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師匠と我らとの関係 17(「富木常忍」に関連する御抄)
「富木常忍に関連する御抄」における弟子との関係
大檀那となった富木常忍は、「富木五郎左衛門尉胤継」と云い、入道して「常忍」と称し建長6年に大聖人門下となり、大聖人より「常修院日常との法諱を賜っています。多くの重要御書が贈られていて、既に本シリーズで紹介した、日興上人が選定された十大部重要御書の中で、観心本尊抄(文永10年4月、大聖人51歳御作、本シリーズの1回目)、法華取要少(文永11年5月、53歳御作、同6回目)、四信五品抄(建治3年4月、56歳御作、同6回目)の3編や一生成仏抄(建長7年、34歳御作、同7回目)が該当しますが、他に私が気にかかった以下の御文もありますので、ご紹介します。
「今日召し合わせ御問注の由、承り候。(中略)御成敗の甲乙は、しばらくこれを置く。前立って鬱念を開発せんか。ただし、兼日御存知ありといえども、駿馬にも鞭うつの理これ有り。今日の御出仕、公庭に望んでの後は、たとい知音たりといえども、傍輩に向かって雑言を止めらるべし。両方召し合わせの時、御奉行人、訴陳の状これを読むの剋、何事につけても御奉行人の御尋ね無からんの外、一言をも出だすべからざるか。たとい敵人等悪口を吐くといえども、各々当身のこと、一・二度までは聞かざるがごとくすべし。三度に及ぶの時、顔貌を変ぜず、麤言を出ださず、軟語をもって申すべし。「各々は一処の同輩なり。私においては全く遺恨無し」の由これを申さるべきか。また御共・雑人等に能く能く禁止を加え、喧嘩を出だすべからざるか。かくのごときこと、書札に尽くし難し。心をもって御斟酌あるべきか。これらの矯言を出だすこと、恐れを存すといえども、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんがために、愚言を出だすところなり。」(問注得意抄 新1271-2頁・全178頁)文永6年5月、48歳御作
現代語訳:今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承りました。(中略)御成敗の甲乙はしばらく置きますが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱憤の思いを開かれるべきでしょう。但し、兼ねてからご存じの事ですが、駿馬にも鞭打つこともあるので、今日、御出仕して公の場所に出られた後は、たとえ知り合いの者でも、傍輩に向かって雑言などしてはいけません。両者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても御奉行人から尋ねられた事以外は一言でも口に出してはいけません。たとえ敵の者が悪口を吐いたとしても、各々が身に当たる事であっても、一、二度までは聞かぬふりをすべきです。それが三度に及ぶようであれば、顔色を変えず、語気を麤くしないで、柔らかな言葉で述べるべきです。「あなた方とは一所の同輩であり、私は全く遺恨はありません」と理由を言われるべきです。また、御供の者や雑人等にまでよくよく注意して、喧嘩をしないようにすべきです。この様な事は、書面では尽くし難いので、心を察して斟酌してください。これらの正す為に(思いのままに)言ったようで恐れ入りますが、仏経(法華経)と行者と檀那との三事が相応して、一事を成就する為に愚言を述べたのです。
※本抄は文永6年の御作と記されていますが、異論もあります。日蓮の信徒として純真な信心を貫く富木常忍ですが、本抄では大聖人が裁判沙汰になった富木常忍に対して、懇切丁寧に人としての対処法を教えられています。私達も一部、家庭訪問に活かしていきたいですね。
「この大法弘まり給うならば、爾前・迹門の経教は一分も益なかるべし。伝教大師云わく「日出でぬれば星隠る」云々。遵式、記して云わく「末法の初め、西を照らす」等云々。法すでに顕れぬ。前相、先代に超過せり。日蓮ほぼこれを勘うるに、これ時のしからしむる故なり。経に云わく「四導師有り。一に上行と名づく」云々。また云わく「悪世末法の時、能くこの経を持たば」。また云わく「もし須弥を接って、他方に擲げ置かんも」云々。また、貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文五帖、一処に取り集めらるべく候。その外、論釈の要文散在あるべからず候。また小僧たち、談義あるべしと仰せらるべく候。流罪のこと、痛く歎かせ給うべからず。勧持品に云わく、不軽品に云わく。命限り有り、惜しむべからず。ついに願うべきは仏国なり云々。」(富貴入道殿御返事 新1283頁・全955-6頁)文永8年11月、50歳御作
現代語訳:この大法が弘まったならば、爾前経や迹門の経教は一分も利益が無くなるのです。伝教大師は「日が出てば星は隠れる」といい、遵式の南獄禅師止観序には「末法の初め西を照らす」と述べられています。大白法は既に顕れたのです。その仏法出現の瑞相は先代を越えているのです。日蓮がこの事を勘えると、大法が弘まる時が来た為なのです。従地涌出品には「地涌の菩薩には四導師がいる。その第一番目を上行という」と、また分別功徳品では「悪世末法の時、能くこの経を持つならば」とあり、見宝搭品には「若し須弥山を接って他の世界に擲げ置くことよりも(この法華経を持つことは難しい)」と説かれています。また、あなたに頼んでいた一切経の要文、大智度論の要文の五帖を一箇処に取り集めてもらえるでしょうか。それ以外の論釈の要文も散失しないようにお願いできるでしょうか。また小僧達の学問談義を怠らないように伝えてもらえるでしょうか。私の流罪のことは決して歎いてはいけません。勧持品や常不軽菩薩品に「(法華経の行者は大難にあうが)命には限りがある。これを惜しんではならない。願うのは仏国(即ち常寂光土)である」と述べている通りです。
※科学が進歩した現在だからこそ、人種や民族、階層、男女等の差別がなく、普遍妥当性を有して、万人が成仏できるという、日蓮仏法が流布時なのです。
「世間の浅きことには身命を失えども、大事の仏法なんどには捨つること難し。故に仏になる人もなかるべし。」(佐渡御書 新1285頁・全956頁)文永9年3月、51歳御作
現代語訳:世間の浅い事の為に身命を失う事はあっても、大事な仏法の為に身命を捨てる事は難しいのです。だから仏に成る人もいないのです。
※佐渡から富木常忍を中心として広く弟子・檀那に与えられた御抄です。成仏の困難さを強調されています。
「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これおごれるにはあらず。正法を惜しむ心の強盛なるべし。おごれる者は、必ず、強敵に値っておそるる心出来するなり。例せば、修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成って隠れしがごとし。正法は、一字一句なれども、時機に叶いぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶うべからず。」(佐渡御書 新1286頁・全957頁)
現代語訳:悪王が正法を滅亡させようとし、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王の様な心を持つ者が必ず仏に成ることができるのです。例えば日蓮の様にです。こう言うのは傲った気持ちからではなく、正法が滅する事を惜しむ心が強いからです。傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が出てくるものです。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れた様なものです。正法は一字一句であっても、時と機根に叶うなら必ず成仏することができます。たとえ千経・万論を習学しても、時と機根に相違するなら成仏することはできないのです。
※知識を得ても、勇気と信念と実行力が無ければ、人間革命も広宣流布もできないと仰せなのですね。
「日蓮、今生には貧窮・下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたるようなれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。その中に識神をやどす。濁水に月のうつれるがごとし。糞囊に金をつつめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天・帝釈をもなお恐ろしと思わず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に、愚者のあなずる道理なり。心もまた身に対すればこそ月・金にもたとうれ。(中略」鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。我、今度の御勘気は、世間の失一分もなし。ひとえに、先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。」(佐渡御書 新1288頁・全958頁)
現代語訳:日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅の家から生まれています。心こそ少し法華経を信じた様ですが、身は人身に似ているが畜生の身です。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、その中に精神を宿しています。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだ様なものです。心は法華経を信じているので梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思いません。しかし身は畜生の身です。身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然です。心も、身に対すればこそ月や金にたとえられるのです。(中略)鉄は鍛え打てば剣となります。賢人・聖人は罵られて(本物であるか否かを)試されるのです。日蓮がこのたび受けた御勘気に世間の罪は一分もありません。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるでしょう。
※此処では、大聖人はご自身の事を、出生は高貴ではなく、身は畜生だと、卑下されていますが、日蓮仏法は、貴賤の上下や貧富に関係なく、苦難を乗り越えて、人間革命される、と仰せなのです。
「我が門家は、夜は眠りを断ち昼は暇を止めてこれを案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆることなかれ」(富木殿御書 新1324頁・全970頁)健治3年8月、56歳御作
現代語訳:我が一門の者は、夜は眠りを断ち、昼は暇を無くして、この事(=邪見の悪僧侶が正法を破壊する根源の悪である)を思案しなさい。一生を空しく過ごして、万年にわたって後悔することがあってはなりません。
※大聖人の門家とは、大聖人の御書根本に広宣流布を目指し行動している、我々創価学会員に他なりませんね。
「この法門は、年来貴辺に申し含めたるように人々にも披露あるべきものなり。総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え。さだにも候わば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。」(四菩薩造立抄 新1341頁・全989頁)弘安2年5月、58歳御作
現代語訳:この法門は、長年あなたに申し含めている様に、人々にも披露されると良いでしょう。全体として、日蓮の弟子だと名乗って法華経を修行する人々は、日蓮の様に行動しなさい。そうすれば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹も必ず守護されるでしょう。
※師匠に連なる行動によって、自身の小さな殻が破れ、大器な人間革命になるのですね。
◎日蓮門下第一の知識人であり、強盛な信仰心の富木常忍だからこそ、大聖人は全幅の信頼を寄せて、多くの重要御書を授与されているのですね。また、富木常忍は日興上人同様に、大聖人から門下に送られた貴重な御手紙(御消息文)を後世への令法久住の為に積極的に集め保存されていたので、御書として、現在我々が学習できるのですね。