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宿坊2の掲示板


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題名:師匠と我らとの関係 12(御義口伝 下巻)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2024/05/03(金) 10:48 2001:ce8:127:e3a4:e876:d7d2:ae2e:d041(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:e876:d7d2:ae2e:d041)

師匠と我らとの関係 12(御義口伝 下巻)


御義口伝 下巻 における弟子との関係 


「『如来』とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、『南無妙法蓮華経』と云うなり。寿量品の事の三大事とは、これなり。六即の配立の時は、この品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。その故は、始めて聞くところの題目なるが故なり。聞き奉って修行するは、観行即なり。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて、惑障を伏するを、相似即と云うなり。化他に出ずるを、分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを、究竟即の仏とは云うなり。総じて伏惑をもって寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり云々。」(御義口伝 下 新1048頁・全752頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、全体としては十方三世のあらゆる諸仏に通ずるのです。個別に見れば本地の無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏)の事です。今、日蓮及びその門下の意で論じれば、全体を通して言えば、如来は一切衆生なのです。別して(事の上で論じれば)、日蓮及びその弟子檀那の事なのです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者(即ち末法に全民衆救済のために出現された御本仏日蓮大聖人)の事なのです。この無作の三身(即ち日蓮大聖人)の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の「事の三大事(即ち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法)」とはこの事なのです。(南無妙法蓮華経如来寿量品の立場から如来を)六即に配立すれば、この品の如来は、理即の凡夫なのです。(凡夫の身を離れて如来はないのです。)(これはまだ理の上であり、)私達が御本尊を戴いた時は、名字即です。理由は、初めて題目を聞き信受したからです。聞き敬って更に(御本尊を受持し)修行していく事は観行即です。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観じる、即ち信受する事です。さて、惑障(私達の様々な心の迷い、悩み、三障四魔、三類の強敵)に打ち勝っていく事を、相似即というのです。化他(広宣流布に向い折伏行に邁進する)を行う事を、分身即というのです。わが身が無作の三身であると究竟する(生命の奥底に無作三身如来なりと覚知する)事ができた時、これを究竟即の仏というのです。全体を通して言えば、伏惑(歴劫修行により、次第に惑いを伏し仏果を得る)ではなく、寿量品の根本は、凡夫の当体そのままで究竟即、即無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していく事なのです。これが、この品の極理であると心得るべきです。この無作三身如来の振舞いは何かと言えば、南無妙法蓮華経以外にないのです。
※如来寿量品の「如来」とは、久遠本果の三身(即ち色相荘厳の仏)ではなく、本地無作の三身、即ち久遠元初の自受用身を言い、久遠は今にあり今は久遠だと言うのです。久遠元初の自受用身とは、これ末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、末法今時、内証の寿量品の如来とは、日蓮大聖人の御事です。文上の寿量品は、釈尊が、いつ、どこで、どの様にして仏に成ることができたかを明かし、それによって釈尊自身の生命の上に、常住の生命を説き明かしたものでした。しかし文底では、此処に「寿量品の事の三大事」が述べられている事を明らかにされたのです。


「無作三身の依文なり。この文において重々の相伝之有り。『神通之力』とは、我ら衆生の作々発々と振る舞うところを『神通』と云うなり。獄卒の罪人を苛責する音も、皆『神通之力』なり。生住異滅森羅三千の当体、ことごとく『神通之力』の体なり。今、日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを、『如来秘密・神通之力』とは云うなり。成仏するより外の『神通』と『秘密』とはこれ無きなり。この無作の三身をば、一字をもって得たり。いわゆる『信』の一字なり。よって、経に云わく「我等当信受仏語(我らは当に仏の語を信受したてまつるべし)」。『信受』の二字に意を留むべきなり。」(御義口伝 下 新1049頁・全752-3頁)
現代語訳:(「如来秘密・神通之力」とは)無作の三身の依文です。この文において重々の相伝があります。「神通之力」とは、私達衆生が、瞬間・瞬間に活動していること自体を神通といい、その力用が神通之力なのです。従って、獄卒を苛責する音も皆神通之力なのです。生じ、住し、変化し、滅していく森羅三千の現象の当体は、全て神通之力の本体なのです。今、日蓮及び門下の元意でいえば、即身成仏と開覚する事を如来秘密神通之力というのです。即ち、南無妙法蓮華経如来の秘密の神通之力となるのです。成仏すること以外に神通も秘密もありえないのです。この無作の三身を開覚していく事で一字を用いて得ることができるのです。いわゆる「信」の一字です。故に経に「私達が、真に、仏の言葉を信受し敬わなければならない」と。この「信受」の二字に心を留めるべきなのです。
※この妙法を信受し、人間革命(即身成仏)ができると自覚することが、南無妙法蓮華経如来の秘密の神通之力なのですね。


「この本尊の依文とは、『如来秘密・神通之力』の文なり。戒・定・慧の三学は、寿量品の事の三大秘法これなり。日蓮たしかに霊山において面授口決せしなり。本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり云々。」(御義口伝 下 新1059頁・全760頁)
現代語訳:この本尊の依文になっているのは、寿量品にある「如来秘密神通之力(如来の秘密、神通の力)」の文です。戒定慧の三学(の究極)は、寿量品に説かれている「事の三大秘法」がその実体なのです。日蓮は、たしかに霊鷲山において(三大秘法の)面授口決を受けたのです。従って、本尊とは、末法の法華経の行者(即ち御本仏日蓮大聖人)の一身の当体なのです。
※日蓮大聖人は、ご自身を御本仏とは明言されていませんが、この御文が「末法の御本仏である証拠」の一つなのです。


「『自』とは、九界なり。『我』とは、仏界なり。この十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり。自も我も得たる仏来れり。十界本有の明文なり。『我』は法身、『仏』は報身、『来』は応身なり。この三身、無始無終の古仏にして『自得』なり。『無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)』これを思うべし。しからば則ち『本の遠寿を顕す』の説は永く諸教に絶えたり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、『自我得仏来』の行者なり云々。」(御義口伝 下 新1054頁・全756頁)
現代語訳:自我得仏来の自とは九界であり、我とは仏界なのです。(自我で十界を意味し、)この十界は、本有(本来ありのままに存在、又は元々備わっていること)無作三身の仏にして本然のものであり、この十界互具の当体として末法に出現した仏のことを、自も我も得たる仏が来るというのです。(自即ち九界も、我即ち仏界も共に具有した仏が末法に出現したとは、)十界が本有であること事を示した明文なのです。「我」は(三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり)、法身です。「仏」とは(九界より湧現する随縁真如の智であり)、報身です。「来」とは(刻々と移りゆく色法の活動であり)、応身です。この三身は、無始無終の古仏たる久遠元初自受用身如来に本来具わったものであり、他から与えられたものではなく、自ら体得されたもの「自得」なのです。信解品の「無上宝聚不求自得(無上の宝聚は、求めないのに自から得られたり)」の文も、実はこの事を意味するのです。(即ち、無上宝聚とは無作三身のことであり、南無妙法蓮華経のことです。これを求めずして得るとは、無作の三身の境地は、決して他から与えられたものではなく、自得されたことを意味するのです。)従って、寿量品の文底に説かれた久遠元初の「顕本遠寿」の説は、永く諸経には説かれてはいないのです。今、日蓮及びその弟子門下、南無妙法蓮華経を唱える者こそが、「自我得仏来」の行者なのです。
※私達、日蓮門下、地涌の菩薩の眷属は、「自我得仏来」の行者なのですね。


「今、日蓮の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり。されば、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳(さいわ)い有るなり。『功』も幸いということなり。または、悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり。『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の設文のごとく修行するを、『六根清浄』と意得るべきなり云々。」(御義口伝 下 新1062頁・全762頁)
現代語訳:今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱える者は、「六根清浄」となるのです。そうであれば、妙法蓮華経の法師(即ち御本尊に自行化他にわたって行じる師)と成って大きな徳を積むのです。功は幸ということです。または悪が滅していくのを「功」といい、善が生じるのを「徳」というのです。「功徳」とは即身成仏であり、また六根清浄です。法華経の説文通りに修行する事により、その身のまま六根が清浄に成るのだ、と心得ていきなさい。
※理由もなく物事を批判することは、「六根清浄」では無く、「功徳」でも無いと自覚していきましょう。


「末法の『仏』とは、凡夫なり、凡夫僧なり。『法』とは、題目なり。『僧』とは、我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり。『「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす』の故なり。『円理』とは、法華経なり云々。」(御義口伝 下 新1067頁・全766頁)
現代語訳:末法の仏とは凡夫であり、凡夫僧なのです。(「法を聞かず」という)この法とは題目なのです。(「僧を見ず」という)僧とは、私達、(三大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、実践する)行者のことです。(内証の辺について言えば、即、本有無作の)仏と言われ、(外用の辺について言えば、)凡夫といわれるのです。これは「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす[深覚円理名之為仏]」との御文が理由であり、円理(【円教の理】の略)とは法華経(即ち三大秘法の南無妙法蓮華経)です。(故に、この三大秘法の南無妙法蓮華経を深く信じ、覚る者が、仏なのです。)
※円教とは円融円満・完全無欠の教えを意味し、天台大師は、自身が立てた化法の四教(蔵・通・別・円)のうち、第四の円教として法華経を円教と定義されたのです。


「本門の心は無作の三身を談ず。この無作の三身とは、仏の上ばかりにしてこれを云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずるが故に、迹門にして不変真如の理円を明かすところを改めずして、己が当体、無作の三身と沙汰するが、本門の事円の三千の意なり。これ即ち桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち『量』の義なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作の三身の本主なり云々。」(御義口伝 下 新1090頁・全784頁)
現代語訳:本門の元意は、無作の三身を説き表しているのです。この無作三身とは、単に仏の事ばかりを述べているのではないのです。一切の森羅万象を自体顕照(対境としての万法の本体[自体]を照らし、真理を顕現すること)の姿と説かれており、迹門において説かれている不変真如の理円を、そのまま改めないで、おのおのの当体がそのまま無作三身と顕現していくのです。これが本門事の一念三千の元意なのです。つまり、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのです。これこそ一切の特質を認めることであり、量の義なのです。今、日蓮及びその弟子達、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、全て無作三身の本主なのです。
※創価学会SGIは、社会的立場も違う個性豊かな創価学会員の集まりで構成されています。私達は、人権を尊重し、争いの原因を他人のせいにせず、真の世界平和実現を目指して行動しましょう。


◎本抄と同時期に、大聖人の法華経講義を筆記された日向上人の「御講聞書(新1120頁・全804頁、日向記ともいう)」がありますが、御義口伝と比較して内容の深さに天地雲泥の開きがあります。御義口伝は、法華経の項目ごとに端的に記載されていますが、どれも深い内容の重要御文ばかりです。掲載する御文を選択するのに大変苦労しましたが、もし、ご期待の御文が無い場合は、事情を察して頂いてご容赦ください。


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