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宿坊2の掲示板


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題名:フェイク 第1745号

名前:宿坊

MAIL 投稿日: 2023/07/18(火) 01:41 2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262(IPv6:cdn77-atl) (2a02:6ea0:c130:1000:9e2e:caa5:b048:3262)

(発行=23.07.14)

大石寺は寂れた山寺に逆戻り
「大白法」の〝永遠の故郷〟の戯言を粉砕 ①
強行した記念総登山の参加者は微少

日蓮正宗大石寺は日蓮大聖人の御聖誕八百年を口実に慶祝記念総登山を三月
四日に始めたが、登山者は日顕流の表現で言うとチョボチョボで八十万達成が
ウソだった事を露呈している。

本来は令和三年に総登山を実施する予定だったが、コロナ禍のため延期して
いて、本山の財政が逼迫しているため、二年遅れて強行しているのである。

だが、登山者が少なく、折伏も全国的に行き詰まったので、学会員に触手を
伸ばして「大白法」七月一日付の「異流義破折」の欄で、池田先生の昔の指導
を引用し「〝永遠の故郷〟を捨て去るな」と述べ、学会員に「人生に当てはめ
て考えてみるべきだ」と書いている。

かつて大石寺は〝永遠の故郷〟の時期もあったが、狂乱した日顕によって寂
れた謗法の山寺に逆戻り。日頃は池田先生に悪口雑言を浴びせて謗法と非難し
ておきながら、宗門に都合の良い指導だけを切り文で引用するとは笑止千万 !

「大白法」では「霊場とは、大御本尊と血脈付法の御法主上人が厳然と在(ま
しま)す総本山大石寺のみである」と自画自賛しているが、その大御本尊につ
いて「戒旦の御本尊のは偽物である。種々の筆跡鑑定の結果解った」と断じた
のは日顕自身であった。

また「血脈付法の御法主上人」と言うが、日顕は血脈を詐称した不相伝のニ
セ法主であり、その後の日如も当然、相承無きニセ法主である。そのため、日
蓮正宗は根腐れした草木が枯れ果てるように衰滅の一途を辿っている邪宗なの
だ。

宗門は〝登山しなければ成仏できない〟〝本当の功徳はない〟と十年一日の
如く言い続けているが、実に愚かなことだ。オックスフォード大学名誉教授の
ブライアン・ウィルソン博士が「特定の〝聖地〟に行かなければ信仰が全うで
きないとするのは、世界宗教の要件を欠く」と指摘している通り、日蓮正宗は
世界宗教の要件を欠いている。勿論、大石寺は〝聖地〟でもない。

「心こそ大切に候へ」

七百年前の日蓮大聖人の時代に登山会はなく、大聖人が〝自分の所に来なけ
れば成仏できない〟〝功徳がない〟等と仰せになってはいない。

登山を強要するのは、金の亡者と化した日蓮正宗の坊主共の脅し文句である。
大聖人が佐渡の千日尼に送られたお手紙には「御面を見てはなにかせん、心こ
そ大切に候へ」と記され、お顔を見たからといって何になろう、心こそ大切で
あると仰せになっている。

登山会は経済面で
宗門を支えるため

現在の宗門の坊主や「大白法」編集部の者たちは、創価学会の第二代会長・
戸田先生が登山会を発案した真意も知らず、筋違いで身勝手な主張を繰り返し
ているので、改めて登山会発足の経緯を記すことにする。

学会が出現する以前の大石寺は極貧にあえぎ、二大行事といっても参詣者は、
ごく少数だった。

例えば、明治二十四年の虫払いは当時の機関紙には「六十有餘人々態々登山
せられたる深信感ずべし」と記し、同二十六年には東京から七人、埼玉から三
人、横浜から十数人、尾張から一人等と書き、総勢で数十人なのに「最も盛大
なる法會にてありき」と喜ぶ有り様だった。

戦後の苦境時代をよく知る吉田義誠(日勇、故人)は次のように述懐していた。

「昭和二十二年八月二十日、私は内事部理事補(御仲居)を拝命したのであり
ますが、我が国は有史以来の敗戦という大きな不幸に遭い、社会的にも混迷の
どん底の時でありました。

総本山は第一次・第二次農地開放によって、所有していた土地の殆んど全部
を開放し、喰べる米とてなく、来る日も来る日も芋をたべ、或いは南瓜を食べ
て餓えをしのぐありさまでした」と振り返っていた。

また、前川慈肇(日秀、故人)も次の通り述懐した。「『それ飯だ!』、合図
の拍子木が鳴るや否や、所化も小僧も一斉に食堂へ飛出した。たしかに食事に
は違いないが、『米の飯』ではなかった。通常カラッピーと称する殻類の摺り
かすを、メリケン粉で団子にしたすいとんである。汁は塩味、それに芋の葉が
入っているだけのもので、それも芋や大根の葉なら上々、何だかわけのわから
ない葉が浮いていることもあった。食べられるか食べられないかは、その日の
食事当番を信ずる外に仕方のないことである。勿論、うまいもまずいもない、
食べられれば良しとしたのである」

次に、戦後の生き証人であった渡辺慈済住職は次のように証言していた。

「私が得度したのは昭和二十四年。当時の本山は、今日からは想像もできな
いほど困窮しており、貧乏寺そのものだった。

昭和二十年六月十七日に起きた大石寺の火災で、大奥や書院、客殿等を焼失。
約六百坪がポッカリ焼け落ちてしまった。それに追い打ちをかけるように戦後
の農地改革の波である(中略)。昭和二十三年十一月に客殿は再建されたが、御
影堂は雨漏りがし、五重塔はさらに状態がひどく、雨が降り込んでくるほど傷
んでいた。

当時の日昇上人の住まいも、バラックというありさまだった」

「大坊でも、今の客殿前の広場となっている所に、わずかばかりの田んぼが
残った。しかし、耕すにも近くの農家は馬を貸してくれず、道具だけ借りて、
当時の所化七人が馬代わりになって働いた。近所の檀家の人々は『七頭だて!』
と笑って見ているだけで、手伝ってはくれない。お仲居まで加わり、皆泥だら
けになっての作業だった。先の見通しも明るさもなく、苦労と貧乏の時代だっ
た」

「貧しい山寺だった」

「檀家はというと、自分たちの生活が手一杯で、大石寺のことを考えるどころ
ではなく、本山からすっかり遠ざかっていた。檀家を、どうやって大石寺に参
詣させるか。さまざまに議論、検討された。そこで浮上したのが、『総本山法
華講』 を発足させることであった。

昭和二十五年、大聖人御聖誕の意義を刻む二月十六日に、御誕生会を兼ねて
発足式を行った。八月のお盆と、二月の誕生会の時に総会を持ったが、檀家の
人たちは足を運ばない。一つの対策として、浪花節語りとか漫才師などを呼ん
で〝客寄せ〟に使った。

しかし、これはお金のかかることでもあり、自前の芝居を打つことになった。
この出演者に、我々所化小僧も駆り出されることになったのである」「二十五
年八月のお盆の時の集まりでは『佐渡の御難』という題で劇を行った。

この時、客殿には、法要の時に集まったのは二百八十人ほどだったが、劇の
時には五百人に膨れ上がった。

芝居の〝客寄せ効果〟はあった訳だが、手を替え品を替え、懸命になって集
めても五百人集まるのが精一杯の寂れた田舎の貧乏寺だったのである」(つづく)





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