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成仏について
成仏とは、「仏に成る」と解釈されていますが、己心の「仏性をひらく」が、本来の意味だと大聖人は仰せです。私達の言う「人間革命」がこれに該当しますね。
過去の関連拙ブログを紹介しますので、併せてお読みください。
信心の目的、成仏とは 前篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
信心の目的、成仏とは 後篇 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)
前回の記事から御書の引用は「日蓮大聖人御書全集 新版」を用いています。
「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)
現代語訳:我々の一念無明(一念は生命、無明は根本的な迷いを意味し、生命自体に具わった根本の迷いのこと)の迷いの心は磨かない鏡です。これを磨けば必ず法性真如(法性と真如、共に一切諸法が本来具わっている不変真実の実相のこと)の明鏡となるのです。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきです。どの様にすれば磨けるのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつる事が磨くことになるのです。
※心の鏡とは何でしょうか。唱題することでこの心の鏡を磨く事になるのです。
「一遍此の首題を唱え奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。例せば、籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、これを見て籠の内の鳥も出でんとするがごとし」(聖愚問答抄 新578頁・全498頁)
現代語訳:一遍この妙法蓮華経を唱え奉ると、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出ます。これを成仏というのです。例えば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まります。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。
※唱題することで、環境(依報)をも味方にするような仏性が顕れ出るのです。
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。これらの趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(法華初心成仏抄 新704頁・全557頁)
現代語訳:三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのです。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれなのです。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道は、我慢偏執(我見が強く、慢心があり、偏った邪見に執着している)の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつっていくことです。
※仏に成る道が明らかにされています。
「『信』のところに『解』あり『解』のところに『信』あり。しかりといえども、『信』をもって成仏を決定するなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るもの、これなり」(御義口伝下 新1060頁・全761頁)
現代語訳:信じるところに理解の解があり、理解のあるところに信心があるのです。しかしながら、信と解では信が根本であり、信によって解も生じ成仏を決定するのです。今、日蓮及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、これにあたるのです。
※戸田先生も「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」(1953年2月26日 2月度幹部会)と述べておられます。信じる心は人間関係でも大切ですね。
「我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下 新1094頁・全786頁)
現代語訳:わが生命が久遠元初より仏の当体であると、初めて事実の上で覚ることを成仏というのです。つまり、わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、初めて事実の上で覚るのは、御本尊に向かってする唱題からです。
※朝の勤行は一日の決意であり、夕の勤行は一日の感謝と反省であり、日蓮仏法が他力本願でない証明ですね。
「始めて我心本来の仏なりと知るを、即ち『大歓喜』と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝下 新1097頁・全788頁」
現代語訳:(御本尊を受持することによって)初めて自分自身が妙法の当体であると確信することができ、これを大歓喜というのです。即ち南無妙法蓮華経と唱えていく事は、自身の即身成仏を実現していくので、歓喜の中の大歓喜というのです。
※自身が「本来の仏である」と自覚すれば、当然、日々の行動もプラス思考になる筈ですよね。
「本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる」(佐渡御勘気抄 新1195頁・全891頁)
現代語訳:元々(私日蓮が)、学問をしたのは、仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからです。仏になる道は、必ず命を捨てるほどの出来事があってこそ仏になるのだ、と推量するのです。
※難を超えて仏に成った者こそが、他人を救済しようとする心が沸き起こってくるのではないでしょうか。
「強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書 新1285-6頁・全957頁)
現代語訳:強敵を倒して、はじめて力ある士であると知ることができます。悪王が正法を滅亡させようとの企てに、邪法の僧等もこの悪王に味方して、智者が滅びそうになった時、師子王の様な心を持つ者は必ず仏になるのです。
※師子王の心を持って(勤行・折伏をして)正法を守るならば、必ず仏になる、と仰せです。
「仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。(中略)この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」(曾谷殿御返事 新1433頁・全1055頁)
現代語訳:仏になる道は、境智の二法にあるのではないでしょうか。そうであれば、境というは万法の体(対象を客観視する)を言い、智と云うは自体顕照(妙法に自身が照らされ、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと)の姿をいうのです。(中略)この境智が合うならば、即身成仏(一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること)するのです。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えなので成仏ができないのです。今、法華経では境智が一如(表面的には異なるも、本来は不二であり平等であること)なので、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのです。
※「開示悟入の四仏知見」とは、法華経方便品にあり、諸仏世尊が世に出現した理由として、「衆生の仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん」為で、衆生はこれを理解して成仏するのです。
「この経をききうくる人は多し。まことに聞き受くるごとくに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく、持(たも)つはかたし。さるあいだ、成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事 新1544頁・全1136頁)
現代語訳:法華経を聞き受ける人は多いのです。しかし、まじめに聞き信受して、大難が来ても、この法華経を常に憶い持って忘れない人はまれなのです。受けることはやさしいですが、持(たも)つことは難しいのです。ところが成仏は、(御本尊、日蓮仏法を)持ち続けることにあるのです。
※持続の信心、仏法伝持の人こそが、幸福境涯を得られるのですね。
「今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、『決定して疑いあることなけん』とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり」(教行証御書 新1676頁・全1282頁)
現代語訳:末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあるでしょうか。だからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「決定して疑い有ること無けん(必ず成仏することは間違いない)」と判定されるのです。
※人を差別することなくして、仏道修行するならば平等に仏果を得る(成仏する)と仰せです。
「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸の仏菩薩、虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別のことにはあらず、ただひとえに末法の令法久住の故なり。既に、多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏、大将としてさだめ給いしこと、あにいつわりなるべきや、しかしながら我ら衆生を仏になさんとの御談合なり」(諸法実相抄 新1791頁・全1360頁)
現代語訳:ともかくも法華経に名をたて身を任せていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められた事は別の事ではありません。ただひとえに末法の令法久住の為なのです。すでに多宝仏が半座を分けて釈迦如来に譲られた時、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められた事がどうして偽りなのでしょうか。しかしこれこそ、我々衆生を仏にしようとの御談合なのです。
※法華経にある虚空会の儀式とは、「法華経に身を任せた衆生を仏に成させよう」との大切な協議なのです、と仰せです。私達は、それに応える行動をしなければ、と思います。
「三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく『命をもって自らを帰す』等云々」(南無御書 新2162頁・全1299頁)
現代語訳:三世の仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのです。この為に一切の仏の上には南無というのです。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのです。帰命というのは、天台大師は「命をかけて自らを見つめ愛す」と解釈しています。
※我々は妙法に帰命する、即ち自身の変革を必ずします、と約束しているのです。
結論すると、成仏とは、精神の高みを目指す、境涯革命、人間革命の事なのです。
そして私達は、完成形ではなく、絶え間ないその途上にあるのです。