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師匠と我らとの関係 31(駿河方面の門下に宛てられた御抄)後
「駿河方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編
「この経の修行に重々のしなあり。その大概を申さば、記の五に云わく『悪の数を明かすとは、今の文には説・不説を云うのみ。ある人これを分かちて云わく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪因に十四あり。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり』。この十四誹謗は在家・出家に亘るべし。恐るべし、恐るべし。過去の不軽菩薩は、『一切衆生に仏性あり。法華経を持てば必ず成仏すべし。彼を軽んじては仏を軽んずるになるべし』とて、礼拝の行をば立てさせ給いしなり。法華経を持たざる者をさえ、『もし持ちやせんずらん、仏性あり』とて、かくのごとく礼拝し給う。いかにいわんや、持てる在家・出家の者をや。この経の四の巻には『もしは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀ることあらば、その罪多きこと、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり』と見えたり。あるいは『もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ』とも説かれたり。これをもってこれを思うに、忘れても法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか。その故は、法華経を持つ者は必ず皆仏なり、仏を毀っては罪を得るなり。かように心得て唱うる題目の功徳は、釈尊の御功徳と等しかるべし。」(松野殿御返事<十四誹謗の事> 新1987-8頁・全1382頁)建治2年12月 55歳御作
現代語訳:法華経の修行にも重々の段階があります。その概略を述べると、妙楽大師の法華文句記の五の巻には「悪の数を明らかにするとは、今の文(法華経の譬喩品)には『説不説』とだけ説いている。ある人は、これ(悪)を分類して述べている。『先に謗法の悪因を列挙し、次に悪果を述べる。悪因には十四の謗法がある。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善である』」とあります。この十四誹謗は、在家出家の両方にわたるので、謗法の罪を恐れなければなりません。過去の不軽菩薩は、「一切の衆生には、皆仏性がある、法華経を持つならば、必ず成仏する、その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽んずることになる」と言って一切衆生に向かって礼拝の行を立てたのです。(不軽菩薩は)法華経を持っていない者でさえも、「もし(将来に」持つ事になる(という、本来)仏性がある」として、この様に敬い礼拝したのです。ましてや(法華経を)持っている在家・出家の者は、当然(尊敬しなければならないの)です。この法華経第四の巻の法師品には「もし在家の身であれ、出家であれ、法華経を持ち説く者に対して、一言でもそしるならば、その罪報の多い事は、釈迦仏を一劫の間、直に(面と向かって)そしった罪よりも重い」と、説かれています。或いは普賢菩薩勧発品に「もし事実にしても、事実でないにしても(法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い)」とも説かれています。これらの経文に照らして考え合わせれば、忘れても、法華経を持つ者を互いにそしってはならないのです。その理由は、法華経を持つ者は必ず、皆仏なのです。仏をそしれば罪を受けるのです。この様に心得て唱える題目の功徳は、仏の唱える功徳と等しいのです。
補足:妙楽大師が、法華経譬喩品から法華文句記の六に次の「十四種の法華誹謗」を立てました。 ①憍慢=増上慢、慢心の意。おごりたかぶり仏法をあなどること。②懈怠=仏道修行をなまけること。③計我=我見、自分の勝手な考えで、仏法教義を判断すること。④浅識=仏法道理が解らないのに求めようとしないこと。⑤著欲=欲望にとらわれて仏法を求めないこと。⑥不解=仏法教義を解ろうとしないこと。⑦不信=仏法を信じないこと。⑧顰蹙=顔をしかめ仏法を非難すること。⑨疑惑=仏法教義を疑って迷うこと。⑩誹謗=仏法をそしり悪口をいうこと。⑪軽善=仏法を信じている人を軽蔑し馬鹿にすること。⑫憎善=仏法を信じている人を憎むこと。⑬嫉善=仏法の信者を怨嫉すること(和合僧を破る働きをする)。⑭恨善=仏法を修行する者をうらむこと。
以上の①驕慢から⑩誹謗までは御本尊を受持する事により、謗法の罪を免れることができます。しかし、⑪軽善から⑭恨善までは、正法に帰依していても、善人を軽んじたり、同志を怨嫉等すれば功徳を受けられないので、気をつけなければなりません。根本は、御本尊を信ずるか、信じないかによって、一切が決定されます。だから、念仏無間地獄抄(新748頁・全97頁)に「譬喩品の十四誹謗も不信をもって体となせり」とあります。
※松野殿(生没年?-建治4(1278)年)とは、松野六郎左衛門入道のことです。本抄では、信心があれば、日蓮の唱題と凡夫の唱題に勝劣は無く、十四誹謗に触れて法華経行者を謗る事を戒められています。
「仏法をばがくすれども、あは我が心のおろかなるにより、あるいはたとい智慧はかしこきようなれども、師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなおしくならいうることかたし。たとい明師ならびに実経に値い奉って正法をえたる人なれども、生死をいで仏にならんとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七つの大事出現す。たといからくして六つはすぐれども、第七にやぶられぬれば、仏になることかたし。その六つはしばらくおく。第七の大難は天子魔と申すものなり。」(三沢抄 新2011頁・全1487頁)年10健治4年2月 57歳御作
現代語訳:仏法を学んでも、或いは自分の心が愚かな事により、或いはたとえ智慧があり賢い様であっても、師匠によって自分の心が曲がってしまうのを知らずにいる為に、仏教を正しく習学し会得する事は難しいのです。たとえ正師および実経に遇えて正法を得た人であっても、生死を出離して仏に成ろうとする時には、必ず影が身に添う様に、雨の時に雲がある様に三障四魔と云って七つの大きな障魔が現れて来るのです。たとえ辛うじて六つは通過したとしても、第七番目に破られたならば仏に成ることは難しいです。その六つはしばらく置くとして、第七番目の大難は天子魔というものです。
※三沢殿(三沢小次郎、生没年不明)とは、駿河国富士の三沢(静岡県富士郡柚野村)の領主とされ、本抄では仏法を正しく学ぶ事の難しさを説き、仏道を成就する時、大難が起こる理由が述べられています。
「妙法蓮華経の徳、あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は、悪変じて善となる。玉泉と申す泉は石を玉となす。この五字は凡夫を仏となす。されば、過去の慈父尊霊は、存生に南無妙法蓮華経と唱えしかば、即身成仏の人なり。石変じて玉と成るがごとし。孝養の至極と申し候なり。故に、法華経に云わく『この我が二子は、すでに仏事を作しつ」。また云わく「この二子とは、これ我が善知識なり』等云々。」(内房女房御返事 新2033頁・全1423頁)弘安3年8月59歳御作
現代語訳:妙法蓮華経の徳を大略申し開きます。毒薬が変じて薬となるとの譬えの様に、妙法蓮華経の五字は、悪が変じて善となるのです。玉泉という泉は石を玉に変えると云われますが、この五字は凡夫を仏に変えるのです。だから、過去の慈父尊霊は、存命中に南無妙法蓮華経を唱えたのですから即身成仏の人なのです。それはちょうど石が変じて玉となる様なものです。これこそ孝養の至極と云うべきで、法華経の妙荘厳王本事品に(浄蔵・浄眼の二子が父母を教化したことを褒めて)「この我が二人の子が、既に仏事をなした」とあり、また、「この二人の子は、これ(この行為)が我が善知識である」と説かれています。(これこそ法華経の功徳なのです)
※本抄は、駿河国(静岡県)庵原郡内房に住む内房女房(内房尼御前)が、亡父の百か日法要に際して供養された御返事ですが、唱題する功徳を様々な点から御教示されています。
「地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方等と申す経も候。しかれども、委細にたずね候えば、我らが五尺の身の内に候とみえて候。さもやおぼえ候ことは、我らが心の内に父をあなずり母をおろかにする人は、地獄その人の心の内に候。譬えば、蓮のたねの中に華と菓とのみゆるがごとし。仏と申すことも、我らが心の内におわします。譬えば、石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我ら凡夫は、まつげのちかきと虚空のとおきとは見候ことなし。我らが心の内に仏はおわしましけるを知り候わざりけるぞ。」(十字御書 新2036頁・全1491頁)弘安4年1月
現代語訳:地獄と仏とは、何処に存在するのかと探究すると、或いは地の下にあるという経文もあり、或いは西方等におられるという経もあります。しかしながら、詳細に探究すると、私達の五尺の身の内に存在すると説かれています。そうかもしれないと思われることは、私達の心の中に父を侮り、母を疎かにする人は、地獄がその人の心の中にあるということです。たとえば、蓮の種の中に花と実とが見られる様なものです。仏というのも私達の心の中にいらっしゃるのです。たとえば、石の中に火があり、珠の中に財がある様なものです。私達凡夫は、まつげが近くにあるのと虚空が遠くにあるのとは見ることができません。私達の心の中に仏がおられるのを知らないのです。
※本抄は、駿河国(静岡県)富士郡重須の地頭・石河新兵衛能助(生没年不明)の妻(南条時光の姉で純真な信心を貫き、妙一尊尼の称号を賜る)に与えられた書で、最初に年頭の御供養のお礼と功徳について述べられ、「地獄と仏」を定義し、法華経を信じる人の功徳を説いています。
「当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思い、あるいは法華経に肩を並べて斉しと思い、あるいは勝れたり、あるいは劣るなれども機にかなえりと思えり。しかるに、如来の聖教に随他意・随自意と申すことあり。譬えば、子の心に親の随うをば随他意と申す、親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり。仏、一切衆生の心に随い給う故に。法華経は随自意なり。一切衆生を仏の心に随えたり。諸経は仏説なれども、これを信ずれば、衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点もこれを深く信ずれば、我が身即ち仏となる。譬えば、白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白物を入るれば白くなるがごとし。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す。」(新池殿御消息 新2059頁・全1437頁)弘安2年5月 58歳御作
現代語訳:今の人は人師の言を如来の金言と思い、或いは法華経に肩を並べて同等と思い、或いは勝れていると思い、或いは劣っているけれども衆生の機根に適っていると思っています。ところが、如来の聖教に随他意と随自意と云う言葉があります。例えば、子供の心に親の随うのを随他意といい、親の心に子供が随うのを随自意というのです。諸経は随他意です。仏が一切衆生の心に随って説かれたからです。法華経は随自意です。一切衆生を仏の心に随わせて説かれたからです。だから、諸経は仏説ですが、これを信じると、衆生の心に随ったので、永久に仏にはなれないのです。法華経は仏説であり仏智です。一字一点でもこれを深く信じれば、我が身は即仏となります。例えば、白紙を墨で染めると黒くなり、黒漆に白い物を入れると白くなる様なものです。毒薬が変じて薬となり、衆生が変じて仏となるのです。だから妙法というのです。
※新池殿とは、遠江国磐田郡(静岡県袋井市)新池に住む新池左衛門尉(生没年不明)の事で、本抄では、他宗諸経の批判に「随他意と随自意」の教論を用い、宿縁深厚の妙法の信心を貫く様に激励されています。
「この経の信心と申すは、少しも私なく、経文のごとくに、人の言を用いず、法華一部に背くことなければ、仏に成り候ぞ。仏に成り候ことは別の様は候わず。南無妙法蓮華経と他事なく唱え申して候えば、天然と三十二相八十種好を備うるなり。「我がごとく等しくして異なることなし」と申して、釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。(中略)
これらの法門を能く能く明らめて、一部八巻二十八品を頭にいただき、懈らず行い給え。また某を恋しくおわせん時は、日々に日を拝ませ給え。某は日に一度、天の日に影をうつす者にて候。この僧によませまいらせて、聴聞あるべし。この僧を解悟の智識と憑み給いて、つねに法門御たずね候べし。聞かずんば、いかでか迷闇の雲を払わん。足なくして、いかでか千里の道を行かんや。返す返す、この書をつねによませて御聴聞あるべし。}(新池御書 新2067-9頁・全1443-4頁)弘安3年2月 59歳御作
現代語訳:この経の信心というのは少しも我見なく経文の通りに、人の言を用いず、法華経一部に背くことがなければ仏に成るのです。仏に成るということは別のことではないのです。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく唱えていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのです。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊の様な仏に簡単に成るのです。(中略)
これらの法門をよくよく明らかに知って法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行しなさい。また私を恋しくなった時は日々に太陽を拝んでください。私は日に一度、天の太陽に影を映す者です。この僧に読ませられて聞きなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きください。聞かなければ、どうして迷いの雲を払えましょう。足がなくて、どうして千里の道を行けましょうか。かえすがえすも、この書を常に読ませて、お聞きください。
※本抄には、「鎌倉より京への道のり」や「雪山の寒苦鳥」等多くの譬えが述べられ、信心修行の在り方や法門が示され、よく理解して信心に励むよう指南されていますね。
◎この地方の大聖人門下として、他にもおられますが、書きれませんでした。それ故に、重要御文を御紹介できていないで漏れているかもわかりませんが、どうかお許しください。