[48]
(発行=23.09.06)
権威主義的な「印籠教学」の日蓮正宗
「謗法の地にある本尊は受持の対象ではない」
「学会常住」の御本尊で大功徳を満喫
日蓮正宗の謀略紙「慧妙」が「『創価学会常住』本尊の由来」と題する記事
を七月十六日付、八月十六日付に掲載していた。旧態依然の愚劣な記事で、捨
て置こうと思っていた。
だが、放置していると「慧妙」は本紙が反論できないと勘違いして増長するの
で簡潔に破折する。
「慧妙」は第二代会長の戸田先生が「大御本尊根本」と言っていたのに「時は
流れ、代が下ると人も変わる」と書いている。
これは要するに、学会が「大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象に
はいたしません」と決めた事を指すのであろう。
他の宗門の機関紙誌でも学会が「大御本尊を棄てた」等と繰り返し書いてい
る。
これまでも再三、述べた通り、日如が早瀬義寛と名乗っていた当時、学会の
会則の「三大秘法の大御本尊を信受し」について、御講の席で「学会が大御本
尊を信受するなんて、破門された学会には許されない」と叫んでいた。
そのため、学会は他宗派の謗法の大石寺にある御本尊を「受持の対象にしない」
と決めたのであろう。
身延派のように「板本尊は真っ赤な贋物」「板本尊は偽作」等と否定してはい
ないし、ましてや、日顕が「戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑
定の結果解った」と語ったように鑑定してニセ本尊だと決めつけた訳でもない。
もし、戸田先生が今も健在で、現在の謗法化した大石寺を見たならば、必ず「
受持の対象にするな」と指示したに違いない。
更に「大白法」は顕正会の遥拝勤行について「会員たちへの目眩(くら)ましに
過ぎない」(平成三十一年三月一日付)と述べ、総本山に参詣し、大御本尊にお
目通りすることによって「広大無辺なる大功徳が具わる」と書いている。
遥拝勤行に功徳はなく、大石寺に登山することによって功徳があるという訳だ。
学会員が登山できないように月例登山会を廃止したのは日顕であった。
これでは受持の対象にしないのは当然であろう。
だが、大石寺に登山しなくても、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願
成就」の御本尊に御祈念して、広宣流布は世界百九十二ケ国・地域に拡大し、
各家庭に御安置の日寛上人御書写の御本尊によって学会員は大功徳を満喫して
いる。
「慧妙」は「時は流れ、代が下ると人も変わる」と述べ、変わってはいけない
ような言い種だが、学会は時代・社会の移り変わりを見極めながら変幻自在に
広宣流布を進めてきている。
早稲田大学で博士号を取得した為に宗内で冷遇され、遂に日蓮正宗の僧籍を離
れた花野充道氏が次のように指弾していた。「原理主義者は、ややもすれば鎌
倉時代の服(御書)にあわせて人間を切ろうとするが、人間にあわせて服を調
整する柔軟性をもたなければ海外布教はできない」
また、社会学者の西山茂氏は「伝統的な石山教学は板本尊と血脈を楯にとった
権威主義的な『印籠教学』である」と指摘していた。
印籠と言えば、水戸黄門の印籠が威力を発揮したのは江戸時代の日本だけだ。
日如が請願達成せよ、と檄を盛んに飛ばしても布教が進む筈がない。呵々大笑。