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一、三、六大秘法に対する私の解釈 17
三大秘法 13
日蓮大聖人は個別にも数多く御教示されているのですが、此処では一部だけ紹介させて頂きます。
己心の本尊
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄 全557頁・新704頁)
現代語訳:我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつると、我が己心中の仏性が南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて出現するのを仏というのです。
※我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇め、唱題する事により、我が己心の仏性が仏として顕れると仰せです。
「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全567頁・新718頁)
現代語訳:総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。
※我が身(の本体)を知ることが大事で、これを悟れば仏と云う、と仰せです。
「宝とは五陰なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり、此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る是を見とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は見宝塔なり」(御義口伝巻上 全739頁・新1031頁)
現代語訳:「宝」とは、色受想行識の五陰です。見宝塔の「塔」とは、和合の義です。この五陰が和合した姿をもって宝塔というのです。この五陰和合は、妙法蓮華経の五字であると信解し、これを見宝塔の「見」というのです。今、日蓮大聖人とその門下達が、南無妙法蓮華経と唱え、我が身即妙法五字の当体であると信ずるのが、見宝塔なのです。
※我々こそが妙法蓮華経の当体なのです。
「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を案ず可し自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」(御義口伝巻上 全724頁・新1010頁)弘安元(1278)年正月 57歳御述作
現代語訳:私達衆生の五体五輪、即ちこの身体が妙法蓮華経の当体であり、この生命を映し出す鏡こそ、宝塔品において釈尊が己身に描き、大聖人がその儀式を借りて事実の上に顕された、御本尊なのです。信心した場合、謗法した場合、どういう現象があるかということは、この鏡によってわかるのです。(結論すれば)自浮自影の鏡とは、南無妙法蓮華経(の御本尊)なのです。
※我々の身体が妙法蓮華経の当体であり、自身の生命を映し出す(自浮自影の)鏡として、南無妙法蓮華経(本尊)がある様です。
「題目の五字に一法として具足せずと云う事なし若し服する者速除苦悩なり、されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり、法華の行者は罵詈せらるれども忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり、されば大良薬は末法の成仏の甘露なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり」(御義口伝下 全755頁・新1052-3頁)
現代語訳:題目の五字(即ち御本尊)に一法として具足しないものはありません(万法がすべて具足しているのです)。もしこれを服する者は、経文に「速かに苦悩を除く」とある様に、ただちに苦悩を消滅することができるのです。そうであれば、この妙法の大良薬を服する者は、貪瞋癡の三毒の煩悩の病を除くことができるのです。法華経の行者、南無妙法蓮華経と唱える者は、謗法の供養を受けることはありません。これは貪瞋癡の三毒のうち貪欲の病を除くことになるのです。また法華経の行者が、いかに世間の人々から、悪口罵詈されても、忍辱を行じ、ただその人の幸福を思って折伏を行ずるのは、瞋恚の病を除くことになるのです。また、法華の行者は、神力品に「是の人仏道に於いて、決定して疑有ること無けん」と説かれていますが、(御本尊を信ずることによって)即身成仏できると覚知することが、愚痴の煩悩を治すことになるのです。そうであれば、この大良薬たる御本尊は、末法の即身成仏の甘露であり、南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人及びその門下が、妙法の当体となり大良薬の本主となるのです。
※法華経の行者即ち妙法を唱える大聖人及び門下こそ、大良薬の本主である、と仰せです。
「経に云く『世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す』云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり」(当体義抄送状 全519頁・新628頁)
現代語訳:従地涌出品第十五に「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥水の中にありながら、清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれています。これは、まさしく地涌の菩薩が当体蓮華であることを示しています。
※人生は悩みや宿命との闘いですが、必ず自他ともに、幸福と勝利の大輪を咲き誇らせられる。それが「如蓮華在水」の法理に生きる地涌の菩薩なのです。
「仏と申す事も我等の心の内にをはします(中略)、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ」(十字御書全1491頁・新2036頁)
現代語訳:仏というのも私達の心の中におられるのです。(中略)私達凡夫は、まつげが近くにあるのと虚空が遠くにあるのとは見ることができません。私達の心の中に仏がおられる事を知らないで居たのです。
※私達の心の中に仏がおられると覚知すれば、六(布施:財を施す、持戒:戒律を守る、忍辱:耐え忍ぶ、精進:真剣に打ち込む、禅:心静定にする、智慧:物事の道理を弁え判断する)波羅蜜の行動(行法)にも励みになるのではないでしょうか。
「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(上野殿後家尼御返事 全1504頁・新1832-3頁)
現代語訳:浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのが法華経です。だから、法華経を受持する者は地獄即寂光であると悟ることができるのです。
※「仏」とは、特別な存在ではなく、自他共の生命が尊極である事を信じて、現実社会の中で「戦い続ける人」であり、その胸中に浄土(寂光土)があると自覚するのです。
◎大聖人は、我々己心にも妙法蓮華経という御本尊が存在する事を述べられています。
それを自覚して行動する事で、各己身が生命尊厳を軸として、人間形成・人間革命(つまり成仏)し、他者との比較ではない絶対的幸福境涯が得られる、と御教示されています。