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師匠と我らとの関係 3(開目抄 後)
開目抄における弟子への叱咤激励 後編
今回の開目抄下には、男子部時代、皆で暗誦した有名な御文も含まれています。
「地涌千界の大菩薩、大地より出来せり。釈尊に第一の御弟子とおぼしき普賢・文殊等にもにるべくもなし。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集せる大菩薩、大日経等の金剛薩埵等の十六大菩薩なんども、この菩薩に対当すれば、獼猴の群がる中に帝釈の来り給うがごとし。山人に月卿等のまじわれるにことならず。補処の弥勒すら、なお迷惑せり。いかにいわんや、その已下をや。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行なり。」(開目抄下 新84頁・全211頁)
現代語訳:地涌千界の大菩薩が大地より出来しました。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならないのです。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩等も、この地涌の菩薩に比べると、猿の群がっている中に帝釈天が来た様なものです。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人が交わっているのと同様でした。釈迦仏の後を嗣ぐといわれた弥勒ですら、なお地涌の菩薩の出現に惑われたのです。それ以下の者の驚きと当惑は非常なものでした。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がおられました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられたのです。
※突然の地涌千界の大菩薩の出現に、釈尊の本弟子と思われていた菩薩達も驚天動地の心境だったのでしょうね。「我々は、地涌の菩薩の眷属の一員である」との使命を証明していかなければならないのです。
「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじぬらん。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし」(開目抄下 新102頁・全223頁)
現代語訳:日蓮という者は、去年の九月十二日子丑の時に首をはねられました。(即ち凡夫の肉身は刑場竜の口において切断され)魂魄は(久遠元初の自受用報身如来として顕われ)佐渡の国に来て、翌年の二月、雪深い国より「開目抄」を著述し、鎌倉方面の有縁の弟子へ送るのですが、(この御抄を拝する弟子達は、濁劫悪世に法華経を弘通する大難を思って)怖じけ恐れるでしょう。しかし(日蓮は『我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ』法華経の行者ですので)何ひとつ恐れるものではないのです。(日蓮と同じく広宣流布の決意をかたく持っている)者は、絶対に恐怖が無いのです。(『身命を愛せず』の志を決定していない者)皆は、(この御抄を拝してどれほど)怖れることでしょう。これは釈迦・多宝・十方の諸仏が、(法華経で『未来に』予言された三類の強敵を、日蓮が一身に受けて末法の弘通と大難を実証しています。即ち日蓮の行動は)日本国の当世を映し出す明鏡なのです。(故に、勧持品の予言が日蓮の事であり)開目抄こそ日蓮の形見として見ていきなさい。
※本書において大聖人が、大難を乗り越え妙法を弘通されておられた事例から、開目抄は人本尊開顕の書とされていますが、この御文もそれを証明されているのです。
「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(開目抄下 新117頁・全234頁)
現代語訳:私も私の弟子も、いかなる難があっても疑う心が無ければ、自然に仏界に至るのです。天の加護が無いからといって信仰を疑ってはいけません。現世が安穏でないからといって嘆いてはいけません。私の弟子に朝に夕に教えてきたのに、疑いを起こして、全員法華経を捨ててしまうでしょう。弱き愚かな者の常として、約束した事を重要な時に忘れてしまうのです。
※後世の人に、「創価学会員は弱き愚かな弟子だった」と笑われる事の無い様に、我々は如何なる難が押し寄せて来てもしっかりと行動しなければなりません。
「涅槃経に云わく『もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり』等云々。『仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、これ彼が怨なり。能く糾治せんは、これ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり。能く呵責せんは、これ我が弟子なり。駆遣せざらんは、仏法の中の怨なり』等云々。」(開目抄下 新120頁・全236頁)
現代語訳:涅槃経に「もし善比丘が法を破るものを見て、そのまま放置して呵責(かしゃく:𠮟り責めること)し、駈遣(くけん:追い払うこと)し、挙処(こしょ:罪過をあげて救糾明し処断すること)をしないならば、まさに知りなさい、この人は仏法中の怨敵です。もしよく駈遣し、呵責し、挙処するならば、これこそわが弟子であり、真の声聞である」と述べられています。また章安大師は涅槃経の疏に「仏法を壊り乱すものは仏法中の怨である。相手の謗法を知りながら、それを諌めるほどの慈悲心もなくて、詐り親しむ者は相手にとって怨である。よく相手の過誤を糾治(糾罪治罰の略で、罪を調べ糾弾し法に依って罰すること)するのが護法の声聞であり、真の我が弟子なのです。彼のために彼の悪い点をのぞき、改めさせることは彼の親である。よく相手の悪を呵責する者はこれこそ仏弟子であり、駈遣しないで放って置く者は仏法中の怨である」と諫めています。
※先師の御文にも「仏法を破壊する人、破壊を見て諫めない人は、仏法の敵であり、その過誤を糾治するのが、仏弟子である」と仰せであり、創価学会員の我々も弟子であるならば、真の生命尊厳の哲学を弘めて世界の身勝手な紛争を留めるべく行動しなければなりません。
「ここに弥勒等の大菩薩、大いに疑いおもう。華厳経の時、法慧等の無量の大菩薩あつまる。いかなる人々なるらんとおもえば、『我が善知識なり』とおおせられしかば、さもやとうちおもいき。その後の大宝坊・白鷺池等の来会の大菩薩もしかのごとし。この大菩薩は彼らにはにるべくもなき、ふりたりげにまします。定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを、『初めて道心を発さしむ』とて、『幼稚のものどもなりしを教化して弟子となせり』なんどおおせあれば、大いなる疑いなるべし。」(開目抄下 新86頁・全212頁)
現代語訳:ここ(釈尊が遠い昔から教化してきたという地涌の大菩薩の出現)において、弥勒等の大菩薩が、大いに疑いを持ちました。華厳経の時には法慧等の無量の大菩薩が集まりました。いかなる人々なのかと思った時に、仏は「わが善知識(仏道に善導する事物)である」と仰せられたので「そうかもしれない」と思いました。その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識である様に思いました。この地涌の菩薩達は、彼らには似ても似つかぬ古くて尊げに見えます。きっと釈尊のご師匠ではないかなどと思われたのに「初めて道心をおこさせた」と説いて、「かつては幼稚な者であったが、教化して弟子とした」等と仰せられたので、大いに疑問を持ったのです。
※弥勒菩薩等の大菩薩でさえも、地涌の大菩薩の出現に懐疑的になったのと同様に、現在の多くの人々も創価学会の尊き使命に懐疑的なのです。無教養だけではなく、病弱や貧乏であった我々創価学会員が懸命に人間革命する姿から、創価学会員は地涌の菩薩の眷属(一族)なのだ、と称賛される様に弘教拡大に励んでいきましょう。
◎開目抄には、まだ多くの「師匠と弟子の関係」を述べられていますが、割愛しました。お許しいただくと共にご自身でお調べくださいね。