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(発行=22.04.08)
還俗覚悟で流出させた河辺慈篤
「河辺メモ」に関する「慧妙」の屁理屈を粉砕 ㊤
客観的で正確な記録、謝罪は茶番
日顕の「大御本尊は偽物」との発言を河辺慈篤(日正寺住職)が記録した「河
辺メモ」が平成十一年七月七日に「同盟通信」で公開されると宗内には大激震
が走り、住職が相次いで離脱、 日顕を窮地に追い込み、宗外の身延派、旧興
門派の各寺院にも波及した。
慌てた宗務院は七月九日に院達を発信して日顕が河辺と面談した事実を認め、
十日には「河辺慈篤師からのお詫びと証言」を出して〝記録ミス〟と謝罪させ
た。
日顕は河辺に全責任を被せて、自分への非難の鉾先を回避しようとした。
何でもメモする「メモ魔」と言われていた河辺は日頃から「私のメモはテー
プレコーダーと同じだ」と周囲に語っていた。
河辺のメモは、幾つもの宗門の機密事項を暴露した〝実績〟がある。あの学
会を切り崩す陰謀の「?作戦」も当初、宗門は存在を否定していたが、現実に
日顕を中心に練り上げた作戦だったことを証明したのも河辺の正確なメモであ
った。
日顕の「大御本尊は偽物」のメモは、宗門側の圧力によって「お詫びと証言」
に書かされたような主観を加え、記録ミスをするような河辺ではない。極めて
客観的な記述であり、日顕が語った内容を正確に記録したメモである。
この「河辺メモ」の公開から二十三年が経過した。
今頃になって「慧妙」四月一日付が下手な屁理屈を並べ、変な弁解を重ねてい
るので簡潔に破折する。
初めに「河辺メモ」(現物の写しを左に掲載)の内容を改めて紹介する。
◇ ◇
「S53・2・7 A面談
帝国H
一、戒旦之御本尊之件
戒旦の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は
時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
一、Gは話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだらうと云う安易な考
へを持っている」
◇ ◇
「A」なる人物が、阿部日顕であることは、日顕も河辺も宗門も認め、そのう
えで、九日付の院達では、実際の面談とメモの記載内容には大きな差異がある
と誤魔化しているので、これは後で破折する。
先ずは「慧妙」四月一日付で、メモは「何者かによって河辺尊師の手元から
盗み取られ……」と間違ったことを書いているので、これを糺すことにする。
メモは河辺が還俗覚悟で流出させたのである。当時、河辺が日顕と全面対決
を決意していたことは「大御本尊偽物発言」のメモの後、第二弾のメモ(左下
に掲載)を流出させたことで明白だ。
この第二弾のメモとは、僅か数行の簡潔な内容で、表題は「メモの件」とな
っている。河辺の直筆メモは次の通り。
◇◇
「メモの件
1、当局の云う通りやるか
2、還俗を決意して思い通りでるか
3、相談の結論とする
か
7/9 自坊 tel
宗務院より『河辺の感違い』とのFAX(宗内一般)」
◇ ◇
このメモを見ると、河辺の〝主観〟〝記録ミス〟の謝罪が茶番でしかなかっ
たことが明白だ。「慧妙」は、このメモも何者かが盗み出したというのか?
こんな小さな紙切れ一枚、河辺本人でなければ存在すら分からないメモを誰
が盗んだというのか?
誰かが盗み出したのではなく、これも河辺が意図的に流出させたのである。
このメモは平成十一年七月十日に河辺の謝罪文が出た前日の九日付になって
おり、翌十日の謝罪文を書くに至るまでの河辺自身の心の動きが伝わってくる。
このメモに「7/9 自坊tel」と記してあるが、これは「七月九日に自
坊、つまり札幌市内の日正寺に電話を入れた」ということである。
河辺は「同盟通信」がメモを公開した七月七日の晩に日正寺から姿を消した。
宗門関係者によると、河辺(写真)は出身地の北九州に滞在していたという。
この夜、折から福岡・開信寺の法華講対策のために来ていた総監の藤本日潤、
庶務部長の早瀬義寛(今の日如)、同副部長の阿部信彰(今の日明)の三人に会っ
て、翌十日付で出すことになる通達について長時間、密談したが、これは河辺
が三人に指示して行なったという。
この第二弾のメモは河辺が密談に臨むに当たって、その後の身の処し方につ
いて思索していたことを物語っている。
このうち第一の「当局の云う通りやるか」は、日顕や藤本ら宗務当局が河辺
に懇願する通りにやるか、との恭順の意味である。
日顕や藤本らの懇願とは、河辺に全責任を転嫁して謝罪させ、決着をつける
ことであったと思われる。
第二の「還俗を決意して思い通りでるか」とは、日顕らの懇願を断り、還俗
を覚悟の上で日顕と全面対決し、自分の思い通りにやるか、という意味だろう。
河辺が当局の要請を断り、還俗覚悟で日顕と全面対決することを考えていた
意味は重要である。
そこには日顕との対決という事態になっても優位に立つことができる自信が
感じられる。多分、河辺がメモの他にも日顕の発言を裏付ける物証を持ってい
たようだ。それを日顕も感じて河辺を刺激しないで終息させようと腐心してい
た。
第三の「相談の結論とするか」とは九日夜の会談で藤本ら三人と話し合った
上で、結論を出すということであろう。
結局、河辺が選択したのは恭順でも全面対決でもなく、第三の道であった。
主観や感情を交えず「メモ」の内容に自信
河辺が七月十日付の「お詫びと証言」にあるように、自分の記録ミスで〝大
御本尊の威光を傷つけ、猊下の宸襟を悩まし、宗内一同に多大の迷惑をかけた
〟と、本心から思っていたのなら、メモが公開された時点で、「お詫び」や辞
表を出した筈である。
主観や感情を交えず、日顕が「大御本尊は偽物」だと断定した事実を正確に
書き留めていた河辺は、メモの内容に自信があったから還俗をも覚悟の上で流
出させたのである。(つづく)