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題名:フェイク 第1775号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2024/09/02(月) 19:50 2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3(IPv6:) (2605:6440:2000:3000:307:c83:9fa9:70c3)

(発行=24.08.31)

日顕が本門正宗の邪僧と親交
夏季特集 日蓮正宗の謗法行為を集大成 ⑤
「大石寺は紆余曲折、細々と生き延びた針金宗」

日蓮正宗は本山の大石寺が富士山の西南の麓に位置することを宣伝文句に転用
して「富士の清流」と称しているが、「清流」だったのは開創の当初と学会が
外護していた期間に限られる。

 大石寺の最初の内紛は、早くも第三祖・日目上人の死後に起こり、僧の本分
を忘れた者たちは相続争いや権力闘争に明け暮れ、清流は次第に濁流となり、
泥流になっていった。

 室町時代には日有上人の留守中、阿闍梨號をもっていた三人が大石寺を売却
し、同上人が帰って買い戻して三人を追放。江戸時代を経て今に至る紆余曲折
の歴史を見ると、謗施を受け、供養の金を資金に金貸し業を営むなど俗悪な処
世術で生き延びてきた。

身延派の学僧で立正大学の名誉教授などを歴任した文学博士の宮崎英修(写真
下)は平成三年の春、次のように語っていた。

「大石寺は昔から、時の権力者に諂(へつら)うなど、クネクネと曲がって細々
と生き延びてきたので、私たちは『針金宗』と皮肉を言っているのです。

しかし、大石寺は『針金宗』を誉め言葉だと勘違いして、自慢しているから滑
稽です。それに今の大石寺の阿部日顕という人は気が短くて、人の意見に耳を
傾けようとしない。器の小さい頑固者だと思う」と。横にいた宗務総長も「全
くその通りです」と苦笑していた。

大石寺は人材不足で邪宗の要法寺から造仏読誦の謗法僧・十七世日精など九人
の法主を迎えた。その後、江戸時代に第二十六世日寛上人の出現によって濁流
が一時期、浄化された。

だが、その後も問題の法主が多い。浅間神社に御本尊を納めた三十三世日元、
貧しい農民らを相手に金融業を営んでいた五十一世日英、激しい確執を続けた
五十二世日霑と五十三世日盛などは現在の宗内では余り知られていないが、法
主としてあるまじき行為だ。

また、国柱会の幹部ら謗法者に御開扉をさせた五十五世日布、日露戦争の時に
戦勝守護の御本尊と称する疑似本尊を特別に供養した「特志者」に一万幅も授
与した五十六世日応は許容できない。

更に、身延派管長の導師で読経・唱題した謗法同座の五十七世日正、御本尊を
誤写した日顕の父の六十世日開、妾狂いで背任罪の六十一世日隆(左に掲載し
た読売新聞の記事を参照) などは言語道断だ。

そして伊勢神宮の神札を受けて焼死した六十二世日恭、神本仏迹論の邪説を唱
えた小笠原慈聞を密かに僧籍復帰させた六十三世日満によって大石寺は〝富士
の濁流〟となっていた。

この謗法の山寺だった大石寺は、学会の外護によって守られた。いみじくも、
五十九世日亨上人は「学会の出現がなければ、今ごろ宗門は潰(つぶ)れていた」
と述懐。学会の出現によって、日蓮大聖人の仏法の偉大さが世界に広く証明さ
れた。学会の存在自体、御仏意の賜物といえよう。

この学会の外護により、日蓮正宗は、かつてないような興隆が見られるように
なった。

邪宗の坊主に色紙二枚を贈った日顕

だが、相承を詐称した日顕が阿部家の墓を禅寺に建立、更に「法主本仏論」を
主張するようになったことで日蓮大聖人の御精神は日蓮正宗から完全に消滅し
た。

また、日顕は学会員への御本尊下付を中止し、学会による月例登山会を添書登
山に切り替えたばかりか、平成三年十一月には学会を破門した。その結果、宗
門は凋落の一途を辿ることになったのである。

この日顕が、かつて邪僧の小野寺日了と親交を深めていた事実について述べる。

小野寺について、顕正会の浅井昭衛は「にわか坊主」と非難していたが、むし
ろ「ペテン坊主」と言った方が適切だろう。

本名は小野寺直だが、「本門正宗・富士山久遠常在院本門寺の上行院日了上人」
と名乗り、日目上人の末裔と自称し、今の大石寺の坊主はニセ坊主だと豪語す
る。「大石寺の坊主はニセ坊主だ」との表現は的を射ているが、それ以外はデ
タラメである。

日顕は、この小野寺と親交を結び、驚くことに色紙二枚に染筆(揮毫)して贈っ
ていた(下の写真参照)。

その一つは「為 小野寺直氏 見雨猛知龍大 昭和己未初秋 日顕花押」と記
し、二枚目は「為 小野寺直氏 見花盛知池深 昭和己未初秋 日顕花押」と
書いていた。

日顕が色紙に書いたのは、御書に「雨の猛きを見て竜の大なるを知り 花の盛
なるを見て池の深きことを知る」と記されており、この御文を借用したのであ
る。

「昭和己未(つちのと ひつじ)とは、昭和五十四年のことであり、日顕が相承
を詐称して七月に〝盗座〟した後の初秋、御書から抜粋した御文を揮毫して宗
教詐欺師のような邪僧に贈っていたのである。

ところが平成三年八月、全国教師講習会では予定していた「十不二門」の講義
を変更して、小野寺日了について長々と批判した。

突然の小野寺批判を不審に思った受講者も多かったようだ。

実は、この前月は添書登山に切り替え、宗門が学会に対する圧力・攻撃を強め
た時であった。こんな時に二枚の色紙に揮毫して邪僧に贈り、親しく交流して
いた事実を学会側に指摘されるのを恐れた日顕が慌てて小野寺を批判し、我が
身を守ろうとしたと思われる。

身延の坊主も参拝

今から約三十年以上も前になるが、富士宮市内の日蓮宗本源寺の僧・本間俊牽
(当時、八十三歳)は次のように語っていた。

「大石寺は昔から〝争いの寺〟なんて言われていましたがね。それで貧しくて
ね。今は学会のお陰で大石寺の坊さん達も皆、経済的に太ってますがね。私は
昭和の初め頃ですが、えー、五年間ほど大石寺へ時々、通っては御開扉を受け
てました。向こうの方から頼まれて行っていたんですよ」

本間が御宝蔵に行く度に大石寺の高僧と一緒に参拝し、親しく懇談したほか、
資料なども寄贈して貰ったことがあるとのことだ。

この本間は六十二世日恭の板本尊が安置された大石寺近郊の文殊堂で毎年八月
に勤行、これには法華講員も参加していた。これが実態である。 (この項、
終り)







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