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一、三、六大秘法に対する私の解釈 15
三大秘法 11
己身の三大秘法 中編
今回は、日興上人執筆の「御義口伝」からの紹介です。
「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり」(御義口伝上 全742頁・新1035頁)
現代語訳:法華経(御本尊)を持ち奉るというのは、我が身が仏身であると確信して持つ事です。(則持仏身の)則の一字は、生仏不二(衆生も仏も別のものではないの)です。(若有能持の)持というのは、我々凡夫が持つのです。持つ体は、南無妙法蓮華経の五字です。これが仏身を持つことになり、南無妙法蓮華経の一字一字が、みな金色の仏体であるからです。さて、我々が仏身を持つということは、我が身即仏であり、それ以外に仏はないと確信する事を云うのです。理即の凡夫(即ち九界の衆生)と究竟即の仏とは、別のものではないのです。即の一字は、即故初後不二(即ち初めの理即の凡夫と後わりの究竟即の仏とは不二である故)なのです。
※凡夫(九界の衆生)と六即位の最高位である究竟即の仏とは不二だと仰せです。
「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)
現代語訳:、如来とは釈尊のことであり、総じては十方三世のあらゆる仏に通ずるのです。別しては、本地無作の三身、即ち久遠元初の凡夫即極の本仏であり、今日蓮大聖人及びその門下の意で、総じて如来を論ずるならば、一切衆生はことごとく如来なのです。(これはあくまで理の上で論じたものであり)別して、(事の上で論ずれば)日蓮大聖人及びその弟子檀那の事なのです。そうであれば、無作の三身とは、末法の法華経の行者の事であり、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのです。寿量品の事の三大事(即ち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法)とはこの事なのです。
※日蓮大聖人及びその弟子檀那の立場こそが、無作の三身如来であり、寿量品の事の三大事だと仰せなのです。
「無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(御義口伝下 全754頁・新1050-1頁)
現代語訳:無も有も、生も死も、若退も若出も、また在世も滅後も、全て本有常住の振舞いなのです。(即ち久遠以来、常住してきた生命の本質に備わる本然の姿であり、働きなのです)無とは、法界(宇宙や森羅万象)同時に妙法蓮華経の振舞い以外の何でも無いのです。有とは、地獄は地獄の有りのまま(餓鬼は餓鬼、畜生は畜生のまま)であり、十界を元々有しており、それ自体が妙法の全体なのです。生とは、妙法それ自体、久遠より常住するものであり、その妙法を根底とした生であるから、いま初めて生じたものではないのです。元々あるものが縁に触れて顕れたものです。死とは、寿量の死、即ち永遠の生命の立場からみた死ですから、大宇宙に冥伏し、大宇宙それ自体となり、そこに何の差別もありません。法界同時に妙法それ自体なのです。それは「若しは退」の故に滅後すなわち死となり、「若しは出」の故に在世すなわち生となるのであって、退くか出現するかの違いにすぎないのです。
されば、無死退滅すなわち有に対し無、生に対し死、出に対し退、在世に対し滅後は、空仮中の三諦より論ずれば空諦となります。大宇宙に冥伏しているからです。有生出在、即ち無に対して有、死に対して生、退に対して出、滅後に対し在世は、縁にふれて目に見える姿として顕れてきたものですから仮諦です。有生出在に偏らず、無死退滅に偏らず、しかも有生出在、無死退滅を包含して、有りのままに生命の実相をみていく如来如実は中道です。
これを無作三身如来の身に論ずるならば、無死退滅は無作の報身であり、有生出在は無作の応身であり、如来如実は無作の法身です。この三身は久遠元初の自受用身如来の一身にそなわるものです。天台が文句の九に「一身即三身なるを名けて秘と為す」と述べたのも、実はこの事を意味しているのです。同じく「三身即一身なるを名けて密と為す」とあるのも、やはりこの事を意味するのです。そうであれば、無作の三身の当体の蓮華の仏とは、南無妙法蓮華経如来たる日蓮大聖人のことであり、また南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人の門下も、総じてはこれに含まれるのです。
※無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮とその弟子檀那等である、と仰せです。
「自我得仏来の事
御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」(御義口伝下 全756頁・新1054頁)
現代語訳:寿量品第十六の自我得仏来の文について、御義口伝には次の様に仰せです。自我得仏来の一句は法報応の三身が説かれ修学する文です。自我の自とは九界であり、我とは仏界なのです。自我で十界を意味し、十界は本有無作三身の仏に本然的に備わり、この十界互具の当体として出現した仏の事を自我得仏来というのです。自即ち九界も、我即ち仏界も共に具有した仏が(末法に)出現した、とは十界が本有である事を示した明文なのです。我は、三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり、法身です。仏とは、九界より湧現する随縁真如の智であり、報身です。来とは、刻々と移りゆく色法の活動であり、応身です。この三身は、無始無終の古仏たる久遠元初自受用身如来に本来備わったもので、他から与えられたのではなく、自ら体得されたものです。信解品の無上宝聚不求自得の文も、実はこの事を意味するのです。即ち、無上宝聚とは無作三身の事であり、南無妙法蓮華経の事です。これを求めずして得るとは、無作の三身の境地は、決して他から与えられたのではなく、自得された事を意味するのです。そうであれば、顕本遠寿(寿量品の文底に説かれた久遠元初の顕本)は、絶対に諸経には説かれていないのです。今(末法において)日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは自我得仏来の行者だからです。
※自我得仏来の一句に法報応の三身が説かれ自得なのは、南無妙法蓮華経と唱える大聖人とその門下が自我得仏来の行者だから、と仰せです。
「自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入るなり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(御義口伝下 全787頁・新1095頁)
現代語訳:自身の内なる仏乗(妙法)を悟って、自身の宮殿に入るのです。南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の宮殿に入っていく事なのです。(妙法を唱えゆく生命それ自体が仏なのです)
※妙法の悟達は本尊、己心の宮殿入りは戒壇、唱題こそ題目そのものなのです。
◎日蓮仏法の重要講義の御書にも「日蓮等の類い」や「日蓮が弟子檀那等」と、大聖人と同類・並列に記載されている程に、大聖人が如何に、我々信徒を大切にされておられたか、をうかがい知ることができますね。