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(発行=24.08.26)
五七世法主、身延派管長の導師で勤行
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ③
阿部日正が日蓮宗各派の管長と記念撮影
日蓮正宗の僧俗の謗法行為は数多いが、なかでも第五十七世・阿部日正が日蓮
門下の各派管長と同座し、身延派日蓮宗管長の磯野日筵(写真左)の導師で勤行
・唱題した事実は驚愕する。
日蓮門下の各派管長は大正十一年九月、宗祖の日蓮大聖人に対して天皇陛下か
ら「大師」号を賜りたいと哀願した。これを発案して中心となって運動したの
は顕本法華宗管長の本多日生だった。
大正十一年八月四日、日生は国柱会館で田中智学に面会し、諡号宣下について
意見を聞いた。智学の賛同を得た日生は、日蓮門下の各派管長に交渉し、親交
のあった名士たちの協力も得て、九月十一日付で宮内大臣宛ての請願書を文部
大臣経由で提出した。大師号降賜請願書に署名した各派管長は以下の通り。
日蓮宗管長 河合日辰
日蓮正宗管長 阿部日正
顕本法華宗管長 本多日生
本門宗管長 瀬島日濟
本門法華宗管長 尾崎日暲
法華宗管長 津田日彰
本妙法華宗管長 清瀬日守
日蓮宗不受不施派管長 釋日解
日蓮宗不受不施講門派管長事務取扱 佐藤日柱(名称は当時のもの)および在
家の賛同者十一人(東郷平八郎、加藤高明、床次竹二郎、小笠原長生、犬養毅、
田中智学、佐藤鉄太郎など)の名前が記されていた。
十月十日、宮内省から日生に通知が届いた。そこには「日蓮宗宗祖日蓮へ諡号
宣下候間来ル十三日午前十時参省可有之候也」と記してあった。
十三日、各宗派の管長、管長代理の八人が皇居に参内し、宣下書(右の写真参
照)を受け取った。
この後、宮内省を退出した各派の管長らは築地水交社に移った。この水交社で
奉戴式を行い、日蓮宗管長の磯野日筵(請願時の管長の河合日辰は交代)を導
師として後の七人がそれに従って寿量品を読経し唱題したのだ。
邪宗門の謀略紙「慧妙」は以前、日正は同座しても勤行はしていない等とデタ
ラメな弁解をしていたが、当時の資料によると、勤行した後、日正が挨拶した
ことも記録されている。
この日、宣下書を拝受した各派の管長および管長代務者が揃って記念撮影した
のが右に掲載した写真である。
日蓮正宗の阿部日正が日蓮宗各派管長の邪僧らと仲睦まじく記念撮影に納まっ
ており〝謗法同座〟の動かぬ証拠である。
写真は前列右から顕本法華宗管長の本多日生、日蓮正宗管長の阿部日正、日蓮
宗管長の磯野日筵、本門法華宗管長の尾崎日暲で、後列は本門宗、法華宗、本
妙法華宗、日蓮宗不受不施派の代表である。
日正が日蓮宗各派の管長らと記念撮影
……………………
日蓮宗各派といえば大聖人の法義を破り、獅子身中の虫となった宗派である。
その管長と勤行をすることは「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」と
の日興上人の御遺誡に背く謗法行為であることは明白だ。
大師号の請願運動は日蓮正宗が身延派を〝本家〟を仰いでいる事実を浮き彫り
にしている。
日開が「大聖人の正墓は身延に」と念書
日蓮正宗の法主が身延派日蓮宗に迎合しての謗法行為は続いた。昭和六年十月
の大聖人の第六百五十遠忌を前にして、身延派日蓮宗では大聖人の大師号であ
る「立正」の文字を認めた
日興上人の離山の精神に違背する大謗法
昭和天皇の勅額を身延山久遠寺に下賜して貰う計画を進めていた。身延派は天
皇の「立正」の勅額(写真左)を得て、日蓮宗各派の中心であることを示そうと
画策したのだ。
昭和六年四月、身延山久遠寺住職・岡田日帰の名で宮内大臣と文部大臣に請願
書を提出した。
すると宮内省及び文部省は、揉め事が絶えない日蓮宗各派が後で争わないよう
に勅額降賜の条件として、他の日蓮宗各派が大聖人の墓が身延山にあることを
認め、身延山への勅額降賜に賛成することを証明する「念書」の提出を求めた。
身延派は庶務部長を日蓮宗各派に派遣し、念書を集めて回った。
この時、日蓮正宗管長の阿部日開(写真下)を含む各派管長が文部大臣に提出し
た「念書」の文面は、次の様なものであった。
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「 念 書
宗祖日蓮聖人立正大師六百五十遠忌ニ際シ 御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住
職 岡田日帰ヨリ及請願候 立正大師勅額御下賜ノ件ハ 本宗ニ於テモ異議無
之候條 速ニ御下賜有之候様 御取計相成度候也
昭和六年六月十二日
日蓮正宗管長
阿部日開 印
文部大臣 田中隆三殿」
……………………
この念書で大問題なのは「御廟所在地山梨県身延山久遠寺」の一文である。
この念書は大聖人の墓が身延山にあり、身延派日蓮宗こそが大聖人門下の各宗
派の〝本家〟であることを確認させる意味合いをもっていた。
この確認に対して日開は、いとも簡単にこれに同意し、署名、押印した。
日開の身延正墓の承認は、日興上人の身延離山の御心境を踏みにじる大謗法行
為であり、権力に迎合する日蓮正宗の体質を露呈している。
宗門の脆弱な保身体質が開戦時の日恭の好戦的な「院達」、戦時中の神札受諾、
そして戦後の「大石寺の観光地化計画」になって表れた。 (つづく)