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題名:師匠と我らとの関係 11(御義口伝 上巻)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/04/22(月) 13:05 2001:ce8:127:e3a4:2cee:544d:9d78:4772(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:2cee:544d:9d78:4772)

師匠と我らとの関係 11(御義口伝 上巻)


御義口伝 上巻 における弟子との関係 

御義口伝は、日蓮大聖人が晩年(建治及び弘安期)に法華経の要文について講義され、日興上人が筆録され、大聖人の允可を得て後世に伝えられたとされています。まさに本書は、日蓮仏法の奥義書であると共に弟子に遺しおかれた指導書でもあるのですね。重要御文ばかりなので、上巻、下巻の2回に分けて紹介します。


「不信の人は『如是我聞』の『聞』にはあらず。法華経の行者は、『如是』の体を聞く人と云うべきなり。ここをもって文句の一に云わく『【如是】とは信順の辞なり。信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず』。詮ずるところ、日蓮等の類いをもって『如是我聞』の者と云うべきなり云々。」(御義口伝 上 新986頁・全709-10頁)
現代語訳:(仏法)不信の人は、如是我聞の聞ではありません。(何故ならば、如是の体を聞かぬからです)法華経の行者のみが、如是の体を聞く人といえるのです。ここをもって、天台大師の法華文句の一に「如是とは信順のことばである。信ずることによって所聞の理、すなわち一念三千の法理を会得することができるのであり、順ずれば師弟の道を成じ、自らも、仏界を現ずることができるのである」とあります。つまり、日蓮及びその弟子こそが、如是我聞の人と言うべきです。
※師匠の言葉に信順する人こそが、如是我聞の人なのですね。


「『一』とは中道、『大』とは空諦、『事』とは仮諦なり。この円融の三諦は何物ぞ。いわゆる南無妙法蓮華経これなり。この五字は、日蓮出世の本懐なり。これを名づけて事となす。日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は、『衆生にこの機有って仏を感ず。故に名づけて【因】となす』の人なり。それがために法華経の極理を弘めたるは、『機を承けて応ず。故に名づけて【縁】となす』にあらずや。『因』は下種なり。『縁』とは、三・五の宿縁に帰するなり。事の一念三千は、日蓮が身に当たっての大事なり」(御義口伝 上 新998-9頁・全717頁)
現代語:「一」とは、中道法相で中諦、「大」とは(生命が大宇宙に遍満しているということで)空諦、「事」とは(事実の相、行動で)仮諦です。(この三諦がバラバラでなく、渾然一体となっている実体、即ち)円融の三諦とは何なのでしょうか。それがいわゆる南無妙法蓮華経なのです。この南無妙法蓮華経の五字は、日蓮の出世の本懐なのです。これ(事行の一念三千の大曼荼羅)を名づけて「事」というのです。日本国の一切衆生の中でも、日蓮の弟子檀那となる人は、法華文句にある「衆生に此の機根が有って仏を感じる。故に名付けて此の因とする」人なのです。その為に法華経の極理たる南無妙法蓮華経を弘める日蓮は、(まさに末法の本仏であり)「仏は機[機根]を承けて而も応じる。故に名けて縁とする」に当るのではないでしょうか。「因」とは(久遠元初の)下種です。「縁」とは三(三千塵点劫)、五(五百塵点劫)の宿縁に帰するのです。(故に釈迦仏法においては、三千塵点劫の下種、五百塵点劫の下種と云いますが、それは単なる縁にすぎないのであって、一切衆生はことごとく久遠元初の下種に立ち還って成仏するのです。日蓮が、その久遠元初の下種である南無妙法蓮華経を末法に弘められたのです。)これこそ事の一念三千であり(それは日蓮の生命そのものであり)日蓮の身に当たる大事なのです。
※私達創価学会員は、自身に仏心が有る事を自覚し(因)、仏(日蓮大聖人)が用意した仏道修行法(縁)により、人間革命(成仏)を目指し行動しているのですね。


「この『如我等無異』の文、肝要なり。『如我昔所願』は本因妙、『如我等無異』は本果妙なり。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。釈には『因を挙げて信を勧む』と。『因を挙ぐ』は、即ち本果なり。今、日蓮が唱うるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。あに『今者已満足』にあらずや。『已』とは、建長五年四月二十八日に初めて唱え出だすところの題目を指して、『已』と意得べきなり。妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり。これを思い遣る時んば満足なり。『満足』とは、成仏ということなり。」(御義口伝 上 新1004頁・全720頁)
現代語訳:この「如我等無異」の経文は、重要です。「如我昔所願(我が昔の所願の如き)」は本因妙(本因:仏道を成就する根本の因行[修行]のこと)を、「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」は本果妙(本果:本門の仏果、本因に対する語)を表しています。また、妙覚の釈尊は我等衆生の血肉であり、因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。(つまり、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身としてあらわれ、自受用身に約して師弟不二であることを、明かされているのです。)また釈には「挙因勘信」とあり、「因を挙げる」は即ち本果なのです(つまり、仏弟子であることを覚知することが本果(成仏)に繋がるというのです)。今、日蓮が唱える南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生をことごとく成仏せしめるのです。これ「今者已満足(今者は已に満足しぬ)」ではないでしょうか。「已」とは、日蓮が建長五年四月二十八日、清澄寺において、はじめて唱えた題目を指して「已」と心得るべきです。妙法の大良薬をもって、一切衆生の無明の大病を治す(根本の迷いや不幸の根源を除き去り幸福境涯に住せしめる)ことは、疑いないのです。これを思いやる時に日蓮の所願は満足するのです。また衆生に約していえば、成仏をもって満足というのです。
※一切衆生の無明の大病を治す妙法の大良薬を等しく全ての人に服用させてあげるのが、弟子の使命なのです。


「日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一同に『皆共至宝所』なり。『共』の一字は、日蓮に共する時は宝所に至るべし」(御義口伝 上 新1024頁・全734頁)
現代語訳:日蓮及びその門下、南無妙法蓮華経と唱える者は、全員「皆、共に宝所に至る」のです。この「共」の一字は、日蓮と共に法華経(御本尊)を信じ行動する時には、成仏できるという意味なのです。
※日蓮仏法を信じ、自行化他に励むならば、宝所(真の幸福境涯)に至る、と仰せです。


「『如来』とは釈迦、『如来事』とは南無妙法蓮華経なり。『如来』とは、十界三千の衆生のことなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、真実の御使いなり」(御義口伝 上 新1027頁・全736頁)
現代語訳:如来とは釈迦であり、「如来の事」とは南無妙法蓮華経の事なのです。如来とは十界三千の衆生、あらゆる衆生をも意味するのです。いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮及びその門下こそ、真実の仏の使いなのです。
※如来・仏が全ての衆生を意味するのであれば、つまり全ての人が幸せに成なる権利を持っているのです。


「『師子吼』とは仏の説なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。『師』とは師匠授くるところの妙法、『子』とは弟子受くるところの妙法、『吼』とは師弟共に唱うるところの音声なり」(御義口伝 上 新1043頁・全748頁)
現代語訳:「師子吼」というのは仏の説法なのです。説法とは法華経、別して南無妙法蓮華経のことを指します。師子吼の「師」とは、師である仏が授ける説法(妙法)です。「子」とは、弟子が受ける妙法であり、「吼」とは、師匠と弟子と、共に唱える音声をいうのです。
※創価学会では、三宝の新解釈として、仏宝及び法宝は当然、日蓮大聖人及び五字・七字の南無妙法蓮華経であり、僧宝(僧とは元々僧伽[そうぎゃ・Samgha]の略で修行者の団体を云う)は創価学会の組織である、と宣言しました。私達が「師子吼」することにより、世界を変えることができるのです。


「妙法蓮華経を安楽に行ぜんこと、末法において、今、日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに、難来るをもって安楽と意得べきなり。」(御義口伝 上 新1045頁・全760頁)
現代語訳:妙法蓮華経を安楽に行ずるということは、末法において日蓮及びその門下の修行に約していえば、(大御本尊を信じ、自行化他にわたる仏道修行を励むと、必ず難が来ます。)その難が来ること自体が、実は安楽であると心得えていきなさい。
※たとえ自身にとって不利な状況になったとしても、頑健な意志(信心)でこれを乗り越えることにより、自身が成長したと実感できるのですね。


「今、日蓮の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。(中略)千草万木、地涌の菩薩にあらずということなし。されば、地涌の菩薩を本化と云えり。本とは、過去久遠五百塵点よりの利益として、無始無終の利益なり。この菩薩は本法所持の人なり。本法とは、南無妙法蓮華経なり。この題目は、必ず地涌の所持の物にして、迹化の菩薩の所持にあらず。この本法の体より用を出だして、止観と弘め、一念三千と云う。総じて大師・人師の所釈も、この妙法の用を弘め給うなり。この本法を受持するは、信の一字なり。元品の無明を対治するは、信の一字なり。『疑いなきを信と日う』の釈、これを思うべし云々。」(御義口伝 上 新1046-7頁・全751頁)
現代語訳:今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱える者は、全員、地涌の菩薩の一員なのです。(中略)一切の草木も、地涌の菩薩ではないとは言えないのです。だから、地涌の菩薩を本化(迹化に対する語。本化の菩薩は、法華経本門に至って出現した菩薩で、釈尊の久遠の弟子である。一重立ち入って言えば、本化の本とは久遠元初の独一本門のことであり、久遠元初以来の日蓮大聖人の本眷属をいうのです。)というのです。本とは教相からいえば五百塵点劫、観心からいえば無始無終の久遠元初からの利益なのです。この地涌の菩薩は、根本の法(本法)を持っている人です。本法とは、南無妙法蓮華経です。この南無妙法蓮華経の題目は、地涌の菩薩が所持する物であって、迹化の菩薩の所持ではないのです。この本法(南無妙法蓮華経、妙法、三大秘法の御本尊)の体(本体)から用(働き)を出して、天台大師が「摩訶止観」に書き弘めたのが、一念三千なのです。全体としてその後の大師や人師の解釈でも、この妙法の用を弘められたのです。この本法(三大秘法の御本尊)を受持するのは信の一字によるのです。元品の無明(という生命の根源的迷い)を対治するこの本法を受持するのは信の一字によるのです。利剣は「信」の一字なのです。法華文句にある『疑いなきを信と日う(無疑日信)』という解釈を思索していきなさい。
※私達こそが地涌の菩薩の一員である、との強い自覚と信心が必要なのです。


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