[34]
(発行=23.04.07)
謗法の山で広布と無縁になった大講堂
「三・一六」に関する「慧妙」の難癖を破折
「脳裏に焼きついた戸田先生が後事を託した光景」
日蓮正宗の謀略紙「慧妙」の四月一日付で「三・一六」の学会の広宣流布記
念の日について難癖をつけ「三月十六日は『広宣流布記念式典』が行われた日
でもなければ『継承の日』でも『出発の日』でもない」等々と悪口を書いてい
る。
この「慧妙」には妙観講や所化小僧など二十数名の僧俗が関与しているとの
ことだが、いずれも無知で勉強もせず、詭弁を弄し、減らず口を叩き、屁理屈
をこねる。
今回の「三・一六」に関する悪口も退転した石田次男や竜年光の批判記事だ
けを引用して非難中傷し、本山に完成した大講堂のエレベーターでの戸田先生
の言葉を否定している。
この「三・一六 広宣流布記念の日」は、第二代会長 の戸田先生から池田先
生に、そして青年部に広宣流布の一切を託された記念すべき日で、広布請願へ
の新たな出発の日である。
大講堂の落慶式典のあと、エレベーターでの厳粛な師弟の継承は、当時の複
数の幹部の証言で明白である。
また、この頃のエレベーターは操作も難しかったので、デパートのエレベー
ターガールをしていた当時二十三歳の女子部員が乗っており、その証言もある。
証言者が皆無の日顕の相承詐称とは違うのだ。
特に「慧妙」が批判するために利用している竜年光は「第三代会長就任式に
参加して」と題する記事の中で次のように書いていた。
竜は第三代会長に池田先生が就任される日を待望し、昭和三十三年三月、理
境坊で当時の理事室数人が次の会長について戸田先生に伺ったとき「お前たち
で決めることだ」と言われたと聞いたと述べたあと「男子部結成式で『第三代
会長はこの中に……』と、戸田先生が挨拶されたことは厳然たる事実であった。
更に、大講堂落慶大法要が終わったあと、三月十六日の大儀式の時、エレベ
ーターの前で戸田先生が『俺はもう死んでもいい。あとはお前だよ』と強く、
強く池田先生に言っておられた光景は私の脳裏に焼きついて離れない」と記し
ていた。
また、竜は理事室・参謀室の合同会議で強く印象に残っているのは原島理事
の「今後の学会の発展を考えた時、どうしても今、池田先生に会長になってい
ただかなければならない。まだ私達の誠意と熱意がたりないのだ」という言葉
で、全員で更にお願いし、遂に受諾されたと書いていた。
更に「草創期の青年部」と題する座談会の中で竜は「部隊長である私がとき
どき、班長である池田先生に呼び出されて色々と指導された」とも語っていた。
池田先生は一班長であっても戸田先生の後継者として特別の存在だったこと
が分かる発言だ。
また「慧妙」は「この大会での戸田氏の発言を見てみても『広宣流布』とい
う単語は一度たりとも出てこない」と批判のための批判を繰り返している。
何でも悪口ばかり書くのが「慧妙」だ。六十五世・日淳法主の慶讃文、戸田
先生の挨拶、岸信介内閣総理大臣の祝辞、松永文部大臣の祝辞、細井総監の挨
拶から大講堂建立の深い意義が汲み取れるではないか。
だが、今は残念ながら邪宗と化した大石寺の建物になっており、広宣流布と
は無縁の大講堂になっている。