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題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 12

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/09/04(木) 01:54 119-229-83-134f1.osk3.eonet.ne.jp (119.229.83.134)

御書拝読で判る大聖人のお立場 12


第十一章 凡夫は仏なり・皆成仏の勧め 前編


一神教の「神」は、全知全能の唯一の絶対者・天地創造主であり、人類に対して超越的・神秘的存在であり、崇拝の対象とされています。一方、大乗仏教における「仏」は、10種の異名を持ち世尊と呼ばれる存在ですが、人類自身が仏道修行する事により、人間性が変革され結果として仏に成る(成仏:創価学会用語では「人間革命」)とされています。
既に御本仏であられる日蓮大聖人が、衆生(凡夫)を成仏させる為に述べられた御文を前・後編の二回に分けてご紹介します。


「この三諦を三身如来とも云えば、我が心身より外には善悪に付けてかみすじばかりの法もなきものを。されば、我が身がやがて三身即一の本覚の如来にてはありけることなり。
これをよそに思うを、衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり。これを我が身の上と知りぬるを、如来とも覚りとも聖人とも智者とも云うなり。こう解り、明らかに観ずれば、この身頓て今生の中に本覚の如来を顕して、即身成仏とはいわるるなり。譬えば、春夏、田を作りうえつれば、秋冬は蔵に収めて心のままに用いるがごとし。春より秋をまつほどは久しきようなれども、一年の内に待ち得るがごとく、この覚りに入って仏を顕すほどは久しきようなれども、一生の内に顕して我が身が三身即一の仏となりぬるなり。」(十如是事 新355-6頁・全410頁)正嘉2年 37歳御作
現代語訳:この三諦(空諦・中諦・仮諦)を三身如来とも云うのであれば、我が心身の外には善悪に亘っていささかの法も無いので、我が身がそのまま三身即一身の本覚の如来となる理屈です。この事をよそに求める場合を、衆生とも迷いとも凡夫ともいうのです。この事を我が身の上の事と知る場合を、如来とも覚りとも聖人とも智者ともいうのです。この様に了解し、明らかに観じ念ずれば、この身がそのまま今生の中に本覚の如来を顕して、即身成仏と云われるのです。譬えば、春夏に田を耕して種を植えるならば、秋冬には刈り取って蔵に収めて、心のままに用いることができる様なものです。春から秋を待つ間は長い様ですが、一年の内に待ち望んでいた通りになる様に、この覚りに入って仏を顕すまでは長い様ですが、一生の内に顕して、我が身が三身即一の仏となるのです。
※「我が心身の外には法も無いので、我が身がそのまま三身即一身の如来となり、この事をよそに求める場合を、衆生とも迷いとも凡夫ともいう」とあります。


「仏の滅後において、四味三教等の邪執を捨てて実大乗の法華経に帰せば、諸天善神ならびに地涌千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。
この人は、守護の力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字をもって閻浮提に広宣流布せしめんか。」(顕仏未来記 新608頁・全507頁)文永10年5月 52歳御作
現代語訳:如来滅後(五五百歳)において、四味・三教等への邪まな執心を捨てて実大乗教である法華経(末法の法華経)に帰依するならば、諸天善神並びに地涌千界を中心とする一切の菩薩は必ず法華経の行者を守護するでしょう。この人は、(この諸天善神や地涌の菩薩などの)守護の力を得て、本門の本尊・南無妙法蓮華経で一閻浮提に広宣流布をさせるでしょう。
※大聖人は、本門の本尊と妙法蓮華経の五字を並べ広宣流布させるだろう、と述べておられます。


「釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく「如来の秘密・神通の力」、これなり。「如来の秘密」は体の三身にして本仏なり、「神通の力」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。その故は、如来というは、天台の釈に「如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり」と判じ給えり。この釈に「本仏」というは凡夫なり、「迹仏」というは仏なり。しかれども、迷悟の不同にして生・仏異なるによって俱体俱用の三身ということをば衆生しらざるなり。」(諸法実相抄 新1789頁・全1358-9頁)文永10年5月 52歳御作
現代語訳:釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのです。法華経如来寿量品に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこの事です。「如来秘密」は体の三身であって本仏です。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのです。凡夫は体の三身であって本仏であり、仏は用の三身であって迹仏なのです。従って、釈迦仏が我ら衆生の為に主師親の三徳を備えられていると思っていたのに、そうではなく反って仏に三徳を被らせているのは凡夫なのです。その理由は、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身、本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられているからです。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏です。しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、この為に衆生は、倶体・倶用ということを知らないのです。
※此処に明確に、「凡夫(衆生)が本仏であり、仏は迹仏である」とあり、衆生は「倶体・倶用(本体も働きも具に備わっている」を知らないので、「迷い」と仰せです。


「日蓮はわるき者にて候えども、法華経はいかでかおろかにおわすべき。ふくろはくさけれども、つつめる金はきよし。池はきたなけれども、はちすはしょうじょうなり。日蓮は日本第一のえせものなり。法華経は一切経にすぐれ給える御経なり。心あらん人は、金をとらんとおぼさばふくろをすつることなかれ、蓮をあいせば池をにくむことなかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらわるべし。よって臨終わるくば、法華経の名をおりなん。さるにては、日蓮はわるくても、わるかるべし、わるかるべし。」(窪尼殿御返事<金と蓮の事> 旧では、西山殿御返事 新1980-1頁・全1476頁)建治・弘安期
現代語訳:日蓮は悪い者と言われていますが、(弘教する)法華経は、どうして、いい加減なものでありましょうか。(例えば、)袋は臭くても詰めている中の金は尊いのです。池は濁っていても蓮は清浄なのです。日蓮は日本第一の僻者です。しかし法華経は一切経に勝れた経なのです。(経を求める)心のある人が、金を取ろうと思うならば臭い袋を捨ててはなりません。蓮を愛するなら濁った池を憎んではなりません。悪いと云われても、仏に成りたければ、法華経の力が顕われるでしょう。従って臨終が悪かったならば、法華経の名折れとなるでしょう。そうであるならば、日蓮は悪い(と言われていて)も、悪いでよいのです、重ねて悪いでよいのです。
※大聖人は、世間でどの様に悪口を言われようが、「衆生が仏に成れば真実も明らかになる」とのお考えだったのでしょう。       


「今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るを、当体蓮華の仏と云うなり云々。」(御義口伝上 新1032頁・全740頁)弘安元年1月
現代語訳:今、日蓮大聖人並びにその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉っているのを、当体蓮華の仏と言うのです。
補足:当体蓮華とは、一切衆生の当体は妙法蓮華であることを云い、此れを説明する為に用いられた植物の蓮華を譬喩蓮華という。
※大聖人は、唱題する日蓮門下を「当体蓮華の仏」と賞賛されています。


「『如来』とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては『如来』とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、『南無妙法蓮華「経』と云うなり。寿量品の事の三大事とは、これなり。
六即の配立の時は、この品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。その故は、始めて聞くところの題目なるが故なり。聞き奉って修行するは、観行即なり。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて、惑障を伏するを、相似即と云うなり。化他に出ずるを、分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを、究竟即の仏とは云うなり。総じて伏惑をもって寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり云々。」(御義口伝下 新1048-9頁・全752頁)弘安元年正月
現代語訳:如来とは釈尊のことで、総じては十方三世のあらゆる仏に通ずるのです。だが別しては、本地無作の三身(即ち久遠元初の、凡夫即極の本仏)です。今、日蓮及びその門下の意味では、総じて如来とは、一切衆生です。別して日蓮及びその弟子檀那のことです。(これはあくまで理の上で論じたものであり、別して、事の上で論ずるならば、日蓮及びその弟子檀那のことです)そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者(即ち末法に全民衆救済の為に出現された御本仏日蓮大聖人)の事です。この無作の三身(即ち日蓮大聖人)の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事(即ち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法)とはこの事なのです。
(妙法蓮華経如来寿量品の立場から)如来を六即に配立するならば、この品の如来は(決して色相荘厳の仏をいうのではなく)理即の凡夫をいうのです。我々凡夫の身を離れて如来は無いのです。だがこれはまだ理の上であり、我々が南無妙法蓮華経(御本尊)を戴いた時は、名字即です。その理由は、初めて題目を聞く(即ち信受した)からです。聞き敬って、さらに信行する(御本尊を受持しきっていく)ことは観行即です。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずる、即ち信ずる事です。我々が、御本尊を信じ唱題していくならば、我が身の内に仏界を顕現し、力強い生命が発揮されていくのです。さて、惑障、即ち、我々の様々な心の迷い、悩み、また三障四魔、三類の強敵に打ち勝っていく事が、相似即なのです。更に折伏行に邁進し、広宣流布に向かって戦う事は、分身即というのです。この時、わが身が無作の三身と究竟する事ができます。即ち生命の奥底に無作三身如来なりと覚知していく事ができるのです。これを究竟即というのです。全体を通じていうならば、釈迦仏法の様に歴劫修行により、次第に惑いを伏し、仏果を得ていくというのではなく、南無妙法蓮華経如来寿量品の根本(極理)は、凡夫の当体本有のままで究竟即、即無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していく事なのです。これが、この品の極理であると心得るべきです。それではこの無作三身如来の振舞いは何かといえば、それは南無妙法蓮華経以外にないのです。
※大聖人は「凡夫そのままの姿で究竟即に至る」と、つまり御本尊の功力を信じ唱題していきならば、凡夫でも無作三身如来として成仏すると仰せです。


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