[140]
師匠と我らとの関係 30(駿河方面の門下に宛てられた御抄)中
「駿河方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 中編
「仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなににかせん。ただあつき・つめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。しかるに、善知識に値うことが第一のかたきことなり。されば、仏は善知識に値うことをば、一眼のかめの浮き木に入り、梵天よりいとを下して大地のはりのめに入るにたとえ給えり。しかるに、末代悪世には悪知識は大地微塵よりもおおく、善知識は爪上の土よりもすくなし。」(三三蔵祈雨事 新1940頁・全1468頁)建治元年6月 54歳御作
現代語訳:仏になる道は善知識に勝るものはありません。私の智慧が何の役に立つでしょうか。ただ熱さ寒さを知るだけの智慧でもあるのならば、善知識こそが大切なのです。でも、善知識に値うことが第一に最も難しい事なのです。だから、仏は善知識に値う事を、一眼の亀が浮木に入る様なものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通す様なものであると譬えられているのです。ところが、末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ないのです。
※本抄は、身延から富士郡西山(静岡県富士郡芝川町西山)に住む西山殿(生没年不明)に宛てたお手紙です。内容は、真言宗の三蔵(善無畏、金剛智、不空)の祈雨が暴風をもたらし失敗した現証から、真言宗は亡国の悪法であることを示され、この御文では、成仏するには善知識が必要ですが、末法は悪知識が多く、善知識に遭遇する事は難しいと述べています。
「日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず。(中略)
仏法はさておきぬ、上にかきぬること、天下第一の大事なり。つてにおおせあるべからず。御心ざしのいたりて候えば、おどろかしまいらせ候。日蓮をば、「いかんがあるべかるらんとおぼつかなし」とおぼしめすべきゆえに、かかる事ども候。むこり国だにもつよくせめ候わば、今生にもひろまることも候いなん。あまりにはげしくあたりし人々は、くゆるへんもやあらんずらん。(中略)
されば、「さのみやはあるべき。いおうや日蓮はかれにすぐべき」とはわが弟子等おぼせども、仏の記文にはたがわず。「末法に入って、仏法をぼうじて無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をえたらん人は爪上の土よりもすくなし」と涅槃経にはとかれ、法華経には「たとい須弥山をなぐるものはありとも、我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたし」と記しおかせ給えり。大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちないおん経・最勝王経等に、「末法に入って正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの、王臣等にうったえてあらんほどに、彼の王臣等、他人がことばについて、一人の正法のものを、あるいはのり、あるいはせめ、あるいはながし、あるいはころさば、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等、りんごくの賢王の身に入りかわって、その国をほろぼすべし」と記し給えり。今の世は似て候ものかな。」(三三蔵祈雨事 新1941頁・全1468頁)建治元年6月 54歳御作
現代語訳:(日蓮が)仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはありません。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはありません。(中略)
仏法(それ自体の勝劣)はしばらく置きます。是までに述べてきた事は、天下第一の大事なのです。人づてに(軽々しく)語ってはなりません。(貴殿の)御志が大変厚いので、(あえて)驚くほどの事を申し上げたのです。日蓮(の諌言)を、「どれ程の事があろうか、疑わしい」と思っていた為に、この様な事(蒙古襲来)が起こったのです。蒙古国が強く攻めて来るならば、今生にも法華経が広まる事もあるでしょう。日蓮をあまりにも激しく迫害した人々は、後悔することもあるでしょう。(中略)
そうであれば、(日蓮が慈覚・智証の誤りを指摘しても)「そんな事があるだろうか。ましてや日蓮は彼等より勝れているのだろうか」と我が弟子等が思っているけれども、仏の記した経文には違わないのです。「末法に入って、仏法を謗り無間地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、正法を信受する人は爪の上の土よりも少ない」と涅槃経に説かれ、法華経には「設え須弥山を擲げる者はあっても、末法に法華経を経文の様に説く者はまことに稀である」と記し置かれています。大集経・金光明経・仁王経・守護経・般泥洹経・最勝王経等には「末法に入って正法を行ずる人が現れれば、邪法を信ずる者が王臣等に訴えるので、王臣等はその人の言葉を信じて、一人の正法を持つ者を、罵ったり、責めたり、流罪にしたり、殺せば、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等が隣国の賢王の身に入り代わって、その国を亡ぼすであろう」と記されています。今の世は(これらの経文に説かれた事と)似ているでしょう。
※大聖人は、仏法勝劣の判断法の一つ「三証論」を述べられています。証文(文証:文書・記録等の証拠)と道理(理証:理論的・筋道が通ていること)が必要で、それよりも大事なのが現証(現実の証拠)だと仰せなのです。一般社会でも重要で、例えば薬剤では、文(文献)、理(薬理作用や薬物動態)、現(薬効)であり、機器系統では、文(取扱説明書、設計図、操作手順書等)、理(構造とアルゴリズム)現(有用性)等が該当するでしょうね。
「大事の法門と申すは別に候わず。時に当たって、我がため国のため大事なることを少しも勘えたがえざるが、智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘え、未来をしり、三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなし。たとい仏にあらねども、竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は、仏程こそなかりしかども、三世のことをほぼ知ろしめされて候いしかば、名をも未来まで流されて候いき。詮ずるところ、万法は己心に収まって一塵もかけず、九山八海も我が身に備わって日月・衆星も己心にあり。しかりといえども、盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児の水火を怖れざるがごとし。外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法を片端片端説いて候なり。しかりといえども、法華経のごとく説かず。しかれば、経々に勝劣あり、人々にも聖賢分かれて候ぞ。」(蒙古使御書 新1947頁・全1473頁)建治元年9月 54歳御作
現代語訳:大事の法門というのは別の事ではありません。時に当たって、我が身の為、国の為に、大事な事を勘えて少しも間違わないのが智者なのです。仏が尊いというのは、過去を勘へ、未来を知り、三世を知っておられるからであり、これに勝る智慧はありません。たとえ仏で無かっても、竜樹・天親・天台大師・伝教大師等という聖人・賢人等は、仏ほどではないけれども、三世の事を粗知っておられたので、名を未来まで伝えられたのです。所詮、万法は己心に収まって、一塵も欠けてはいません。九山八海も我が身に備わり、日月・衆星も己心に収まっています。しかしながら、盲目の者には鏡に映る影が見えず、嬰児が水火を怖れない様に、凡夫には己心に収まる万法が見えないのです。外典の外道や内典の小乗・権大乗等は、皆己心の法を片端片端に説いているのです。そうと言っても、法華経の様には説いていないのです。だから、経々に勝劣があり、持つ人々にも聖賢が分かれるのです。
※本抄も西山殿に与えられた書で、前年の蒙古襲来(文永の役:文永11年10月)の事実から、書経を引いて誤った宗教に依る責めの現証を述べています。本文では、三世を知るのが聖人・賢人であると述べられています。
「経ならびに天台・妙楽の心は、一切衆生を供養せんと、阿羅漢を供養せんと、乃至一切の仏を、尽くして七宝の財を三千大千世界にもりみてて供養せんよりは、法華経を一偈、あるいは受持し、あるいは護持せんはすぐれたりと云々。経に云わく「この法華経の乃至一四句偈を受持する、その福の最も多きにはしかじ」。天台云わく「人は軽く法は重きなり」。妙楽云わく「四つは同じからずといえども、法をもって本となす」云々。九界の一切衆生も仏に相対してこれをはかるに、一切衆生のふくは一毛のかろく、仏の御ふくは大山のおもきがごとし。一切の仏の御ふくは、梵天三銖の衣のかろきがごとし。法華経一字の御ふくの重きことは、大地のおもきがごとし。「人は軽し」と申すは、仏を人と申す。「法は重し」と申すは、法華経なり。」(宝軽法重事 新1949頁・全1475頁)建治2年5月 55歳御作
現代語訳:法華経並びに天台大師、妙楽大師の意は「一切衆生に供養するよりも、また阿羅漢を供養するよりも、あるいは三千大千世界に満つるほどの七宝の財を一切の仏に供養するよりも、法華経の一偈を受持し、あるいは護持する方が勝れている」との事です。法華経薬王菩薩本事品には「此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」と説かれ、天台大師は法華文句巻十で「人は軽く法は重きなり」と解釈し、妙楽大師は「四つ(親が子供を護り育成する時系列として、生・養・成・栄)同じからずと雖も法を以て本と為す」と述べられています。(これらの文につい)九界の一切衆生の福を仏の福に相対して比較すると、一切衆生の福は一毛の様に軽く、仏の御福は大山の様に重いのです。一切の仏の御福は梵天の三銖の衣が軽いのと同様あり、法華経の一字の御福の重いのは大地が重いのと同様なのです。天台大師が「人は軽く」と言うのは仏の事を人と言うのです。「法は重い」と言われた「法」とは法華経の事です。
※本抄も西山殿に与えられた書です。法華経薬王菩薩本事品等を引かれ、七宝を供養するより法華経を受持する功徳の方が勝れている、つまり宝は軽く法は重い事を示されています。
「法華の行者をやしなうは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。故に「仏舎利変じて米と成る」とは、これなるべし。かかる今時分、人をこれまでつかわし給うこと、うれしさ申すばかりなし。釈迦仏・地涌の菩薩、御身に入りかわらせ給うか。その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。『仏種は縁より起こる。この故に一乗を説く』なるべし。」(高橋殿御返事<米穀御書> 新1953頁・全1467頁)作成日不明
現代語訳:法華経の行者を養うのは、慈悲の中の大慈悲のお米でしょう。一切衆生を利益するからです。だから「仏舎利が変じて米となる」というのは、この事なのです。この様な今時分に人をこちらまで遣わされたことの嬉しさは、言い様が無いほどです。釈迦仏や地涌の菩薩が、あなたの御身に入り替わられているのでしょうか。その国の仏法流布は、あなたにお任せします。「仏種は縁によって起こる。その為に一乗(法華経)を説く」とあります。
※高橋六郎兵衛入道(生没年不明)は、駿河国(静岡県)富士郡南方の賀島に住し、富士地方の弘教の中心的存在でした。四十九院の法難や熱原の法難では多くの大聖人門下を外護されました。
本抄の内容は、米の効用について仏法者の立場から述べ、法華経の行者を養う大慈悲の米は、一切衆生を利益し、その供養の功徳は、はかりしれないと御教示されています。
「皆人はにくみ候に、すこしも御信用のありし上、これまでも御たずねの候は、ただ今生ばかりの御事にはよも候わじ。定めて過去のゆえか。御所労の大事にならせ給いて候なること、あさましく候。ただし、つるぎはかたきのため、薬は病のため。(中略)
しかも法華経は「閻浮提の人の病の良薬なり」とこそとかれて候え。閻浮の内の人は病の身なり。法華経の薬あり。三事すでに相応しぬ。一身いかでかたすからざるべき。ただし、御疑いの御わたり候わんをば、力及ばず。」(高橋入道殿御返事 新1960頁・全1462頁)建治元年7月
現代語訳:(世間の人々)皆が日蓮を憎んでいるのに、(貴方は)少しでも日蓮を信用して頂いた上に、此処(身延)まで訪ねて来られた事は、只、今生ばかりでなく、きっと過去の因縁によるものでしょう。御病気が重くなられたのは、意外な事です。但し、剣は敵を討つ為に、薬は病気を治す為のものです。(中略)
その上に、法華経には「閻浮提の人の病の良薬である」と説かれています。閻浮提の内の人々は病の身ですが、法華経の薬があります。(病気回復の為の)三事は既に相応しています。貴方がどうして助からない事があるでしょうか。但し、(貴方に法華経を)疑う心があるなら、(日蓮の力は)及ばないのです。
※病身の高橋六郎兵衛に与えた書で、この御文では、高橋入道の信心の厚さをたたえ、病気の事を心配されて、法華経の功徳を説き、何処までも疑いなき信心を勧め、激励されています。
補足:「三事」は法華初心成仏抄では「よき師・よき檀那・よき法」(新695頁・全550頁)であり、新田殿御書では「経・仏・行者」(新1725頁・全1452頁)となっています。此処では御抄の内容から「経・仏・行者」を指すと思われます。詳しくは新田殿御書に「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願、必ず成就せんか。」(新1725頁・全1452頁)とあります。
「おさなき人の御ために、御まぼりさずけまいらせ候。この御まぼりは、法華経のうちのかんじん、一切経のげんもくにて候。たとえば、天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠のたま、いえにははしらのようなることにて候。このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子をおやのあいするがごとく、いおの水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等の、あつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給う法にて候。よくよく御信用あるべし。」(妙心尼御前御返事<御本尊護持の事> 新1965頁・全1477頁)建治元年8月 54歳御作
現代語訳:あなたの幼子のために御守り御本尊を授けて上げましょう。この御本尊は法華経の肝心であり、一切経の眼目です。例えば、天では日月、地では大王、人では心、宝の中では如意宝珠、家では柱の様なものです。この曼陀羅を身に持てば、王を武士が護る様に、子を親が愛する様に、魚が水を頼みとする様に、草木が雨を願う様に、鳥が木を頼みとする様に、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影の様に護られる法門なのです。よくよく御信用してください。
※妙心尼御前は、持妙尼御前とも窪尼とも呼ばれ、高橋六郎兵衛入道の妻のことです。この御文は、妙心尼の子に御守御本尊を授けられ御本尊の功徳を述べられています。
「また妙の文字は、花のこのみとなるがごとく、半月の満月となるがごとく、変じて仏とならせ給う文字なり。されば、経に云わく「能くこの経を持つは、則ち仏身を持つなり」。天台大師云わく「一々文々これ真仏なり」等云々。妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておわしますを、我らが眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり。譬えば、はちすの子の池の中に生いて候がように候はちすの候を、としよりて候人は眼くらくしてみず、よるはかげの候をやみにみざるがごとし。されども、この妙の字は仏にておわし候なり。またこの妙の文字は、月なり、日なり、星なり、かがみなり、衣なり、食なり、花なり、大地なり、大海なり。一切の功徳を合わせて妙の文字とならせ給う。または如意宝珠のたまなり。」(妙心尼御前御返事<妙の字功徳の事> 新1972頁・全1484頁)建治2年又は同3年5月
現代語訳:妙の文字は、花が果となる様に、半月がやがて満月となる様に、変じて仏と成られる文字です。だから、経には「能く此の経を持つ人は則ち仏身を持つなり」と説かれ、天台大師は「一一文文是れ真仏なり」等と述べられているのです。妙の文字は三十二相・八十種好を円満に備えられている釈迦如来であられますが、我等の眼が拙いので文字と見ているのです。例えば蓮華の果が池の中に生えている様なものです。蓮華はあっても、年寄りは目が悪くて見えず、夜は影があっても暗くて見る事ができない様なものです。しかし、この妙の文字は仏であられるのです。また、この妙の文字は、月であり、太陽であり、星であり、鏡であり、衣であり、花であり、大地であり、大海なのです。一切の功徳を合わせて妙の文字となられたのです。または、如意宝珠の珠なのです。
※「妙」の一字は成仏の種であり、全ての功徳を含んだ如意宝珠である、と明示されていますね。