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(発行=24.05.24)
早瀬日慈を総監辞任に追い込む
日顕も見抜いていた、妙観講は謀略の産物 ㊥
「法之道」の記事の言葉尻とらえ難癖
日蓮正宗の法華講支部の一つである妙観講の講頭・大草一男とその一派が日慈
を誹謗中傷した事実は数多いが、特筆すべきは「本従の師」に関する難癖であ
る。
学会を脱会して法道院の法華講に潜り込んだ大草は、仲間を増やして講中を牛
耳る立場になりたいと考え、その機を窺っていた。
折しも、法道院の機関紙「法之道」の昭和五十二年八月一日号に「日蓮大聖人
の仏法を教え、導いてくれる『本従の師』御主管……」の文字があった。
これを見た大草が「攻撃材料を見つけた」と大喜び。本従の師とは御本仏だか
ら「主管本仏論の動かぬ証拠」と糾弾の狼煙を上げ、当時の青年部幹部らと共
謀して騒ぎを大きくしていった。
騒ぐだけ騒いだ大草は、同年十二月二十七日に法道院宛てに「離籍届」を郵送
した。
そして同月三十日には当時の日達法主に「法道院と主管の早瀬日慈は大謗法で
す」「私は猊下様にご奉公致します」云々と涙ながらに訴えたという。実に名
演技だったと言う人もいる。
こうして大草一派は「理境坊東京支部」として出発することになった。妙観講
になったのは昭和五十五年八月である。
一方、法道院側は「法之道」昭和五十三年一月一日号に「お詫び」記事(下記
の資料を参照) を掲載させられた。
これに加えて、日慈は終生、忘れられない屈辱的な出来事で追い討ちを掛けら
れたのであった。
昭和五十三年一月二十五日に大草が編集並発行者となって「法道院信徒二〇九
名 離籍の真相」という小冊子を発行。
その「まえがき」で大草は「法道院宛に郵送した離籍届(内容証明書)の中に
おいてすら、離籍の真の理由については『今般、考えるところあって』とのみ
記して、すべてを公にすることを避けたのであった。
これ、ひとえに大恩ある法道院と、法道院主管・日蓮正宗総監早瀬日慈尊能化
の権威・威光を傷つけ汚したくなかったがためである」と書いている。
この表現は日慈を十分、傷つけている。そのうえ、法道院の血脈観、師弟論は
間違っていると非難。「本従の師」については「単なる『校正ミス』ですむ問
題であろうか。
それも問題の記事掲載以来、半年近くもたってから『校正上の手違いから……』
などと、ふざけるのもいい加減にしていただきたい」等と激しく批判していた。
更に、同年春、大石寺に全国の 末寺住職が集まった際、この「離籍の真相」
を日達法主の指示で、一人一人に手渡しで配布させられたのが日慈本人であっ
た。
自分の悪口を書いた小冊子を配って歩く――これ程の屈辱があろうか。配布す
る日慈の手は小刻みに震え、目は充血していたという。
まさしく中国の前漢の武将・韓信の「股くぐり」にも似た恥辱を受けた日慈は、
いたたまれず総監を辞任した。 (つづく)