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師匠と我らとの関係 26(伊豆及び甲斐方面の門下に宛てられた御抄)
「伊豆方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係
大聖人は、弘長元(1261)年5月12日から伊豆の伊東(静岡県伊東市)に流罪され、弘長3年2月22日に赦免となるまでの2年弱、当地で苦難の生活を送られています。
「我ら衆生、無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて、『無始色心、本是理性、妙境妙智(無始の色心は、本よりこれ理性にして、妙境・妙智なり)』の金剛不滅の仏身とならんこと、あにかの仏にかわるべきや。過去久遠五百塵点のそのかみ『唯我一人』の教主釈尊とは、我ら衆生のことなり。法華経の一念三千の法門、『常住此説法』のふるまいなり。かかるとうとき法華経と釈尊にておわせども、凡夫はしることなし。寿量品に云わく『顚倒の衆生をして、近しといえども見ざらしむ』とは、これなり。迷悟の不同は沙羅の四見のごとし。一念三千の仏と申すは、法界の成仏ということにて候ぞ。(中略)
凡夫即仏なり、仏即凡夫なり。一念三千・我実成仏これなり。しからば、夫婦二人は、教主・大覚世尊の生まれかわり給いて日蓮をたすけ給うか。伊東とかわなのみちのほどはちかく候えども、心はとおし。後のためにふみをまいらせ候ぞ。」(船守弥三郎許御書 新1723-4頁・全1446頁)弘長元年6月 40歳御作
現代語訳:我等衆生は、無始よりこのかた生死海の中にありましたが、法華経の行者となって「無始の色心は本よりこれ理性にして、妙境・妙智である」と、金剛不滅の仏身となるであろうことが、どうして彼の釈迦仏に替わることでしょうか。過去久遠五百塵点のその初の唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なのです。(これが)法華経の一念三千の法門であり、仏の常住此説法の振る舞いなのです。この様な尊い法華経と釈尊なのですが、凡夫は知らないのです。寿量品にいう「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこの事をいうのです。迷いと悟りによって不同があるのは、釈尊在世の人々が沙羅林を四通りに見てきた様なものです。一念三千の仏というのは、法界の全てを成仏することなのです。(中略)
凡夫は即ち仏であり、仏は即ち凡夫です。一念三千、我実成仏とはこの事です。そうであるならば、弥三郎殿夫婦二人は教主大覚世尊が生まれ変わられて日蓮を助けらてたのでしょう。伊東と川奈の道程は近いけれども心は遠いです。後日の為に文を差し上げておきます。
※沙羅林の四見とは、沙羅林も衆生の機根・境涯により見え方が違い、像法決疑経には、①土沙草石壁、②金銀七宝の清浄荘厳せる処、③三世諸仏所行の処、④不可思議諸仏の境界にて真実の法体と見る、とあります
船守弥三郎(生没年不詳)は、伊豆伊東の川奈の漁師、大聖人が伊豆に流罪された時、夫婦揃って大聖人を外護されました。 本抄は、別名「伊豆配流事」と云い、大聖人は船守弥三郎夫妻に感謝され、御供養の功徳を述べられ、必ず成仏すると約束されています。
「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願、必ず成就せんか。」(「新田殿御書 新1725頁・全1452頁)弘安3年5月 59歳御作 新田信綱夫妻に贈る
現代語訳:経は法華経であり、顕密第一の大法(顕教・密教の二教の中で最も優れた教法)です。仏は釈迦仏であり、諸仏の中の第一の仏です。行者は法華経の行者に相似しています。三事は既に相応しています。檀那の一願は必ず成就するでしょう。
※新田四郎信綱(生没年不詳)は、伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡畑毛)に住み、日蓮正宗第三祖日目師の兄に当たります。本抄で、仏(釈迦仏)法(法華経)僧(法華経行者)の三宝(三事)が具わっている檀那の祈りは、必ず成就すると説いています。
「甲斐方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係
甲斐は甲州とも云い、現在の山梨県に当り、大聖人が佐渡配流から帰られ文永11(1274)年5月から弘安5(1282)年9月までの晩年9年間を過ごした身延(山梨県南巨摩郡身延町)も同地方に含まれます。
「日蓮、凡夫たるの故に仏教を信ぜず。ただし、このことにおいては水火のごとく手に当ててこれを知れり。ただし、「法華経の行者有れば、悪口・罵詈・刀杖・擯出せらるべし」等云々。この経文をもって世間に配当するに、一人もこれ無し。誰をもってか法華経の行者となさん。敵人は有りといえども、法華経の持者は無し。譬えば、東有って西無く、天有って地無きがごとし。仏語妄説と成る、いかん。予、自讃に似たりといえども、これを勘え出だして仏語を扶持す。いわゆる日蓮法師これなり。」(波木井三郎殿御返事 新1810頁・全1371頁)文永10年8月
現代語訳:日蓮は凡夫である為に、仏の教えを信じる事ができません。但し、ここに述べた事については、水や火の様に、手に当てて(その冷たさ、熱さがわかる様に)知ることができるのです。但し、「(末法に)法華経の行者がいるならば、悪口され、ののしられ、刀杖を加えられ、所を追い出されたりするであろう」と説かれています。この経文をもって、(現在の日本国の)世間に当てはめてみると、一人もこの文に当てはまる人はいないのです。いったい、誰を法華経の行者としたらよいのでしょうか。(法華経の行者の)敵人はいるけれど、(真実の)法華経を持つ者はいません。たとえば、東が有って西が無く、天が有って地の無い様なものです。(これでは)仏の言葉は妄説となってしまうが、どうですか。私(日蓮)が、自讃に似ているけれども、これ(法華経の行者は誰か)を考え出して仏の言葉を扶け顕わしましょう。いわゆる日蓮法師(私)が、これ(法華経の行者)なのです。
※本抄の波木井三郎は、波木井六郎実長(貞応元年~永仁5年)と云い、甲斐源氏の末裔・甲州南部三郷(波木井・御牧・飯野)の地頭ですが、日蓮門下となり、後に入道して法寂房日円と称します。南部三郎光行の六男で南部六郎実長とも呼ばれていました。
大聖人は、本抄でも明らかに御自身が法華経の行者である事を宣言されていますね。
「貴辺は、武士の家の仁、昼夜殺生の悪人なり。家を捨てずしてこのところに至って、いかなる術をもってか三悪道を脱るべきか。能く能く思案有るべきか。法華経の心は、当位即妙・不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。天台云わく『他経は、ただ善にのみ記して悪に記せず。今経は皆記す』等云々。妙楽云わく『ただ円教の意のみ、逆即是順なり。自余の三教は逆順定まるが故に』等云々。爾前分々の得道の有無のこと、これを記すべしといえども、名目を知る人にこれを申すなり。しかりといえども、大体これを教うる弟子これ有り。この輩等を召して、ほぼこれを聞くべし。その時これを記し申すべし。」(波木井三郎殿御返事 新1813-4頁・全1373頁)
現代語訳:あなたは武家の人であり、昼夜にわたって殺生を生業とする悪人です。家を捨てず、世間を離れないまま、現在に至っては、どの様な方法で、未来に三悪道を免れる事ができるのでしょうか。よくよく思案されるべきです。法華経の本意は、「当位即妙・不改本位」といって、罪業を捨てずに、その身のまま成仏することができるのです。天台大師は文句の七に「法華経以外の他経は、但善人にのみに成仏を許して、悪人に成仏を許していない。法華経は全ての人に平等に成仏を記している」と言っています。妙楽大師も文句記の八に「ただ円教たる法華経の本意は、逆がそのまま順となるという事である。それ以外の別教、通教、蔵教すなわち爾前経は逆は逆、順は順と定まってしまっている」と言っています。爾前経に分々の得道が有るか無いかという事も、ここに記さなければなりませんが、(この問題は)仏教の名目をよく知っている人に述べています。
※武士の本業が、武闘だからといって悪人(殺生の罪)なのかどうかは別として、「法華経は万人皆成仏の法」である事を文証を引いて御教示されています。大聖人滅後、大聖人の教えに背き日興上人の身延離山の因と成る数々の謗法を犯したのは無念ですね。
「『有情は生死の六道を輪廻す』と申して、我らが天竺において師子と生まれ、漢土・日本において虎・狼・野干と生まれ、天には鵰・鷲、地には鹿・蛇と生まれしこと数をしらず。あるいは鷹の前の雉、猫の前の鼠と生まれ、生きながら頭をつつきししむらをかまれしこと数をしらず。一劫が間の身の骨は、須弥山よりも高く、大地よりも厚かるべし。惜しき身なれども、云うに甲斐なく奪われてこそ候いけれ。しかれば、今度、法華経のために身を捨て命をも奪われ奉れば、無量無数劫の間の思い出なるべしと思い切り給うべし。」(大井荘司入道御書 新1822-3頁・全1377頁)建治2年2月
現代語訳:「有情(感情や意識を持つ全ての生類)は生死六道を輪廻する」と云われ、我々がインドで師子と生まれ、中国や日本においては虎や狼や野干と生まれ、天には鵰や鷲と生まれ、地には鹿や蛇と生まれた事は数知れません。或いは鷹の前の雉や猫の前の鼠と生まれ、生きながら頭をつつかれ、肉を噛まれたりしたことも数えきれません。(こうして)一劫の間(生まれては死ぬを繰り返し)の我が身の骨は須弥山よりも高く、大地よりも厚いでしょう。惜しい我が身ですが、言うに甲斐も無いほど簡単に生命を奪われて来たのです。そうであれば、今度、法華経の為に身を捨て、命を奪われるならば、これこそ無量無数劫という長い間の、この上ない思い出となると、思い切ってください。
※大井荘司入道(生没年不明)は、甲斐源氏の流れをくむ甲斐国(山梨県)大井荘の荘務めを司る荘司であり、孫に肥前房日伝がいます。本抄は、前文で「登竜門の譬え」から成仏の難しさを、本文では「生死の六道輪廻」から法華経信徒の尊さを説いておられますね。
◎大聖人は、「賢人の習い、『三度国をいさむるに、用いずば山林にまじわれ』ということは定まるれいなり」(報恩抄 新253頁・全323頁)との古例にならって当時の幕府所在地を離れ、身延の地で広宣流布の大願を託して各地に散在している強信な弟子檀那に御文を通して折伏戦の総指揮を執られると共に、令法久住の為に御弟子の育成に尽力されたのですね。