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(発行=24.09.12)
在家主導で広宣流布は進展
「慧妙」の無知と偏見による批判記事を破す
困窮する宗門を救った戸田先生の先見の明
創価学会の第二代会長・戸田先生が在家主導の広宣流布の道を開き、第三代会
長の池田先生が全世界に妙法の種を植えたことにより、日蓮大聖人の仏法は世
界宗教として百九十二ケ国・地域で花開いている。
立宗以来、誰も成し得なかった大偉業であるが、これに嫉妬して非難中傷する
しか能がない邪宗門の謀略紙「慧妙」九月一日付は、連載「創価学会の歴史改
竄を糺す」で「学会の凶暴性は発足当時から」と題して、見当違いの批判記事
を掲載しているから看過できない。
「慧妙」は学会の宗教法人認可は昭和二十七年で半世紀以上を経過しているた
め当時のことを記憶している人は少ない、と述べて、無知と偏見による批判記
事を書いているが、学会の興隆に焼きもちを焼く古狸坊主の入れ知恵だと思わ
れる。
謀略紙のいう「高圧的かつ凶暴な体質」とは寺院から離れて広宣流布の活動を
するべきだ等の戸田先生の発言を指しているのだが、質の悪い誹謗である。
戸田先生の発言は決して凶暴性などではない。日達法主が「化義の折伏は政治、
経済、文化、あらゆる方面にわたるべきであります」と述べていた通り、戸田
先生の発言は多角的な広宣流布の活動を在家主導で進めていくという意味であ
る。
これは僧侶主導では出来ない。布教活動も停滞して、疲弊している宗門の哀れ
な姿を見かねた戸田先生の先見性に富んだ意見であった。
戦後、学会草創期の宗門は困窮を極めていた。御影堂は雨漏りし、五重塔は更
に状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷んでいた。また、当時の日昇法主
の住居はバラック建てだった。
戦後の苦境時代をよく知る吉田義誠(日勇)は昭和二十二年八月に内事部理事補
を拝命した頃、食べる米はなく、来る日も来る日も芋を食べ、或いは南瓜を食
べて餓えをしのいだ、と述懐していた。
そんな状態でも僧は布教活動も何もしない、法華講員は勤行が出来ないし、折
伏も御供養も登山もしない。
そこで宗門は大石寺の観光地化を進めようとした。
こんな窮状を見た戸田先生が昭和二十七年に登山会を開始し、七十五万世帯を
目指しての折伏を推進した。
これを称えて日達法主は「登山会をすることになって初めて本山は活気づいて
きたのでございます」(昭和四十八年八月三十日、教師講習会)と述べていた。
また、五十九世の日亨上人は「学会の出現がなければ、今ごろ宗門は潰(つぶ)
れていた」と感謝された。
戸田先生は「何のために折伏するのですか?」という会員の質問に「不幸な人、
悩んでいる人が気の毒だから折伏するのだよ」と答えていた。
池田先生の指導も同じだ。単に会員を増やすのが折伏の目的ではない。「不幸」
と「悲惨」をなくし、自他共の幸せを拡大する慈悲の行為なのである。これが
成果主義の法華講や顕正会と根本的に違う点だ。
最後に日顕の反省の言葉で結ぶことにする。「私の罪障と云はうか、(戸田)先
生の云う、いはゆる坊主根性の為か、昭和二十四年頃の私は、自らの心にある
垣根を作り、それが円融闊達にして師厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事
があったのは、今更、遺憾慚愧此の上もないのである」