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題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 6

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/06/13(金) 14:14 2001:ce8:127:e3a4:3180:9cf9:79ca:f49d(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:3180:9cf9:79ca:f49d)

御書拝読で判る大聖人のお立場 6


第六章 地涌の頭領・上行菩薩、末法に立つ

上行菩薩は、法華経従地涌出品に説かれている地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人です。四菩薩は各々が「常楽我浄」の四徳を表し、上行菩薩は「我」の徳を、即ち生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯、真の我の確立を指して、「上行」と呼ばれ、四菩薩の中の筆頭格とされています。「日蓮大聖人は特別な存在の法華経行者」として、前節でご紹介しましたが、今回述べます様に、大聖人が「自身こそが上行菩薩であろう」と覚悟された、と強く想像されるのです。


「貴辺、法華経の行者となり、結句大難にもあい、日蓮をもたすけ給うこと、法師品の文に『化の四衆、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして』と説き給う。この中の『優婆塞』とは、貴辺のことにあらずんばたれをかささん。すでに法を聞いて信受して逆らわざればなり。不思議や、不思議や。もししからば、日蓮、法華経の法師なること疑いなきか。『則如来使(則ち如来の使いなり)』にもにたるらん、『行如来事(如来の事を行ず)』をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏並坐の時、上行菩薩に譲り給いし題目の五字を、日蓮ほぼひろめ申すなり。これ即ち上行菩薩の御使いか。貴辺また日蓮にしたがいて法華経の行者として諸人にかたり給う。これあに流通にあらずや。」(四条金吾殿御返事<煩悩即菩提の事> 新1522頁・全1117頁)文永9年5月 51歳御作
現代語訳:あなたは、法華経行者となり、ついには大難にも遭い、日蓮をも助けて下さることを、法華経法師品の文に「化の四衆、すなわち比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を遣わして」と説かれています。この中の優婆塞が、あなたの事でなければ、誰の事を指すのでしょうか。何故なら、あなたは、既に法華経を聞いて信受し、違背する事が無いからです。大変不思議なことです。もし(あなたが法師品の優婆塞)ならば、日蓮が法華経の法師である事は疑いないでしょう。(経文に説かれる)「則ち如来の使」にも似ています。(その行動は)「行如来事」を行じている事になるでしょう。多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのです。この事は即ち、(日蓮が)上行菩薩の御使いではないでしょうか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人にこの法を話されています。これこそ法華経流通の義ではないでしょうか。
※大聖人は御自身を「上行菩薩の御使者ではないか」とご謙遜されていますが、上行菩薩に譲られた「妙法の題目」を所持し、弘めたのが日蓮大聖人だ、と云う事実があります。


「日蓮、末法に生まれて、上行菩薩の弘め給うべきところの妙法を先立ってほぼひろめ、つくりあらわし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給う多宝仏、涌出品の時出現し給う地涌の菩薩等をまず作り顕し奉ること、予が分斉にはいみじきことなり。日蓮をこそにくむとも、内証にはいかが及ばん。されば、かかる日蓮をこの島まで遠流しける罪、無量劫にもきえぬべしとも覚えず。譬喩品に云わく『もしその罪を説かば、劫を窮むとも尽きじ』とは、これなり。また日蓮を供養し、また日蓮が弟子檀那となり給うこと、その功徳をば仏の智慧にてもはかり尽くし給うべからず。経に云わく『仏の智慧をもって多少を籌量すとも、その辺を得じ』と云えり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮、地涌の菩薩の数に入らば、あに、日蓮が弟子檀那、地涌の流類にあらずや。」(諸法実相抄 新1790頁・全1359頁)文永10年5月 52歳御作
現代語訳:日蓮は、末法に生まれて上行菩薩が弘められる筈の妙法蓮華経を先立ってほぼ弘め、作り顕される筈の本門寿量品の古仏である釈迦仏、迹門の宝塔品で涌出された多宝仏、従地涌出品の時に出現された地涌の菩薩等を、最初に作り顕わし得た事は、私の身の程を越えた出来事です。この日蓮を憎んでも、内証をどうする事もできないのです。だから、この様な日蓮を佐渡の島まで遠流した罪は、無量劫を経ても消えるとは思われません。法華経譬喩品に説かれている「もし、法華経誹謗の罪を説くならば、劫のあらんかぎりを説いても説きつくすことはできない」とはこの事です。また、日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられたこと、その功徳は仏の智慧によっても量り尽くせないのです。法華経薬王菩薩本事品には「仏の智慧をもって量っても、その功徳の多少を量り尽くすことはできない」と説かれています。地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人です。地涌の菩薩の数に入っているのかも知れません。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類(仲間・同類)となるでしょう。
※大聖人が「上行菩薩が弘教すべき妙法を先立って弘めた、地涌の菩薩の先駆けである」と自認され、日蓮門下も地涌の菩薩(の仲間)と断定されていますね。


「竜樹・天親は共に千部の論師なり。ただし、権大乗を申べて、法華経をば心に存して口に吐きたまわず〈これに口伝有り〉。天台・伝教はこれを宣べて、本門の本尊と四菩薩、戒壇、南無妙法蓮華経の五字、これを残したもう。詮ずるところ、一には、仏、授与したまわざるが故に、二には、時と機といまだ熟せざるが故なり。今、既に時来れり。四菩薩出現したまわんか。日蓮、このことまずこれを知りぬ。」(法華行者逢難事 新1303-4頁・全965頁)文永11年1月 53歳御作
現代語訳:竜樹と天親はともに千部の著作のある論師です。但し、権大乗の教義を説いていて、法華経の実義は内心に留め人には吐露しませんでした。(これには口伝があります。)天台と伝教は法華経を説きましたが、本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字(三大秘法を含む深い法門)は(説かずに末法の為に)残されたのです。要するに、一つには釈尊が授与されなかったが故に、二つには時も機根も熟していなかったからです。今、末法に入り既に時は来ており四菩薩も出現なされたのでしょうか。日蓮はこの事を誰よりも早く知ったのです。
※「今既に時来れり、四菩薩出現したまわんか。日蓮此の事先ず之を知りぬ」と、大聖人は謙虚に四菩薩の一員であると御自覚されています。


「日蓮、上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らいかと存じて、この二十余年が間、これを申す。この法門弘通せんには、『如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』『一切世間に怨多くして信じ難し』と申して、第一のかたきは国主ならびに郡郷等の地頭・領家・万民等なり。これまた第二・第三の僧侶がうったえについて、行者を、あるいは悪口し、あるいは罵詈し、あるいは刀杖等云々。」(新尼御前御返事 新1222頁・全906頁)文永12年2月 54歳御作
現代語訳:日蓮は、上行菩薩ではないけれども、ほぼこの事を知っているのは、上行菩薩の御計らいかと思って、この二十余年間、この事を語っています。この法門を弘通しようとすれば、法華経法師品に「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と、また安楽行品に「一切世間に怨多くして信じ難し」と説かれている様に、第一の敵は国主並びに郡郷等の地頭や領家、万民等です。また、第二、第三の敵である僧侶は、訴えに対して、(僧侶達は)法華経の行者を悪口したり、罵詈したり、刀杖等で迫害したりしたのです。
※大聖人は、御自身を「上行菩薩ではない」と否定されていますが、法華経の経文通りに難に遭われているのは間違いないのです。


「予つらつら事の情を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねてこれを記したもう故に、ほぼこれを喩すか。しかるに、予、地涌の一分にあらざれども、兼ねてこのことを知る故に、地涌の大士に前立ってほぼ五字を示す。」(曾谷入道殿許御書 新1408頁・全1038頁)文永12年3月 54歳御作
現代語訳:私(日蓮)がよくよくその意味を考えてみるに、伝教大師は薬王菩薩として霊鷲山の会座に列して、釈尊が上行菩薩の出現時をあらかじめ説かれていた為に、ほぼこれを示されたのでしょう。ところが、私(日蓮)は地涌の菩薩の一分ではありませんが、かねてからこの事を知っていましたので、地涌の菩薩の出現に先立って、ほぼ妙法蓮華経の五字を顕したのです。
※地涌の菩薩に先立って「妙法蓮華経の五字」を顕されたという事実により、本文の頃に大聖人が上行菩薩の御覚悟に立たれた事が想像されますね。


「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩うまれかわり給いてや、日蓮を御とぶらい給うか。不思議なり、不思議なり。この御志をば日蓮はしらず、上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ。」(阿仏房御書<宝塔御書> 新1733頁・全1304-5頁)建治2年3月
現代語訳:阿仏房よ、(あなたは)(信心強盛な者なので:前文より)北国の導師ともいうべきでしょう。浄行菩薩が生まれ変わって、日蓮を訪ねられたのでしょうか。まことに不思議なことです。あなたの厚いお志(の由来)を日蓮は知りませんが、上行菩薩のご出現の力にお任せしましょう。
※大聖人は、阿仏房を四菩薩次席の浄行菩薩と見立てています事から、御自身が上行菩薩であると、確信されていると思われます。


「それについて諸僧の説法を聴聞仕って、いずれか成仏の法とうかがい候ところに、日蓮聖人御房は、三界の主・一切衆生の父母たる釈迦如来の御使い上行菩薩にて御坐しまし候いけることの法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。」(頼基陳状 新1579-80頁・全1161頁)建治3年6月 56歳御作
現代語訳:それについて諸僧の説法を聴聞して、どの様な法が成仏の法ですかと尋ねたところ、日蓮聖人は、三界の主であり、一切衆生の父母であり、釈迦如来の御使い、上行菩薩であられることを法華経に説かれていたので、信ずるに至った次第であります。
※四条金吾の上司へ大聖人が代筆された御文ですが、経文から「日蓮聖人が上行菩薩」だと、明言されています。


「いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩世に出現し給わず。この人、末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中、国ごと人ごとに弘むべし。例せば、当時、日本国に弥陀の名号の流布しつるがごとくなるべきか。しかるに、日蓮は、いずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず。持戒・破戒にも闕けて無戒の僧、有智・無智にもはずれたる牛羊のごとくなる者なり。いかにしてか申し初めけん、上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字を、先立って、ねごとのように心にもあらず南無妙法蓮華経と申し初めて候いしほどに唱うるなり。詮ずるところ、よきことにや候らん、また悪しきことにや侍るらん、我もしらず、人もわきまえがたきか。」(妙蜜上人御消息 新1708-9頁・全1239頁)建治2年3月 55歳御作
現代語訳:まだ法華経本門の肝心である題目を付嘱された上行菩薩は世に出現されていません。この人(上行菩薩)は、末法に出現して、妙法蓮華経の五字を世界中の国毎に、人毎に弘めるのです。例えば、今の日本国に阿弥陀の題目が流布している様になるのでしょう。ところが日蓮は、いずれの宗も元祖でもありません。またその流れを汲むものでもありません。持戒破戒の者でもなく、無戒の僧であり、有智、無智という概念からも離れた牛羊の様な者です。(それが)どの様にして言い始めたのか、上行菩薩が出現して弘められるべき妙法蓮華経の五字を、その出現に先立って寝言の様に(私)心にもなく南無妙法蓮華経と申し始めた様に唱えたのです。所詮、この事は良い事でしょうか。また悪い事でしょうか。私自身も知らないし、人も判定できないでしょう。
※大聖人は、「妙法蓮華経の五字」をごく自然に唱えた様に述べておられますが、実際は上行菩薩の自覚に立たれて、流布すべき「妙法の題目」をあえて唱えられたのでしょう。


◎物事を成し遂げる為には、率先垂範を示す事が重要であり、団・組織の統制にあっては、リーダーシップを発揮するのが地涌の菩薩の行動であり、池田先生も強調されておられる「一人立つ精神」こそが、上行菩薩としての自覚になるのではないでしょうか。


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