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一、三、六大秘法に対する私の解釈 19
三大秘法 15
己心の戒壇
「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり」三世諸仏総勘文教相廃立全563頁・新712頁)
現代語訳:この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土とが和合して一体となった処をいうのであり、三身即一身の境界を指すのです。四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身なのです。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、この故に無相の極理というのです。生滅無常の相を離れている故に無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地である故に極理というのです。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩を離れた境界なのです。これを名づけて妙法の心蓮台というのであり、この故に心の外に別の法はないというのです。これを知るのを「一切法は皆これ仏法である」と通達し解了するというのです。
※一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩から離れた世界(寂光の極楽)とは、唱題する我が心境であり、激励や体験発表で決意新たにする創価学会の座談会場そのものではないでしょうか。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」(御義口伝 全740頁・新1032頁)
現代語訳:今日蓮大聖人及びその門下が南無妙法蓮華経と唱えて信心に励んでいる場所は住在空中であり、虚空会に住する事になるのです。
※唱題し信心に励んでいる場所は、当詣道場と云い戒壇と云い、虚空会に住んでいるのと同様なのです。
「此地とは無作の三身の依地なり仏子とは法華の行者なり仏子は菩薩なり法華の行者は菩薩なり住とは信解の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は妙法の地に住するなり仏の受用の身なり」(御義口伝下 全761頁・新1061頁)
現代語訳:此の地とは無作の三身が依る地です。仏子とは法華経の行者であり、仏子は菩薩でもあるのです。(法華経の行者は活動面、行動面からいえば菩薩です) 住とは信解(信をもって理解する)の義です。今、日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、妙法の地に住することであり、仏の受用の身(仏として振る舞う身)となるのです。
※南無妙法蓮華経と唱えることは、妙法の地に住み、仏として振る舞う身となるのです。
「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし」(御講聞書 全811頁・新1127頁)
現代語訳:法華経を修行する日蓮門下の住所はどんな山野であっても霊鷲山であり法華経の行者は釈迦如来ではないでしょうか。日本国は耆闍崛山であり日蓮門下は釈迦如来です。総じて一乗である南無妙法蓮華経を修行する所は、どの様な所でも常寂光の都である霊鷲山なのです。
※我々日蓮門下が唱題する場所は、常寂光の都・霊鷲山なのだと仰せです。
「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき」(南条殿御返事 全1578頁・新1924頁)
現代語訳:教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山において相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っているのです。それ故、日蓮の胸の間は諸仏の入定の所であり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の所、口の中は正覚の場所である筈です。この様に不思議な法華経の行者の住処ですから、どうして霊山浄土に劣ることがあるでしょうか。
※大聖人の胸間は霊山浄土より勝る諸仏入定の処であり、つまり立場を換えれば、唱題する私達の存在自体が戒壇と云えるのではないでしょうか。
「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」(最蓮坊御返事 全1343頁・新1784頁)
現代語訳:私達が住んでいて法華経を修行する場所は、いずれの所であっても常寂光の都なのです。私(日蓮大聖人)の弟子檀那となる人は、一歩を行かなくても天竺の霊鷲山を見て、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されるという事は、言い様が無いほどうれしい事なのです。
※我が家や座談会場などが、天竺の霊鷲山同様、常寂光の都ではないでしょうか。
「法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」(波木井三郎殿御返事 全1373頁・新1813頁)
現代語訳:法華経の本意は、「当位即妙(当位は即ち妙なり:九界の凡夫の境涯のままで妙なる仏界の生命を涌現すること)・不改本位(本位を改めず:九界の衆生が各自本来の位を改めないこと」といって、罪業を捨てずに、その身のまま成仏することができるのです。
※罪業は過去の境涯・地位(戒壇)を示しますが、それを無理して改めずとも九界の衆生は、人間革命(即身成仏)できると仰せです。
◎南無妙法蓮華経と唱える人(法華経の行者)の心境であり、信心に励んでいるその場所(当詣道場)こそが、「霊鷲山」や「寂光の極楽」、即ち「己心の戒壇」とも呼ぶべき存在なのではないでしょうか。