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(いい加減な名前の人)へ
>そもそもサムなる御仁が何ら根拠なく当方を法華講員と決めつけた上で、お門違いの質問を吹っかけてきたので、こちらの見解を提示したまでのことですよ。
私を名指しして頂いた事に感謝です。
でも、私は、貴方を「法華講員さん」と決めつけて申したのではありませんよね。
「もし~ならば」とお尋ねして、「そうであればお答えください」と質問したのです。
そして、貴方の言いがかりが始まったのです。
>まもなく傘寿を迎えられるご老人に今さら物申すのも詮無いことではありますが、
特定の宗教ドグマに固執し、辻褄合わせの言葉遊びに没入する日常を虚しく思わないですか?
まるで創価学会が自分の世界のすべてになっているかのような貴方ご自身、
今日までほんとうに幸せな人生を送ってこられたと言えますでしょうか…?
〇であれば、私の体験談記事を是非見てください。
現在、年金生活ながら、ボランティア活動も含めて、充実した余生を送っていますので、ご心配なく。
>功徳は〝受ける〟ものではなく、、、
本来の語義は梵語で人徳を意味するgunaの音訳であって
功徳は自らが〝積む〟もの。見返りを求めずして他者へ施す善行の謂です。
どういうわけだか昔から大石寺系教団というか富士門流界隈では、功徳を〝御利益〟の同義語と見なす誤用が罷り通っていますね…
〇功徳について、多くの解釈があるでしょう。
仁王般若経疏巻上には「功徳とは、功に施すを功と名づけ、己に帰すを徳と云う」
勝鬘宝屈巻上には「徳は得なり、功は修めて所あるが故に功徳と名づけるなり」
法華経法師功徳品には「法華経を受持・読・誦・解脱・書写する功徳として六根清浄の果報を得る(以是功徳。荘厳六根。皆令清浄。<是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん>)」(略す)
此処から御義口伝巻下には『「功徳」とは、「六根清浄」の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「六根清浄」なり。されば、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳い有るなり。「功」も幸いということなり。または、悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。「功徳」とは、即身成仏なり。また「六根清浄」なり。法華経の説文のごとく修行するを、「六根清浄」と意得べきなり云々。』
とあります。
私は、単なる「受ける」だけの意味ではなく、「修行して自己を人間形成する」事を述べているつもりです。
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