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(発行=24.08.15)
法華講連合会の理事が浅間神社へ
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ②
神職からお祓いを受けて玉串を奉納
フェイク 第1770号.txt 日蓮正宗の法華講幹部の謗法行為と言えば、富
士地方部長の清功(写真)は、その代表格であろう。
かつて清功は浅間神社参拝の常連であり、曽我神社の総代を兼務していた大石
寺総代の井出光彦と並んで〝大石寺の二大謗法幹部〟と言われている。
今年も七月十日、富士山お山開きが行われ、登山の幕開けを告げるとともに、
登山者の安全を祈願する行事が、富士山本宮浅間大社(写真左)と村山浅間神
社で行われた。
この行事に以前、法華講連合会の理事でもある清功が参加して神職からお祓い
を受けていた事実を本紙で何度か取り上げたので、最近は控えているのか、ま
たは目立たないように参加しているのかは不明だが、平成二十五年には浅間神
社に出向き、参拝していた。
この時は浅間大社の第二鳥居前では大金剛杖パレード、浅間大社本殿では湧
水献上、浅間大社祈祷殿では開山式などが行なわれ、浅間大社楼門前で行なわ
れた開会式では、浅間大社氏子青年会の深澤亮一会長の発声で清功らが万歳を
三唱していた(写真下)。
また、平成二十四年九月七日、富士山本宮浅間大社の拝殿で中村徳彦宮司を祭
司として富士山の夏山シーズンの終わりを告げる閉山祭が行なわれ、清功も大
社役員、氏子衆や崇敬者などと共に参列した。
ここで清功は神職からお祓いをうけていた(写真上)
この後、神職が約二ヶ月間にわたる開山の終了を報告する祝詞をあげ、参列者
を代表して清功が玉串を奉納した。こんな清功に対しても日如は謗法行為を指
摘したこともなく、注意も指導もできないのだ。
日如の「謗法厳誡」は口だけで、純真な所化には厳しく、大願寺の頃はよく暴
力を振るっていたが、謗法行為には実に寛大で、放置している。
★日如注意も処分もできない腰抜け
富士地方部長が西山
本門寺の法要に参列
法華講連合会の理事で富士地方部長の清功は浅間大社に参詣し、お祓いを受け
ただけではなく、平成二十九年六月六日、富士宮市内の西山本門寺の境内にあ
る織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」にも参列したことがあった。
織田信長は天正十年(一五八二年)六月二日、京都本能寺に宿泊していた時、
家臣の明智光秀の謀反によって寝込みを襲われ、一万数千の軍勢に包囲された
ことを知ると、寺に火を放ち、自害して果てた。
ところが、信長の遺体は見つからなかった。そのため、密かに脱出し別の場所
で自害したという説や、信長を慕う僧と配下によって人知れず埋葬されたとい
う説などが後世に流布した。
また、事件当時は信長の生存説が流れ、光秀と対立する羽柴秀吉は、この噂を
利用して、味方を増やそうとしたと言われている。
西山本門寺の境内にある県天然記念物の樹齢五百年以上の柊(ひいらぎ)の根
元には信長の首が埋葬されているとの伝説があり、「信長公首塚」(写真左)が
建てられている。
供養祭を主催したのは信長公奉賛会で、同会は「織田信長公を供養し、会員相
互の親睦を図る」ことを目的に、平成二十三年に設立された。
供養祭は西山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達
が経を上げ、法華講の富士地方部長の清功も同座して合掌(写真下)、焼香した。
法華講員の謗法を
教導できない日如
改革僧で浄圓寺(栃木県小山市)の渡辺雄範住職は、 日如の謗法容認の姿につ
いて次のように記している。
「あなた(日如のこと)の信心なき懶惰懈怠(らんだけたい)の姿には、およそ
御信徒の模範となり、法華講を教導すべき住職としての資格が認められず、布
教能力も管理・監督能力も全くないに等しいものと言わなければなりません。
まず、あなたは、こともあろうに邪宗日蓮宗の寺院に塔婆供養に通うような者
を、大願寺法華講の班長にしております。
その班長は、そのことを自認しており、祈祷やお祓いは、そちらの方が良いと
まで公然と発言しております。
このことを聞いた私は、大変な問題だと考え、直接あなたに報告をいたしまし
たが、あなたは『しょうがないな』と苦笑するだけで全く問題にしようともし
ませんでした。
もちろん、その班長を呼び付けて破折をするようなこともなく、いまだに班長
として認めております。
法華講が折伏した人の中に退転者が極めて多いのは、本質的には、かようなあ
なたの謗法容認の信心なき姿に原因があることは明らかであります」
日蓮大聖人は「此の度大願を立て後生を願はせ給へ・少しも謗法不信のとが候
はば無間大城疑いなかるべし」「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断
つべし」等と謗法を厳しく誡めるよう述べられている。
相承無きニセ法主でも謗法を放置してはならない。神札の購入を奨励したり、
浅間神社でお祓いを受け、玉串を奉納する法華講幹部を厳しく指導するか、処
分するべきだ。(つづく)
[90]
(発行=24.08.14)
大石寺総代が今年も三宮神社を参拝
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ①
以前は八幡宮の神札の購入も奨励
日蓮正宗総本山・大石寺の総代である井出光彦が十三日、今年も富士宮市狩宿
の三宮神社を参拝していた。
井出は地元住民と一緒に朝七時頃から三宮神社の清掃をした後、柏手を打って
拝礼。更に、例年通り、神へのお供え物を口にする事で、神と一体になるとい
う直会という儀式も行ったとのことである。
この大石寺総代の井出は三宮神社だけではなく、以前は曽我八幡宮の氏子総代
も兼ねていて祭典にも参加して神社の境内に設置された売店でビールとジュー
スを売っていたこともある。
光彦の母・信子は以前、「曽我神社にお参りするのは、曾我兄弟の弟が井出家
の敷地で死んだので(その場所を指さしながら)土着信仰という発露でお参り
しているのです」と弁解していた。
だが、井出の謗法行為は、これだけではない。下段に添付した通り、曾我八幡
宮の神札の購入を奨励し、その代金を納入していた。
井出の住む狩宿の町会は二班で計三十六軒、そのうち約七割が大石寺の塔中坊
などに所属しているとのことだが、総代の井出が神札の購入を「お願い」して
いた。
平成九年十二月一日付の「大白法」は当時の総監・藤本の「十月一日施行の改
正宗規による信徒資格問題に関し、本宗信徒にして他の宗教団体へ所属してい
る者に対する猶予期間が十一月三十日をもって終了しました」との談話を掲載
した。
この宗規の変更は学会員を脱会させるのが狙いで、曾我八幡宮の氏子には適用
しないのか?
数々の謗法行為を繰り返している井出だが、大石寺の二大行事では主要な役目
を任されていて、お会式では〝お練り〟の先導役を務め〝三三九度の儀〟でも
日如のすぐ傍で行事に立ち会っている(写真左下)
日如は総代の井出が神社
富士宮市狩宿の三宮神社
を参拝しても黙認しており、その謗法容認は昔からだ。新宿区の大願寺にいた
頃から謗法を放置し、身延の寺で塔婆供養していた信徒に注意もしなかった。
「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」の「日興遺誡置文」に照らし、
日如は自らが任命責任を負う大石寺檀家総代の謗法行為を長年にわたり黙認し
てきた。
その罪は極めて重大と言わねばならない。
実は、こんな大石寺総代の神社参拝などは日蓮正宗の謗法行為の氷山の一角に
過ぎない。
そこで今号から夏季特集号として、これまで本紙で取り上げた日蓮正宗の謗法
行為を集大成して連載で紹介する。(つづく)
[89]
師匠と我らとの関係 17(「富木常忍」に関連する御抄)
「富木常忍に関連する御抄」における弟子との関係
大檀那となった富木常忍は、「富木五郎左衛門尉胤継」と云い、入道して「常忍」と称し建長6年に大聖人門下となり、大聖人より「常修院日常との法諱を賜っています。多くの重要御書が贈られていて、既に本シリーズで紹介した、日興上人が選定された十大部重要御書の中で、観心本尊抄(文永10年4月、大聖人51歳御作、本シリーズの1回目)、法華取要少(文永11年5月、53歳御作、同6回目)、四信五品抄(建治3年4月、56歳御作、同6回目)の3編や一生成仏抄(建長7年、34歳御作、同7回目)が該当しますが、他に私が気にかかった以下の御文もありますので、ご紹介します。
「今日召し合わせ御問注の由、承り候。(中略)御成敗の甲乙は、しばらくこれを置く。前立って鬱念を開発せんか。ただし、兼日御存知ありといえども、駿馬にも鞭うつの理これ有り。今日の御出仕、公庭に望んでの後は、たとい知音たりといえども、傍輩に向かって雑言を止めらるべし。両方召し合わせの時、御奉行人、訴陳の状これを読むの剋、何事につけても御奉行人の御尋ね無からんの外、一言をも出だすべからざるか。たとい敵人等悪口を吐くといえども、各々当身のこと、一・二度までは聞かざるがごとくすべし。三度に及ぶの時、顔貌を変ぜず、麤言を出ださず、軟語をもって申すべし。「各々は一処の同輩なり。私においては全く遺恨無し」の由これを申さるべきか。また御共・雑人等に能く能く禁止を加え、喧嘩を出だすべからざるか。かくのごときこと、書札に尽くし難し。心をもって御斟酌あるべきか。これらの矯言を出だすこと、恐れを存すといえども、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんがために、愚言を出だすところなり。」(問注得意抄 新1271-2頁・全178頁)文永6年5月、48歳御作
現代語訳:今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承りました。(中略)御成敗の甲乙はしばらく置きますが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱憤の思いを開かれるべきでしょう。但し、兼ねてからご存じの事ですが、駿馬にも鞭打つこともあるので、今日、御出仕して公の場所に出られた後は、たとえ知り合いの者でも、傍輩に向かって雑言などしてはいけません。両者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても御奉行人から尋ねられた事以外は一言でも口に出してはいけません。たとえ敵の者が悪口を吐いたとしても、各々が身に当たる事であっても、一、二度までは聞かぬふりをすべきです。それが三度に及ぶようであれば、顔色を変えず、語気を麤くしないで、柔らかな言葉で述べるべきです。「あなた方とは一所の同輩であり、私は全く遺恨はありません」と理由を言われるべきです。また、御供の者や雑人等にまでよくよく注意して、喧嘩をしないようにすべきです。この様な事は、書面では尽くし難いので、心を察して斟酌してください。これらの正す為に(思いのままに)言ったようで恐れ入りますが、仏経(法華経)と行者と檀那との三事が相応して、一事を成就する為に愚言を述べたのです。
※本抄は文永6年の御作と記されていますが、異論もあります。日蓮の信徒として純真な信心を貫く富木常忍ですが、本抄では大聖人が裁判沙汰になった富木常忍に対して、懇切丁寧に人としての対処法を教えられています。私達も一部、家庭訪問に活かしていきたいですね。
「この大法弘まり給うならば、爾前・迹門の経教は一分も益なかるべし。伝教大師云わく「日出でぬれば星隠る」云々。遵式、記して云わく「末法の初め、西を照らす」等云々。法すでに顕れぬ。前相、先代に超過せり。日蓮ほぼこれを勘うるに、これ時のしからしむる故なり。経に云わく「四導師有り。一に上行と名づく」云々。また云わく「悪世末法の時、能くこの経を持たば」。また云わく「もし須弥を接って、他方に擲げ置かんも」云々。また、貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文五帖、一処に取り集めらるべく候。その外、論釈の要文散在あるべからず候。また小僧たち、談義あるべしと仰せらるべく候。流罪のこと、痛く歎かせ給うべからず。勧持品に云わく、不軽品に云わく。命限り有り、惜しむべからず。ついに願うべきは仏国なり云々。」(富貴入道殿御返事 新1283頁・全955-6頁)文永8年11月、50歳御作
現代語訳:この大法が弘まったならば、爾前経や迹門の経教は一分も利益が無くなるのです。伝教大師は「日が出てば星は隠れる」といい、遵式の南獄禅師止観序には「末法の初め西を照らす」と述べられています。大白法は既に顕れたのです。その仏法出現の瑞相は先代を越えているのです。日蓮がこの事を勘えると、大法が弘まる時が来た為なのです。従地涌出品には「地涌の菩薩には四導師がいる。その第一番目を上行という」と、また分別功徳品では「悪世末法の時、能くこの経を持つならば」とあり、見宝搭品には「若し須弥山を接って他の世界に擲げ置くことよりも(この法華経を持つことは難しい)」と説かれています。また、あなたに頼んでいた一切経の要文、大智度論の要文の五帖を一箇処に取り集めてもらえるでしょうか。それ以外の論釈の要文も散失しないようにお願いできるでしょうか。また小僧達の学問談義を怠らないように伝えてもらえるでしょうか。私の流罪のことは決して歎いてはいけません。勧持品や常不軽菩薩品に「(法華経の行者は大難にあうが)命には限りがある。これを惜しんではならない。願うのは仏国(即ち常寂光土)である」と述べている通りです。
※科学が進歩した現在だからこそ、人種や民族、階層、男女等の差別がなく、普遍妥当性を有して、万人が成仏できるという、日蓮仏法が流布時なのです。
「世間の浅きことには身命を失えども、大事の仏法なんどには捨つること難し。故に仏になる人もなかるべし。」(佐渡御書 新1285頁・全956頁)文永9年3月、51歳御作
現代語訳:世間の浅い事の為に身命を失う事はあっても、大事な仏法の為に身命を捨てる事は難しいのです。だから仏に成る人もいないのです。
※佐渡から富木常忍を中心として広く弟子・檀那に与えられた御抄です。成仏の困難さを強調されています。
「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これおごれるにはあらず。正法を惜しむ心の強盛なるべし。おごれる者は、必ず、強敵に値っておそるる心出来するなり。例せば、修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成って隠れしがごとし。正法は、一字一句なれども、時機に叶いぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶うべからず。」(佐渡御書 新1286頁・全957頁)
現代語訳:悪王が正法を滅亡させようとし、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王の様な心を持つ者が必ず仏に成ることができるのです。例えば日蓮の様にです。こう言うのは傲った気持ちからではなく、正法が滅する事を惜しむ心が強いからです。傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が出てくるものです。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れた様なものです。正法は一字一句であっても、時と機根に叶うなら必ず成仏することができます。たとえ千経・万論を習学しても、時と機根に相違するなら成仏することはできないのです。
※知識を得ても、勇気と信念と実行力が無ければ、人間革命も広宣流布もできないと仰せなのですね。
「日蓮、今生には貧窮・下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたるようなれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。その中に識神をやどす。濁水に月のうつれるがごとし。糞囊に金をつつめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天・帝釈をもなお恐ろしと思わず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に、愚者のあなずる道理なり。心もまた身に対すればこそ月・金にもたとうれ。(中略」鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。我、今度の御勘気は、世間の失一分もなし。ひとえに、先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。」(佐渡御書 新1288頁・全958頁)
現代語訳:日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅の家から生まれています。心こそ少し法華経を信じた様ですが、身は人身に似ているが畜生の身です。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、その中に精神を宿しています。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだ様なものです。心は法華経を信じているので梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思いません。しかし身は畜生の身です。身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然です。心も、身に対すればこそ月や金にたとえられるのです。(中略)鉄は鍛え打てば剣となります。賢人・聖人は罵られて(本物であるか否かを)試されるのです。日蓮がこのたび受けた御勘気に世間の罪は一分もありません。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるでしょう。
※此処では、大聖人はご自身の事を、出生は高貴ではなく、身は畜生だと、卑下されていますが、日蓮仏法は、貴賤の上下や貧富に関係なく、苦難を乗り越えて、人間革命される、と仰せなのです。
「我が門家は、夜は眠りを断ち昼は暇を止めてこれを案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆることなかれ」(富木殿御書 新1324頁・全970頁)健治3年8月、56歳御作
現代語訳:我が一門の者は、夜は眠りを断ち、昼は暇を無くして、この事(=邪見の悪僧侶が正法を破壊する根源の悪である)を思案しなさい。一生を空しく過ごして、万年にわたって後悔することがあってはなりません。
※大聖人の門家とは、大聖人の御書根本に広宣流布を目指し行動している、我々創価学会員に他なりませんね。
「この法門は、年来貴辺に申し含めたるように人々にも披露あるべきものなり。総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え。さだにも候わば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。」(四菩薩造立抄 新1341頁・全989頁)弘安2年5月、58歳御作
現代語訳:この法門は、長年あなたに申し含めている様に、人々にも披露されると良いでしょう。全体として、日蓮の弟子だと名乗って法華経を修行する人々は、日蓮の様に行動しなさい。そうすれば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹も必ず守護されるでしょう。
※師匠に連なる行動によって、自身の小さな殻が破れ、大器な人間革命になるのですね。
◎日蓮門下第一の知識人であり、強盛な信仰心の富木常忍だからこそ、大聖人は全幅の信頼を寄せて、多くの重要御書を授与されているのですね。また、富木常忍は日興上人同様に、大聖人から門下に送られた貴重な御手紙(御消息文)を後世への令法久住の為に積極的に集め保存されていたので、御書として、現在我々が学習できるのですね。
[88]
(発行=24.07.15)
昔から無かった法主の「開眼」「許可」
「慧妙」の〝ニセ本尊説〟を徹底粉砕 ㊦
以前は法道院で印刷して各末寺へ直送
日蓮正宗の坊主らが主張する「法主による開眼」は昔からなかった。「本山で
の法主の開眼など御形木御本尊については行われていなかった」と改革僧が異
口同音に証言している。
学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人は皆無に等しい状況だったから御本尊
を下付する必要もなかった。
時折、入信する人が現れた場合、各末寺が勝手に御本尊を授与していたのだが、
その都度、法主が開眼することはなかった。
たとえば、東京の妙光寺が下山日布(五十五世)、法道院が大石日応(五十六
世)、常在寺が阿部日正(五十七世)と、それぞれ有縁の法主の御形木を持っ
ていて、勝手に印刷・表装して、授与していたのである。
また、香川の讃岐本門寺では過去に、塔中坊に安置されていた日興上人の御本
尊を御形木にして檀家に下付していた。
更に、学会員が草創期に受けていた日寛上人の享保三年の御形木御本尊は池袋
の法道院で印刷していた。それを各末寺は本山を経由しないで直接、法道院か
ら受け取っていたのである。
即ち、学会草創期に流布した享保三年の日寛上人の御形木御本尊は、相貌も、
授与書きがない点も、法主による開眼などがなかった点でも、現在の学会授与
の享保五年の日寛上人書写の御形木御本尊と全く同じだったのである。
こうした事実を知っている日顕は、平成四年十一月十二日、淨圓寺の成田宣道
住職が宗門から離脱した時、周囲の者に「しまった、あの寺には日寛上人の御
本尊があったな」と悔しそうに呟いたという。
次に宗門側は「法主の許可がない」と非難する。
日寛上人が「本尊書写豈(あに)化他に非ずや」(観心本尊抄文段)と仰せの
ように、御本尊書写は広宣流布のために御本尊を御図顕された大聖人の御慈悲
を拝しての化他行なのである。
御本尊を拝ませてあげたいという大聖人の御心、それに純真に御本尊を拝した
いと願う衆生の心が合致して、そこに功徳がある。
日顕は己の責務を放棄し、学会員を脅すために御本尊の下付を停止した。
その日顕の所行は、仏と衆生の間に割り込んで成仏を妨害するだけでなく、御
本尊を信徒支配の道具に利用したのである。
広布破壊、成仏妨害の天魔と化した日顕が御本尊の下付を停止したから大聖人
の信心の血脈を現代に受け継ぎ、妙法を全世界に流布してきた唯一の和合僧団
である創価学会が、その資格で御本尊を授与するのは当然である。そうでなけ
れば、全人類のために御本尊を御図顕された大聖人の御心に適わない事態にな
る。
以上のように、日蓮正宗の坊主らの学会授与の御本尊への誹謗は根拠がなく、
大聖人の御心に背くのだ。
御書には「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹
(つつ)み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と記されている。大聖人が末法万
年の全人類のために御図顕されたのが御本尊だ。宗門の都合で許可するとか、
しないとか、そんな事を言うのは大聖人の御精神に反する。
最後に相承無きニセ法主の日顕と日如が模写した本尊こそが「ニセ本尊」だと
断言するものである。
[87]
(発行=24.07.14)
授与書きの有無は力用とは無関係
「慧妙」の〝ニセ本尊説〟を徹底粉砕 ㊥
日寛上人の御本尊で世界の友が功徳を満喫
相承を詐称した日顕は、前号で述べた通り、御本尊を信じられないのが悩みだ
と言っていた。こんな不信謗法の日顕だから約二十七年間の法主在任中、夜の
勤行をしたのは一度だけだった。その日顕が日寛上人書写の御本尊に難癖をつ
けていた。その一つが授与書きに関する批判である。
日寛上人から授与された本證房日證師への授与書きが御形木御本尊にはない点
を挙げて「日證師の心を踏みにじる」と非難していた。
この他、日證師に与えられた「一機一縁」の御本尊だから御形木にして他の人
が拝んでも功徳はない等々、バカなことを言う者もいた。これは御本尊の功徳
が特定の人に限定されるかのような戯言である。
この「一機一縁」とは、日蓮大聖人が門下に与えられた御真筆の御本尊のこと
を指すのだ。日淳上人も大聖人ご在世当時の弟子や信徒を導くために授与され
た御本尊を「一機一縁の御本尊」だと明示していた。
こんなことも知らずに、「一機一縁の御本尊だから他の人には功徳がない」と
は大謗法の妄言だ。絶大な功徳があることは世界百十二ケ国・地域の多くのメ
ンバーが実証している。
「慧妙」は連載「創価学会からの脱出」欄に、学会では功徳がなかったから法
華講に入ったとの体験を何度も載せているが、功徳がないのは御本尊が悪いの
ではない。法華講員に騙されるような退転状態の軟弱な信心に問題があったの
だ。
御本尊の余白に記された氏名は日興上人が「所賜の本主の交名(きょうみょう
)を書き付くるは後代の高名の為なり」(富士一跡門徒存知の事)と述べられ
ているように、授与を受けた人の功績を称え、証明する意義がある。
しかし、その授与書きは御本尊の本体に属するものではない。授与書きの有無
は力用とは全く関係がない。
また、書写した法主及び授与された人の心を踏みにじるとか、その意志を傷付
けることにもならない。
日顕自身、説法の中で弘安以降に書かれた大聖人の御真筆の御本尊でも授与者
の名前のない例が二割近くある事実を認めていた。
また、日顕らは「日證師個人に授与された御本尊を世界に流布するのは罰があ
る、功徳はない」との邪見を得意気に言っていたが、 日寛上人が御本尊を書
写された御心は広宣流布にある。
その御本尊を寺の倉庫に保存しておくのではなく、世界の人々に授与すること
こそ、日寛上人並びに日證師の心に最も適っていると言える。
更に、付言すると、学会が授与している御形木御本尊は、日蓮正宗の僧俗が騒
ぐような「授与書きを削った」のではない。
正しくは「御本尊の本体の部分だけを御形木御本尊にした」のである。淨圓寺
に所蔵されていた御真筆の御本尊の授与書きには何も手は加えられてはいない。
この脇書きに関して言えば、日蓮正宗こそ板御本尊の脇書きの総講頭の願主名
を削り、或いは漆で塗り潰して脇書きを見えなくした。この暴挙こそ、その御
本尊を書写した日達法主の心を踏みにじったことになるのではないか?
また、古い寺には脇書が削損した御本尊が多いのも事実である。(つづく)
[86]
(発行=24.07.13)
日寛上人書写の御本尊に偉大な功徳
「慧妙」の〝ニセ本尊説〟を徹底粉砕 ㊤
大聖人の御精神に背く宗門側の屁理屈
日蓮正宗の謀略紙「慧妙」が性懲りもなく日寛上人御書写の御本尊を「ニセ本
尊の害毒」(七月一日付)、「不幸を招いた」(六月十六日付)などと誹謗してい
る。
この「慧妙」や宗門側の悪口に対しては、これまでも再三、破折した。だが、
「慧妙」は執拗に繰り返し、日寛上人御書写の御本尊に関する悪質なデマを定
着させようとの底意地の悪い魂胆が見え透いているので、改めて徹底的に粉砕
する。
この〝ニセ本尊説〟の破折に先んじて学会に関するデマの前例に触れておく。
それは今でも千葉・茨城・広島県などの一部地域で囁かれている「学会は葬式
で香典を持って行く」という根も葉もないウソである。
これは昭和三十年代の半ば、全日仏(全日本仏教会)の幹部が「創価学会とい
う宗教が勢いを増して、我々の信徒がゴボウ抜きのように取られている」と評
論家の大宅壮一氏に泣きついたことに起因する。
大宅氏は若手ジャーナリスト達と相談の結果、先述の〝香典泥棒〟のデマを捏
造したということだ。
「香典を持ち去る」の
デマは言論人が**(確認後掲載)
それから約十年後の昭和四十五年十月、病床にあった大宅氏は香典の作り話を
深く悔やんで「根拠は何もなかったんだが……。これが全日仏を通して一斉に
全国に広がってしまったのです。言論人として本当に申し訳なかった」と、お
見舞いに病室を訪れた雑誌「潮」の編集者に謝罪した。
当然、学会が「香典を持ち去った」等という確証は昔も今も一切ない。以前、
マスコミが騒いでいた選挙の時に学会員が住民票を移すというデマと同じ類の
**(確認後掲載)された話なのである。
謝罪した大宅氏(写真)と違って「慧妙」は間違い記事を掲載しても、お詫びや
訂正記事を載せない。例えば、日顕の「芸者写真はクビのすげ替えだ」「シア
トル事件」はなかったとか、正本堂の大理石が腐食してモルタルが崩落し始め
ていた等々、大嘘のキャンペーンを張って墓穴を掘り、宗内の僧からも「『慧
妙』の記事を信用して学会員に対応すると、後で困ることがある」(同人誌「
道心」)と嫌われている。
このように「慧妙」の間違い記事は数多いが、極端な例は平成五年、宗門の法
義研鑚委員会(委員長は当時の教学部長・大村壽顕)と正反対の意見を同時期
に発表したことだ。
「慧妙」は「謗法者の御堂への参詣自体を禁じてはおられない」「戒壇の大御
本尊が広布の時至るまで秘蔵の形をとり公開されていないのは、何も謗法者に
拝ませてはならないから、という訳ではない」(平成五年十一月一日付)と我
見の記事を掲載した。
一方、法義研鑚委員会の見解は「大白法」(平成五年十一月十六日付)に掲載
され「一閻浮提総与の御本尊といっても、邪宗邪義の輩に礼拝を許す訳がない。
これは宗祖大聖人の御教示であり、宗門七百年の鉄則である」と「慧妙」の邪
見を一刀両断した。
殆んど同時期に宗門の法義研鑚委員会と「慧妙」は正反対の見解を出したのだ。
さて、前置きが長くなったが、本題に入ろう。
「略本尊も正本尊も
唱題の功徳は同じ」
学会が授与している日寛上人御書写の御本尊に対して、死んだ日顕をはじめ日
蓮正宗の坊主が誹謗していたのは主に相貌、授与書き、法主による開眼と許可
がない、の四点だ。「慧妙」は、これを踏襲して「ニセ本尊」と誹謗している
のである。
これらは全て日蓮大聖人の御精神に背く屁理屈であるが、本紙では改めて①相
貌(そうみょう)②授与書き、③法主による開眼、④法主の許可、の四項目に
ついて徹底的に破折を加えることにする。
まず、相貌については極悪坊主・日顕が平成九年八月二十八日の「八時間説法」
で、日寛上人の御本尊の相貎に難癖をつけていた。
「日寛上人の御本尊様は……十界をお書きになった御本尊様が一幅もないんで
す。全部、略本尊なんです」「こんなこと言うと、まあ、ちょっと、悪いかも
しれないけどね」と宗門の中興の祖を非難する口振りだった。
更に、日顕は「(日寛上人の御本尊は)二乗が欠けているから二乗作仏の意義が
……」と言いかけたが、この時、場内の異様な反応に気付いたようだ。
日顕は慌てて「略本尊も正本尊も、悉く尊い御本尊であり、一切、唱題の功徳
に相違はありません」と取り繕っていた。
功徳に違いがないのは当然で日興・日目上人書写の御本尊にも十界の代表しか
挙げられていないのがある。
特に、学会が現在、授与している御本尊は、草創期に流布した日寛上人書写の
享保三年の御本尊と全く同じ相貌なのである。
草創期の学会員は、その御本尊を信受し、何百万もの人々が宿命を転換して、
功徳を満喫したのだ。
こうした過去の経緯があるため、日顕も、日寛上人の御本尊の相貌にケチをつ
けながらも「略本尊だからニセ本尊」とは言えないため「授与書きの削除」「
法主による開眼がない」「法主の許可がない」と泣き言を言うしかなかった。
だが、これも全て日顕の邪見である。御本尊の本義、宗門の歴史から見ても、
すぐに化けの皮がはがれる難癖でしかない。
慢心の日顕が碩学の日亨上人を侮辱
余談になるが、慢心の日顕は歴代法主を愚弄するような発言をしていた。
特に、平成四年八月、全国教師講習会の際、碩学の堀日亨上人を批判した。
日顕は「堀上人がね、チョットわけ分かんないようなこと仰っている」と暴言
を吐いた。その時の雰囲気は活字では伝わらないが、甚だしく侮辱する口調だ
ったということだ。
更に、日顕は言葉を続けて「堀上人はね、学者だから……あんまり会通がない
んです」とも非難した。
この日顕が言う、日亨上人の「わけ分かんないこと」とは、謗法坊主の十七世
日精について生涯、造仏読誦論者であったと日亨上人が批判されたことを指し
ていたのだ。「わけ分かんないこと」を口走ったのは日顕の方なのである。
日顕が「御本尊を信じられない」と
日寛上人書写の御本尊を誹謗する日顕は絶大な御本尊の力用を疑っているので
ある。それを物語る面白いエピソードがある。
東京・八王子の平山廣篤(廣妙寺)が昭和六十一年六月十三日、御講で次のよう
な日顕の不信謗法を暴露したことがあった。
「(日顕に)私が『信心してきて一番苦しんだことは何ですか?』と質問した。
すると『(日顕は)なかなか御本尊を信ずることができなかったことだ。今でも
本当に信ずることができないでいる』と仰せられた」
この平山の話を聞いた婦人は強い衝撃を受けて日記に書き留めていた。
なお、今のニセ法主・早瀬日如は法門に関する知識は「所化並み」と言われて
おり、日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と悪口を言うだけで、その理由には言
及できない。
以前、大願寺にいた日如(当時は義寛)に新宿区在住の学生部員が御書について
質問すると「難しいな、それは学会の教学部に訊きなさい」と逃げた。(つづ
く)
[85]
師匠と我らとの関係 16(安房方面の門下に宛てられた御抄)
「安房方面の門下に宛てられた御抄」における弟子との関係
今回からは、全国に散在する大聖人の弟子・檀那衆に与えられた御手紙を方面毎に紹介します。
今回の安房(房州)は大聖人が生誕し、修行し、立宗宣言された有縁の地域です。
「草木は大地なくして生長することあるべからず。日蓮、法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたわるるこの御恩、さながら故師匠・道善房の故にあらずや。日蓮は草木のごとく、師匠は大地のごとし。」(華果成就御書 新1211頁・全900頁)
現代語訳:草木は大地がなければ生長することができません。日蓮が法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房・日蓮房と呼ばれる様になった此の御恩は、そのまま故師匠道善房のおかげなのです。例えば、日蓮は草木の様であり、師匠の道善房は大地の様なものです。
※弘安元年4月に、大聖人の師匠である故・道善房時代の兄弟子の浄顕房・義浄房に宛てたお手紙です。師の道善房への恩を述べられ、華果の譬えを挙げて真の師弟関係を説かれています。
大聖人は妙法を持たなかった道善房に恩義を感じておられますが、創価学会員は三代の会長の死身弘法の御覚悟と実践に報恩感謝を申し上げていきたいですね。
「よき弟子をもつときんば、師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくわいぬれば、師弟地獄におつといえり。師弟相違せば、なに事も成すべからず」(華果成就御書 新1211頁・全900頁)
現代語訳:良い弟子を持った時は、師弟ともに成仏を成し遂げ、悪い弟子を養育したならば、師弟ともに地獄に堕ちると云われています。師匠と弟子との心が違えば、何事も成就することは無いのです。
※大聖人は、いかに師弟の関係が重要なのかを提示されています。私達は、私達の直接の師匠である池田大作先生の正義と偉大さを、世界の人々に示して行きたいですね。
「領家はいつわりおろかにて、ある時は信じ、ある時はやぶる。不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時、すでに法華経をすて給いき。日蓮先よりげんざんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんためにこの御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とおぼしめされなん。また経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮、偏頗はなけれども、尼御前、我が身のとがをばしらせ給わずして、うらみさせ給わんずらん。この由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給うべく候。
御事においては、御一味なるようなれども、御信心は色あらわれて候。さどの国と申し、この国と申し、度々の御志ありて、たゆむけしきはみえさせ給わねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも終にはいかんがとおそれ思うこと、薄氷をふみ、太刀に向かうがごとし。くわしくは、またまた申すべく候。それのみならず、かまくらにも、御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候人々も、いまは世間やわらぎ候かのゆえに、くゆる人々も候と申すに候えども、これはそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思いまいらせ候えども、骨に肉をばかえぬことにて候えば、法華経に相違せさせ給い候わんことを、叶うまじき由、いつまでも申し候べく候。」(新尼御前御返事 新1222-3頁・全906-7頁)
現代語訳:領家(資産を有する家、大尼御前のこと)は偽りおろかで、ある時は信じ、ある時は破る、という様に心定まらず、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれました。日蓮が前からお目にかかる毎に「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこの事です。日蓮にとって重恩の人ですから、助けてあげようとこの御本尊をしたためて差し上げるならば、十羅刹はきっと日蓮を偏頗(人の扱いに公正を欠くこと)な法師と思われるでしょう。また経文に説かれている通りに、不信の人に御本尊を差し上げないならば、日蓮は偏頗はないけれども、大尼御前は自身の失を知られず、日蓮を恨まれることでしょう。その事は詳しく助阿闍梨の手紙に書いておきましたので、呼ばれて尼御前にお見通してください。新尼御前は大尼御前とご一緒の様ですが、法華経への信心は形に顕われておられます。佐渡の国までの御心尽くしといい、この国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためて差し上げたのです。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷を踏み、太刀に向かう様です。詳しくは、また申しあげましょう。それだけでなく、鎌倉でも御勘気の時、千人のうち九百九十九人が退転してしまいましたが、それらの人々も今は世間も和らいできた為か、後悔している人人もあるということです。大尼御前はそれらの人々と全く違っているので、いかにもかわいそうだとは思いますが、骨に肉を換えられない道理ですから、法華経に違背された人に御本尊を差し上げることはできないと、時が過ぎてもお伝えください。
※文永12年2月、身延から名越家の新尼御前に与えられた御手紙です。
大聖人は、「信心強盛な新尼御前には御本尊を授与するが、大聖人の佐渡流罪中に退転した大尼御前には御本尊を授与できない」と述べられ、仏法の道理の厳しさを御教示されています。
「光日御前は、いかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ。また故弥四郎殿が信じて候いしかば、子の勧めか。この功徳空しからざれば、子とともに霊山浄土へ参り合わせ給わんこと、疑いなかるべし。(中略)今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給う。母と子と、ともに霊山浄土へ参り給うべし。その時、御対面いかにうれしかるべき、いかにうれしかるべき。」(光日上人御返事 新1267頁・全933-4頁)
現代語訳:光日尼御前は、どの様な宿習によって法華経を信ずるようになったのでしょうか。また亡くなった弥四郎殿が法華経を信じていたので、その子の勧めなのでしょうか。この(法華経を信じて)功徳が虚偽ではないのだから、子の弥四郎殿と共に霊山浄土に参って会うことは疑いがないのです。(中略) 今の光日上人はわが子を思うあまり法華経の行者となられたのです。だから必ず母と子が共に霊山浄土に参ることができるでしょう。その時のご対面は、どんなにか嬉しいことでしょう。重ねてどんなに嬉しいことでしょう。
※弘安4年8月に身延より安房国天津の光日尼に贈られたお手紙です。光日尼は、息子の弥四郎の勧めで入信し純真な信心を貫いた人で、題名の通り在家ながら「上人」の号を頂き、即身成仏(新1264頁・全934頁)されていると褒められています。本抄では、母子共に「霊山浄土に参ることができる」と繰り返して述べられています。
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は、日本国の中には日蓮一人よめり。八十万億那由他の菩薩は、口には宣べたれども修行したる人一人もなし。かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は、日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり、その子となるも、必ず宿習なり。もし日蓮が法華経・釈迦如来の御使いならば、父母、あにその故なからんや。例せば、妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼のごとし。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給うか。しからずんば、八十万億の菩薩の生まれかわり給うか。また、上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か。不思議に覚え候。」(寂日房御書 新1269頁・全902-3頁)
現代語訳:日蓮は日本第一の法華経の行者です。法華経勧持品の二十行の偈の文は、すでに日本国の中では日蓮一人が読んだのです。八十万億那由佗の菩薩は、口では宣べたけれども修行した人は一人もいません。この様な不思議な日蓮を生んだ父母は、日本国の一切衆生の中では大果報の人です。父母となりその子となるのも必ず宿習なのです。もし日蓮が法華経と釈迦如来の御使であれば、父母にどうして深い宿縁が無いことがあるでしょうか。例えば妙荘厳王・浄徳夫人と浄蔵・浄眼の様なものです。釈迦・多宝の二仏が、日蓮の父母と変じられたのでしょうか。そうでなければ八十万億の菩薩が生まれ変わられたのでしょうか。また、上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹でしょうか。不思議に思えるのです。
※弘安2年9月に、身延から寂日房日家に与えられた御抄です。
この箇所は、大聖人御出生の不思議さを述べられています。
「かかる者の弟子檀那とならん人は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。彼のはんかい・ちょうりょう・まさかど・すみともといわれたる者は、名をおしむ故に、はじを思う故に、ついに臆したることはなし。同じはじなれども、今生のはじはもののかずならず、ただ後生のはじこそ大切なれ。獄卒・だつえば・懸衣翁が三途河のはたにていしょうをはがん時を思しめして、法華経の道場へまいり給うべし。法華経は後生のはじをかくす衣なり。経に云わく「裸なる者の衣を得たるがごとし」云々。この御本尊こそ冥途のいしょうなれ。よくよく信じ給うべし。おとこのはだえをかくさざる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるおやあるべしや。釈迦仏・法華経は、めとおやとのごとくましまし候ぞ。日蓮をたすけ給うこと、今生の恥をかくし給う人なり。後生はまた、日蓮、御身のはじをかくし申すべし。昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしゅうとめになること候ぞ。信心おこたらずして、南無妙法蓮華経と唱え給うべし。」(寂日房御書 新1270頁・全903頁)
現代語訳:この様な日蓮の弟子檀那となった人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じ様に法華経を弘めるべきです。法華経の行者と言われているのは、もはや不祥な事であり、まぬかれ難い身なのです。あの樊噲や張良、平将門、藤原純友などは名声を惜しみ、恥を思うために最後まで臆病な振る舞いをしたことはなかったのです。同じ恥であっても今生の恥は大したことではありません。ただ後生の恥こそ大切なのです。獄卒や奪衣婆や懸衣翁に三途の河のほとりで衣装をはがされる時の恥を思い合わせて、法華経の道場に参られるべきです。法華経は後生の恥をかくす衣です。法華経薬王菩薩本事品に「裸者が衣を得たようなものである」とあります。この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装です。強盛に信心されるべきです。夫の膚をかくそうとしない妻がいるでしょうか。子供の寒さをあわれと思わない親がいるでしょうか。釈迦仏・法華経は、妻と親のようなものなのです。日蓮(に供養し、身)を助けてくださる事が、私の今生の恥をかくしてくださる人ですから、後生は日蓮があなたの恥をおかくしするでしょう。昨日は人の上でも、今日は我が身の上です。花が咲けば必ず実がなり、嫁はやがて姑になることは疑いない事です。信心を怠らずに南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。
※御本尊を信受できたのは過去世の深い宿縁であり、大聖人の弟子となった限りは法華経を流布すべきで、自身は必ず成仏すると励まされていますね。
◎大聖人・有縁の地である安房を説明します。
大聖人は、貞応元年(承久4年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)の漁村でご生誕(父は三国の太夫、母は梅菊)され、天福元年12歳で、近くの清澄寺に登られ、道善房を師匠として仏道修行されました。建長5年4月28日(大聖人32歳)、鎌倉より一時戻られて故郷・清澄寺で立宗宣言されました。また文永元年11月11日(大聖人43歳)、同国東条郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)を通行中に、地頭の東条景信や念仏者の襲撃を受けるという「小松原の法難」又は「東条の難」として知られる事件が起こっています。
安房方面にも、上述の他に多くの弟子・檀那がおられた模様です。
[84]
師匠と我らとの関係 15(諸法実相抄)
諸法実相抄における弟子との関係
一般に「諸法」とは、宇宙に存在する一切の法、森羅万象であり、「実相」は、あらゆる現象の真実の姿・相をいうのです。
本抄は、文永10年、大聖人52歳、佐渡流罪中に、天台宗の学僧であった最蓮房が法華経方便品の「諸法実相」について質問され、それに対して大聖人が答えられ、併せて、信心実践の上での大切な信心指導が多く述べられていますので、ご紹介します。
「問うて云わく、法華経の第一の方便品に云わく『諸法実相乃至本末究竟等』云々。この経文の意いかん。答えて云わく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりという経文なり。 依報あるならば、必ず正報住すべし。釈に云わく『依報・正報、常に妙経を宣ぶ』等云々。また云わく『実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土』云々。また云わく『阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず』云々。これらの釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば、法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかわることなし。」(諸法実相抄 新1788頁・全1358頁)
現代語訳:問うて言います。法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれています。この経文の意味はどの様なものでしょうか。
答えて言います。下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が、全て一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文です。依報があるならば、必ず正報が住しているのです。妙楽大師の法華文句記の巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べています。また金剛錍には「実相は必ず諸法としてあらわれ、諸法は必ず十如をそなえ、十如は必ず十界という区別相があり、十界には必ず身と土が存在する」と述べています。また、同じく金剛錍の中で「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身の中に具わり、毘盧舎那仏の一身とその所在も凡夫の一念の外にあるものではない」としています。これらの妙楽大師の解釈義は明解です。誰が疑いを生ずるでしょうか。そうであれば、法界の姿は、妙法蓮華経の五字にほかならないのです。
※本抄には、更に「実相というは、妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経ということなり。(中略)仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりということを、諸法実相とは申すなり。天台云わく『実相の深理、本有の妙法蓮華経』云々。」(新1789頁・全1359頁)【現代語訳:実相というは、妙法蓮華経の異名です。諸法は妙法蓮華経ということです。(中略)仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのです。この事について天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べています。】とあり、明確に、諸法と実相は不可分の存在であり、妙法蓮華経を意味する、と述べられていますね。
「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮、地涌の菩薩の数に入らば、あに、日蓮が弟子檀那、地涌の流類にあらずや。経に云わく『能くひそかに一人のためにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、この人は則ち如来の使いにして、如来に遣わされて、如来の事を行ず』。あに別人のことを説き給うならんや。」(諸法実相抄 新1790頁・全1359頁)
現代語訳:地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人なのです。地涌の菩薩の数に入っていないかもしれません。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類ということになるでしょう。法華経法師品の「よく密かに一人のためにでも、法華経そしてその一句だけでも説くならば、まさにこの人は如来の使いであり、如来から遣わされて如来の振舞いを行ずるものと知るべきである」との文は、誰か他の人の事を説かれたのではないのです。
※私達、日蓮門下の立場からすれば、私達が地涌の菩薩であり、だからこそ、如来の振舞いを示さなければならないのです。
「いかにも、今度、信心をいたして、法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば、釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや。経に云わく『我は久遠より来、これらの衆を教化せり』とは、これなり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は、男女はきらうべからず、皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし。これ、あに地涌の義にあらずや。あまつさえ、広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えんことは、大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:信心をしたからにはどの様なことがあっても、このたび、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していきなさい。日蓮と同意であるならば地涌の菩薩なのでしょう。地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子である事をどうして疑うことができるでしょうか。法華経従地涌出品に「これらの地涌の菩薩を、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこの事です。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女の分け隔てをしてはなりません。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのです。はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのです。未来もまたそうでしょう。これが地涌の義ではないでしょうか。そればかりか広宣流布の時は日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とする様なものです。ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。
※私達は、世界唯一の生命尊厳、人間尊敬の仏法哲学を学んでいるのです。積極的に人生を謳歌しようではありませんか。
「この文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給え、意得させ給うべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。あいかまえて、あいかまえて、信心つよく候いて、三仏の守護をこうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。」(諸法実相抄 新1792-3頁・全1361頁)
現代語訳:この手紙には日蓮が大事な法門を書いておきました。よくよく読んで理解し、肝に銘じていきなさい。一閻浮提第一の御本尊を信じていきなさい。十分に心得、信心を強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を受けていきなさい。行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法ではないのです。私自身も行い、他人にも教化していきなさい。行学は信心より起きてくるのです。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。
※有名な「行学二道の推奨と信心が絶対不可欠」の御文です。日蓮仏法を学べば学ぶほど、自身の器が小さいと気付かされますね。
「日蓮が相承の法門等、前々かき進らせ候いき。ことにこの文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か。さだめてゆえあらん。総じて日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮、もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱えて、日本国の男女をみちびかんとおもえばなり。経に云わく『一に上行と名づく乃至唱導の師なり』とは説かれ候わぬか。まことに宿縁のおうところ、予が弟子となり給う。この文あいかまえて秘し給え。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。」(諸法実相抄 新1793頁・全1361-2頁)
現代語訳:あなたには日蓮の相承の法門を、前々から書き送っています。特に、この手紙には大事な法門を記しております。日蓮とあなたとは不思議な契約があるのでしょうか。六万恒河沙の上首の上行菩薩等の四菩薩の変身でしょうか。決まっていて理由のあることでしょう。全体として日蓮が身にあたる法門を差し上げています。日蓮は、もしかすると六万恒河沙の地涌の菩薩の眷属であるかもしれません。南無妙法蓮華経と唱えて日本国の男女を導かんと思っているからです。法華経従地涌出品には「一番に上行と名づけた上首の地涌菩薩は、唱導の師匠である」と説かれているではありませんか。あなたにはまことに深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのす。この手紙を心して秘していきなさい。日蓮が己証の法門等を書き記したのです。
※此処でも「日蓮仏法の重要法門を記している」と述べられており、私達日蓮門下だからこそ、この重要法門をも学習する事ができるのですね。
◎不思議な宿縁によって大聖人の弟子となり、地涌の菩薩の一員にも連なる最蓮房に対して、大聖人は、法華経の経文から事例を引き、「諸法実相」の真の仏教上の意義、地涌の菩薩の使命、御本尊中心の信仰の在り方について、御教示されています。
私達にも通じる重要な御指導であり、素直に実践していきたいですね。
[83]
師匠と我らとの関係 14(生死一大事血脈抄)
生死一大事血脈抄における弟子との関係
本抄は、佐渡の天台僧であった最蓮房が、生死一大事血脈相承という甚深の法門について大聖人に質問され、文永9年2月にその問に回答された御書です。比較的短い御文ですが、私達創価学会員にとって、重要な信心の血脈論が述べられていますので、紹介します。
「生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり。その故は、釈迦・多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて、この妙法蓮華経の五字、過去遠々劫より已来、寸時も離れざる血脈なり。」(生死一大事血脈抄 新1774頁・全1336頁)
現代語訳:生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことです。その理由は、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになられた、この妙法蓮華経の五字を、過去遠々劫よりずっと、寸時も離れることのなかった血脈の法だからです。
※血脈とは、親の血が子に伝わる様に仏から衆生に教法が伝わること。故に生死一大事血脈とは、仏から衆生に伝えられる、三世を貫き流れる妙法(三大秘法の南無妙法蓮華経の五字・七字)のことですね。
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我ら衆生との三つ全く差別無しと解って妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とはいうなり。このこと、ただ日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは、これなり。」(生死一大事血脈抄 新1774-5頁・全1337頁)
現代語訳:(十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である)久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経(即ち妙法蓮華経)と我ら九界の衆生の三は全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えさせていただく事が生死一大事の血脈というのです。この事が、日蓮の弟子檀那等にとって重要なのです。法華経を持つとは、この事をいうのです。
※崇高な御仏と、人生を善導・変革する妙法と、凡夫である私達が、全く同等の価値である、と自覚し仏道修行を重ねる事が妙法の当体であり、生死一大事の血脈なのですね。
「総じて、日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり。しかも今、日蓮が弘通するところの所詮これなり。もししからば、広宣流布の大願も叶うべきものか。あまつさえ、日蓮が弟子の中に異体異心の者これ有らば、例せば、城者として城を破るが如し。」(生死一大事血脈抄 新1775頁・全1337頁)
現代語訳:全体として日蓮の弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるのを生死一大事の血脈というのです。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこの事なのです。もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するでしょう。これに反して、日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものです。
※異体同心にして共に南無妙法蓮華経と唱える私達・創価学会員の姿が、日蓮仏法の肝要であり、世界広宣流布へ繋がっていると自信を持ちましょう。
「過去の宿縁追い来って、今度日蓮が弟子と成り給うか。釈迦・多宝こそ御存知候らめ。『在々諸仏土、常与師俱生(いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず)』、よも虚事候わじ。」(生死一大事血脈抄 新1776頁・全1338頁)
現代語訳:(あなたは)過去世の宿縁により追って来られて、今世で日蓮の弟子となられたのでしょうか。釈迦・多宝の二仏こそ御存知だろうと思われます。化城喩品の「在々諸仏土、常与師俱生(どこの場所の諸仏の土地でも、常に師匠とともに生まれる)」との経文は、よもや虚言とは思われないのです。
※創価学会員の中でも正真の仏弟子は、「在々諸仏土、常与師俱生」との絶対の確信を持っているのですね。
「上行菩薩、末法今の時、この法門を弘めんがために御出現これ有るべき由、経文には見え候えども、いかんが候やらん、上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん、日蓮まずほぼ弘め候なり。相構えて相構えて、強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり。信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり。」(生死一大事血脈抄 新1776-7頁・全1338頁)
現代語訳:上行菩薩が、末法の今時この法華経を弘めるために御出現されることを、経文に見えていますがどうでしょうか。上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮はその先駆けとして、上行菩薩所弘の法門をほぼ弘めているのです。心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念してください。生死一大事の血脈をこの事より外に求めてはなりません。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこの事なのです。信心の血脈が無ければ、法華経を持っても無益なのです。
※臨終正念とは、死に臨んでも正しい念慮(思い、考え)を持つこと、つまり、妙法を信行して成仏を疑わないことですね。
◎「生死」は、永遠に連続する生命それ自体、「一大事」は、最も重要・根本的な事、つまり生命、共に妙法蓮華経の事であり、「血脈」とはこの妙法蓮華経を中心として永遠に続く生命を言います。従って本抄の「生死一大事の血脈」とは、①多宝塔中で上行菩薩が相伝した妙法蓮華経の異名であり、②仏と法と我等が差別なしと悟って唱題する一切衆生が妙法の当体であり、③異体同心の信心根本の団結の姿で唱題する大聖人の弟子檀那の胸中に存在する、と真の血脈相承は、不審だらけの法体の継承ではなく、大聖人の御心に直結した信心の継承である事を、御教示されているようですね。
[82]
今の創価学会に政治部なる組織は存在していません。
今の公明党がかつての政治部であり、私達創価学会員は現在の公明党を支持しています。
政治は技術が必要であり、仏法上では純白でいたいけれども、そうは出来ず、価値的に行動しなければならないのです。
私は、粟田晋なる幹部を全く存知していません。
この人は、おそらく獅子身中の虫であり、この人の考えは崩壊するでしょうね。
[81]
『公明党は支持できない』
[80]
師匠と我らとの関係 13(総勘文抄)
総勘文抄における弟子との関係
「総勘文抄」の正式な題号は、「三世諸仏総勘文教相廃立」と云い、宗門で戒壇本尊とされる楠板本尊が建立された弘安2年10月の著作とされていますが、詳細は不明です。本来の勘文は朝廷に上申する意見書を言いますが、「三世諸仏総勘文」は、「三世のあらゆる仏の総意で決めた文言」との意味です。「教相」は釈尊の説法の立て分けを言い、方便の権教と実教の法華経があり「廃立」は権教を廃し、法華経を立てることを指します。今回は師匠からの御指導というより、深遠な日蓮仏法の初歩的解説といったところでしょうか。
「一代聖教とは、総じて五十年の説教なり。これを一切経とは言うなり。これを分かちて二つとなす。一には化他。二には自行なり。」(総勘文抄 新705頁・全558頁)
現代語訳:(釈尊の)一代聖教とは、五十年の間に説いた教え全体です。これを一切経と言うのです。この一切経を二つに分けます。一には化他(他を化するとの意で、利他と同意)の経であり、二には自行(自己の為に行じるとの意)の経です。
※補足:化他と自行は、修行と法体の二義に約されます。修行に約す場合は、化他とは他人に法の利益を受けさせる為の教化・化導を言い、自分自身が法の利益を受ける為に修行することを自行と言います。法体に約す場合は、「化他」とは九界の衆生の機根に応じて説いた随他意の教えを言い、「自行」とは仏が自らの境地をそのまま説いた随自意の教えを言います。本抄の釈尊の一代聖教に当てた場合、「化他の法門」とは法華経以前の随他意の爾前権経を指し、「自行の法門」とは随自意の法華経を指します。
「一に化他の経とは、法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり。これをば権教と云い、または方便と名づく。これは四教の中には、三蔵教・通教・別教の三教なり。五時の中には、華厳・阿含・方等・般若なり。法華より前の四時の経教なり。また、十界の中には、前の九法界なり。」(総勘文抄 新705頁・全558頁)
現代語訳:一には化他の経とは、(釈尊の一代五十年の説法の中で最後八年の自行の法である)法華経より以前の四十二年の間に説かれた諸々の経教の事です。これを(法華経の実教に対して)権教といい、または(法華経の真実に対し)方便と名づけるのです。これは化法の四教の立て分けで言えば、三蔵教・通教・別教の三教であり、五時の立て分けでは華厳時・阿含時・方等時・般若時という、法華経より以前の四時の経教です。また十界の中では、仏界に対して、それ以前の九法界に該当します。
※自行の経について本抄で後述されていますが、化他の経と自行の経の立て分けは、この御文の方が詳しいです。天台所立の四教の立て分けでいえば、蔵(経[定]・律[戒]・論[慧]の三蔵教で六道内の因果を明かし戒が中心)・通(蔵教にも別教にも通じるとの意)・別(蔵通二教とも後の円教とも別との意)の三教が「化他の経」であり、円教(円融円満の意)が「自行の法」です。五時の立て分けの中では、華厳時・阿含時・方等時・般若時の経教が「化他の経」となり、法華涅槃時の経が「自行の法」となるのです。厳密に法華涅槃時の涅槃時に関していえば、涅槃経の中の〝円教〟の部分に限って自行に組み込まれていると考えられます。また、法華経二十八品が自行の法となることは当然として、開経の無量義経、結経の普賢経も「自行の法」の中に含められていると拝察すべきでしょう。
「一代の教主・釈迦如来、一切経を説き勘文し給いて言わく『三世の諸仏、同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば、我もかくのごとく、一言も違わざる説教の次第なり』云々。方便品に云わく『三世の諸仏の説法の儀式のごとく、我も今またかくのごとく無分別の法を説く」』已上。『無分別の法』とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶことなく、草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも、互いに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して闕くることなし。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は、我が心の中に有って片時も離るることなき三身即一の本覚の如来にて、この外には法無し。この一法ばかり十方の浄土に有って、余法有ることなし。故に「無分別の法」と云うはこれなり。」(総勘文抄 新709-10頁・全561頁)
現代語訳:一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文して、「三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式ですので、我もこの様に三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのです」と述べています。方便品には「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説くのです」とあります。無分別の法(心で推量思惟できない、善悪・三乗等に差別しない、普遍的な法、つまり諸法実相の妙理のこと)とは一乗の妙法です。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵の中にも、それぞれが十法界の法を具足しています。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばない場所は無いのです。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心の中に収まって瞬時も離れることが無いのです。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、この他には、仏の法はないのです。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのです。
※日蓮仏法は「我が身が三身即一の本覚の如来である」と説く無分別の法なのです。
「二に自行の法とは、これ法華経八箇年の説なり。この経は寤の本心を説きたもう。ただ、衆生の思い習わせる夢の中の心地なるが故に、夢の中の言語を借りて寤の本心を訓うるなり。故に、語は夢の中の言語なれども、意は寤の本心を訓う。法華経の文と釈との意かくのごとし。これを明らめ知らずんば、経の文と釈の文とに必ず迷うべきなり。ただし、この化他の夢の中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢の中の教えを取って寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢の中の化他・方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まって、心の外には法無し。これを法華経の開会とは云うなり。譬えば衆流を大海に納むるがごときなり。仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なり。」(総勘文抄 新710頁・全561頁)
現代語訳:第二の自行の法とは、(釈尊の一代五十年の説法中で最後の)八年間の法華経の説の事です。この経は仏の寤の本心を説かれたのです。ただ衆生が夢の中の心地に思い慣れているので、その夢の中の言語を借りて寤の本心を教えたのです。従って、言葉は夢の中の言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えているのです。法華経の文とその釈の本意はこういう事です。この事を明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのです。ただし、この化他のために説いた夢の中の法門も寤の仏の本心に備わった徳用の法門であり、その夢の中の教えをとって寤の本心に収めるのですから、四十二年の夢の中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのです。これを法華経の開会というのです。たとえば衆流を大海に納める様なものです。仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心の中に摂めるているので、心の外には法はないのです。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なのです。
※自行の法を持つ己身の本覚の三身如来とは、誰の事なのか。
「極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体なり。三身即一・四土不二の法身の一仏なり。十界を身となすは法身なり。十界を心となすは報身なり。十界を形となすは応身なり。十界の外に仏無く仏の外に十界無くして、依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるをもって寂光土と云う。この故に無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり。「法性の淵底、玄宗の極地」なり。故に極理と云う。この無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って清浄・無漏なり。これを名づけて『妙法の心蓮台』とは云うなり。この故に、『心の外に別の法無し』と云う。これを『一切法は皆これ仏法なりと通達し解了す』とは云うなり。」(総勘文抄 新712頁・全563頁)
現代語訳:極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土とが和合した一体をいうのです。三身即一身の境界を指し、四土(四種の国土、①凡聖同居土・②方便有余土・③実報無障礙土・④常寂光土のこと)は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身です。十界の外に仏は無く、仏の外に十界は無いのであって、依正は不二であり身土(身:活動の主体である衆生の身体、土:衆生がすんでいる国土)も不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのです。だから、無相の極理というのです。生滅無常の相を離れているので無相というのです。「法性の淵底・玄宗の極地」であるゆえに極理というのです。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩を離れた境界です。これを名づけて「妙法の心蓮台(衆生の心は本来清浄であることを蓮台に譬えた、仏性のこと)」というのです。だから、心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを「一切法は全てこれ仏法であると通達し解了する」というのです。
※西方十万億土の阿弥陀仏が常住しているという極楽浄土は方便であり、架空であり、現実には天国と同様、存在しないのです。真の極楽浄土は、他の御書にも
「浄土といい穢土というも、土に二つの隔てなし、ただ我らが心の善悪によると見えたり。」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
「浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。」(上野殿後家尼御返事 新1832-3頁・全1504頁)とあります。
この御文での極楽浄土は、“正報の有情(衆生)と依報の国土(娑婆世界)が和合して一体となる”とあり、各家庭の御本尊に向かって唱題する私達学会員の姿であり場所ではないでしょうか。
「善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に、心の外に善無く悪無し。この善と悪とを離るるを無記と云うなり。善・悪・無記、この外には心無く、心の外には法無きなり。故に、善悪も、浄穢も、凡夫・聖人も、天地も、大小も、東西南北・四維・上下も、言語の道断え、心行の所滅す。心に分別して思い言い顕す言語なれば、心の外には分別も無分別も無し。言と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷って、知らず覚らざるなり。仏はこれを悟り顕して神通と名づくるなり。」(総勘文抄 新713頁・全563頁)
現代語訳:善に背くのを悪といい、悪に背くのを善と言います。だから心の外に善はなく、悪もないのです。この善と悪とを離れるのを無記というのです。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのです。故に、善悪も浄穢(清い浄土と汚い穢土)も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、全て言語の道は断え、心行も所滅するのです。心で分別した思いを言い表すのが言語ですから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのです。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのです。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのです。
※心の働きに迷えば凡夫、悟れば聖人・仏であり、悟りに顕した時、神通と呼ばれるのですね。
「一代聖教とは、この事を説きたるなり。これを八万四千の法蔵とは云うなり。これ皆ことごとく一人の身中の法門にてあるなり。しかれば、八万四千の法蔵は我が身一人の日記文書なり。この八万法蔵を我が心中に孕み持ち、懐き持ちたり。我が身中の心をもって、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり。この心が、善悪の縁に値って善悪の法をば造り出だせるなり。(中略)心の不思議をもって経論の詮要となすなり。この心を悟り知るを名づけて如来と云う。これを悟り知って後は、十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。これを知らざる時を名づけて無明となす。無明は『明らかなることなし』と読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。これを悟り知る時を名づけて法性と云う。故に、無明と法性とは一心の異名なり。名言は二つなりといえども、心はただ一つ心なり。これに由って、無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば、寤の心を失うべきが故なり。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に、『一切法は皆これ仏法なり』と云うなり。」(総勘文抄 新713-4頁・全563-4頁)
現代語訳:一代聖教とはこの事(仏の心の一法)を説いているのです。これを八万四千の法蔵と言うのです。これは全てにわたり釈尊一人の身中の法門なのです。従って八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのです。この八万法蔵を我が心の中に孕み、懐き持っているのです。(それなのに)我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのです。この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのです。(中略)この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要としているのです。この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。これを知らない時を名づけて無明とするのです。無明とは「明らかなること無し」と読むのです。我が心のありさまを明らかに覚らないからです。これを悟り知る時を名づけて法性という。故に無明と法性とは一心の異名です。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのです。だから無明を断じてはならないのです。無明である夢の心を断じてしまえば寤の心をも失ってしまうからです。全体として円教の意は一毫の惑(わずかな煩悩)をも断じないのです。だから「一切の法は皆これ仏法である」というのです。
※補足:己身本覚の三身如来とは、「己心」が現実にあらわれている自分の心で「如是相・応身如来」に当り、「心性」がその自分の生命の性分で「如是性・報身如来」に当り、「心体」が自分の生命の体で「如是体・法身如来」に当ると拝されます。
「この十法界は一人の心より出でて、八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること、かくのごとし。三世の諸仏の総勘文にして、御判たしかに印したる正本の文書なり。」(総勘文抄 新714頁・全564頁)
現代語訳:この十法界は一人の心から生み出されて八万四千の法門となったのです。(この様にこの法門は、)一人を手本として一切衆生に平等にあてはまるのです。これは三世の諸仏の総勘文であって御判をたしかに押した正本の文書なのです。
※仏法の法則は、生命の変革を成し遂げた一人が手本となって万人に通じると仰せなのです。
「我らは迷いの凡夫なりといえども、一分の心も有り解も有り、善悪を分別し、折節を思い知る。しかるに、宿縁に催されて、生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏すべき身をもって、善知識に値うといえども、なお草木にも劣って、身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れあるべきや。この度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切るべし。今より已後は、夢の中の法門を心に懸くべからざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障り無く開悟すべし。自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し。三世の諸仏の勘文かくのごとし。」(総勘文抄 新729頁・全574-5頁)
現代語訳:私達は迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることもできます。ところが、宿縁に促されて、生を仏法流布の国土に受けたのです。善知識の縁に値えば、因果を分別して成仏できる身なのに、善知識に値っても、草木にも劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるでしょうか。このたび、必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきです。今から以後は、夢の中の法門を心にかけてはいけません。三世の諸仏と我が一心が、和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきなのです。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて曇りはないのです。三世の諸仏の勘文はこの通りです。
※本来の勘文は朝廷に上申する意見書を言いますが、本抄の総勘文とは、三世の諸仏が一同に勘え究めた究極の教法を説いた文です。日蓮大聖人は、化他方便の権教を廃し、自行真実の法を説いた法華経を立てる事が三世諸仏の判断であるとされています。
◎三世諸仏の説法の儀式として、化他方便の権教を廃し、自行真実の万人成仏の法華経を立て、後世の仏法流布の国土に生まれた私達に世界広宣流布を託されたのですね。
[79]
(発行=24.05.25)
「法道院は日蓮正宗じゃない」
日顕も見抜いていた、妙観講は謀略の産物 ㊦
「主管は良心が通じない、二枚舌」と批判
大草一男の一派が法道院を離籍した直後に発刊した「法道院信徒二〇九名 離
籍の真相」(昭和五十三年一月二十五日刊)では、法道院の主管・早瀬日慈(故
人)ら関係者に対する痛烈な非難中傷の記事を掲載したことは前号で触れたが、
その中で早瀬一族を愚弄し、その登座を強く否定していた箇所がある。
それは当時、法道院第四部長であった阿部徳雄指導員が、大草の手下に語った
話に対する反論として記していた。
阿部指導員が大草の部下に「あなた達はエゴで動いているような気がするよ」
と大草らの不審な動きについて疑問を呈していたことが記され、その後の箇所
に「『早瀬一族から次の猊下がでるのは当然の事だ』など、とても信じられぬ
発言が阿部氏よりあった」と、書いているのだ。
つまり、阿部氏が「早瀬家の僧が猊下になる」旨、語ったのに対し、大草らは
「とても信じられない」と否定したのである。
だが、皮肉にも、この大草一派が否定した早瀬日慈の長男である日如が現在、
大僧正の法主、管長職に就いている。大草らは墓穴を掘ったのである。
また、大草一派は法道院を離籍後も日慈をはじめ関係者に罵詈雑言を浴びせ
ていた。特に、機関誌「暁鐘」では痛烈な批判をしていた。
本号では昭和五十三年十月号の「暁鐘」に掲載された座談会「広布の波涛」(
下)の中から主な内容を紹介する。妙観講の幹部が、これだけ法道院と日如の
父親を批判すれば、大草が大講頭に再任されないのは当然との声がある。
ここに登場する第一部長とは佐藤栄子、第二部長は佐藤せい子(現副講頭)、第
四部長は大草の妻・佐藤晴美である。
座談会では法道院に対する痛烈な非難中傷と嘲笑の羅列である。以下、紙面の
関係で抜粋して紹介する。
第二部長「本当に、法道院という所は校正ミスがお得意な所ですね。(一同、
大爆笑)」
第一部長 本当にこれから嫌な所を去って(笑い)もう、本当に悠々と楽しく
信心ができるんだと思うと、バスの中でお話を聞いて、ホッとしたと同時に涙
が込み上げてきました。
第一部長 法道院主管の最後の良心を信じ、かつまた御僧侶の尊厳を守り抜く
ために、最後まで録音テープを公表しないつもりでいた総部長は、猊下様をも
欺こうという謗法行為に、「あんまりじゃないか」と声を震わせて泣いていま
した。
第四部長 それで、とうとう録音された事実を「離籍の真相」として発刊され
たのですね。良心とか信条とかが通じる相手なら、録音テープを使用する必要
もなかったでしょうね。
倉持信吾 本当に許せないことだと思います(中略)二枚舌ですよ。
中山幸雄 今、法道院の姿を見た時に妙信講そっくりではないですか。
中山 法道院にいた時は、主管から、現代の広宣流布の姿ではないとの理由で
邪宗破折に行かないようにという指導をうけていました。
一同 (驚きの声)おかしいですねェ。
第一部長 日蓮正宗じゃないですよ。それは。
第二部長 本当に離籍できてよかったですね。
[78]
(発行=24.05.24)
早瀬日慈を総監辞任に追い込む
日顕も見抜いていた、妙観講は謀略の産物 ㊥
「法之道」の記事の言葉尻とらえ難癖
日蓮正宗の法華講支部の一つである妙観講の講頭・大草一男とその一派が日慈
を誹謗中傷した事実は数多いが、特筆すべきは「本従の師」に関する難癖であ
る。
学会を脱会して法道院の法華講に潜り込んだ大草は、仲間を増やして講中を牛
耳る立場になりたいと考え、その機を窺っていた。
折しも、法道院の機関紙「法之道」の昭和五十二年八月一日号に「日蓮大聖人
の仏法を教え、導いてくれる『本従の師』御主管……」の文字があった。
これを見た大草が「攻撃材料を見つけた」と大喜び。本従の師とは御本仏だか
ら「主管本仏論の動かぬ証拠」と糾弾の狼煙を上げ、当時の青年部幹部らと共
謀して騒ぎを大きくしていった。
騒ぐだけ騒いだ大草は、同年十二月二十七日に法道院宛てに「離籍届」を郵送
した。
そして同月三十日には当時の日達法主に「法道院と主管の早瀬日慈は大謗法で
す」「私は猊下様にご奉公致します」云々と涙ながらに訴えたという。実に名
演技だったと言う人もいる。
こうして大草一派は「理境坊東京支部」として出発することになった。妙観講
になったのは昭和五十五年八月である。
一方、法道院側は「法之道」昭和五十三年一月一日号に「お詫び」記事(下記
の資料を参照) を掲載させられた。
これに加えて、日慈は終生、忘れられない屈辱的な出来事で追い討ちを掛けら
れたのであった。
昭和五十三年一月二十五日に大草が編集並発行者となって「法道院信徒二〇九
名 離籍の真相」という小冊子を発行。
その「まえがき」で大草は「法道院宛に郵送した離籍届(内容証明書)の中に
おいてすら、離籍の真の理由については『今般、考えるところあって』とのみ
記して、すべてを公にすることを避けたのであった。
これ、ひとえに大恩ある法道院と、法道院主管・日蓮正宗総監早瀬日慈尊能化
の権威・威光を傷つけ汚したくなかったがためである」と書いている。
この表現は日慈を十分、傷つけている。そのうえ、法道院の血脈観、師弟論は
間違っていると非難。「本従の師」については「単なる『校正ミス』ですむ問
題であろうか。
それも問題の記事掲載以来、半年近くもたってから『校正上の手違いから……』
などと、ふざけるのもいい加減にしていただきたい」等と激しく批判していた。
更に、同年春、大石寺に全国の 末寺住職が集まった際、この「離籍の真相」
を日達法主の指示で、一人一人に手渡しで配布させられたのが日慈本人であっ
た。
自分の悪口を書いた小冊子を配って歩く――これ程の屈辱があろうか。配布す
る日慈の手は小刻みに震え、目は充血していたという。
まさしく中国の前漢の武将・韓信の「股くぐり」にも似た恥辱を受けた日慈は、
いたたまれず総監を辞任した。 (つづく)
[77]
(発行=24.05.23)
大草一男は大講頭に再任されず
日顕も見抜いていた、妙観講は謀略の産物 ㊤
今更、日如に媚び諂っても後の祭り
日蓮正宗大石寺塔中・理境坊所属の妙観講講頭の大草一男は平成十六年、日顕
によって登用され、法華講大講頭になっていたが、この度の人事では再任され
なかった。
この度、法華講大講頭の辞令を受けたのは渡辺定元( 大石寺総代)、関野洋
夫( 法華講連合会委員長)、矢澤正人( 同副委員長)の三人。渡辺と関野は
再任、矢澤は新任である。
大講頭の任期は令和四年三月に全員の任期が終了、翌四月には全員が再任さ
れるのが慣例であるが、この年は大講頭の人事は見送られた。そのため、妙観
講の宿敵である顕正会は「大草が大講頭解任」と狂喜していた。
それに対し、謀略紙「慧妙」の事実上の編集責任者である大草は、同紙で「解
任ではなく、任期が満了した。現在は空位というのが正しい」と弁解していた。
大草は当然、再任されると思っていたのだろう。
しかし、気の毒なことに大草の目論見は外れた。
大草としては「慧妙」紙上で顕正会や学会の脱会者の体験を載せるなど妙観講
が頑張っていると宗内に盛んに宣伝していたので再任されると思い込んでいた
ようだ。
それでは、大草は何故、再任されなかったのか? その背景を探り、簡単に
解説すると、現在の不相承の法主・早瀬日如が、父親である日慈(総監で法道
院主管、平成五年に死去) に煮え湯を飲ませて法道院を離籍し、そのうえ総監
を辞任に追い込んだ張本人が大草だと知っているからだ。
したがって、大草が今更、「慧妙」を使って日如に媚び諂っても、日如は親
の仇である大草に対する恨みは消えることがないのだ。
それらの事情については左記の「河辺メモ」に次のような興味深い記述が残さ
れている。
「早瀬部長、早瀬義純、河辺面談
河辺=顕正新聞に大草(法道院法花講を脱講し、妙観講を作る)の事が出ている。
早瀬寛=1、大草問題の時、現猊下から電話があり『これは謀略だ』と云って
いた。
2、あの時、師匠(早瀬の慈父 弟子、法道院主管・重役)に『大草と戦います
か』と聞いたら、師匠は『争わない』と云ったので、大草のなすがままに任せ
た。
今の大草は、その因果応報、あの時(大草問題)の真相を浅井が代弁している」
以上のように記されている。大草一派が法道院を離籍し、妙観講を作ったのは
「謀略」だったと、日顕も日如らも熟知していたのだ。
日顕や日如らが見抜いていた大草の謀略については、次号で述べる。(つづく)
[76]
テスト
無印板のほうは管理者による投稿承認制になったのかな?
[75]
師匠と我らとの関係 12(御義口伝 下巻)
御義口伝 下巻 における弟子との関係
「『如来』とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、『南無妙法蓮華経』と云うなり。寿量品の事の三大事とは、これなり。六即の配立の時は、この品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。その故は、始めて聞くところの題目なるが故なり。聞き奉って修行するは、観行即なり。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて、惑障を伏するを、相似即と云うなり。化他に出ずるを、分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを、究竟即の仏とは云うなり。総じて伏惑をもって寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり云々。」(御義口伝 下 新1048頁・全752頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、全体としては十方三世のあらゆる諸仏に通ずるのです。個別に見れば本地の無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏)の事です。今、日蓮及びその門下の意で論じれば、全体を通して言えば、如来は一切衆生なのです。別して(事の上で論じれば)、日蓮及びその弟子檀那の事なのです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者(即ち末法に全民衆救済のために出現された御本仏日蓮大聖人)の事なのです。この無作の三身(即ち日蓮大聖人)の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の「事の三大事(即ち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法)」とはこの事なのです。(南無妙法蓮華経如来寿量品の立場から如来を)六即に配立すれば、この品の如来は、理即の凡夫なのです。(凡夫の身を離れて如来はないのです。)(これはまだ理の上であり、)私達が御本尊を戴いた時は、名字即です。理由は、初めて題目を聞き信受したからです。聞き敬って更に(御本尊を受持し)修行していく事は観行即です。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観じる、即ち信受する事です。さて、惑障(私達の様々な心の迷い、悩み、三障四魔、三類の強敵)に打ち勝っていく事を、相似即というのです。化他(広宣流布に向い折伏行に邁進する)を行う事を、分身即というのです。わが身が無作の三身であると究竟する(生命の奥底に無作三身如来なりと覚知する)事ができた時、これを究竟即の仏というのです。全体を通して言えば、伏惑(歴劫修行により、次第に惑いを伏し仏果を得る)ではなく、寿量品の根本は、凡夫の当体そのままで究竟即、即無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していく事なのです。これが、この品の極理であると心得るべきです。この無作三身如来の振舞いは何かと言えば、南無妙法蓮華経以外にないのです。
※如来寿量品の「如来」とは、久遠本果の三身(即ち色相荘厳の仏)ではなく、本地無作の三身、即ち久遠元初の自受用身を言い、久遠は今にあり今は久遠だと言うのです。久遠元初の自受用身とは、これ末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、末法今時、内証の寿量品の如来とは、日蓮大聖人の御事です。文上の寿量品は、釈尊が、いつ、どこで、どの様にして仏に成ることができたかを明かし、それによって釈尊自身の生命の上に、常住の生命を説き明かしたものでした。しかし文底では、此処に「寿量品の事の三大事」が述べられている事を明らかにされたのです。
「無作三身の依文なり。この文において重々の相伝之有り。『神通之力』とは、我ら衆生の作々発々と振る舞うところを『神通』と云うなり。獄卒の罪人を苛責する音も、皆『神通之力』なり。生住異滅森羅三千の当体、ことごとく『神通之力』の体なり。今、日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを、『如来秘密・神通之力』とは云うなり。成仏するより外の『神通』と『秘密』とはこれ無きなり。この無作の三身をば、一字をもって得たり。いわゆる『信』の一字なり。よって、経に云わく「我等当信受仏語(我らは当に仏の語を信受したてまつるべし)」。『信受』の二字に意を留むべきなり。」(御義口伝 下 新1049頁・全752-3頁)
現代語訳:(「如来秘密・神通之力」とは)無作の三身の依文です。この文において重々の相伝があります。「神通之力」とは、私達衆生が、瞬間・瞬間に活動していること自体を神通といい、その力用が神通之力なのです。従って、獄卒を苛責する音も皆神通之力なのです。生じ、住し、変化し、滅していく森羅三千の現象の当体は、全て神通之力の本体なのです。今、日蓮及び門下の元意でいえば、即身成仏と開覚する事を如来秘密神通之力というのです。即ち、南無妙法蓮華経如来の秘密の神通之力となるのです。成仏すること以外に神通も秘密もありえないのです。この無作の三身を開覚していく事で一字を用いて得ることができるのです。いわゆる「信」の一字です。故に経に「私達が、真に、仏の言葉を信受し敬わなければならない」と。この「信受」の二字に心を留めるべきなのです。
※この妙法を信受し、人間革命(即身成仏)ができると自覚することが、南無妙法蓮華経如来の秘密の神通之力なのですね。
「この本尊の依文とは、『如来秘密・神通之力』の文なり。戒・定・慧の三学は、寿量品の事の三大秘法これなり。日蓮たしかに霊山において面授口決せしなり。本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり云々。」(御義口伝 下 新1059頁・全760頁)
現代語訳:この本尊の依文になっているのは、寿量品にある「如来秘密神通之力(如来の秘密、神通の力)」の文です。戒定慧の三学(の究極)は、寿量品に説かれている「事の三大秘法」がその実体なのです。日蓮は、たしかに霊鷲山において(三大秘法の)面授口決を受けたのです。従って、本尊とは、末法の法華経の行者(即ち御本仏日蓮大聖人)の一身の当体なのです。
※日蓮大聖人は、ご自身を御本仏とは明言されていませんが、この御文が「末法の御本仏である証拠」の一つなのです。
「『自』とは、九界なり。『我』とは、仏界なり。この十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり。自も我も得たる仏来れり。十界本有の明文なり。『我』は法身、『仏』は報身、『来』は応身なり。この三身、無始無終の古仏にして『自得』なり。『無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)』これを思うべし。しからば則ち『本の遠寿を顕す』の説は永く諸教に絶えたり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、『自我得仏来』の行者なり云々。」(御義口伝 下 新1054頁・全756頁)
現代語訳:自我得仏来の自とは九界であり、我とは仏界なのです。(自我で十界を意味し、)この十界は、本有(本来ありのままに存在、又は元々備わっていること)無作三身の仏にして本然のものであり、この十界互具の当体として末法に出現した仏のことを、自も我も得たる仏が来るというのです。(自即ち九界も、我即ち仏界も共に具有した仏が末法に出現したとは、)十界が本有であること事を示した明文なのです。「我」は(三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり)、法身です。「仏」とは(九界より湧現する随縁真如の智であり)、報身です。「来」とは(刻々と移りゆく色法の活動であり)、応身です。この三身は、無始無終の古仏たる久遠元初自受用身如来に本来具わったものであり、他から与えられたものではなく、自ら体得されたもの「自得」なのです。信解品の「無上宝聚不求自得(無上の宝聚は、求めないのに自から得られたり)」の文も、実はこの事を意味するのです。(即ち、無上宝聚とは無作三身のことであり、南無妙法蓮華経のことです。これを求めずして得るとは、無作の三身の境地は、決して他から与えられたものではなく、自得されたことを意味するのです。)従って、寿量品の文底に説かれた久遠元初の「顕本遠寿」の説は、永く諸経には説かれてはいないのです。今、日蓮及びその弟子門下、南無妙法蓮華経を唱える者こそが、「自我得仏来」の行者なのです。
※私達、日蓮門下、地涌の菩薩の眷属は、「自我得仏来」の行者なのですね。
「今、日蓮の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり。されば、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳(さいわ)い有るなり。『功』も幸いということなり。または、悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり。『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の設文のごとく修行するを、『六根清浄』と意得るべきなり云々。」(御義口伝 下 新1062頁・全762頁)
現代語訳:今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱える者は、「六根清浄」となるのです。そうであれば、妙法蓮華経の法師(即ち御本尊に自行化他にわたって行じる師)と成って大きな徳を積むのです。功は幸ということです。または悪が滅していくのを「功」といい、善が生じるのを「徳」というのです。「功徳」とは即身成仏であり、また六根清浄です。法華経の説文通りに修行する事により、その身のまま六根が清浄に成るのだ、と心得ていきなさい。
※理由もなく物事を批判することは、「六根清浄」では無く、「功徳」でも無いと自覚していきましょう。
「末法の『仏』とは、凡夫なり、凡夫僧なり。『法』とは、題目なり。『僧』とは、我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり。『「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす』の故なり。『円理』とは、法華経なり云々。」(御義口伝 下 新1067頁・全766頁)
現代語訳:末法の仏とは凡夫であり、凡夫僧なのです。(「法を聞かず」という)この法とは題目なのです。(「僧を見ず」という)僧とは、私達、(三大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、実践する)行者のことです。(内証の辺について言えば、即、本有無作の)仏と言われ、(外用の辺について言えば、)凡夫といわれるのです。これは「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす[深覚円理名之為仏]」との御文が理由であり、円理(【円教の理】の略)とは法華経(即ち三大秘法の南無妙法蓮華経)です。(故に、この三大秘法の南無妙法蓮華経を深く信じ、覚る者が、仏なのです。)
※円教とは円融円満・完全無欠の教えを意味し、天台大師は、自身が立てた化法の四教(蔵・通・別・円)のうち、第四の円教として法華経を円教と定義されたのです。
「本門の心は無作の三身を談ず。この無作の三身とは、仏の上ばかりにしてこれを云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずるが故に、迹門にして不変真如の理円を明かすところを改めずして、己が当体、無作の三身と沙汰するが、本門の事円の三千の意なり。これ即ち桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち『量』の義なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作の三身の本主なり云々。」(御義口伝 下 新1090頁・全784頁)
現代語訳:本門の元意は、無作の三身を説き表しているのです。この無作三身とは、単に仏の事ばかりを述べているのではないのです。一切の森羅万象を自体顕照(対境としての万法の本体[自体]を照らし、真理を顕現すること)の姿と説かれており、迹門において説かれている不変真如の理円を、そのまま改めないで、おのおのの当体がそのまま無作三身と顕現していくのです。これが本門事の一念三千の元意なのです。つまり、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのです。これこそ一切の特質を認めることであり、量の義なのです。今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、全て無作三身の本主なのです。
※創価学会SGIは、社会的立場も違う個性豊かな創価学会員の集まりで構成されています。私達は、人権を尊重し、争いの原因を他人のせいにせず、真の世界平和実現を目指して行動しましょう。
◎本抄と同時期に、大聖人の法華経講義を筆記された日向上人の「御講聞書(新1120頁・全804頁、日向記ともいう)」がありますが、御義口伝と比較して内容の深さに天地雲泥の開きがあります。御義口伝は、法華経の項目ごとに端的に記載されていますが、どれも深い内容の重要御文ばかりです。掲載する御文を選択するのに大変苦労しましたが、もし、ご期待の御文が無い場合は、事情を察して頂いてご容赦ください。
[74]
師匠と我らとの関係 11(御義口伝 上巻)
御義口伝 上巻 における弟子との関係
御義口伝は、日蓮大聖人が晩年(建治及び弘安期)に法華経の要文について講義され、日興上人が筆録され、大聖人の允可を得て後世に伝えられたとされています。まさに本書は、日蓮仏法の奥義書であると共に弟子に遺しおかれた指導書でもあるのですね。重要御文ばかりなので、上巻、下巻の2回に分けて紹介します。
「不信の人は『如是我聞』の『聞』にはあらず。法華経の行者は、『如是』の体を聞く人と云うべきなり。ここをもって文句の一に云わく『【如是】とは信順の辞なり。信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず』。詮ずるところ、日蓮等の類いをもって『如是我聞』の者と云うべきなり云々。」(御義口伝 上 新986頁・全709-10頁)
現代語訳:(仏法)不信の人は、如是我聞の聞ではありません。(何故ならば、如是の体を聞かぬからです)法華経の行者のみが、如是の体を聞く人といえるのです。ここをもって、天台大師の法華文句の一に「如是とは信順のことばである。信ずることによって所聞の理、すなわち一念三千の法理を会得することができるのであり、順ずれば師弟の道を成じ、自らも、仏界を現ずることができるのである」とあります。つまり、日蓮及びその弟子こそが、如是我聞の人と言うべきです。
※師匠の言葉に信順する人こそが、如是我聞の人なのですね。
「『一』とは中道、『大』とは空諦、『事』とは仮諦なり。この円融の三諦は何物ぞ。いわゆる南無妙法蓮華経これなり。この五字は、日蓮出世の本懐なり。これを名づけて事となす。日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は、『衆生にこの機有って仏を感ず。故に名づけて【因】となす』の人なり。それがために法華経の極理を弘めたるは、『機を承けて応ず。故に名づけて【縁】となす』にあらずや。『因』は下種なり。『縁』とは、三・五の宿縁に帰するなり。事の一念三千は、日蓮が身に当たっての大事なり」(御義口伝 上 新998-9頁・全717頁)
現代語:「一」とは、中道法相で中諦、「大」とは(生命が大宇宙に遍満しているということで)空諦、「事」とは(事実の相、行動で)仮諦です。(この三諦がバラバラでなく、渾然一体となっている実体、即ち)円融の三諦とは何なのでしょうか。それがいわゆる南無妙法蓮華経なのです。この南無妙法蓮華経の五字は、日蓮の出世の本懐なのです。これ(事行の一念三千の大曼荼羅)を名づけて「事」というのです。日本国の一切衆生の中でも、日蓮の弟子檀那となる人は、法華文句にある「衆生に此の機根が有って仏を感じる。故に名付けて此の因とする」人なのです。その為に法華経の極理たる南無妙法蓮華経を弘める日蓮は、(まさに末法の本仏であり)「仏は機[機根]を承けて而も応じる。故に名けて縁とする」に当るのではないでしょうか。「因」とは(久遠元初の)下種です。「縁」とは三(三千塵点劫)、五(五百塵点劫)の宿縁に帰するのです。(故に釈迦仏法においては、三千塵点劫の下種、五百塵点劫の下種と云いますが、それは単なる縁にすぎないのであって、一切衆生はことごとく久遠元初の下種に立ち還って成仏するのです。日蓮が、その久遠元初の下種である南無妙法蓮華経を末法に弘められたのです。)これこそ事の一念三千であり(それは日蓮の生命そのものであり)日蓮の身に当たる大事なのです。
※私達創価学会員は、自身に仏心が有る事を自覚し(因)、仏(日蓮大聖人)が用意した仏道修行法(縁)により、人間革命(成仏)を目指し行動しているのですね。
「この『如我等無異』の文、肝要なり。『如我昔所願』は本因妙、『如我等無異』は本果妙なり。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。釈には『因を挙げて信を勧む』と。『因を挙ぐ』は、即ち本果なり。今、日蓮が唱うるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。あに『今者已満足』にあらずや。『已』とは、建長五年四月二十八日に初めて唱え出だすところの題目を指して、『已』と意得べきなり。妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり。これを思い遣る時んば満足なり。『満足』とは、成仏ということなり。」(御義口伝 上 新1004頁・全720頁)
現代語訳:この「如我等無異」の経文は、重要です。「如我昔所願(我が昔の所願の如き)」は本因妙(本因:仏道を成就する根本の因行[修行]のこと)を、「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」は本果妙(本果:本門の仏果、本因に対する語)を表しています。また、妙覚の釈尊は我等衆生の血肉であり、因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。(つまり、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身としてあらわれ、自受用身に約して師弟不二であることを、明かされているのです。)また釈には「挙因勘信」とあり、「因を挙げる」は即ち本果なのです(つまり、仏弟子であることを覚知することが本果(成仏)に繋がるというのです)。今、日蓮が唱える南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生をことごとく成仏せしめるのです。これ「今者已満足(今者は已に満足しぬ)」ではないでしょうか。「已」とは、日蓮が建長五年四月二十八日、清澄寺において、はじめて唱えた題目を指して「已」と心得るべきです。妙法の大良薬をもって、一切衆生の無明の大病を治す(根本の迷いや不幸の根源を除き去り幸福境涯に住せしめる)ことは、疑いないのです。これを思いやる時に日蓮の所願は満足するのです。また衆生に約していえば、成仏をもって満足というのです。
※一切衆生の無明の大病を治す妙法の大良薬を等しく全ての人に服用させてあげるのが、弟子の使命なのです。
「日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一同に『皆共至宝所』なり。『共』の一字は、日蓮に共する時は宝所に至るべし」(御義口伝 上 新1024頁・全734頁)
現代語訳:日蓮及びその門下、南無妙法蓮華経と唱える者は、全員「皆、共に宝所に至る」のです。この「共」の一字は、日蓮と共に法華経(御本尊)を信じ行動する時には、成仏できるという意味なのです。
※日蓮仏法を信じ、自行化他に励むならば、宝所(真の幸福境涯)に至る、と仰せです。
「『如来』とは釈迦、『如来事』とは南無妙法蓮華経なり。『如来』とは、十界三千の衆生のことなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、真実の御使いなり」(御義口伝 上 新1027頁・全736頁)
現代語訳:如来とは釈迦であり、「如来の事」とは南無妙法蓮華経の事なのです。如来とは十界三千の衆生、あらゆる衆生をも意味するのです。いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮及びその門下こそ、真実の仏の使いなのです。
※如来・仏が全ての衆生を意味するのであれば、つまり全ての人が幸せに成なる権利を持っているのです。
「『師子吼』とは仏の説なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。『師』とは師匠授くるところの妙法、『子』とは弟子受くるところの妙法、『吼』とは師弟共に唱うるところの音声なり」(御義口伝 上 新1043頁・全748頁)
現代語訳:「師子吼」というのは仏の説法なのです。説法とは法華経、別して南無妙法蓮華経のことを指します。師子吼の「師」とは、師である仏が授ける説法(妙法)です。「子」とは、弟子が受ける妙法であり、「吼」とは、師匠と弟子と、共に唱える音声をいうのです。
※創価学会では、三宝の新解釈として、仏宝及び法宝は当然、日蓮大聖人及び五字・七字の南無妙法蓮華経であり、僧宝(僧とは元々僧伽[そうぎゃ・Samgha]の略で修行者の団体を云う)は創価学会の組織である、と宣言しました。私達が「師子吼」することにより、世界を変えることができるのです。
「妙法蓮華経を安楽に行ぜんこと、末法において、今、日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに、難来るをもって安楽と意得べきなり。」(御義口伝 上 新1045頁・全760頁)
現代語訳:妙法蓮華経を安楽に行ずるということは、末法において日蓮及びその門下の修行に約していえば、(大御本尊を信じ、自行化他にわたる仏道修行を励むと、必ず難が来ます。)その難が来ること自体が、実は安楽であると心得えていきなさい。
※たとえ自身にとって不利な状況になったとしても、頑健な意志(信心)でこれを乗り越えることにより、自身が成長したと実感できるのですね。
「今、日蓮の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。(中略)千草万木、地涌の菩薩にあらずということなし。されば、地涌の菩薩を本化と云えり。本とは、過去久遠五百塵点よりの利益として、無始無終の利益なり。この菩薩は本法所持の人なり。本法とは、南無妙法蓮華経なり。この題目は、必ず地涌の所持の物にして、迹化の菩薩の所持にあらず。この本法の体より用を出だして、止観と弘め、一念三千と云う。総じて大師・人師の所釈も、この妙法の用を弘め給うなり。この本法を受持するは、信の一字なり。元品の無明を対治するは、信の一字なり。『疑いなきを信と日う』の釈、これを思うべし云々。」(御義口伝 上 新1046-7頁・全751頁)
現代語訳:今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱える者は、全員、地涌の菩薩の一員なのです。(中略)一切の草木も、地涌の菩薩ではないとは言えないのです。だから、地涌の菩薩を本化(迹化に対する語。本化の菩薩は、法華経本門に至って出現した菩薩で、釈尊の久遠の弟子である。一重立ち入って言えば、本化の本とは久遠元初の独一本門のことであり、久遠元初以来の日蓮大聖人の本眷属をいうのです。)というのです。本とは教相からいえば五百塵点劫、観心からいえば無始無終の久遠元初からの利益なのです。この地涌の菩薩は、根本の法(本法)を持っている人です。本法とは、南無妙法蓮華経です。この南無妙法蓮華経の題目は、地涌の菩薩が所持する物であって、迹化の菩薩の所持ではないのです。この本法(南無妙法蓮華経、妙法、三大秘法の御本尊)の体(本体)から用(働き)を出して、天台大師が「摩訶止観」に書き弘めたのが、一念三千なのです。全体としてその後の大師や人師の解釈でも、この妙法の用を弘められたのです。この本法(三大秘法の御本尊)を受持するのは信の一字によるのです。元品の無明(という生命の根源的迷い)を対治するこの本法を受持するのは信の一字によるのです。利剣は「信」の一字なのです。法華文句にある『疑いなきを信と日う(無疑日信)』という解釈を思索していきなさい。
※私達こそが地涌の菩薩の一員である、との強い自覚と信心が必要なのです。
[73]
(発行=24..04.18)
日蓮正宗開顕寺の本堂、庫裏が全焼
日如は現代の「両火房」、各寺で相次ぐ火災
諸天善神に見捨てられた悲惨な邪宗門
日蓮正宗の開顕寺(岐阜県多治見市赤坂町5丁目)で十七日未明、火事があり、
本堂と住居が共に全焼した。
警察と消防によると、午前四時四十分頃、住職の秦明正から「寺が燃えている」
と消防に通報があり、消防が出て火は約四十分後に消し止められたが、寺の本
堂や居住スペースがある建物が全焼した。
これは東海テレビ、名古屋テレビなどのニュースで報道された(下の写真参照)
この火事で、住職の秦明正(30歳)と消火活動にあたっていた消防団員の男性
が病院に搬送されたが、いずれも軽傷で、命に別状はないという。
住職の秦は早瀬日如の弟子で、この寺で独り暮らしをしていた。警察と消防が
原因を調べている。
この開顕寺は日蓮大聖人の第七百遠忌の記念事業の一環として建立され、昭和
五十六年九月十七日に落慶入仏式が行われた。
ところで、令和元年九月に死んだ日顕は行く先々で集中豪雨に見舞われるなど
「雨坊主」と呼ばれていたが、日如は「火災坊主」だ。
令和四年四月二日、大石寺の近くの法善寺(富士宮市下条848番地、住職は
齋藤栄順)で午前九時五十分頃、火災が発生し、敷地内の倉庫が全焼したこと
は記憶に新しいが、それ以前にも火災が相次いだ。
日如が〝盗座〟した後の主な火災を列記する。
平成十八年八月十二日午後四時前、物凄い雷鳴が轟いた瞬間、奉安堂の東側に
立つ杉の大木に落雷。杉の大木は中央付近から火を吹き、周辺には黒煙が立ち
込め、消防車が出動した。
同二十一年六月、法道院でボヤ騒ぎがあり、同年八月には大石寺・駐車場で乗
用車が十台も焼ける事件があった。
同年十月十一日(日本時間十二日)にアメリカ・ワシントンDCの妙宣寺でお会
式の最中に火災があり、大騒ぎになった。
同年十一月十五日午後には大石寺の境内にある休業中の売店で木造平屋建ての
建物八店舗、約二百五十平方メートルが全焼した。
続いて同二十二年一月十七日午後七時頃、新宿区・大願寺(住職は板東慈潮)
から黒煙が立ち上り、辺りには物凄い異臭が漂った。
この直後の二十七日には大石寺近くの蓮成寺でもボヤ騒ぎが起こった。
同二十四十二月十六日には延寿寺(高知県南国市内、当時の住職は川口盟道)か
ら出火、同寺の木造平屋の本堂と庫裏を合わせて約三百平方メートルを全焼し
た。これほど火災が相次ぐの
は諸天善神に見捨てられた証拠と言えよう。
大聖人は「両火房と申す謗法の……」と良観を「両火房」と揶揄されたが、日
如は現代の「両火房」だ。
[72]
師匠と我らとの関係 10(如説修行抄)
如説修行抄における弟子との関係
本抄は、文永10(1273)年大聖人52歳、佐渡から鎌倉で難と戦っている門下一同に与えられた御文で、如説修行の姿を御教示され、門下を激励されています。
「仏法を修行せんには人の言を用いるべらず。ただ仰いで仏の金言をまぼるべきなり。我らが本師・釈迦如来は、初成道の始より法華を説かんと思しめししかども、衆生の機根未熟なりしかば、まず権教たる方便を四十余年が間説いて、後に真実たる法華経を説かせ給いしなり。」(如説修行抄 新601頁・全502頁)
現代語訳:仏法を修行するには、人の言葉を用いるべきではありません。ただ尊崇して仏の金言だけを守るべきです。我等が根本の師と仰ぐ釈迦如来は、成道の始めから衆生を救う最高の法である法華経を説こうと考えておられたが、衆生の機根がまだそこまで熟していなかったので、まず権教である方便の経を四十余年間説法して、それから後に真実である法華経を説かれたのです。
※話にも順序があり、いきなり結論を述べても、納得はされないですね。天台大師が、釈迦の説法の順序を「五時」に分けて説かれています。①華厳時は頓教・疑宣の教(頓教:速やかに大乗を説く、疑宣:仏が衆生に仮の法を受け入れられるかを試す)を、②阿含時は漸教・誘引の教(漸教:衆生の機根に応じた説法、誘引:誘いいざなうことで方便を用いて教化する)を、③方等時は漸教・弾呵の教(弾呵:叱責すること、小乗に停滞する二乗を叱責する)、④般若時は漸教・淘汰の教(淘汰:教えから不純・不必要な物を除去する)を、そして⑤法華・涅槃時は頓教・開会の教(開会:開顕会融又は開顕会帰との略で、真実を開き顕して一つに合わせる)です。
この説時に異説もあり、大聖人は「大部の経、大概かくのごとし、これより已外の諸の大小乗経は次第不定なり。あるいは阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等・般若を説く。皆、義類をもってこれを収めて一処に置くべし。」(守護国家論 新385頁・全40頁)と述べておられます。いずれにしても、当時、最強・最勝の御経は、諸宗との法論の結果、法華経に決定されたのです。
「これらのおきての明鏡を本として一分もたがえず『ただ一乗の法のみ有り』と信ずるを、如説修行の人とは、仏は定めさせ給えり。」(如説修行抄 新602頁・全503頁)
現代語訳:約束された経文の明鏡を根本として、仏説と少しも違えることなく、「一乗の法のみが成仏の法である」と信じて進むのが、如説修行者であると、仏は決定されておられるのです。
※此処で、如説修行(仏の教説通りに修行する)者とは、師匠(大聖人であり、私にとっては池田大作先生)が示した自行化他の信心を一生懸命に励む人、と仰せです。
「仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論、この二つを出でざるなり。されば、国中の諸学者等、仏法をあらあら学すといえども、時刻相応の道をしらず。」(如説修行抄 新602頁・全503頁)
現代語訳:仏道修行をする者は、摂受と折伏の二つの修行法を知るべきです。一切の経論も、摂折二門を出ることはないのです。そうであれば国中の多くの学者仏法をだいたい学んだというけれども、時節に合致する肝心な修行の道を知らないのです。
※科学や民主主義が発展してきた現代において、非常識な行動する宗教は、カルト宗教と定義されています。だから、創価学会の化法・化儀の説明では、あくまで論理的で正論を尽くすべきです。
「末法今の時、法華経の折伏の修行をば、誰か経文のごとく行じ給えしぞ。誰人にても坐せ、『諸経は無得道、堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なり』と、音も惜しまずよばわり給いて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来らんこと疑いなし。」(如説修行抄 新603頁・全504頁)
現代語訳:末法である現在、法華経の折伏の修行を、いったい誰が経文通りに実践しているでしょうか。誰でもいい、「諸経は無得道であり、堕地獄の根源であり、ただ法華経だけが成仏の教えである」と声を大にして主張を貫いて、諸宗の人々やその教法について、折伏を実践してみられるがよいでしょう。三類の強敵が競い起こってくることは間違いないのです。
※折伏をすれば、必ず反対者が出現し、負の環境変化等の向かい風が吹くのですが、言葉を尽くして妙法を語る事により、自らの信仰への確信が深まり、次第に事態が好転するという功徳も得られるのです。
「今、日本国の万人、日蓮ならびに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑うとも、昨日は人の上、今日は身の上なれば、日蓮ならびに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つばかりぞかし。只今仏果に叶って寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈んで大苦に値わん時、我らいかばかり無慙と思わんずらん」(如説修行抄 新604頁・全504頁)
現代語訳:今日本国のあらゆる人々が、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっている有様を見て、悦んで嘲笑していようとも、昨日は人の上、今日はわが身の上なのが世の常の習いです。日蓮並びに弟子檀那が受けているこの苦しみも、ちょうど霜や露が朝日にあって消える様に、待つばかりなのです。ついに仏果が叶い寂光の本土に住んで自受法楽する時、(今まで笑ってきた)謗法の者が、阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのです。その時、我々はその姿をどんなに可哀相に思うことでしょう。
※かつて創価学会は、病人と貧乏人の集まりと、揶揄していた多くの日本人がいました。現在では、創価学会インターナショナル(SGI)として300万人ほどの仲間が世界中で活躍しており、その様に悪口を言う人も少なくなっていますね。
◎題号の「如説修行」について、①人法相対に約し、如説は法、修行は人であり、釈迦所説の一代経は法、その所説の如く自ら行じれば修行となる。②師弟相対に約し、如説とは師説、修行とは弟子であり、釈迦所説の如く大衆がこれを修行したのです。③自行化他に約して、如説とは化他、修行とは自行、即ち五種の妙行のうち受持・読・誦・書写の四つは自らの修行であり、他に教える解説は化他に該当し、他に教える如く自らが修行することを「如説修行」というのだそうです。
[71]
(発行=24.03.29)
チラシ配布が広布の最終段階?
広告文と遥拝勤行で学会員を救うとは笑止④
浅井は「秘術」と称し見当違いの御書を引用
顕正会は前会長の浅井昭衛が「広告文と遥拝勤行で広宣流布はできる。この大
道は大聖人様が教えて下さったもの、これこそ広布最終段階の戦いの姿である」
(顕正新聞 平成三十年七月五日付)と吹聴していた。
死んだ浅井の戯言を真に受けた浅井の残党が現在、「広告文と遥拝勤行で学会
員を救わん」とか「広告文と遥拝勤行で広宣流布は必ず成る」と息巻いている
が、笑止千万 ?
新聞広告のコピーと遥拝勤行で学会員を救うとは噴飯ものだが、これで広宣流
布するというのは愚の骨頂である。
浅井は「この大道は大聖人様が教えて下さった」等と述べていたが、日蓮大聖
人の御在世当時、新聞の広告文などはないし、こんな愚かな行動を大聖人は教
えてはおられない。
この広告文とは浅井昭衛の著書「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」の新聞広告
をカラーコピーしたものである。富士山の写真と「立正安国論」の御真蹟の写
真を掲載している。
このチラシを八千万部も刷ったらしい。あちこちの街角で通行人に無差別に手
渡し、或いは郵送している。こんなチラシを配布しても以前、「国家諌暁」と
騒いで粗末な小冊子を配布したのと同様、世間からは無視され、反感を買うだ
けである。
こんな愚行が「広宣流布最終段階の戦いの姿」で、「広宣流布が成る」「学会
員を救う」ことなど絶対に有り得ない。
このチラシを「大白法」や「慧妙」も揃って破折している。
特に「大白法」は、浅井が「広告のカラーコピーを読み『なんと不思議なこと
があるのか』と言って入信する人も多い」と語っていたのに対し「広告まで自
画自賛する」と嘲笑していた。
次に、浅井は遥拝勤行を「秘術であり、広布最終段階の信行の姿」と自慢して
いたが、大聖人は遥拝勤行など奨励されてはいない。
遥拝勤行の根拠として浅井は「千日尼御前御返事」の「御面を見てはなにかせ
ん。 心こそ大切に候へ」の御文を挙げているが、間違いだ。これは夫の阿仏
房を身延へ送り出した千日尼の志を称賛されているもので、遥拝勤行の意義を
示された御文ではない。「広告文と遥拝勤行に関する浅井の戯言は、地震や他
の予言と同様に〝外れ〟である。
地震の予言が外れた教祖が割腹自殺
昭和四十九年六月、「聖霊降りて大警告を発す 来る六月十八日午前八時 大
地震起る」と書いたビラが各地で大量に撒かれた。
これを予言したのは宗教団体「一元の宮」の教祖の元木勝一だった。
だが、予言のその日、地震は起こらなかった。予言が外れた元木は部屋に入っ
て割腹自殺を図ったのだ。
幸いにも発見が早くて、元木は病院に担ぎ込まれて一命を取り留めた。
治療を受けていた元木は信者達に「私が自ら腹を切ったことで大地震を止める
ことができた」と語ったが、一万人程いた信者の大多数が教団を去っていった。
予言を外しても自殺する必要はない。そんなことをすれば、浅井昭衛などは命
が幾つあっても足らないところだった。
[70]
(発行=24.03.28)
顕正会が捜査機関を逆恨み
広告文と遥拝勤行で学会員を救うとは笑止③
「事件を起こしても罪悪感が乏しく無反省」
日本犯罪史上で最悪と言われる松本サリン事件や地下鉄サリン事件を起こした
オウム真理教が、平成七年一月十七日の阪神淡路大震災の時、「予言的中」と
のビラを配布していた。
そのビラには「緊急速報」「またもや的中 麻原彰晃尊師の予言」「場所は『
神戸・直下型』時は『一月十八日前後』」と書いており、犠牲者を悼み、被災
者を見舞う文字はなかった。
これを真似た訳ではないだろうが、東日本大震災という未曾有の大災害に際し
て顕正会が独善的な主張を展開して、会員を増やそうと度を超えた行為をした
ことが「治安フォーラム」(平成二十三年十月号)に記されていたことは前号
で紹介した通りである。
同誌では更に「会員には折伏が原因でトラブルや事件を起こしても罪悪感が乏
しいのが実態であり、過去に会員が執拗・強引な勧誘等を行って逮捕された際
も〝不当逮捕、正当な宗教活動に対する不当弾圧、事件性のないものを事件に
でっち上げた〟等と捜査機関を痛烈に批判するだけで反省の姿勢がみられない
のは是正すべき点といえよう」と記されている。
確かに、平成二十五年九月十一日、警視庁公安部が顕正会の本部、及び東京会
館など五カ所を暴力行為法違反と強要の疑いで家宅捜索したことがテレビ、新
聞でも報道された。
この警察の家宅捜索に関する浅井の会員への釈明は、国家権力による「信教の
自由」の侵害で憲法違反だ、とか、顕正会の社会的信用を失墜させるのが狙い
だ等と独善的なものだ。
浅井は「信教の自由」は憲法で保障されていると主張しているが、執拗に入会
を迫り、暴言を吐き、時には暴力を振るう。こんな悪辣な行為までも憲法は保
障していない。
また、某日蓮系教団が警視庁公安部による家宅捜索に関与している証拠として
小型の新聞を、その日のうちに発行して広く報じた等と愚かなことを述べてい
る。
小型の新聞とは本紙「フェイク」を指すのであろうが、本紙はいかなる教団と
も無関係である。
しかも、その日のうちに発行したことを某日蓮系教団と警視庁公安部との結び
付きの根拠にしていた。だが、時事通信社なども警視庁公安部による顕正会の
本部・会館の家宅捜索を、その日のうちに全国に配信。各テレビ局でも、その
日のうちにニュースとして流していた。これらの時事通信社や各テレビ局も某
日蓮系教団の系列というのか?
浅井は以前から神奈川県警を憎んで罵倒していた。特に、平成十一年九月二十
七日、総幹部会の席上、警察を逆恨みして悪口雑言。昭衛の長男・克衛は「顕
正会弾圧の神奈川県警に大罰下る」と題して神奈川県警を愚弄していた。
克衛は顕正会員に対する不当な逮捕、家宅捜索を行なった神奈川県警の不祥事
が噴出したと述べ「県警トップの本部長辞任という深刻な事態にまで発展した」
「神奈川県警は悪徳警官の見本市」「暴力団も舌を巻く病的な腐敗」「県警内
部に暴力団に通ずる者が存在している」等と力説した。
克衛は現在、会合にも機関紙にも登場していないが、当時は男子部長で勧誘の
責任者であった。(つづく)
[69]
(発行=24.03.27)
「大震災の被災者を執拗に勧誘」
広告文と遥拝勤行で学会員を救うとは笑止②
「治安フォーラム」誌が顕正会の活動に鉄槌
東日本大震災の際の顕正会の動きについて「治安フォーラム」(平成二十三年
十月号)で「人々の不安をあおり続ける顕正会」と題して、小谷浩孝氏が詳述
している。
この「治安フォーラム」は日本の警察官向けに国内外の治安に関する情報を掲
載している月刊誌で、立花書房が発行している。
同誌では東日本大震災という甚大な被害をもたらした未曽有の災害に際して、
現地でのボランティア活動、救援物資の配布などに取り組んだ自治体をはじめ
関係機関や宗教団体があったと紹介。その一方で、被災者に対して執拗に入会
を勧誘し、無理矢理に信者を増やそうとした団体があったと述べ、その中でも
特に活発に勧誘活動をしていたのが顕正会だった等と綿密な取材に基づいて記
述している。大いに参考になるので抜粋して紹介する。
◇ ◇
インターネットのサイトでは、今回の震災を捉え、顕正会の会員が〝東北の顕
正会員で犠牲になった人はいない〟などと言って入会を勧誘しているといった
内容の書き込みがなされているほか、顕正会の機関紙である「顕正新聞」には、
浅井昭衛会長や幹部が、震災を捉えて独善的な主張を展開している記事が多数
掲載されている。
信教の自由、表現の自由が憲法で保障されていることは言うまでもないが、必
要以上に執拗に入会を勧誘したり、不安感・恐怖心をあおるような言葉を用い
て勧誘することは、度を超した行為と言わざるを得ず、こうした行為までもが
憲法で保障されているとは言えないはずである。
事実、過去にこのような形態で入会の勧誘や退会の引き止めを行った結果、傷
害、強要、監禁等の違法行為に発展し、検挙されたことは、以前に本誌でも触
れたとおりである(中略)。
複数の宗教団体が被災地への義援金の拠出、現地でのポランティア活動、被災
(避難)された方々への救援物資の配布等を行う中、顕正会がこれら活動に取り
組んでいると思われる状況は見受けられず、そのような話も聞かない(中略)。
顕正会では、東日本大震災が発生した三月以降、団体の中で「3・4月法戦」
「6・7月法戦」と称する折伏の推進期間を設定し、浅井会長が「誓願」と呼
ばれている折伏ノルマの人数を示した上で折伏活動に取り組んだ。
これまでと同様に執拗な勧誘が行われ、会員の言葉に不安を感じたり、不快な
思いをした人も少なからずいる。
◇ ◇
このほか同誌には「二名の顕正会員が死亡、十名以上の安否が確認されていな
い」との記事がブログに載ったと明かし、顕正新聞の記事は被害の事実を故意
に伏せている、と述べていた。
そして〝犠牲者が一人もいない〟との顕正会のアピールが真実ならば、会員数
は同会が発表している人数より、かなり少ないのではないかと指摘。一説には
会員の実数は「発表している数字の3%位」「5万人位」「十数万人」とも言
われていると記している。
更に、会員の多くは名簿上だけの幽霊会員で死亡者も脱会者も行方不明者も含
まれていると記しており、興味深い。(次号につづく)
[68]
(発行=24.03.26)
顕正会は大聖人の仏法とは異質の邪教
広告文と遥拝勤行で学会員を救うとは笑止①
「浅井親子は独善性で常にトラブル」
邪教・顕正会の顕正新聞が最近は学会に対して的外れの誹謗中傷を並べ「未
曽有の邪教化」等と批判して「広告文と遥拝勤行で学会員を救わん」と繰り返
し、今月二十五日付の新聞でも学会批判の記事で埋め尽くしているが、笑止千
万 !
本紙では同会が主張する国立戒壇の邪義を打ち砕き、更に「治安フォーラム」
及び各紙の論調などを踏まえて、日蓮大聖人の仏法とは異質の顕正会の邪説、
妄論、悪辣な勧誘の手口、暴力体質等を暴き、広告文と遥拝勤行を簡潔に破折
する。
初めに顕正会の歩みについて簡単に記す。
顕正会の前身は昭和三十三年に認可された日蓮正宗の妙縁寺(墨田区吾妻橋)
所属の妙信講である。初代の講頭は浅井甚兵衛(昭和五十九年四月に死亡)で、
昨年十月に死んだ会長の浅井昭衛は青年部長になった。
その後、妙信講は妙国寺(板橋区)や法道院(豊島区南池袋)へと所属を変え
たが、今と違って国立戒壇に固執することは余り主張していなかったようだ。
昭和四十年十月、正本堂の供養の受付が行われ、八百万人を超える人々が参加。
その結果、僧侶・寺族同心会が約一億五千万円、法華講が約三億円、創価学会
が約三百五十億円で、総額は約三百五十五億円となった。
この供養には妙信講も賛同して少額ではあるが参加。浅井は「正本堂建立御供
養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗を給わった」と喜んでいた。
ところが、浅井は学会が中心となっての建立寄進に難癖をつけ、正本堂の教義
上の意義づけを巡って日蓮正宗及び学会と対立するようになったので、昭和四
十九年八月、宗門から講中解散処分を受けたのである。
これに関して日蓮正宗宗務院の院達では「(顕正会は)元『妙信講』と称し、本
宗の法華講支部の一つでしたが、宗門の公式決定に違反したため、昭和四十九
年八月十二日に講中解散に処せられました」と記していた。
学会本部を襲撃
昭和五十年八月二十日、甚兵衛が講頭を退いて第二代講頭に昭衛が就任した。
その後、昭和五十七年十月九日に日本武道館で総会を開き、名称を現在の顕正
会に変更した。一時期は「日蓮正宗顕正会」と名乗り、最近では「冨士大石寺
顕正会」と詐称しているが、顕正会は日蓮正宗、大石寺とは無関係である。
これについては平成九年八月、大石寺での教師指導会で当時の総監・藤本日潤
が糾弾していたので、その要旨を紹介する。
「顕正会という団体は、元妙信講と称する宗門の法華講支部の一つでありまし
たが、既に解散処分に付され、そこに所属する信徒のうち主要な三十数名は信
徒除名となり、一般信徒も宗門の指示に従って指定した寺院に申し出て所属替
えをした者以外はすべて信徒の資格を失った」
「元妙信講は、その中心者である浅井甚兵衛、浅井昭衛親子の増上慢、独善性、
権力志向性等によって、常に周辺とトラブルを起こし、所属寺院を転々として
最後、墨田区の妙縁寺に所属しましたが、浅井親子は右翼的、国粋主義的思想
傾向が強く、天皇制の復活を信じて、かねてから『大聖人の御遺命の戒壇は、
安母山に建てる国立戒壇でなければならない』と、このように主張して、当時、
完成間近に迫っていた正本堂の意義についてクレームをつけ、宗門の公式決定
である『国立戒壇の名称を使用しない』という定めを犯して、盛んに宗門・学
会を非難・攻撃し『流血の惨も辞さず』という脅迫文まで送りつけて、日達上
人御自ら浅井親子を説得あそばされるなど、大変な御苦心の結果、ようやく正
本堂落慶法要を無事済ませることが出来た」「しかし、その後も執拗に国立戒
壇を主張して、宗門、学会を攻撃して、遂には文書を街頭配布したり、デモ行
進を敢行するなど、エスカレートして留まるところを知らないため、やむをえ
ず宗門は昭和四十九年八月、講中解散処分に付した」「浅井らはいよいよ過激
さを増して宣伝カーで学会本部を襲撃し、乱闘事件を起こす」(「大白法」平
成九年十月一日付)
予言は全て外れ
死んだ浅井昭衛の話は、国立戒壇論の他も底の浅い我見、邪義、妄論である。
そして厚顔無恥にも地震の予知能力があるかのように色んな予言をしたが、悉
く外れた。特に面白いのは平成十年一月に「今年の二月(平成十年二月)まで
に小田原大地震が起きる」と言い、同年十二月には「小田原の大地震も秒読み
の段階に入った」と言っていたが、幸いなことに外れた。
浅井の〝予言〟は、その時の状況で二転三転する。
例えば、昭和五十七年に「二〇〇七年までに顕正会が広宣流布できなければ核
戦争によって人類は絶滅する」と予言。その後、「二〇一四年まで」と変更し
たが、顕正会は広宣流布できず、人類も絶滅していない。
浅井は当たった試しがない地震予知をはじめ、経済破綻、日本国の滅亡、人類
の絶滅、ソ連(当時)・北朝鮮・中国による侵略、核戦争、大旱魃など的外れの
予言を連発しては人々の不安を煽り続けていた。
ところが、肝心の阪神・淡路大震災や東日本大震災は予言できなかった。
国立戒壇は邪義
浅井の口癖の国立戒壇は明治時代の国柱会・田中智学の造語で御書にはない。
田中智学は日本の国体と仏法が一致するという邪義を考え、その見地から国立
戒壇を提唱したのだが、日蓮大聖人の仏法は世界宗教で、日本一国の宗教では
ない。
宗門は戦前に国家権力に迎合しようと一時期、国立戒壇論を取り入れた。学会
は外護団体として宗門の国立戒壇論に従ってきたが、戸田第二代会長は国教化
を明確に否定していた。
つまり、学会は国柱会と同じ意味で国立戒壇を唱えていた訳ではない。戸田会
長は民衆の幸福を最大の目的に掲げ、事の戒壇の本義を「広宣流布の象徴」と
見ていたのである。
大聖人ご在世当時と今は社会状況が違う。戒壇建立は古代・中世の日本仏教で
重視されたが、現代の仏教界では関心の的ではない。
戒壇建立は化儀だから、時代に応じて考え方を変えてもよい。もしも、化儀を
変えるべきでないと言うなら、顕正会は、まず今の宗門坊主が宗開両祖の禁じ
た肉食妻帯を平気で行っているのを、何故、糾弾しないのか、と問いたい。
また、顕正会は平成九年七月に「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」
、続いて同十六年四月には「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と題する小冊
子を会員に何十、何百部と他部数を購入させ、全国に配布させた。
粗末な冊子の販売と発送を「一国諫暁」と称していたが、世間からは無視され、
反感を招いた。
更に、顕正会は東日本大震災に際して、不安感や恐怖心を煽る一方、浅井らは
〝顕正会からは一人の犠牲者も出ないで全員が守られた〟と宣伝していた。
特に、浅井は「私はただ東北の十数万顕正会員の身の上だけを案じた。だが、
不思議にも全員が御本尊様の御守護を頂いたのです」と力説していたが、浅井
の言い分は実に怪しいと見られていた。
顕正会の反社会体質について「治安フォーラム」が綿密な取材に基づいて記述
しており、大いに参考になるので次号で紹介する。
[67]
師匠と我らとの関係 9(聖愚問答抄)
聖愚問答抄における弟子との関係
本抄は、文永2<1265>年大聖人44歳の御作とされ、対告衆明らかでなく、聖人と愚者との問答形式です。前半は諸宗の破折です。愚人は、諸宗をさまよう人ですが、突き詰めると我々弟子の事であり、聖人こそが日蓮大聖人その人なのです。今回は、具体的な指導はありませんが、妙法の素晴らしさを改めて認識しうる御文です。
「今この妙法蓮華経とは、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道なり。されば、釈尊は付嘱を宣べ、多宝は証明を遂げ、諸仏は舌相を梵天に付けて『皆これ真実なり』と宣べ給えり。この経は、一字も諸仏の本懐、一点も多生の助けなり。一言一語も虚妄あるべからず。この経の禁めを用いざる者は、諸仏の舌をきり、賢聖をあざむく人にあらずや。その罪実に怖るべし。」(聖愚問答抄上 新554頁・全480-1頁)
現代語訳:今、この妙法蓮華経とは、諸仏出世の本懐であり、衆生の成仏の直道です。だから、釈尊は付嘱を宣言し、多宝如来は証明を行い、諸仏は舌相を梵天に付けて「皆是れ真実なり」と述べられたのです。この法華経は一字でも諸仏の本懐、一点でも多生の助けとなります。一言一語も虚妄であるはずがありません。この法華経の禁めを用いない者は、諸仏の舌をきり、賢人聖人を欺く人ではないでしょうか。その罪は本当に怖ろしい事です。
※本抄での諸宗破折は明解であり、その後、法華経の信受の素晴らしさと戒禁破りの罪を御教示されているのです。
「汝、実に道心あらば、急いで先非を悔ゆべし。夫れ以んみれば、この妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。」(聖愚問答抄上 新562頁・全487頁)
現代語訳:あなたにまことの求道心があるならば、急いで過去のあやまちを悔いるべきです。さて究極の道理を考えてみると、この妙法蓮華経こそが、釈尊一代の観心の法門を一念におさめ、十界の依正を三千におさめているのです。
※仏法の根本義である妙法を讃嘆して、愚人に、強いては我々に、示されているのです。
「されば、天台大師の釈を披見するに、他経には、菩薩は仏になると云って二乗の得道は永くこれ無し。善人は仏になると云って悪人の成仏を明かさず。男子は仏になると説いて女人は地獄の使いと定む。人天は仏になると云って畜類は仏になるといわず。しかるを、今経はこれらが皆仏になると説く。たのもしきかな。末代濁世に生を受くといえども、提婆がごとくに五逆をも造らず、三逆をも犯さず。しかるに、提婆なお天王如来の記莂を得たり。いわんや、犯さざる我らが身をや。八歳の竜女、既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す。いわんや人界に生を受けたる女人をや。ただ得難きは人身、値い難きは正法なり。汝、早く邪を翻えして正に付き、凡を転じて聖を証せんと思わば、念仏・真言・禅・律を捨てて、この一乗妙典を受持すべし。もししからば、妄染の塵穢を払って清浄の覚体を証せんこと疑いなかるべし。」(聖愚問答抄下 新567-8頁・全490-1頁)
現代語訳:天台大師の釈を開いて見ると、「他経には、菩薩は仏になると説いて二乗の得道は永遠にない。善人は仏になると説いて悪人の成仏は明かさない。男子は仏になると説いて女人は地獄の使いと定めている。人天は仏になると説いて畜類は仏になるとは説かない。ところが、今の経(法華経)はこれらが皆仏になる」と説かれています。頼もしいことです。末代濁世に生を受けたけれども、提婆達多の様に五逆罪をも造らず、三逆罪をも犯していません。それなのに、それを犯した提婆達多でさえ、なお天王如来の記別を得たのです。だからこそ、犯さない我等の成仏は疑いないのです。八歳の竜女は、すでに蛇身を改めないで、南方に妙果を証得しました。だから人界に生を受けた女人の成仏は、間違いないのです。ただし、得難いのは人身であり、値い難いのは正法です。あなたも早く邪法への信を翻して正法に付き、凡夫を転じて聖果を証得したいと思うならば、念仏・真言・禅・律を捨てて、この一乗妙典である法華経を受持すべきです。もしそうであるならば、虚妄に染められた生命の塵芥を払って清浄の覚体を得ることは疑いないのです。
※爾前の諸経には、二乗・菩薩が「歴劫修行」といって、無量劫の長期間に亘って修行しても仏に成り難い、とあります。法華経提婆達多品には、「汝が神力を以って、我が成仏を観よ。」と言って、8歳の竜女が、忽然と変じ男子と成って(変成男子)成仏し、妙法を演説したと説かれています。この様に、法華経の功徳は絶大なのですね。
「法理をもしらず、煩悩をもしらずといえども、ただ信ずれば、見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨かんこと疑いあるべからず。されば、伝教大師云わく『能化・所化ともに歴劫無し。妙法経力もて即身成仏す』と。法華経の法理を教えん師匠も、また習わん弟子も、久しからずして法華経の力をもって、ともに仏になるべしという文なり」(聖愚問答抄下 新580頁・全499頁)
現代語訳:法理をも知らず、煩悩をも知らないとしても、ただ信ずれば見思、塵沙、無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の浄土に到り、本有の三身如来の生命を磨きあらわすことは疑いないのです。それ故に、伝教大師は法華秀句で「能化も所化もともに長劫にわたる修行を経ることなく、妙法蓮華経の力で即身成仏する」と説かれているのです。法華経の法理を教える師匠も、また学ぶ弟子も直ちに法華経の力でともに仏になる、との文なのです。
※能化とは能く他を化導・教化する人つまり師匠のことであり、所化とは化導・教化を受ける我々であり日蓮門下をいいます。御本仏日蓮大聖人の仏法によって、我々も仏の様に敬われる存在にならなければなりませんね。
◎本抄の内容は、先ず律、浄土、真言、禅の各宗の智者(上人・居士)が次々に来て自宗の信仰を勧めます。その度に愚者は、その義に納得しますが、終いには何が是か非かと迷い、法華経の実力を聞くにおよんで真実の法を求めて法華経の聖人を訪ねるのです。私達も真の人生哲学を求めて、現在の境涯に至ったことを感謝したいですね。
[66]
師匠と我らとの関係 8(持妙法華問答抄)
持妙法華問答抄における弟子との関係
本抄は、弘長3<1263>年3月大聖人42歳の御作とされ、短い御文で対告衆不明ながら、問答形式で門下に成仏得道の法理を御教示されていますので、紹介します。
「仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども、いまだ焦種の者作仏すべしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。ただすべからく汝仏にならんと思わば、慢のはたほこをたおし、忿りの杖をすてて、ひとえに一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」(持妙法華問答抄 新513頁・全463頁)
現代語訳:「仏性の種子があるものは仏になる」と爾前経にも説いているけれど、いまだ焦種の者(二乗)が仏になるとは説かれていません。この様な重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけです。ただ、あなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきです。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせなのです。まことに恥ずべきであり、恐るべきことです。
※大聖人は「成仏する為には、慢心や怒り恨みを捨てて、名聞名利や我慢偏執は恥ずべきなので考えないで、法華経に帰依するべきです」と仰せです。
「受けがたき人身をうけ、値いがたき仏法にあいて、いかでか虚しくて候べきぞ。同じく信を取るならば、また大小・権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。持つところの御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり。ここをもって経に云わく「能く是の経を持つ者は、一切衆生の中において、またこれ第一なり」と説き給えり、大聖の金言疑いなし」(持妙法華問答抄 新514頁・全464頁)
現代語訳:受けがたい人身をうけ、あいがたい仏法にあいながら、どうして一生をむなしく過ごしてよいでしょうか。同じ様に仏法を信ずるならば、大小・権実とある仏法中で、諸仏出世の本意であり衆生の成仏の直道である法華一乗をこそ信じるべきです。所持する法華経が諸経に勝れていれば、能く所持する人もまた諸人に勝れるのです。この事を法華経薬王菩薩本事品には「能くこの経を持つ者は、一切衆生の中でもまた第一である」と説かれています。仏の金言は疑いないのです。
※仏法は、自身だけの修行から自他共の幸福を祈願・実践するものと発展してきました。そして究極は、諸仏出世の本意でかつ衆生の成仏の直道である法華一乗(日蓮仏法・御本尊)を信じていきなさい、と仰せですね。
「経に云わく「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と云々。文の心は、法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみ、にくみ、そねみ、うらみをむすばん、その人は、命おわりて阿鼻大城に入らんと云えり。大聖の金言、誰かこれを恐れざらんや。『正直に方便を捨つ』の明文、あにこれを疑うべきや。しかるに、人皆経文に背き、世ことごとく法理に迷えり。汝、何ぞ悪友の教えに随わんや。されば、邪師の法を信じ受くる者を名づけて、毒を飲む者なりと天台は釈し給えり。汝、能くこれを慎むべし、これを慎むべし。」(持妙法華問答抄 新515-6頁・全465頁)
現代語訳:法華経譬喩品には「経を読誦し書持する者を見て、軽賎憎嫉して恨みを懐くならば、その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」と説いています。文の意味は、法華経を読み持つ者を見て、軽んじ、賎しみ、憎み、嫉み、恨みを懐くならば、その人は命が終わって阿鼻大城に入るというのです。仏の金言であり、誰がこれを恐れずにいられるでしょうか。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」との法華経方便品の明文をどうして疑うことができるでしょうか。ところが、人は皆、経文に背き、世はことごとく法理に迷っています。あなたはどうして悪友の教えに随うことがあるでしょうか。だから「邪師の法を信じ受ける者を名づけて毒を飲む者という」と天台大師は解釈されています。あなたはよくこの事を考えて慎むべきです。
※正法を信仰している人を見て、軽んじ、賎しみ、憎み、嫉み、恨み等を懐く人は、結局、負の価値の人生を送る事になるでしょう、と先師も教えています。
「一切の仏法もまた人によりて弘まるべし。これによって、天台は『仏世すらなお人をもって法を顕す。末代いずくんぞ法は貴けれども人は賤しと云わんや』とこそ釈して御坐しまし候え。されば、持たるる法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし、しからば則ち、その人を毀るは、その法を毀るなり。その子を賤しむるは、即ち其の親を賤しむなり。ここに知んぬ、当世の人は詞と心とすべてあわず。孝経をもってその親を打つがごとし。あに冥の照覧恥ずかしからざらんや。地獄の苦しみ、恐るべし恐るべし、慎むべし慎むべし。上根に望めても卑下すべからず、下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても憍慢ならざれ、上根ももるることあり、心をいたさざるが故に。」(持妙法華問答抄 新516頁・全465-6頁)
現代語訳:一切の仏法もまた人によって弘まるのです。これによって天台大師は「仏の在世でさえ、なお人によって法をあらわす。末代にあって、どうして法は貴いけれども人は賎しいといえようか」と解釈されています。だから、所持する法さえ第一ならば、所持する人もまた第一なのです。そうであれば、その人を毀るのは、その法を毀ることになるのです。その子を賎しむのは、即ちその親を賎しむことなのです。これに照らせば、当世の人は言葉と心とが全て一致しないのです。孝経(儒教の根本である「孝」について孔子が説く)でもって、その親を打つ様なものです。仏菩薩が御照覧されるのに、恥ずかしくはないのでしょうか。地獄の苦しみはまことに恐るべき事であり、くれぐれも慎まなければなりません。上根(三根[上・中・下]の一つで、煩悩に左右されず法をすぐ理解する機根)の人を望みて比較しても、自分を卑下してはなりません。下根を見捨てないのが仏の本懐だからです。下根(上根・中根より機根が劣っている)の人を見て比較しても、高慢であってはなりません。上根も救いに漏れる事があり、心を込めて仏法を求めないからです。
※人によって法は弘まるのです。他抄にも「法自ら広まらず、人法を弘むる故に、人法ともに尊し」(新2200頁・全856頁)「法妙なるが故に人貴し」(新1924頁・全1578頁)とあり、法とそれを弘める人は同体と言えるでしょう。本抄に「『一切衆生皆成仏道』の教えなれば、上根・上機は観念観法もしかるべし、下根・下機はただ信心肝要なり」(同 新515頁・全464頁))とあります。(法華経は)一切衆生の皆が成仏する道、との教えであれば、上根・上機の者は観念・観法でも相応しいが、下根・下機の者はただ信じる心が肝要です、との意味ながら、此処の御文では、上根・上機の人でも真摯な信仰心が必要である、と仰せです。
「寂光の都ならずば、いずくも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて、何事か楽みなるべき、願くは、『現世安穏、後生善処』の妙法を持つのみこそ、ただ今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。すべからく、心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」(持妙法華問答抄 新519頁・全467頁)
現代語訳:寂光の都で無いならば、どこも全部苦の世界です。本覚の栖を離れて、どんな事が楽しみとなるでしょうか。願いとしては「現世は安穏であり、後生は善処に生まれる」と仰せの妙法を持つことのみで、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのです。全て心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人間として生まれてきた思い出になるのです。
※妙法を持てば、今生で真の名聞に、後世で成仏の手引きとなり、「我等出生の思い出は、妙法を我も唱え他をも勧めること」なのですね。
◎題目通り「持妙法華(妙法蓮華経の受持)」について問答形式で書かれた本抄は、妙法蓮華経を受持し自行化他にわたる信心修行に励むことこそ仏意に適った最大最高の人生であり、成仏する直道です、と御教示されています。
[65]
師匠と我らとの関係 7(一生成仏抄)
一生成仏抄における弟子との関係
今回は、富木常忍に宛てられた御書の「一生成仏抄(建長7<1255>年 御作)」を紹介します。
「妙法蓮華経と唱え持つというとも、もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず、麤法なり。麤法は今経にあらず。今経にあらざれば、方便なり、権門なり。方便・権門の教えならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に、一生成仏叶いがたし。故に、妙法と唱え蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づくるぞと深く信心を発すべきなり。」(一生成仏抄 新316頁・全383頁)
現代語訳:妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし己心の外に法があると思うのならば、それは全然妙法ではなく、麤法(劣った粗雑な教え)なのです。麤法は法華経ではありません。法華経でなければ方便の教えであり、権門の教えです。方便・権門の教えであるならば、成仏の直道ではありません。成仏の直道でなければ、多生曠劫(たしょうこうごう:何回も生死を繰り返し長い劫数を経ること)の修行を経ても、成仏することができないので、一生成仏はできないのです。だから妙法と唱え、蓮華と読誦する時は、我が一念をさして妙法蓮華経と名づけるのです、と深く信心を発すべきなのです。
※己心の法、妙法を唱えることが一生成仏の直道であると、富木常忍にこれを最初に何度も噛んで含めるように指導されています。
「止観には『仏教を学すといえども、還って外見に同ず』と釈せり。しかるあいだ、仏の名を唱え、経巻をよみ、花をちらし、香をひねるまでも、皆、我が一念に納めたる功徳・善根なりと信心を取るべきなり。」(一生成仏抄 新317頁・全383頁)
現代語訳:天台大師の摩訶止観巻十上では「仏教を学んでいても、還って外道の見識と同じになっている」と解釈されています。だからこそ、仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも全て、我が一念に納めると功徳善根になる、と信心を採っていくべきです。
※此処でも、妙法が功徳善根であると、御教示されています。
「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのです。その為に、深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱え崇めることを磨くというのです。
※我々も、朝夕の勤行時に唱える題目によって、心が清らかに磨かれているのを実感しますね。
「妙とは何という心ぞや。ただ我が一念の心不思議なるところを妙とは云うなり。不思議とは、心も及ばず語も及ばずということなり。しかればすなわち、起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云わんとすれば色も質もなし。また無しと云わんとすれば様々に心起こる。有りと思うべきにあらず、無しと思うべきにもあらず。有無の二つの語も及ばず、有無の二つの心も及ばず。有無にあらずしてしかも有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。この妙なる心を名づけて法ともいうなり。この法門の不思議をあらわすに、譬えを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬればまた転じて余心をも妙法と知るところを、妙経とはいうなり。しかればすなわち、善悪に付いて起こり起こるところの念心の当体を指して、これ妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とはいうなり。この旨を深く信じて妙法蓮華経と唱えば、一生成仏さらに疑いあるべからず。故に、経文には「我滅度して後において、応にこの経を受持すべし。この人は仏道において、決定して疑いあることなけん」とのべたり。ゆめゆめ不審をなすべからず。」(一生成仏抄 新318頁・全384頁)
現代語訳:妙とはどの様な意味でしょうか。ただ我が一念心が不思議であることを妙というのです。不思議とは心も及ばず語も及ばずということです。従って、起こるところの一念心を尋ねてみれば、有ると言おうとすると、色も質もなく、また無いと言おうとすると、様々な思いが心に起こって来ます。有ると考えるべきでないし無いと考えるべきでもないのです。有無の二つの言葉も及ばず、有無の二つの心も及ばないのです。有無にあらずして、しかも有無に遍くいきわたって、中道一実の妙体であって不思議であることを、妙と名づけるのです。この妙なる心を名づけて法ともいうのです。この法門の不思議をあらわすのに、譬喩を具体的事法になぞらえて蓮華と名づけるのです。一心を妙と知るならば、また転じて余の心も妙法と知るところを妙経というのです。従って、善悪について瞬間瞬間順次に起こって来る念心の当体をさして、これが妙法の体であると説明し広く示した経王だから、成仏の直道というのです。この法理を深く信じて妙法蓮華経と唱えるならば、一生成仏は絶対に間違いないのです。故に法華経如来神力品には「わが滅度の後において、この妙法蓮華経を受持すべきである。この人は仏道において必ず成仏することは疑いないのである」と説かれているのです。決して不審をもってはなりません。
※本抄の最後の御文でも、重ねて妙法が成仏の直道である、御教示されています。
◎本抄は、短い御書ですが、最も教養があり賢明な弟子である富木常忍に対して、「成仏の直道とは何か」を明解かつ核心を突く指導で述べられており、弟子の心得として重要な御文である、と理解したので、掲載させて頂きました。
[64]
師匠と我らとの関係 6(法華取要抄と四信五品抄)
今回は、共に富木常忍に与えられ、十大部御書とされた「法華取要抄」(文永11<1274>年5月御作)と「四信五品抄(建治3<1277>年4月御作)」からの紹介です。
法華取要抄における弟子との関係
「彼々の宗々の元祖等、杜順・智儼・法蔵・澄観、玄弉・慈恩、嘉祥・道朗、善無畏・金剛智・不空、道宣・鑑真、曇鸞・道綽・善導、達磨・慧可等なり。これらの三蔵・大師等は皆、聖人なり賢人なり。智は日月に斉しく、徳は四海に弥れり。その上、各々、経・律・論に依り、たがいに証拠有り。したがって、王臣国を傾け、土民これを仰ぐ。末世の偏学たとい是非を加うとも、人信用するに至らず。しかりといえども、宝山に来り登って瓦石を採取し、栴檀に歩み入って伊蘭を懐き収めば、悔恨有らん。故に、万人の謗りを捨てて、みだりに取捨を加う。我が門弟、委細にこれを尋討せよ。」(法華取要抄 新148-9頁・全331頁)
現代語訳:これらの各宗の元祖等は、杜順・智儼・法蔵・澄観(以上、華厳宗)玄奘・慈恩(法相宗)嘉祥・道朗(三論宗)善無畏・金剛智・不空(真言宗)道宣・鑑真(律宗)・曇鸞・道綽・善導(浄土宗)達磨・慧可(禅宗)等です。これらの三蔵・大師等は皆聖人であり賢人です。その智慧は日月に等しく、その徳は四海に行きわたっています。その上、これらの各祖師はそれぞれに経・律・論を拠り所としており、それぞれの教判の証拠があります。従って王臣は国を挙げて各宗に帰依し、人民はこれを仰ぎ尊崇しているのです。故に、末世の偏頗な学僧が、これらの教判に正邪の判定を加えても人は信用しないでしょう。しかしながら、せっかく宝の山に来て登ったのに、瓦や石を集め取ったり、あるいは栴檀の林に歩み入ったのに、毒草の伊蘭を抱え取ってくるのでは、悔いや恨みが残るばかりでしょう。故に、万人から謗られることを顧みずに、あえて邪義と正義とを取捨選択するのです。我が門弟は、詳しく、この事を尋ね検討しなさい。
※万人の幸福確立の為に、私達は、他宗の邪義を勉強し知らなければなりません。
「『諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴せん』等云々。これらの明鏡を齎って当時の日本国を引き向かうるに、天地を浮かぶること、あたかも符契のごとし。眼有らん我が門弟はこれを見よ。当に知るべし、この国に悪比丘等有って、天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て、聖人を失う世なり。」(法華取要抄 新158頁・全337頁)
現代語訳:(仁王経に)「多くの悪比丘が名利を求め、国王や太子や王子の前において自ら仏法を破る因縁や国を破る因縁を説くであろう。その国王は分別できずに、この言葉を聞いて信ずるであろう」等とあります。これらの明鏡を今の日本国を引き充ててみると、その天地の有り様を浮かべることは、まさに割り符を合わせた様なのです。眼識ある我が門弟はこれを見なさい。まさに知るべきです。この国に悪比丘らがいて、天子・王子・将軍らに向かって讒言し訴えを企てる事で、聖人を失う世なのです。
※現代でも、名聞名利に明け暮れて、正法を理解しない人が多いのです。
「仏法を滅失すること大なるに似たれども、その科なお浅きか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小をもって大を打ち、権をもって実を失う。人心を削って身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然にこれを喪ぼす。その失、前代に超過せるなり。我が門弟これを見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向かえ。天瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出ずるは、一国に二りの国王並ぶ相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは、臣の王を犯す相なり。日と日と競い出ずるは、四天下一同の諍論なり。明星並び出ずるは、太子と太子との諍論なり。かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。」(法華取要抄 新158-9頁・全337-8頁)
現代語訳:仏法を滅ぼすこと自体は重大な事の様に見えますが、その罪科はまだ浅いと言えるでしょう。今、当世の悪王や悪比丘が仏法を滅ぼすのは、小乗を使って大乗を打ち、権経を優先して実経を消失させているからです。人々の正法への信仰心を削るが身を滅ぼさない、寺塔を焼き尽くさないが自然に仏法を滅ぼすのです。それ故、その損失は前代の正像時代よりも重いのです。我が門弟は、これ(前代未聞の天変地夭が起こった)を見て法華経を信じなさい。(試みに)眼を怒らせて鏡に向かって見なさい。(鏡の像が自分に怒り返してくるでしょう。同様に)諸天が怒るのは人に失があるからです。二つの日が並んで出るのは一国に二人の国王が並ぶ前相であり、王と王との争いです。星が日月を犯すのは、臣舌が王を犯す前兆です。日と日が競い出るのは、四天下で争いが起こる前兆です。明星が並んで出るのは太子と太子とが争う前兆です。この様に、国土が乱れた後に、上行菩薩らの聖人が出現して、本門の三つの法門を建立し、全世界一同に妙法蓮華経が広宣流布する事は疑いないでしょう。
※我々が地湧の菩薩の眷属だからこそ、大願は日蓮仏法の広宣流布であり世界平和の実現なのですね。
四信五品抄における弟子との関係
「止観の第六に云わく『前教にその位を高くする所以は、方便の説なればなり。円教の位下きは、真実の説なればなり』。弘決に云わく『【前教】より下は、正しく権実を判ず。教いよいよ実なれば位いよいよ下く、教いよいよ権なれば位いよいよ高きが故に」。また記の九に云わく『位を判ずとは、観境いよいよ深く実位いよいよ下きを顕す』云々。他宗はしばらくこれを置く、天台一門の学者等、何ぞ『実位いよいよ下し』の釈を閣いて恵心僧都の筆を用いるや。畏・智・空と覚・証とのことは、追ってこれを習え。大事なり、大事なり、一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞いて後に我を外め。」(四信五品抄 新266-7頁・全340頁)
現代語訳:『摩訶止観』第六巻には、「法華経より前の教えで、それを行ずる者の修行の段階が高い理由は、真実に導く手だてとしての教説だからである。完全な教えで行ずる者の修行の段階が低いのは、真実の教説だからである」とあります。『止観輔行伝弘決』では、これを注釈して「『前の教えで』以下は、一時的な教えと真実な教えを判別するものである。教えが真実に近づけば近づくほど、それを行ずる者の修行段階は低くなり、教えが一時的なものになればなるほど、修行段階は高くなるからである」としている。また、『法華文句記』第九巻には「修行段階を判定するという箇所では、観察する対象が深くなればなるほど、真実の教えにおける修行段階ではそれだけ低くなることを明らかにしている」とあります。他の宗派はともかくとして、天台宗に属する学者たちは、どうして「真実の教えにおける修行段階はそれだけ低くなる」という解釈を放置して、慧心僧都(日本天台宗の恵心院僧都源信のこと)の書いたものを用いるのでしょうか。善無畏・金剛智・不空・慈覚大師・智証大師のことは後で学びなさい。先に述べたことこそ実に大事です。一閻浮提で第一の重要事なのです。思慮分別のある人ならば(初めから耳を塞ぐのではなく)聞いた後に私の教え(日蓮仏法)を外してみなさい。(現証を確認するのです)
※位(修行段階)が低いとは、「難行をしなくても成仏できる」との先師の言葉です。他宗への経験を勧めた大聖人には、絶対の確信があったからです。
「問う。汝が弟子、一分の解無くして、ただ一口南無妙法蓮華経と称うるものは、その位いかん。答う。この人は、ただ四味三教の極位ならびに爾前の円人に超過するのみにあらず、はたまた真言等の諸宗の元祖、畏・儼・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請う、国中の諸人、我が末弟等を軽んずることなかれ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩なり。あに熙連一恒の者にあらずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備うべし。天子の襁褓に纏われ、大竜の始めて生ずるがごとし。蔑如することなかれ、蔑如することなかれ。(中略)罰をもって徳を惟うに、我が門人等は『福十号に過ぐ』疑いなきものなり。」(四信五品抄 新270頁・全342頁)
現代語訳:質問します。あなたの弟子が、少しの理解もなく、ただ一回だけ声を出して南無妙法蓮華経と唱えた場合、その人の位(修行段階)はどの様なものでしょうか。答えます。この人は、単に四味・三教の最後の修行段階の者や、爾前の円教の人を超えるだけでなく、さらには真言宗などの様々な宗派の開祖である善無畏・智儼・慈恩大師・吉蔵・道宣・達磨・善導らよりも勝れること百千万億倍なのです。是非とも、日本国中の人々よ、私の弟子達を軽んじないでください。時代をさかのぼって過去世を調べれば、八十万億劫の間、仏達に供養した偉大な菩薩です。どうして、熈連河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを求める心を起こした者やガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを起こした者でないことがあるでしょうか。未来世を論ずれば、八十年にわたって布施を行った者を超え五十番目に法華経を伝え聞いた者と同じ功徳を備えるに違いないのです。皇帝に生まれた時は産着に包まれており、巨大な竜も生まれたては小さいのです。決してないがしろにしてはなりません。(中略)(誹謗した者達が受けた)罰によって、(法華経を信じる者の)功徳を推しはかるならば、私の弟子達は「功徳は十の称号を持つ仏を超える」という経文通りになるのは疑いない事です。
※一回だけの唱題でも日蓮門下は、他宗の開祖よりも幾億倍も勝れ、功徳は仏を越えると仰せなのです。
◎そもそも、大聖人の教義・法説は、万人の幸福の為の法であり、弟子を育成する目的で、難信難解をできるだけ解り易く解説されたれた御文が多いですね。従って、大聖人の御消息文を含めて御書の全文が、妙法の弘教拡大を未来の弟子に託す為に書かれたとも考えられますね
[63]
師匠と我らとの関係 5(立正安国論と報恩抄)
今回は、十大部御書の中の平和誓願の書「立正安国論(文永元<1260>年7月御作」と師恩の書「報恩抄(建治2<1276>年7月御作)」からの紹介です。
立正安国論における弟子との関係
「主人曰わく、予、少量たりといえども、忝くも大乗を学す。蒼蠅、驥尾に附して万里を渡り、碧蘿、松頭に懸かって千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。その上、涅槃経に云わく『もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり』。余、善比丘の身ならずといえども、『仏法の中の怨』の責めを遁れんがために、ただ大綱を撮ってほぼ一端を示すのみ」(立正安国論 新36頁・全26頁)
現代語訳:主人が言います。「自分は器も小さく、取るに足りない人間ですが、かたじけなくも大乗仏教を学んでいます。青蝿が駿馬の尾について万里を渡り、葛は大きな松に寄って千尋も延びるという譬えもあります。たとえ器量は小さいとはいえ、仏弟子と生まれて諸経の王たる法華経を信ずる以上、どうして仏法の衰微するのをみて、哀惜の心情を起こさないでいられるでしょうか。
その上、涅槃経には『もし善比丘が仏法を壊るものを見ても、これをそのまま見過ごして折伏もせず、追放もせず、その罪を責めもしないでいるならば、その人は、たとえ善比丘であっても、仏法の中の怨敵である。もし、よく追放し、強折し、その罪を責めるならば、これこそ我が弟子であり、真の声聞である』と説かれています。自分は善比丘の身ではないが、『仏法の中の怨』と責められる事をのがれる為に、ここではただ大筋だけを取り上げて、ほぼその一端を示すだけです」と。
※此処での主人とは、日蓮大聖人のことであり、師匠なのです。師匠の覚悟を、弟子が継承していくのです。
「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬えば、なお、水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡くがごとし。汝、当座に信ずといえども、後定めて永く忘れん。もし、まず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし悤いで対治を加えよ。」(立正安国論 新43頁・全31頁)
現代語訳:人の心は時に従って移り、物の性分はその環境によって改まるものです。たとえば、水に映った月は波の動きに従って動き、戦いに臨んだ軍兵は敵の攻撃に従ってなびくようなものです。あなたもこの座では正法を信ずると決心しているけれども、後になって必ずそれを忘れてしまうでしょう。もしまず、国土を安んじて現当二世にわたる自分の幸せを祈ろうと思うならば、すみやかに情慮をめぐらし、いそいで邪宗邪義に対治を加え、徹底的に破折していきなさい。
※平和を願う心は、仏法修行者でも一般民衆でも一緒なのです。自身の人間革命に及ばない自身だけの安易な安穏では、人間関係や社会環境の改善に結びつかない事も一緒なのです。
報恩抄における弟子との関係
「我ら凡夫は、いずれの師々なりとも信ずるならば不足あるべからず、仰いでこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに、各々我も我もといえども、国主はただ一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二りの主あれば、その家必ずやぶる。一切経もまたかくのごとくやあるらん。いずれの経にてもおわせ、一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ」(報恩抄 新213-4頁・全294頁)
現代語訳:我等の様な凡夫には、いずれの師であっても、信ずるのであれば不足(不審)が有ってはいけないのです。(従って、人々は、最初に信じた)教えを仰いで、当然である様に思うのですが、そんな事では日蓮自身の疑いは晴れないのです。(何故ならば)世間を見ると、各宗派がおのおの「我が宗こそは」といって力を誇示しようとも、国主というものは、一国に一人であるべきであって、二人になったら、その国土には争乱が起きます。一家に二人の主人がいるならば、必ずその家は滅びてしまいます。一切経もまた、これと同様である筈です。(諸宗所依の多くの経典中)いずれかの一経のみに、一切経の中の真の大王の教えがあるのです。
※信頼に足りる師匠でなければ、我々は附いていけないでしょう。宗教も同様で、普遍妥当性や道理に合うなど科学的根拠が無ければ、信に耐えることはできないのです。
「彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたずらのものなるべし。当時眼前のことわりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草遍妥当性や道理に合うなど科学的根拠が無ければ、信に耐えることはできないのです。のかるるがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。」報恩抄 新257頁・全326頁)
現代語訳:彼(他宗派)の経々は、妙法蓮華経の働きを借りなければ、全て役に立たず、空しい教えになってしまいます。これらの事は、この時代の当然の道理なのです。日蓮が南無妙法蓮華経と唱え弘めることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出ると月が隠れる様に、潮が引いていく様に、秋冬の草が枯れていく様に、氷が太陽の光りで溶けていく様に、(衰えゆく)成り行きを、(はっきりと)見届けなさい。
※科学が発展しゆく時代の趨勢からも、生命尊厳、人間性尊重の哲学である「日蓮仏法」言い換えると「創価思想」が浸透し輝きわたる日を、一日でも早く実現させる為に、私達が率先して行動して行きましょう。
「花は根にかえり、真味は土にとどまる。この功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。」(報恩抄 新262頁・全329頁)
現代語訳:花は咲き終わると根だけが残り、菓は熟して落ちても土にとどまります。この(妙法の)功徳は、故道善房の聖霊の御身に集まるでしょう。
※弟子の手柄を師匠に手向けるのが師匠への恩になるのでしょうが、道善房の妙法信仰への頼りなさに対しても、この御文から、大聖人の師(故道善房)を思う真心、御報恩の深さが感じられます。我々学会員も大いに見習うべきですね。
◎創価学会には、地球民族主義、仏法民主主義、第三文明など、世界平和と人類の幸福につながる創価思想の概念があります。現実的には、人権擁護、核兵器廃絶、環境破壊防止、社会福祉等(つまりSDGs)の活動が中心ですが、青年やこれからの人だけではなく、全創価の人の参入に期待したいですね。
[62]
師匠と我らとの関係 4(撰時抄)
撰時抄における弟子との関係
「仏法を学せん法は、必ずまず時をならうべし」で始まる本抄にも、「師弟不二」の関係が見えましたので、紹介します。
「釈子日蓮述ぶ」(撰時抄 新160頁・全256頁)
現代語訳:釈子である日蓮が、これを記述します。
※日蓮大聖人は、御文の上では本化菩薩の再誕であるとされ、法華経涌出品にある「此等は是れ我が子なり是の世界に依止せり」との文及び妙楽大師の「子、父の法を弘む。世界の益あり」との文により、日蓮大聖人は文証通り真実の釈尊の子、釈子なのです。
また、大聖人及び日興上人の教えを正しく受け継ぐ我等、創価学会員もまた、本門寿量の肝心を修行しているので、皆これ本化の菩薩の眷属に該当します。故に「此等は是れ我が子」の湧出品にあてはまり、私達も真実の釈子となるのです。
「衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは、日本国には一渧一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は、これよりほかに、またもとむることなかれ。」(撰時抄 新205頁・全288頁)
現代語訳:多くの流れが集まって大海となります。わずかの塵が積もって須弥山となります。日蓮が法華経を信じ始めた頃は、日本の国にとっては一つの渧、一つの微塵の様でしたが、法華経を二人・三人・十人・百千万億人と唱え伝えるならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるでしょう。仏に成る道はこれよりも他に求めてはならないのです。
※日蓮仏法つまり創価思想の広宣流布への戦いこそ、成仏得道に繋がるのです。
「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して、この度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。そもそも、この法華経の文に『我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ』。涅槃経に云わく『譬えば、王使のよく談論して方便に巧みなるもの、命を他国に奉るに、むしろ身命を喪うとも、終に王の説くところの言教を匿さざるがごとく、智者もまたしかなり。凡夫の中において身命を惜しまず、かならず【大乗方等の如来秘蔵には、一切衆生に皆仏性有り】と宣説すべし』等云々。」(撰時抄 新210頁・全291頁)
現代語訳:(日蓮が今生に大果報を得なければ、如来の金言は提婆達多の虚つきと同じになり、多宝如来の証明は倶伽利の妄語に異ならない。謗法の一切衆生も阿鼻地獄にはおちないし、三世の諸仏もいない事になってしまいます。)そうであれば、我が弟子よ、試しに法華経に書かれている通りに身命も惜しまず修行して、今回仏法を試してみなさい。そもそも、この法華経勧持品の文には「われ身命をおしまず、ただ無上道を惜しむ」とあります。また涅槃経には「たとえば談論にすぐれ交渉にたくみな王の使いが、王の命令をうけて他国に行った時には、むしろ身命を失っても必ず王から授かった言葉を隠さず述べて、王命を果たす様に、仏法を弘める智者も、同じくいまだ信じない凡夫の中で、身命を惜しまずに、『如来の秘要の蔵である大乗・方等の法門に、一切衆生に皆仏性がある』を説き弘めなさい」等と説かれているのです。
※「一切衆生に皆仏性有り」の大乗の法門つまり日蓮仏法であり創価思想の流布こそが、「神のおぼしめし」で済まし世界に蔓延している一神教の考え方を根底から変革し、世界平和は実現するのです。
「法華経を一切経の頂にありと申すが、法華経の行者にてはあるべきか。しかるをまた、国王に尊重せらるる人々あまたありて「法華経にまさりておわする経々まします」と申す人にせめあい候わん時、かの人は王臣等御帰依あり、法華経の行者は貧道なるゆえに国こぞってこれをいやしみ候わん時、不軽菩薩のごとく賢愛論師がごとく申しつおらば、身命に及ぶべし。これが第一の大事なるべしとみえて候。このことは今の日蓮が身にあたれり。」(撰時抄 新211頁・全292頁)
現代語訳:法華経を一切経の頂にありと言う人こそが、真の法華経の行者というべきではないでしょうか。ところが、国王に尊重せられる邪悪な僧がたくさんいて、「法華経よりも優れている経々がある」と言って、法華経の行者と法論する時に、謗法の僧達は王臣等から帰依されており、法華経の行者は貧道で味方が少ない為、国中の民衆がこぞって、法華経の行者をいやしむ時に、不軽菩薩が二十四文字の法華経をもって折伏した様に、賢愛論師が大慢婆羅門を攻めて勝った様に、強く彼等の謗法を破折するならば、必ず身命に及ぶ大難が起こるでしょう。この難が第一の大事であると判断できます。この事が今の日蓮の身に該当しているのです。
※難があっても、威音王仏の像法時代末の常不軽菩薩や西インドの論師である賢愛論師の行動を上回る弘教を、既に大聖人が体験されているのです。我々も法華経の行者ならば、師匠の大聖人や池田先生に続く行動を示して行きたいですね。
「裸形にして大火に入るはやすし、須弥山を手にとってなげんはやすし、大石を負って大海をわたらんはやすし、日本国にしてこの法門を立てんは大事なるべし云々。霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥にかし顕に助け給わずば、一時一日も安穏なるべしや。」(撰時抄 新211頁・全292頁)
現代語訳:裸の身で大火に入ることは易しく、須弥山を手にとって投げることも易しく、また大石を背負って大海原を渡ったりすることも、なお易しいことです。しかし日本国で勇気を持って、この三大秘法の法門を立てる事は、難事中の難事であり、大事中の大事なのです。霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵天、帝釈、日天、月天、四天王などが守護を約束した御本尊に、冥に加護され顕に救済されていることは明らかです。もしこの守護が無い時には、一時一日も安穏に三大秘法の法門を弘教する事はできないのです。
※私達にとって不可能と思われる諸の行為ですが、それらは易く、日蓮仏法を弘教することは難事であり大事であると仰せです。そして、我々の御本尊への真剣な誓願と行動によって「日本はおろか世界広宣流布は必ずできる」と託されているのです。
◎今回、弟子への直接の御指導ではない御文もありますが、大聖人の御心は池田先生の御心でもあります。今年は「世界青年学会 開幕の年」です。いよいよ、創価学会による世界広宣流布への戦いが開始された、という想いでいっぱいです。
[61]
(発行=24.01.07)
総監に水島日叡、阿部日明は無役に
日蓮正宗が宗務院の部長などの人事を発表
庶務部長は田中導正、布教部長に新井契道
日蓮正宗が十二月二十二日付で総監、宗務院の各部長など以下の人事を発表し
た。
総 監 水島日叡(前教学部長、82歳)
庶務部長 田中導正(前庶務部副部長、67歳)
布教部長 新井契道(前布教部副部長、69歳)
教学部長 宮野審道(前教学部副部長、69歳)
重役は藤本日潤のままだが、前総監の八木日照、前布教部長の阿部日明、前庶
務部長の秋元日高は無役となった。
現在のニセ法主・早瀬日如は昭和十年二月二十六日生まれで、来月八十九歳に
なる。平成十七年十二月に相承無き日顕の後を継いだ。
大願寺時代の日如(義寛)の悪行を良く知っている改革同盟の渡辺雄範住職は、
日如の暴力行為、謗法容認、勤行・唱題を嫌い、酒盛りを好み、身内以外には
極めて無慈悲で冷酷、布教能力も管理・監督能力も全くない等々、大聖人の御
精神を忘れた信心なき懶惰懈怠の姿を厳しく糾弾した。
渡辺住職から指弾された日如の住職失格の姿はニセ法主になってからも変わら
なかったが、年内には座替わりがあるのではないかと言われている。
総監になっても次に登座するとは限らないが、水島日叡は日如に負けず劣らず
の生臭坊主である。
水島は埼玉県所沢市・能安寺の住職で教学部長だが、以前、改革同盟の松岡幹
夫(雄茂)氏との法論に敗れ、徹底的に破折された。
法論は能安寺の客間で行われ、松岡氏が「血脈とは何か」と訊ねると、水島は
「分からない」の一点張り。「では、分からないものを信じているのか?」と
盲信の愚を笑われ、水島は「如来秘密神通之力の秘法だ。それとは別の秘伝が
血脈である」と勝手なことを言い出した。
松岡氏に「それでは四大秘法だ。日蓮正宗の根本義から外れている」と破折さ
れ、沈黙してしまった。
血脈が「分からない」と言う水島が、万一、日如の跡を継いだら、元々、なか
った日蓮正宗の血脈が完全に宗門から雲散霧消(うんさんむしょう)することに
なるだろう。
宮野は日如の説法の原稿を代作
更に、松岡氏に女性講員との不倫疑惑まで追及された水島は、初めのうちは鷹
揚な感じであったが、途中からはシドロモドロになり、最後は取り乱して大声
を上げていた。
こんな無知・無能で極悪非道の坊主が総監とは、日蓮正宗には人材が枯渇して
いる証しで滑稽の極みだ。
布教部長になった新井契道は折伏も出来ないのに、池袋の法道院に折伏指導と
称して来ていたことがある。
かつて、新井が法道院で「日蓮正宗の信仰は七百年間、何一つ変わらない」と
言っていた時、学会の白ゆり長に「随方毘尼(ずいほうびに)と言う言葉があ
ります。仏法の根本法理に違わない限り、その国、その時代の習慣、風習を尊
重し、変える必要があるものは変えても良いのではありませんか」と言われて、
言葉を詰まらせていた。
また、教学部長に就任した宮野審道は、教学が苦手な日如の説法の原稿を代作
していると言われている。
[60]
(発行=24.01.05)
参詣者も少なく低迷する日蓮正宗
日蓮正宗が宗務院の部長などの人事を発表
やはり「八十万体勢」達成は法螺だ
賑わいを取り戻した令和六年の全国各地の神社仏閣では多くの参拝者が見ら
れた。なかでも明治神宮(東京)、成田山新勝寺(千葉)、川崎大師(神奈川
)、伏見稲荷大社(京都)、鶴岡八幡宮(神奈川)、浅草寺(東京)、熱田神
宮(愛知)、住吉大社(大阪)、太宰府天満宮(福岡)などが参拝者数で上位
を占め、推定で二百数十万人から三百万人と言われている。
参詣者が多いのは神社だが、日蓮宗の池上本門寺(東京)の初詣の人数は十
五万人前後とのことで、千葉県の中山法華経寺も多くの参詣者が見られた。
これに比べると、大石寺の元旦勤行の参加者は僅か二千人ほどで、宗門が日
頃から「邪宗」と批判している他宗の足元にも及ばない弱小の山寺であること
が分かる。また、日蓮正宗の全国の末寺の参詣者は、いずれも例年並みの少数
だった。
末寺の元朝勤行の参加者について、法華講連合会の有力筋、及び宗門の複数
の関係者の話によると、元旦勤行を実施できなかった末寺が約百ケ寺で、実施
した末寺は昨年よりも五ケ寺ほど増えて489ケ寺だったが、どの寺も参詣者
は殆んど増加していなかったと、嘆いていた。
特に、重役の藤本日潤がいる常泉寺(東京)、細井玉道の大宣寺(東京)、茨木
市の安住寺、青森市の専妙寺、また、平成二十四年十二月に火災を起こして木
造平屋の本堂と庫裏(住居部分)を合わせて約三百平方メートルを全焼した高知
県南国市の延寿寺など幾つもの末寺で、参詣者が減ったということである。
日如は自分が打ち出した二〇二一年迄に八十万体勢構築という無謀な目標を
達成したと法螺(ほら)を吹き、慶祝記念局は「法華講員八十万達成の件」と題
する通達を出して「日本国内五百九十六カ寺(支部)所属法華講員の総計が八十
万人を超え、平成二十一年七月の七万五千名大結集総会にて賜った『八十万人
体勢構築』の御命題を達成いたしました」と発表した。
だが、八十万人も法華講員がいるという感じは全くなかった。宗門側の発表
は、戦時中の大本営発表と同様の〝真っ赤なウソ〟だったことが、今年の元朝
勤行の参加者数が裏付けている。
宗門は昨年一月から布教区別での折伏推進僧俗指導会を繰り返し実施していた
が、目標を達成した末寺は僅か一%程度に過ぎなかったということだ。
衰退が始まる顕正会
元旦勤行の参加者が増えていないのは邪教・顕正会も同じだった。
同会は昨年十一月末までに247万を達成したと喧伝しているが、昨年十月、
会長の浅井昭衛が死亡したことにより、早くも衰退が始まったと見る向きもあ
る。
同会は世襲制で長男の克衛が消息不明のため、次男で会内でも評価が低いと言
われている城衛が会長を継いだ。
この城衛が総幹部会、及び今年の「年頭の辞」で、学会に対して誹謗中傷を繰
り返して、所願満足、安心立命のお姿だった名誉会長のことを悪臨終だと悪口
を述べている。
何の根拠もなく憶測で人の臨終を誹謗すること自体、重大な名誉毀損である。
[59]
師匠と我らとの関係 3(開目抄 後)
開目抄における弟子への叱咤激励 後編
今回の開目抄下には、男子部時代、皆で暗誦した有名な御文も含まれています。
「地涌千界の大菩薩、大地より出来せり。釈尊に第一の御弟子とおぼしき普賢・文殊等にもにるべくもなし。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集せる大菩薩、大日経等の金剛薩埵等の十六大菩薩なんども、この菩薩に対当すれば、獼猴の群がる中に帝釈の来り給うがごとし。山人に月卿等のまじわれるにことならず。補処の弥勒すら、なお迷惑せり。いかにいわんや、その已下をや。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行なり。」(開目抄下 新84頁・全211頁)
現代語訳:地涌千界の大菩薩が大地より出来しました。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならないのです。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩等も、この地涌の菩薩に比べると、猿の群がっている中に帝釈天が来た様なものです。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人が交わっているのと同様でした。釈迦仏の後を嗣ぐといわれた弥勒ですら、なお地涌の菩薩の出現に惑われたのです。それ以下の者の驚きと当惑は非常なものでした。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がおられました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられたのです。
※突然の地涌千界の大菩薩の出現に、釈尊の本弟子と思われていた菩薩達も驚天動地の心境だったのでしょうね。「我々は、地涌の菩薩の眷属の一員である」との使命を証明していかなければならないのです。
「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじぬらん。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし」(開目抄下 新102頁・全223頁)
現代語訳:日蓮という者は、去年の九月十二日子丑の時に首をはねられました。(即ち凡夫の肉身は刑場竜の口において切断され)魂魄は(久遠元初の自受用報身如来として顕われ)佐渡の国に来て、翌年の二月、雪深い国より「開目抄」を著述し、鎌倉方面の有縁の弟子へ送るのですが、(この御抄を拝する弟子達は、濁劫悪世に法華経を弘通する大難を思って)怖じけ恐れるでしょう。しかし(日蓮は『我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ』法華経の行者ですので)何ひとつ恐れるものではないのです。(日蓮と同じく広宣流布の決意をかたく持っている)者は、絶対に恐怖が無いのです。(『身命を愛せず』の志を決定していない者)皆は、(この御抄を拝してどれほど)怖れることでしょう。これは釈迦・多宝・十方の諸仏が、(法華経で『未来に』予言された三類の強敵を、日蓮が一身に受けて末法の弘通と大難を実証しています。即ち日蓮の行動は)日本国の当世を映し出す明鏡なのです。(故に、勧持品の予言が日蓮の事であり)開目抄こそ日蓮の形見として見ていきなさい。
※本書において大聖人が、大難を乗り越え妙法を弘通されておられた事例から、開目抄は人本尊開顕の書とされていますが、この御文もそれを証明されているのです。
「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(開目抄下 新117頁・全234頁)
現代語訳:私も私の弟子も、いかなる難があっても疑う心が無ければ、自然に仏界に至るのです。天の加護が無いからといって信仰を疑ってはいけません。現世が安穏でないからといって嘆いてはいけません。私の弟子に朝に夕に教えてきたのに、疑いを起こして、全員法華経を捨ててしまうでしょう。弱き愚かな者の常として、約束した事を重要な時に忘れてしまうのです。
※後世の人に、「創価学会員は弱き愚かな弟子だった」と笑われる事の無い様に、我々は如何なる難が押し寄せて来てもしっかりと行動しなければなりません。
「涅槃経に云わく『もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり』等云々。『仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、これ彼が怨なり。能く糾治せんは、これ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり。能く呵責せんは、これ我が弟子なり。駆遣せざらんは、仏法の中の怨なり』等云々。」(開目抄下 新120頁・全236頁)
現代語訳:涅槃経に「もし善比丘が法を破るものを見て、そのまま放置して呵責(かしゃく:𠮟り責めること)し、駈遣(くけん:追い払うこと)し、挙処(こしょ:罪過をあげて救糾明し処断すること)をしないならば、まさに知りなさい、この人は仏法中の怨敵です。もしよく駈遣し、呵責し、挙処するならば、これこそわが弟子であり、真の声聞である」と述べられています。また章安大師は涅槃経の疏に「仏法を壊り乱すものは仏法中の怨である。相手の謗法を知りながら、それを諌めるほどの慈悲心もなくて、詐り親しむ者は相手にとって怨である。よく相手の過誤を糾治(糾罪治罰の略で、罪を調べ糾弾し法に依って罰すること)するのが護法の声聞であり、真の我が弟子なのです。彼のために彼の悪い点をのぞき、改めさせることは彼の親である。よく相手の悪を呵責する者はこれこそ仏弟子であり、駈遣しないで放って置く者は仏法中の怨である」と諫めています。
※先師の御文にも「仏法を破壊する人、破壊を見て諫めない人は、仏法の敵であり、その過誤を糾治するのが、仏弟子である」と仰せであり、創価学会員の我々も弟子であるならば、真の生命尊厳の哲学を弘めて世界の身勝手な紛争を留めるべく行動しなければなりません。
「ここに弥勒等の大菩薩、大いに疑いおもう。華厳経の時、法慧等の無量の大菩薩あつまる。いかなる人々なるらんとおもえば、『我が善知識なり』とおおせられしかば、さもやとうちおもいき。その後の大宝坊・白鷺池等の来会の大菩薩もしかのごとし。この大菩薩は彼らにはにるべくもなき、ふりたりげにまします。定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを、『初めて道心を発さしむ』とて、『幼稚のものどもなりしを教化して弟子となせり』なんどおおせあれば、大いなる疑いなるべし。」(開目抄下 新86頁・全212頁)
現代語訳:ここ(釈尊が遠い昔から教化してきたという地涌の大菩薩の出現)において、弥勒等の大菩薩が、大いに疑いを持ちました。華厳経の時には法慧等の無量の大菩薩が集まりました。いかなる人々なのかと思った時に、仏は「わが善知識(仏道に善導する事物)である」と仰せられたので「そうかもしれない」と思いました。その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識である様に思いました。この地涌の菩薩達は、彼らには似ても似つかぬ古くて尊げに見えます。きっと釈尊のご師匠ではないかなどと思われたのに「初めて道心をおこさせた」と説いて、「かつては幼稚な者であったが、教化して弟子とした」等と仰せられたので、大いに疑問を持ったのです。
※弥勒菩薩等の大菩薩でさえも、地涌の大菩薩の出現に懐疑的になったのと同様に、現在の多くの人々も創価学会の尊き使命に懐疑的なのです。無教養だけではなく、病弱や貧乏であった我々創価学会員が懸命に人間革命する姿から、創価学会員は地涌の菩薩の眷属(一族)なのだ、と称賛される様に弘教拡大に励んでいきましょう。
◎開目抄には、まだ多くの「師匠と弟子の関係」を述べられていますが、割愛しました。お許しいただくと共にご自身でお調べくださいね。
[58]
師匠と我らとの関係 2(開目抄 前)
開目抄における弟子への叱咤激励 前編
「師匠と弟子との関係」の記述が、最も多い人本尊開顕の書・開目抄の御文を紹介します。
「外典三千余巻の所詮に二つあり。いわゆる、孝と忠となり。忠もまた孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり。天高けれども、孝よりも高からず。また孝とは厚なり。地あつけれども、孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。いかにいわんや、仏法を学せん人、知恩・報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩・報恩をいたすべし」(開目抄上 新58頁・全191-2頁)
現代語訳:外典三千余巻の教の中に、道徳の根本が二つあります。いわゆる孝行と忠義です。忠もまた孝の家より出でたのです。孝と云えば高であり、天も高いけれども孝よりは高くありません、また孝とは厚であり、大地は厚いけれども孝より厚くありません。聖人・賢人といわれる二類の人は孝の家より出ています。ましてや仏法を学する人は、恩を知り恩を報じなければならないしょう。仏弟子は、必ず四恩(4種の恩で、父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩のこと)を知って知恩報恩を行うべきなのです。
※仏弟子である我々創価学会員は、自身に関わった全ての人に知恩報恩の誠を尽くすべきだと大聖人が、また池田先生が、仰せなのです。自らの誠意ある行動から強い信頼関係が生まれ育てられるのです。
「後八年の法華経にたちまちに悔い還して、二乗作仏すべしと仏陀とかせ給わんに、人天大会、信仰をなすべしや。用いるべからざる上、先後の経々に疑網をなし、五十余年の説教、皆虚妄の説となりなん。されば、「四十余年にはいまだ真実を顕さず」等の経文はあらまさせか、「天魔の仏陀と現じて、後八年の経をばとかせ給うか」と疑網するところに、げにげにしげに劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ、劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給えば、教主釈尊の御語すでに二言になりぬ。自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲いしことこれなり」(開目抄上 新61頁・全193-4頁)
現代語訳:(法華経以前の諸大乗経においては、二乗は絶対に成仏しないと説き続けてきたのですが、)後八年の法華経に来て、たちまち説相を変えて「二乗は作仏する」と仏が説かれたのを聞いて、人天大会(だいえ:大衆が集まり仏が説法する会座や法会のこと)の大衆がどうして信仰できるでしょうか。(その様な説法は)用いることができない上に、先後の経の仏説とが完全に相違しているところから疑いを生じて、一代五十余年の説教もことごとく虚妄の説となってしまうでしょう。だから「四十余年には未だ真実をあらわさず、法華経において正直に方便を捨てて但無上道を説くのである」等の説法があったのです。しかし大衆は、天魔が仏に現じて法華経を説き出したのではないか、と疑っているところに、さも本当らしく、劫・国・名号と申して、二乗が成仏するその国を定め、劫を記し、所化の弟子などまで定めたので、教主釈尊の御語は既に二言となったのです。「自語相違」と申すは、この事です。外道が、(釈迦仏は「二乗が仏にならない」と説き、次に「仏になる」と説くのだから)大妄語の人であると笑ったのは、この事なのです。
※仏法の本質は「一切衆生の成仏」にあるのです。現在も同様に、仏法を知らない人は、「神のお告げ」「神の意志による」等を信じ、安易にニセ情報に飛び付きやすいのです。我々は、理を尽くして根気よく日蓮仏法の教義を説明していかなければなりません。
「既に二十余年が間この法門を申すに、日々・月々・年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくおく。王難すでに二度におよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ。その上、弟子といい、檀那といい、わずかの聴聞の俗人なんど来って重科に行わる。謀反なんどの者のごとし」(開目抄上 新70頁・全200-1頁)
現代語訳:すでに日蓮が、建長五年以来二十余年の間、この法門を説法すると、日日・月月・年年に難が重なって来ています。(悪口や瓦石を投げられ、杖木で打たれる等の)少々の難は数知れず,大きな難が四度(第一は松葉ケ谷の法難、第二は伊豆流罪、第三は小松原の法難、第四は竜の口の法難)あり、そのうち二度(伊豆流罪と佐渡流罪)は王難で遠島に追放流罪されたのです。今回は既に我が身命に及んでいます。その上、弟子も檀那もいうにおよばず、わずかに聴聞した俗人等でさえも捉えられて重罪に処されるのは、謀反人などに対して行われる刑罰と同様なのです。
※大聖人御在世当時は、弟子に対する法難も激しくあり、妙法を弘教するには、尋常ではない大きな覚悟が必要だったのですね。しかしながら、民主的国家となった現代日本においては、誰人も信仰の自由と共に人権が保障されているのです。私は、自己の人間性を啓発し、全ての人の幸福を探求し、そして世界平和を希求する、この日蓮仏法こそが絶対的正義であると主張するのです。
◎2024年は、「世界青年学会 開幕の年」です。弘教拡大が中心となる事は間違いないのですが、常軌を逸した強引な折伏は逆に法を下げることになるので注意しましょう。
[57]
(発行=23.12.25)
「僧侶主導の広宣流布」は大失敗
過去の五十%増も八十万構築も全て未達成
今年の常在寺の成果は目標の約二割
日蓮正宗は「折伏躍動の年」と銘打った本年も折伏誓願は最悪の低迷ぶりを
露呈した。十二月度の広布唱題会で、早瀬日如が「講中一結・異体同心し、師
子奮迅力をもって大折伏戦を展開し、もって必ず本年度の折伏誓願を達成され」
等々と檄を飛ばしていたが、所詮は空念仏で、何の効果もなかった。
布教部長の阿部日明のいる常在寺(東京・南池袋)の今年の成果は、法華講員
によると「目標の四七五に対して、二十日現在で二割と少しです」とのことだ。
布教部長の寺が、こんな情けない醜態だから他は推して知るべし。誓願目標
を達成した末寺も幾つか有るようだが、それは目標が低い支部である。
以前、日如が打ち出した二〇一五年(平成二十七年)に法華講員五十%増、
二〇二一年(同三十三年)迄に八十万体制構築という無謀な目標に各末寺の法
華講支部は悪戦苦闘した。
日如は達成したかのように帳尻を合わせて取り繕っていたが、実際は未達成
に終わったのである。
その証拠に〝幽霊講員〟が増えた成果は、御講の参詣者や登山者の増加には
結びついていない。
学会による在家
主導で広布進展
戦後、宗門は困窮して、五重塔や御影堂などの建物は雨漏り、食べ物もなか
った。僧は布教活動をしない、法華講員は勤行が出来ない、折伏も御供養も登
山もしない。
こんな実情を見た創価学会が、これでは広宣流布は出来ないと、決然と立ち
上がり、歴代会長の指導の下、会員一人一人が勤行・唱題に励み、御書を研鑽
し、折伏を実践してきた。
特に、第三代会長の池田先生が全世界に妙法の種を植えたことにより、今で
は日蓮大聖人の仏法は世界宗教となって百九十二か国・地域で花開いている。
大聖人の立宗以来、誰も成し得なかった大偉業である。
池田先生の偉業について六十六世日達法主は「四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大
将として広宣流布に進軍しております」と絶賛。この学会に宗門は全て依存し
ていたが、平成二年末に起こった第二次宗門事件で、狂乱した日顕が同三年十
一月、学会を破門した。
そして学会に依存できなくなった宗門は「僧侶主導の広宣流布」と言いなが
ら、坊主が率先して布教するのではなく、軟弱な法華講に依存している。「僧
侶主導」というのは大聖人、日興上人のように坊主が布教の最前線で戦うこと
であろう。
ところが、相変わらず、外部に向かって法を説けるような布教師は皆無であ
る。
今の布教師は本山での行事の際、布教講演で〝十年一日〟のような話でお茶
を濁し、御講での末寺坊主も法華講員に話をしているが、信心の歓喜と確信を
呼び起こすような内容ではない。
折伏推進僧俗指導会では折伏をした体験のない坊主が観念論を述べているだ
けで、参加者は「馬の耳に念仏」と聞き流している。
坊主自らが折伏を実践し、その体験を語ることもせず、日如のように檄を飛
ばすだけでは講員も折伏する気が起こらないのは当然だ。
やがて無能坊主と不信心の檀家だけの「日蓮小宗」となり、発展は望めない。
[55]
師匠と我らとの関係 1(観心本尊抄)
信仰上の師匠は、当然御本仏であられる日蓮大聖人ですが、人生の先輩であり実質的師匠なのは、私にとって創価学会第三代会長池田大作先生なのです。
大聖人の御文では、師匠日蓮大聖人と我々門下の関係を述べておられますが、勝手に敷衍して述べさせて頂くと、これは現代の池田先生と我ら創価学会員の関係にも相当するとも考えられます。
観心本尊抄における弟子との関係
法本尊開顕の書とされる観心本尊抄に「仏と弟子の関係」を述べておられるので紹介します。
「夫れ、文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子、観音は西方無量寿仏の弟子、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子、普賢菩薩は宝威仏の弟子なり。一往、釈尊の行化を扶けんがために娑婆世界に来入す。また爾前・迹門の菩薩なり。本法所持の人にあらざれば、末法の弘法に足らざるものか」(観心本尊抄 新142頁・全251頁)
現代語訳:いったい(法華経を初め諸経に出て釈迦仏の説法を助けている大菩薩を見ると)文殊師利菩薩は東方の金色世界にいる不動仏(不動智仏)の弟子であり、観音菩薩は西方の世界にいる無量寿仏(阿弥陀仏)の弟子であり、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子であり、普賢菩薩は宝威仏の弟子であると云われています。これらの諸菩薩は一往釈尊の行化を扶けるために娑婆世界へ来ているのであって、また爾前迹門に活躍する菩薩なのです。本法たる妙法五字を持っていないのだから、末法に法を弘め衆生を化導する能力がないのでしょう。
※迹仏の弟子だった迹化の菩薩では、末法の衆生を救済できないと仰せなのです。
「今、末法の初め、小をもって大を打ち、権をもって実を破し、東西共にこれを失い、天地顚倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天その国を棄ててこれを守護せず。この時、地涌の菩薩始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字のみをもって幼稚に服せしむ。「謗に因って悪に堕つれば、必ず因って益を得」とは、これなり。我が弟子、これを惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来らず、双林最後にも訪わず。不孝の失これ有り。迹門の十四品にも来らず、本門の六品には座を立つ。ただ八品の間にのみ来還せり。かくのごとき高貴の大菩薩、三仏に約束してこれを受持す。末法の初めに出でたまわざるべきか。当に知るべし、この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(観心本尊抄 新145頁・全253-4頁)
現代語訳:今末法の初めに入って小乗をもって大乗を打ち、権教をもって実教を破り、(東を西といい西を東といって)東西ともにこれを失し、天地が顚倒します(大混乱の時代となっています)。(像法時代に正法を弘めた)迹化の四依の菩薩は既に隠れて出現せず、諸天善神はこの様な謗法の国を捨て去り守護しておられない。この時に地涌の菩薩が初めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字だけをもって幼稚な衆生に服させるのです。妙楽大師が「謗ずる因によって悪に堕ち、必ずその因縁によって大利益を得る」とありますが、意味(末代幼稚の邪智謗法の衆生は初めて妙法五字の大良薬を与えられてもこれを信じられず、誹謗して悪道に堕ち、それが因となり下種となって、即身成仏の大良薬を服する事ができる)は、これなのです。我が弟子達は、この事をよく考えなさい。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子です。なのに、(釈迦仏が成道して初めて説いた)寂滅道場の華厳経の時も来ていないし、双林での最後(の説法たる涅槃経)の時も訪れていないのです。これは実に不孝の失というべきでしょう。(法華経においても)迹門の十四品には来ないで、本門でも(薬王品第二十三以後の)六品には座を立っています。ただ(釈尊五十年の説法中、法華経本門の涌出品から嘱累品までの)八品の間だけ来還しているに過ぎないのです。この様な高貴の大菩薩が釈迦多宝分身の三仏に約束して妙法五字を譲り与えられ受持しているのです。どうして末法の初めに出現しないことがあるでしょうか、必ず出現するのです。まさに認識しなさい。この四菩薩は折伏を現ずる時には賢王と成って力を以って愚王を責め誡しめ、摂受を行ずる時は聖僧と成って正法を弘持するのです。
※現代的に言えば、賢王とは良識ある社会的実力者(報道マンや政治家・実業家等)が該当し、聖僧とは社会活動家・思想家や学者・教育者等の常識豊かな識者が適任でしょう。結果的に生命尊厳の哲学を持つ全ての創価学会関係者の事ではないかと考えられます。世界平和は、四大菩薩を代表とする地涌千界の菩薩つまりSGI会員こそが、予言とも云える大聖人の御心を実現させる事ができるのではないでしょうか。
◎池田先生が、去る2023年11月15日に、ご逝去されました。この報に接し、深い悲しみで一杯です。私も、池田先生より直接的及び間接的に多くの指導を頂き、感謝に堪えません。
今回、誰もが「師匠と弟子との関係」の重要性を改めて意識されているのではないでしょうか。
[54]
創価学会は出家・在家の両方に通じる「法師」の「大乗教団」
〝無関係の団体〟と言いながら創価学会に執着する日蓮正宗
●〝無関係の団体〟に許可を求める非常識な宗門
1991 年11 月28 日、日蓮正宗が創価学会に「破門通告書」を送り付けた。宗門はこの「破
門」について「創価学会は、日蓮正宗と全く関係の無い団体となりました」と説明している。
ところが、宗門は創価学会が御本尊の授与を始めると、「法主の許可がない」と言い出し
た。宗門の信徒であれば、許可は必要であろうが、宗門の言う通り、創価学会は宗門と無関
係であるから、宗門の許可など不要である。常識で考えれば分かることだ。
また、2014 年に創価学会が「会則」の「教義条項」を改正した際には、宗門は「ともあ
れ創価学会は、いわゆる〝しがらみ〟から解放されて、思うがままに自由放逸の活動が許さ
れることになったのであるから」(『「会則」改変の欺瞞を糾す』日蓮正宗教学部)と創価学
会の独立性を認めながら、長々と難癖を書き連ねている。
創価学会の御本尊授与や「教義条項」の改正に、いまさら宗門が口を出す権利などない。
〝無関係の団体〟と言いながら、何十年も経て創価学会に口出ししてくる日蓮正宗はまるで
「ストーカー」まがいの集団である。
●御書に説かれていない、根拠なき邪義で信徒をだまそうとする体質は変わらない
創価学会の御本尊授与がよほど悔しかったのか、宗門は〝御本尊に開眼が必要だ〟と言い
始めた。しかし、戦後の宗門では東京の末寺が有縁の法主の御形木本尊を授与していたが、
本山が関わることはなく、開眼の儀式など行っていない。
そもそも御書には御本尊を開眼することについては全く述べられていない。大聖人は、「法
華経の題目は一切経の神(たましい)、一切経の眼目なり」(曽谷殿御返事)と仰せである。
御本尊は仏の「眼目」そのものであり、「眼を開く」必要も、「魂を入れる」必要もない。あ
いもかわらず、御書にもない根拠なき邪義で、信徒を騙そうとしているのだ。
●「破門」以前の創価学会の指導を引用する宗門は、学会に未練があるのか
いまだに宗門は、破門以前の創価学会の指導を引用して、〝昔はこのように言っていたの
に〟と批判してくる。破門以前の創価学会は宗門を外護する立場にあったのだから、宗門を
擁護する指導をしていたのは当たり前である。そのように仕向けていたのは宗門であり、学
会は逆らえない立場であった。今、宗門のやっていることは、自分の責任で離婚した元夫が
〝昔は愛していると言っていたのに〟と、未練たらたら執着しているようなものである。
●宗門が学会に執着する理由──信徒の自立を認めれば、宗門の存在価値はなくなる
破門をして32 年経っても、宗門が創価学会に執着する理由は、一つには学会員を盗み取
るためである。一般の人を折伏するよりも、信心を理解している学会員を盗み取るほうが簡
単だと考えているのだろう。しかし、実際には大聖人の仏法を正しく学んでいる者が、時代
錯誤の僧俗差別が染みついて信徒を見下すような教団などに入ることはない。
宗門が創価学会に執着するもう一つの理由は、信徒が自立することを許せないからだ。も
し、信徒の自立を認めれば〝衣の権威〟が失われ、僧侶の存在価値がなくなってしまう。宗
門にとって、信徒は絶対服従の存在でなければならない。僧侶に意見を言うなど、断じて認
めるわけにはいかない。だから、宗門から離れた信徒が幸福になることは許せないし、信徒
が御本尊授与をしたり、教義を変えることなどあってはならないことだと考えているのだ。
●信心の修行では創価学会員に敵わない宗門の僧侶たち
大乗仏教では出家と在家は、仏陀となることを目指す「菩薩」として同一視される。在家
の菩薩も出家の菩薩と同様の修行をして仏道に向かう、「宗教改革」と呼べる運動であった。
この大乗の精神が明確に説かれているのが「法華経法師品第10」である。「法師」とはサ
ンスクリット語では「教えを説く者」となり、「如説修行」の人であり、「五種の妙行」(受
持、読、誦、解説、書写)を実践する出家・在家である。
実際に宗門の僧侶と学会員の修行に変わりはない。しかし、宗門の僧侶は折伏の実践にお
いて学会員に敵わないし、教学においても僧侶より学会員が優秀である。袈裟・衣を着てい
ても、信心の実践では学会員には及ばないのが実態である。信心では敵わないから、彼らは
僧俗差別を持ち出し、出家の優位を主張するが、大聖人の仏法を研鑽している学会員を欺く
ことはできない。
●勧持品に説かれる「悪比丘」と同じく、「法師」を迫害する宗門の僧侶たち
今月、創価学会は創立記念日に『創価学会教学要綱』を発刊した。創価学会が日蓮仏法の
唯一の正統な教団であることを明確に示すための書とされている。おそらく、創価学会に執
着する宗門はまた、難癖をつけてくるであろう。それは「法華経勧持品第13」に説かれる
通りである。
三類の強敵が説かれる「二十行の偈」は、悪心を懐く「比丘等」が法華経を説く者たちを
「自ら此の経典を作って世間の人を誑惑す」と言って迫害してくると説く。宗門も創価学会
の「御書根本」「大聖人直結」の教義を〝大聖人の仏法ではない〟と批判している。
宗門の僧侶らは〝信徒の分際で〟と嫉妬の感情で、創価学会のやることをすべて否定しよ
うとするが、学会は単なる信徒の団体ではない。昭和52 年1 月15 日、池田会長(当時)
は教学部大会で「仏教史観を語る」と題して記念講演を行い、「法師品」を通して「現代に
おいて創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」と語られた。
まさに、創価学会は、在家、出家の両方に通じる「法師」の「大乗教団(サンガ)」なの
である。三宝の僧宝の原義は教団を意味する「サンガ」であるから、師弟の道を貫いた日興
上人を模範とする創価学会こそ僧宝である。そのことを受け入れられない宗門は、大乗の精
神に反する慢心の「悪比丘」に他ならないことを自ら証明するものである。(以上)
[53]
日蓮仏法の私なりの解釈 10(仏法と病の関係 6<終>)
病克服から始まった仏法の真の目的
「仏法と病の関係」最終の今回は、法華経に説かれ大聖人が説明されている「仏法の真の目的」についてです。
「寿量品に云わく「この好き良薬を、今留めてここに在く」等云々。文の心は、上は過去のことを説くに似たるようなれども、この文をもってこれを案ずるに、滅後をもって本となす。まず先例を引くなり。分別功徳品に云わく「悪世末法の時」等云々。神力品に云わく「仏滅度して後に、能くこの経を持たんをもっての故に、諸仏は皆歓喜して、無量の神力を現じたもう」等云々。薬王品に云わく「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなけん」等云々。また云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり」等云々。涅槃経に云わく「譬えば、七子あり、父母平等ならざるにあらざれども、しかも病者において心即ちひとえに重きがごとし」等云々。七子の中の第一・第二は、一闡提・謗法の衆生なり。諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり」(法華取要抄 新154-5頁・全335頁)
現代語訳:寿量品には「是の好き良薬を、今留めてここにおく」等と説かれています。寿量品において、この経文の(前文に説かれた広開近顕遠の)内容は、過去の事を説いた様に見えるけれども、この経文をもって考えてみると、釈尊の滅後を本意としているのです。これはまず過去の例を引いたのです。分別功徳品に云く「悪世末法の時」等とあります。神力品には「仏の滅度の後でもよく法華経を持ったので、諸の仏は皆歓喜して無量の神力を現わされるのである」等とあります。薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳のうちに法華経を広宣流布して、閻浮提において断絶させることがあってはならない」等とあり、更に「この経はすなわち閻浮提(全世界)の人の病の良薬である」等とあります。涅槃経には「たとえれば、七人の子がいる。父母は七人の子に対して平等でないことはないけれども、病気の子に対しては特に重く心をかけるのです」等とあります。七子の中の第一番と第二番は、一闡提(仏法不信の者)と謗法の衆生です。諸々の病の中では法華経を謗るのが第一の重病なのです。諸薬の中で南無妙法蓮華経こそが第一の良薬なのです。
※「広開近顕遠」とは「広く近(近成:始成正覚)を開いて遠(遠寿:久遠実成)を顕す」と読み、法華経寿量品で釈尊自身の成道が久遠にある事を説き明かした言葉。(詳細は別掲)此処でも、南無妙法蓮華経が第一の良薬である、と仰せなのです。第一の重病は謗法の人との事なので、そうはさせない様に、丁寧に説明する対話活動(これ自体が仏法による治療)により、仏法を弘めていく事が必要です。
「一生に証徳するが故に、一生妙覚と云う。義を知らざる人なれども、唱うれば、ただ仏と仏とのみ悦び給う。『我は即ち歓喜す。諸仏もまたしかなり』云々。百千合わせたる薬も口にのまざれば病愈えず、蔵に宝を持てども開くことをしらずしてかつえ、懐に薬を持っても飲**とをしらずして死するがごとし。如意宝珠という玉は、五百弟子品のこの経の徳もまたかくのごとし」(一念三千法門 新364頁・全416頁)
現代語訳:(凡夫がその身のままで仏になる即身成仏は)一生の間に証得(正しい智慧により真実の理を悟ること)するので一生妙覚(一生入妙覚の略で、一生の間に妙覚という仏の位に入ること、一生成仏と同義)と言います。その意義を知らない人であっても、南無妙法蓮華経と唱えれば、ただ仏と仏のみが(理解を共有して)喜ばれるのです。法華経見宝塔品に「我すなわち歓喜する。諸仏もまたそうである」とあります。百千の種類を合わせた良薬も口に飲まなければ病は愈えません。蔵に宝を持っていても開くことを知らないで飢え、懐に薬を持っていても飲むことを知らないで死ぬ様なものです。如意(意のままに何でも取り出せる)宝珠という玉は、法華経五百弟子受記品に説かれていますが、この法華経の功徳もまた、これと同じなのです。
※幾多の良薬を所持していても服用しなければ、病気は癒えないのと同様に、仏法の功徳も仏道修行しなければ得られないのです。五百弟子受記品では、釈尊が多くの下根の声聞を順次授記(「成仏する」との確約を授けること)しますが、加えて五百人の声聞に普明如来という同一名号で同時に授記しています。
「妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり。これを思い遣る時んば満足なり。『満足』とは、成仏ということなり。釈に云わく『円は円融円満に名づけ、頓は頓極頓足に名づく』、これを思うべし云々」(御義口伝上 新1004頁・全720頁)
現代語訳:妙法の大良薬をもって、一切衆生の根本の迷いの大病を治療する(不幸の根源を除き去り、幸福境涯に住せしめる)ことは、疑いないのです。これを思いやる時に(大聖人の所願は)満足されたのです。(衆生に約していえば)満足とは成仏ということです。釈には「円とは円融円満(円融は互いに妨げることなく融合し一体となっていること、円満は欠落することなく満ち足りていること)から名づけ、頓とは頓極頓足(頓:すみやかに、頓に極果を得、頓に仏果を具足すること、即身成仏・速疾頓成と同意)から名づける」とあり、これをよく考えるべきです。
※妙法の良薬は、一切衆生を成仏させる事(その為の弘教であり、生命尊厳思想の拡大)にあり、大聖人はそれを願われておられるのです。
「普賢経に法華経の肝心を説いて候。『煩悩を断ぜず、五欲を離れず』等云々。天台大師の摩訶止観に云わく『煩悩即菩提・生死即涅槃』等云々。竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれていみじきようを釈して云わく『譬えば、大薬師の能く毒を変じて薬となすがごとし』等云々。『小薬師は薬をもって病を治す。大医は大毒をもって大重病を治す』等云々」(四条金吾殿御返事 新1606頁・全1184頁)
現代語訳:普賢経に法華経の大事な心を説いて「煩悩を断じない、五欲を離れない」とあります。天台大師の摩訶止観には「煩悩がそのまま菩提となり、生死がそのまま涅槃の境界となる」とあります。また竜樹菩薩の大論には法華経が一代諸経に勝れていることを解釈して「たとえば、大薬師がよく毒を変えて薬とする様なものである」といわれています。その意は、「小薬師は薬を使って病を治すが、大医は大毒を以って大重病を治す」ということです。
※法華経即ち日蓮仏法では、煩悩や五欲を断捨離しなくても、「煩悩則菩提」とある様に、大医・大薬師である仏は、患者であった一切衆生の仏性を覚醒させ「大変毒為薬」する事で、一切衆生を成仏させる事にあるのですね。
◎仏法では、病気の発症も人生における難事も全て自己形成(人間革命)の為にあり、つまり教主釈尊の出世の本懐とされる「人の振る舞い」であり、仏法用語で「成仏」の事なのです。
加えて、御本仏である日蓮大聖人が、
「この経は、悪人・女人・二乗・闡提を簡わず。故に、「皆成仏道」とも云い、また『平等大慧』とも云う」(一念三千法門 新363-4頁・全416頁)
現代語訳:この法華経(つまり仏法)は、悪人や女人や二乗(声聞と縁覚)や闡提(因果の道理を信じないで善根を断った人)を差別しないのです。だから皆成仏道(皆、仏道を成ず)ともいい、平等大慧(一切の衆生を平等に救済する仏の広大な智慧)ともいうのです。
と、仰せの通り、日蓮仏法は全ての人々に平等であり、対等なのです。
一方、一神教では、神(正義の覇者:神は偉大なり)の存在を認めれば、敵対する存在は悪魔(邪悪の執行者)として認めざるを得ず、聖戦(ジハザード)の為の争いが絶えません。
そこで大聖人は、
「総じて、日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり。しかも、今、日蓮が弘通するところの所詮これなり。もししからば、広宣流布の大願も叶うべきものか」(生死一大事血脈抄 新1775頁・全1337頁)
現代語訳:全体として日蓮の弟子檀那等が、自分と他人、彼と此れとの隔てなく水と魚の様に密接な思いで、異体同心(それぞれ身体は異なっても心は同じ団結の姿)に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるのを生死一大事の血脈というのです。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれなのです。もし、そう(弟子檀那等がこの意を体していく)ならば、広宣流布(仏法を広く宣べ流布すること)の大願も成就するでしょう。
と、“我々日蓮門下の皆が心を一つに行ずれば、生命尊厳の絶対平和思想である日蓮仏法を広く世界に弘め伝え、真の世界平和が実現する”という大願も叶うのだ、と仰せなのです。
此の「世界平和を築く広宣流布」の大誓願こそが、日蓮仏法の真の目的ではないでしょうか。
[52]
日蓮仏法の私なりの解釈 9 (仏法と病の関係 5)
仏法における良医と良薬
前回でも仏法の良薬が定義されていましたが、今回大聖人は、更に仏法における良医・良薬が何かを詳しく説明されています。
「寿量品に云わく『あるいは本心を失えるもの、あるいは失わざる者あり乃至心を失わざる者は、この良薬の色・香ともに好きを見て、即便ちこれを服するに、病はことごとく除こり癒えぬ』等云々。久遠下種・大通結縁、乃至前四味・迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門において得道するものこれなり。経に云わく『余の心を失える者は、その父の来れるを見て、また歓喜し問訊して、病を治せんことを求索むといえども、しかもその薬を与うれども、あえて服せず。所以はいかん。毒気は深く入って、本心を失えるが故に、この好き色・香ある薬において、しかも美からずと謂えばなり乃至【我は今当に方便を設けて、この薬を服せしむべし】乃至【この好き良薬を、今留めてここに在く。汝は取って服すべし。差えじと憂うることなかれ】。この教えを作し已わって、また他国に至り、使いを遣わして還って告ぐ』等云々」(観心本尊抄 新141頁・全250-1頁)
現代語訳:法華経寿量品に「(良医の子供達が、父の留守中に邪宗教の毒を飲み)本心を失った者と、本心を失っていない者とがいた。それから、本心を失っていない者は(帰ってきた父の良医の与えた)色香ともに好みの良薬を見て、直ちにこの良薬を服用し、病はことごとく消え回復した」とあります。(この経文の文上の意は、)久遠に下種され、大通仏の十六王子に結縁し、前四味(五味の中、最後の醍醐味を除く四味で、乳味は華厳・酪味は阿含・生蘇味は方等・熟蘇味は般若を示す)から法華経の迹門に至るまでの一切の菩薩や二乗や人天等が法華経本門で得道する経緯を譬えているのです。また寿量品に「本心を失っている者は、自分達の父が帰ってきたのを見て、大喜びし病の治療法を尋ねながらも、でも父が薬を与えてもあえて服用しない。どうしてなのか。毒気が深く入って本心を失った為に、好きな色香である薬を、うまくないと思うだけなのです。そこで「(良医は)方便をもうけて、この薬を服用させなければならない」そして「この好きな良薬を今留めてここに置くから、子供達はこれを服用しなさい。病気が治らないと心配することはない」。子供達にこの様に教えて他国へ行ってしまい、使いを遣わして子供達の父は死んだと伝えた、とあります。
※法華経寿量品では、その後父が死んだと聞いた子供達は大いに悲しみ、父の言葉を信じることにして薬を服用し、子供達全員の病気が完治した、とあります。父の良医は仏、子供達は衆生であり、法華七譬の一つ「良医病子」の譬ですね。
「仏性の種ある者は仏になるべしと爾前にも説けども、いまだ焦種の者作仏すべしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。ただすべからく汝仏にならんと思わば、慢のはたほこをたおし、忿りの杖をすてて、ひとえに一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(持妙法華問答抄 新513頁・全463頁)
現代語訳:仏性の種子のある者は仏になる、と爾前経にも説かれているけれども、いまだ焦種(焼いた種)の者(二乗)が仏になるとは説かれていません。この様な重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけなのです。ただあなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきです。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせなのです。まことに恥ずべきであり、恐るべきことなのです。
※法華経(つまり御本尊)を良薬に譬え、仏に成る為には、我慢を含む七慢や瞋恚(いかり・うらみ)、名聞名利の心を捨てて、良薬を服するしかない、と仰せなのです。
「医師が病者に薬を与うるに、病者薬の根源をしらずといえども、服すれば任運と病愈ゆ。もし薬の源をしらずと云って医師の与うる薬を服せずば、その病愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈ゆること、もってこれ同じ。既に仏を良医と号し、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬う。されば、如来一代の教法を擣(つき)き簁(ふる)い和合して、妙法一粒の良薬に丸ぜり。あに、知るも知らざるも、服せん者、煩悩の病愈(い)えざるべしや。病者は、薬をもしらず、病をも弁えずといえども、服すれば必ず愈ゆ。行者もまたしかなり。法理をもしらず、煩悩をもしらずといえども、ただ信ずれば、見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨かんこと疑いあるべからず。されば、伝教大師云わく『能化・所化ともに歴劫無し。妙法経力もて即身成仏す』と。法華経の法理を教えん師匠も、また習わん弟子も、久しからずして法華経の力をもって、ともに仏になるべしという文なり」(聖愚問答抄 新580頁・全499頁)
現代語訳:医師が病人に薬を与えれば、病人は薬の根源を知らなくても、飲めば自然と病気が治ります。もし薬の源を知らないからといって医師の与える薬を飲まないでも、その病気は治るでしょうか。薬の内容を知っても知らなくても、飲めば病の治ることは同じなのです。すでに法華経では仏を良医と名づけ、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬えています。それ故、釈尊一代の教法をつきふるい、まぜ合わせて、妙法という一粒の良薬をつくったのです。この良薬を知っても知らなくても、飲む者は煩悩の病の治らない者はいないのです。病人は薬をも知らず、病をも弁えなくても、飲めば必ず治るのです。法華経を行ずる者もまた同じです。法理をも知らず、煩悩の病をも知らないとしても、ただ(法華経の法理を)信ずれば、見思、塵沙、無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の浄土に到り、本有の三身如来の生命を磨きあらわすことは疑いないのです。だから伝教大師は、法華秀句で「能化も所化もともに長劫にわたる修行を経ることなく、妙法蓮華経の力で即身成仏する」と説かれています。法華経の法理を教える師匠も、また学ぶ弟子も直ちに法華経の力で共に仏になります、との文なのです。
※法華経では、仏は良医、法を良薬、衆生を病人に譬えています。そして、仏法の三惑とは、見思惑(見惑と思惑があり、見惑は、物事の道理に迷う惑、思惑は倶生惑ともいい、生まれると倶に付いてくる煩悩のこと)、塵沙惑(二乗や菩薩の修行の過程で生じる小果に執着し空理に沈んだり化導の障りとなること、数が無量なので塵沙という)、無明惑(成仏を妨げる一切の生死煩悩の根本の迷い)を云い、妙法蓮華経を信じ行じれば、妙法蓮華経の力に依って、この三惑を断じ、師弟共に仏になると仰せなのです。
「題目の五字に一法として具足せずということなし。もし服する者は、『速除苦悩(速やかに苦悩を除く)』なり。されば、妙法の大良薬を服する者は、貪・瞋・癡の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、謗法の供養を受けざるは、貪欲の病を除くなり。法華の行者は、罵詈せらるれども忍辱を行ずるは、瞋恚の病を除くなり。法華経の行者は、『是人於仏道 決定無有疑(この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)』と成仏を知るは、愚癡の煩悩を治するなり。されば、大良薬は末法の成仏の甘露なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、大良薬の本主なり」(御義口伝下 新1052-3頁・全755頁)
現代語訳:題目の五字(即ち御本尊)に一法として具足しないものはないのです。(万法が全てを具足しているのです)もし、これを服する者は、経文に「速かに苦悩を除きます」とある様に、直ちに苦悩を消滅することができるのです。そうであれば、この妙法の大良薬を服する(即ち御本尊を信ずる)者は、貪瞋癡の三毒の煩悩の病を除くことができるのです。法華経の行者(即ち御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱える者)は、謗法の供養を受けることはないので、これは貪瞋癡の三毒のうち貪欲の病を除くことになるのです。法華経の行者が、いかに世間の人々から、悪口罵詈されても(その人の幸福を願って)忍辱(侮辱・迫害等に堪え我慢すること)を行ずるのは、瞋恚の病を除くことになるのです。また、法華の行者は、法華経神力品に「この人は仏道修行により、成仏することを確信して疑うことはない」とあり、(つまり、法華経(御本尊)を信ずることによって、即身成仏できるのです。)これを覚知することは、愚痴の煩悩を治すことになるのです。そうであれば、この大良薬たる御本尊は、末法の即身成仏できる甘露(妙薬の賛辞)なのです。今、御本尊を信じ題目を唱える日蓮とその門下は、妙法の当体であり、大良薬の本主(本当の主)となるのです。
※貪瞋癡の三毒のうち、①煩悩の病は御本尊を信ずることにより、②貪欲の病は唱題し謗施をうけないことにより、③瞋恚の病は悪口罵詈されても忍辱行を行うことにより、それぞれの病が除かれる、と仰せです。さらに、④仏道修行により自身が、人間革命されていることを自覚した時、愚痴の煩悩を治したことになるのですね。
◎日蓮仏法では、日蓮大聖人だけではなく、その弟子である我々も大良薬の本主である、と仰せくださっています。つまり、我々は妙法という大良薬を自主的に用いる事により、病を克服する事ができるのです。一方、キリスト教やイスラム教の様な一神教では、自身の行動の規範を、「人類には『原罪』があり、生まれながらにその罪を背負う」や「我々は神の意志により生かされている」との神の摂理や依存にあるとするならば、それこそ、日蓮仏法とは真逆の自己否定に繋がる思想なのです。「天地創造の神」が、それぞれに存在し、違いがあるのでしょうか。不思議ですね。
[51]
日蓮仏法の私なりの解釈 8 (仏法と病の関係 4)
病に譬えた仏の教え
「『病』とは、三毒の煩悩なり。仏菩薩においてもまたこれ有るなり。『不老』は釈尊、『不死』は地涌の類いたり。これは滅後当今の衆生のために説かれたり。しかれば、「病」とは謗法なり。この経を受持し奉る者は、『病即消滅』疑いなきなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、これなり云々。」(御義口伝下 新1077頁・全774頁)
現代語訳:病とは貧瞋癡三毒の煩悩です。仏や菩薩においても、これを有するのです。(不老不死の)不老は釈尊、不死は地涌の菩薩に約します。(即ち、己心の仏界、己心の菩薩界・地涌の菩薩を涌現し、金剛不壊の境涯を会得することであり)末法の衆生の為に説かれたのです。そうであれば、病とは(端的にいえば)謗法です。この法華経(御本尊)を受持する者は、(経文の)「病はたちまち消滅する」ことは疑いないのです。今、日蓮門下の南無妙法蓮華経と唱える者は、これなのです。
※誰でも貧瞋癡の三毒の煩悩を有していますが、これが病の根源であると喝破されておられるのが大聖人です。年老いて深く道理を考えると納得です。
我々は、南無妙法蓮華経の題目を唱えて生命力を強め、「病即消滅」を確信し、挑戦するのです。
「人に二病あり。一には身の病。いわゆる、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病。この病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもってこれを治す。二には心の病。いわゆる三毒・乃至八万四千の病なり。仏にあらざれば二天三仙も治しがたし。いかにいわや、神農・黄帝の力及ぶべしや。また心の病に重々の浅深分れたり。六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば、小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏これを治す。大乗の華厳・般若・大日経等の経云々をそしりて起こる三毒八万の病をば、小乗をもってこれを治すれば、かえりては増長すれども平愈全くなし。大乗をもってこれを治すべし」(中務左衛門尉御返事 新1602頁・全1178-9頁)
現代語訳:人には二種類の病気があります。その一つは、身体の病気で、いわゆる地大に百一・水大に百一・火大に百一・風大に百一、以上を合わせて四百四病です。これらの病気は、古代インドの名医といわれた治水とか流水、耆婆や中国古代の名医といわれた扁鵲等の医薬によって治すことができます。二つには、心の病気で、いわゆる貪・瞋・癡の三毒や八万四千の煩悩の病です。この心の病は、仏の力でなければ、バラモンの神である二天・三仙でも、治すことはできないのです。ましてや儒教の神農・黄帝の力など及ぶものではないことはいうまでもありません。また、心の病に浅深軽重が種々に分かれています。即ち、六道を輪廻している凡夫の貪、瞋、癡の三毒を始めとして、八万四千の煩悩による心の病は、小乗である三蔵経によって教えを立てた俱舎宗、成実宗、律宗等の仏でも治すことができます。しかし、大乗である華厳経、般若経、大日経等の経々をそしって起こるところの三毒八万四千の諸々の病は、小乗をもってこれを治そうとすれば、かえって、病気が悪化することはあっても、決して完治はしないのです。(その場合は)大乗の教えをもって治すのです。
※外見でも判別できる身体の病気は、名医によって治すことができるが、貪・瞋・癡の三毒や煩悩等の心の病気は、小乗教でも治すことができず、大乗の教えつまり、日蓮仏法により治すことができると仰せです。
「問うて云わく、末法に限って冥益と知る経文これ有りや。答えて云わく、法華経第七の薬王品に云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり。もし人病有らんに、この経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」等云々。妙楽大師云わく「しかるに後の五百は、しばらく一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。しばらく大教の流行すべき時に拠る。故に五百と云う」等云々。」(教行証御書 新1669頁・全1277頁)
現代語訳:問うて言います。末法に限定して冥益であるという経文があるのでしょうか。答えて言います。法華経巻七の薬王菩薩本事品には「此の経はつまり為れ閻浮提の人の病の良薬です。もし人が病気になった時に、是の経を聞くことができれば、病は即ち消滅して、不老不死になるでしょう」と説かれています。妙楽大師も法華文句記では「然も、後の五百はある時間の流れのままに従います。末法の初め、冥利(冥伏した利益、冥益のこと)が無いことはありません。ある時間、大教が流行する時に依存するので、五百と云うのである」と解釈されているのです。
※法華経自体が世界中の人々の病気を救う良薬だ、と明言されています。
「一代諸教の肝心たる法華経の題目をば唱えざりけん。その故を能く能く尋ね習い給うべし。譬えば、大医の、一切の病の根源、薬の浅深は弁えたれども、故なく大事の薬をつかうことなく病に随うがごとし。されば、仏の滅後正像二千年の間は、煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか。今、末法に入りぬ。人ごとに重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し」(妙蜜上人御消息 新1708頁・全1238頁)
現代語訳:(高祖・先徳等は)釈尊の一代諸教の肝心である法華経の題目だけは唱えなかったのです。その理由をよくよく探求し学ぶべきです。例えば、名医が一切の病の根源や薬の効能の浅深をわきまえていても、やたらと大事な薬を使う事はしないで病気によって使い分ける様なものです。だから釈尊滅後正像二千年の間は、煩悩の病も軽かったので、釈尊一代の中の第一の良薬である法華経二十八品の肝心・妙法蓮華経の五字を、人々に勧めなかったのでしょうか。今は末法に入っています。人はそれぞれ重病にかかっています。その病は阿弥陀如来、大日如来、また釈尊等の軽い薬では治すことは難しいのです。
※病気の種類によって薬を使い分けする様に、仏法の教義も少人数の救済(小乗教)から多数の民衆を救済できる法(大乗教)に、そして権大乗教から実大乗教の法華経へと変遷してきたのです。
「我が滅後の一切衆生は皆我が子なり。いずれも平等に不便におもうなり。しかれども、医師の習い、病に随って薬をさずくることなれば、我が滅後五百年が間は、迦葉・阿難等に、小乗経の薬をもって一切衆生にあたえよ。次の五百年が間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩等、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさずけよ。我が滅後一千年すぎて像法の時には、薬王菩薩・観世音菩薩等、法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさずけよ。末法に入りなば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆずられしところの小乗経・大乗経ならびに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。いわゆる、病は重し薬はあさし。その時、上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさずくべし」(高橋入道殿御返事 新1954-5頁・全1458頁)
現代語訳:(仏が述べられているのは)私の滅後の一切衆生は全て我が子です。いずれも平等に慈愛し、不愍に思っています。しかしながら、医師は病気にしたがって薬を与えるのが習いであり、我が滅後五百年の間は、迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生に与えよと命じ、次の五百年の間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生に授けよと命じ、我が滅後一千年を過ぎて像法の時代には、薬王菩薩・観世音菩薩等が、法華経の題目を除いたその他の法門の薬を一切衆生に授けよと命じたのです。末法の時代に入ったならば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等が譲られた小乗経、大乗経、そして法華経は、文字があっても衆生の病の薬とはならないのです。いわゆる病は重く薬は浅いのです。その時には、上行菩薩が出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるでしょう。
※釈尊滅後からの伝道されてきた仏法の教義を各種の薬に譬えていますが、末法時代(現在)では、(最良薬である)妙法蓮華経の五字が一切衆生に授与される、と述べられています。
◎病気の根本原因が、仏法から見ると貧瞋癡の三毒であることを明らかにしました。その解決方法として、諸天善神の働きの一つである現代医学の日進月歩の著しい発展により、今や各種難病の完全治癒への方向性が見えて来ました。然しながら、重病や難病等に遭遇してもこれに打ち勝つのは、「私には仏性がある」という自身の自己肯定の強さが必要なのです。此処に大聖人の生命哲学の偉大さが存在するのではないでしょうか。
[50]
日蓮仏法の私なりの解釈 7 (仏法と病の関係 3)
病に関する大聖人の深慮
今回も前回同様、日蓮大聖人の弟子に対し師匠として、思いやりのある御文を紹介します。
「人間に生をうけたる人、上下につけてうれえなき人はなけれども、時にあたり、人々にしたがいて、なげきしなじななり。譬えば、病のならいは、いずれの病も、重くなりぬれば『これにすぎたる病なし』とおもうがごとし。主のわかれ、おやのわかれ、夫妻のわかれ、いずれかおろかなるべきなれども、主はまた、他の主もありぬべし。夫妻はまた、かわりぬれば心をやすむることもありなん。おやこのわかれこそ、月日のへだつるままに、いよいよなげきふかかりぬべくみへ候え。おやこのわかれにも、おやはゆきて子はとどまるは、同じ無常なれどもことわりにもや。おいたるはわはとどまりて、わきき子のさきにたつ。なさけなきことなれば、神も仏もうらめしや」(光日房御書 新1252頁・全929頁)
現代語訳:人界に生を受けた人は、上より下まで、憂患のない人はないけれども、時にあたり、その人その人にしたがってその嘆きは色々です。たとえば病気のならいとして、どんな病気も重くなると、「これ以上の重病はない」と思う様なものです。主人との別れ、親との別れ、夫妻の別れ、いずれが劣る嘆きではないけれども、主人との別れにはまた他の主人に仕えることもあるでしょう。夫婦の場合はまた替わりの人を得れば心を安めることもできるでしょう。だが親子の別れだけは月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなってゆくものとみえます。また親子の別れでも、親が先に亡くなって子供が生き残るのは、同じ無常ではあっても自然の道理でしょう。だが年老いた母が生き残って若き子が先立った時は、余りに情けない事なので、神や仏に対して恨みたくなる気持ちなのです。
※病気だけではなく、身近な人との別離も、ともすれば、神仏を恨みたくなるものです。しかし、悲しむだけではなく、これを乗り越える方法を大聖人だけがお持ちなのです。
「主の御返事をば申させ給うべし。『身に病ありては叶いがたき上、世間すでにこうと見え候。それがしが身は、時によりて憶病はいかんが候わんずらん。只今の心は、いかなる事も出来候わば、入道殿の御前にして命をすてんと存じ候。もしやの事候ならば、越後よりはせ上らんははるかなる上、不定なるべし。たとい所領をめさるるなりとも、今年はきみをはなれまいらせ候べからず。これより外は、いかに仰せ蒙るとも、おそれまいらせ候べからず。これよりも大事なることは、日蓮の御房の御事と過去に候父母のことなり』とののしらせ給え。『すてられまいらせ候とも、命はまいらせ候べし。後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候』と、高声にうちなのり居させ給え」(四条金吾殿御返事 新1563頁・全1149-50頁)
現代語訳:主君(江馬氏)への御返事を次の様に言いなさい。「私は今、病気ですので、遠国に行けとの主君の御命令でも叶い難とうございます。その上、世情は大事が起こりそうな気配でございます。私の身は、その時にあたって、どうして臆病の筈がございましょうか。只今の心は、たとえどの様なことが起きようとも、入道殿の御前で一命を捨てる覚悟でございます。もし一大事が起きたなら、越後から鎌倉の主君のもとに馳せ参ずるには、あまりに遠すぎるし、行くことが可能かどうかもわかりません。たとえ所領を取り上げられても、今年は、御主君の御側を離れません。これ以外にどの様な仰せを蒙っても、少しも恐れはいたしません。これよりも大事なのは、日蓮の御房の御事と亡くなった父母の事です」とはっきりと言いきりなさい。また「お見捨てになっても、私の命は差し上げます。後世は日蓮の御房にまかせてあります」と声高らかに申し上げなさい。
※大聖人が四条金吾の身の上をご心配されて、御主君へのお手紙の内容を御教示されています。大聖人の弟子に対する深い慈愛が感じられます。
「仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候。法華経には『我は深く汝等を敬う』、涅槃経には『一切衆生ことごとく仏性有り』、馬鳴菩薩の起信論には『真如の法、常に薫習するをもっての故に、妄心即ち滅して、法身顕現す』、弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり。かくれたることのあらわれたる徳となり候なり。されば、御内の人々には天魔ついて、前よりこのことを知って、殿のこの法門を供養するをささえんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがためにこの病はおこれるか。上は我がかたきとはおぼさねども、一たん、かれらが申すことを用い給いぬるによりて、御しょろうの大事になりてながしらせ給うか。彼らが柱とたのむ竜象すでにたおれぬ。和讒せし人も、またその病におかされぬ。良観はまた一重の大科の者なれば、大事に値って大事をひきおこして、いかにもなり候わんずらん。よもただは候わじ」(崇峻天皇御書 新1592-3頁・全1170-1頁)
現代語訳:仏法の中に、内薫外護という大事な法門があり、これは仏教の原理なのです。法華経不軽品には、「私は深くあなた達を敬います」とあり、涅槃経には「一切の衆生は皆仏性があります」とあり、馬鳴菩薩の起信論には「真如の法が常に薫習する故に、妄心が即滅して、法身が顕現する」とあり、また弥勒菩薩の瑜伽論にも、同様に説かれています。隠れた行動が、外に現われて徳となるのです。それ故江馬家の御内の人々には、天魔がついて、この内薫外護の原理で江馬氏一門が正法の家人となることを知って、あなたが法華経に供養することを防ぎ止める為に、今回竜象房等が大妄語を作り出したのです。ところが、あなたの御信心が深いので、十羅刹女があなたを護ろうとして、主君の病気を起こしたのでしょうか。主君はあなたが自分の仇とは思われていないので、ひとたび彼らの言うことを用いた事によって、御病気が重くなり、長引いておられるのでしょうか。彼らが柱とたのむ竜象房も、すでに倒れてしまった。讒言した人々も、また同じ病におかされてしまった。良観はもう一層仏法上の大罪がある者ですから、大事件に遭い、大事を引き起こして、法罰をこうむることにもなるでしょう。よもや、ただでは済まないでしょう。
※大聖人は病を縁にして、四条金吾に正法とそうでない邪法との違いを教えようされているのです。
「世末になれば、人の智はあさく仏教は深くなることなり。例せば、軽病には凡薬、重病には仙薬、弱き人には強きかとうど有って扶くる、これなり」(報恩抄 新260頁・全328頁)
現代語訳:世が末ともなれば、人間の智慧は浅くなり、仏教は深くなるのです。たとえば、軽病には凡薬を与え、重病には仙薬を与え、弱い人には強い味方があって助ける様なものです。
※情報が複雑に絡み合う現代社会では、人類は安易な考えに陥り易くなっていますね。最近のフェイクニュースの乱用がそれです。であればこそ、深遠な仏教の生命哲学が必要になって来ているのです。
◎大聖人は、他の多くの御消息文でも、病気の治癒だけではなく、個々の悩みや不安を解決させるためには、妙法の信仰を確固たるものにしなければならない、と御教示されていますね。
[49]
日蓮仏法の私なりの解釈 6 (仏法と病の関係 2)
病気に負けない信心
今回は、病に向かわれている人々に対して、きめ細やかな気遣いと励ましをおくられた日蓮大聖人の御文を紹介します。
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば、千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは、寿量品のゆえぞか。閻浮第一の太子なれども、短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども、夭死あれば生ける犬に劣る。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし」(可延定業書 新1308頁・全985頁)
現代語訳:命というものは人間一身の第一の珍宝です。一日でも寿命を延ばすならば、千万両の金にもまさるのです。法華経が釈尊一代の聖教の中でも飛びぬけて勝れていると言うのは、寿量品の故なのです。一閻浮提第一の太子であっても、短命であれば草よりも軽いのです。太陽の様に明瞭な智者であっても、若死すれば生きた犬にも劣るのです。早く志の財を積み重ねて、急ぎ急ぎ病気を対冶してください。
※この御文こそ、大聖人の仏法が生命尊厳の哲学であるという証拠の一つではないでしょうか。
「問うて云わく、機にあらざるに大法を授けられば、愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕つるならば、あに説く者の罪にあらずや。答えて云わく、人路をつくる。路に迷う者あり。作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう。病人嫌って服せずして死せば、良医の失となるか」(撰時抄 新161頁・全256-7頁)
現代語訳:問うて言います、大法を聞くべき機根を持たない者が大法を授けられるならば、愚人はきっと誹謗し、その為に悪道へ堕ちるならば、それこそ説く者の罪ではないでしょうか。答えて言います、ある人が大衆の便利をはかって路を作りました。その路に迷うものがあるからといって、路を作るものの罪だといえるでしょうか。良医が薬を病人にあたえた時に、病人は薬を嫌って服用しないで死んだならば、それが良医の過失となるのでしょうか。
※ この問答は、苦悩に沈む衆生に対して、御本尊を信じて唱題すれば幸福になれるのに、衆生が信じない(愚人が誹謗すること)で大きな苦悩に陥っていった場合、御本尊の利益を説く者の罪となるのでしょうか、との逆質問なのです。
「堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし、利剣をもてば小力も破りぬべし。譬えば、薬はしらねども服すれば病やみぬ、食は服すれども病やまず。譬えば、仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども命をのべず」(報恩抄 新255頁・全325頁)
現代語訳:堅い石を柔らかい鈍刀を持って対戦しては、大力ある者でも破ることができないのです。しかし、堅い利剣を持てば小力の者でも破ることができるのです。また、たとえば、薬は、その効能などを知らなくても、服しただけで病気は治るのです。単なる食物では、いかに服しても病気は治りません。たとえば、仙薬は寿命を延ばし、凡薬は病気を治しますが寿命を延ばすことはできないのです。
※ここでの利剣や薬・仙薬は、法華経の題目のことなのです。(詳細は次回)
「尼ごぜん、また、法華経の行者なり。御信心、月のまさるがごとく、しおのみつがごとし。いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛におぼしめし、身を持し心に物をなげかざれ」(富木尼御前御返事 新1317頁・全975頁)
現代語訳:尼御前もまた法華経の行者です。御信心は、月の光が勝る様に、潮が満ちて来る様に強盛です。どうして病が癒えずに寿命の延びないことがあるでしょうかと強い意志を持って、御身を大切にし、心の中であれこれと嘆かないことです。
※信心根本で病気に負けない様に、と法華経行者を励ましておられます。
「まことやらん、いえの内にわずらいの候なるは。よも鬼神のそいには候わじ。十らせち女の、信心のぶんざいを御心みぞ候らん。まことの鬼神ならば、法華経の行者をなやましてこうべわれんとおもう鬼神の候べきか。また釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと、ふかくおぼしめし候え」(上野殿御返事 新1871頁・全1544頁)
現代語訳:本当でしょうか。あなたの家の内に病人がいるというのは。(それが本当であっても)よもや鬼神の所為(意志のある行動)ではないでしょう。十羅刹女が信心の程度を試されているのでしょうか。本当の鬼神ならば法華経の行者を悩まして、自らの頭を破ろうとする鬼神がいるでしょうか。また、釈迦仏、法華経に虚妄はある筈がないと、深く信じていきなさい。
※家人に病人が出たとしても、鬼神が信心の程度を試すために起こしたのだ、と確信して行動しなさいと仰せです。
「南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(経王殿御返事 新1633頁・全1124頁)
現代語訳:南無妙法蓮華経は師子吼の様なものです。どの様な病気が障害となるでしょうか。鬼女母神、十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文に見えています。幸せは愛染明王の様に、福運は毘沙門天の様に備わっているのです。たとえ、どの様な場所で遊び戯れていても、災難が起こる筈がありません。悠々と遊行して畏れは無いので、師子王の様に行動してください。
※大聖人は、「諸天善神の守護を信じて、法華経行者は師子王の様に行動してください」と激励されています。
「人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさめ、あるいはおどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候えば、すでに仏になるべしと見え候えば、天魔・外道が病をつけておどさんと心み候か。命はかぎりあることなり。すこしもおどろくことなかれ」(法華証明抄 新1931頁・全1587頁)
現代語訳:だれも(法華経の信仰を)勧めていないのに心中から信仰されて、上下万人からある時は諌められ、ある時は脅かされながらも、結局、信仰を捨てる心が生じないでおられて、すでに仏に成ると見えたので、天魔・外道が病気に罹らせて脅かそうとしているのでしょう。命には限りがあるのです。少しも驚いてはならないのです。
※此処でも、成仏直近の法華行者に対して、魔が病気を呼び寄せて、脅そうとしているのですね。
◎自身のキャリアがマイナスになるかも知れない病気を、自分の意志で起そうと思う人など一人もいないでしょう。大聖人は、仏法から観れば「病気になること」にも「願兼於業」等、大きな意味があるのだと仰せなのです。
[48]
(発行=23.09.06)
権威主義的な「印籠教学」の日蓮正宗
「謗法の地にある本尊は受持の対象ではない」
「学会常住」の御本尊で大功徳を満喫
日蓮正宗の謀略紙「慧妙」が「『創価学会常住』本尊の由来」と題する記事
を七月十六日付、八月十六日付に掲載していた。旧態依然の愚劣な記事で、捨
て置こうと思っていた。
だが、放置していると「慧妙」は本紙が反論できないと勘違いして増長するの
で簡潔に破折する。
「慧妙」は第二代会長の戸田先生が「大御本尊根本」と言っていたのに「時は
流れ、代が下ると人も変わる」と書いている。
これは要するに、学会が「大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象に
はいたしません」と決めた事を指すのであろう。
他の宗門の機関紙誌でも学会が「大御本尊を棄てた」等と繰り返し書いてい
る。
これまでも再三、述べた通り、日如が早瀬義寛と名乗っていた当時、学会の
会則の「三大秘法の大御本尊を信受し」について、御講の席で「学会が大御本
尊を信受するなんて、破門された学会には許されない」と叫んでいた。
そのため、学会は他宗派の謗法の大石寺にある御本尊を「受持の対象にしない」
と決めたのであろう。
身延派のように「板本尊は真っ赤な贋物」「板本尊は偽作」等と否定してはい
ないし、ましてや、日顕が「戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑
定の結果解った」と語ったように鑑定してニセ本尊だと決めつけた訳でもない。
もし、戸田先生が今も健在で、現在の謗法化した大石寺を見たならば、必ず「
受持の対象にするな」と指示したに違いない。
更に「大白法」は顕正会の遥拝勤行について「会員たちへの目眩(くら)ましに
過ぎない」(平成三十一年三月一日付)と述べ、総本山に参詣し、大御本尊にお
目通りすることによって「広大無辺なる大功徳が具わる」と書いている。
遥拝勤行に功徳はなく、大石寺に登山することによって功徳があるという訳だ。
学会員が登山できないように月例登山会を廃止したのは日顕であった。
これでは受持の対象にしないのは当然であろう。
だが、大石寺に登山しなくても、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願
成就」の御本尊に御祈念して、広宣流布は世界百九十二ケ国・地域に拡大し、
各家庭に御安置の日寛上人御書写の御本尊によって学会員は大功徳を満喫して
いる。
「慧妙」は「時は流れ、代が下ると人も変わる」と述べ、変わってはいけない
ような言い種だが、学会は時代・社会の移り変わりを見極めながら変幻自在に
広宣流布を進めてきている。
早稲田大学で博士号を取得した為に宗内で冷遇され、遂に日蓮正宗の僧籍を離
れた花野充道氏が次のように指弾していた。「原理主義者は、ややもすれば鎌
倉時代の服(御書)にあわせて人間を切ろうとするが、人間にあわせて服を調
整する柔軟性をもたなければ海外布教はできない」
また、社会学者の西山茂氏は「伝統的な石山教学は板本尊と血脈を楯にとった
権威主義的な『印籠教学』である」と指摘していた。
印籠と言えば、水戸黄門の印籠が威力を発揮したのは江戸時代の日本だけだ。
日如が請願達成せよ、と檄を盛んに飛ばしても布教が進む筈がない。呵々大笑。
[47]
日蓮仏法の私なりの解釈 5 (仏法と病の関係 1)
仏法の病の考え方
インド応誕の釈迦は、生・老・病・死の四苦に悩んで、出家したとされています。
病苦以外の三苦は、全ての生物が絶対に通らなければならず、科学的な解決方法も考えられません。 一方、病苦は人によって関わりは異なるが、これを解決することが人類の課題となっています。
大聖人も病気について、種々述べておられますので紹介します。
「日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず、たまたま仏法を知る智者は国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失い利生を止め、この国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替り、大地を動かし、悪風を興し、一天を悩し、五穀を損ず。故に、飢渇出来し、人の五根には鬼神入って精気を奪う。これを疫病と名づく。一切の諸人、善心無く、多分は悪道に堕つること、ひとえに悪知識の教えを信ずる故なり」(唱法華題目抄 新11頁・全8頁)
現代語訳:日本国中の人々は仏法を行じている様に見えて、実は仏法を行じていないのです。たまたま仏法を知る智者がいたが国の人から捨てられ、守護する諸天善神は法味を得ることができない故に威光を失って人々を利益しなくなり、この国を捨てて他方の国土へ去られた。悪鬼は、それにつけこんで国中に入り替わり、大地を動かし暴風を吹かせ、天下を悩ませて五穀を損なわせるのです。その結果飢饉が起こり、人の五根にも悪鬼が入って精気を奪います。これを疫病というのです。一切の諸人は善心を失って、その多くが三悪道に堕ちるのです。これらはひとえに悪知識の教えを信ずる為に起こるのです。
※悪知識を信じて弱くなった生命力につけこむのが、悪鬼(疾病)であり、三悪道に堕ちる因縁を作ることになるのですね。
「問うて云わく。智人なくば、いかでかこれを対治すべき。例せば、病の所起を知らぬ人の病人を治すれば、人必ず死す。この災いの根源を知らぬ人々がいのりをなさば、国まさに亡びんこと疑いなきか。あらあさましや、あらあさましや。答えて云わく。蛇は七日が内の大雨をしり、烏は年中の吉凶をしる。これ則ち大竜の所従、また久学のゆえか。日蓮は凡夫なり。このことをしるべからずといえども、汝等にほぼこれをさとさん」(撰時抄 新200頁・全284-5頁)
現代語訳:問うて言います。智人がいなければ、どうしてこの様な大災難を対治することができるでしょうか。病の起きる原因を知らない人が、その病気を治そうとすれば、必ず病人は死んでしまいます。この大災難の根源を知らない人々が祈りをなしたならば、国がまさに亡びることは疑いないでしょう。まことに、あさましいことです。答えて言います。蛇は七日の内の大雨を知り、烏はその年の吉凶を知ると言います。(何故かといえば)蛇は大竜の家来であり、(烏は)久しく世間で起きるべきことを学んできた為なのでしょう。日蓮は凡夫ですから、この事を知っていない(と思われている)けれども、あなた達に、概略この事を教え諭そうと思います。
※大聖人こそが、人々を救済する方法を一番御存知なのです。
「『病の起こる因縁を明すに、六有り。一には四大の順ならざるが故に病む。二には飲食の節ならざるが故に病む。三には坐禅の調わざるが故に病む。四には鬼便りを得。五には魔の所為なり。六には業の起こるが故に病む』云々。大涅槃経に云わく『世に三人のその病治し難きもの有り。一には大乗を謗ず。二には五逆罪あり。三には一闡提なり。かくのごとき三病は、世の中の極重なり』云々。また云わく『今世に悪業成就し乃至必ず応に地獄なるべし乃至三宝を供養するが故に、地獄に堕ちずして現世に報いを受く。いわゆる頭と目と背との痛みなり』等云々。止観に云わく『もし重罪有るも乃至人中に軽く償う。これはこれ業の謝せんと欲するが故に病むなり』云々」(太田入道殿御返事 新1358頁・全1009頁)
現代語訳:「病の起こる因縁を明かすのに六種ある。一には地・水・火・風の四大が順調でない故に病む・二には飲食が節制されていない故に病む・三には坐禅が正しく調わない故に病む・四には鬼が便りを得る・五には魔の為すところ・六には業の起こる故に病む」とあります。大涅槃経に「世の病に治し難い三種の人がある。一には大乗を誹謗する人・二には五逆罪を犯す人・三には一闡提の人、このような三種の病は世の病のうち極めて重い」とある。また「今世に悪業を成就し(乃至)必ず地獄に堕ちるだろう(乃至)仏・法・僧の三宝を供養する故に地獄に堕ちることなく現世に報を受ける。いわゆる頭と目と背との痛み」等とある。摩訶止観に「もし重罪を犯して(乃至)人の中で軽く償うと。これは悪業が消滅しようとする故に病むのである」とあります。
※この御文は大聖人が、天台大師の『摩訶止観』第八上で述べた病の因縁を引用したものですが、これを現代科学的に解釈することもできます。
①「四大不順」は、我々の肉体を形成している四大(地:筋肉・骨格、水:血液・水分、火:体温、風:呼吸)の異常について述べられているが、環境である気候に影響して起こる熱中症や低体温症、風邪ひき等も該当するでしょう。
②「飲食不節」は、暴飲暴食や偏食・過食少食から来る五臓(肝臓、肺臓、心臓、脾臓、腎臓)の不調和とされていますが、胃潰瘍や腸炎等の消化器系疾患に加え、成人になれば気になる高血圧や糖尿病等の生活習慣病も該当するでしょう。
③「座禅不調」は、睡眠不足・運動不足、逆に肉体疲労・強度のストレスから、姿勢を正せず精神が安定していない状態であり、関節痛・リューマチ等に加え、自律神経失調・循環器系疾患等が該当するでしょう。
④「鬼神得便」は、細菌やウイルス**(確認後掲載)染症・伝染病等が該当し、鬼病は、悪鬼神が修行者の邪念に乗じ、人の四大・五臓に入って悩ますのだそうです。
⑤「魔の所為」は、不安症・躁鬱症・統合性失調症等の精神的疾患が該当するのでしょうが、魔病の魔は、観心を破って成仏を妨げ邪念に依って人の功徳を奪うのだそうです。
⑥「業起故病」は、遺伝性疾患が該当し、過去の宿業や今世の破戒が、先世の業を動かし業病となるそうです。
「夫れ、病に二あり。一には軽病、二には重病。重病すら、善医に値って急やかに対治すれば、命なお存す。いかにいわんや軽病をや。業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら、能く能く懺悔すれば、必ず消滅す。いかにいわんや不定業をや。法華経第七に云わく『この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり』等云々」(可延定業書 新1307頁・全985頁)
現代語訳:そもそも病には二つあります。一には軽病、二には重病です。重病でも善い医者にかかり、早く治療すれば命を永らえることができます。まして軽病はいうまでもありません。業には二つあります。一には定業(果報を受ける事や時が定まっている業、善業と悪業がありここでは悪業のこと)、二には不定業(果報を受ける事や時が定まっていない業)です。定業でもよくよく懺悔すれば必ず消滅します。まして不定業はいうまでもありません。法華経第七の巻薬王菩薩本事品第二十三には「この経は、全世界の人の病を治す良薬である」等と説かれています。
※自身の病気が何なのかを正確に知り、善処を尽くして御本尊に身を任せる事も必要ですね。
「病あれば死ぬべしということ不定なり。このやまいは仏の御はからいか。そのゆえは、浄名経・涅槃経には、病ある人仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候なり」(妙心尼御前御返事 新1963頁・全1479-80頁)
現代語訳:病に罹れば必ず死ぬ、とは定まっていません。(あなたの)この病は仏の御はからいでしょうか。その訳は、浄名経や涅槃経には、病がある人は仏になる、と説かれています。病によって仏道を求める心が起こるのです。
※病に向き合い自身の宿命を転換していける、これこそ御仏智であると確信できるのです。
◎大聖人の御文にある通り、病気に罹った時、自分勝手に判断・治療を試みるのではなく、医師に正しく診断していただき、指定された適切な薬剤を服用するのが、正しい信仰者の在り方ではないでしょうか。規則正しい生活の中で、真剣に唱題することにより、強い生命力が湧現して、治癒されるのですね。
[46]
(発行=23.08.23)
大石寺の総代が三宮神社を参拝
日蓮正宗は昔から謗法行為を容認し放置
日如が「謗法厳誡は学会が出来てから」
日蓮正宗は昔から謗法行為を容認し放置 日蓮正宗総本山・大石寺の総代で
ある井出光彦が今年も富士宮市狩宿の三宮神社(写真㊤)を参拝していた。
今月十二日午前七時三十分頃から神社周辺の草刈りを行い、九時前に参加者
八人が参拝。井出は三番目で、社前にお供え物をした後、手を二回叩いて合掌、
一礼していた。
この大石寺総代の井出は三宮神社だけではなく、以前は曽我八幡宮の氏子総
代も兼ねていて祭典にも参加、神社の境内に設置された売店でビールとジュー
スを売っていた(写真㊥)。
井出の謗法行為は、これだけではない。神札の購入までも奨励していた。
こんな謗法行為を繰り返している井出は、大石寺の二大行事でも主要な役目
を任されていて、京都・要法寺から持ち込まれたお会式では〝お練り〟の先導
役を務め〝三三九度の儀〟でも日如のすぐ傍で行事に立ち会っている(写真㊦)。
平成二十五年の夏期講習会で日如は宮野審道らが作成した御書講義の原稿を
棒読みして謗法厳誡が宗是であるかのように述べていた。
「昔は草鞋(わらじ)の鼻緒が切れても、神社仏閣の前では、それを直すことは
ならないと言われた。
それは邪宗の門前で頭を下げることになるからだ」宗内で言い古された台詞
だが、実態は真逆である。
改革同盟の山口雄在氏の証言によると、昭和六十三年に宗務院で開かれた御
書系年委員会で日如(当時は義寛)が永栄義親に向かって「なあ義ちゃん、謗法
厳誡なんて言ったって昔は関係なかったな。子供の頃は小遣い貰って皆で浅間
祭りに行っていたよな。創価学会が出来てから謗法厳誡になったんだ」と笑っ
ていた。
日如は新宿区の大願寺にいた頃から謗法を放置し、身延の寺で塔婆供養して
いた信徒に指導もしなかった。
「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」の「日興遺誡置文」に照らし、
日如は自らが任命責任を負う大石寺檀家総代の謗法行為を長年にわたり黙認し
てきた罪は重大と言うべきだ。
[45]
日蓮仏法の私なりの解釈 4 (功徳と利益の形態 後)
利益について
利益とは、個人や社会が法に順じた結果として、それ相応の利得を受けること。
①仏法では利益(りやく)と呼び、功徳と同義に用いられる。
②法に順ずる者に対して益を与えることで、益他と同義であり、反対語は罰である。
③一般に世間法や国法では利益(りえき)と言い、反対語は損失を用いる。
法華玄義六巻下に
「功徳・利益とは、ただ功徳・利益にして、一にして異なり無し。若し分別せば、自益を功徳と名け、益他を利益と名く」
とあり、自利を功徳、利他を特に利益と呼んでいる。
「仏は法華経謗法の者を治し給わず、在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり。各各我が弟子等、はげませ給え。はげませ給え」(諫暁八幡抄 新747頁・全589頁)
現代語訳:仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかったのです。それは釈尊在世時に謗法の者がいなかったからです。末法には必ず一乗法華経の敵が充満する事でしょう。(故に、逆縁に対して教化する)不軽菩薩の利益はこれなのです。おのおの我が弟子達よ、ますます信心に励んでください。
※不軽菩薩の利益とは、法華経誹謗者でも、利他として、正法を信受させることなのですね。
「『経に四導師有りとは、今、四徳を表す。【上行】は我を表し、【無辺行】は常を表し、【浄行】は浄を表し、【安立行】は楽を表す。ある時には、一人にこの四義を具す。二死の表に出ずるを【上行】と名づけ、断・常の際を踰(こ)ゆるを【無辺行】と称し、五住の垢累(くるい)を超ゆるが故に【浄行】と名づけ、道樹にして徳円かなるが故に【安立行】と日うなり』。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。また云わく、火は物を焼くをもって行とし、水は物を浄むるをもって行とし、風は塵垢を払うをもって行とし、大地は草木を長ずるをもって行とするなり。四菩薩の利益これなり。四菩薩の行は不同なりといえども、ともに妙法蓮華経の修行なり」(御義口伝上 新1046-7頁・全751頁)
現代語訳:「法華経涌出品に四導師の記載があり、このことは、常楽我浄の四徳を表わしている。上行は我を表わし、無辺行は常を表わし、浄行は浄を表わし、安立行は楽を表わしている。ある時は、一人の生命にこの四菩薩の義を具している。分段の生死、変易の生死を出ることを上行と名づけ、断見、常見の生命観を越えて永遠の生命観を会得することを無辺行と名づけ、三界の見惑、欲界の思惑、無色界の思惑、根本無明惑等、の五住の惑いを超えることを浄行と名づけ、そして菩提樹の様に真実正しい道を歩み、円満な人徳を持つことを安立行と名づけるのである」とあります。
今、日蓮大聖人及びその門下達の、南無妙法蓮華経と唱える者は、全て地涌の菩薩の眷属なのです。また、火は物を焼くのがその使命です(上行)。水は物を浄めるのが使命です(浄行)。風は塵や垢などを吹き払うのが使命です(無辺行)。大地は草木を育成するのが使命です(安立行)。四菩薩の利益はこれなのです。四菩薩の行は同じではないが、ともに南無妙法蓮華経の修行なのです。
※四菩薩の修行(使命)が不同でなくても、南無妙法蓮華経と唱える者を守護することが第一の利益なのでしょうね。
「ただ南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給え。火は焼照をもって行となし、水は垢穢を浄むるをもって行となし、風は塵埃を払うをもって行となし、また人畜・草木のために魂となるをもって行となし、大地は草木を生ずるをもって行となし、天は潤すをもって行となす。妙法蓮華経の五字もまたかくの如し。本化地涌の利益これなり。上行菩薩、末法今の時。この法門を弘めんがために御出現これ有るべき由、経文には見え候えども、いかんが候やらん」(生死一大事血脈抄 新1776頁・全1338頁)
現代語訳:ただ南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱えて、修行してください。火は物を焼き、照らすことでその働きとし、水は垢や穢を清めることでその働きとし、風は塵や埃を払うことでその働きとし、また人畜や草木のために魂となることでその働きとし、大地は草木を生ずることでその働きとし、天は万物を潤すことでその働きとします。妙法蓮華経の五字もまた、この地・水・火・風・空の五大の働きをことごとく具えているのです。本化地涌の利益がこれなのです。上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘める為に、御出現されることが経文に見えていますが、どうでしょうか。
※本化地涌の菩薩の利益は、前記御書と同様であり、法華弘通を使命として、地涌の菩薩が出現されたのですね。
「法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかわることなし。釈迦・多宝の二仏というも、妙法等の五字より用の利益を施し給う時、事相に二仏と顕れて、宝塔の中にしてうなずき合い給う。かくのごとき等の法門、日蓮を除いては申し出だす人、一人もあるべからず」(諸法実相抄 新1788頁・全1358頁)
現代語訳:法界(一切の事物・事象、森羅万象)の姿は、妙法蓮華経の五字にほかならないのです。釈迦仏・多宝仏の二仏といっても、妙法蓮華経の五字の中から用(「ゆう」と読み、体に具わる働き「力用)のこと)の利益を施す時、事相(生滅変化する現象・事実の姿)に釈迦・多宝の二仏として顕れて、多宝塔の中でうなずきあわれたのです。この様な法門について、日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのです。
※用の利益とは、法体(諸法の本体)がその働きとして表す利益のこと。例えば、法を守る常識人の近所つきあいには、多くの助け合いが生じます。近所という体に具わる助け合いという用の利益ですね。
「法華経と申すは、随自意と申して、仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆえに、たといしらざる人も、この経をよみたてまつれば利益はかりなし」(衆生身心御書 新2040頁・全1590頁)
現代語訳:法華経というお経は、随自意(衆生の機根に関わらず、仏自らの立場で説法すること)といって、仏の御心を説かれたものです。仏の御心は素晴らしい心なので、たとえ法華経の理を知らない人でも、この経を読み(実践していけば)利益は計り知れないのです。
※難信難解と言われる法華経ですが、解説書も多く出回り、分かりやすくなってきましたが、やはり難しいですね。しかし、自身の我見で判断することなく、素直に信仰していけば、思いもよらない利益となって、自身の境涯が創り上がられるのです。
「子を思う故にや、おや、つきの木の弓をもって学文せざりし子におしえたり。しかるあいだ、この子、うたてかりしは父、にくかりしはつきの木の弓。されども、終には修学増進して自身得脱をきわめ、また人を利益する身となり、立ち還って見れば、つきの木をもって我をうちし故なり。此の子、そとばにこの木をつくり、父の供養のためにたててむけりと見えたり」(上野殿御返事 新1891頁・全1557頁)
現代語訳:ある親が子供のことを思って、学問に励まない子を槻の木の弓で打って訓誡しました。この時、その子は父を情けなく思い、槻の木の弓を憎みましたが、やがて修学も進み、自分自身も悟りを得て、人を利益する様な身となったのです。振り返ってみれば、これは親が槻の木の弓で自分を打ってくれたからです。この子は、亡き父の為に槻の木で率搭婆を作り、供養のために建てたというのです。
※現在では、スパルタ教育は絶対ダメですが、厳父の愛も時に必要かなと思います。
「利益する」は、能動的行動・社会貢献に繋がる概念に外ならないのです。
「我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらわす。各各二人、またかくのごとし。二人同心して大御所・守殿・法華堂・八幡等、つくりまいらせ給うならば、これは法華経の御利生とおもわせ給わざるべき。二人一同の儀は、車の二つのわのごとし、鳥の二つの羽のごとし」(兵衛志殿御返事 新1503頁・全1108頁)
現代語訳:私が読む法華経も本門と迹門とが和合して利益を無量に顕わすのです。あなた方二人(宗仲・宗長兄弟)もまたこの様に、兄弟二人が心を合わせて大御所・守殿(北条時宗の館)・法華堂・八幡宮などを造営せられたなら、これは全く法華経(御本尊)の御利生(御利益・大功徳)であると確信しきっていきなさい。あなた方兄弟二人が団結した姿は、車の両輪の如く、また鳥の二つの翼の様なものです。
※「本迹和合して利益」とは、本門と迹門が同じとの意ではなく、本門も迹門も互いにその力を発揮させれば、測り知れないほどの利益を及ぼすとの意であり、池上兄弟の二人の信心と団結力を讃えています。
◎利益には、祈りが直ちに顕れる『顕益』と知らず知らず冥々のうちに顕われる『冥益』があります。初信の功徳は、『顕益』ですが、三大秘法を受持し、信心修行していくにつれて、他人との比較ではなく、生きていること自体、生活していること自体が楽しいという「絶対的幸福境涯」を感得する時が来るでしょう。これを仏法では『冥益』と呼んでいるのです。
[44]
日蓮仏法の私なりの解釈 3 (功徳と利益の形態 前)
功徳について
功徳とは、俗に神仏の信仰から得られた果報(必然の結果としての報酬)を言い、梵語の求那(ぐな、Guna)の訳語で、功能(功用能力:ものの働き、手柄)福徳(善行またはそれに類似した行いによって得られる福利・福報)の意味を持ちます。
法華経薬草喩品第五には「如来真実の功徳を説く。誠に所言の如し。如来復、無量無辺阿僧祇の功徳有り」
勝鬘(まん)経宝窟には「悪尽くるを功といい、善満つるを徳と称す。また、徳とは得なり。功を修して得るところなるが故に功徳と名づく」
天台の仁王経疏には「物(相手の人)に施すを功と名づけ、己に帰するを徳という」
とあります。
妙法を信じ行ずる事によって得られる自己の変革、崩されることのない幸福境涯の確立こそが、功徳に外ならないのです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。四大声聞の領解に云わく『無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり』云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや」(観心本尊抄 新134-5頁・全246頁)
現代語訳:(先に論難した権教・迹門・本門の)釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足しています。我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのです。法華経信解品に四大声聞が領解して「無上の宝聚を求めなくても自然に得られた」と述べていますが、我らの己心の声聞界(が妙法蓮華経を受持し奉り、無上の大功徳に歓喜している姿)がこれなのです。方便品には、仏が「(法華経にて一切衆生に即身成仏への大直道を教えたので)私の様に衆生が等しくして異なることがなくなったのです。私がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして皆仏道に入らしめることができた」と説かれています。妙覚の釈尊は、我らの血肉で因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。(即ち、師匠も久遠元初の自受用身ならば、弟子もまた久遠元初の自受用身として顕われ、自受用身に約すれば師弟が不二であることは明らかではないでしょうか。)
※妙法の因果の功徳とは、一切衆生を成仏させる作業の継承ではないでしょうか。
「仏の名を唱え、経巻をよみ、花をちらし、香をひねるまでも、皆、・我が一念に納めたる功徳・善根なりと信心を取るべきなり」(一生成仏抄 新317頁・全383頁)
現代語訳:仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも含めて、その全てが我が一念に納まっている功徳であり善根である、と信心をとっていくべきです。
※善根とは善を生み出す根本になるものを言い、善根を積めば善い果報を受けるのです。仏道修行の積み重ねこそ、功徳であり善根を積むことになるのです。
「『功徳』とは、『六根清浄』の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり。されば、妙法蓮華経の法の師と成って大いなる徳(さいわ)い有るなり。『功』は幸いと云うことなり。または、悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり。『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の説文のごとく修行するを、『六根清浄』と意(こころ)得べきなり」(御義口伝下 新1062頁・全762頁)
現代語訳:功徳とは六根清浄の果報です。所詮、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉れば六根清浄となります。従って、妙法蓮華経の法、すなわち御本尊を自行化他にわたって行じるところの師となって大いなる徳があるのです。功は幸ということです。または悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳というのです。功徳とは即身成仏であり、また六根清浄です。法華経の説文通りに修行することが、その身のまま六根清浄であると心得るべきです。
※悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳といい、唱題することで、六根「認識するために必要な6つの要素『根』を言い、①眼根(視覚器官と能力)②耳根(聴覚器官と能力)③鼻根(嗅覚器官と能力)④舌根(味覚器官と能力)⑤身根(触覚器官と能力)⑥意根(思惟器官と能力)の6つ」が、その身体のまま清浄になると述べられています。心清らかに、環境(依報)を五感で清新に捉えることができるからこそ、日々新たな決意もできるのでしょうね。
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所』云々。此の文、あに自受法楽にあらずや。(中略)苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え」(四条金吾殿御返事「衆生所遊楽御書」新1554頁・全1143頁)
現代語訳:一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はないのです。法華経寿量品第十六には「衆生の遊楽する所なり」とあります。この文は、自受法楽(妙法の真理を悟り楽しむ『法楽』を自ら受け入れ自分のものとすること)のことをいっているのです。(中略)苦を苦とさとり、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないでしょうか。ますます強盛な信心をしていきなさい。
※苦労も楽しみも共にあるのが人生の実相であり、自受法楽の境涯こそが、妙法の功徳ではないでしょうか。
「今、法華経に至って、『我が願、既に満足しぬ。我がごとくに衆生を仏になさん』と説き給えり。久遠より已来、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われ給えり。かくのごとき功徳をば、法華経を信じたらん衆生は、『これ真の仏子なり』とて、『これ実の我が子なり。この功徳をこの人に与えん』と説き給えり。これほどに思しめしたる親の釈迦仏をばないがしろに思いなして、『ただ一大事をもって』と説き給える法華経を信ぜざらん人は、いかでか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし」(主師親御書 新319-20頁・全385頁)
現代語訳:今、法華経を説くに至って、「我が願いはもはや満足した、自分と同じ様に衆生を仏にしよう」と説かれたのです。釈尊は久遠の昔から、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われました。この様な修行の功徳を法華経を信じる衆生は「真の仏子であって、実の我が子であるから、この功徳をこの人に与えよう」と説かれたのです。これほどに思ってくださっている親の釈迦仏を蔑ろにして、「『ただ一大事をもって』とは、一切衆生に本来具わる仏の生命を開示悟入せしめる事が、諸仏のこの世に出現した一大事の因縁である、との意を含む」と説かれた法華経を信じない人は、どうして仏になることができるでしょうか。よくよく心に留めて考えてください。
※釈迦仏は、ご自身が得た功徳を、衆生を仏にさせる為に、振り向けられたのです。(この場合、通常は利益と呼ばれます) だから、私達もこれに応えなければなりません。
◎仏の教え(正法)に随って、自行化他の信心に励むことにより得られる恩恵(果報)を、仏教用語では「利益(りやく)」とも言い、「功徳」とほぼ同義に使われています。
拙ブログの過去記事に「信の一字」がありますが、法華経を、御本尊を、我が仏性を、如何に信じ抜くかで、この上もない功徳が、求めなくても、自然と得ることになるのですね。
「信」の一字 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
[43]
成仏について
成仏とは、「仏に成る」と解釈されていますが、己心の「仏性をひらく」が、本来の意味だと大聖人は仰せです。私達の言う「人間革命」がこれに該当しますね。
過去の関連拙ブログを紹介しますので、併せてお読みください。
信心の目的、成仏とは 前篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
信心の目的、成仏とは 後篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
前回の記事から御書の引用は「日蓮大聖人御書全集 新版」を用いています。
「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明(一念は生命、無明は根本的な迷いを意味し、生命自体に具わった根本の迷いのこと)の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如(法性と真如、共に一切諸法が本来具わっている不変真実の実相のこと)の明鏡となるのです。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつる事が磨くことになるのです。
※心の鏡とは何でしょうか。唱題することでこの心の鏡を磨く事になるのです。
「一遍此の首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし」(聖愚問答抄 新578頁・全498頁)
現代語訳:一遍この妙法蓮華経を唱え奉ると、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。例えば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まります。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。
※唱題することで、環境(依報)をも味方にするような仏性が顕れ出るのです。
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。これらの趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(法華初心成仏抄 新704頁・全557頁)
現代語訳:三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道は、我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着している)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつっていくことです。
※仏に成る道が明らかにされています。
「『信』のところに『解』あり『解』のところに『信』あり。しかりといえども、『信』をもって成仏を決定するなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るもの、これなり」(御義口伝下 新1060頁・全761頁)
現代語訳:信じるところに理解の解があり、理解のあるところに信心があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。今、日蓮及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、これにあたるのです。
※戸田先生も「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」(1953年2月26日 2月度幹部会)と述べておられます。信じる心は人間関係でも大切ですね。
「我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下 新1094頁・全786頁)
現代語訳:わが生命が久遠元初より仏の当体であると、初めて事実の上で覚ることを成仏というのです。つまり、わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、初めて事実の上で覚るのは、御本尊に向かってする唱題からです。
※朝の勤行は一日の決意であり、夕の勤行は一日の感謝と反省であり、日蓮仏法が他力本願でない証明ですね。
「始めて我心本来の仏なりと知るを、即ち『大歓喜』と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝下 新1097頁・全788頁」
現代語訳:(御本尊を受持することによって)初めて自分自身が妙法の当体であると確信することができ、これを大歓喜というのです。即ち南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の即身成仏を実現していくので、歓喜の中の大歓喜というのです。
※自身が「本来の仏である」と自覚すれば、当然、日々の行動もプラス思考になる筈ですよね。
「本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる」(佐渡御勘気抄 新1195頁・全891頁)
現代語訳:元々(私日蓮が)、学問をしたのは、仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、必ず命を捨てるほどの出来事があってこそ仏になるのだ、と推量するのです。
※難を超えて仏に成った者こそが、他人を救済しようとする心が沸き起こってくるのではないでしょうか。
「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書 新1285-6頁・全957頁)
現代語訳:強敵を倒して、はじめて力ある士であると知ることができます。悪王が正法を滅亡させようとの企てに、邪法の僧等もこの悪王に味方して、智者が滅びそうになった時、師子王の様な心を持つ者は必ず仏になるのです。
※師子王の心を持って(勤行・折伏をして)正法を守るならば、必ず仏になる、と仰せです。
「仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。(中略)この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」(曾谷殿御返事 新1433頁・全1055頁)
現代語訳:仏になる道は、境智の二法にあるのではないでしょうか。そうであれば、境というは万法の体(対象を客観視する)を言い、智と云うは自体顕照(妙法に自身が照らされ、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと)の姿をいうのです。(中略)この境智が合うならば、即身成仏(一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること)するのです。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えなので成仏ができないのです。今、法華経では境智が一如(表面的には異なるも、本来は不二であり平等であること)なので、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのです。
※「開示悟入の四仏知見」とは、法華経方便品にあり、諸仏世尊が世に出現した理由として、「衆生の仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん」為で、衆生はこれを理解して成仏するのです。
「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持(たも)つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)
現代語訳:法華経を聞き受ける人は多いのです。しかし、まじめに聞き信受して、大難が来ても、この法華経を常に憶い持って忘れない人はまれなのです。受けることはやさしいですが、持(たも)つことは難しいのです。ところが成仏は、(御本尊、日蓮仏法を)持ち続けることにあるのです。
※持続の信心、仏法伝持の人こそが、幸福境涯を得られるのですね。
「今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、『決定して疑いあることなけん』とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり」(教行証御書 新1676頁・全1282頁)
現代語訳:末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあるでしょうか。だからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「決定して疑い有ること無けん(必ず成仏することは間違いない)」と判定されるのです。
※人を差別することなくして、仏道修行するならば平等に仏果を得る(成仏する)と仰せです。
「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸の仏菩薩、虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別のことにはあらず、ただひとえに末法の令法久住の故なり。既に、多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏、大将としてさだめ給いしこと、あにいつわりなるべきや、しかしながら我ら衆生を仏になさんとの御談合なり」(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏が半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。しかしこれこそ、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。
※法華経にある虚空会の儀式とは、「法華経に身を任せた衆生を仏に成させよう」との大切な協議なのです、と仰せです。私達は、それに応える行動をしなければ、と思います。
「三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく『命をもって自らを帰す』等云々」(南無御書 新2162頁・全1299頁)
現代語訳:三世の仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのです。この為に一切の仏の上には南無というのです。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのです。帰命というのは、天台大師は「命をかけて自らを見つめ愛す」と解釈しています。
※我々は妙法に帰命する、即ち自身の変革を必ずします、と約束しているのです。
結論すると、成仏とは、精神の高みを目指す、境涯革命、人間革命の事なのです。
そして私達は、完成形ではなく、絶え間ないその途上にあるのです。
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成仏について
成仏とは、「仏に成る」と解釈されていますが、己心の「仏性をひらく」が、本来の意味だと大聖人は仰せです。私達の言う「人間革命」がこれに該当しますね。
過去の関連拙ブログを紹介しますので、併せてお読みください。
信心の目的、成仏とは 前篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
信心の目的、成仏とは 後篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
前回の記事から御書の引用は「日蓮大聖人御書全集 新版」を用いています。
「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明(一念は生命、無明は根本的な迷いを意味し、生命自体に具わった根本の迷いのこと)の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如(法性と真如、共に一切諸法が本来具わっている不変真実の実相のこと)の明鏡となるのです。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつる事が磨くことになるのです。
※心の鏡とは何でしょうか。唱題することでこの心の鏡を磨く事になるのです。
「一遍此の首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし」(聖愚問答抄 新578頁・全498頁)
現代語訳:一遍この妙法蓮華経を唱え奉ると、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。例えば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まります。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。
※唱題することで、環境(依報)をも味方にするような仏性が顕れ出るのです。
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。これらの趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(法華初心成仏抄 新704頁・全557頁)
現代語訳:三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道は、我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着している)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつっていくことです。
※仏に成る道が明らかにされています。
「『信』のところに『解』あり『解』のところに『信』あり。しかりといえども、『信』をもって成仏を決定するなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るもの、これなり」(御義口伝下 新1060頁・全761頁)
現代語訳:信じるところに理解の解があり、理解のあるところに信心があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。今、日蓮及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、これにあたるのです。
※戸田先生も「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」(1953年2月26日 2月度幹部会)と述べておられます。信じる心は人間関係でも大切ですね。
「我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下 新1094頁・全786頁)
現代語訳:わが生命が久遠元初より仏の当体であると、初めて事実の上で覚ることを成仏というのです。つまり、わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、初めて事実の上で覚るのは、御本尊に向かってする唱題からです。
※朝の勤行は一日の決意であり、夕の勤行は一日の感謝と反省であり、日蓮仏法が他力本願でない証明ですね。
「始めて我心本来の仏なりと知るを、即ち『大歓喜』と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝下 新1097頁・全788頁」
現代語訳:(御本尊を受持することによって)初めて自分自身が妙法の当体であると確信することができ、これを大歓喜というのです。即ち南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の即身成仏を実現していくので、歓喜の中の大歓喜というのです。
※自身が「本来の仏である」と自覚すれば、当然、日々の行動もプラス思考になる筈ですよね。
「本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる」(佐渡御勘気抄 新1195頁・全891頁)
現代語訳:元々(私日蓮が)、学問をしたのは、仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、必ず命を捨てるほどの出来事があってこそ仏になるのだ、と推量するのです。
※難を超えて仏に成った者こそが、他人を救済しようとする心が沸き起こってくるのではないでしょうか。
「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書 新1285-6頁・全957頁)
現代語訳:強敵を倒して、はじめて力ある士であると知ることができます。悪王が正法を滅亡させようとの企てに、邪法の僧等もこの悪王に味方して、智者が滅びそうになった時、師子王の様な心を持つ者は必ず仏になるのです。
※師子王の心を持って(勤行・折伏をして)正法を守るならば、必ず仏になる、と仰せです。
「仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。(中略)この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」(曾谷殿御返事 新1433頁・全1055頁)
現代語訳:仏になる道は、境智の二法にあるのではないでしょうか。そうであれば、境というは万法の体(対象を客観視する)を言い、智と云うは自体顕照(妙法に自身が照らされ、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと)の姿をいうのです。(中略)この境智が合うならば、即身成仏(一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること)するのです。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えなので成仏ができないのです。今、法華経では境智が一如(表面的には異なるも、本来は不二であり平等であること)なので、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのです。
※「開示悟入の四仏知見」とは、法華経方便品にあり、諸仏世尊が世に出現した理由として、「衆生の仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん」為で、衆生はこれを理解して成仏するのです。
「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持(たも)つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)
現代語訳:法華経を聞き受ける人は多いのです。しかし、まじめに聞き信受して、大難が来ても、この法華経を常に憶い持って忘れない人はまれなのです。受けることはやさしいですが、持(たも)つことは難しいのです。ところが成仏は、(御本尊、日蓮仏法を)持ち続けることにあるのです。
※持続の信心、仏法伝持の人こそが、幸福境涯を得られるのですね。
「今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、『決定して疑いあることなけん』とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり」(教行証御書 新1676頁・全1282頁)
現代語訳:末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあるでしょうか。だからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「決定して疑い有ること無けん(必ず成仏することは間違いない)」と判定されるのです。
※人を差別することなくして、仏道修行するならば平等に仏果を得る(成仏する)と仰せです。
「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸の仏菩薩、虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別のことにはあらず、ただひとえに末法の令法久住の故なり。既に、多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏、大将としてさだめ給いしこと、あにいつわりなるべきや、しかしながら我ら衆生を仏になさんとの御談合なり」(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏が半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。しかしこれこそ、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。
※法華経にある虚空会の儀式とは、「法華経に身を任せた衆生を仏に成させよう」との大切な協議なのです、と仰せです。私達は、それに応える行動をしなければ、と思います。
「三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく『命をもって自らを帰す』等云々」(南無御書 新2162頁・全1299頁)
現代語訳:三世の仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのです。この為に一切の仏の上には南無というのです。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのです。帰命というのは、天台大師は「命をかけて自らを見つめ愛す」と解釈しています。
※我々は妙法に帰命する、即ち自身の変革を必ずします、と約束しているのです。
結論すると、成仏とは、精神の高みを目指す、境涯革命、人間革命の事なのです。
そして私達は、完成形ではなく、絶え間ないその途上にあるのです。
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(発行=23.07.16)
大謗法の山寺と化した大石寺
「大白法」の〝永遠の故郷〟の戯言を粉砕 ③
根腐れの日蓮正宗は衰滅の一途を辿る
日達法主は戸田先生の外護の精神を感慨深く伝えた。
「彼(戸田先生=編集部注)はその時にまだ獄舎から出てきて間もなく、また自
分の事業もない、故に本人に金はなかった。そこで決心してつくったのが登山
会であります」「今更ら皆様の法華講員を批難するのではありません。ただ、
その時の幹部があまりに酷かったから、今日皆様に云うのである。その幹部は
どうか、そこに列席した幹部は今どうなっておるか、実に恥ずかしいことなが
ら、天理教に行った人もありますが、その人は、すぐみじめに死んでしまいま
した。あるいは破産して行方不明の人もあります。実に惨めな人たちでありま
す」
また、日達法主は昭和四十八年八月の教師講習会開講式でも学会の登山会に
よって宗門が裕福になったと、次のように語っていた。
「この総本山がそれほどの農地を解放したことによって、今までは安定して
生活をしておりましたが、なかなかそれがしにくくなった。僧侶も塔中の住職
等皆、山林を開墾して、そこへ芋やキビ、トウモロコシ等を植えて生活をして
いったのでございます。大坊においても食べる米がなくて、さつまいもが常食
で、ことに富士山のヒエを買って、ヒエのおかゆを食べておった時もあるので
ございます」
「そういう生活をしておって、そして全国の信徒からいくらかでも灯明料を
あげていただいて、本山の威儀を保とうと、その当時の宗務当局が考えまして、
全国の法華講の信者の主な方に本山に来ていただいて相談いたしました。
ところが年に五十円の醵金(きょきん)をしてもらいたいということを申し
出ましたところ、それがほとんど不可能であった。わずか五十円の醵金すら集
まりかねたのであります」
「それに対して収支決算をして、収支決算を明らかにしなければ出すことが出
来ない、坊さんは何に使うかわからないということを法華講の信者が申された
のであります」「五十円の醵金は出来なかったのでございます。そして、その
会はついに流会となってしまった」「後で東京におきまして一ケ月か二ケ月た
ったと思いますが、妙光寺を借りてやはり東京を中心とした法華講ならびに学
会戸田先生等に来ていただいて打ち合わせをしましたが、ついにそれも充分な
話にいかなくて、ついに戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、
登山会を毎月一回、当時一回でしたが、登山会をすることになって初めて本山
は活気づいてきたのでございます」
「ことに池田会長の時代になって昨年正本堂を建立せられ、ここに一千万登
山という大目標をもって登山会をせられたのでございます。これらのことは単
なる登山会ということがすなわち大石寺をそれだけ裕福にし、大石寺を大きく
した」
この日達法主の話から登山会は宗門の窮状を救うために開始したことが明白
だ。
学会は累計七千万人が登山したが、悩乱した日顕は平成三年、学会側には何
の相談もしないで取りやめた。学会員は大石寺が〝永遠の故郷〟ではなく、身
延と同様、謗法の山寺と化したので登山しないのである。血脈が断絶した根腐
れの宗門は衰滅の一途を辿っている。