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[投稿日時] 2017年 3月31日(金)22時43分50秒
[投稿者] 通りすがりの法華講員
>日応上人『弁惑観心抄』
>「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり、その別付とは
>すなわち法体相承にして総付は法門相承なり、而して法体別付を受
>け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云うべし。
>また法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受け
>ざるはなし。」
>わかるか?
>相伝・血脈には総別二義があり
>・僧俗には「総附属の血脈相承=信心の血脈相承・法門の血脈相承」
>・代々の御法主上人猊下様には「別付属の血脈相承=法体の血脈相承」
>があるのだよ。
>大聖人様が僧俗に示されたのは総附属の血脈相承だけだ!
>わかったか!ドアホウ!
【破折】
(別付嘱)とは、法華経如来神力品第二十一で説かれる地涌の菩薩への付嘱のこと。
(総付嘱)とは、仏がすべての菩薩に法華経を付嘱したこと。
石山では、日蓮聖人の付嘱においては、池上相承書を別付嘱書とするのに対し
身延相承書を総付嘱書という。
『五十六世大石日応が「弁惑観心抄」で「唯授一人嫡々血脈相承に
も別付総付の二箇あり其(その)別付とは則ち法体相承にして総付
とは法門相承なり」(二一〇ページ)と述べ、唯授一人の血脈相承
を「総じての法門相承」(「百六箇抄」や「本因妙抄」等の相伝書
の相承)と、「別しての法体相承」(法体たる戒壇の大御本尊と、
御本尊書写に関わる金口嫡々の口伝の相承)とに立て分けたことは
ある。』
だが、この「法門の血脈」も「法体の血脈」も、ともに「信心の血
脈」によって流れ通うのである。
このことは、他の誰の言を引くまでもなく、昭和六十二年の「虫
払大法会」の際のシアトル日顕自身の説法を引けば十分であろう。
「血脈相承とは、信心の血脈がその基(もとい)をなすのであり、
その信心の血脈によって仏の本地甚深(じんじん)の境智に基づく
法体法門の血脈が、一器より一器へ流れ通うのであります」
「要するに、日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において
万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学
の根底であります。故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人
しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せ
ぬ者の囈言(たわごと)であり、信心の一念に法水の流れるところ、
有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開
かれているのであります」
ここで日顕は明確に、「信心の血脈」が一切の根本であり、唯授
一人の「法体法門の血脈」も「信心の血脈」によって流れ通うと述
べている。そして“「法体の血脈」は法主一人にしか解らない”な
どと言うのは、血脈の真義を解せぬ者の「たわごと」とまで言い切
っているのである。
しかも、これは宗門伝統の「虫払大法会」という重要な儀式に
おける法主としての公式の「指南」である。
日顕は貴様のことを、血脈の真義を解せぬ者の囈言だと仰せられている。