誓願をされたのです。これを機に出家剃髪し、是生(是聖)房蓮長と改名され、鎌倉を初めとして仏道修行の旅が始まったのです。
と、今回紹介の御書の記述から、この様に感じとれるのです。
「日蓮は安房国東条郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云わく『日本第一の智者となし給え』と云々。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給いて、明星のごとくなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。そのしるしにや、日本国の八宗ならびに禅宗・念仏宗等の大綱、ほぼ伺い侍りぬ。殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで、この十六・七年の間、禅宗と念仏宗とを難ずる故に、禅宗・念仏宗の学者、蜂のごとく起こり、雲のごとく集まる。これをつむること、一言二言には過ぎず。結句は天台・真言等の学者、自宗の廃立を習い失って、我が心と他宗に同じ、在家の信をなせることなれば、彼の邪見の宗を扶けんがために『天台・真言は念仏宗・禅宗に等し』と料簡しなして、日蓮を破するなり。これは、日蓮を破するようなれども、我と天台・真言等を失う者なるべし。能く能く恥ずべきことなり。この諸経・諸論・諸宗の失を弁うることは、虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩なるべし。」(善無畏三蔵抄 新1192頁・全888頁)文永7年 49歳御作
現代語訳:日蓮は安房の国・東条の郷にある清澄山の住人です。幼少時から虚空蔵菩薩に願いを立て「日本国第一の智者にしてください」と祈って来ました。(すると)虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ、明星の様な智慧の宝珠を授けてくださったのです。その証拠でしょうか、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗などの教義の大綱をほぼ学び知ることができました。特に建長五年の頃から今年文永七年に至るまでのこの十六、七年の間は、禅宗と念仏宗とを非難したので、禅宗・念仏宗の学者達が蜂の様に群がり起こり、雲の様に集まって騒ぎ立てました。(だが、)これを論詰するのに一言二言で十分過ぎるほどでした。最後には、天台宗や真言宗の学者達までが、自宗の依って立つ教義における廃立の立て分けを忘失して、自分から進んで他宗(念仏宗・禅宗)に同意し、或いは在家の人々が信仰しているからと言って、念仏・禅の邪見の宗を助けようとして、思案を巡らし「天台・真言は念仏宗・禅宗と同じである」等と言い、日蓮を破ろうとしたのです。しかし、真言宗・天台宗の学者達のやり方は、日蓮を破った様に見えたけれども、その実、自からの手で天台・真言の立場を失う者となったのです。本当に恥ずかしい行為です。この様に、諸経・諸論・諸宗の誤りを弁え理解する事は、ひとえに、虚空蔵菩薩の御利益であり、旧師・道善御房の御恩なのです。
※大聖人は、虚空蔵菩薩に真理の探究者である「智者に」との願を立て、その後、どの宗派との法論にも負けないほどの仏法全般を研鑚されたのですね。
「日蓮が度々殺害せられんとし、ならびに二度まで流罪せられ、頸を刎ねられんとせしことは、別に世間の失に候わず。生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりしことありき。『日本第一の智者となし給え』と申せしことを不便とや思しめしけん、明星のごとくなる大宝珠を給わって右の袖にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば、八宗ならびに一切経の勝劣、ほぼこれを知りぬ。」(清澄寺大衆中 新1206頁・全893頁)建治2年 55歳御作
現代語訳:日蓮は、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとした事は、別に世間の罪によるのではありません。生身の虚空蔵菩薩から大智慧を戴いた事がありました。「日本第一の智者にしてください」と申し上げた事を、可哀想に思われたのでしょう。明星の様な大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取った為に、一切経を拝見したら、八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができたのです。
※何度も苦難に遭われた大聖人は、此処でも虚空蔵菩薩の功徳を述べておられます。
「予は、かつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、「日本第一の智者となし給え」、十二のとしよりこの願を立つ。その所願に子細あり。今くわしくのせがたし。その後、まず浄土宗・禅宗をきく。その後、叡山・園城・高野・京中・田舎等、処々に修行して自他宗の法門をならいしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に「諸宗いずれの宗なりとも、偏党・執心あるべからず。いずれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用いるべし。論師・訳者・人師等にはよるべからず。専ら経文を詮とせん。また、法門によりては、たとい王のせめなりとも、はばかるべからず。いかにいわんや、その已下の人をや。父母・師兄等の教訓なりとも、用いるべからず。人の信・不信はしらず、ありのままに申すべし」と誓状を立てし」(破良観等御書 新1261頁・全1292-3頁)建治2年 55歳御作
現代語訳:私(日蓮)は、よくご存知の通り、幼少の頃から学問を心がけた上に、大虚空蔵菩薩の御宝前で「日本第一の智者とならせ給え」と十二歳の時から願をかけてきたのです。その願いは様々な理由があります。今は詳しく書くことができません。その後、まず浄土宗・禅宗の法門を聴聞しました。さらに比叡山延暦寺・薗城寺・高野山・京の都や田舎などを巡って修行して自宗・他宗の法門を修学しましたが、我が身の疑問は晴れなかった上に、もともとの願いに「諸宗のいずれの宗に対しても偏った考えや執着心は持たない。いずれ(の宗であって)も仏説の証拠が明瞭であり、道理が現前で明解なるものを用いよう。論師・訳者・人師など依存してはならない。ひたすら仏の経文を第一としよう。また、法門の上では、たとえ国王に責められても遠慮することはない。ましてや、それより以下の人々においては当然である、父母・師兄等の教訓であっても用いることはない。人が信じるか信じないかに関係なく、(経文の)ありのままに言い通していこう」と誓状を立てたのです。
※大聖人は、12歳時からの虚空蔵菩薩に「日本第一の智者に」との願いに加え、その後「仏道修行に際しての心得」を文章にして誓いを立て、他宗と対論されたのですね。
「日蓮は少きより今生のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。」(四条金吾殿御返事 新1590頁・全1169頁)建治3年 56歳御作
現代語訳:日蓮は若い時から、今生の栄えを祈った事はありません。ただ仏に成るだけを思い願ったのです。しかしながらあなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのです。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからです。
※大聖人は本抄でも、幼少から名誉栄達を望むのではなく成仏する事だけを願われ、在家である後継者の出現をも大切に思われていたのですね。
「日蓮は日本国安房国と申す国に生まれて候いしが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。『この度、いかにもして仏種をもうえ生死を離るる身とならん』と思って候いしほどに、皆人の願わせ給うことなれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候いしほどに、いささかのことありて、このことを疑いし故に、一つの願をおこす。」(妙法比丘尼御返事 新2106頁・全1407頁)弘安元年 57歳御作
現代語訳;日蓮は日本国の安房国という国に生まれたのですが、民の家から出家して髪を剃り袈裟を着たのです。「この生涯に、何としても仏に成る種を植え、生死を離れる身になろう」と思って、人々が願っている様に阿弥陀仏をたのんで、幼少から名号を唱え(念仏)たのですが、わずかな出来事があってこの事(念仏信仰)に疑問を抱いたので、一つの誓願を起したのです。
※本抄は、大聖人が当世人気があった他力本願の念仏崇拝から離れて、虚空蔵菩薩に誓願を立て、法華経中心による仏道修行を始められたという告白ですね。
◎大聖人が、「人類の幸福と平和」を願って、法華経行者としての人生を進める為の大きな転機となったのは、この「虚空蔵菩薩への誓願」だったのではないでしょうか。
「一切法華経にその身を任せて金言のごとく修行せば、たしかに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。」(祈祷経送状 新1786頁・全1357頁)文永10年
との御文通り、我々創価学会員の大願は「広宣流布」ですが、日々朝夕の勤行時のご祈念には、個人の目標も御本尊に誓願していきましょう。