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(発行=23.04.09)
宗門通達に矛盾する「慧妙」の弁解
「河辺メモ」に関する「慧妙」の屁理屈を粉砕 ㊦
正信会僧に濡れ衣を着せて言い逃れ
日蓮正宗の謀略紙「慧妙」の四月一日付は「河辺メモ」について宗務院の通達
と食い違う戯論を書いている。
それは戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊を比較したのは後の正信会僧で、昭
和五十年当時、疑難が出ていたと述べている箇所で、整合性がとれない。
正信会発行の「日興門流上代事典」に戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊に関
する疑難の記載があるので「慧妙」編集部が、編者の正信会僧に確認したとい
う。
この「慧妙」の記事の真偽の程は疑わしいが、昭和五十年頃、その説があった
として次のよう書いている。
「昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御
本尊』の遠景写真と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があり、これら
の意見を事典の性質上、中立の立場で掲載したとのことであった」として、後
に正信会となる一部の僧が口にしていた妄説を日顕が説明し、それを河辺がメ
モに書いたように誤魔化している。
この記事は宗務院の二通の通達に矛盾している。
平成十一年七月九日の通達で宗門は「河辺メモ」の記載について、次のように
言い訳していた。
「当時は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が
多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、そ
れらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります」と。
これによると河辺のメモは「裁判も含め」「外部からの疑難」を記したものと
いうことだ。これは疑難の主が「後の正信会僧」という「慧妙」の記事とは違
う。「後の正信会僧」も昭和五十年当時は〝宗門の内部〟にいたのだ。要する
に「慧妙」は「外部からの疑難」という宗門通達の釈明を否定していることに
なる。
更に、七月十日に出た通達は河辺の「お詫び」の形で次のように記していた。
「それら(外部からの疑難)と関連して、宗内においても『戒壇の大御本尊』
と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御
本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生
じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります」
これは今後、宗内に生じる可能性のある妄説についての説明というのが河辺の
弁解であった。
ところが「慧妙」は、これとも矛盾する。
「慧妙」は疑難の主が昭和五十年当時は〝宗内〟にいた「後の正信会僧」だと
書いている。この「慧妙」によれば、疑難、妄説が既に五十年には宗内に存在
していたということだ。
だが、この弁解では、その三年後の五十三年に〝今後、宗内に生じる可能性〟
の妄説という河辺の釈明は成立しない。
そして何より奇妙なことは「疑難」だけを書いて、河辺が伺ったという肝心の
「破折」についての記述が一文字もない。日顕は自分が抱いている「疑難」だ
けを語って「破折」は何も言わなかったということだ。
また「慧妙」は「G(=猊下)は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今
後の宗門の事ではGでは不可能だ」等の発言も正信会僧だと濡れ衣を着せてい
る。
左に添付した河辺の文字を「慧妙」は間違って「写真判定」と読んでいるが、
これは「字画判定」と読むのが正しい。河辺本人が「これは字画判定だ」と言
っていたとのことだ。「慧妙」も当初は「字画判定」と読んでいた。
ところが、当時、教学部長だった日顕は写真でなくても現物を間近に見ること
が出来る。そこで「『日禅授与の御本尊』の遠景写真と『戒壇の大御本尊』が
酷似している……」と書いて、鑑定したのは間近に見られない「後の正信会僧」
が写真で判定したと決めつけるため、故意に「写真判定」と誤読しているのだ
ろう。
いかにも「慧妙」らしい姑息な手法だ。
後に正信会になる僧達は、日達法主の直弟子の妙観会を中心として盲信的に信
伏随従して活動していた。この僧達が「猊下は話にならない」と批判する筈が
ない。
仮に一部の者が言っていたとしても、そんな平坊主の発言を河辺が「強烈に意
識に残りました」と、記録するとは思えない。
日達法主に苦言を呈している発言の主が日顕であることは明らかだ。
日顕は御本尊鑑定の専門家気取りだった
この頃、宗内で御本尊の鑑定ができたのは日顕一人だったと老僧が言っていた。
「鑑定の結果解った」とは日顕しか言えないことだ。特に、日顕が「御本尊鑑
定の専門家」を気取って話していたこともある。
これは平成四年九月二十一日、熊本・法観寺の寺号公称・落慶入仏法要の席で
の説法である。
日顕は、間違いなく大聖人様の御真筆だと拝せられる御本尊が、各地に格護さ
れていると述べた後で「ニセものの本尊も多い」と強調。「それらニセものに
も、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらに十級ぐ
らいまでありまして……」と「偽物」も約十種類の等級に分けられると語り、
特殊技能者によって書写された超一級の偽物も、日顕は見ただけで「臨書」(
横に並べること)で書写した本尊だと分かると自慢していた。
そして日顕は教学部長の頃に「中世」の「ニセ本尊」を書いた人物の筆法・筆
跡を熟知するほど数多く鑑定していたとも告白していた。
河辺は処分されずに新宿の大願寺へ栄転
平成十一年八月三十日、大石寺で日顕、藤本、早瀬に河辺を加えた四者会談が
開かれ、河辺の最終的な処遇が決まり、その正式な申し渡しは、河辺が住職を
している札幌市内の日正寺の開創八十周年法要(九月五日)の後と決まった。
そして九月七日、河辺が本山に呼ばれて、日顕から言い渡されたのは隠居でも
降格でも左遷でもなかった。
ナント、東京・新宿区内の大願寺への栄転であった。このため大願寺住職だっ
た長倉教明(当時は財務部長)は札幌の日正寺に移ることになった。
大願寺といえば新宿区内の一等地(五百坪)に学会が建立寄進した寺を長倉の
前の住職・早瀬義寛(日如)が十五億円の巨費を投じて建て替えた最高級料亭の
ような豪勢な寺である。
「北海道に左遷された。いつか必ず東京に帰ってやるぞ」と言っていた河辺は
念願が叶ったのである。
この栄転は「記録ミス」ではなく、日顕に懇願された河辺が〝猊下の御宸襟を
悩ませた〟と心にもない謝罪をしたので、その見返りだと言われていた。
過去にもメモで恫喝
実は、河辺がこのメモを使ったのは二度目で、昭和五十四年十二月二十六日に
日顕を恫喝した前歴があった。正信会寄りの菅野慈雲が庶務部長を更迭された
時、その後任は自分だと河辺は思っていたが、就任したのは常在寺の早瀬義孔
だった。
怒った河辺が帝国ホテルでの面談の内容を使って「おれを忘れるな」と詰め寄
り、その脅しが効いたのか、河辺は翌年六月、徳島・敬台寺から東京・妙因寺
に栄転した過去がある。
日顕の三大汚点は相承詐称、シアトル事件、それに「戒壇の大御本尊は偽物」
という発言を記録した「河辺メモ」である。
この日顕の三大汚点は、弱小教団になった山寺で語り継がれることだろう。