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一、三、六大秘法に対する私の解釈 13
三大秘法 9
大聖人の御書から読み取れる三大秘法の概念
日蓮大聖人の三大秘法の法門が如何に広大甚深であるか、を此処で紹介するにあたって改めて考えさせられました。
①従来の法華経寿量品からの三大秘法
「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(法華取要抄 全336頁・新156頁)
現代語訳:問うて言います。釈尊滅後二千余年間竜樹・天親・天台・伝教が末だ説いていない秘法とは何でしょうか。答えて言います。本門の本尊と戒壇と題目の五字となのです。
「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(報恩抄 全328頁・新260-1頁)
現代語訳:問うて言います。天台大師や伝教大師の弘通していない正法があるのでしょうか。答えて言います。あります。求めて言います。それは、如何なるものでしょうか。答えて言います。それは、三つあります。末法の世の為に、仏が留め置かれたもので、迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかった正法です。求めて言います。その形貌はいかなるものなのでしょうか。答えて言います。一つには日本乃至、一閻浮提の人々が一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきです。いわゆる宝塔の内の釈迦多宝、その外の諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきです。二つには本門の戒壇です。三つには本門の題目です。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智に関係なく、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱えていくべきです。
※現時点で我々創価学会員は、各家庭に於いて、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を既に具え修行に励んでいる、と確信しているのではないでしょうか。
②大聖人ご自身が一大秘法であり、三大秘法の該当者であると仰せなのです。
「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(撰時抄288頁・新205頁)
現代語訳:この三つの大事は、日蓮が述べているのではないのです。ただひとえに釈迦如来の御心が、我が心に入り替わられての事なのでしょう。我が身ながらも喜びが身にあまる思いです。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれなのです。
「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:無作の三身とは末法の法華経の行者であり、無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うのです。法華経寿量品の事の三大事(三大秘法)とはこれの事なのです。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)
現代語訳:本尊とは法華経の行者の一身の当体なのです。
「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(義浄房御書 全892頁・新1197頁)
現代語訳:如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とあります。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕しているのです。その理由は、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就していると、この経文にあるからです。
※大聖人の己心の仏の境界とは、法身(大聖人ご自身の姿・本尊)、報身(不惜身命の覚悟「内相・智慧、働き」・題目)、応身(妙法蓮華経の五字の弘教「外相・実行」・戒壇)で表される無作の三身なのです。
③日蓮等、日蓮が弟子旦那、我等衆生等、と述べられている通り、大聖人は、師弟(大聖人と我等)の関係を不二であり分け隔て無く平等に扱われております。
「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり」(当体義抄 全512頁・新617頁)
現代語訳:無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中の正しい信心をする者の音です。これ則ち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのです。
「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)
現代語訳:この心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝下 全784頁・新1090頁)
現代語訳:今、日蓮大聖人及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の本主なのです。
「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏であり、別しては本地無作の三身(即ち久遠元初の凡夫即極の本仏のこと)です。今日蓮大聖人及びその門下の意で述べれば、総じて一切衆生は如来です。別して(事の上で論ずるならば)日蓮大聖人及びその弟子檀那のことです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事、即ち内証の寿量品に顕わされた事の三大秘法とはこの事なのです。
「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候」(妙一尼御前御返事 全1402頁・新2098頁)
現代語訳:この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれているので、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。南無妙法蓮華経というのは、法華経の一句一偈なのです。
「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙一尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)
現代語訳:我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことです。
※我々創価学会員を、恐れ多くも大聖人と同様に、無作の三身の存在である、と仰せなのです。
④一大秘法である妙法蓮華経の五字の中に既に己心及び十方法界の概念が存在し、三大秘法もまた己心から十方法界までを包含して述べられています。
「上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄下 全498頁・新578頁)
現代語訳:上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までのあらゆる一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。
「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全562頁・新710頁)
現代語訳:この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのです。この為に我が身は本覚三身如来の身体なのです。
「妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第一」等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を含めるが如し」(法華経題目抄 全943頁・新536頁)
現代語訳:妙楽大師は「仏が已に説き、今説き、当に説く。その中で法華経が最も為れ第一」であると解釈しています。この法華経の経の一字の徳の中に十方法界の一切経が納まっているのです。譬えば如意宝珠が一切の財を納め、虚空が一切の万象を含んでいる様なものです。妙法蓮華経の経の一字が一代聖教の中で最も勝れている故に妙法蓮華の四字の徳もまた八万法蔵の徳に超過するのです。
※十方法界(宇宙及び大自然を含む)は、身体(法身)・心性(報身)・相好(応身)であり、この三大秘法の法門が十方法界に遍満している故に、我が身も本覚三身如来に成るのですね。
◎大聖人は、三大秘法の法門の詳細を御書中の至る所で記述されています。
然しながら、私が愚鈍であり、またこの法門の応用が数多存在する為に、紹介しきれないと思いますが、私の解釈も加えて、次回から個々の例を紹介していくつもりです。