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日蓮仏法の私なりの解釈 6 (仏法と病の関係 2)
病気に負けない信心
今回は、病に向かわれている人々に対して、きめ細やかな気遣いと励ましをおくられた日蓮大聖人の御文を紹介します。
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば、千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは、寿量品のゆえぞか。閻浮第一の太子なれども、短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども、夭死あれば生ける犬に劣る。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし」(可延定業書 新1308頁・全985頁)
現代語訳:命というものは人間一身の第一の珍宝です。一日でも寿命を延ばすならば、千万両の金にもまさるのです。法華経が釈尊一代の聖教の中でも飛びぬけて勝れていると言うのは、寿量品の故なのです。一閻浮提第一の太子であっても、短命であれば草よりも軽いのです。太陽の様に明瞭な智者であっても、若死すれば生きた犬にも劣るのです。早く志の財を積み重ねて、急ぎ急ぎ病気を対冶してください。
※この御文こそ、大聖人の仏法が生命尊厳の哲学であるという証拠の一つではないでしょうか。
「問うて云わく、機にあらざるに大法を授けられば、愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕つるならば、あに説く者の罪にあらずや。答えて云わく、人路をつくる。路に迷う者あり。作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう。病人嫌って服せずして死せば、良医の失となるか」(撰時抄 新161頁・全256-7頁)
現代語訳:問うて言います、大法を聞くべき機根を持たない者が大法を授けられるならば、愚人はきっと誹謗し、その為に悪道へ堕ちるならば、それこそ説く者の罪ではないでしょうか。答えて言います、ある人が大衆の便利をはかって路を作りました。その路に迷うものがあるからといって、路を作るものの罪だといえるでしょうか。良医が薬を病人にあたえた時に、病人は薬を嫌って服用しないで死んだならば、それが良医の過失となるのでしょうか。
※ この問答は、苦悩に沈む衆生に対して、御本尊を信じて唱題すれば幸福になれるのに、衆生が信じない(愚人が誹謗すること)で大きな苦悩に陥っていった場合、御本尊の利益を説く者の罪となるのでしょうか、との逆質問なのです。
「堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし、利剣をもてば小力も破りぬべし。譬えば、薬はしらねども服すれば病やみぬ、食は服すれども病やまず。譬えば、仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども命をのべず」(報恩抄 新255頁・全325頁)
現代語訳:堅い石を柔らかい鈍刀を持って対戦しては、大力ある者でも破ることができないのです。しかし、堅い利剣を持てば小力の者でも破ることができるのです。また、たとえば、薬は、その効能などを知らなくても、服しただけで病気は治るのです。単なる食物では、いかに服しても病気は治りません。たとえば、仙薬は寿命を延ばし、凡薬は病気を治しますが寿命を延ばすことはできないのです。
※ここでの利剣や薬・仙薬は、法華経の題目のことなのです。(詳細は次回)
「尼ごぜん、また、法華経の行者なり。御信心、月のまさるがごとく、しおのみつがごとし。いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛におぼしめし、身を持し心に物をなげかざれ」(富木尼御前御返事 新1317頁・全975頁)
現代語訳:尼御前もまた法華経の行者です。御信心は、月の光が勝る様に、潮が満ちて来る様に強盛です。どうして病が癒えずに寿命の延びないことがあるでしょうかと強い意志を持って、御身を大切にし、心の中であれこれと嘆かないことです。
※信心根本で病気に負けない様に、と法華経行者を励ましておられます。
「まことやらん、いえの内にわずらいの候なるは。よも鬼神のそいには候わじ。十らせち女の、信心のぶんざいを御心みぞ候らん。まことの鬼神ならば、法華経の行者をなやましてこうべわれんとおもう鬼神の候べきか。また釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと、ふかくおぼしめし候え」(上野殿御返事 新1871頁・全1544頁)
現代語訳:本当でしょうか。あなたの家の内に病人がいるというのは。(それが本当であっても)よもや鬼神の所為(意志のある行動)ではないでしょう。十羅刹女が信心の程度を試されているのでしょうか。本当の鬼神ならば法華経の行者を悩まして、自らの頭を破ろうとする鬼神がいるでしょうか。また、釈迦仏、法華経に虚妄はある筈がないと、深く信じていきなさい。
※家人に病人が出たとしても、鬼神が信心の程度を試すために起こしたのだ、と確信して行動しなさいと仰せです。
「南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(経王殿御返事 新1633頁・全1124頁)
現代語訳:南無妙法蓮華経は師子吼の様なものです。どの様な病気が障害となるでしょうか。鬼女母神、十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文に見えています。幸せは愛染明王の様に、福運は毘沙門天の様に備わっているのです。たとえ、どの様な場所で遊び戯れていても、災難が起こる筈がありません。悠々と遊行して畏れは無いので、師子王の様に行動してください。
※大聖人は、「諸天善神の守護を信じて、法華経行者は師子王の様に行動してください」と激励されています。
「人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさめ、あるいはおどし候いつるに、ついに捨つる心なくて候えば、すでに仏になるべしと見え候えば、天魔・外道が病をつけておどさんと心み候か。命はかぎりあることなり。すこしもおどろくことなかれ」(法華証明抄 新1931頁・全1587頁)
現代語訳:だれも(法華経の信仰を)勧めていないのに心中から信仰されて、上下万人からある時は諌められ、ある時は脅かされながらも、結局、信仰を捨てる心が生じないでおられて、すでに仏に成ると見えたので、天魔・外道が病気に罹らせて脅かそうとしているのでしょう。命には限りがあるのです。少しも驚いてはならないのです。
※此処でも、成仏直近の法華行者に対して、魔が病気を呼び寄せて、脅そうとしているのですね。
◎自身のキャリアがマイナスになるかも知れない病気を、自分の意志で起そうと思う人など一人もいないでしょう。大聖人は、仏法から観れば「病気になること」にも「願兼於業」等、大きな意味があるのだと仰せなのです。