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題名:御書拝読で判る大聖人のお立場 8

名前:サム

MAIL 投稿日: 2025/07/02(水) 10:45 2001:ce8:127:e3a4:34d5:4ede:3161:84de(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:34d5:4ede:3161:84de)

御書拝読で判る大聖人のお立場 8


第八章 御本尊の意義と相貌を語る

根本として尊敬する対象を本尊と称し、日蓮大聖人の御本尊は、法華経虚空会の儀式の様子を模し、中央に一大秘法である五字七字の南無妙法蓮華経を、その左右に釈尊と多宝仏を配して、紙幅の曼荼羅(信仰対象に諸仏等を総集して図顕したもの)として書かれたとされています。今回は、大聖人が記述された御本尊について、紹介させていただきます。


「問うて云わく、法華経を信ぜん人は、本尊ならびに行儀、ならびに常の所行はいかにてか候べき。答えて云わく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、あるいは題目を書いて本尊と定むべしと法師品ならびに神力品に見えたり。また、たえたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造っても法華経の左右にこれを立て奉るべし。また、たえたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし。たえたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。」(唱法華題目抄 新17頁・全12頁)文応元年5月 39歳御作
現代語訳:問うて言います。法華経を信じる人は、本尊や行儀、並びに普段の所行はどの様にすべきでしょうか。答えて言います。第一に、本尊は法華経八巻・一巻・一品或いは題目を書いて本尊と定めるべきです、と法師品並びに神力品に説かれています。また、物足りない人は、釈迦如来・多宝仏を書いたり造ったりして、法華経の左右に立てて敬っていきなさい。更にそれでも物足りない人は、十方の世界の諸仏・普賢菩薩等を造ったり書いたりして敬っていきなさい。行儀は、本尊の前では必ず坐立行です。道場を出たならば、行住坐臥を選ばないでください。普段の所行は、題目を南無妙法蓮華経と唱えなさい。物足りない人は、一偈・一句を読んで敬っていきなさい。
※この時期には、大聖人は文字曼荼羅である紙幅の御本尊をまだ建立されていませんし、明確に御本尊を定めておられません。しかし方向性として、題目を書いて唱題していきなさい、と述べておられます。


「千二百・無量の声聞は、法華経ましまさずば、誰か名をもきくべき、その音をも習うべき。一千の声聞、一切経を結集せりとも、見る人もよもあらじ。ましてこれらの人々を絵像・木像にあらわして本尊と仰ぐべしや。これひとえに、法華経の御力によって一切の羅漢帰依せられさせ給うなるべし。」(開目抄 新75頁・全204頁)文永9年2月 51歳御作
現代語訳:千二百の声聞も無量の声聞も、法華経が説かれていなかったならば、誰がその名を聞く事があるでしょうか。その(声聞の発する)声(経文上の発言)をも習う事があるでしょうか。一千の声聞が一切経を結集したとしても、見る人も居ないでしょう。ましてやこれらの人々を絵像・木像に書き顕して本尊として仰ぐでしょうか。これもひとえに法華経の御力によって全ての羅漢が、(大衆に)帰依される身となったからです。
※羅漢達の登場により、虚空会の儀式を書き顕したとされる文字曼荼羅の相貌全体が想起されますね。


「この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付嘱したまわず。いかにいわんや、その已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付嘱したもう。その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士となし、権大乗ならびに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等をもって脇士となす。これらの仏をば正像に造り画けども、いまだ寿量の仏有さず。末法に来入して始めてこの仏像出現せしむべきか。」(観心本尊抄 新136頁・全247-8頁)文永10年4月 52歳御作
現代語訳:この法華経本門の肝心たる南無妙法蓮華経の五字については、釈迦仏は(随一の高弟たる)文殊師利菩薩や薬王菩薩等にもこれを付嘱されていません。どうしてそれ以下(の一般の弟子)に付嘱する理由があるでしょうか。ところが、涌出品から嘱累品に至る八品の間に地涌千界の大菩薩を呼び出して、これを付嘱されたのです。その(文底下種の)御本尊の姿は、(常住不滅の本仏が説き明かす常住の浄土たる)娑婆世界の上に宝塔が空に居て、その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、釈尊の脇士に上行等の地涌の四菩薩が並び、文殊や弥勒等の迹化の菩薩は本化四菩薩の眷属として末座に居て、迹化の菩薩や他方の国土の大小の諸菩薩は、下賎の万民が大地にひれふして雲閣月卿(と呼ばれる尊貴の人)を見る様に、十方から来集した分身の諸仏は、迹仏迹土を表わす為に、大地の上に場所を取りました。この様な尊極無比の御本尊は、釈尊在世五十余年間に全く存在していません、法華経八年間にも(涌出品から嘱累品に至る)ただ八品にこれ(地涌の菩薩に付属)を説いただけです。正法像法二千年の間には、小乗の釈尊は迦葉と阿難を脇士とし、権大乗や涅槃経・法華経の迹門等の釈尊は文殊や普賢等の菩薩を脇士とし(て建立され)ました。これらの仏を正法・像法年間に造り画きましたが、未だ寿量品に説き顕わされた仏は建立されていません。末法に至って、初めて仏像(文底下種・人法一箇の御本尊)が出現(建立)されるでしょう。
※「本尊は末法に入って初めて出現される」と大聖人は確定的に表現されていますが、実際には既に文永8年10月や9年6月に大聖人御自筆の「楊枝本尊」等が建立されています。


「伝教大師、日本にして末法の始めを記して云わく『代を語れば像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云わく【なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや】。この言、良に以有るなり』。この釈に『闘諍の時』云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。この時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。」(観心本尊抄 新146頁・全254頁)
現代語訳:伝教大師が日本に出現し、末法の初めを記して「時代を語れば像法時代の終わり末法の初めであり、地域を尋ねれば唐国の東・靺羯国の西であり、人物は即ち五濁が盛んで闘諍堅固の民衆です。法華経法師品に「如来の現在すら猶怨嫉が多い、ましてや滅度の後は(更に怨嫉が盛になる)」と説かれていますが、この言葉は末法の世相と照らし合わせて実に深い理由のある言葉です」と云っています。この(伝教大師の)釈に「闘諍の時」とは、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すのです。この(経釈の予言に的中した)時に、地涌千界(の大菩薩)が世に出現して、本門の釈尊を脇士とする一閻浮提第一の本尊がこの国に建立されるのです。インドにも中国にもいまだこの御本尊は出現した事が無いのです。
※この時、既に大聖人は数幅(10幅近くが現存)の御本尊を建立されていましたが、御自身が地涌の菩薩であるとの自覚については、まだ公表されていなかったと思われます。


「ここに日蓮、いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕し給わざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり。これ全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中の大牟尼世尊、分身の諸仏、すりかたぎたる本尊なり。されば、首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅、その外、不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、しかのみならず、日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩、天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つらなる。その余の用の神、あにもるべきや。宝塔品に云わく『諸の大衆を接して、皆虚空に在きたもう』云々。これらの仏菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれずこの御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。これを本尊とは申すなり。経に云わく『諸法実相』、これなり。妙楽云わく『実相は必ず諸法、諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土』云々。また云わく『実相の深理、本有の妙法蓮華経』等云々。伝教大師云わく『一念三千即自受用身。自受用身とは、尊形を出でたる仏なり』文。この故に、未曽有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏の滅後二千二百二十余年には、この御本尊いまだ出現し給わずということなり。」(日女御前御返事<御本尊相貌抄> 新2086-7頁・全1243-4頁)建治3年8月 56歳御作
現代語訳:ここに、日蓮にどの様な不思議があるのでしょうか。正法時代の竜樹、天親等、像法時代の天台、妙楽等でさえも、顕わせなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、初めて法華弘通の旗印として顕わしたのです。この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではありません。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、並びに十方分身の諸仏の姿を、あたかも板木で摺る様に摺りあらわした御本尊なのです。従って、首題の妙法蓮華経の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座を占めています。釈迦・多宝、更に、本化の四菩薩は肩を並べ、普賢、文殊等、舎利弗、目連等が座を屈しています。日天、月天、第六天の魔王や、竜王、阿修羅が並び、その外、不動明王と愛染明王が南北の二方に陣を取り、悪逆の提婆達多や愚癡の竜女も一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼である鬼子母神や十羅刹女等、そればかりでなく、日本国の守護神である天照太神、八幡大菩薩、天神七代、地神五代の神々、全ての大小の神祇等、体(本体、用に対する語)の神が、(この御本尊の中に)列座しています。その他の用(働き、体に対する語)の神は、どうして漏れる事があるでしょうか。宝塔品には「諸の大衆を接して、皆虚空に在り」とあります。これらの仏・菩薩・大聖等、更に法華経序品の説会に列なった二界八番の雑衆等、一人も漏れずに、この御本尊の中に住し、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来ありのままの尊形となっています。これを本尊というのです。法華経方便品に「諸法実相」とあるのは、この事を云うのです。妙楽大師はこの文を「実相は必ず諸法であり、諸法は必ず十如是を具えている。(乃至)十界は必ず身土の上に実在する」と解釈しています。また、「実相の深理とは本有の妙法蓮華経のことである」と説かれています。伝教大師は「一念三千とは自受用身のことであり、自受用身とは、尊形を出た本有無作の仏である」と説かれています。この為に、未曾有の大曼荼羅と名付けるのです。釈尊滅後二千二百二十余年の間には、この御本尊は、未だ出現されなかったということです。
※本抄にも、虚空会の儀式を模した御本尊の相貌と意義を詳しく述べられています。


◎「本尊とは勝れたるを用いるべし」(本尊問答抄 新303頁・全366頁)とあり、大聖人は、多くの人々が幸福になる様に個別に御本尊を建立し授与されていたのです。これらは全て「本門の本尊」と称し、今でも他宗で現存する123幅の大聖人御自筆御本尊(日蓮聖人漫荼羅一覧 安国会発行)が紹介されています。 科学技術が発達している現今、私達創価学会員の家庭に、「日蓮大聖人御自筆御本尊」(コピー)を授与される日が到来するでしょう。 その時こそ、創価学会の真の「発迹顕本」だと信じています。


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