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宿坊2の掲示板


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題名:師匠と我らとの関係 28(南条家及び時光に宛てられた御抄)後

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/01/21(火) 22:37 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

師匠と我らとの関係 28(南条家及び時光に宛てられた御抄)後


「南条家及び時光に宛てられた御抄」における弟子との関係 後編


「今、日蓮は、聖人にはあらざれども、法華経に名をたてり。国主ににくまれて我が身をせく上、弟子・かよう人をも、あるいはのり、あるいはうち、あるいは所領をとり、あるいはところをおう。かかる国主の内にある人々なれば、たとい心ざしあるらん人々もとうことなし。このこと事ふりぬ。なかにも今年は、疫病と申し、飢渇と申し、といくる人々もすくなし。たといやまいなくとも、飢えて死ぬことうたがいなかるべきに、麦の御とぶらい、金にもすぎ、珠にもこえたり。彼のりたがひえは、変じて金人となる。この時光が麦、何ぞ変じて法華経の文字とならざらん。この法華経の文字は釈迦仏となり給い、時光が故親父の左右の御羽となりて、霊山浄土へとび給え、かけり給え、かえりて時光が身をおおい、はぐくみ給え。」(時光御返事 新1880-1頁・全1550頁)弘安元年7月 57歳御作
現代語訳:今、日蓮は、聖人ではないですが、法華経の御名を立てました。(その為に)国主に憎まれて、自分が責められるばかりでなく、弟子や往き来する人までも、罵られたり、打たれたり、領地を取られたり、住所を追われたりしました。この様に国主の領内に居住する人々であれば、たとえ志があると思える人々も訪れることはありません。この事は新しいことではないです。それにしても、今年は疫病や飢饉などで、訪れて来る人々が少ないのです。たとえ、病にかからなくても、飢えて死ぬことは疑いないと思っていたのに、あなたが送ってくださった麦は、金よりも勝れ、宝珠の有り難さを越えているのです。あの利吒(雑宝蔵経等に説かれた長者の子息、子細は省く)の稗は変わって金人となりました。今、時光から送られた麦が、どうして法華経の文字にならない事があるでしょうか。この法華経の文字は釈迦仏と成られて、時光の亡き父上の左右の翼となって、霊山浄土へ飛翔されて、帰って来ると、時光の身を覆い育まれるでしょう。
※大聖人は南条時光の御供養の偉大さを説かれ、供養の麦が法華経の文字に変じて釈迦仏となり、時光と亡父を守護すると、述べられています。


「日蓮、種々の大難の中には竜の口の頸の座と東条の難にはすぎず。その故は、諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。あるいはのり、せめ、あるいは処をおわれ、無実を云いつけられ、あるいは面をうたれしなどは物のかずならず。されば、色心の二法よりおこりてそしられたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。ただし、ありとも、法華経の故にはあらじ。さてもさてもわすれざることは、しょうぼうが法華経の第五の巻を取って日蓮がつらをうちしことは、三毒よりおこるところのちょうちゃくなり。(中略)
第五の巻は一経第一の肝心なり。竜女が即身成仏あきらかなり。提婆はこころの成仏をあらわし、竜女は身の成仏をあらわす。一代に分絶えたる法門なり。さてこそ、伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたることを十あつめ給いたる中に、即身成仏化導勝とはこのことなり。この法門は天台宗の最要にして、即身成仏義と申して、文句の義科なり。真言・天台の両宗の相論なり。竜女が成仏も法華経の功力なり。文殊師利菩薩は『唯常宣説妙法華経(ただ常に妙法華経のみを宣説す)』とこそかたらせ給え。」(上野殿御返事<刀杖難の事> 新1888-9頁・全1555-6頁)弘安2年4月 58歳御作
現代語訳:日蓮が受けた種々の大難の中で、竜の口の頸の座と東条小松原の難ほどの大難はありません。その理由は、諸難の中でも身命を捨てるほどの大難はないからです。罵られたり、責められたり。処を追われたり、讒言をされたり、面を打たれた事などは、(この二つの大難に比べれば)物の数ではありません。だから、色法と心法との二法から謗られた者は、日本国の中では日蓮一人だけです。たとえ難にあった人がいたとしても法華経の故ではないでしょう。それにつけても忘れられない事は、(竜の口法難の時、松葉ヶ谷の草庵で)少輔房が法華経の第五の巻を取り出して、日蓮の面を打った事は、貪瞋癡の三毒から起こった打擲(ちょうちゃく:打ったり叩いたりすること)なのです。(中略)
法華経第五の巻は一経第一の肝心です。(此処に)竜女の即身成仏が明らかに説かれています。提婆達多は心の成仏を表し、竜女は身の成仏を表しています。一代経において他に説かれていない(深遠な)法門です。だからこそ、伝教大師は法華秀句の中で法華経が一切経に超過して勝れている事を十箇条挙げられましたが、その中で即身成仏化導勝と云われているのがこの事です。この法門は天台宗における最も肝要なもので、即身成仏義と言って法華文句第八の巻の義科(重要な法門を説く為に設けた科目のこ)の一つです。これについては、真言・天台の二宗の間に争論がありますが、竜女の成仏も法華経の功力であって、文殊師利菩薩が竜女を教化するのに「唯常に妙法華経を宣説す」と語られています。
※法華経の第五の巻と大聖人御自身とを大難と仏法流布の関係から明かされ末法の御本仏の内証を示され、最後に時光の一層の信心を促しています。


「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。去年・去々年のやくびょうに死にし人々のかずにも入らず、また当時、蒙古のせめにまぬかるべしともみえず。とにかくに死は一定なり。その時のなげきはとうじのごとし。おなじくは、かりにも法華経のゆえに命をすてよ。つゆを大海にあつらえ、ちりを大地にうずむとおもえ。法華経の第三に云わく『願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜん』云々。」(上野殿御返事<竜門御書> 新1895頁・全1561頁)弘安2年11月 58歳御作
現代語:願いとしては、我が弟子達よ、大願を起こしなさい。去年や一作年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったとしても、現在、蒙古が攻めてきたならば、死を免れることができるとは思えないのです。とにかく、死は一定(必ず起こること)なのです。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同様なのです。同じことなら、かりに法華経のために命を捨てなさい。これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものと思いなさい。法華経第三の巻・化城喩品に「願わくは此の功徳により、広い範囲の一切に及ぼし、私達と衆生と、皆共に仏道を成じましょう」と説かれている通りです。
※本抄の内容は、竜門の故事等を例示して信心を貫くことの至難さを御教示されています。本抄に、御書新版では「進上、上野殿 あつはらのものの事」、「これは、あつはらのことのありがたさに申す御返事なり」とあり、熱原法難時に信者の中心者として活躍された南条時光に対して感謝され、本抄で上野賢人と称賛されています。


「念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値って法華経をひろむれば、王臣・万民ににくまれて、結句は山中に候えば、天いかんが計らわせ給うらん。
 五尺のゆきふりて、本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たえて命すでにおわりなんとす。かかるきざみに、いのちさまたげの御とぶらい、かつはよろこび、かつはなげかし。一度におもい切ってうえしなんとあんじ切って候いつるに、わずかのともしびにあぶらを入れそえられたるがごとし。あわれ、あわれ、とうとくめでたき御心かな。釈迦仏・法華経、定めて御計らい給わんか。」(上野殿御返事<適時弘法の事> 新1896-7頁・全1562頁)弘安2年12月
現代語訳:念仏、禅、真言、律宗を信ずる時代に生まれあわせて、法華経を弘めれば、王臣や万民に憎まれ、あげくにこの山中の身となったのです。諸天がどの様に計らわれるのでしょうか。五尺も雪が降り積もり、元々人の通わない山道は塞がり、訪ねて来る人もいません。衣服も薄くて寒さを防ぐこともできません。食物も絶えて生命も既に尽きようとしている時に、生命を妨げるご訪問は、一方では喜び、一方では歎かわしく思うのです。一度に思い切って飢え死にしようと覚悟を決めていたのに、(白米をお送り頂いた事は)消えかけた灯に油を注入された様なものです。あわれ感動する気持ちです。なんと尊くめでたい御志でしょうか。釈迦仏・法華経が決定され御計画をされたのでしょうか。
※大聖人が寒さや食事に困窮された御心境を述べられ、南条時光の御供養に大変感謝されています。ところが現宗門は、大聖人直造で「戒壇本尊」と称されている、金文字・漆塗りの豪華な「楠板本尊」が、弘安2年10月12日」に御建立された、と宣揚されています。科学が進歩した現在、大聖人の御文や歴代法主の文証のみならず、物的証拠の年代鑑定を実施すれば、「楠板本尊」は、後世の模作であり、宗門の虚偽が明確になるでしょうね。


「貴辺はすでに法華経の行者に似させ給えること、さるの人に似、もちいの月に似たるがごとし。あつはらのものどもかかえおしませ給えることは、承平の将門、天喜の貞任のようにこの国のものどもはおもいて候ぞ。これひとえに法華経に命をすつるゆえなり。まったく主君にそむく人とは、天、御覧あらじ。その上、わずかの小郷におおくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもいやらせ給いて、ぜに一貫おくらせ給えるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたえ、りたが合子の中なりしひえを辟支仏にあたえたりしがごとし。とうとし、とうとし。」(上野殿御返事<須達長者御書> 新1919頁・全1575頁)弘安3年12月
現代語訳:あなたが既に法華経の行者に似ておられることは、猿が人に似、餅が月に似ているようなものです。熱原の者達をあなたが大事にされていることに対して、承平年間の平将門や天喜年間の安倍貞任の様であると、この日本国の者達は思っています。これはひとえに法華経に命を捨てる(覚悟がある)為であって、全く主君に背く人とは、天は御覧にならないでしょう。その上、わずかの小郷に多くの公事を課せられて、自身は乗るべき馬も無く、妻子は着るべき衣もありません。その様な身ですが、法華経の行者が山中で雪に責められ、食物も乏しいでしょうと心配されて、銭一貫文を送られた事は、貧女が夫婦二人で一つの衣を着ていたのを乞食に与え、利吒が器の中にあった稗を辟支仏に与えた様なものです。尊いことです、重ねて尊いことです。
※当時南条家は、熱原の農民への世話や大聖人への御供養等、大変な御苦労をされていました。大聖人はこれを理解され、感謝されていたのですね。


「まことや、まことや、去年の九月五日、こ五郎殿のかくれにしはいかになりけると胸うちさわぎて、ゆびをおりかずえ候えば、すでに二箇年十六月四百余日にすぎ候か。それには母なれば御おとずれや候らん。いかにきかせ給わぬやらん。(中略)
日蓮は所ろうのゆえに人々の御文の御返事も申さず候いつるが、このことはあまりになげかしく候えば、ふでをとりて候ぞ。これも、よもひさしくもこのよに候わじ。一定、五郎殿にゆきあいぬとおぼえ候。母よりさきにげんざんし候わば、母のなげき申しつたえ候わん。」(上野殿母御前御返事<大聖人の御病の事> 新1927頁・全1583-4頁)弘安4年12月
現代語訳:本当なのですね、去年の九月五日に故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸のうちが騒いで、指折り数えれば、既に二か年、十六か月、四百余日が過ぎてしまいました。尼御前は母ですから、何か便りがあった事でしょう。どうして聞かせて頂けないのでしょうか。(中略)
日蓮は病気の為に、人々からのお手紙にも返事を書かないでおりましたが、五郎殿のことはあまりにも嘆かわしい事でしたから、筆を執りました。日蓮も永くはこの世にはいないでしょう。(そうであれば)必ず五郎殿に行きあうだろうと思っております。もし尼御前より先にお会いしたならば、尼御前の嘆きを申し伝えましょう。
※南条時光の母に宛てた御消息文です。故五郎殿(1265~1280)とは、南条兵衛七郎の五男で、南条時光の弟。七郎五郎とも呼ばれました。誕生以前に父の兵衛七郎は死去しています。容貌も勝れ、立派な青年となった様ですが、弘安三年九月、十六歳の若さで急逝されました。
大聖人御自身の御容態も述べられ、南条五郎の死を悼まれ、母御前を励まされています。


「この上野七郎次郎は、末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども、心は善人なり。その故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給わざる上、たまたま信ずる人あれば、あるいは所領、あるいは田畠等にわずらいをなし、結句は命に及ぶ人々もあり、信じがたき上、はは・故上野信じまいらせ候いぬ。またこの者嫡子となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさめ、あるいはおどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候えば、すでに仏になるべしと見え候えば、天魔・外道が病をつけておどさんと心み候か。命はかぎりあることなり。すこしもおどろくことなかれ。」(法華証明抄 新1931頁・全1586-7頁)弘安5年2月61歳御作
現代語訳:この上野の七郎次郎(時光)は末代の凡夫で、武士の家に生まれて悪人と言うべきですが、心は善人です。その理由は、日蓮の法門を上一人より下万民にいたるまで信じない上に、たまたま信ずる人がいれば、所領や田畑等に煩いが生じて、あげくには命に及ぶ人もあり、信心をすることは難いのに、母の尼御前や故上野殿は信仰されたのです。またこの人(七郎次郎)は嫡子となって、誰も(法華経の信仰を)勧めないのに、心底から信仰され、上下万人より(他宗を)諌められたり、脅かされたりしながらも、結局(法華経を)捨てる心が無くておられ、既に成仏されそうに見えたので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのでしょう。命は限りがあることであり、少しも驚いてはなりません。 
※この御文の後、大聖人は時光を悩ます鬼神等を𠮟責されています。
結局、南条時光(正光元<1259>年-元弘2<1332>年)は、病を克服して、法難後も幕府弾圧による窮乏の中で、妻・妙蓮と共に9男4女の子供を育てながら御供養を続けられ、入道して法名を大行、妻は妙蓮と称しました。


◎南条家(上野殿)への御文は、大変多く遺されており、紹介しきれないのが残念です。
大聖人滅後も南条時光夫妻は、身延の日興上人に対して真心で御仕えし、身延の地頭・波木井実長の謗法離反により、正応2(1289)年に日興上人が身延を離山された際に、時光夫妻は大石が原を寄進され、後に大石寺、妙蓮寺が建立されています。
南条家の子供達や親族も時光夫妻の感化を受け、大石寺3祖日目の母の蓮阿尼は時光の姉、4世日道の母は時光の長女、5世日行の母は時光の次女、妙蓮寺4世日相は時光の8男、5世日限は9男であり、大石寺6世日時、8世日影、9世日有も南条家出身で繋がっています。
もし歴史上、南条家が存在していなければ、日蓮仏法が創価学会の出現まで令法久住できなかったかも知れませんね。


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