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師匠と我らとの関係 10(如説修行抄)
如説修行抄における弟子との関係
本抄は、文永10(1273)年大聖人52歳、佐渡から鎌倉で難と戦っている門下一同に与えられた御文で、如説修行の姿を御教示され、門下を激励されています。
「仏法を修行せんには人の言を用いるべらず。ただ仰いで仏の金言をまぼるべきなり。我らが本師・釈迦如来は、初成道の始より法華を説かんと思しめししかども、衆生の機根未熟なりしかば、まず権教たる方便を四十余年が間説いて、後に真実たる法華経を説かせ給いしなり。」(如説修行抄 新601頁・全502頁)
現代語訳:仏法を修行するには、人の言葉を用いるべきではありません。ただ尊崇して仏の金言だけを守るべきです。我等が根本の師と仰ぐ釈迦如来は、成道の始めから衆生を救う最高の法である法華経を説こうと考えておられたが、衆生の機根がまだそこまで熟していなかったので、まず権教である方便の経を四十余年間説法して、それから後に真実である法華経を説かれたのです。
※話にも順序があり、いきなり結論を述べても、納得はされないですね。天台大師が、釈迦の説法の順序を「五時」に分けて説かれています。①華厳時は頓教・疑宣の教(頓教:速やかに大乗を説く、疑宣:仏が衆生に仮の法を受け入れられるかを試す)を、②阿含時は漸教・誘引の教(漸教:衆生の機根に応じた説法、誘引:誘いいざなうことで方便を用いて教化する)を、③方等時は漸教・弾呵の教(弾呵:叱責すること、小乗に停滞する二乗を叱責する)、④般若時は漸教・淘汰の教(淘汰:教えから不純・不必要な物を除去する)を、そして⑤法華・涅槃時は頓教・開会の教(開会:開顕会融又は開顕会帰との略で、真実を開き顕して一つに合わせる)です。
この説時に異説もあり、大聖人は「大部の経、大概かくのごとし、これより已外の諸の大小乗経は次第不定なり。あるいは阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等・般若を説く。皆、義類をもってこれを収めて一処に置くべし。」(守護国家論 新385頁・全40頁)と述べておられます。いずれにしても、当時、最強・最勝の御経は、諸宗との法論の結果、法華経に決定されたのです。
「これらのおきての明鏡を本として一分もたがえず『ただ一乗の法のみ有り』と信ずるを、如説修行の人とは、仏は定めさせ給えり。」(如説修行抄 新602頁・全503頁)
現代語訳:約束された経文の明鏡を根本として、仏説と少しも違えることなく、「一乗の法のみが成仏の法である」と信じて進むのが、如説修行者であると、仏は決定されておられるのです。
※此処で、如説修行(仏の教説通りに修行する)者とは、師匠(大聖人であり、私にとっては池田大作先生)が示した自行化他の信心を一生懸命に励む人、と仰せです。
「仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論、この二つを出でざるなり。されば、国中の諸学者等、仏法をあらあら学すといえども、時刻相応の道をしらず。」(如説修行抄 新602頁・全503頁)
現代語訳:仏道修行をする者は、摂受と折伏の二つの修行法を知るべきです。一切の経論も、摂折二門を出ることはないのです。そうであれば国中の多くの学者仏法をだいたい学んだというけれども、時節に合致する肝心な修行の道を知らないのです。
※科学や民主主義が発展してきた現代において、非常識な行動する宗教は、カルト宗教と定義されています。だから、創価学会の化法・化儀の説明では、あくまで論理的で正論を尽くすべきです。
「末法今の時、法華経の折伏の修行をば、誰か経文のごとく行じ給えしぞ。誰人にても坐せ、『諸経は無得道、堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なり』と、音も惜しまずよばわり給いて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来らんこと疑いなし。」(如説修行抄 新603頁・全504頁)
現代語訳:末法である現在、法華経の折伏の修行を、いったい誰が経文通りに実践しているでしょうか。誰でもいい、「諸経は無得道であり、堕地獄の根源であり、ただ法華経だけが成仏の教えである」と声を大にして主張を貫いて、諸宗の人々やその教法について、折伏を実践してみられるがよいでしょう。三類の強敵が競い起こってくることは間違いないのです。
※折伏をすれば、必ず反対者が出現し、負の環境変化等の向かい風が吹くのですが、言葉を尽くして妙法を語る事により、自らの信仰への確信が深まり、次第に事態が好転するという功徳も得られるのです。
「今、日本国の万人、日蓮ならびに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑うとも、昨日は人の上、今日は身の上なれば、日蓮ならびに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つばかりぞかし。只今仏果に叶って寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈んで大苦に値わん時、我らいかばかり無慙と思わんずらん」(如説修行抄 新604頁・全504頁)
現代語訳:今日本国のあらゆる人々が、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっている有様を見て、悦んで嘲笑していようとも、昨日は人の上、今日はわが身の上なのが世の常の習いです。日蓮並びに弟子檀那が受けているこの苦しみも、ちょうど霜や露が朝日にあって消える様に、待つばかりなのです。ついに仏果が叶い寂光の本土に住んで自受法楽する時、(今まで笑ってきた)謗法の者が、阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのです。その時、我々はその姿をどんなに可哀相に思うことでしょう。
※かつて創価学会は、病人と貧乏人の集まりと、揶揄していた多くの日本人がいました。現在では、創価学会インターナショナル(SGI)として300万人ほどの仲間が世界中で活躍しており、その様に悪口を言う人も少なくなっていますね。
◎題号の「如説修行」について、①人法相対に約し、如説は法、修行は人であり、釈迦所説の一代経は法、その所説の如く自ら行じれば修行となる。②師弟相対に約し、如説とは師説、修行とは弟子であり、釈迦所説の如く大衆がこれを修行したのです。③自行化他に約して、如説とは化他、修行とは自行、即ち五種の妙行のうち受持・読・誦・書写の四つは自らの修行であり、他に教える解説は化他に該当し、他に教える如く自らが修行することを「如説修行」というのだそうです。