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(発行=24.03.26)
顕正会は大聖人の仏法とは異質の邪教
広告文と遥拝勤行で学会員を救うとは笑止①
「浅井親子は独善性で常にトラブル」
邪教・顕正会の顕正新聞が最近は学会に対して的外れの誹謗中傷を並べ「未
曽有の邪教化」等と批判して「広告文と遥拝勤行で学会員を救わん」と繰り返
し、今月二十五日付の新聞でも学会批判の記事で埋め尽くしているが、笑止千
万 !
本紙では同会が主張する国立戒壇の邪義を打ち砕き、更に「治安フォーラム」
及び各紙の論調などを踏まえて、日蓮大聖人の仏法とは異質の顕正会の邪説、
妄論、悪辣な勧誘の手口、暴力体質等を暴き、広告文と遥拝勤行を簡潔に破折
する。
初めに顕正会の歩みについて簡単に記す。
顕正会の前身は昭和三十三年に認可された日蓮正宗の妙縁寺(墨田区吾妻橋)
所属の妙信講である。初代の講頭は浅井甚兵衛(昭和五十九年四月に死亡)で、
昨年十月に死んだ会長の浅井昭衛は青年部長になった。
その後、妙信講は妙国寺(板橋区)や法道院(豊島区南池袋)へと所属を変え
たが、今と違って国立戒壇に固執することは余り主張していなかったようだ。
昭和四十年十月、正本堂の供養の受付が行われ、八百万人を超える人々が参加。
その結果、僧侶・寺族同心会が約一億五千万円、法華講が約三億円、創価学会
が約三百五十億円で、総額は約三百五十五億円となった。
この供養には妙信講も賛同して少額ではあるが参加。浅井は「正本堂建立御供
養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗を給わった」と喜んでいた。
ところが、浅井は学会が中心となっての建立寄進に難癖をつけ、正本堂の教義
上の意義づけを巡って日蓮正宗及び学会と対立するようになったので、昭和四
十九年八月、宗門から講中解散処分を受けたのである。
これに関して日蓮正宗宗務院の院達では「(顕正会は)元『妙信講』と称し、本
宗の法華講支部の一つでしたが、宗門の公式決定に違反したため、昭和四十九
年八月十二日に講中解散に処せられました」と記していた。
学会本部を襲撃
昭和五十年八月二十日、甚兵衛が講頭を退いて第二代講頭に昭衛が就任した。
その後、昭和五十七年十月九日に日本武道館で総会を開き、名称を現在の顕正
会に変更した。一時期は「日蓮正宗顕正会」と名乗り、最近では「冨士大石寺
顕正会」と詐称しているが、顕正会は日蓮正宗、大石寺とは無関係である。
これについては平成九年八月、大石寺での教師指導会で当時の総監・藤本日潤
が糾弾していたので、その要旨を紹介する。
「顕正会という団体は、元妙信講と称する宗門の法華講支部の一つでありまし
たが、既に解散処分に付され、そこに所属する信徒のうち主要な三十数名は信
徒除名となり、一般信徒も宗門の指示に従って指定した寺院に申し出て所属替
えをした者以外はすべて信徒の資格を失った」
「元妙信講は、その中心者である浅井甚兵衛、浅井昭衛親子の増上慢、独善性、
権力志向性等によって、常に周辺とトラブルを起こし、所属寺院を転々として
最後、墨田区の妙縁寺に所属しましたが、浅井親子は右翼的、国粋主義的思想
傾向が強く、天皇制の復活を信じて、かねてから『大聖人の御遺命の戒壇は、
安母山に建てる国立戒壇でなければならない』と、このように主張して、当時、
完成間近に迫っていた正本堂の意義についてクレームをつけ、宗門の公式決定
である『国立戒壇の名称を使用しない』という定めを犯して、盛んに宗門・学
会を非難・攻撃し『流血の惨も辞さず』という脅迫文まで送りつけて、日達上
人御自ら浅井親子を説得あそばされるなど、大変な御苦心の結果、ようやく正
本堂落慶法要を無事済ませることが出来た」「しかし、その後も執拗に国立戒
壇を主張して、宗門、学会を攻撃して、遂には文書を街頭配布したり、デモ行
進を敢行するなど、エスカレートして留まるところを知らないため、やむをえ
ず宗門は昭和四十九年八月、講中解散処分に付した」「浅井らはいよいよ過激
さを増して宣伝カーで学会本部を襲撃し、乱闘事件を起こす」(「大白法」平
成九年十月一日付)
予言は全て外れ
死んだ浅井昭衛の話は、国立戒壇論の他も底の浅い我見、邪義、妄論である。
そして厚顔無恥にも地震の予知能力があるかのように色んな予言をしたが、悉
く外れた。特に面白いのは平成十年一月に「今年の二月(平成十年二月)まで
に小田原大地震が起きる」と言い、同年十二月には「小田原の大地震も秒読み
の段階に入った」と言っていたが、幸いなことに外れた。
浅井の〝予言〟は、その時の状況で二転三転する。
例えば、昭和五十七年に「二〇〇七年までに顕正会が広宣流布できなければ核
戦争によって人類は絶滅する」と予言。その後、「二〇一四年まで」と変更し
たが、顕正会は広宣流布できず、人類も絶滅していない。
浅井は当たった試しがない地震予知をはじめ、経済破綻、日本国の滅亡、人類
の絶滅、ソ連(当時)・北朝鮮・中国による侵略、核戦争、大旱魃など的外れの
予言を連発しては人々の不安を煽り続けていた。
ところが、肝心の阪神・淡路大震災や東日本大震災は予言できなかった。
国立戒壇は邪義
浅井の口癖の国立戒壇は明治時代の国柱会・田中智学の造語で御書にはない。
田中智学は日本の国体と仏法が一致するという邪義を考え、その見地から国立
戒壇を提唱したのだが、日蓮大聖人の仏法は世界宗教で、日本一国の宗教では
ない。
宗門は戦前に国家権力に迎合しようと一時期、国立戒壇論を取り入れた。学会
は外護団体として宗門の国立戒壇論に従ってきたが、戸田第二代会長は国教化
を明確に否定していた。
つまり、学会は国柱会と同じ意味で国立戒壇を唱えていた訳ではない。戸田会
長は民衆の幸福を最大の目的に掲げ、事の戒壇の本義を「広宣流布の象徴」と
見ていたのである。
大聖人ご在世当時と今は社会状況が違う。戒壇建立は古代・中世の日本仏教で
重視されたが、現代の仏教界では関心の的ではない。
戒壇建立は化儀だから、時代に応じて考え方を変えてもよい。もしも、化儀を
変えるべきでないと言うなら、顕正会は、まず今の宗門坊主が宗開両祖の禁じ
た肉食妻帯を平気で行っているのを、何故、糾弾しないのか、と問いたい。
また、顕正会は平成九年七月に「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」
、続いて同十六年四月には「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と題する小冊
子を会員に何十、何百部と他部数を購入させ、全国に配布させた。
粗末な冊子の販売と発送を「一国諫暁」と称していたが、世間からは無視され、
反感を招いた。
更に、顕正会は東日本大震災に際して、不安感や恐怖心を煽る一方、浅井らは
〝顕正会からは一人の犠牲者も出ないで全員が守られた〟と宣伝していた。
特に、浅井は「私はただ東北の十数万顕正会員の身の上だけを案じた。だが、
不思議にも全員が御本尊様の御守護を頂いたのです」と力説していたが、浅井
の言い分は実に怪しいと見られていた。
顕正会の反社会体質について「治安フォーラム」が綿密な取材に基づいて記述
しており、大いに参考になるので次号で紹介する。