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日蓮仏法の私なりの解釈 3 (功徳と利益の形態 前)
功徳について
功徳とは、俗に神仏の信仰から得られた果報(必然の結果としての報酬)を言い、梵語の求那(ぐな、Guna)の訳語で、功能(功用能力:ものの働き、手柄)福徳(善行またはそれに類似した行いによって得られる福利・福報)の意味を持ちます。
法華経薬草喩品第五には「如来真実の功徳を説く。誠に所言の如し。如来復、無量無辺阿僧祇の功徳有り」
勝鬘(まん)経宝窟には「悪尽くるを功といい、善満つるを徳と称す。また、徳とは得なり。功を修して得るところなるが故に功徳と名づく」
天台の仁王経疏には「物(相手の人)に施すを功と名づけ、己に帰するを徳という」
とあります。
妙法を信じ行ずる事によって得られる自己の変革、崩されることのない幸福境涯の確立こそが、功徳に外ならないのです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。四大声聞の領解に云わく『無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり』云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや」(観心本尊抄 新134-5頁・全246頁)
現代語訳:(先に論難した権教・迹門・本門の)釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足しています。我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのです。法華経信解品に四大声聞が領解して「無上の宝聚を求めなくても自然に得られた」と述べていますが、我らの己心の声聞界(が妙法蓮華経を受持し奉り、無上の大功徳に歓喜している姿)がこれなのです。方便品には、仏が「(法華経にて一切衆生に即身成仏への大直道を教えたので)私の様に衆生が等しくして異なることがなくなったのです。私がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして皆仏道に入らしめることができた」と説かれています。妙覚の釈尊は、我らの血肉で因果の功徳は骨髄ではないでしょうか。(即ち、師匠も久遠元初の自受用身ならば、弟子もまた久遠元初の自受用身として顕われ、自受用身に約すれば師弟が不二であることは明らかではないでしょうか。)
※妙法の因果の功徳とは、一切衆生を成仏させる作業の継承ではないでしょうか。
「仏の名を唱え、経巻をよみ、花をちらし、香をひねるまでも、皆、・我が一念に納めたる功徳・善根なりと信心を取るべきなり」(一生成仏抄 新317頁・全383頁)
現代語訳:仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも含めて、その全てが我が一念に納まっている功徳であり善根である、と信心をとっていくべきです。
※善根とは善を生み出す根本になるものを言い、善根を積めば善い果報を受けるのです。仏道修行の積み重ねこそ、功徳であり善根を積むことになるのです。
「『功徳』とは、『六根清浄』の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり。されば、妙法蓮華経の法の師と成って大いなる徳(さいわ)い有るなり。『功』は幸いと云うことなり。または、悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり。『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の説文のごとく修行するを、『六根清浄』と意(こころ)得べきなり」(御義口伝下 新1062頁・全762頁)
現代語訳:功徳とは六根清浄の果報です。所詮、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉れば六根清浄となります。従って、妙法蓮華経の法、すなわち御本尊を自行化他にわたって行じるところの師となって大いなる徳があるのです。功は幸ということです。または悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳というのです。功徳とは即身成仏であり、また六根清浄です。法華経の説文通りに修行することが、その身のまま六根清浄であると心得るべきです。
※悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳といい、唱題することで、六根「認識するために必要な6つの要素『根』を言い、①眼根(視覚器官と能力)②耳根(聴覚器官と能力)③鼻根(嗅覚器官と能力)④舌根(味覚器官と能力)⑤身根(触覚器官と能力)⑥意根(思惟器官と能力)の6つ」が、その身体のまま清浄になると述べられています。心清らかに、環境(依報)を五感で清新に捉えることができるからこそ、日々新たな決意もできるのでしょうね。
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく『衆生所遊楽(衆生の遊楽する所』云々。此の文、あに自受法楽にあらずや。(中略)苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え」(四条金吾殿御返事「衆生所遊楽御書」新1554頁・全1143頁)
現代語訳:一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はないのです。法華経寿量品第十六には「衆生の遊楽する所なり」とあります。この文は、自受法楽(妙法の真理を悟り楽しむ『法楽』を自ら受け入れ自分のものとすること)のことをいっているのです。(中略)苦を苦とさとり、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないでしょうか。ますます強盛な信心をしていきなさい。
※苦労も楽しみも共にあるのが人生の実相であり、自受法楽の境涯こそが、妙法の功徳ではないでしょうか。
「今、法華経に至って、『我が願、既に満足しぬ。我がごとくに衆生を仏になさん』と説き給えり。久遠より已来、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われ給えり。かくのごとき功徳をば、法華経を信じたらん衆生は、『これ真の仏子なり』とて、『これ実の我が子なり。この功徳をこの人に与えん』と説き給えり。これほどに思しめしたる親の釈迦仏をばないがしろに思いなして、『ただ一大事をもって』と説き給える法華経を信ぜざらん人は、いかでか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし」(主師親御書 新319-20頁・全385頁)
現代語訳:今、法華経を説くに至って、「我が願いはもはや満足した、自分と同じ様に衆生を仏にしよう」と説かれたのです。釈尊は久遠の昔から、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われました。この様な修行の功徳を法華経を信じる衆生は「真の仏子であって、実の我が子であるから、この功徳をこの人に与えよう」と説かれたのです。これほどに思ってくださっている親の釈迦仏を蔑ろにして、「『ただ一大事をもって』とは、一切衆生に本来具わる仏の生命を開示悟入せしめる事が、諸仏のこの世に出現した一大事の因縁である、との意を含む」と説かれた法華経を信じない人は、どうして仏になることができるでしょうか。よくよく心に留めて考えてください。
※釈迦仏は、ご自身が得た功徳を、衆生を仏にさせる為に、振り向けられたのです。(この場合、通常は利益と呼ばれます) だから、私達もこれに応えなければなりません。
◎仏の教え(正法)に随って、自行化他の信心に励むことにより得られる恩恵(果報)を、仏教用語では「利益(りやく)」とも言い、「功徳」とほぼ同義に使われています。
拙ブログの過去記事に「信の一字」がありますが、法華経を、御本尊を、我が仏性を、如何に信じ抜くかで、この上もない功徳が、求めなくても、自然と得ることになるのですね。
「信」の一字 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)