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>『「『日蓮在御判』と嫡流の法主が代々書いていきなさい」
>という意味であって、「日蓮在御判嫡々代々」という文言を書けということではない。
【破折】
×書いていきなさい ⇒ ○書くべし 小学校から国語のお勉強をして下さい(^▽^)
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師(日蓮聖人)の日わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」
石山の本尊は、「日蓮在御判」とは書いてあっても、「嫡嫡代代」とは、上代の本尊に一幅も見当りません。
この「法門相承」の存在を自ら否定しています。
51世 日英上人本尊には 「嫡嫡代代」の 第五十一世 日英(花押)と認められている。
「御本尊七箇相承」には、次のように記されています。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・
未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
(富士宗学要集 第一巻)
この相伝書によれば、間違いなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しいと書かれています。
本門戒壇の大御本尊は「仏滅度後二千二百二十余年」となっており、
明らかにこの相伝書と違うのであります。
すでに書き記しましたが、そこには議論の余地はないと思います。
67世日顕書写し賜る本尊は仏滅度後と書かれていません、
「之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」となり、大僻見不相伝の
至極なりと成りますがいかがでしょうか?
日応上人は『研究教学書』で
「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の
活眼たる極意の相伝あり」とバカな指南をしています。
邪宗の本尊に勤行唱題をし「花押の上に『南無日興日華等血脈』」、
邪宗の坊主から大石寺管長・法主に任命された張本人が、
「金口血脈」と言えるのでしょうか?
片腹痛いとはこの様なことを言うのです。
石山本尊に『南無日興日華等血脈』があるのか?
これが「極意の相伝」なのかと法華講に尋ねてあげましょう。。
※血脈否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、
日蓮正宗の教義とは、正確には「日蓮正宗 宗規 第5条 第2項 に定める正依」のことになるのです。
教義上の正邪を論じる際には、この正依によるものでなければ、それがたとえ法主の主張であっても、
全く耳を傾ける必要はありません。
なぜなら、歴代法主の言葉は正依ではなく、正依に背く法主の言葉は御書等の正依に基づいて誤りが明らかになる。
おかしくなった法主がああ言ったとか、学会の歴代会長がこう言ったとか主張するのは、
あくまでも参考資料とするだけで、根拠として採用できるのは正依だけなのです。
そして、これが本来の正しい日蓮正宗の教義なのです。
この御本尊七箇相承は、日蓮正宗の平成新編御書では削除されていますが、
正しい相承書ではないのでしょうか? それとも他宗からのパクりをしてきたのでしょうか。
日顕宗の輩を問い詰めてみましょう。