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師匠と我らとの関係 4(撰時抄)
撰時抄における弟子との関係
「仏法を学せん法は、必ずまず時をならうべし」で始まる本抄にも、「師弟不二」の関係が見えましたので、紹介します。
「釈子日蓮述ぶ」(撰時抄 新160頁・全256頁)
現代語訳:釈子である日蓮が、これを記述します。
※日蓮大聖人は、御文の上では本化菩薩の再誕であるとされ、法華経涌出品にある「此等は是れ我が子なり是の世界に依止せり」との文及び妙楽大師の「子、父の法を弘む。世界の益あり」との文により、日蓮大聖人は文証通り真実の釈尊の子、釈子なのです。
また、大聖人及び日興上人の教えを正しく受け継ぐ我等、創価学会員もまた、本門寿量の肝心を修行しているので、皆これ本化の菩薩の眷属に該当します。故に「此等は是れ我が子」の湧出品にあてはまり、私達も真実の釈子となるのです。
「衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは、日本国には一渧一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は、これよりほかに、またもとむることなかれ。」(撰時抄 新205頁・全288頁)
現代語訳:多くの流れが集まって大海となります。わずかの塵が積もって須弥山となります。日蓮が法華経を信じ始めた頃は、日本の国にとっては一つの渧、一つの微塵の様でしたが、法華経を二人・三人・十人・百千万億人と唱え伝えるならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるでしょう。仏に成る道はこれよりも他に求めてはならないのです。
※日蓮仏法つまり創価思想の広宣流布への戦いこそ、成仏得道に繋がるのです。
「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して、この度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。そもそも、この法華経の文に『我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ』。涅槃経に云わく『譬えば、王使のよく談論して方便に巧みなるもの、命を他国に奉るに、むしろ身命を喪うとも、終に王の説くところの言教を匿さざるがごとく、智者もまたしかなり。凡夫の中において身命を惜しまず、かならず【大乗方等の如来秘蔵には、一切衆生に皆仏性有り】と宣説すべし』等云々。」(撰時抄 新210頁・全291頁)
現代語訳:(日蓮が今生に大果報を得なければ、如来の金言は提婆達多の虚つきと同じになり、多宝如来の証明は倶伽利の妄語に異ならない。謗法の一切衆生も阿鼻地獄にはおちないし、三世の諸仏もいない事になってしまいます。)そうであれば、我が弟子よ、試しに法華経に書かれている通りに身命も惜しまず修行して、今回仏法を試してみなさい。そもそも、この法華経勧持品の文には「われ身命をおしまず、ただ無上道を惜しむ」とあります。また涅槃経には「たとえば談論にすぐれ交渉にたくみな王の使いが、王の命令をうけて他国に行った時には、むしろ身命を失っても必ず王から授かった言葉を隠さず述べて、王命を果たす様に、仏法を弘める智者も、同じくいまだ信じない凡夫の中で、身命を惜しまずに、『如来の秘要の蔵である大乗・方等の法門に、一切衆生に皆仏性がある』を説き弘めなさい」等と説かれているのです。
※「一切衆生に皆仏性有り」の大乗の法門つまり日蓮仏法であり創価思想の流布こそが、「神のおぼしめし」で済まし世界に蔓延している一神教の考え方を根底から変革し、世界平和は実現するのです。
「法華経を一切経の頂にありと申すが、法華経の行者にてはあるべきか。しかるをまた、国王に尊重せらるる人々あまたありて「法華経にまさりておわする経々まします」と申す人にせめあい候わん時、かの人は王臣等御帰依あり、法華経の行者は貧道なるゆえに国こぞってこれをいやしみ候わん時、不軽菩薩のごとく賢愛論師がごとく申しつおらば、身命に及ぶべし。これが第一の大事なるべしとみえて候。このことは今の日蓮が身にあたれり。」(撰時抄 新211頁・全292頁)
現代語訳:法華経を一切経の頂にありと言う人こそが、真の法華経の行者というべきではないでしょうか。ところが、国王に尊重せられる邪悪な僧がたくさんいて、「法華経よりも優れている経々がある」と言って、法華経の行者と法論する時に、謗法の僧達は王臣等から帰依されており、法華経の行者は貧道で味方が少ない為、国中の民衆がこぞって、法華経の行者をいやしむ時に、不軽菩薩が二十四文字の法華経をもって折伏した様に、賢愛論師が大慢婆羅門を攻めて勝った様に、強く彼等の謗法を破折するならば、必ず身命に及ぶ大難が起こるでしょう。この難が第一の大事であると判断できます。この事が今の日蓮の身に該当しているのです。
※難があっても、威音王仏の像法時代末の常不軽菩薩や西インドの論師である賢愛論師の行動を上回る弘教を、既に大聖人が体験されているのです。我々も法華経の行者ならば、師匠の大聖人や池田先生に続く行動を示して行きたいですね。
「裸形にして大火に入るはやすし、須弥山を手にとってなげんはやすし、大石を負って大海をわたらんはやすし、日本国にしてこの法門を立てんは大事なるべし云々。霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥にかし顕に助け給わずば、一時一日も安穏なるべしや。」(撰時抄 新211頁・全292頁)
現代語訳:裸の身で大火に入ることは易しく、須弥山を手にとって投げることも易しく、また大石を背負って大海原を渡ったりすることも、なお易しいことです。しかし日本国で勇気を持って、この三大秘法の法門を立てる事は、難事中の難事であり、大事中の大事なのです。霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵天、帝釈、日天、月天、四天王などが守護を約束した御本尊に、冥に加護され顕に救済されていることは明らかです。もしこの守護が無い時には、一時一日も安穏に三大秘法の法門を弘教する事はできないのです。
※私達にとって不可能と思われる諸の行為ですが、それらは易く、日蓮仏法を弘教することは難事であり大事であると仰せです。そして、我々の御本尊への真剣な誓願と行動によって「日本はおろか世界広宣流布は必ずできる」と託されているのです。
◎今回、弟子への直接の御指導ではない御文もありますが、大聖人の御心は池田先生の御心でもあります。今年は「世界青年学会 開幕の年」です。いよいよ、創価学会による世界広宣流布への戦いが開始された、という想いでいっぱいです。