[172] 題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 14
名前:サム
◇
MAIL
投稿日:
2025/10/07(火) 21:14
119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)
御書拝読で判る大聖人のお立場 14
第十二(最終)章 令法久住・弘教の大願を託す 前編
大聖人は晩年、ご病気ぎみで且つ生活環境も厳しかったご様子ですが、これ等には触れずに門下への激励や後事を託された御文のみを二回に分けてご紹介します。
「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。去年・去々年のやくびょうに死にし人々のかずにも入らず、また当時、蒙古のせめにまぬかるべしともみえず。とにかくに死は一定なり。そ
の時のなげきはとうじのごとし。おなじくは、かりにも法華経のゆえに命をすてよ。つゆを大海にあつらえ、ちりを大地にうずむとおもえ。法華経の第三に云わく『願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜん』云々。」(上野殿御返事<竜門御書> 新1895頁・全1561頁)弘安2年11月 58歳御作
現代語訳:私の願いとしては、我が弟子達よ、大願を起こしなさい。去年や一昨年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古が攻めてきた時、死を免れることができるとは思えないのです。ともかく、死は必定です。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同じです。同じ事なら、仮にも法華経の為に命を捨てなさい。これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものであると思いなさい。法華経第三の巻化城喩品に「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれている通りです。
※大聖人は、皆共に成道(人間革命)の為に命を捨てる覚悟で妙法弘教を、との大願を起こしなさいと仰せです。
「我が身、法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩、梵釈・竜神・十羅刹女も、定めてこの砌におわしますらん。水あれば魚すむ。林あれば鳥来る。蓬萊山には玉多く、摩黎山には栴檀生ず。麗水の山には金あり。今この所もかくのごとし。仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり。多くの月日を送り読誦し奉るところの法華経の功徳は、虚空にも余りぬべし。しかるを、毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。いよいよ、はげむべし、はげむべし。」(四条金吾殿御返事<法華行者住処の事> 新1625頁・全1194頁)弘安3年10月 59歳御作
現代語訳:わが身が法華経の行者であれば、霊鷲山の教主釈尊・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大菩薩・迹化の大菩薩・梵天・帝釈・竜神・十羅刹女も、必ずこの場におられるでしょう。水があれば魚は住めます。林があれば鳥は来ます。蓬莱山には珠玉が多くあり、摩黎山には栴檀の木が生じます。麗水の山には黄金があります。今この場所も同様です。仏菩薩の住まわれる功徳の聚まる場所です。多くの月日が経過中、日夜読誦している法華経の功徳は大空にも満ちているでしょう。それを、あなたは毎年たびたび参詣しておられるので、無始以来の罪障もきっと今生一生のうちに消滅するでしょう。いよいよ信仰に励みなさい。
※自身が法華経行者(人間革命を目指す意志)であるとの自覚があれば、どの地でも仏菩薩(現在の解釈では、人生の指導者)が居られる場所(又は組織)であると信じることができ、鍛錬・薫陶されて成長するのですね。
「貴辺、年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は、我がごとく正理を修行し給え。智者・学匠の身となりても、地獄に堕ちては何の詮か有るべき。詮ずるところ、時々念々に南無妙法蓮華経とこそ、唱うべし。上に挙ぐる
四苦は修禅寺相伝日記の如し。天台宗の奥義これにかぐべからざるか。一心参観・一念さん千の極理は、妙法蓮華経の一言を出でず。あえて忘失することなかれ、あえて忘失することなかれ。」(十八円満抄 新1803頁・全1367頁)弘安3年11月 59歳御作
現代語訳:貴辺は、これまでの権宗を捨てて日蓮が弟子となられました。真実の時国相応のの身となっても、地獄に墜ちては何の役にも立ちません。所詮、時々・念々に南無妙法蓮華経と唱えるべきです。上に挙げた法門は既に御存知でしょうが、書いて差し上げたのです。十八円満等の法門を十分に考察してください。それと共に当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等は前々に書きまいらせた通りです。詳しい事は修禅寺相伝日記にある通りであり、天台宗の奥義はこれを越えるものではありません。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出ません。この事を決して忘れてはなりません。決して忘れてはなりません。
補足:一心三観=天台所立の観心修行の法門で摩訶止観にあり、不思議三観、円融三観等とも云われています。「一心」は他念の無い所観(受動的)の衆生の心を指し、「三観」は能観(能動的)の衆生の智を云い、「一心三観」は衆生の日常起こす一念心の中に空仮中の三諦が円融相即して備わっている事を観じていく修行法のことを云います。
※此の御文で大聖人は、元天台僧の最蓮房に日蓮仏法の法門を託されています。
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらん。月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世はただ八年なり。日は光明、月に勝れり。五の五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給わず。在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり。各々我が弟子等、はげませ給え、はげませ給え。」(諌暁八幡抄 新747頁・全
588-9頁)弘安3年12月 59歳御作
現代語訳:天竺国を月氏国というのは、仏の出現し給うべき国名です。扶桑国を日本国と言いますが、どうして聖人が出現されない事があるでしょうか。月は西より東に向かうものですが、それは月氏の仏法の東方へ流布する相です。日は東より出ます。日本の仏法の月氏国へ還るという瑞相です。月はその光が明らかではありません。それと同様に仏の在世はただ八年です。日の光明は月に勝っています。これは五の五百歳・末法の長き闇を照す瑞相です。仏は法華経を謗法する者を治されません。それは在世に謗法の者がいなかったからです。末法には一乗法華経の強敵が充満するでしょう。(だから)不軽菩薩の(折伏逆化による)利益は此れなのです。それぞれ我が弟子達よ、ますます信心に励んでください。
※門下一同が信心に励み、日蓮仏法の西還を目指す事を託されています。