【広告】Amazonから最大18%ポイントアッププライムデー7月11日開催

宿坊2の掲示板


名前
Eメール
題名
内容
#000000#000033#000066#000099#0000CC#0000FF#003300#003333#003366#003399#0033CC#0033FF#006600#006633#006666#006699#0066CC#0066FF#009900#009933#009966#009999#0099CC#0099FF#00CC00#00CC33#00CC66#00CC99#00CCCC#00CCFF#00FF00#00FF33#00FF66#00FF99#00FFCC#00FFFF#330000#330033#330066#330099#3300CC#3300FF#333300#333333#333366#333399#3333CC#3333FF#336600#336633#336666#336699#3366CC#3366FF#339900#339933#339966#339999#3399CC#3399FF#33CC00#33CC33#33CC66#33CC99#33CCCC#33CCFF#33FF00#33FF33#33FF66#33FF99#33FFCC#33FFFF#660000#660033#660066#660099#6600CC#6600FF#663300#663333#663366#663399#6633CC#6633FF#666600#666633#666666#666699#6666CC#6666FF#669900#669933#669966#669999#6699CC#6699FF#66CC00#66CC33#66CC66#66CC99#66CCCC#66CCFF#66FF00#66FF33#66FF66#66FF99#66FFCC#66FFFF#990000#990033#990066#990099#9900CC#9900FF#993300#993333#993366#993399#9933CC#9933FF#996600#996633#996666#996699#9966CC#9966FF#999900#999933#999966#999999#9999CC#9999FF#99CC00#99CC33#99CC66#99CC99#99CCCC#99CCFF#99FF00#99FF33#99FF66#99FF99#99FFCC#99FFFF#CC0000#CC0033#CC0066#CC0099#CC00CC#CC00FF#CC3300#CC3333#CC3366#CC3399#CC33CC#CC33FF#CC6600#CC6633#CC6666#CC6699#CC66CC#CC66FF#CC9900#CC9933#CC9966#CC9999#CC99CC#CC99FF#CCCC00#CCCC33#CCCC66#CCCC99#CCCCCC#CCCCFF#CCFF00#CCFF33#CCFF66#CCFF99#CCFFCC#CCFFFF#FF0000#FF0033#FF0066#FF0099#FF00CC#FF00FF#FF3300#FF3333#FF3366#FF3399#FF33CC#FF33FF#FF6600#FF6633#FF6666#FF6699#FF66CC#FF66FF#FF9900#FF9933#FF9966#FF9999#FF99CC#FF99FF#FFCC00#FFCC33#FFCC66#FFCC99#FFCCCC#FFCCFF#FFFF00#FFFF33#FFFF66#FFFF99#FFFFCC#FFFFFF
写真

URL
削除キー 項目の保存

[157]

題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 5

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/06/06(金) 17:33 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

御書拝読で判る大聖人のお立場 5


第五章 発迹顕本・法華経行者としての覚悟(佐渡以後)


発迹顕本「迹を発(はら)って本を顕(あらわ)す」とは、現代語で言えば「仮の姿(立場)を取り払って本来の姿(立場)を示す」との意味です。爾前経から本門迹門まで、インド生誕の釈尊は、「始成正覚(始めて正覚を成ず、意味:この世で修行し仏と成る)」を説いていましたが、法華経本門寿量品において「久遠実成(久遠の昔に成道していた)」との境地、即ち「発迹顕本」を示されました。と同様に、日蓮大聖人も、竜の口の法難の首刑の座以後、「発迹顕本」され、御自身及び全民衆が成仏する為の特別な存在(法華経の行者)である、と確信されたのです。


「今度、法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ、日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。その故は、すでに法華経の故なるがゆえなり。経に云わく『十方の仏土の中には、ただ一乗の法のみ有り』、この意なるべきか。この経文に『一乗の法』と説き給うは、法華経のことなり。十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり。『仏の方便の説を除く』と見えたり。もししからば、日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか。神力品に云わく『もしは林中においても、もしは園中においても、もしは山谷曠野にても、この中に乃至般涅槃したもう』とは、これか。」(四条金吾殿御消息 新1516-7頁・全1113頁)文永8年9月 50歳御作
現代語訳:今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪までに及んだのです。流罪は伊東であり、死罪は竜口です。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所であり、仏土に劣る場所ではないのです。その理由は、すでに法華経の為に身命を捨てた所だからです。法華経方便品に『十方仏土の中には唯有一乗の法のみあり』とあるのは、この意でしょうか。この経文に一乗の法と説かれているのは、法華経即ち南無妙法蓮華経の事なのです。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全く無いのです。これを法華経方便品には『仏の方便の説を除く』と説かれています。もしそうであるならば、日蓮が難にあう場所毎に仏土となるでしょう。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮の命をとどめおく事は法華経の為ですから、その地は寂光土ともいえるでしょう。法華経神力品には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においても、この中に(乃至)般涅槃したもう」と説かれているのはこの原理を言っているのです。
※本抄に「日蓮が難に遭遇する場所毎に仏土なるべきか」とあり、「仏土・寂光土」とは仏が住まわれる場所の事なので、大聖人は法華経行者ですが、更に尊い存在に違いないのです。


「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」(開目抄 新66頁・全197頁)文永9年2月 51歳御作
現代語訳:迹門の法華経方便品は、一念三千及び二乗作仏を説いて、爾前経の二種の過失のうち一つを遁れました。けれども、いまだ迹門では、(仏の本地を顕していない為に、本有常住の生命の実体を説き明かしていません。即ち)発迹顕本していないので、(生命の実体が不明で)真実の一念三千も現れていませんし、(仏の生命も九界の生命もその実体が不明なので)二乗作仏も決められず、(一念三千を説いていても理の上で説いたに過ぎず)、水面に浮かぶ月影を見る様なものです。(二乗が作仏といっても、仏界・九界ともにその本体を説かれてないので)根なし草が波の上に浮んでいる様に似ているのです。 法華経本門に進んで、(釈尊は五百塵点劫のその昔に成仏したと説き、それまでに多数の経々で説いて来た応身・報身等の全ての仏身を打ち破られたのです。それらの仏身は、いかに荘厳な姿に説かれていても、みなインドで修業し、この世で成仏したと説いているからです。この様に、寿量品以前の経で説く仏――因果に約すれば九界が因で仏界が果――を打ち破ったので、それらの経に説いている成仏の為の修業、即ち因も打ち破られたのです。爾前・迹門の十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説き顕されたのです。これは即ち(無始無終の永遠に存在する十界を説き顕す)本因本果の法門なのです。(地獄や菩薩等の)九界も無始常住の仏界に具わっており、仏界も(別世界の存在ではなくて)無始常住の九界に具わって、これこそ真の十界互具・百界千如・一念三千なのです。
※大聖人は、法華経の経文を引いて、釈尊が始成正覚の迹を発いて本地の久遠実成を顕された、事を述べられているのです。


「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじぬらん。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし。
勧持品に云わく『ただ願わくは慮いをなしたまわざれ。仏滅度して後、恐怖悪世の中において、我らは当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、および刀杖を加うる者有らん。我らは皆当に忍ぶべし。悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるを謂って得たりとなし、我慢の心は充満せん。あるいは阿練若に納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂って、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごとくならん。この人は悪心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮りて、好んで我らが過を出ださん○常に大衆の中に在って我らを毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士および余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて【これ邪見の人、外道の論議を説く】と謂わん○濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼はその身に入って、我を罵詈・毀辱せん○濁世の悪比丘は、仏の方便、宜しきに随って説きたもうところの法を知らず、悪口して顰蹙し、しばしば擯出せられん』等云々。」(開目抄 新102頁・全223頁)
現代語訳:日蓮と言う者は、去年の九月十二日子丑の時に首をはねられました。(凡夫の肉身は竜の口において断ち切られ、久遠元初の自受用報身如来と顕われて、)佐渡の国に来て、翌年の二月(「開目抄」を著述して、)雪深い佐渡の国より、鎌倉方面の有縁の弟子へ贈るのですが、(この御抄を拝する弟子たちは、濁劫悪世に法華経を弘通する大難を思うて、)怖れ入るでしょうが、(日蓮と同じく広宣流布の決意をかたく持っている者は)恐怖が無いのです。(「身命を愛せず」の志を)見ない人は(この御抄を拝して)どれほど怖れることでしょう。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の、(法華経に予言した三類の強敵を、日蓮が一身に受けて末法の弘通と大難を実証している姿)は未来をも含む日本国当世を映す明鏡なのです。(勧持品の予言は日蓮の形見であり、開目抄こそ)日蓮の形見なのです。
勧持品には「ただ願いとして、世尊よ、どうか心配しないでください。仏が滅度して後の恐怖悪世の中において、私達はまさに広く法華経を説くでしょう。種々の無智の人は悪口罵詈し、また刀や杖をもって迫害する者もいるでしょう。(しかし)私達皆はこれを耐え忍ぶでしょう。悪世の中の比丘は、邪智で、心は曲っていて、未だ得ていない悟りを得ていると想い、我慢の心が充満します。或いは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かな所で真の仏道を行じていると言い、世事にあくせくする人間を軽賤する者がいるでしょう。この人は、悪心を懐き、常に世俗の事を思い、閑静な場所にいるとの理由だけで、自己保身の為に、正法の行者に悪口を並べ立てるでしょう。常に大衆の中にあって、正法の行者を毀る為、国王や大臣や婆羅門居士及びその他の比丘衆に向って誹謗して、我らの悪を説いて『これは邪見の人であり、外道の論議を説いている』と言うでしょう。濁劫悪世の中には多くの種々の恐怖する事件があり、悪鬼がその身に入って我ら正法の行者をののしり、批判し、はずかしめるでしょう。濁世の悪比丘は、仏が方便随宜の説法をしていることに迷い、経の浅深勝劣を知らず、正法の行者に悪口し、顔をしかめ、しばしばその居所を追い出すでしょう」とあります。
※竜の口の法難の首刑以後も、法華経勧持品にある「法華経行者に対して、悪口罵詈したり、迫害したり、誹謗等の難が起こる」との予言通り大聖人の身に符合する出来事が度々起こりました。大聖人は竜の口で、弘教に対する境涯が変わったと自覚されたのです。


「仏語むなしからざれば、三類の怨敵すでに国中に充満せり。金言のやぶるべきかのゆえに、法華経の行者なし。いかんがせん、いかんがせん。そもそも、たれやの人か衆俗に悪口・罵詈せらるる。誰の僧か刀杖を加えらるる。誰の僧をか法華経のゆえに公家・武家に奏する。誰の僧か「しばしば擯出せられん」と度々ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出ださんとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあらず。天これをすて給うゆえに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらん。求めて師とすべし。」((開目抄 新111頁・全230頁)
現代語訳:仏の予言が虚妄で無ければ、三類の怨敵は既に国中に充満しているのです。金言が破れている為でしょうか、法華経の行者もいません。一体どうしたのでしょうか。そもそも誰人かが(法華経勧持品の予言の通りに)衆俗に悪口を言われ、馬鹿にされています。どの僧かが刀杖を加えられています。どの僧かが法華経の為に公家武家へ訴えられています。どの僧かがしばしば所を追い出され、たびたび流罪されています。(これらの予言に適中する者は)日蓮以外には日本国に該当する人はいません。(しかし)日蓮は法華経の行者ではありません。諸天がこれを捨てられたのだから。誰を当世の法華経の行者として、仏語が真実であると証明するのでしようか。仏と大悪の提婆とは身と影の様に生生世世に離れることはありません。聖徳太子に敵対する守屋とは、蓮華の花と菓が同時になる様な関係でした。(同様に)法華経の行者がいれば、必ず三類の怨敵がいるでしょう。三類は既に日本国にあります。法華経の行者は誰なのでしょう。求めて師としたいものです。
※大聖人は御自身を「法華経の行者ではない」と否定していますが、文意を読み解けば、大聖人こそが「特別な法華経行者である」と自認されている事が理解できます。


「上に挙ぐるところの諸宗の人々は、「我こそ法華経の意を得て、法華経を修行する者よ」と名乗り候えども、予がごとく、弘長には伊豆国に流され、文永には佐渡島に流され、あるいは竜の口の頸の座等、この外種々の難、数を知らず。経文のごとくならば、予は正師なり善師なり、諸宗の学者はことごとく邪師なり悪師なりと覚しめし候え。」(最蓮房御返事 新1782頁・全1341-2頁)文永9年4月 51歳御作
現代語訳:先に挙げた諸宗の人々は、自分こそ法華経の意を心得て法華経を修行する者であると名乗っていますが、日蓮が受けた様な難には遭遇していません。日蓮は弘長元年に伊豆の国に流され、文永八年に佐渡の島に流され、或いは竜の口で斬首刑の座にすわる等、このほか種々の難は数えきれないほどです。経文の通りならば、自分こそ正師であり、善師です。諸宗の学者はことごとく邪師であり、悪師であるとお考えください。
※大聖人は「経文通りなら、自分は正師であり、善師です」と宣言されました。


「日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説のごとく受持すれば聖人のごとし。また世間の作法兼ねて知るによって注し置くこと、これ違うべからず。現世に云いおく言(ことば)の違わざらんをもって、後生の疑いをなすべからず。日蓮は、この関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり。日蓮捨て去る時、七難必ず起こるべしと、去年九月十二日、御勘気を蒙りし時、大音声を放ってよばわりしこと、これなるべし。わずかに六十日乃至百五十日に、この事起こるか。これは華報なるべし。実果の成ぜん時、いかがなげかわしからんずらん。」(佐渡御書 新1286頁・全957-8頁)文永9年 51歳御作
現代語訳:日蓮は聖人ではありませんが、法華経の説法にある様に受持しているので聖人の様なのです。また、世間の出来事についても予め知ることができ、それを記して置いた事が違っていないのです。(この様に)現世に言っていた事が的中したことをもって、後生の事について言っていることを疑ってはいけないのです。日蓮はこの関東の北条一門にとっては棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、眼目なのです。日蓮を(国が)捨て去る時には、必ず七難が起こるであろうと去年の九月十二日に御勘気を蒙った時、大音声を放って叫んだのはこの事です。(竜の口の法難後)わずかに六十日から百五十日でこの様な自界叛逆難が起きたのは華報(来世に顕われる果報に先立って、その前兆として現世に受ける報い・現証)なのです。実果(来世に実際に得る果報)が現れた時は、どれほど嘆かわしい事でしょうか。
※大聖人は、「自身は聖人ではない」と否定されていますが、聖人の行動ですね。そして正法を認めない国家の近未来に対して、嘆かわしいと闘志を燃やされていますね。


「我らが本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給う。天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年、今、日蓮は二十余年の間権理を破す。その間の大難、数を知らず。仏の九横の難に及ぶか及ばざるかは知らず。恐らくは、天台・伝教も、法華経の故に日蓮がごとく大難に値い給いしことなし。彼はただ悪口・怨嫉ばかりなり。これは両度の御勘気、遠国に流罪せられ、竜の口の頸の座、頭の疵等、その外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし、これらの大難には、竜樹・天台・伝教も、いかでか及び給うべき。されば、如説修行の法華経の行者には、三類の強敵打ち定んで有るべしと知り給え。されば、釈尊御入滅の後二千余年が間に、如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の三人はさておき候いぬ、末法に入っては、日蓮ならびに弟子檀那等これなり。我らを如説修行の者といわずば、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。」(如説修行抄 新603-4頁・全504頁)文永10年 52歳御作
現代語訳:私達の本師である釈迦如来は、(法華経を説いた)在世八年間に折伏をされたのです。天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年、今、日蓮は二十余年の間、権教の邪義を折破して来ました。その間に受けた大難は数え切れません。(これが)釈尊の九横の大難に相当するか否かは論じられません。おそらく、像法時代の天台や伝教でさえも法華経の為に日蓮ほどの大難には遭遇していません。彼らはただ悪口や怨嫉されただけです。此れ(日蓮)は二度幕府の御勘気を蒙り、遠国に流罪され、また竜の口の法難では首の座にすえられ、小松原では頭に刀傷等を受け、ほかに悪口されたり、弟子等を流罪にされたり、牢に入れられたり、日蓮門下の檀那の所領を取り上げ、領内を追放されています。こうした大難に竜樹・天台・伝教の難がどうして上回るでしょうか。だから、如説修行の法華経の行者には三類の強敵が必ず競い起こると知(って覚悟を決め)ることです。そうであれば、釈尊の滅後から二千年の間に如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の三人を除いて、末法に入ってからは日蓮とその門下の弟子檀那等です。私達を如説修行の者であると言わないなら、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の行者では無くなってしまうのです。
※大聖人は、御自身は勿論ですが、我々弟子までもが如説修行の法華経行者である、と述べられています。


◎本章でご紹介するのに相応しい御文が数多有って、紹介しきれなかったのですが、大聖人が特別な存在の法華経行者である事は、明らかです。


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonから最大18%ポイントアッププライムデー7月11日開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板