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宿坊2の掲示板


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題名:日蓮仏法の私なりの解釈 3 (功徳と利益の形態 前)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2023/08/07(月) 14:06 2001:ce8:127:e3a4:4ce4:1683:484:9a52(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:4ce4:1683:484:9a52)

日蓮仏法の私なりの解釈 3 (功徳と利益の形態 前)


功徳について

功徳とは、俗に神仏の信仰から得られた果報(必然の結果としての報酬)を言い、梵語の求那(ぐな、Guna)の訳語で、功能(功用能力:ものの働き、手柄)福徳(善行またはそれに類似した行いによって得られる福利・福報)の意味を持ちます。
法華経薬草喩品第五には「如来真実の功徳を説く。誠に所言の如し。如来復、無量無辺阿僧祇の功徳有り」
勝鬘(まん)経宝窟には「悪尽くるを功といい、善満つるを徳と称す。また、徳とは得なり。功を修して得るところなるが故に功徳と名づく」
天台の仁王経疏には「物(相手の人)に施すを功と名づけ、己に帰するを徳という」
とあります。
妙法を信じ行ずる事によって得られる自己の変革、崩されることのない幸福境涯の確立こそが、功徳に外ならないのです。


「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。四大声聞の領解に云わく『無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり』云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや」(観心本尊抄 新134-5頁・全246頁)
現代語訳:(先に論難した権教・迹門・本門の)釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足しています。我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのです。法華経信解品に四大声聞が領解して「無上の宝聚を求めなくても自然に得られた」と述べていますが、我らの己心の声聞界(が妙法蓮華経を受持し奉り、無上の大功徳に歓喜している姿)がこれなのです。方便品には、仏が「(法華経にて一切衆生に即身成仏への大直道を教えたので)私の様に衆生が等しくして異なることがなくなったのです。私がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして皆仏道に入らしめることができた」と説かれています。妙覚の釈尊は、我らの血肉で因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。(即ち、師匠も久遠元初の自受用身ならば、弟子もまた久遠元初の自受用身として顕われ、自受用身に約すれば師弟が不二であることは明らかではないでしょうか。)
※妙法の因果の功徳とは、一切衆生を成仏させる作業の継承ではないでしょうか。


「仏の名を唱え、経巻をよみ、花をちらし、香をひねるまでも、皆、・我が一念に納めたる功徳・善根なりと信心を取るべきなり」(一生成仏抄 新317頁・全383頁)
現代語訳:仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも含めて、その全てが我が一念に納まっている功徳であり善根である、と信心をとっていくべきです。
※善根とは善を生み出す根本になるものを言い、善根を積めば善い果報を受けるのです。仏道修行の積み重ねこそ、功徳であり善根を積むことになるのです。


「『功徳』とは、『六根清浄』の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり。されば、妙法蓮華経の法の師と成って大いなる徳(さいわ)い有るなり。『功』は幸いと云うことなり。または、悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり。『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の説文のごとく修行するを、『六根清浄』と意(こころ)得べきなり」(御義口伝下 新1062頁・全762頁)
現代語訳:功徳とは六根清浄の果報です。所詮、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉れば六根清浄となります。従って、妙法蓮華経の法、すなわち御本尊を自行化他にわたって行じるところの師となって大いなる徳があるのです。功は幸ということです。または悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳というのです。功徳とは即身成仏であり、また六根清浄です。法華経の説文通りに修行することが、その身のまま六根清浄であると心得るべきです。
※悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳といい、唱題することで、六根「認識するために必要な6つの要素『根』を言い、①眼根(視覚器官と能力)②耳根(聴覚器官と能力)③鼻根(嗅覚器官と能力)④舌根(味覚器官と能力)⑤身根(触覚器官と能力)⑥意根(思惟器官と能力)の6つ」が、その身体のまま清浄になると述べられています。心清らかに、環境(依報)を五感で清新に捉えることができるからこそ、日々新たな決意もできるのでしょうね。


「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所』云々。此の文、あに自受法楽にあらずや。(中略)苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え」(四条金吾殿御返事「衆生所遊楽御書」新1554頁・全1143頁)
現代語訳:一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はないのです。法華経寿量品第十六には「衆生の遊楽する所なり」とあります。この文は、自受法楽(妙法の真理を悟り楽しむ『法楽』を自ら受け入れ自分のものとすること)のことをいっているのです。(中略)苦を苦とさとり、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないでしょうか。ますます強盛な信心をしていきなさい。
※苦労も楽しみも共にあるのが人生の実相であり、自受法楽の境涯こそが、妙法の功徳ではないでしょうか。


「今、法華経に至って、『我が願、既に満足しぬ。我がごとくに衆生を仏になさん』と説き給えり。久遠より已来、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われ給えり。かくのごとき功徳をば、法華経を信じたらん衆生は、『これ真の仏子なり』とて、『これ実の我が子なり。この功徳をこの人に与えん』と説き給えり。これほどに思しめしたる親の釈迦仏をばないがしろに思いなして、『ただ一大事をもって』と説き給える法華経を信ぜざらん人は、いかでか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし」(主師親御書 新319-20頁・全385頁)
現代語訳:今、法華経を説くに至って、「我が願いはもはや満足した、自分と同じ様に衆生を仏にしよう」と説かれたのです。釈尊は久遠の昔から、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われました。この様な修行の功徳を法華経を信じる衆生は「真の仏子であって、実の我が子であるから、この功徳をこの人に与えよう」と説かれたのです。これほどに思ってくださっている親の釈迦仏を蔑ろにして、「『ただ一大事をもって』とは、一切衆生に本来具わる仏の生命を開示悟入せしめる事が、諸仏のこの世に出現した一大事の因縁である、との意を含む」と説かれた法華経を信じない人は、どうして仏になることができるでしょうか。よくよく心に留めて考えてください。
※釈迦仏は、ご自身が得た功徳を、衆生を仏にさせる為に、振り向けられたのです。(この場合、通常は利益と呼ばれます) だから、私達もこれに応えなければなりません。


◎仏の教え(正法)に随って、自行化他の信心に励むことにより得られる恩恵(果報)を、仏教用語では「利益(りやく)」とも言い、「功徳」とほぼ同義に使われています。
拙ブログの過去記事に「信の一字」がありますが、法華経を、御本尊を、我が仏性を、如何に信じ抜くかで、この上もない功徳が、求めなくても、自然と得ることになるのですね。

「信」の一字 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)


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題名:

名前:サム

MAIL 投稿日: 2023/07/30(日) 23:26 2001:ce8:127:e3a4:d4d6:b2b2:15a9:9222(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:d4d6:b2b2:15a9:9222)

成仏について

成仏とは、「仏に成る」と解釈されていますが、己心の「仏性をひらく」が、本来の意味だと大聖人は仰せです。私達の言う「人間革命」がこれに該当しますね。

過去の関連拙ブログを紹介しますので、併せてお読みください。

信心の目的、成仏とは 前篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

信心の目的、成仏とは 後篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

前回の記事から御書の引用は「日蓮大聖人御書全集 新版」を用いています。

「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明(一念は生命、無明は根本的な迷いを意味し、生命自体に具わった根本の迷いのこと)の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如(法性と真如、共に一切諸法が本来具わっている不変真実の実相のこと)の明鏡となるのです。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつる事が磨くことになるのです。
※心の鏡とは何でしょうか。唱題することでこの心の鏡を磨く事になるのです。

「一遍此の首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし」(聖愚問答抄 新578頁・全498頁)
現代語訳:一遍この妙法蓮華経を唱え奉ると、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。例えば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まります。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。
※唱題することで、環境(依報)をも味方にするような仏性が顕れ出るのです。
 
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。これらの趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(法華初心成仏抄 新704頁・全557頁)
現代語訳:三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道は、我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着している)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつっていくことです。
※仏に成る道が明らかにされています。

「『信』のところに『解』あり『解』のところに『信』あり。しかりといえども、『信』をもって成仏を決定するなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るもの、これなり」(御義口伝下 新1060頁・全761頁)
現代語訳:信じるところに理解の解があり、理解のあるところに信心があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。今、日蓮及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、これにあたるのです。
※戸田先生も「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」(1953年2月26日 2月度幹部会)と述べておられます。信じる心は人間関係でも大切ですね。

「我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下 新1094頁・全786頁)
現代語訳:わが生命が久遠元初より仏の当体であると、初めて事実の上で覚ることを成仏というのです。つまり、わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、初めて事実の上で覚るのは、御本尊に向かってする唱題からです。
※朝の勤行は一日の決意であり、夕の勤行は一日の感謝と反省であり、日蓮仏法が他力本願でない証明ですね。

「始めて我心本来の仏なりと知るを、即ち『大歓喜』と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝下 新1097頁・全788頁」
現代語訳:(御本尊を受持することによって)初めて自分自身が妙法の当体であると確信することができ、これを大歓喜というのです。即ち南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の即身成仏を実現していくので、歓喜の中の大歓喜というのです。
※自身が「本来の仏である」と自覚すれば、当然、日々の行動もプラス思考になる筈ですよね。

「本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる」(佐渡御勘気抄 新1195頁・全891頁)
現代語訳:元々(私日蓮が)、学問をしたのは、仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、必ず命を捨てるほどの出来事があってこそ仏になるのだ、と推量するのです。
※難を超えて仏に成った者こそが、他人を救済しようとする心が沸き起こってくるのではないでしょうか。

「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書 新1285-6頁・全957頁)
現代語訳:強敵を倒して、はじめて力ある士であると知ることができます。悪王が正法を滅亡させようとの企てに、邪法の僧等もこの悪王に味方して、智者が滅びそうになった時、師子王の様な心を持つ者は必ず仏になるのです。
※師子王の心を持って(勤行・折伏をして)正法を守るならば、必ず仏になる、と仰せです。

「仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。(中略)この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」(曾谷殿御返事 新1433頁・全1055頁)
現代語訳:仏になる道は、境智の二法にあるのではないでしょうか。そうであれば、境というは万法の体(対象を客観視する)を言い、智と云うは自体顕照(妙法に自身が照らされ、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと)の姿をいうのです。(中略)この境智が合うならば、即身成仏(一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること)するのです。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えなので成仏ができないのです。今、法華経では境智が一如(表面的には異なるも、本来は不二であり平等であること)なので、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのです。
※「開示悟入の四仏知見」とは、法華経方便品にあり、諸仏世尊が世に出現した理由として、「衆生の仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん」為で、衆生はこれを理解して成仏するのです。

「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持(たも)つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)
現代語訳:法華経を聞き受ける人は多いのです。しかし、まじめに聞き信受して、大難が来ても、この法華経を常に憶い持って忘れない人はまれなのです。受けることはやさしいですが、持(たも)つことは難しいのです。ところが成仏は、(御本尊、日蓮仏法を)持ち続けることにあるのです。
※持続の信心、仏法伝持の人こそが、幸福境涯を得られるのですね。

「今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、『決定して疑いあることなけん』とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり」(教行証御書 新1676頁・全1282頁)
現代語訳:末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあるでしょうか。だからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「決定して疑い有ること無けん(必ず成仏することは間違いない)」と判定されるのです。
※人を差別することなくして、仏道修行するならば平等に仏果を得る(成仏する)と仰せです。

「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸の仏菩薩、虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別のことにはあらず、ただひとえに末法の令法久住の故なり。既に、多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏、大将としてさだめ給いしこと、あにいつわりなるべきや、しかしながら我ら衆生を仏になさんとの御談合なり」(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏が半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。しかしこれこそ、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。
※法華経にある虚空会の儀式とは、「法華経に身を任せた衆生を仏に成させよう」との大切な協議なのです、と仰せです。私達は、それに応える行動をしなければ、と思います。

「三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく『命をもって自らを帰す』等云々」(南無御書 新2162頁・全1299頁)
現代語訳:三世の仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのです。この為に一切の仏の上には南無というのです。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのです。帰命というのは、天台大師は「命をかけて自らを見つめ愛す」と解釈しています。
※我々は妙法に帰命する、即ち自身の変革を必ずします、と約束しているのです。


結論すると、成仏とは、精神の高みを目指す、境涯革命、人間革命の事なのです。
そして私達は、完成形ではなく、絶え間ないその途上にあるのです。


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題名:日蓮仏法の私なりの解釈 2 (成仏について)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2023/07/30(日) 23:23 2001:ce8:127:e3a4:d4d6:b2b2:15a9:9222(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:d4d6:b2b2:15a9:9222)

成仏について

成仏とは、「仏に成る」と解釈されていますが、己心の「仏性をひらく」が、本来の意味だと大聖人は仰せです。私達の言う「人間革命」がこれに該当しますね。

過去の関連拙ブログを紹介しますので、併せてお読みください。

信心の目的、成仏とは 前篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

信心の目的、成仏とは 後篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

前回の記事から御書の引用は「日蓮大聖人御書全集 新版」を用いています。

「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明(一念は生命、無明は根本的な迷いを意味し、生命自体に具わった根本の迷いのこと)の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如(法性と真如、共に一切諸法が本来具わっている不変真実の実相のこと)の明鏡となるのです。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつる事が磨くことになるのです。
※心の鏡とは何でしょうか。唱題することでこの心の鏡を磨く事になるのです。

「一遍此の首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし」(聖愚問答抄 新578頁・全498頁)
現代語訳:一遍この妙法蓮華経を唱え奉ると、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。例えば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まります。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。
※唱題することで、環境(依報)をも味方にするような仏性が顕れ出るのです。
 
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。これらの趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(法華初心成仏抄 新704頁・全557頁)
現代語訳:三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道は、我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着している)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつっていくことです。
※仏に成る道が明らかにされています。

「『信』のところに『解』あり『解』のところに『信』あり。しかりといえども、『信』をもって成仏を決定するなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るもの、これなり」(御義口伝下 新1060頁・全761頁)
現代語訳:信じるところに理解の解があり、理解のあるところに信心があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。今、日蓮及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、これにあたるのです。
※戸田先生も「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」(1953年2月26日 2月度幹部会)と述べておられます。信じる心は人間関係でも大切ですね。

「我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下 新1094頁・全786頁)
現代語訳:わが生命が久遠元初より仏の当体であると、初めて事実の上で覚ることを成仏というのです。つまり、わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、初めて事実の上で覚るのは、御本尊に向かってする唱題からです。
※朝の勤行は一日の決意であり、夕の勤行は一日の感謝と反省であり、日蓮仏法が他力本願でない証明ですね。

「始めて我心本来の仏なりと知るを、即ち『大歓喜』と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝下 新1097頁・全788頁」
現代語訳:(御本尊を受持することによって)初めて自分自身が妙法の当体であると確信することができ、これを大歓喜というのです。即ち南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の即身成仏を実現していくので、歓喜の中の大歓喜というのです。
※自身が「本来の仏である」と自覚すれば、当然、日々の行動もプラス思考になる筈ですよね。

「本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる」(佐渡御勘気抄 新1195頁・全891頁)
現代語訳:元々(私日蓮が)、学問をしたのは、仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、必ず命を捨てるほどの出来事があってこそ仏になるのだ、と推量するのです。
※難を超えて仏に成った者こそが、他人を救済しようとする心が沸き起こってくるのではないでしょうか。

「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書 新1285-6頁・全957頁)
現代語訳:強敵を倒して、はじめて力ある士であると知ることができます。悪王が正法を滅亡させようとの企てに、邪法の僧等もこの悪王に味方して、智者が滅びそうになった時、師子王の様な心を持つ者は必ず仏になるのです。
※師子王の心を持って(勤行・折伏をして)正法を守るならば、必ず仏になる、と仰せです。

「仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。(中略)この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」(曾谷殿御返事 新1433頁・全1055頁)
現代語訳:仏になる道は、境智の二法にあるのではないでしょうか。そうであれば、境というは万法の体(対象を客観視する)を言い、智と云うは自体顕照(妙法に自身が照らされ、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと)の姿をいうのです。(中略)この境智が合うならば、即身成仏(一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること)するのです。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えなので成仏ができないのです。今、法華経では境智が一如(表面的には異なるも、本来は不二であり平等であること)なので、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのです。
※「開示悟入の四仏知見」とは、法華経方便品にあり、諸仏世尊が世に出現した理由として、「衆生の仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん」為で、衆生はこれを理解して成仏するのです。

「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持(たも)つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)
現代語訳:法華経を聞き受ける人は多いのです。しかし、まじめに聞き信受して、大難が来ても、この法華経を常に憶い持って忘れない人はまれなのです。受けることはやさしいですが、持(たも)つことは難しいのです。ところが成仏は、(御本尊、日蓮仏法を)持ち続けることにあるのです。
※持続の信心、仏法伝持の人こそが、幸福境涯を得られるのですね。

「今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、『決定して疑いあることなけん』とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり」(教行証御書 新1676頁・全1282頁)
現代語訳:末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあるでしょうか。だからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「決定して疑い有ること無けん(必ず成仏することは間違いない)」と判定されるのです。
※人を差別することなくして、仏道修行するならば平等に仏果を得る(成仏する)と仰せです。

「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸の仏菩薩、虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別のことにはあらず、ただひとえに末法の令法久住の故なり。既に、多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏、大将としてさだめ給いしこと、あにいつわりなるべきや、しかしながら我ら衆生を仏になさんとの御談合なり」(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏が半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。しかしこれこそ、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。
※法華経にある虚空会の儀式とは、「法華経に身を任せた衆生を仏に成させよう」との大切な協議なのです、と仰せです。私達は、それに応える行動をしなければ、と思います。

「三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく『命をもって自らを帰す』等云々」(南無御書 新2162頁・全1299頁)
現代語訳:三世の仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのです。この為に一切の仏の上には南無というのです。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのです。帰命というのは、天台大師は「命をかけて自らを見つめ愛す」と解釈しています。
※我々は妙法に帰命する、即ち自身の変革を必ずします、と約束しているのです。


結論すると、成仏とは、精神の高みを目指す、境涯革命、人間革命の事なのです。
そして私達は、完成形ではなく、絶え間ないその途上にあるのです。


[41]

題名:フェイク 第1747号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/07/18(火) 13:23 2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262(IPv6:cdn77-atl) (2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262)

(発行=23.07.16)

大謗法の山寺と化した大石寺
「大白法」の〝永遠の故郷〟の戯言を粉砕 ③
根腐れの日蓮正宗は衰滅の一途を辿る

 日達法主は戸田先生の外護の精神を感慨深く伝えた。

「彼(戸田先生=編集部注)はその時にまだ獄舎から出てきて間もなく、また自
分の事業もない、故に本人に金はなかった。そこで決心してつくったのが登山
会であります」「今更ら皆様の法華講員を批難するのではありません。ただ、
その時の幹部があまりに酷かったから、今日皆様に云うのである。その幹部は
どうか、そこに列席した幹部は今どうなっておるか、実に恥ずかしいことなが
ら、天理教に行った人もありますが、その人は、すぐみじめに死んでしまいま
した。あるいは破産して行方不明の人もあります。実に惨めな人たちでありま
す」

 また、日達法主は昭和四十八年八月の教師講習会開講式でも学会の登山会に
よって宗門が裕福になったと、次のように語っていた。

 「この総本山がそれほどの農地を解放したことによって、今までは安定して
生活をしておりましたが、なかなかそれがしにくくなった。僧侶も塔中の住職
等皆、山林を開墾して、そこへ芋やキビ、トウモロコシ等を植えて生活をして
いったのでございます。大坊においても食べる米がなくて、さつまいもが常食
で、ことに富士山のヒエを買って、ヒエのおかゆを食べておった時もあるので
ございます」

 「そういう生活をしておって、そして全国の信徒からいくらかでも灯明料を
あげていただいて、本山の威儀を保とうと、その当時の宗務当局が考えまして、
全国の法華講の信者の主な方に本山に来ていただいて相談いたしました。

 ところが年に五十円の醵金(きょきん)をしてもらいたいということを申し
出ましたところ、それがほとんど不可能であった。わずか五十円の醵金すら集
まりかねたのであります」

「それに対して収支決算をして、収支決算を明らかにしなければ出すことが出
来ない、坊さんは何に使うかわからないということを法華講の信者が申された
のであります」「五十円の醵金は出来なかったのでございます。そして、その
会はついに流会となってしまった」「後で東京におきまして一ケ月か二ケ月た
ったと思いますが、妙光寺を借りてやはり東京を中心とした法華講ならびに学
会戸田先生等に来ていただいて打ち合わせをしましたが、ついにそれも充分な
話にいかなくて、ついに戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、
登山会を毎月一回、当時一回でしたが、登山会をすることになって初めて本山
は活気づいてきたのでございます」

 「ことに池田会長の時代になって昨年正本堂を建立せられ、ここに一千万登
山という大目標をもって登山会をせられたのでございます。これらのことは単
なる登山会ということがすなわち大石寺をそれだけ裕福にし、大石寺を大きく
した」

 この日達法主の話から登山会は宗門の窮状を救うために開始したことが明白
だ。

 学会は累計七千万人が登山したが、悩乱した日顕は平成三年、学会側には何
の相談もしないで取りやめた。学会員は大石寺が〝永遠の故郷〟ではなく、身
延と同様、謗法の山寺と化したので登山しないのである。血脈が断絶した根腐
れの宗門は衰滅の一途を辿っている。



[40]

題名: フェイク 第1746号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/07/18(火) 13:03 2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262(IPv6:cdn77-atl) (2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262)

(発行=23.07.15)

「極貧の宗門を救った登山会」
「大白法」の〝永遠の故郷〟の戯言を粉砕 ②
達師が戸田先生に感謝、法華講は供養を断る

日蓮正宗大石寺が、かつては寂れた山寺だったとの渡辺慈済住職の証言を前
号に引き続き紹介する。

「大石寺復興の目玉として計画されたのが〝観光地化〟であった。二十五年十
一月のことである。背に腹は替えられぬとはいうものの、明らかに間違った選
択だった。信心もしない人を大石寺に参詣させて、その人たちが落とす金を狙
うことは、謗法の布施を禁じた宗旨に違背することは明白であった。

これでは、京都や奈良の他宗寺院と何ら変わらなくなる。この誤った道に堕
ちるところを、辛うじて踏み止どまらせてくれたのが、学会の戸田先生であっ
た」「当時、庶務部長だった日達上人も、後に登山会がどれほどありがたかっ
たか、我々にしみじみ語られたことがある」

庶務部長だった後の日達法主は戸田先生の発案による登山会を「有り難かっ
た」と感謝したが、登山会に参加しないと成仏しない、功徳がないとは語って
いない。

渡辺住職の証言にある観光地化とは、大石寺の客殿に富士宮市長、上野村長、
観光協会の幹部、税務署長、富士宮駅長らを招いて「総本山を中心とする富士
北部観光懇談会」を開催して、大石寺を観光寺院化することで生き延びようと
したことである。

 この大石寺側の計画に反対したのが戸田第二代会長であった。宗門の窮状を
救うために「月例登山会」を実施して学会員が供養を持参して大石寺に参詣す
ることで経済面を支えようとしたのだ。

 謀略紙「慧妙」は以前、「観光地化による収入など目的としてはいない」等
と的外れの言い訳をしていたが、宗門は苦し紛れで観光地化によって収入を得
ようと計画したのである。

戸田先生は学会本部の建物は後回しにして五重塔を修復、更に奉安殿、大講
堂など当時の最高水準の近代建築物を建立寄進した。

 昭和四十年七月十一日、法華講東京地区連合会の第三回大会で、六十六世日
達法主は次のように語った。

「本山が衰微して、まったく御本尊様に上げるところの灯がなかった。一本の
ローソクもなかった。お寺さんは商売人じゃないから、金を儲けることはでき
ない。登山する人もいない。

土地は全部農地法によって買い上げられてしまう。どうしてやっていくこと
ができましょう。その時に法華講の幹部の方が本山へ集っていただいて、一年
間に一世帯に五十円の御供養を本山からお願いしたけれども、聞き入れてくれ
なかった。遂に色々と理屈をつくって、とうとう逃げてしまったのであります。
その時に出席しておったのが戸田前会長であります。会長は憤慨しました。

その時に決然と立って御供養することは信徒の務めである。若し、それが使
途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、始め
からそんなことを云っておるのは信徒の務めを怠っておるものである。

信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することに
ある。若し、そのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受ける
のである。地獄へ堕ちるのである」

戸田先生の言葉を日達法主は語り続けた。(つづく)



[39]

題名:フェイク 第1745号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/07/18(火) 01:41 2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262(IPv6:cdn77-atl) (2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262)

(発行=23.07.14)

大石寺は寂れた山寺に逆戻り
「大白法」の〝永遠の故郷〟の戯言を粉砕 ①
強行した記念総登山の参加者は微少

日蓮正宗大石寺は日蓮大聖人の御聖誕八百年を口実に慶祝記念総登山を三月
四日に始めたが、登山者は日顕流の表現で言うとチョボチョボで八十万達成が
ウソだった事を露呈している。

本来は令和三年に総登山を実施する予定だったが、コロナ禍のため延期して
いて、本山の財政が逼迫しているため、二年遅れて強行しているのである。

だが、登山者が少なく、折伏も全国的に行き詰まったので、学会員に触手を
伸ばして「大白法」七月一日付の「異流義破折」の欄で、池田先生の昔の指導
を引用し「〝永遠の故郷〟を捨て去るな」と述べ、学会員に「人生に当てはめ
て考えてみるべきだ」と書いている。

かつて大石寺は〝永遠の故郷〟の時期もあったが、狂乱した日顕によって寂
れた謗法の山寺に逆戻り。日頃は池田先生に悪口雑言を浴びせて謗法と非難し
ておきながら、宗門に都合の良い指導だけを切り文で引用するとは笑止千万 !

「大白法」では「霊場とは、大御本尊と血脈付法の御法主上人が厳然と在(ま
しま)す総本山大石寺のみである」と自画自賛しているが、その大御本尊につ
いて「戒旦の御本尊のは偽物である。種々の筆跡鑑定の結果解った」と断じた
のは日顕自身であった。

また「血脈付法の御法主上人」と言うが、日顕は血脈を詐称した不相伝のニ
セ法主であり、その後の日如も当然、相承無きニセ法主である。そのため、日
蓮正宗は根腐れした草木が枯れ果てるように衰滅の一途を辿っている邪宗なの
だ。

宗門は〝登山しなければ成仏できない〟〝本当の功徳はない〟と十年一日の
如く言い続けているが、実に愚かなことだ。オックスフォード大学名誉教授の
ブライアン・ウィルソン博士が「特定の〝聖地〟に行かなければ信仰が全うで
きないとするのは、世界宗教の要件を欠く」と指摘している通り、日蓮正宗は
世界宗教の要件を欠いている。勿論、大石寺は〝聖地〟でもない。

「心こそ大切に候へ」

七百年前の日蓮大聖人の時代に登山会はなく、大聖人が〝自分の所に来なけ
れば成仏できない〟〝功徳がない〟等と仰せになってはいない。

登山を強要するのは、金の亡者と化した日蓮正宗の坊主共の脅し文句である。
大聖人が佐渡の千日尼に送られたお手紙には「御面を見てはなにかせん、心こ
そ大切に候へ」と記され、お顔を見たからといって何になろう、心こそ大切で
あると仰せになっている。

登山会は経済面で
宗門を支えるため

現在の宗門の坊主や「大白法」編集部の者たちは、創価学会の第二代会長・
戸田先生が登山会を発案した真意も知らず、筋違いで身勝手な主張を繰り返し
ているので、改めて登山会発足の経緯を記すことにする。

学会が出現する以前の大石寺は極貧にあえぎ、二大行事といっても参詣者は、
ごく少数だった。

例えば、明治二十四年の虫払いは当時の機関紙には「六十有餘人々態々登山
せられたる深信感ずべし」と記し、同二十六年には東京から七人、埼玉から三
人、横浜から十数人、尾張から一人等と書き、総勢で数十人なのに「最も盛大
なる法會にてありき」と喜ぶ有り様だった。

戦後の苦境時代をよく知る吉田義誠(日勇、故人)は次のように述懐していた。

「昭和二十二年八月二十日、私は内事部理事補(御仲居)を拝命したのであり
ますが、我が国は有史以来の敗戦という大きな不幸に遭い、社会的にも混迷の
どん底の時でありました。

総本山は第一次・第二次農地開放によって、所有していた土地の殆んど全部
を開放し、喰べる米とてなく、来る日も来る日も芋をたべ、或いは南瓜を食べ
て餓えをしのぐありさまでした」と振り返っていた。

また、前川慈肇(日秀、故人)も次の通り述懐した。「『それ飯だ!』、合図
の拍子木が鳴るや否や、所化も小僧も一斉に食堂へ飛出した。たしかに食事に
は違いないが、『米の飯』ではなかった。通常カラッピーと称する殻類の摺り
かすを、メリケン粉で団子にしたすいとんである。汁は塩味、それに芋の葉が
入っているだけのもので、それも芋や大根の葉なら上々、何だかわけのわから
ない葉が浮いていることもあった。食べられるか食べられないかは、その日の
食事当番を信ずる外に仕方のないことである。勿論、うまいもまずいもない、
食べられれば良しとしたのである」

次に、戦後の生き証人であった渡辺慈済住職は次のように証言していた。

「私が得度したのは昭和二十四年。当時の本山は、今日からは想像もできな
いほど困窮しており、貧乏寺そのものだった。

昭和二十年六月十七日に起きた大石寺の火災で、大奥や書院、客殿等を焼失。
約六百坪がポッカリ焼け落ちてしまった。それに追い打ちをかけるように戦後
の農地改革の波である(中略)。昭和二十三年十一月に客殿は再建されたが、御
影堂は雨漏りがし、五重塔はさらに状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷
んでいた。

当時の日昇上人の住まいも、バラックというありさまだった」

「大坊でも、今の客殿前の広場となっている所に、わずかばかりの田んぼが
残った。しかし、耕すにも近くの農家は馬を貸してくれず、道具だけ借りて、
当時の所化七人が馬代わりになって働いた。近所の檀家の人々は『七頭だて!』
と笑って見ているだけで、手伝ってはくれない。お仲居まで加わり、皆泥だら
けになっての作業だった。先の見通しも明るさもなく、苦労と貧乏の時代だっ
た」

「貧しい山寺だった」

「檀家はというと、自分たちの生活が手一杯で、大石寺のことを考えるどころ
ではなく、本山からすっかり遠ざかっていた。檀家を、どうやって大石寺に参
詣させるか。さまざまに議論、検討された。そこで浮上したのが、『総本山法
華講』 を発足させることであった。

昭和二十五年、大聖人御聖誕の意義を刻む二月十六日に、御誕生会を兼ねて
発足式を行った。八月のお盆と、二月の誕生会の時に総会を持ったが、檀家の
人たちは足を運ばない。一つの対策として、浪花節語りとか漫才師などを呼ん
で〝客寄せ〟に使った。

しかし、これはお金のかかることでもあり、自前の芝居を打つことになった。
この出演者に、我々所化小僧も駆り出されることになったのである」「二十五
年八月のお盆の時の集まりでは『佐渡の御難』という題で劇を行った。

この時、客殿には、法要の時に集まったのは二百八十人ほどだったが、劇の
時には五百人に膨れ上がった。

芝居の〝客寄せ効果〟はあった訳だが、手を替え品を替え、懸命になって集
めても五百人集まるのが精一杯の寂れた田舎の貧乏寺だったのである」(つづく)





[38]

題名:日蓮仏法の私なりの解釈 1(日蓮仏法への招待)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2023/07/04(火) 14:55 2001:ce8:127:e3a4:bca0:141e:da4e:3fa6(IPv6:k-opticom-jpnic-jp-20030113) (2001:ce8:127:e3a4:bca0:141e:da4e:3fa6)

誰もが、『宗教の目的は人々を幸福にする為である』という事に異論はないでしょう。
しかしながら、他力本願ではなく、各個人が自身の人間的成長を目指して、自己啓発、変革、革命を目的にした宗教は、創価学会以外に存在しているでしょうか。さらに、真実の世界平和の実現を目指して自宗の拡大を実施している宗教が、創価学会を除いて存在しているでしょうか。
しばらくは、直接三大秘法について解釈するのではなく、副題を設けて日蓮仏法を私なりに、解釈したいと思っています。

日蓮仏法への招待

「総じて一代の聖教は一人の法なれば、我が身の本体を能く能く知るべし。これを悟るを仏と云い、之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文廃立 新718頁・全567頁)
現代語訳:総じて一代の聖教は一人のことを説いた法ですから、我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。
※日蓮仏法は、この自覚を基本として求めているのですね。

「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。しからば則ち、三界は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。十方はことごとく宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身はこれ安全、心はこれ禅定ならん」(立正安国論 新45頁・全32頁)
現代語訳:あなたは一刻も早く邪法信仰の寸心(わずかな考え)を改めて、実乗の一善(たる日蓮の法門)に帰依しなさい。そうすれば即ち、この三界(仏教の世界観で、欲望の世界『欲界』、物質の世界『色界』、精神の世界『無色界』の3つ)は皆仏国です。仏国であるならば、どうして衰微することがあるでしょうか。十方の国土はことごとく宝土です。宝土であるならば、どうして壊れることがあるでしょうか。国に衰微なく、国土が破壊されることもなくなれば、あなたの身は安全になり、心にはなんの不安もない幸福生活を送ることができるのです。
※国土は環境であり、破壊されなければ平和となり、個人的には身体は安全、精神も不安なく、幸福を享受できるのです。

「信心と申すは別にはこれなく候。妻のおとこをおしむがごく、おとこの妻に命をすつるがごとく、親の子をすてざるがごとく、子の母にはなれざるがごとくに、法華経、釈迦・多宝、十方の諸の仏菩薩、諸天善神等に信を入れ奉って、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、信心とは申し候なり」(妙一尼御前御返事 新1697頁・全1255頁)
現代語訳:信心というのは、特別これといって難しいものではありません。妻が夫をいとおしく思う様に、また夫が妻のためには命を捨てる様に、親が子を捨てない様に、子供が母親から離れない様に、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・諸天善神に信を入れて、南無妙法蓮華経と唱え奉る事を信心というのです。
※信心は、己心の諸仏を尊崇しつつ、日蓮仏法が最高唯一の哲学と信じ唱題を続けることと思っています。

「善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に、心の外に善無く悪無し。この善と悪とを離るるを無記と云うなり。善・悪・無記、この外には心無く、心の外には法無きなり。故に、善悪も、浄穢も、凡夫・聖人も、天地も、大小も、東西南北・四維・上下も、言語の道断え、心行の所滅す。心に分別して思い言い顕す言語なれば、心の外には分別も無分別も無し。言(ことば)と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷って、知らず覚らざるなり。仏はこれを悟り顕して神通と名づくるなり。神通とは、神の一切の法に通じて礙り無きなり。この自在の神通は、一切の有情の心にてあるなり。」(三世諸仏総勘文廃立 新713頁・全563頁)
現代語訳:善に背くのを悪といい、悪に背くのを善という。故に心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのです。善悪無記(善と悪とも記しようがない)、この外には心はなく、心の外には法はないのです。この故に、善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのです。心で分別した思いを言い表すのが言語ですから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのです。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのです。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのです。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのです。この自在の神通は一切の有情の心に具わっています。
※仏が悟り顕した「自在の神通」は我々の心にも備わっていると仰せなのです。

「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり。信心の厚薄によるべきり」(日女御前御返事 新2088頁・全1244頁)
現代語訳:「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、成仏していくことが最も大切なのです。ひとえに信心の厚薄によるのです。
※水の流れる様な信心をして行きたいです。

「法華の行者は、男女共に『如来』なり。煩悩即菩提・生死即涅槃なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『与如来共宿』の者なり。」(御義口伝下 新1027頁・全737頁)
現代語訳:法華経の行者(即ち、南無妙法蓮華経を唱え折伏を行ずる者)は、男女ともに如来なのです。それは、煩悩即菩提、生死即涅槃の生活を送るからです。今、(南無妙法蓮華経を唱える)日蓮大聖人およびその門下は、「如来と共に宿する」者なのです。
※信仰に依る幸福への道の機会は平等なのです。

「『如来』とは、三界の衆生なり。この衆生寿量品の眼開けてみれば、十界本有と実のごとく知見せり。」(御義口伝 新1050頁・全753頁)
現代語訳:(経文に説かれている)『如来』とは、(久遠実成の釈尊だけではなく、)三界の衆生のことなのです。寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、と有りのままに知見できるのです。
※我ら三界の衆生は、仏に成るべき権利があるのです。

「一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行なり。」(御義口伝 新1099頁・全790頁)
現代語訳:我が一念に億劫にもわたる辛労を尽くして仏道修行に励んでいくならば、本来、自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間に起こってきます。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行(向上心を持って懸命に励む姿及び修行)なのです。
※真剣・持続の誓願(実現させるべく当方が誓いをたてる)によって物事が始まるのです。

「六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おえざりしかば、仏にならせ給わず。今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。いわゆる、地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことわり顕る。譬えば竹の節を一つ破ぬれば、余の節また破るるが如し」(法蓮抄 新1420頁・全1046頁)
現代語訳:六道四生(六道に出生する仕方に、卵生・胎生・湿生・化生の四種があるとされている)の一切衆生は、皆我が父母です。孝養を終えないうちは、仏になられなかったのです。今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経です。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が示されたのです。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものです。
※一人の人物を救済する事が一切衆生を救済する事に通じ、中でも最も恩のある父母を成仏させることができれば、全ての人を成仏させられると仰せです。

「この御本尊全く余所に求ることなかれ。ただ我ら衆生の法華経を持って南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり。これを九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは、十界一界もかけず一界にあるなり。これによって曼陀羅とは申すなり。曼陀羅というは天竺の名なり。ここには輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり」(日女御前御返事 新2088頁・全1244頁)
現代語訳:この御本尊は、全く他所に求めてはなりません。ただ、我等衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。これを「九識心王真如の都」というのです。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということです。これによって、御本尊を曼陀羅というのです。曼陀羅というのはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも、功徳聚ともいうのです。
※己心の曼荼羅と同等の紙幅の曼荼羅は、己心を映す鏡であり己心を鍛えるトレーニングマシンと言えるのではないでしょうか。


◎私ごときが、偉大な大聖人の仏法を解釈するなど、大変おこがましい事ですが、どうしても言わずにはいられなくて、あえて申し上げる事にしました。
御書を拝読すれば明らかですが、大聖人は妙法の力で我々を成長(人間革命)させ、この身のままで成仏させよう(即身成仏)と法を説かれたのです。
仏教は幸福探求の為の宗教であって、決して葬儀や故人の法事を実施する為ではないと教示された。大聖人は、楠板本尊を建立されていないし、戒壇本尊なる言葉も無かったのです。


[37]

題名:フェイク 第1744号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/06/06(火) 17:46 2a02:6ea0:c132:0:86bd:27a0:9371:5cb4(IPv6:cdn77-atl) (2a02:6ea0:c132:0:86bd:27a0:9371:5cb4)

(発行=23.06.05)

行き詰まった日蓮正宗の折伏
早瀬日如が檄を飛ばしても「馬の耳に念仏」
布教部長・阿部日明の常在寺も僅か一割

 早瀬日如は日頃から「折伏しろ、誓願目標を達成しろ」と檄を飛ばすしか能
がない。以前の「平成三十三年(令和三年)迄に法華講八十万人体勢構築」と
の無謀な目標は達成できなかったが、今も性懲りもなく、五月度の広布唱題会
で「全国の各支部は講中一結して折伏を実践し、もって御宝前にお誓い申し上
げました本年度の折伏請願目標は必ず達成されますよう、心から願うものであ
ります」と折伏を煽っていた。

 布教部長の阿部日明が居座っている常在寺(東京・南池袋)の法華講員に、折
伏の現状は目標の五割位かと問うと「いやいや、なかなか進まない。五月末現
在の成果は目標の約一割で、下種先リストの提出を求められているが、これも
少ない」と言い、折伏が停滞していても悩んでいる様子はなく、苦笑していた。

 布教部長の寺の折伏が行き詰まっているのだから、他の末寺は推して知るべ
しである。

 いくら日如が檄を飛ばしても、法華講員にとっては「馬の耳に念仏」という
ことのようだ。

 折伏の経験が一度もない日如は大願寺時代に「折伏と言っても入信させたい
者を寺に連れて来れば良いのだから簡単だろう」と呑気なことを言っていた。

令和元年十一月の広布唱題会で日如は、江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山の「為
せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の言葉
を引いて、折伏をすれば直ぐにでも出来る筈だ、と無知を晒していたという。

 このように日如が執拗に折伏を煽っているのは、登山者や末寺に来て供養す
る信者を増やすのが目的で、日蓮大聖人の仏法を金儲けに悪用しているのであ
る。

だから日蓮正宗は〝日蓮商宗〟と嘲笑され、法華経の行者ではなく〝法華経の
業者〟と揶揄されるのだ。

 改革同盟の渡辺雄範住職によると、日如は所化の頃から学会を嫌悪し、陰で
批判していたという。ところが住職になってからは敵意を隠して口先で学会を
賛嘆し、学会員の方々から御供養を取ってきたとのことだ。

慈悲の欠片もない勧誘

 また、渡辺住職は「日如は身内以外には極めて冷酷で、所化や平坊主に対し
て罵声と暴力で萎縮させる」と指弾していた。

 末寺坊主は成果が悪いと冷酷な日如、それに布教部長の阿部から締め上げら
れるので法華講員にハッパを掛ける。煽られた法華講員は渋々、勧誘している
ので、その言動には真心とか慈悲の欠片も感じられない。言葉遣いは乱暴で非
常識だ。この点は日蓮正宗法華講だけではなく、邪教の顕正会も同様である。

 学会の第二代会長・戸田先生は「何のために折伏するのですか?」という会
員の質問に対して「不幸な人、悩んでいる人が気の毒だから、折伏するのだよ」
と答えていたという。

第三代会長・池田先生の指導も同じだ。学会の布教活動は、単に会員を増やす
のが目的ではない。この世から「不幸」と「悲惨」をなくし、自他共の幸せを
拡大する慈悲の行為なのである。これが謗法で成果主義の法華講や顕正会と根
本的に違う点である。



[36]

題名:フェイク 第1743号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/04/12(水) 22:39 173-239-196-153.azu1ez9l.com (173.239.196.153)

(発行=23.04.09)

宗門通達に矛盾する「慧妙」の弁解
「河辺メモ」に関する「慧妙」の屁理屈を粉砕 ㊦
正信会僧に濡れ衣を着せて言い逃れ

日蓮正宗の謀略紙「慧妙」の四月一日付は「河辺メモ」について宗務院の通達
と食い違う戯論を書いている。

それは戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊を比較したのは後の正信会僧で、昭
和五十年当時、疑難が出ていたと述べている箇所で、整合性がとれない。

正信会発行の「日興門流上代事典」に戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊に関
する疑難の記載があるので「慧妙」編集部が、編者の正信会僧に確認したとい
う。

この「慧妙」の記事の真偽の程は疑わしいが、昭和五十年頃、その説があった
として次のよう書いている。

「昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御
本尊』の遠景写真と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があり、これら
の意見を事典の性質上、中立の立場で掲載したとのことであった」として、後
に正信会となる一部の僧が口にしていた妄説を日顕が説明し、それを河辺がメ
モに書いたように誤魔化している。

この記事は宗務院の二通の通達に矛盾している。

平成十一年七月九日の通達で宗門は「河辺メモ」の記載について、次のように
言い訳していた。

「当時は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が
多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、そ
れらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります」と。

これによると河辺のメモは「裁判も含め」「外部からの疑難」を記したものと
いうことだ。これは疑難の主が「後の正信会僧」という「慧妙」の記事とは違
う。「後の正信会僧」も昭和五十年当時は〝宗門の内部〟にいたのだ。要する
に「慧妙」は「外部からの疑難」という宗門通達の釈明を否定していることに
なる。

更に、七月十日に出た通達は河辺の「お詫び」の形で次のように記していた。

「それら(外部からの疑難)と関連して、宗内においても『戒壇の大御本尊』
と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御
本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生
じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります」

これは今後、宗内に生じる可能性のある妄説についての説明というのが河辺の
弁解であった。

ところが「慧妙」は、これとも矛盾する。

「慧妙」は疑難の主が昭和五十年当時は〝宗内〟にいた「後の正信会僧」だと
書いている。この「慧妙」によれば、疑難、妄説が既に五十年には宗内に存在
していたということだ。

だが、この弁解では、その三年後の五十三年に〝今後、宗内に生じる可能性〟
の妄説という河辺の釈明は成立しない。

そして何より奇妙なことは「疑難」だけを書いて、河辺が伺ったという肝心の
「破折」についての記述が一文字もない。日顕は自分が抱いている「疑難」だ
けを語って「破折」は何も言わなかったということだ。

また「慧妙」は「G(=猊下)は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今
後の宗門の事ではGでは不可能だ」等の発言も正信会僧だと濡れ衣を着せてい
る。

左に添付した河辺の文字を「慧妙」は間違って「写真判定」と読んでいるが、
これは「字画判定」と読むのが正しい。河辺本人が「これは字画判定だ」と言
っていたとのことだ。「慧妙」も当初は「字画判定」と読んでいた。

ところが、当時、教学部長だった日顕は写真でなくても現物を間近に見ること
が出来る。そこで「『日禅授与の御本尊』の遠景写真と『戒壇の大御本尊』が
酷似している……」と書いて、鑑定したのは間近に見られない「後の正信会僧」
が写真で判定したと決めつけるため、故意に「写真判定」と誤読しているのだ
ろう。

いかにも「慧妙」らしい姑息な手法だ。

後に正信会になる僧達は、日達法主の直弟子の妙観会を中心として盲信的に信
伏随従して活動していた。この僧達が「猊下は話にならない」と批判する筈が
ない。

仮に一部の者が言っていたとしても、そんな平坊主の発言を河辺が「強烈に意
識に残りました」と、記録するとは思えない。

日達法主に苦言を呈している発言の主が日顕であることは明らかだ。
 
日顕は御本尊鑑定の専門家気取りだった

この頃、宗内で御本尊の鑑定ができたのは日顕一人だったと老僧が言っていた。
「鑑定の結果解った」とは日顕しか言えないことだ。特に、日顕が「御本尊鑑
定の専門家」を気取って話していたこともある。

これは平成四年九月二十一日、熊本・法観寺の寺号公称・落慶入仏法要の席で
の説法である。

日顕は、間違いなく大聖人様の御真筆だと拝せられる御本尊が、各地に格護さ
れていると述べた後で「ニセものの本尊も多い」と強調。「それらニセものに
も、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらに十級ぐ
らいまでありまして……」と「偽物」も約十種類の等級に分けられると語り、
特殊技能者によって書写された超一級の偽物も、日顕は見ただけで「臨書」(
横に並べること)で書写した本尊だと分かると自慢していた。

そして日顕は教学部長の頃に「中世」の「ニセ本尊」を書いた人物の筆法・筆
跡を熟知するほど数多く鑑定していたとも告白していた。

河辺は処分されずに新宿の大願寺へ栄転

平成十一年八月三十日、大石寺で日顕、藤本、早瀬に河辺を加えた四者会談が
開かれ、河辺の最終的な処遇が決まり、その正式な申し渡しは、河辺が住職を
している札幌市内の日正寺の開創八十周年法要(九月五日)の後と決まった。

そして九月七日、河辺が本山に呼ばれて、日顕から言い渡されたのは隠居でも
降格でも左遷でもなかった。

ナント、東京・新宿区内の大願寺への栄転であった。このため大願寺住職だっ
た長倉教明(当時は財務部長)は札幌の日正寺に移ることになった。

大願寺といえば新宿区内の一等地(五百坪)に学会が建立寄進した寺を長倉の
前の住職・早瀬義寛(日如)が十五億円の巨費を投じて建て替えた最高級料亭の
ような豪勢な寺である。

「北海道に左遷された。いつか必ず東京に帰ってやるぞ」と言っていた河辺は
念願が叶ったのである。

この栄転は「記録ミス」ではなく、日顕に懇願された河辺が〝猊下の御宸襟を
悩ませた〟と心にもない謝罪をしたので、その見返りだと言われていた。

過去にもメモで恫喝

実は、河辺がこのメモを使ったのは二度目で、昭和五十四年十二月二十六日に
日顕を恫喝した前歴があった。正信会寄りの菅野慈雲が庶務部長を更迭された
時、その後任は自分だと河辺は思っていたが、就任したのは常在寺の早瀬義孔
だった。

怒った河辺が帝国ホテルでの面談の内容を使って「おれを忘れるな」と詰め寄
り、その脅しが効いたのか、河辺は翌年六月、徳島・敬台寺から東京・妙因寺
に栄転した過去がある。

日顕の三大汚点は相承詐称、シアトル事件、それに「戒壇の大御本尊は偽物」
という発言を記録した「河辺メモ」である。

この日顕の三大汚点は、弱小教団になった山寺で語り継がれることだろう。






[35]

題名:フェイク 第1742号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/04/12(水) 01:53 173-239-196-147.azu1ez9l.com (173.239.196.147)

(発行=22.04.08)

還俗覚悟で流出させた河辺慈篤
「河辺メモ」に関する「慧妙」の屁理屈を粉砕 ㊤
客観的で正確な記録、謝罪は茶番

日顕の「大御本尊は偽物」との発言を河辺慈篤(日正寺住職)が記録した「河
辺メモ」が平成十一年七月七日に「同盟通信」で公開されると宗内には大激震
が走り、住職が相次いで離脱、 日顕を窮地に追い込み、宗外の身延派、旧興
門派の各寺院にも波及した。

 慌てた宗務院は七月九日に院達を発信して日顕が河辺と面談した事実を認め、
十日には「河辺慈篤師からのお詫びと証言」を出して〝記録ミス〟と謝罪させ
た。

 日顕は河辺に全責任を被せて、自分への非難の鉾先を回避しようとした。

何でもメモする「メモ魔」と言われていた河辺は日頃から「私のメモはテー
プレコーダーと同じだ」と周囲に語っていた。

 河辺のメモは、幾つもの宗門の機密事項を暴露した〝実績〟がある。あの学
会を切り崩す陰謀の「?作戦」も当初、宗門は存在を否定していたが、現実に
日顕を中心に練り上げた作戦だったことを証明したのも河辺の正確なメモであ
った。

日顕の「大御本尊は偽物」のメモは、宗門側の圧力によって「お詫びと証言」
に書かされたような主観を加え、記録ミスをするような河辺ではない。極めて
客観的な記述であり、日顕が語った内容を正確に記録したメモである。

 この「河辺メモ」の公開から二十三年が経過した。

今頃になって「慧妙」四月一日付が下手な屁理屈を並べ、変な弁解を重ねてい
るので簡潔に破折する。

初めに「河辺メモ」(現物の写しを左に掲載)の内容を改めて紹介する。

◇   ◇
 「S53・2・7 A面談
 帝国H
 一、戒旦之御本尊之件
 戒旦の御本尊のは偽物である。
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は
時師か有師の頃の筆だ。
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
 一、Gは話にならない
 人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだらうと云う安易な考
へを持っている」

◇   ◇
「A」なる人物が、阿部日顕であることは、日顕も河辺も宗門も認め、そのう
えで、九日付の院達では、実際の面談とメモの記載内容には大きな差異がある
と誤魔化しているので、これは後で破折する。

先ずは「慧妙」四月一日付で、メモは「何者かによって河辺尊師の手元から
盗み取られ……」と間違ったことを書いているので、これを糺すことにする。

メモは河辺が還俗覚悟で流出させたのである。当時、河辺が日顕と全面対決
を決意していたことは「大御本尊偽物発言」のメモの後、第二弾のメモ(左下
に掲載)を流出させたことで明白だ。

この第二弾のメモとは、僅か数行の簡潔な内容で、表題は「メモの件」とな
っている。河辺の直筆メモは次の通り。

◇◇
 「メモの件
1、当局の云う通りやるか
2、還俗を決意して思い通りでるか
3、相談の結論とする
  か
7/9 自坊 tel
   宗務院より『河辺の感違い』とのFAX(宗内一般)」

   ◇    ◇
 このメモを見ると、河辺の〝主観〟〝記録ミス〟の謝罪が茶番でしかなかっ
たことが明白だ。「慧妙」は、このメモも何者かが盗み出したというのか?

 こんな小さな紙切れ一枚、河辺本人でなければ存在すら分からないメモを誰
が盗んだというのか?

 誰かが盗み出したのではなく、これも河辺が意図的に流出させたのである。

 このメモは平成十一年七月十日に河辺の謝罪文が出た前日の九日付になって
おり、翌十日の謝罪文を書くに至るまでの河辺自身の心の動きが伝わってくる。

このメモに「7/9 自坊tel」と記してあるが、これは「七月九日に自
坊、つまり札幌市内の日正寺に電話を入れた」ということである。

河辺は「同盟通信」がメモを公開した七月七日の晩に日正寺から姿を消した。
宗門関係者によると、河辺(写真)は出身地の北九州に滞在していたという。

この夜、折から福岡・開信寺の法華講対策のために来ていた総監の藤本日潤、
庶務部長の早瀬義寛(今の日如)、同副部長の阿部信彰(今の日明)の三人に会っ
て、翌十日付で出すことになる通達について長時間、密談したが、これは河辺
が三人に指示して行なったという。

この第二弾のメモは河辺が密談に臨むに当たって、その後の身の処し方につ
いて思索していたことを物語っている。

このうち第一の「当局の云う通りやるか」は、日顕や藤本ら宗務当局が河辺
に懇願する通りにやるか、との恭順の意味である。

日顕や藤本らの懇願とは、河辺に全責任を転嫁して謝罪させ、決着をつける
ことであったと思われる。

 第二の「還俗を決意して思い通りでるか」とは、日顕らの懇願を断り、還俗
を覚悟の上で日顕と全面対決し、自分の思い通りにやるか、という意味だろう。

 河辺が当局の要請を断り、還俗覚悟で日顕と全面対決することを考えていた
意味は重要である。

 そこには日顕との対決という事態になっても優位に立つことができる自信が
感じられる。多分、河辺がメモの他にも日顕の発言を裏付ける物証を持ってい
たようだ。それを日顕も感じて河辺を刺激しないで終息させようと腐心してい
た。

 第三の「相談の結論とするか」とは九日夜の会談で藤本ら三人と話し合った
上で、結論を出すということであろう。

 結局、河辺が選択したのは恭順でも全面対決でもなく、第三の道であった。
 
主観や感情を交えず「メモ」の内容に自信
 
 河辺が七月十日付の「お詫びと証言」にあるように、自分の記録ミスで〝大
御本尊の威光を傷つけ、猊下の宸襟を悩まし、宗内一同に多大の迷惑をかけた
〟と、本心から思っていたのなら、メモが公開された時点で、「お詫び」や辞
表を出した筈である。

主観や感情を交えず、日顕が「大御本尊は偽物」だと断定した事実を正確に
書き留めていた河辺は、メモの内容に自信があったから還俗をも覚悟の上で流
出させたのである。(つづく)






[34]

題名:フェイク 第1741号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/04/11(火) 00:55 173-239-196-157.azu1ez9l.com (173.239.196.157)

(発行=23.04.07)

謗法の山で広布と無縁になった大講堂
「三・一六」に関する「慧妙」の難癖を破折
「脳裏に焼きついた戸田先生が後事を託した光景」

日蓮正宗の謀略紙「慧妙」の四月一日付で「三・一六」の学会の広宣流布記
念の日について難癖をつけ「三月十六日は『広宣流布記念式典』が行われた日
でもなければ『継承の日』でも『出発の日』でもない」等々と悪口を書いてい
る。

この「慧妙」には妙観講や所化小僧など二十数名の僧俗が関与しているとの
ことだが、いずれも無知で勉強もせず、詭弁を弄し、減らず口を叩き、屁理屈
をこねる。

今回の「三・一六」に関する悪口も退転した石田次男や竜年光の批判記事だ
けを引用して非難中傷し、本山に完成した大講堂のエレベーターでの戸田先生
の言葉を否定している。

この「三・一六 広宣流布記念の日」は、第二代会長 の戸田先生から池田先
生に、そして青年部に広宣流布の一切を託された記念すべき日で、広布請願へ
の新たな出発の日である。

大講堂の落慶式典のあと、エレベーターでの厳粛な師弟の継承は、当時の複
数の幹部の証言で明白である。

また、この頃のエレベーターは操作も難しかったので、デパートのエレベー
ターガールをしていた当時二十三歳の女子部員が乗っており、その証言もある。

証言者が皆無の日顕の相承詐称とは違うのだ。

特に「慧妙」が批判するために利用している竜年光は「第三代会長就任式に
参加して」と題する記事の中で次のように書いていた。

竜は第三代会長に池田先生が就任される日を待望し、昭和三十三年三月、理
境坊で当時の理事室数人が次の会長について戸田先生に伺ったとき「お前たち
で決めることだ」と言われたと聞いたと述べたあと「男子部結成式で『第三代
会長はこの中に……』と、戸田先生が挨拶されたことは厳然たる事実であった。

更に、大講堂落慶大法要が終わったあと、三月十六日の大儀式の時、エレベ
ーターの前で戸田先生が『俺はもう死んでもいい。あとはお前だよ』と強く、
強く池田先生に言っておられた光景は私の脳裏に焼きついて離れない」と記し
ていた。

また、竜は理事室・参謀室の合同会議で強く印象に残っているのは原島理事
の「今後の学会の発展を考えた時、どうしても今、池田先生に会長になってい
ただかなければならない。まだ私達の誠意と熱意がたりないのだ」という言葉
で、全員で更にお願いし、遂に受諾されたと書いていた。

更に「草創期の青年部」と題する座談会の中で竜は「部隊長である私がとき
どき、班長である池田先生に呼び出されて色々と指導された」とも語っていた。

池田先生は一班長であっても戸田先生の後継者として特別の存在だったこと
が分かる発言だ。

また「慧妙」は「この大会での戸田氏の発言を見てみても『広宣流布』とい
う単語は一度たりとも出てこない」と批判のための批判を繰り返している。

何でも悪口ばかり書くのが「慧妙」だ。六十五世・日淳法主の慶讃文、戸田
先生の挨拶、岸信介内閣総理大臣の祝辞、松永文部大臣の祝辞、細井総監の挨
拶から大講堂建立の深い意義が汲み取れるではないか。

だが、今は残念ながら邪宗と化した大石寺の建物になっており、広宣流布と
は無縁の大講堂になっている。


[33]

題名:フェイク 第1740号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/03/29(水) 23:26 185.192.69.49 (185.192.69.49)

(発行=23.03.28)

浅井昭衛が以前、原発は必要と力説
原発回帰を批判する前に過去の指導を撤回せよ
今は顕正新聞で「原発の即時全廃・廃絶」と

 邪教・顕正会の三月二十五日付の顕正新聞の「世相閻魔帳」欄で「『原発回
帰』に舵を切った岸田首相の度し難い不見識」という見出しを立て、批判記事
を載せている。その中で「(浅井が)『原発廃絶特集号』等を以て原発の即時全
廃・廃絶を叫ばれ、原発災害の恐ろしさを具に指導下さった」と書いて「岸田
の佞人ぶりには憤慨がこみ上げてくる」「メディアの腑抜けぶりは実に度し難
い」等と感情を露わにしている。

 この「世相閻魔帳」の記事を書いた者は勉強不足で、浅井昭衛が原発の強力
な推進論者であった事実を知らないらしいので教えよう。

浅井は「原発がないと経済成長は三分の一になって、生活できない」「原発に
反対するなら、死亡事故の多い自動車を止めねばならない」「原発反対は感情
論」「原発問題なんか小さい」等と強調していた。

 ところが、平成二十三年三月十一日の東日本大震災とそれに伴う大津波によ
り、東京電力の福島第一原子力発電所で発生した事故を機に、豹変した浅井は
従来の主張を撤回しないまま、無節操にも突然、正反対のことを言い出したの
だ。

平成二十四年二月に原発全廃特集号、同年四月には原発廃絶特集号の機関紙で
「原発を即時全廃・廃絶せよ」と叫んでいる。

原発に賛成か、反対か、どちらが浅井の本心なのか、それは分からないが、素
知らぬ顔で持説を変更して、勧誘に都合の良いことを言うのが変節漢・浅井の
手口なのである。以前も再三、紹介したが、平成五年六月六日の青森大会で予
め用意された「原子力利用」についての質問に対する浅井の「原発は絶対に必
要」との回答を以下に掲載する。

   ☆   ☆
質問 青森県・六ヶ所村の核燃料基地が話題になっていますが、日本の原子力
利用をどう見たらよろしいでしょうか?

浅井の回答 青森だけなんですかねえ、今の原子力のエネルギーの核燃料基地
っていうのがあるのは六ヶ所村に。おそらく、まあ、そこが一番、適当だって
いうんで日本政府が選んだんでしょうけどね。

 まあ、これは直接、仏法とは関係ない、あのー話題でありますけど、まあ私
は、こう思うんですね。
 えー、今この発展しつつある経済、この経済発展を支えているエネルギー、
これはもう石油には頼れないんだろうと。今後、石油は枯渇しますからね。

そうすると、どうしても、もう、いかなる国も人類全体が新しいエネルギー源
としてですね、原子力に頼らざるを得ない。
これもし頼らないということになってくると日本の今の経済生活、どうなんで
しょうか、大変なことになるんでしょうね。

 おそらく今の、あれでしょ、エネルギーの中で全国の発電量の三十%迄いっ
てるんじゃないですか、現在、原子力の発電が。だから原子力を全部、日本人
がですね、ダメだ捨てろ、捨てろと言うと、三十パーセントの電力がなくなっ
ちゃうから、経済成長も三分の一にダウンしちゃう。と、日本は生活できない
ですね。

 それ、日本だけじゃない。全世界が、もう核エネルギーっていうことを使っ
て、現在の生活が成り立っている。まあ、そこで私、思うんですね。もうロシ
アのような、もう、ああいう国になりますとね、核燃料は使い捨て、そして管
理はメチャ、メチャ、だからチェルノブイリみたいなことが起こるんですね。

ああいう使い方はいけないけれども、核燃料をもう避けて通ることができない
んだったらば、それを完全に安全管理する、これやっぱり、人間の一つの知恵
なんでしょ。

 その中においては、日本の国は最も用心深く安全に管理しているんではない
か、私、そう思うんですね。

 もし、それを核燃料を核アレルギーからですね、全部、捨てろ、捨てろって
言うのは、今の日本の経済生活を全部、否定して昔に戻るんだと、もう電力な
んかいらないと、言うんだったら構いませんけども、今の生活を維持しようっ
ていうんだったら、核エネルギーっていうことを、無視することはできないん
だから、これを用心深く安全管理する日本なら、それをやれているんではない
かと思う。

 ところが、何でこれを反対、反対、反対ってことが、これ、喧しいかといい
ますとですね、これ社会党が言ってるんですよ。
 実は、社会党が以前から反対していることは三つあったんですね。自衛隊反
対、これは違憲、憲法違反です。自衛隊なんか解体しろ。

 もう一つ、原発反対っていうんでしょ。現行の原子力、原子力の核は核兵器
に通ずる、なんて言って、みんなが日本人はヒロシマ・ナガサキっていうんで
核アレルギーを起こしている。それに与同してですね、その原発もいけないっ
ていう。

 それからもう一つ、日韓、この条約を破棄しろ、と言って、韓国との交渉も、
これするなと、こう言ってる。
 で、このようなことを今になってみて社会党が困っちゃって、これじゃもう
この、選挙負けるということで全部それを変更し始めたでしょ。

 自衛隊も容認すると。原発も容認する、なんて言ったけど、もう既に遅い。
そのように社会党が騒ぎに騒いだから、みんな国民が何か、私は誤解をしてい
る。社会党が何故、騒いだかわかりますか? ソ連の政策だったんですよ。

ソ連が何としても日本を弱くしようと、それで自衛隊を解散させろと。で自衛
隊は違憲、違憲、憲法違反って、それから原子力、 これを日本が利用するっ
てことは、ますます経済発展になる。だから原発反対しろと。それに社会党が、
いわゆるソ連の、日本に対する対日謀略の手先になった。

 ですから、今、社会党が、一番触れられたくない問題が何かというと、ソ連
から資金援助を受けたんですね。ソビエトから物凄い資金援助を受けてきた。

 この場合、これは今、ソビエト共産党が崩壊することによって機密文書が出
て、どんどん社会党に援助したことが文書が出てんで、社会党が一番困ってる。

このように、外国からお金をもらって日本の国益に反するようなことをやっ
ておったのが、あのかつての社会党だったんです。そこに今の社会党の誠に惨
めったらしい姿が出てきてるんですね。

 まあ、そこに私は今のこの原子力発電っていうことを反対、核エネルギー反
対って言って、これを全部、破棄しろというんだったら、そいで危険だという
んだったら、しかし日本でもって、この原発でもって誰が死んだんでしょうか
? 誰も死なないでしょ。私は非常に用心深くやられてると思うし、もし、こ
れが危険だ、危ないんだって言って止めるんだったらね、自動車乗るのをやめ
たらどうかと思う。

原発じゃ、まだ死んでないけど、自動車じゃ年間一万数千人死んでるんですか
ら、事故でもって。それこそ一万数千人から死んでる自動車、みんな止めろっ
て言って、ホントはこれに賛成しなきゃならない。

 また、ゴールデンウィークなんたって、あれやると必ず、山で死んだ、海で
死んだって、必ず数十人、毎年死ぬんですよ。休まない方がいいじゃないです
か。
 だから、そうなってくるとですね、今の核、この、原発反対ってことは、い
かにも感情論なんだと、私は思うんですね。

   ☆   ☆
 この後、浅井は「原発の問題なんかちっちゃい」と言っていた。「世相閻魔
帳」では「(岸田は)原発回帰の方針を即刻撤回するべき」と書いている。だが、
浅井の「原発は必要」との以前の指導を撤回するのが先だ。






[32]

題名:フェイク 第1739号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/02/11(土) 20:30 185.223.152.227 (185.223.152.227)

(発行=23.02.08)

二大法要も戦争宣揚一色に
神札受容を弁解する「慧妙」の愚を粉砕 ㊦
日蓮正宗の戦争加担は一般の感覚以上に突出

日蓮正宗は戦時中、戦争協力に狂奔して、牧口初代会長・戸田二代会長を見
捨て、牢獄へと追いやり、遂に、牧口会長を獄死させた。

宗門は牧口会長が逮捕されるや、登山停止処分にし、家族を通じて獄中の牧
口会長に退転を勧めた。

また、前号で述べた通り、警視庁に泣きついたばかりか、権力を恐れて戦争
に加担した。その実例は枚挙に暇がない。特に、開戦後は御開扉や開戦の日の
毎月八日の法要では法主・日恭の導師で全山あげて「大東亜戦争必勝と武運長
久」を祈念して、戦死者に対しては「本宗宗徒の面目を全す」「本宗宗徒の無
上の名誉と亀鑑たるべし」等と戦死を賛嘆していた。

そのうえ、昭和十七年十一月には「日蓮正宗報国団」を全国に結成、国防献
金や僧・檀信徒の錬成(米英撃滅思想の徹底)、講演会などを実施していた。

更に、宗門二大法要の御虫払会と御大会も本来の意義から大きく逸脱させた。

例えば、昭和十八年十一月の御大会は「米英撃滅必勝信念昂揚の御大会」と
銘打って、御開扉で国威宣揚、武運長久を祈念、現役軍人の講演、報国団幹部
による「ユダヤの陰謀について」(報国課長・青山諦量氏)、「正義日本の進
むべき道」(庶務部長・渡辺慈海氏)等の布教講演と続き、宗祖大聖人への御
報恩の儀式が、戦争宣揚一色に塗りつぶされていた。

また、翌十九年の御虫払会になると、宗務院名で通達を出し、令法久住を目
的とする宗門恒例の御虫払会を中止。その代わり一週間にわたって「聖戦必勝
国威宣揚」「皇軍武運長久」「敵米英撃滅」を祈る「大国祷会」を実施したの
である。

これらは宗門の戦争協力の氷山の一角、戦争加担は儀式のみではなかった。

昭和十七年五月、政府から「金属回収令」が発表されると、大石寺は軍事物
資として仏具、梵鐘など約八トンの物資を供出。翌十八年九月の臨時宗会では
国家総力戦完遂のため「一発でも多くの弾丸を前線へ」と、回収の対象外だっ
た三門並びに御堂の銅板屋根まで率先して供出を決めた。

更に翌十九年一月、木製軍用船建造のため、大石寺の樹齢六百年を超える杉
やヒノキ二百本の伐採を決定。日恭は「国難来ってわれ等一億総決起は宗祖の
説くところで六百年来法燈と共に茂っていた杉、檜が応召する、全く国是宗法
に叶ったものと全山挙げて伐木供出へ乗り出した訳です」との談話を寄せた。

「一億総決起は宗祖の説くところ」と言うが、宗祖の教えと正反対だ。「国
難」というなら「立正安国論」の教え通りに誤った宗教、思想を破折し、国家
諌暁することが「宗祖の説くところ」である。

開戦前から軍部権力に怯えて「国策推進」に血道を上げていた宗門が「時局
協議会」の名で出した「日蓮正宗と戦争責任」と題する文書で「日蓮正宗の戦
争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない」と弁解していた。

だが、国民一般の感覚以上に突出していたのが日蓮正宗の戦争協力だったの
だ。

※「慧妙」に創刊当時から深く関与してきた妙観講の講頭・大草一男は昨年、
法華講大講頭に再任されず、事実上の解任となった。


[31]

題名:フェイク 第1738号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/02/10(金) 20:23 173-239-196-72.azu1ez9l.com (173.239.196.72)

(発行=23.02.07)

保身に走り、信徒を見捨てた宗門
神札受容を弁解する「慧妙」の愚を粉砕 ㊥
法主の日恭が開戦を待望し喜ぶ訓諭

宗門の謀略紙「慧妙」二月一日付の連載「創価学会の歴史改竄を糺す」では
「通諜」なる偽造文書を使って学会が戦時中、謗法の神札を容認していたかの
ようなデマを流している。

だが、実際に軍部権力に迎合して教義を歪め、謗法を犯して保身に走ったのは
日蓮正宗なのである。

宗門は昭和十六年に軍部政府を刺激しないよう御観念文を国家神道風に改変、
御書の発行禁止、「本地垂迹説」の不使用、御遺文の十四個所の字句の削除な
どの通達を矢継ぎ早に出した。

 そして開戦の日の十二月八日、当時の法主・鈴木日恭(六十二世)が「宗内一
般」に対して「訓諭」を発した。

「本日米国及英国ニ対シ畏(かしこ)クモ宣戦ノ大詔(たいしょう)煥発(か
んぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エズ(中
略)本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク聖慮(せいりょ)ヲ奉体(ほうたい)
シ佛祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛練ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍持久百難ヲ排シ各自其
ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古(ぜんこ)未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ
右訓諭ス」(左の資料参照)

 この日恭の「訓諭」は開戦を待望していたような言辞で埋め尽くされていた。
更に、時流に迎合した宗門は、昭和十七年に「伊勢神宮の遥拝」を一般信徒に
まで指示し、昭和十八年には遂に神札受諾を徹底する方針を打ち出した。

 これだけでも宗門の大謗法は明白だが、昭和十八年六月二十七日、学会に神
札を受けるよう勧告して以降、宗門は堰を切ったように大聖人に背き、戦争加
担の道を暴走し続けた。

こうした情勢下にあって、軍部権力に抵抗したのが創価教育学会の牧口会長、
戸田理事長であった。この時、宗門は「学会とは無関係」と警視庁に説明、信
徒を見捨てたことが判明している。

宗門、警視庁に哀願

昭和十八年二月、宗務院庶務部長の渡辺慈海は富士地区特高課の旧友から不
敬罪容疑で近く大石寺に手入れがある、との情報を得た。

そこで渡辺は法主・日恭の命で急きょ上京し、知人の紹介で警視庁の最高幹
部の一人「青木閣下」に面会。そこで「他宗破折、神道の排撃、神符の破棄」
等の学会の折伏については「正宗本山直接不知のこと」云々と説明して泣きつ
いた。

それにより「青木閣下」が第二特高課長に大石寺の手入れを止めるよう指示。
同課長が静岡県の特高課に取り消し命令を下した。

〝危機一発、安堵の胸をなで下した〟と渡辺自身が書き残している。(つづく)



[30]

題名:フェイク 第1737号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/02/10(金) 14:31 undefined.hostname.localhost (45.133.176.46)

(発行=23.02.06)

大聖人の教義を信徒は厳守、僧は違背
神札受容を弁解する「慧妙」の愚を粉砕 ㊤
「通諜」は偽書、学会・戸田理事長と無関係

 日蓮正宗の謀略紙「慧妙」二月一日付の連載「創価学会の歴史改竄を糺す」
で戦時中、総本山に天照大神の神札を祀り、また神札受諾を決めた事実を正当
化しようと下手な言い訳を述べ、学会が神札問題を罵倒するのは事実を曲げた
誹謗中傷だと開き直っている。

 学会は戦時中も軍部権力の弾圧に屈することなく謗法厳誡の姿勢を貫き、折
伏を実践した。その学会の歴史に泥を塗ろうとするのが宗門の狙いなのである。

「慧妙」は戦時中の宗門の危機について「当時の宗門は、内に『神本仏迹論』
の邪義を構える某師が暗躍し、また、外には創価教育学会の行き過ぎた折伏活
動によって軍部に目をつけられるところとなり」と愚かな記事を書いている。

 小笠原慈聞が「神本仏迹論」を唱えたのは軍部に迎合しての邪義・邪説であ
り、これに軍部が目をつけて弾圧する筈がないではないか。

 また「創価教育学会の行き過ぎた折伏活動」とは神道の破折、神札焼却の謗
法払いを指すのか? 学会は日蓮大聖人の教義を純粋に護って神札を拒否し、
宗門は教義に違背したのだ。

 牧口・戸田先生は逮捕され、牧口先生は殉教の尊い姿を示された。一方、宗
門は自己保身に終始した。
 特に許し難いのは「慧妙」の次の記事である。

「総本山大石寺では、牧口・戸田両氏を呼び、注意を与えることとなった」
「牧口・戸田両氏は、この注意を受けた後、大石寺より下山し、応急の対応策
を講じた。それが六月二十五日付で学会内に出された、戸田理事長名での『通
諜』だったのである」

 この「通諜」は学会と無関係の偽作で「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざ
る様」云々と書いてある。

「慧妙」は、この偽造文書を学会が戦時中、学会内に出したとデマ記事を写真
入りで掲載している。

この「通諜」を使って最初に学会を貶めようとしたのは日顕の肝いりで発足し
た時局協議会である。

 平成三年三月に「『神札問題』について」、同年五月には「日蓮正宗と戦争責
任」との文書を出し、学会が戦時中、神札を粗末にしなかったと全国の坊主や
法華講に通達した。

 そして〝悩みの種〟であった宗門の神札甘受については「日蓮正宗と戦争責任」
と題する論文で、次のように見苦しい弁解をしていた。

「至上の『法』を軍部や身延派から守る為に、やむなく行った妥協が、『神札』
を受ける事であった。決して軍部におもねったのでもなく、国家神道に賛同し
て喜んで受けたのでもない」「実際に『神札』を祀る事もなかった。軍部に従
っている様に見せて、実質的には無視したのである」

谷川男子部長(当時)の抗議に宗門側は沈黙し、回答不能

 偽書の「通諜」を使った宗門の悪辣な学会批判に対して、平成三年七月三日、
当時の谷川男子部長(今の主任副会長)が日顕宛てに抗議書を送付した。

 その中で「まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡と
は似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第三者の筆によるも
のであるということであります。

 筆跡は戦後の法華講員と判明

 しかも、私どもは、単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その
筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定
の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております」と言明した。

そして「ここに、『通諜』なる文書をもって学会の歴史を歪曲したことに対し、
強く抗議するとともに、宗門から出された両文書に書かれた『通諜』は偽作で
あること、また、今後は『通諜』を使って学会の歴史をねじ曲げるような論述
は一切しないこと、さらに、これまでの文書で戸田会長並びに学会に対し、そ
の名誉を毀損したことに対する謝罪、の三点を明言した『謝罪文』を『大白法』
並びに『聖教新聞』に掲載されることを強く求める」と要求した。

この抗議に対して宗門側は沈黙したまま、回答も反論も出来なかった。その後
も「慧妙」が大騒ぎしたこともあったが、その都度、学会側に完膚なきまでに
粉砕された経緯がある。

殆どの人が忘れた頃を見計らって平成十七年に妙観講の大草一男、ブラックジ
ャーナリストの溝口敦らが共謀して「フライデー」に「通諜」を取り上げさせ、
再び学会批判に悪用したが、これも本紙が破折した。

「通諜」は間違い、
正しくは「通牒」

「慧妙」が掲載している「通諜」は字が間違っている。正しくは「通牒」だ。
この間違いを教育者の牧口先生、戸田先生が訂正もさせずに学会の公式文書と
して出す筈がなく、両先生が関与していない証拠である。

 また、「慧妙」が以前、「富士宗学要集」第九巻の法難編「昭和度(創価学
会)」の記述は「通諜」が戦前、存在した傍証だと難癖をつけたことがあった。

 これについては「富士宗学要集」の該当箇所を書いた学会の小平芳平参議が
平成五年に「慧妙」の言い掛かりを全面的に否定した。

 例えば「柔らかにお受けした」との記述は学会が宗門の忠告を受け入れた証
拠だとの「慧妙」の言い分に対し、小平参議は全く違うと否定し「一応、話は
〝お受け〟した、つまり聞いたという意味で別に本山の忠告を〝受け入れた〟
意味ではありません」と語った。

 また「慧妙」は同じく「富士宗学要集」の「会長の応急策もすでに遅し」の
記述を取り上げて、〝すでに手遅れだった会長の応急策〟とは「通諜」のこと
だと勝手に決めつけていた件については「全然、見当違い」で、六月に本山か
ら帰った後の事ではないと明言した。

 昭和十八年七月の逮捕の前にも牧口会長は五月頃、中野警察署で一週間ほど
取り調べられたことがあった。

 この点にも触れた同参議は「弁護士なども入って真剣に対応策を練っていた
んです。ただ、もはや弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため間に合わ
なかったのです。

 何よりもだいたい、この箇所を書いた私自身が『通諜』など思ってもいない
のですから、彼ら(宗門側)の言い分は、全くナンセンスです」と語っていた。

 以上の小平参議の証言は平成五年六月、創価新報に掲載された。

 この証言で打ち砕かれた「慧妙」は、あろうことか、「小平氏が死亡」のデ
タラメ記事を同年十二月十六日付に掲載した。「慧妙」は論争に敗れた腹癒せに、
小平氏が健在であったのに〝死人は証言できない〟と悪質なデマまで流した。
これが「慧妙」の虚言体質である。

 事実無根の誹謗・中傷を浴びた小平氏は「慧妙」の悪質な虚偽の報道に対し
て、同年十二月二十七日付で、日顕と「慧妙」宛てに虚偽の報道を全面的に取
り消し、悪質な行為を詫びる「謝罪」文の掲載を求め、抗議文を送付した。

 ところが「慧妙」編集室から平成六年一月九日付の回答では「死亡説」は撤
回したものの、「寝たきり説」を強弁し、盗人猛々しい態度に出たのである。

 小平氏はこの回答について「全く悪質です。断じて許すことはできません」
と語っていた。

 因みに、小平氏が亡くなったのは平成十三年六月十八日で「慧妙」が死亡説
を書いた八年後である。

一事が万事、「慧妙」の記事は嘘と屁理屈で宗内でも嫌われている。(つづく)








[29]

題名:フェイク 第1736号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/02/03(金) 21:36 157.254.166.7 (157.254.166.7)


(発行=23.01.23)

日顕の曾孫が飲酒運転で事故
遊蕩三昧の血筋を引く阿部明教の惨事
日蓮正宗大石寺の信用は一段と失墜

日蓮正宗総本山・大石寺の坊主が一月十七日、飲酒運転で交通事故を起こし
た。宗門関係者によると、事故を起こした坊主は、日顕の曾孫(ひまご)の阿部
明教ということである。

 目撃者の話や実況見分によると、事故が発生したのは同日の朝八時過ぎで、
事故の現場は富士宮市内の上野幼稚園の付近で、阿部明教の運転する車両がセ
ンターラインをはみ出して対向車両の運転席の後方に衝突、そのまま直進して
反対側のビニールハウスに激しく突っ込んだということだ。

対向車両は横転し、乗っていた人はケガをして救急搬送された。

事故の現場となった土地の所有者は「事故を起こしたのは大石寺(の坊主)だ。
飲酒運転だよ」と証言していたとのことである。

 この阿部明教(本名・信洋)は平成十年七月十日生まれの二十四歳。日顕の長
男である阿部日明(宗務院布教部長、常在寺住職)の息子・正教(広説寺住職)の
長男である。

 明教は平成二十三年に得度して、同二十六年に三等学衆、同二十九年に二等
学衆、令和二年に一等学衆になり、昨年には教師の資格を持つ少講師になって
内事部に籍を置いているとのことだ。

明教が得度して上野中学校に入学した頃、親バカの正教は在勤していた池袋
の常在寺を留守にすることが多く、富士宮に頻繁に来て明教の様子を見ては車
で遊びに出かけ、時には地元の富士宮の温泉「花の湯」などにも行っていたと
いう。

 それにしても明教は朝から飲酒運転とは、大酒飲みの日顕の血筋を引く曾孫
らしい。日顕は供養の金を湯水のように浪費して超高級旅館で一族あげての温
泉豪遊、芸者を呼んでの大宴会などは日常茶飯事で、遊蕩三昧に耽っていたこ
とは周知の事実である。

極めて悪質な危険行為

酒気帯びにしろ、酒酔いにしろ、いずれにしても、飲酒運転は判断・反応能
力が低下して交通事故を起こすことになるため、絶対にやってはならない。

近年、飲酒運転は罰則の強化、及び以前にも増して社会で取り沙汰されるた
め、減少していると言われているが、そんな折、教師の資格を持つ坊主が飲酒
運転で事故を起こすとは、極めて悪質で許し難い行為である。

特に、昨年四月一日より施行された改正道路交通法施行規則では、安全運転
管理者に対して、運転者の酒気帯びの有無(アルコールチェック)を顔色、呼
気の臭い、応答の声の調子により、目視で確認することが義務付けられた。

また、企業の場合、例えば、会社の懇親会で翌朝の早い時間に車に乗る予定
の社員に上司や同僚が過度に飲酒を勧めると、上司や会社側にも酒類提供者と
して懲役や罰金の厳しい刑事罰が適用される可能性がある。

 この度の阿部明教の飲酒運転による交通事故は腐敗体質の日蓮正宗大石寺の
社会的信用を益々、失墜させる悪質な事故と言えよう。






[28]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 20

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/09/09(金) 19:52 180-147-120-134f1.osk3.eonet.ne.jp (180.147.120.134)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 20


三大秘法 16


大自然(宇宙)遍満の三大秘法


「疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く『国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等』と云云、釈籤第六に云く『相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り』等云云、金錍論に云く『乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す』等云云。」(観心本尊抄 全239頁・新124-5頁)

現代語訳:疑って言います、草木や国土の上の十如是の因果の二法はいずれの文に出ているのでしょうか。答えます。摩訶止観の第五に「(非情の)国土・世間にも十如是がある故に悪国土には悪国土の相・性・体・力(・作・因・縁・果・報・本末究竟)等(同じく善国土にもそれぞれの十如是)を具している」と説かれ、釈籤の第六に「相は外面に顕われたもので色法であり、内在する性質の性は心法です。また体は物の本体で色心を兼ね、力は外に応ずる内在性で、作は外部への活動、縁は善悪の事態を生ずる助縁であり、これらの体力作縁は皆色心の二法を兼ね、因と果は唯心、報は唯色法である」と説かれています。また金錍論に「一本の草、一本の木、一つの礫、一つの塵等皆悉く一個の仏性、一つの因果が具わっており縁因・了因の性を具足している。即ち実在する物はことごとく本有常住の三因仏性を具足する(従って非情の草木であっても有情と同じく色心・因果を具足していて成仏する)」と説かれています。
※大聖人は、実在する全ての事物・事象に成仏の要因があると、先師の御文を提示されて述べられています。


「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」(一生成仏抄 全383頁・新316頁)

現代語訳:一心法界の法理とは十界の衆生も、森羅三千の依報・正報も、色法・心法も、非情の草木、大空、国土のいずれも除かず、塵も残さずに一念の心に収めて、この一念の心が法界に広く行き渡る事を指して万法というのです。この理を覚知する事を一心法界ともいうのです。
※一念の心が法界(法:一切諸法・森羅万象、界:区別・境界の意、有情・非情に亘る意識の対象となる全ての存在及び現象をいう)に広く行き渡る事を指して万法と云い、一心法界とはこの理屈を覚知する事です。


「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄 全366頁・新304頁)

現代語訳:問うて言います。そうであれば、何故あなたは釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのでしょうか。答えて言います。前に挙げた経釈を見てください。法華経の題目を本尊とするのは、私が勝手に立てた義ではないのです。釈尊と天台大師とが法華経をもって本尊と定められたのです。末代今の日蓮も仏と天台大師と同じ様に、法華経をもって本尊とするのです。その理由は、法華経が釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦如来・大日如来をはじめとして、総じて十方の諸仏は法華経より出生されたからです。故に今、能生(あらゆる仏を生み出す根源)の法たる法華経をもって本尊とするのです。
※あらゆる仏を生み出す根源たる妙法蓮華経こそが本尊なのです。


「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(当体義抄 全510頁・新613頁)

現代語訳:問います、妙法蓮華経とは、その実体は、何物なのでしょうか。答えます、十界の依報と正報の全てが、妙法蓮華経の当体なのです。
※十界の依正、即ち我々一切衆生を含めて宇宙の万物が当体蓮華だ、と仰せです。


「四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全563頁・新712頁)

現代語訳:四土(4種の国土、①凡聖同居土・②方便有余土・③実報無障礙土・④常寂光土のこと)は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身です。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土(身:活動の主体である衆生の身体、土:衆生が住んでいる国土)不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのです。
※己心の十界(いわゆる十界論の内容)と自然界の十界の現象(地獄=地底の牢獄、餓鬼=欲に支配され貪る鬼、畜生=弱肉強食の動物、修羅界=大地や大海の荒れ狂う姿や戦争等)の関係は不二であり、人の振舞いにより寂光土かどうか決定されるのですね。


「大衆とは聴衆なり皆在虚空とは我等が死の相なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり、大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり虚空とは寂光土なり、又云く虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり虚空とは中なり一切衆生の内・菩薩・蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」(御義口伝上 全742頁・新1034頁)

現代語訳:(「摂諸大衆」の)大衆とは聴衆です。「皆在虚空(皆虚空にあり)」とは、我々の生命が、死の相を現じ大宇宙に冥伏しているのです。今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人及びその門下は、その信心によって生死即涅槃(涅槃は一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地)と開覚するのであり、その姿を皆在虚空と説くのです。(仏の立場から観るならば衆生は)生死即涅槃と摂らえられるのです。大地は色法であり、虚空は心法です。この色と心は不二と心得るべきであり、虚空とは寂光土なのです。また、(妙法蓮華経という立て分けから観るならば)虚空とは蓮華であり、経とは大地であり、妙法とは天であり、虚空とは中であり、一切衆生の内、菩薩が蓮華に座しているのであり、これを妙法蓮華経と説かれているのです。
※妙法蓮華経の原理が、自然界に遍満している事を示しています。


「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(三世諸仏総勘文教相廃立全574頁・新729頁)

現代語訳:春の季節が来て風雨の縁に遭遇すれば、無心の草木も皆ことごとく萠え出でて、華も咲き栄え世間に出るという気色です。秋になって月の光の縁に値えば、草木は皆ことごとく実が熟れて、一切の有情を養育し、その寿命を延べて長く養い、ついに成仏の徳用を顕すのです。
※この御文から、草木の体すなわち草木それ自体が本覚の法身、その時節を違えず花咲き菓の成る智慧は本覚の報身、有情を養育する慈悲は本覚の応身であり、草木がそのままの姿で本覚の三身如来なので不改本位(本来の位を改めないこと)の成仏と云い、即ち宇宙生命の発動変化それ自体が不改本位の成仏の徳用を示すと云うのです。


◎日蓮大聖人は、我々日蓮門下だけではなく、大自然の森羅万象も南無妙法蓮華経の当体だ、と仰せなのです。
「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(瑞相御書 全1140頁・新1550頁)
とある通り、依正は互いに関係しているのですね。

次回は「己心の三大秘法」を「私の解釈」として説明します。


[27]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 19

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/28(日) 11:34 180-146-245-117f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.245.117)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 19


三大秘法 15


己心の戒壇


「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり」三世諸仏総勘文教相廃立全563頁・新712頁)

現代語訳:この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土とが和合して一体となった処をいうのであり、三身即一身の境界を指すのです。四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身なのです。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、この故に無相の極理というのです。生滅無常の相を離れている故に無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地である故に極理というのです。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩を離れた境界なのです。これを名づけて妙法の心蓮台というのであり、この故に心の外に別の法はないというのです。これを知るのを「一切法は皆これ仏法である」と通達し解了するというのです。
※一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩から離れた世界(寂光の極楽)とは、唱題する我が心境であり、激励や体験発表で決意新たにする創価学会の座談会場そのものではないでしょうか。


「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」(御義口伝 全740頁・新1032頁)

現代語訳:今日蓮大聖人及びその門下が南無妙法蓮華経と唱えて信心に励んでいる場所は住在空中であり、虚空会に住する事になるのです。
※唱題し信心に励んでいる場所は、当詣道場と云い戒壇と云い、虚空会に住んでいるのと同様なのです。


「此地とは無作の三身の依地なり仏子とは法華の行者なり仏子は菩薩なり法華の行者は菩薩なり住とは信解の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は妙法の地に住するなり仏の受用の身なり」(御義口伝下 全761頁・新1061頁)

現代語訳:此の地とは無作の三身が依る地です。仏子とは法華経の行者であり、仏子は菩薩でもあるのです。(法華経の行者は活動面、行動面からいえば菩薩です) 住とは信解(信をもって理解する)の義です。今、日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、妙法の地に住することであり、仏の受用の身(仏として振る舞う身)となるのです。
※南無妙法蓮華経と唱えることは、妙法の地に住み、仏として振る舞う身となるのです。


「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし」(御講聞書 全811頁・新1127頁)

現代語訳:法華経を修行する日蓮門下の住所はどんな山野であっても霊鷲山であり法華経の行者は釈迦如来ではないでしょうか。日本国は耆闍崛山であり日蓮門下は釈迦如来です。総じて一乗である南無妙法蓮華経を修行する所は、どの様な所でも常寂光の都である霊鷲山なのです。
※我々日蓮門下が唱題する場所は、常寂光の都・霊鷲山なのだと仰せです。


「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき」(南条殿御返事 全1578頁・新1924頁)

現代語訳:教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山において相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っているのです。それ故、日蓮の胸の間は諸仏の入定の所であり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の所、口の中は正覚の場所である筈です。この様に不思議な法華経の行者の住処ですから、どうして霊山浄土に劣ることがあるでしょうか。
※大聖人の胸間は霊山浄土より勝る諸仏入定の処であり、つまり立場を換えれば、唱題する私達の存在自体が戒壇と云えるのではないでしょうか。


「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」(最蓮坊御返事 全1343頁・新1784頁)

現代語訳:私達が住んでいて法華経を修行する場所は、いずれの所であっても常寂光の都なのです。私(日蓮大聖人)の弟子檀那となる人は、一歩を行かなくても天竺の霊鷲山を見て、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されるという事は、言い様が無いほどうれしい事なのです。
※我が家や座談会場などが、天竺の霊鷲山同様、常寂光の都ではないでしょうか。


「法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」(波木井三郎殿御返事 全1373頁・新1813頁)

現代語訳:法華経の本意は、「当位即妙(当位は即ち妙なり:九界の凡夫の境涯のままで妙なる仏界の生命を涌現すること)・不改本位(本位を改めず:九界の衆生が各自本来の位を改めないこと」といって、罪業を捨てずに、その身のまま成仏することができるのです。
※罪業は過去の境涯・地位(戒壇)を示しますが、それを無理して改めずとも九界の衆生は、人間革命(即身成仏)できると仰せです。


◎南無妙法蓮華経と唱える人(法華経の行者)の心境であり、信心に励んでいるその場所(当詣道場)こそが、「霊鷲山」や「寂光の極楽」、即ち「己心の戒壇」とも呼ぶべき存在なのではないでしょうか。


[26]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 18

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/25(木) 10:01 180-146-245-117f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.245.117)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 18


三大秘法 14


己心の題目


「妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり」(一念三千法門 全414頁・新360-1頁)

現代語訳:妙法蓮華経の五字はまた我等の一心に納まっています。天台大師の法華玄義本序に「この妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもうところである」と解釈されています。さてこの妙法蓮華経を唱える時、心中の本覚の仏が顕れ、我等が身と心を(極理を収容する)蔵にたとえ、妙の一字を(密教で行者の力を示す)印にたとえています。
※我ら衆生の「身と心」は本覚の仏を蔵する尊極の当体であり、その蔵を開くカギこそ「妙の一字」に外ならず、妙法蓮華経は、元々衆生の一心に納まっているので、妙法蓮華経の五字の題目を唱えることによって、我が身が妙法の当体であると覚知し成仏する事ができるのです。


「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし」(聖愚問答抄下 全500頁・新581頁)

現代語訳:この妙法蓮華経を熱心に信仰するという一つの修行に、いかなる功徳もやって来ないものはなく、いかなる善根も動かないものはないのです。
※妙法への行動(唱題、折伏)が功徳・善根の因となるのです。


「『若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり』と説き給うは此の心なり、されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」(法華初心成仏抄 全557頁・新764頁)

現代語訳:法華経見宝搭品第十一に「もし少しの間でも持つ者がいれば、我れ則座に歓喜する。諸仏もまた同様である」と説かれているのはこの意です。従って、三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道には我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着する)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えていくべきなのです。
※御本尊を信受して、寸時も余事をまじえず南無妙法蓮華経と唱えた時、我が身が即妙法の当体となって即身成仏できると教えられています。


「我等衆生の朝夕吐く所の言語なり、大音声とは権教は小音声・法華経は大音声なり廿八品は小音声・題目は大音声なり、惣じて大音声とは大は法界なり法界の衆生の言語を妙法の音声と沙汰するを大音声とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大音声なり」(御義口伝上 全740頁・新1031-2頁)

現代語訳:(音声とは)我々衆生が、朝に夕に話している言葉です。(権実相対して言うならば)権教は小音声であり、法華経は大音声です。(種脱相対して言うならば)法華経二十八品は小音声であり、南無妙法蓮華経は大音声です。総じて言うならば、大音声の大とは法界、つまり宇宙万有の大きさを言い、法界の一切衆生の言語は、すべて妙法の音声であると分別していく、その音声を大音声というのです。今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉る題目は、大音声なのです。
※我々の唱題は、宇宙をも響き渡らせる妙法の大音声なのです。


「信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」(妙一尼御前御返事 全1255頁・新1697頁)

現代語訳:信心というのは、特別なものではありません。妻が夫を大切にするように、夫が妻の為に命を捨てるように、親が子を捨てないように、子供が母親から離れないように、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・諸天善神を信じて、南無妙法蓮華経と唱え奉ることを信心というのです。
※信心とは御本尊に南無妙法蓮華経と唱え奉ること、です。


「我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事・是れ偏に過去の宿習なるか。」(最蓮房御返事 全1340頁・新1780頁)

現代語訳:我らが末法濁世において生を南閻浮提の大日本国に受け、恐れ多くも諸仏出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、心に信じ、身に持ち、手にもてあそぶことは、ひとえに過去の宿習なのでしょうか。
※大聖人が此処で言いたかったのは、我等が集まったのは、過去の宿習ではなく、地涌の菩薩の使命を果たす為だということです。


「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)

現代語訳:この法華経には、我等の身体を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれていますから、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。
※「法華経の一句一偈を持ち信ずる人」とは南無妙法蓮華経と唱題をする人であり、三身如来の功徳を具えることができる人なのです。


◎仏法では、能弘・所弘という考え方があります。
能弘とは能く法を弘める行者、所弘とは行者により弘められる法を言い、大聖人は南無妙法蓮華経と唱題する我々こそが能弘の人であり、成仏への直道だと仰せなのです。


[25]

題名:

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/22(月) 09:09 180-146-245-117f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.245.117)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 17


三大秘法 13

日蓮大聖人は個別にも数多く御教示されているのですが、此処では一部だけ紹介させて頂きます。

己心の本尊


「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄 全557頁・新704頁)

現代語訳:我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつると、我が己心中の仏性が南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて出現するのを仏というのです。
※我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇め、唱題する事により、我が己心の仏性が仏として顕れると仰せです。


「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全567頁・新718頁)

現代語訳:総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。
※我が身(の本体)を知ることが大事で、これを悟れば仏と云う、と仰せです。


「宝とは五陰なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり、此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る是を見とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は見宝塔なり」(御義口伝巻上 全739頁・新1031頁)

現代語訳:「宝」とは、色受想行識の五陰です。見宝塔の「塔」とは、和合の義です。この五陰が和合した姿をもって宝塔というのです。この五陰和合は、妙法蓮華経の五字であると信解し、これを見宝塔の「見」というのです。今、日蓮大聖人とその門下達が、南無妙法蓮華経と唱え、我が身即妙法五字の当体であると信ずるのが、見宝塔なのです。
※我々こそが妙法蓮華経の当体なのです。


「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を案ず可し自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」(御義口伝巻上 全724頁・新1010頁)弘安元(1278)年正月 57歳御述作

現代語訳:私達衆生の五体五輪、即ちこの身体が妙法蓮華経の当体であり、この生命を映し出す鏡こそ、宝塔品において釈尊が己身に描き、大聖人がその儀式を借りて事実の上に顕された、御本尊なのです。信心した場合、謗法した場合、どういう現象があるかということは、この鏡によってわかるのです。(結論すれば)自浮自影の鏡とは、南無妙法蓮華経(の御本尊)なのです。
※我々の身体が妙法蓮華経の当体であり、自身の生命を映し出す(自浮自影の)鏡として、南無妙法蓮華経(本尊)がある様です。


「題目の五字に一法として具足せずと云う事なし若し服する者速除苦悩なり、されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり、法華の行者は罵詈せらるれども忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり、されば大良薬は末法の成仏の甘露なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり」(御義口伝下 全755頁・新1052-3頁)

現代語訳:題目の五字(即ち御本尊)に一法として具足しないものはありません(万法がすべて具足しているのです)。もしこれを服する者は、経文に「速かに苦悩を除く」とある様に、ただちに苦悩を消滅することができるのです。そうであれば、この妙法の大良薬を服する者は、貪瞋癡の三毒の煩悩の病を除くことができるのです。法華経の行者、南無妙法蓮華経と唱える者は、謗法の供養を受けることはありません。これは貪瞋癡の三毒のうち貪欲の病を除くことになるのです。また法華経の行者が、いかに世間の人々から、悪口罵詈されても、忍辱を行じ、ただその人の幸福を思って折伏を行ずるのは、瞋恚の病を除くことになるのです。また、法華の行者は、神力品に「是の人仏道に於いて、決定して疑有ること無けん」と説かれていますが、(御本尊を信ずることによって)即身成仏できると覚知することが、愚痴の煩悩を治すことになるのです。そうであれば、この大良薬たる御本尊は、末法の即身成仏の甘露であり、南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人及びその門下が、妙法の当体となり大良薬の本主となるのです。
※法華経の行者即ち妙法を唱える大聖人及び門下こそ、大良薬の本主である、と仰せです。


「経に云く『世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す』云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり」(当体義抄送状 全519頁・新628頁)

現代語訳:従地涌出品第十五に「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥水の中にありながら、清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれています。これは、まさしく地涌の菩薩が当体蓮華であることを示しています。
※人生は悩みや宿命との闘いですが、必ず自他ともに、幸福と勝利の大輪を咲き誇らせられる。それが「如蓮華在水」の法理に生きる地涌の菩薩なのです。

「仏と申す事も我等の心の内にをはします(中略)、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ」(十字御書全1491頁・新2036頁)

現代語訳:仏というのも私達の心の中におられるのです。(中略)私達凡夫は、まつげが近くにあるのと虚空が遠くにあるのとは見ることができません。私達の心の中に仏がおられる事を知らないで居たのです。
※私達の心の中に仏がおられると覚知すれば、六(布施:財を施す、持戒:戒律を守る、忍辱:耐え忍ぶ、精進:真剣に打ち込む、禅:心静定にする、智慧:物事の道理を弁え判断する)波羅蜜の行動(行法)にも励みになるのではないでしょうか。


「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(上野殿後家尼御返事 全1504頁・新1832-3頁)

現代語訳:浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのが法華経です。だから、法華経を受持する者は地獄即寂光であると悟ることができるのです。
※「仏」とは、特別な存在ではなく、自他共の生命が尊極である事を信じて、現実社会の中で「戦い続ける人」であり、その胸中に浄土(寂光土)があると自覚するのです。


◎大聖人は、我々己心にも妙法蓮華経という御本尊が存在する事を述べられています。
それを自覚して行動する事で、各己身が生命尊厳を軸として、人間形成・人間革命(つまり成仏)し、他者との比較ではない絶対的幸福境涯が得られる、と御教示されています。


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題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 16

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/15(月) 16:42 180-146-245-131f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.245.131)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 16


三大秘法 12


己身の三大秘法 後編


「我等衆生の色心の二法は妙法の二字なり無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するを大意と云うなり、大は色法の徳・意は心法の徳なり大の字は形に訓ぜり、今日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤等の色心本有の妙境妙智なり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好の相好之れ無し即身成仏是なり、然る間大の一字に法界を悉く収むるが故に法華経を大乗と云うなり、一切の仏菩薩・聖衆・人畜・地獄等の衆生の智慧を具足し給うが故に・仏意と云うなり、大乗と云うも同じ事なり是れ即ち妙法蓮華経の具徳なり」(御講聞書 全814頁・新1131頁)

現代語訳:我等衆生が持つ色心の二法は妙法の二字であり、無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するのを大意と云うのです。大は色法の徳であり意は心法の徳であって、大の字は形で日本語にあてはめたのです。今、日蓮及びその門下は、南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤等の色心本有の妙境妙智であり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好の相好は無く即身成仏がこれなのです。この様な場合に、大の一字に法界を悉く収めているので法華経を大乗と云うのです。一切の仏菩薩・聖衆・人畜・地獄等の衆生の智慧が具足されているので仏意と云うのです。大乗と云うも同じ事であり、これ即ち妙法蓮華経の具徳なのです。
※唱題する日蓮門下は、色心本有の妙境妙智を持って即身成仏をする、これが妙法蓮華経の具徳と仰せです。


「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(義浄房御書(己心仏界抄)全892頁・新1197頁)

現代語訳:如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とあります。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕すのです。その理由は、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就しているのが、この経文だからなのです。
※大聖人は、寿量品の「一心欲見仏、不自惜身命」は本門の題目、「時我及衆僧、倶出」は本門の本尊、「霊鷲山」は本門の戒壇であり、「我及び衆・僧共に」つまり衆生全員が本門の本尊である、と述べておられるのです。


「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前御返事全1244頁・新2088頁)

現代語訳:この御本尊を決して、よそに求めてはなりません。ただ、私達衆生が法華経を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。これを九識心王真如の都(九識は仏界という尊極の生命のことで、九識が生命の根源・根本に存在する常住不変の真理である故にこの様に呼ばれる)というのです。
※衆生が「法華経を持つ」は本尊、「南無妙法蓮華経と唱える」は題目、「胸中の肉団の九識心王真如の都」は戒壇ではないでしょうか。


「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く『法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す』とはこれなり」(阿仏房御書 全1304頁・新1733頁)

現代語訳:あなたが多宝如来の宝塔を供養されておられるのかと思えばそうではないのです。(仏が)我が身を供養しておられるのです。我が身がまた三身即一身の本覚の如来なのです。この様に信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。此処がそのまま宝塔の住処なのです。法華経見宝塔品第十一に「法華経を説く処には、我がこの宝塔がその前に涌現する」と説かれているのはこの事なのです。
※我が身が本覚の如来⇒つまり本門の本尊、南無妙法蓮華経と唱える⇒本門の題目、此処がそのまま宝塔の住処⇒本門の戒壇、と仰せなのです。


「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)

現代語訳:この法華経には、我等の身体を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれていますから、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。
※我等の身体→法身如来、我等の心→報身如来、我等の振る舞い→応身如来なので、唱題することで功徳を供えるのでしょう。


「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候」(妙一尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)

現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。「妙法の経力を以て即身に成仏する」と伝教大師も解釈されています。
※我等は、妙法の功力により悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、法・報・応の三身如来と顕れ即身成仏する、と仰せなのです。


◎日蓮仏法は、生命を最大限に尊厳し、民衆一人一人が他に代えがたい尊い存在であり、その繋がりが友情になり、友情の延長と周りへの感謝から創価家族が作られ、これらの広がりから地域友好が形成され、やがて国境を越えて世界平和が達成される、と信じるに値する宗教なのです。
信仰は自由ですが、どれだけ自身の人生にとって社会にとって有益な宗教なのか、が大切ではないでしょうか。


[23]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 15

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/10(水) 14:28 180-146-245-131f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.245.131)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 15


三大秘法 11


己身の三大秘法 中編

今回は、日興上人執筆の「御義口伝」からの紹介です。


「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり」(御義口伝上 全742頁・新1035頁)

現代語訳:法華経(御本尊)を持ち奉るというのは、我が身が仏身であると確信して持つ事です。(則持仏身の)則の一字は、生仏不二(衆生も仏も別のものではないの)です。(若有能持の)持というのは、我々凡夫が持つのです。持つ体は、南無妙法蓮華経の五字です。これが仏身を持つことになり、南無妙法蓮華経の一字一字が、みな金色の仏体であるからです。さて、我々が仏身を持つということは、我が身即仏であり、それ以外に仏はないと確信する事を云うのです。理即の凡夫(即ち九界の衆生)と究竟即の仏とは、別のものではないのです。即の一字は、即故初後不二(即ち初めの理即の凡夫と後わりの究竟即の仏とは不二である故)なのです。
※凡夫(九界の衆生)と六即位の最高位である究竟即の仏とは不二だと仰せです。


「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)

現代語訳:、如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世のあらゆる仏に通ずるのです。別しては、本地無作の三身、即ち久遠元初の凡夫即極の本仏であり、今日蓮大聖人及びその門下の意で、総じて如来を論ずるならば、一切衆生はことごとく如来なのです。(これはあくまで理の上で論じたものであり)別して、(事の上で論ずれば)日蓮大聖人及びその弟子檀那の事なのです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者の事であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事(即ち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法)とはこの事なのです。
※日蓮大聖人及びその弟子檀那の立場こそが、無作の三身如来であり、寿量品の事の三大事だと仰せなのです。


「無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(御義口伝下 全754頁・新1050-1頁)

現代語訳:無も有も、生も死も、若退も若出も、また在世も滅後も、全て本有常住の振舞いなのです。(即ち久遠以来、常住してきた生命の本質に備わる本然の姿であり、働きなのです)無とは、法界(宇宙や森羅万象)同時に妙法蓮華経の振舞い以外の何でも無いのです。有とは、地獄は地獄の有りのまま(餓鬼は餓鬼、畜生は畜生のまま)であり、十界を元々有しており、それ自体が妙法の全体なのです。生とは、妙法それ自体、久遠より常住するものであり、その妙法を根底とした生であるから、いま初めて生じたものではないのです。元々あるものが縁に触れて顕れたものです。死とは、寿量の死、即ち永遠の生命の立場からみた死ですから、大宇宙に冥伏し、大宇宙それ自体となり、そこに何の差別もありません。法界同時に妙法それ自体なのです。それは「若しは退」の故に滅後すなわち死となり、「若しは出」の故に在世すなわち生となるのであって、退くか出現するかの違いにすぎないのです。
されば、無死退滅すなわち有に対し無、生に対し死、出に対し退、在世に対し滅後は、空仮中の三諦より論ずれば空諦となります。大宇宙に冥伏しているからです。有生出在、即ち無に対して有、死に対して生、退に対して出、滅後に対し在世は、縁にふれて目に見える姿として顕れてきたものですから仮諦です。有生出在に偏らず、無死退滅に偏らず、しかも有生出在、無死退滅を包含して、有りのままに生命の実相をみていく如来如実は中道です。
これを無作三身如来の身に論ずるならば、無死退滅は無作の報身であり、有生出在は無作の応身であり、如来如実は無作の法身です。この三身は久遠元初の自受用身如来の一身にそなわるものです。天台が文句の九に「一身即三身なるを名けて秘と為す」と述べたのも、実はこの事を意味しているのです。同じく「三身即一身なるを名けて密と為す」とあるのも、やはりこの事を意味するのです。そうであれば、無作の三身の当体の蓮華の仏とは、南無妙法蓮華経如来たる日蓮大聖人のことであり、また南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人の門下も、総じてはこれに含まれるのです。
※無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮とその弟子檀那等である、と仰せです。


「自我得仏来の事
御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」(御義口伝下 全756頁・新1054頁)

現代語訳:寿量品第十六の自我得仏来の文について、御義口伝には次の様に仰せです。自我得仏来の一句は法報応の三身が説かれ修学する文です。自我の自とは九界であり、我とは仏界なのです。自我で十界を意味し、十界は本有無作三身の仏に本然的に備わり、この十界互具の当体として出現した仏の事を自我得仏来というのです。自即ち九界も、我即ち仏界も共に具有した仏が(末法に)出現した、とは十界が本有である事を示した明文なのです。我は、三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり、法身です。仏とは、九界より湧現する随縁真如の智であり、報身です。来とは、刻々と移りゆく色法の活動であり、応身です。この三身は、無始無終の古仏たる久遠元初自受用身如来に本来備わったもので、他から与えられたのではなく、自ら体得されたものです。信解品の無上宝聚不求自得の文も、実はこの事を意味するのです。即ち、無上宝聚とは無作三身の事であり、南無妙法蓮華経の事です。これを求めずして得るとは、無作の三身の境地は、決して他から与えられたのではなく、自得された事を意味するのです。そうであれば、顕本遠寿(寿量品の文底に説かれた久遠元初の顕本)は、絶対に諸経には説かれていないのです。今(末法において)日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは自我得仏来の行者だからです。
※自我得仏来の一句に法報応の三身が説かれ自得なのは、南無妙法蓮華経と唱える大聖人とその門下が自我得仏来の行者だから、と仰せです。


「自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入るなり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(御義口伝下 全787頁・新1095頁)

現代語訳:自身の内なる仏乗(妙法)を悟って、自身の宮殿に入るのです。南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の宮殿に入っていく事なのです。(妙法を唱えゆく生命それ自体が仏なのです)
※妙法の悟達は本尊、己心の宮殿入りは戒壇、唱題こそ題目そのものなのです。


◎日蓮仏法の重要講義の御書にも「日蓮等の類い」や「日蓮が弟子檀那等」と、大聖人と同類・並列に記載されている程に、大聖人が如何に、我々信徒を大切にされておられたか、をうかがい知ることができますね。


[22]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 14

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/08/05(金) 15:21 180-146-249-191f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.249.191)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 14


三大秘法 10


己身の三大秘法 前編

標題について、更に深掘り調査してみました。
あまりにも数多く書かれていますので、見逃しているかも知れませんが、ご容赦ください。

「妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄 全498頁・新578頁)

現代語訳:妙法蓮華経とは一切衆生の仏性です。仏性とは法性(本来自ら備わっていて不変の諸法の実体或いは悟り)であり、法性は菩提(覚り・成仏の境涯)なのです。即ち、釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊、舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(帝釈天)、日・月、明星、北斗七星、二十八宿、無量の諸星、天衆、地類、竜神・八部、人界・天界の衆生、閻魔法王、上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までの一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから、一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出る、これを成仏というのです。
※一切衆生に備っている仏性を妙法蓮華経と云い、唱題により己身の法・報・応三身が顕れ出て、これを成仏と云うそうです。


「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く『所謂諸法・乃至・本末究竟等』云云、妙楽大師釈して云く『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土』と云云、天台云く『十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ』云云、南岳大師云く『云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に』云云、又天台釈して云く『衆生法妙』と云云」(当体義抄 全510頁・新613頁)

現代語訳:問います。妙法蓮華経とは、その実体は、どの様なものでしょうか。
答えます。十界の依報と正報が、妙法蓮華経の当体なのです。
問います、もしそうならば、我々の様な一切衆生も妙法の全体であるといえるのでしょうか。
答えます、勿論です。方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とある通りです。この文を、妙楽大師は金錍論で次の様に解釈しています。「実相(真実の姿、森羅万象の本質という事であり、不可説なる実智の境である万法の理を指す)とは、必ず諸法(一切の法を指し示した言葉で、大宇宙における一切の現象、活動、法則のこと)である。諸法(あらゆる現象)は必ず十如という因果の理にかなった生命活動であり、この十如の生命活動も必ず十界の範疇での活動であり、十界は必ず身(生命体の正報、五陰世間と衆生世間のこと)と土(依報、国土世間のこと)が一体不二をなしている」と。天台大師は法華玄義に「生命の完全な本質を明かした十如・十界・三千の諸法は、法華経に説き明かされた法理の本体である」と説いています。南岳大師は安楽行義において「一体、如何なる物を妙法蓮華経というのか。答えて、妙とは衆生の生命の本質が妙であるが故に、法とは衆生の存在そのものが法であるが故に、衆生が妙法の当体なのである」と述べています。さらにこれを天台が解釈して「衆生は法にして、その本質は妙である」と法華玄義で云っているのです。
※此処でも衆生である我々自体が、妙法の当体なのだと仰せなのです。


「日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は 本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(当体義抄 全518頁・新626頁)

現代語訳:日蓮の一門は正直に権教方便の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信じて当体蓮華を証得し、常寂光の当体の妙理を顕わすのは、本門寿量の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるからです。
※日寛上人は、この文に己身の三大秘法が説かれていると述べています。
「『当体蓮華を証得して』とは本門の本尊に当り、『常寂光の当体の妙理を顕す』等とは本門の戒壇に当るなり。当に知るべし、我等、本門の本尊、本有無作の当体蓮華を証得し、我が身即本門寿量の当体の蓮華仏と顕れ、所住の処は戒壇の寂光当体の妙理と顕われる事は、本門内証の寿量品・本因妙の教主の金言を信じて、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経と唱売る故なり云云。これ本門の題目に当るなり」。(当体義抄文段、日寛上人文段集 701頁)


「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来』此れを三如是と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全561頁・新710頁)

現代語訳:仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心の中に摂める故に、心の外には法はないのです。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なのです。この事を法華経方便品第二には「如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)」と説かれており、これを三如是というのです。
※己身の本覚の三身如来及び三如是も三大秘法に通じ、如是相(応身如来、外相)は心体、如是性(報身如来、内性)は心性、如是体(法身如来、実体)は己心なのでしょう。


「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)

現代語訳:心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。これを知らない時を名づけて無明とするのである。無明とは明らかなることは無いと読む。我が心のありさまを明らかに覚っていないことです。これを悟り知る時を名づけて法性と云います。だから無明と法性とは一心の異名なのです。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのです。この為に無明を断じてはならないのです。無明である夢の心を断じてしまえば寤の心をも失ってしまうからです。総じて円教の意は一毫の惑をも断じないのです。故に一切の法は皆これ仏法であるというのです。
※我が身、我が心、我が形、それぞれが、法・報・応の三身である事は前述の通りです。


「今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全567頁・新718頁)

現代語訳:今法華は八教に超えた円教なので速疾頓成(即身成仏のこと)であって、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に収まって、心の外には無いと観ることができれば、下根の行者ですら一生のうちに妙覚の位に入るのです。一と多とが相即するので、一つの位に一切の位が皆具足しているのです。故に一生の間に妙覚の位に入るのです。下根ですらそうなのだから、いわんや中根の者は当然なのです。まして上根の者はいうまでもなく、実相の外には更に別の法はないのです。そして実相には順序がないので位はないのです。総じて一代の聖教は一人の事を説いた法ですから我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟るを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。
※我々の一念の心中に、心と仏と衆生の三つが収まっており、この本体を信・行・学で知る事が成仏への道なのでしょうね。


「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ること得る』と已上、此れを観心と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全569頁・新722頁)

現代語訳:つまり、己心と仏身と一体であると観ずれば速やかに仏になるのです。だから止観輔行伝弘決には、また「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観じられた為に仏に成ることができたのである」と述べています。この事を観心というのです。
※日寛上人は、この文を引いて、己心、仏心、観心について、
「仏心も妙法五字の本尊でなり、己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異らず、故に『一』というなり。而し『観』というのは、初心の行者その義を知らざれども、但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に『己心と仏心と一なり』と観ずるに当るなり、故に『観心」というなり』(観心本尊抄文段、日寛上人文段集 471頁)
と解釈されています。


[21]

題名:

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/31(日) 23:51 180-146-249-191f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.249.191)

シャクソン ファイブ 様

私は、創価学会執行部に悪意を持って批判する等、反創価学会行為を行う人については、心を入れ替えない限り、創価学会を除名されても当然だと思っています。
地域の幹部が「除名申請通知書」を県審査会に申請して、事実かどうか、正当性があるかどうか、を対面にて審査して、決定されるのであれば民主的で問題なしではないでしょうか。
貴方は、「結果は最初から決まっているのだが」と仰っていますが、もし、所属組織の幹部から繰り返し指導・注意を受けていたのに改めずに、既に除名された執行部批判者ら(反学会組織)と連携して執行部批判を続けたのであれば、対外的にも内紛と見られて悪評となり、広宣流布も遅れる事になるのです。
恐らくこの様な人達は、理由を付けて創価学会を弱体化しようとしているのでしょう。
貴方もこの人達と同じ志ならば、冷静になって考え直す必要があります。

「我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して、此の度仏法を心みよ」(撰時抄 新210頁・全291頁)


[20]

題名:除名申請通知書

名前:シャクソン ファイブ

MAIL 投稿日: 2022/07/24(日) 19:43 194.169.217.218 (194.169.217.218)




SNS上では、今年は「世界広布・査問の年」と言われているようで。
地元幹部(本部長、圏長、県長)が除名したい人間を「県審査会」に申請する
そうだ。

その後審査会から「平等に双方の意見を聴きましょう」という形式をとるため、
呼び出される。

(結果は最初から決まっているのだが)

実際にこの通知書が発送されている。
「取調」とか、一体何様だという表現が多々見受けられる。
以下、全文を記載しておく



冠省 貴殿を被申請者とする処分申請がありましたので、貴殿の取調をしま
す。つきましては、下記の日時・場所に出頭してください。

日時 平成30年1月16日 午後3時00分
場所 埼玉県さいたま市桜区西堀5丁目14番10号
創価学会埼玉文化会館(第4会議室)

貴殿に対する除名申請の要旨は次のとおりです。
申請の趣旨 被申請者を創価学会から除名する。

申請の理由 被申請者は、平成26年よりインターネット上の掲示板に当会の
執行部を「極悪」などと批判する投稿を始め、平成28年2月からは当会を除名
された者らと連携して執行部批判の活動を行うようになり、同年7月以降所属
組織の患部から繰り返し指導・注意を受けても改めずに執行部批判の言動を続
けたものである。被申請者のかかる行為は、当会の指導に反し当会の秩序を乱
すものであるとともに、会員としてふさわしくない行為であって、当会もしく
は会員に迷惑を及ぼすものである。なお、上記日時場所に出頭できない場合に
は、貴殿の弁明を記した書面を事前に当審査会に提出してください。貴殿が出
頭も書面の提出もされない場合には、貴殿の弁明を聞かないまま当審査会の審
理を終え、貴殿に対する処分が決定される可能性があります。また、本通知書
は、送達の確実を期するため、同一の書面を内容証明郵便及び特定記録郵便に
て送付します。

平成29年12月26日

埼玉県さいたま市桜区西堀5丁目14番10号
創価学会埼玉文化会館
創価学会埼玉審査会
審査委員長 南 晋三






[19]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 13(訂正後)

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/20(水) 02:40 180-146-242-190f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.242.190)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 13(訂正後)


三大秘法 9


大聖人の御書から読み取れる三大秘法の概念


日蓮大聖人の三大秘法の法門が如何に広大甚深であるか、を此処で紹介するにあたって改めて考えさせられました。


①従来の法華経寿量品からの三大秘法

「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄 全336頁・新156頁)
現代語訳:問うて言います。釈尊滅後二千余年間竜樹・天親・天台・伝教が末だ説いていない秘法とは何でしょうか。答えて言います。本門の本尊と戒壇と題目の五字となのです。

「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(報恩抄 全328頁・新260-1頁)
現代語訳:問うて言います。天台大師や伝教大師の弘通していない正法があるのでしょうか。答えて言います。あります。求めて言います。それは、如何なるものでしょうか。答えて言います。それは、三つあります。末法の世の為に、仏が留め置かれたもので、迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかった正法です。求めて言います。その形貌はいかなるものなのでしょうか。答えて言います。一つには日本乃至、一閻浮提の人々が一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきです。いわゆる宝塔の内の釈迦多宝、その外の諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきです。二つには本門の戒壇です。三つには本門の題目です。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智に関係なく、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱えていくべきです。

※現時点で我々創価学会員は、各家庭に於いて、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を既に具え修行に励んでいる、と確信しているのではないでしょうか。


②大聖人ご自身が一大秘法であり、三大秘法の該当者であると仰せなのです。

「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(撰時抄288頁・新205頁)
現代語訳:この三つの大事は、日蓮が述べているのではないのです。ただひとえに釈迦如来の御心が、我が心に入り替わられての事なのでしょう。我が身ながらも喜びが身にあまる思いです。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれなのです。

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:無作の三身とは末法の法華経の行者であり、無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うのです。法華経寿量品の事の三大事(三大秘法)とはこれの事なのです。

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)
現代語訳:本尊とは法華経の行者の一身の当体なのです。

「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(義浄房御書 全892頁・新1197頁)
現代語訳:如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とあります。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕しているのです。その理由は、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就していると、この経文にあるからです。

※大聖人の己心の仏の境界とは、法身(大聖人ご自身の姿・本尊)、報身(不惜身命の覚悟「内相・智慧、働き」・題目)、応身(妙法蓮華経の五字の弘教「外相・実行」・戒壇)で表される無作の三身なのです。

③日蓮等、日蓮が弟子旦那、我等衆生等、と述べられている通り、大聖人は、師弟(大聖人と我等)の関係を不二であり分け隔て無く平等に扱われております。

「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり」(当体義抄 全512頁・新617頁)
現代語訳:無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中の正しい信心をする者の音です。これ則ち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのです。

「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)
現代語訳:この心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝下 全784頁・新1090頁)
現代語訳:今、日蓮大聖人及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なのです。

「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏であり、別しては本地無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏のこと)です。今日蓮大聖人及びその門下の意で述べれば、総じて一切衆生は如来です。別して(事の上で論ずるならば)日蓮大聖人及びその弟子檀那のことです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事、即ち内証の寿量品に顕わされた事の三大秘法とはこの事なのです。

「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)
現代語訳:この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれているので、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙一尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)
現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。

※我々創価学会員を、恐れ多くも大聖人と同様に、無作の三身の存在である、と仰せなのです。


④一大秘法である妙法蓮華経の五字の中に既に己心及び十方法界の概念が存在し、三大秘法もまた己心から十方法界までを包含して述べられています。

「上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄下 全498頁・新578頁)
現代語訳:上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までのあらゆる一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。

「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全562頁・新710頁)
現代語訳:この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのです。この為に我が身は本覚三身如来の身体なのです。

「妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第一」等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を含めるが如し」(法華経題目抄 全943頁・新536頁)
現代語訳:妙楽大師は「仏が已に説き、今説き、当に説く。その中で法華経が最も為れ第一」であると解釈しています。この法華経の経の一字の徳の中に十方法界の一切経が納まっているのです。譬えば如意宝珠が一切の財を納め、虚空が一切の万象を含んでいる様なものです。妙法蓮華経の経の一字が一代聖教の中で最も勝れている故に妙法蓮華の四字の徳もまた八万法蔵の徳に超過するのです。

※十方法界(宇宙及び大自然を含む)は、身体(法身)・心性(報身)・相好(応身)であり、この三大秘法の法門が十方法界に遍満している故に、我が身も本覚三身如来に成るのですね。


◎大聖人は、三大秘法の法門の詳細を御書中の至る所で記述されています。 
然しながら、私が愚鈍であり、またこの法門の応用が数多存在する為に、紹介しきれないと思いますが、私の解釈も加えて、次回から個々の例を紹介していくつもりです。


[18]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 13(

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/20(水) 02:38 180-146-242-190f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.242.190)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 13


三大秘法 9


大聖人の御書から読み取れる三大秘法の概念


日蓮大聖人の三大秘法の法門が如何に広大甚深であるか、を此処で紹介するにあたって改めて考えさせられました。


①従来の法華経寿量品からの三大秘法

「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄 全336頁・新156頁)
現代語訳:問うて言います。釈尊滅後二千余年間竜樹・天親・天台・伝教が末だ説いていない秘法とは何でしょうか。答えて言います。本門の本尊と戒壇と題目の五字となのです。

「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(報恩抄 全328頁・新260-1頁)
現代語訳:問うて言います。天台大師や伝教大師の弘通していない正法があるのでしょうか。答えて言います。あります。求めて言います。それは、如何なるものでしょうか。答えて言います。それは、三つあります。末法の世の為に、仏が留め置かれたもので、迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかった正法です。求めて言います。その形貌はいかなるものなのでしょうか。答えて言います。一つには日本乃至、一閻浮提の人々が一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきです。いわゆる宝塔の内の釈迦多宝、その外の諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきです。二つには本門の戒壇です。三つには本門の題目です。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智に関係なく、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱えていくべきです。

※現時点で我々創価学会員は、各家庭に於いて、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を既に具え修行に励んでいる、と確信しているのではないでしょうか。


②大聖人ご自身が一大秘法であり、三大秘法の該当者であると仰せなのです。

「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(撰時抄288頁・新205頁)
現代語訳:この三つの大事は、日蓮が述べているのではないのです。ただひとえに釈迦如来の御心が、我が心に入り替わられての事なのでしょう。我が身ながらも喜びが身にあまる思いです。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれなのです。

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:無作の三身とは末法の法華経の行者であり、無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うのです。法華経寿量品の事の三大事(三大秘法)とはこれの事なのです。

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)
現代語訳:本尊とは法華経の行者の一身の当体なのです。

「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(義浄房御書 全892頁・新1197頁)
現代語訳:如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とあります。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕しているのです。その理由は、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就していると、この経文にあるからです。

※大聖人の己心の仏の境界とは、法身(大聖人ご自身の姿・本尊)、報身(不惜身命の覚悟「内相・智慧、働き」・題目)、応身(妙法蓮華経の五字の弘教「外相・実行」・戒壇)で表される無作の三身なのです。

③日蓮等、日蓮が弟子旦那、我等衆生等、と述べられている通り、大聖人は、師弟(大聖人と我等)の関係を不二であり分け隔て無く平等に扱われております。

「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり」(当体義抄 全512頁・新617頁)
現代語訳:無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中の正しい信心をする者の音です。これ則ち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのです。

「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)
現代語訳:この心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝下 全784頁・新1090頁)
現代語訳:今、日蓮大聖人及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なのです。

「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏であり、別しては本地無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏のこと)です。今日蓮大聖人及びその門下の意で述べれば、総じて一切衆生は如来です。別して(事の上で論ずるならば)日蓮大聖人及びその弟子檀那のことです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事、即ち内証の寿量品に顕わされた事の三大秘法とはこの事なのです。

「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)
現代語訳:この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれているので、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙一尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)
現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。

※我々創価学会員を、恐れ多くも大聖人と同様に、無作の三身の存在である、と仰せなのです。


④一大秘法である妙法蓮華経の五字の中に既に己心及び十方法界の概念が存在し、三大秘法もまた己心から十方法界までを包含して述べられています。

「上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄下 全498頁・新578頁)
現代語訳:上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までのあらゆる一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。

「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全562頁・新710頁)
現代語訳:この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのです。この為に我が身は本覚三身如来の身体なのです。

「妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第一」等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を含めるが如し」(法華経題目抄 全943頁・新536頁)
現代語訳:妙楽大師は「仏が已に説き、今説き、当に説く。その中で法華経が最も為れ第一」であると解釈しています。この法華経の経の一字の徳の中に十方法界の一切経が納まっているのです。譬えば如意宝珠が一切の財を納め、虚空が一切の万象を含んでいる様なものです。妙法蓮華経の経の一字が一代聖教の中で最も勝れている故に妙法蓮華の四字の徳もまた八万法蔵の徳に超過するのです。

※十方法界(宇宙及び大自然を含む)は、身体(法身)・心性(報身)・相好(応身)であり、この三大秘法の法門が十方法界に遍満している故に、我が身も本覚三身如来に成るのですね。


◎大聖人は、三大秘法の法門の詳細を御書中の至る所で記述されています。 
然しながら、私が愚鈍であり、またこの法門の応用が数多存在する為に、紹介しきれないと思いますが、私の解釈も加えて、次回から個々の例を紹介していくつもりです。


[17]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 13

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/16(土) 17:20 180-146-29-219f1.osk3.eonet.ne.jp (180.146.29.219)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 13


三大秘法 9


大聖人の御書から読み取れる三大秘法の概念


日蓮大聖人の三大秘法の法門が如何に広大甚深であるか、を此処で紹介するにあたって改めて考えさせられました。


①従来の法華経法門からの三大秘法

「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄 全336頁・新156頁)
現代語訳:問うて言います。釈尊滅後二千余年間竜樹・天親・天台・伝教が末だ説いていない秘法とは何でしょうか。答えて言います。本門の本尊と戒壇と題目の五字となのです。

「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(報恩抄 全328頁・新260-1頁)
現代語訳:問うて言います。天台大師や伝教大師の弘通していない正法があるのでしょうか。答えて言います。あります。求めて言います。それは、如何なるものでしょうか。答えて言います。それは、三つあります。末法の世の為に、仏が留め置かれたもので、迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかった正法です。求めて言います。その形貌はいかなるものなのでしょうか。答えて言います。一つには日本乃至、一閻浮提の人々が一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきです。いわゆる宝塔の内の釈迦多宝、その外の諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきです。二つには本門の戒壇です。三つには本門の題目です。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智に関係なく、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱えていくべきです。

※現時点で我々創価学会員は、各家庭に於いて、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を既に具え修行に励んでいる、と確信しているのではないでしょうか。


②大聖人ご自身が一大秘法であり、三大秘法の該当者であると仰せなのです。

「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(撰時抄288頁・新205頁)
現代語訳:この三つの大事は、日蓮が述べているのではないのです。ただひとえに釈迦如来の御心が、我が心に入り替わられての事なのでしょう。我が身ながらも喜びが身にあまる思いです。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれなのです。

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:無作の三身とは末法の法華経の行者であり、無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うのです。法華経寿量品の事の三大事(三大秘法)とはこれの事なのです。

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)
現代語訳:本尊とは法華経の行者の一身の当体なのです。

「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(義浄房御書 全892頁・新1197頁)
現代語訳:如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とあります。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕しているのです。その理由は、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就していると、この経文にあるからです。

※大聖人の己心の仏の境界とは、法身(大聖人ご自身の姿・本尊)、報身(不惜身命の覚悟・戒壇)、応身(妙法蓮華経の五字の弘教・題目)の無作の三身なのです。


③日蓮等、日蓮が弟子旦那、我等衆生等、と述べられている通り、大聖人は、師弟(大聖人と我等)の関係を不二であり分け隔て無く平等に扱われております。

「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり」(当体義抄 全512頁・新617頁)
現代語訳:無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中の正しい信心をする者の音です。これ則ち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのです。

「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)
現代語訳:この心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝下 全784頁・新1090頁)
現代語訳:今、日蓮大聖人及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なのです。

「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏であり、別しては本地無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏のこと)です。今日蓮大聖人及びその門下の意で述べれば、総じて一切衆生は如来です。別して(事の上で論ずるならば)日蓮大聖人及びその弟子檀那のことです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事、即ち内証の寿量品に顕わされた事の三大秘法とはこの事なのです。

「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)
現代語訳:この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれているので、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙一尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)
現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。

※我々創価学会員を、恐れ多くも大聖人と同様に、無作の三身の存在である、と仰せなのです。


④一大秘法である妙法蓮華経の五字の中に既に己心及び十方法界の概念が存在し、三大秘法もまた己心から十方法界までを包含して述べられています。

「上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄下 全498頁・新578頁)
現代語訳:上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までのあらゆる一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。

「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全562頁・新710頁)
現代語訳:この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのです。この為に我が身は本覚三身如来の身体なのです。

「妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第一」等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を含めるが如し」(法華経題目抄 全943頁・新536頁)
現代語訳:妙楽大師は「仏が已に説き、今説き、当に説く。その中で法華経が最も為れ第一」であると解釈しています。この法華経の経の一字の徳の中に十方法界の一切経が納まっているのです。譬えば如意宝珠が一切の財を納め、虚空が一切の万象を含んでいる様なものです。妙法蓮華経の経の一字が一代聖教の中で最も勝れている故に妙法蓮華の四字の徳もまた八万法蔵の徳に超過するのです。

※十方法界(宇宙及び大自然を含む)は、身体(法身)・心性(報身)・相好(応身)であり、この三大秘法の法門が十方法界に遍満している故に、我が身も本覚三身如来に成るのですね。


◎大聖人は、三大秘法の法門の詳細を御書中の至る所で記述されています。 
然しながら、私が愚鈍であり、またこの法門の応用が数多存在する為に、紹介しきれないと思いますが、私の解釈も加えて、次回から個々の例を紹介していくつもりです。


[16]

題名:『本門戒壇の本尊』を証明できますか!

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/13(水) 22:05 45.67.97.3 (45.67.97.3)


2022/07/13 02:21:56 法華講

>聖人御難事(日蓮大聖人の御真筆が完存している)に書かれている「出世の本懐」はどこにあるのかね?
>「出世の本懐」として弘安二年十月頃に書かれた御真筆本尊が他にあるのか?
>ありゃしない。
>「出世の本懐」として弘安二年十月頃に書かれた御本尊に該当する可能性があるのは、あの本門戒壇大御本尊だけだ。


【破折】

「弘安二年十月十二日 宗祖模写本尊」なるものが日蓮聖人自ら図顕し、
その板本尊造立に関わり、それを出世の本懐とされたということを証明しなさい。


①弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。日蓮正宗大石寺において
「本門戒壇の大御本尊」と呼称する板本尊の「全相貌」を、身延山で日蓮
聖人が認めたという証明。

②その板本尊を弟子の日法が彫刻したという証明。

③弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。板本尊造立に日蓮聖人
が関わったという証明。日蓮聖人が本尊を木製にせよと指示された証拠、
彫刻中の日法に指南をされた証拠等々、何でもよい、一つでも出すべし。

④その板本尊を日蓮聖人が「出世の本懐」と意義付けた直接の証拠。

⑤その板本尊を広宣流布の時に「本門寺の戒壇に安置する御本尊」と、日蓮
聖人自身が意義付けた証拠。

⑥日蓮聖人がその板本尊以外の本尊を「一機一縁」と意義付けた、称した証
拠。

⑦日蓮聖人が「文永、建治、弘安期の御本尊には、年代に応じて差異がある」
と指南した証拠。後代の人物の説法ではない。日蓮聖人自身の教示を。

⑧日蓮聖人が「曼荼羅本尊には様々な意義付けというものがあり、自身が図
顕した中でも特定の一つの曼荼羅本尊だけが特別である」とした証拠。

⑨日蓮聖人が「本尊に関する権能を唯授一人で血脈相承」をした証拠。

⑩「本門戒壇の大御本尊」という、当たり前のように思っていた呼称表現は、
いつ、どこで誰が言い出したのか?

⑪「本門戒壇の大御本尊は日蓮聖人の出世の本懐である」とは、いつ、どこ
で、誰が言い出したのか?

⑫大石寺貫主の唯授一人血脈相承による仏法継承・令法久住の根拠である
「聖人が日興上人に授与されたという『二箇相承書』書」は、いつ、どこで、誰
が言い出したのか?

その書が日蓮真筆である証拠は?

以上、


[15]

題名:法華講の嘘八百

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/12(火) 23:15 45.67.97.44 (45.67.97.44)



2022/07/12 22:53:15 通りすがりの法華講員

「出世の本懐」として弘安二年十月頃に書かれた筆本尊に該当する可能性があるのは、あの本門戒壇大御本尊だけだ。


⇒  君の小さな脳みそでの妄想は証拠にはなりません。  板本尊はにせ物です。


【日蓮聖人が弘安二年に顕された真筆本尊です】

 戒壇の本尊はどれか!

弘安02年02月     1279-02 弘安二年太才己卯二月日 / 妙心授与 / 之
弘安02年02月     1279-02 弘安二年太才己卯二月日 / 釈子 / 日目 / 授与之 (日興筆)
弘安02年04月08日   1279-04-08 □安二年太才己卯四月八日 / 日向法師授与之
弘安02年04月08日   1279-04-08 弘安二年太才己卯四月八日 / 優婆塞日田授与之
弘安02年04月     1279-04 弘安二年太才己卯四月日 / 比丘日弁授与之
弘安02年06月     1279-06 弘安二年太才己卯六月日 / 比丘尼日符
弘安02年07月     1279-07 弘安二年太才己卯七月日 / 沙門日法 / 授与之
弘安02年08月18日   1279-08-18 弘安二年太才己卯八月十八日 / 沙門祐盛日合授与之
弘安02年09月     1279-09 弘安二年太才己卯九月日 / 日仰優婆 / 塞授与 / 之
弘安02年10月     1279-10 弘安二年太才己卯十月日 / 沙弥日徳授与之
弘安02年11月     1279-11 弘安二年太才己卯十一月日 / 優婆塞 / 日安授 / 与之
弘安02年11月     1279-11 弘安二年太才己卯十一月日 / 沙門日永 / 授与之
弘安02年11月     1279-11 弘安二年太才己卯十一月日 / 優婆塞 / 日久
弘安02年11月     1279-11 弘安二年太才己卯十一月日

⇒ 後にも先にも聖人は彫刻本尊を顕していない。

大石寺の板本尊は第三者によって造立された。

日禅授与本尊は弘安三年 太才庚辰 五月九日の顕示であり、『本門戒壇の大御本尊』は

弘安二年十月十二日とその建立の年月日を改竄した。

日蓮真筆本尊は「弘安三年 太才庚辰 五月九日」御顕示年と月日の間に必ず「干支」を入いる。

しかし『本門戒壇の大御本尊』には「弘安二年十月十二日」だけ。

「太才己卯」の干支がない。

これ一つとってみても『本門戒壇の大御本尊』が後世の創作であり、ニセモノであることが明瞭です。

日禅授与本尊には「比丘日禅に之を授与す」という日蓮の授与書と

 「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与え申す所件の如し、本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。」

との日興の添書がある。

しかし、大石寺の坊主は、これらの授与書・添書を削除し

「右為現当二世  造立件如  本門戒壇之  願主 弥四郎国重  法華講衆等  敬白」という端書を付加し、

「右、現当二世の為に造立件(くだん)の如し。本門戒壇之(の)願主・弥四郎国重、法華講衆等に敬って白(もう)す」です。

「一閻浮提総与」『本門戒壇の大御本尊』と勝手に詐称した。

板本尊は単なる日禅授与の本尊模刻ではなくなり、三人の筆が混合する偽の本尊と言われる所以である。

下記の本尊は 弘安2年11月 日蓮真筆本尊 花押の下に腰書きが存在しない。

腰書きがあるのは鑑定が出来ない、パッチワークの本尊だけなのです。





[14]

題名:日蓮正宗法華講の吉本教学

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/12(火) 21:52 45.67.97.3 (45.67.97.3)



2022/07/11 23:03:20 法華講

>御本尊七箇相承のこの文は、
>「『日蓮在御判』と嫡流の法主が代々書いていきなさい」
>という意味であって、「日蓮在御判嫡々代々」という文言を書けということではない。
>今の創価って、こんなバカしか残っていないんだろうなぁ(失笑)


⇒ 小学校レベルの法華講はその程度の理解しか出来ないと言うことね。

  反省は猿でも出来ますが、画像をアップしてアンポンタンでも理解できるようにしています。

  日蓮正宗の相伝はすべて他山からのパクリ、自前は『日興跡条々事』の偽書。

  『板本尊』・『二箇相承』・『日興跡条々事』上から目線の法華講なら、
 
 これらの証明ぐらい簡単だろう、


[13]

題名:法華講のお笑い教学一年生

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/12(火) 00:52 45.67.97.12 (45.67.97.12)



>「日蓮在御判嫡々代々」という文言を書けということではない。

[投稿者] 通りすがりの法華講員
[投稿日時] 2017年 3月31日(金)08時21分2秒

『御本尊七箇相承』
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」
わかる?「深秘なり」と記されているだろ。

創価学会員はこの「深秘」が何か答えられるのか? 答えてみよ!
阿呆の創価学会員が文証を漁りわかったつもりになっていても、「相伝=別付属=口伝」は全く理解できないという事だ。
文証を漁っても理解できないから、大聖人様の御金言を信じるのだよ。

わかったか!
「深秘」は「唯授一人相承=別付属」ということだ。


[12]

題名:法華講は小学生レベルの教学

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/12(火) 00:34 45.67.97.7 (45.67.97.7)



>『「『日蓮在御判』と嫡流の法主が代々書いていきなさい」
>という意味であって、「日蓮在御判嫡々代々」という文言を書けということではない。

【破折】
 ×書いていきなさい ⇒  ○書くべし   小学校から国語のお勉強をして下さい(^▽^)
 
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師(日蓮聖人)の日わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」

石山の本尊は、「日蓮在御判」とは書いてあっても、「嫡嫡代代」とは、上代の本尊に一幅も見当りません。
この「法門相承」の存在を自ら否定しています。

51世 日英上人本尊には 「嫡嫡代代」の 第五十一世 日英(花押)と認められている。

「御本尊七箇相承」には、次のように記されています。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・
未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
(富士宗学要集 第一巻)

この相伝書によれば、間違いなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しいと書かれています。

本門戒壇の大御本尊は「仏滅度後二千二百二十余年」となっており、
明らかにこの相伝書と違うのであります。

すでに書き記しましたが、そこには議論の余地はないと思います。
67世日顕書写し賜る本尊は仏滅度後と書かれていません、

「之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」となり、大僻見不相伝の
至極なりと成りますがいかがでしょうか?

日応上人は『研究教学書』で
「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の
活眼たる極意の相伝あり」とバカな指南をしています。


邪宗の本尊に勤行唱題をし「花押の上に『南無日興日華等血脈』」、
邪宗の坊主から大石寺管長・法主に任命された張本人が、

「金口血脈」と言えるのでしょうか?
片腹痛いとはこの様なことを言うのです。

石山本尊に『南無日興日華等血脈』があるのか?
これが「極意の相伝」なのかと法華講に尋ねてあげましょう。。

※血脈否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、

日蓮正宗の教義とは、正確には「日蓮正宗 宗規 第5条 第2項 に定める正依」のことになるのです。
教義上の正邪を論じる際には、この正依によるものでなければ、それがたとえ法主の主張であっても、

全く耳を傾ける必要はありません。
なぜなら、歴代法主の言葉は正依ではなく、正依に背く法主の言葉は御書等の正依に基づいて誤りが明らかになる。

おかしくなった法主がああ言ったとか、学会の歴代会長がこう言ったとか主張するのは、
あくまでも参考資料とするだけで、根拠として採用できるのは正依だけなのです。

そして、これが本来の正しい日蓮正宗の教義なのです。

この御本尊七箇相承は、日蓮正宗の平成新編御書では削除されていますが、
正しい相承書ではないのでしょうか? それとも他宗からのパクりをしてきたのでしょうか。

日顕宗の輩を問い詰めてみましょう。





[11]

題名:法華講のトンチンカン

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/11(月) 21:07 45.67.97.12 (45.67.97.12)



[投稿日時] 2017年 3月31日(金)08時21分2秒
[投稿者] 通りすがりの法華講員

>『御義口伝』
>「秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。」わかるか?
>これは妙法蓮華経から連なる仏法の基本の道理である。
>わかったかい?
>創価学会員が阿呆なのは、『聖愚問答抄』の誤った読み方を「口伝」していることが発端なの。以下そのまま読んでみなさい。


[投稿日時]2022/06/24 21:15:51
[投稿者] 東京第一地方部 法華講

ほんとおまえら御義口伝好きだね(失笑)
日蓮正宗では御義口伝はほとんど引用されないし、重視もされていないんだが。
宇宙空間を漂っているような、抽象的で、観念的で、ある意味どうでもいい話が多いからかな。
宇宙の真理だの生命哲学だのが好きな脳内電波カルト集団は、なぜか異常にこだわるけどな(失笑)

⇒ シアトル日顕と同じ狢の二枚舌、これぞまさしく『頭破作七分』ととかれて候。



[10]

題名:法華講は小学生レベルの教学

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/09(土) 21:37 193.37.32.178 (193.37.32.178)


[投稿日時] 2017年 3月31日(金)22時43分50秒
[投稿者] 通りすがりの法華講員


>日応上人『弁惑観心抄』
>「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり、その別付とは
>すなわち法体相承にして総付は法門相承なり、而して法体別付を受
>け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云うべし。
>また法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受け
>ざるはなし。」

>わかるか?
>相伝・血脈には総別二義があり
>・僧俗には「総附属の血脈相承=信心の血脈相承・法門の血脈相承」
>・代々の御法主上人猊下様には「別付属の血脈相承=法体の血脈相承」
>があるのだよ。
>大聖人様が僧俗に示されたのは総附属の血脈相承だけだ!
>わかったか!ドアホウ!


【破折】

(別付嘱)とは、法華経如来神力品第二十一で説かれる地涌の菩薩への付嘱のこと。

(総付嘱)とは、仏がすべての菩薩に法華経を付嘱したこと。

石山では、日蓮聖人の付嘱においては、池上相承書を別付嘱書とするのに対し
身延相承書を総付嘱書という。

 『五十六世大石日応が「弁惑観心抄」で「唯授一人嫡々血脈相承に
も別付総付の二箇あり其(その)別付とは則ち法体相承にして総付
とは法門相承なり」(二一〇ページ)と述べ、唯授一人の血脈相承
を「総じての法門相承」(「百六箇抄」や「本因妙抄」等の相伝書
の相承)と、「別しての法体相承」(法体たる戒壇の大御本尊と、
御本尊書写に関わる金口嫡々の口伝の相承)とに立て分けたことは
ある。』

だが、この「法門の血脈」も「法体の血脈」も、ともに「信心の血
脈」によって流れ通うのである。

 このことは、他の誰の言を引くまでもなく、昭和六十二年の「虫
払大法会」の際のシアトル日顕自身の説法を引けば十分であろう。

 「血脈相承とは、信心の血脈がその基(もとい)をなすのであり、
その信心の血脈によって仏の本地甚深(じんじん)の境智に基づく
法体法門の血脈が、一器より一器へ流れ通うのであります」

 「要するに、日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において
万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学
の根底であります。故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人

しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せ
ぬ者の囈言(たわごと)であり、信心の一念に法水の流れるところ、
有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開
かれているのであります」

 ここで日顕は明確に、「信心の血脈」が一切の根本であり、唯授
一人の「法体法門の血脈」も「信心の血脈」によって流れ通うと述
べている。そして“「法体の血脈」は法主一人にしか解らない”な
どと言うのは、血脈の真義を解せぬ者の「たわごと」とまで言い切
っているのである。

 しかも、これは宗門伝統の「虫払大法会」という重要な儀式に
おける法主としての公式の「指南」である。

日顕は貴様のことを、血脈の真義を解せぬ者の囈言だと仰せられている。


[9]

題名:法華講は小学生レベルの教学

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/09(土) 14:00 192.109.205.212 (192.109.205.212)



2017年 3月31日(金)22時43分50秒  通りすがりの法華講員

>『御本尊七箇相承』
>「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」


  石山上代歴代法主の本尊に『嫡々代々』と書写されていません。

 『御本尊七箇相承』は山師(保田妙本寺)の相承書です、そのような初歩もご存じないとは。

  


[8]

題名:法華講は小学生レベルの教学

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/09(土) 00:20 45.67.97.44 (45.67.97.44)



2015/11/04 19:00:04   通りすがりの法華講員

>私の『観心本尊抄(真筆あり)』「此時地涌千界出現本門教主為脇士、一閻浮提第一本尊可此国」
>にあるように一切衆生救済のために日蓮大聖人様が顕された本門戒壇の大御本尊様が法本尊であるという証です。

観心本尊抄 【文永10年 (1273年)】 
通称戒壇本尊【弘安2年  (1279年)】

「弘安二年十月十二日 本門戒壇の大御本尊」のエビデンスが『観心本尊抄』とは片腹痛い。


[7]

題名:一、三、六大秘法に対する私の解釈 12

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/08(金) 23:59 180-147-89-175f1.osk3.eonet.ne.jp (180.147.89.175)

一、三、六大秘法に対する私の解釈 12

三大秘法 8

仏法語句の再確認


戒定慧の三学

仏教に必ず備わっており、仏道修行者は必ずこの三つを修学しなければならないのです。
戒:(禁戒)身口意の三業の悪を止め、非を防ぎ善を修すること
定:(禅定)心を一所に定めて雑念を払い安定した境地に立つこと
慧:(智慧)煩悩を断じて真理を照らし顕すこと
三学相互の関係は、戒に依って定を扶け、定に依って慧を発し、慧に依って仏道を証得することになります。

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり、持つ所の行者・決定無有疑の仏体と定む是は定なり、三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する是は慧なり、此の三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。」(御義口伝巻上 全743-4頁・新1036-7頁)

「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)

「一つ本門寿量の大戒は、虚空不動戒であり、無作の円戒と名け、本門寿量の大戒壇と名く。一つ本門寿量の本尊は、虚空不動定であり、本門無作の大定であり、本門無作の事の一念三千である。一つ本門寿量の妙法蓮華経は、虚空不動智であり、自受用の本分と名け、無作の円慧である」(大石寺開山 日興 記?『上行所伝三大秘法口訣』富要集1巻45頁より一部改編)

※この様に、末法の三学は三大秘法の事であり、この御本尊を信じて、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱える我々は、三学を実践している事になります。
戒:禁戒(無得道の権教を止め法華経の真実を修行する)は、『本門の戒壇』にあたる
定:禅定(法華経を持つ行者は決定無有疑の仏体と定める)は、『本門の本尊』にあたる
慧:智慧(世の諸仏の智慧を一返の題目にて受持する)は、『本門の題目』にあたる


法報応の三身

厳密には、仏身の3種の側面を云い、
法身は、所証の真理そのもの、生命自体、
報身は、真理を体得する能証の智慧、またその智慧を体得した仏身、
応身は、衆生に慈悲を施す働き、また衆生を救済するために応現する仏身、
を意味します。

「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす、譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」四条金吾釈迦仏供養事 全1144頁・新1555-6頁)

「四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全563頁・新712頁)

「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全561-2頁・新710-1頁)

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)

「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(御義口伝下 全754頁・新1051頁)

※これ等を読み解くと下記の如くとなり、
法身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の身体、生命自体
報身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の心性、智慧
応身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の相形、肉体
を意味します。
無作の三身とは寿量品事の三大秘法であり、無作三身の当体蓮華の仏とは末法の法華経の行者つまり日蓮が弟子檀那等なのです。


空仮中の三諦

物事の真理の三つの側面を三諦と云い、仏法の法門は全て三諦を説いています。
空諦とは、万法一切の性分の事で、有りと云えば無く、無いと云えば有るという内相的な存在、
仮諦とは、一切の万法が、仮りの因縁によって和合している外相の面、
中諦とは、空と仮の二面を包含し動かしがたい厳然たる本質、
を意味します。

「多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり」(十如是事 全410頁・新355頁)

「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全573頁・新727頁)

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」(御義口伝上 全717頁・新998頁)

※総の三諦とは、釈迦一代聖教の内、頓(華厳)・漸(阿含・方等・般若)・円(法華経)の三教を総の三諦と云います。釈迦は頓教において空諦を、漸教において仮諦を説き、法華において中道を説いて締め括り総の三諦を完成した。衆生を悟らせる為の仏の説法は、全て三諦の法門であり、衆生が開会(真実を開き顕して一つに合わせること)し悟ると成仏するが、開会するには妙法によらなければならず、究極は南無妙法蓮華経となります。
見方を変えますと、ドイツ観念論のヘーゲルは、一度は全てを信じる(正)が、その限界を見出し(反)、次の段階に上る(合)という能力が人間にはあると指摘していますが、この仏法原理にも一致しています。

円融の三諦は、円教(法華経)で説く三諦で隔歴(爾前経で三身等が別々に説かれている)の三諦に対する言葉。空仮中の三諦が、おのおのまた三諦を具するという相即を説き、鏡が物の像を映すことに譬えています。即ち万象の像を映す鏡の前に物を置かなければ像は映らない。万象の姿を映すことを仮諦に、何も映していない状態を空諦に譬え、鏡それ自体は本来空諦でも仮諦でもなくいずれにも偏らない中諦に譬えられるのです。この三諦は別々の存在ではなく鏡と像との姿の中に円融しているので、円融の三諦というのです。


三観

三観の三は、相性体の三如是であり、法報応の三身であり、空仮中の三諦です。観は「明らかに詳しく見る」との意味であり、森羅万象を悉く三如是、三身、三諦と見ていくことが三観になります。


三道と三徳

「煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳に転ずる」
法身・般若・解脱の三徳と三身の関係は、法身は法身、般若が報身、解脱が応身となります。

「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(当体義抄 全512頁・新616-7頁)

「此の中に心念口演とは口業なり志意和雅とは意業なり悉能受持深入禅定とは身業なり三業即三徳なれば三諦法性なり」(御義口伝上 全745頁・新1039頁)

※煩悩・業・苦の三道は、煩悩による行為が業を造り、業が苦を招き、苦がまた煩悩を呼び起こして、際限ない苦悩の流転となります。しかし、法華経を受持する者はその連鎖を断ち切り、煩悩は仏の智慧としての般若に転換し、煩悩がもたらした悪業は般若によって仏の自在なる解説の働きとなり、業のもたらす苦果は解脱によって法身という究極の真理の当体へと顕れるのです。その法身はまた般若を生み出すというように、悟りの連なりへと変わっていき、この三徳が先に述べたように、そのまま仏の尊い三身となるのです。


三智

道種智・一切智・一切種智の三智のことを云います。
一切智は、一切の思想および経典に通達した二乗の智慧。
道種智は、あらゆる道法により衆生の生命に仏界を涌現させようとする菩薩の智慧。
一切種智は、一切を見通していく透徹した仏智。

※止観では「仏智、空を照すこと、二乗の見る所の如くなるを、一切智と名く、仏智、仮を照すこと、菩薩の見る所の如くなるを、道種智と名く。仏智、空仮中を照し、皆実相を見るを、一切種智と名く。故に三智は一心の中に得というなり」と三智が一心に具足している、とあります。


三因仏性

三種の仏性(仏になるべき性分)のこと。正因・了因・縁因の三因仏性をいう。
 正因仏性  一切衆生が本然的に具えている仏性(法性・真如)のこと。
 了因仏性  法性・真如の理(正因仏性)を覚知する智慧をいう。
 縁因仏性  了因仏性を縁助して正因仏性を開発していく全ての善行をいう。

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙法尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)

※金光明経玄義に、三因仏性は互いに相由って仏果を証する妙因となる(趣意)と説かれ、了因は空諦、縁因は仮諦、正因は中諦となる、とされています。


三軌

衣座室の三軌のこと。軌とは法則・手本といった意味です。

「四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり」(妙法法華経法師品394頁、眞訓両読 妙法蓮華経並開結、大石寺版)

「衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり、衣とは柔和忍辱の衣・当著忍辱鎧是なり座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり室とは慈悲に住して弘むる故なり母の子を思うが如くなり、豈一念に三軌を具足するに非ずや」(御義口伝上 全737頁・新1028頁)

「如来の室を修するは是れ大慈悲なり、若し同体に就かば即ち法身なり、若し衆生に被るのは即ち是れ解脱なり、能く衆生をして同体に会せしむるは即ち是れ般若なり、如来の衣を修するは、若し所覆に就かば即ち法身なり、若し能覆の厳身に就かば即ち寂滅忍なり、若し和光利物に就かば即ち解脱なり、若し能坐に就かば即ち般若なり、若し所坐に就かば即ち法身なり、身と座と冥に称うは即ち解脱なり」(智顗 著『法華文句』)

※衣は柔和忍辱の心を着し・座は一切法空なりとの真理に座して不惜身命の法を説き・室は大慈悲の心を起こして法を弘める・ことを云います。
衣も座も室も共に法報応の三身に約すことができます,
柔和忍辱の衣で云えば、その所覆に就く(衣に覆われた清浄なる生命)は法身、能覆の厳身に就く(あらゆる大難を耐え忍んでいく心)は報身、和光利物に就く(それによって利益する)は応身(解脱)となります。
一切法空なりとの真理に座すれば、能坐に就く(以下略す)は報身(般若)、所坐に就くは法身、身と座と冥に称うは応身(解脱)となり、大慈悲の心を起こす室では、同体に就けば法身、衆生に被るのは解脱、衆生を同体に会せしめるは般若であると解釈されています。
この様に立場と場合で三身も移るというのです。
同様に、それぞれ空仮中の三諦・身口意の三業に約して論ずることもできると仰せです。


語句それぞれの関係を示す

 三身  三諦  三徳  三業   三智   三因仏性  三如是  三転読誦
 応身  仮諦  解脱  意業  道種智  縁因仏性  如是相  如是相
 報身  空諦  般若  口業  一切智  了因仏性  如是性  是相如
 法身  中諦  法身  身業  一切種智  正因仏性  如是体  相如是  


◎「この三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。」(御義口伝巻上 全744頁・新1037頁)
とありますが、上記の語句と三学のそれぞれの関係を記述できていません。しかし、
「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
と述べられておられるので、全てこれ等の語句は、三大秘法に結び付いている、と考えられるのです。


[6]

題名:2017/01/10 19:52:00通りすがりの法華講員 

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/07(木) 19:00 45.67.97.44 (45.67.97.44)

 

阿仏房は佐渡から身延まで来られるだけの交通網がある中、
身延に楠木を持ち運ぶことなど大したことではないよ。

通称「本門戒壇の大御本尊は弘安二年十月十二日 」建立ですね。
阿仏房は弘安二年三月二十一日 (1279)死去
、と伝えられる。(参考文献)阿仏房御書〔御〕1304

板本尊遷座式には10人ほどの方が運ばれていました。
しかも91歳の死去された阿仏房が【楠木を持ち運ぶことなど大したことではないよ】
とは、どのような頭の構造をしているのやら、


[5]

題名:楠板本尊の相貌

名前:サム

MAIL 投稿日: 2022/07/06(水) 19:41 180-147-89-175f1.osk3.eonet.ne.jp (180.147.89.175)

楠板本尊の相貌

楠板本尊の相貌を知らない方(法華講員さんを含む)の為に記載します。

上図 熊田宗次郎が大正2年発行の『日蓮上人』で発表された「楠板本尊」
中図 「楠板本尊」の座配図 京都要法寺僧侶 柳澤宏道 著『石山本尊の研究』より
下図 14世日主上人が書き写した「楠板本尊」の腰書


[4]

題名:逃げる日蓮正宗法華講員

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/06(水) 19:08 194.5.52.222 (194.5.52.222)




>『末法灯明記』(平安時代に成立)にもそう書かれている

⇒ 偽書

>「佐渡国法華講衆御返事」

⇒ 偽書

>釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。

⇒ 偽書

>行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。
(諸法実相抄)

⇒ 偽書

>日本仏教が妻帯や肉食を認める方向性になったのは、この伝最澄撰『末法灯明記』の影響が大きいのだろう。

⇒ いい加減な嘘をつく法華講。  伝教大師 (767年- 822年)

  ブッダが厳重に禁止したにもかかわらず、婬戒が次第に崩れていった。
  いつごろか、どのような経過で崩れていったか、それをうかがい知る資料は、

  五世紀の中ごろから六世紀にかけて漢訳された『賢愚経』、『摩訶摩耶経』、
  『大非経』などには、僧で妻を蓄えた者とか、僧と尼の結婚した者とか記されおり、
  当時すでに僧侶の妻帯が行なわれていたことを明らかにしている。 


[3]

題名:日顕宗

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/06(水) 12:00 194.5.52.194 (194.5.52.194)


>「末法においては外見が僧侶であるだけの破戒僧・無戒僧であっても尊崇せよ」
>「法華経は相伝がなければ理解できないので僧侶に親近して師とせよ」
>「今日出家したばかりの小僧でも高位の在家より格上」
>と釈尊・日蓮大聖人・日興上人は明確に仰せ。


何故君が日蓮大聖人と言っているのか理解しがたい。

「日蓮御房」(佐渡御書 真偽未決)とありますね。

つまり、在世当時は大聖人、聖人といった呼称はなかったことを意味しています。

それにもかかわらず、「日蓮大聖人と呼ばなければいけない」とあなたが思う理由は何か、です。

聖人と日顕宗とどのような関係が存在するのかを、まず説明責任を果たして下さい。



[2]

題名: 知識は力なり

名前:enjoy!

MAIL 投稿日: 2022/07/06(水) 11:47 194.5.52.194 (194.5.52.194)

譬如眞金爲無價寳。若無眞金銀爲無價。
若無銀者?石無價。若無?石僞寳無價。
若無僞寳赤白銅鐵白鑞鉛錫爲無價寶。
如是一切諸世間中佛寶無上。
若無佛寶縁覺無上。
若無縁覺羅漢無上。
若無羅漢諸餘聖衆以爲無上。
若無聖衆得定凡夫以爲無上。
若無得定淨持戒者以爲無上。
若無淨戒汚戒比丘以爲無上。
若無汚戒剃除鬚髮身著袈裟名字比丘爲無上寶。比餘九十五種異道最尊第一。
應受世供爲物福田。
何以故。能示衆生可怖畏故。若有護持養育安置是人。不久得住忍地」


たとえば真金を無価の宝と為すがごとし。もし真金なくんば、銀を無価の宝と為す。
もし銀なくんば、鍮石・偽宝を無価の宝と為す。
もし偽宝なくんば、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価の宝と為す。
かくのごとく一切世間の宝には、仏法無価なり。
もし仏宝なくんば、縁覚無上なり。
もし縁覚なくんば、羅漢無上なり。
もし羅漢なくんば、余の賢聖衆をもって無上と為す。
もし余の賢聖衆なくんば、得定の凡夫をもって無上と為す。
もし得定の凡夫なくんば、浄持戒をもって無上と為す。
もし浄持戒なくんば、漏戒の比丘をもって無上と為す。
もし漏戒なくんば、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上宝と為す。
余の九十五種の異道に比すれば最も第一たり。
まさに世の供を受けて、物の福田となるべし。
何をもってのゆえに、能身を破して衆生に怖畏せらるるがゆえに、もし護持し養育し安置することあれば、
この人久しからずして忍地に住することを得んと。已上経文


法華講君って頭可笑しいのではありませんか(^▽^)


[1]

題名:

名前:題目命

MAIL 投稿日: 2022/06/29(水) 23:02 2404:7a81:c9c0:d500:dcb:7768:9738:5c0e(IPv6:biglobe-jpnic-jp-20160302) (2404:7a81:c9c0:d500:dcb:7768:9738:5c0e)

題目を唱え続けるしかありません!


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