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岩切が見た25周年記念合宿
No:4663 投稿者:岩切 尚弥(4期生) 投稿日:2013/12/04 Wed 00:51:20

遅くなりましたが、私が見た25周年合宿レポートを投稿いたします。

epi.1後日談

11月30日、私は家族で京都の伏見稲荷大社へ向かうべく車を動かしたのであるが、ふとメーターを見ると、不審なことがあった。
私はガソリンを満タンにすると必ずBトリップメーターをリセットする。燃費を測るためである。
11月18日にガソリンを満タンにしたにも関わらず、なぜかBトリップメーターが53kmと表示されていた。

「あれ、、、車、いつ動かしたっけ?」

記憶が戻るのに数分を要した。

11月23日の三戸ゼミナール25周年記念合宿へ向かうため、自宅から京都駅まで車で向かったのだ。
それが記憶から欠落していた。

なぜか?

行きの23日、私の頭の中は合宿のスピーチ大会のことで頭がいっぱいであり、帰りの24日は合宿の余韻にどっぷりと浸っていたからである。


epi.2合宿当日の朝まで、そして、京葉線のホームまで

合宿の前に連絡をとったOBは唯一、3期生の太田健一さんだけであった。
「やっとスピーチ書き終わりました」
太田さんからの返事は、「俺はまだこれからだよ」。

言わずと知れたスピーチ大魔王がコンビを組んで対戦する。勝たねばならないという重圧は大きかった。
正直言えば、太田さんと直接対決するんだという方がよっぽど気が楽であっただろう。それは楽しみですらあったかもしれない。
しかし、この二人がタッグを組む以上、必ず勝たねばならない。しかも、圧倒して勝たねばならないと思った。
僅差ではない。勝負になりませんよね、というところを見せないといけないと思った。

ところが、である。

11月23日の明け方、掲示板を見ると、現役生の活きのいい挑戦状が書いてあった。

「ほほぉ〜」

実際に私が午前5時前の自宅の玄関外で、煙草を吸いながら発した声である。ご近所さんに見られていないことを今更ながら祈りたい。

7時32分、のぞみ210号東京行きは静かに京都駅を発車した。

9時過ぎであろうか。太田さんからメールが来た。車内でメールのやり取りをしたのも太田さんだけである。
「高くなった鼻はへし折るのが先輩の愛情であろう」というのは太田さんからのメール。
「生意気さとは若さの特権です。が、その高くなった鼻をへし折られてこそ成長がありました。私自身がそうでした。ということで、先輩として、鉄槌を下してやりますか。」それが私の返信である。

9時53分、のぞみ210号は東京駅に静かに停車した。

昼飯の弁当を買い、京葉線のホームへ向かったが、実はひとつ不安があった。

「ホームに現役生が先に来ていたとして、俺がそこに着いても、三戸ゼミの集団ってわかるのかな?」

そう思いつつ、京葉線1番ホームへ降りて行くと、そこには18期生の大野くんがいた。
最初に顔と名前がわかる後輩に会えて、ほっとした。
その後に20期の今村くんが来たが、私はそれが誰かすぐにはわからなかった。
もう誰だかわからない後輩がいる。それは三戸ゼミ25年の重みの一つであろう。

すると、そこに三戸先生が到着された。お一人だった。そうか、先生のご自宅は大学のそばのマンションではなくなっていたのだな、と改めて思った。
毎年年賀状は送らせて頂いている。住所から、なんとなくではあるが場所もわかる。
でも、自分たちが学生の頃のように、先生や学生が横浜駅で集合して向かうのではなくなったのだなあと、ぼんやり考えていた。

そこへ現れたのが6期生 松永豊である。

「どこにいるんですか。こっちですよ。」と偉そうに場所を指示された。
合宿のしおりには1番線ホームとしか書いてなかったし、指定席とも自由席とも書いてなかったやんけ!
と、容赦なく突っ込むのも大人げないなあと思って、松永に従った。
子供のような振る舞いをしていた私が、まるで良識派のような大人な振る舞いをするようになる。これも三戸ゼミ25年の重みであろうか。


epi.3御宿まで、そして、御宿ニュー日の丸

ホームに現役生やOB達が三々五々集まってきた。
OBには自由席特急券が渡された。自由席なら席を確保せねばならんだろ。即座におけるだけの荷物を空いている席に置いた。

ホームには6期の松島が見送りに来てくれた。
以前も、「行けないけど見送りに来ました」と来てくれた。

行けずとも、顔を出してくれる仲間がいるというのは本当に有り難い。

さらには、4期の小山貴子(旧姓:佐藤)さんがお子さんを連れて来てくれた。サトちゃんに会うのは何年ぶりだろうか?小山さんには何回かあったがサトちゃんにあうのは、、もしかして15年ぶり??
サトちゃんは全然変わってなかった。びっくりした。でも、しっかりお母さんになっていた。
ふと聞いてみた。「小山さん、どうしてるの?」
サトちゃん曰く、「髪の毛、真っ黒になってるよ」
そうか、院生だった頃から若白髪の小山さんは白髪が目立ってきたから染めているのか。
三戸先生もすっかり頭が白くなった。
しかし、羨ましい限りだ。私は髪の毛がなくなりつつある。これも三戸ゼミ25年の重みなのか・・・。ちょっと凹んだ。

ここで問題が発生する。

現役生達は学割の効く団体切符を購入しているらしい。
そのために三戸先生と現役生達は改札へ向かったのだ。

わかしお7号が出発するのは11時。いま時計を見たら10時53分。

間に合うのか?

一部OB達は、万が一の場合は先に出発しようと話し合った。誰か一人を連絡係として残しておけばいい。
誰にも言わなかったが、私の中では、それは6期 松永だと決めていた。

幸い先生と現役生達は間に合い、わかしおは御宿へと向かった。

私は行きの電車は先生とご一緒できた。二人で先生とお話する機会も本当に得難いので有り難いと思った。

12時22分、御宿へ到着した。
駅の雰囲気は変わらなかった。
御宿ニュー日の丸も変わらなかった。私は通算24度目のニュー日の丸である。日の丸の親父さんもさすがにお年を召したが、相変わらず闊達とされていた。
お子さんが既に成人し、宿を切り盛りしていた。これも三戸ゼミ25年の重みであろうか。

庭先に植えてある三戸ゼミの木が大きく育っていた。
実がいくつも成っていた。かつて、この実を景品で送ってもらい食した思い出が蘇った。

「三戸ゼミの木」を植えたこと、そして、その木が大きく育っていたこと。これほどわかりやすく三戸ゼミ25年の重みを感じさせてくれるものはなかった。


epi.4そして、合宿は始まった!〜開会式、そしてブリッジ〜

開会式の準備を現役生達が進めてくれた。
横断幕を張る。印刷されている。
我々が現役の頃は不格好な手書きだったなあと感慨深く見ていた。
すると、プロジェクターにより式次第が映し出された。この辺は時代だなあと思った。

三戸先生の開会のお言葉。
「おう、で答えてくれよ」とおっしゃり、先生の言葉が続く。
「おう」と即座に反応するのはやはりOB。反応速度も、声の大きさもそうである。

先生の言葉に「反応」する。
呼びかけに応と答えることと、先生の講義に質問することと、実は何が違うのだろうか?それは何も変わらない。
責任=responsibilityとは、response(反応する) ability(能力)である。

ここで現役生達は「勝てる」要素を見せることが出来たのになあ。出だしで既に負けていたんだよ。

しかーし、この直後、我々OBは手痛く惨敗するのであった。ブリッジである・・・。

ブリッジの途中で私がこう叫んだ。「僕、ブリッジはほんとは苦手なんです!まじで!」

ついつい本音を吐いてしまった。私はブリッジ中に、いろいろと茶々をいれたり、プレッシャーをかけたりするが、「こいつがコインを持っている!」と命中させたことは、実は皆無に近いのである。心底苦手であり、その苦手意識を隠すために、ついつい茶々を入れてしまうのだ。学生の頃、それを先生に注意されたこともある。

話が時系列から離れてしまうが、ブリッジのことをまとめて書く。
1回目、OBチームは学年が若い順に並んだ。ところが、8期生 中島が途中でコインをぽろっと落としてしまった。
ゲームは続行する。その前の人間達はコインを持っていないのは明白。
中島→松永→岩切→太田→杉山→山岸→三戸先生の順で回る。
私は考えた。
「最初と最後は基本で開けられる。それは基本だから2番目が次に開けられる。てことは、俺が持つしかない」
でも、バレて負けました。

ブリッジ、それは「橋」である。橋の上を列車は通る。

が、乗る現役生達は可愛い乗り方をしていた。よつんばいになって進むが、手のひらをついているのである。
「手のひら?なんで?おじさんたちだから遠慮してるのかな?」と考えたが、どうやら、いまはそうやって乗るらしい。
時代は変わる。我々は「ゼミ」と言えば「ゼ」にアクセントを置く。でも、若者達は「ミ」を強く発音する。
そうか、こいつらブリッジのやり方知らんのか、乗り方を教えてやらねばならないなあ、、、そういう声が聞こえたが、負けておいて何を言うかと今更ながら思う。
なぜならば、2回戦もOBチームは惨敗を喫するからである。

2回戦。OBチームは期生順に並ぶのをやめた。そして、院生20期 中村くんに持たせることを最初に作戦として決めたのである。

しかし、3手目でその手は開けられた、、、26期の藤田くんが最後の最後に、中村くんの手にゼミーを上乗せした。彼にはバレていたのだろう。

我々は起死回生をかけて現役生達のコイン渡しを見た。
一番先頭の陳さんが怪しいと思った。
私以外もそう思ったのか、彼女の両手にゼミーが積み上げられる。

が、結果は外れ。
私はうずくまるしかなかった。

その後のことは実はあまり覚えていない。
背中に乗られた痛み、そして、土下座。泣きの一回。

私はもうぐったりしていた。
負けたとき、16期 佐々木真光にこう言われた。
「岩切さん、中村くんに伝えるのが見え見えなんですよ。中村くん、「え?僕がですか?」って反応してたじゃないですか。あれ見たら誰だってわかりますよ」
私はもう立ち直れなかった。スピーチ大会のあとで良かった、、、とだけ思ったことを覚えている。スピーチ大会の前だったら、シャレにならなかったかもしれない。

泣きの土下座、3回戦。
私は何も覚えていない。もはやブリッジについて私には四の五の言える気力もなかった。

が、結果は勝った!
やっと勝った!

ブリッジ、それは「橋」である。「橋」とは何か?それは「なる」もんじゃなくて、「乗る」もんだ!

ブリッジの基本、それは肘と膝で乗るのである。5期 聞間が先陣を切る。聞間よ、おまえは一体何kg太ったんだ?その体重が心強いぞ!
かくいう私も現役生の頃より20kgちかく増量している。
5周年記念創がお手元にあるだろうか。
73ページを開いて欲しい。そこには1期から5期までのゼミ幹が並んでいる。指の数で期生を現し一堂に撮影されている。
そのうち、4人が今日そろった。
1期の古郡さんは恐ろしいほど変わっていない。
が、3期太田、4期岩切、5期聞間の増量ぶりはどうだ。
おそらく3人あわせると50kg以上は増えている。つまり、6期 松永分の体重ぐらいは増えているということだ。
これが三戸ゼミ25年の重み(kg)である。現役生達よ、「重い」知れ。


epi.5スピーチ大会

スピーチ大会に臨むにあたり、私が考えたことは、「スピーチ大会が役に立っているということを、スピーチそのもので体現する」ということである。スピーチ大会が役立っているというスピーチがガタガタだったら説得力なんてありはしない。だが、見事なスピーチをしたら、それが説得力だろ、と考えた。
社会に出て役に立ったエピソードであれば、実は私は「合宿」をとりあげてスピーチすることになるだろうが、その話は10分あればモノになるが、4分前後、5分打ち切りという設定なら話として成立しない。
社会に出てからのエピソードは思い切って捨てる。代わりに、ちょっとした理屈(「読む・書く」と「話す」の違い)でそれを言い切る。現役生へのアドバイス(スピーチ大会のコメントをたくさん書く)を入れる。さらに構成に工夫を入れる(「A君も実は僕なんですね」)。
そして、最後は三戸先生への謝辞で終わる。これは普段のゼミ中に参加して行うスピーチ大会ではない。25周年記念合宿のスピーチ大会なのである。だからこそ、三戸先生への謝辞を入れなければ成り立たない。

そう考えて構成したが、3期 太田さんのスピーチも三戸先生への謝辞で終わっていた。この辺は特に打ち合わせなどしていない。でも、やっぱりそうですよね、太田さん。

スピーチについては、いろいろな方が書いているが、実は第1回戦「三戸ゼミで学んで役立っていること」の他の人のスピーチは、私はほとんど覚えていない。
自分のスピーチのことで頭がいっぱいだったからである。私は一番最後に話したので、その前のスピーチは脳みそにあまり入ってこなかった。
帰りの電車で26期の渡邊くんがアドバイスを求めてきたが、記憶になかったので、スピーチの内容自体のアドバイスはできなかった。ごめんね、渡邊くん。

おかげさまで勝つことは出来たが、太田さんと組む以上、圧倒するところを見せなければならないというプレッシャーは凄かった。でも、それはなし得たので、後輩達に先輩らしいところを見せるという役割は果たせた。

特別審査員の杉山さんが途中で「OBは社会人のときのエピソード入れなきゃ駄目だ、これは絶対」と言ったのが大きなプレッシャーになった。実は行きの新幹線でも、このことがずっと引っかかっていて、静岡あたりで一から書き直すかとも思ったくらいである。
同じく特別審査員の20期 中村君のコメントが見事であった。院生だから凄いのではない。「師範代」になっているから凄いのだ。師範は言わずと知れた三戸先生。もし、誰も言わなければ、三戸先生がおっしゃるであろうということを、的確に、適切に、確実に伝えるのが師範代であろう。中村君は師範代になってるんだなあと思った。自分たちは師範代にはなれなかったが、後輩が見事に師範代をしているところを見ると何だか嬉しかった。

さて、2回戦「心に残る、「あの風景、あの言葉」」である。
手元にあるメモは自分のチームの1期 山岸照明さん、8期 中島大輔くんのスピーチのメモはない。採点しなかったからである。でも、二人の話はどちらも闇鍋にふれていたのが笑えた。どちらも擬音にあふれていて、闇鍋の雰囲気をよく醸し出していた。それを証明するかのように、現役生の書き込みを見ると、「自分たちも闇鍋をやってみたい」というものがあった。
闇鍋の話を聞いた者はみなそう言う、「私も闇鍋やってみたい」。でも、闇鍋をやったことがある人間は、「二度はやりたくない!」と思うのだ。
第1回の闇鍋の話を照明さんがしたが、かつて、それを聞いた6期 玉里は「自分もやってみたい」と言い張って実施した。
さらに、その話を聞いた8期 中島が松永邸での闇鍋に及んだのである。
ちなみに、私は第1回の闇鍋味噌仕立てに参加したが、三戸先生はバナナを皮ごと入れるし(食べるはめになったのは6期生 渡辺りつ子さんだったか?)、照明さんはレンコンを丸ごと1本入れるし(食べたのは2期生 渡辺英二さん。渡辺さんはそれまでにプラムなどの地獄絵図から、「柔らかいモノは危険、故に、固いモノは安全」と信じて箸で固いそれをつかんだが、もちあげてみると巨大な影だった。食してそれがレンコンだとわかる)、最後の最後、鍋を捨てに行ってみたら、底から石灰の乾燥剤が出てくるし・・・。

スピーチの話からは大きくそれたが、それが闇鍋であり、私は2回目以降は参加していない。それでも現役生諸君はやりたいのか?やりたいのであれば止めはしない。でも俺は参加はしないぞ。
でも、三戸先生はすべて参加しているんだよなあ、、、やはり三戸先生は教育者なのだと痛感させられる。学生の闇鍋に付き合ってくれる大学教授が世の中に何人いるのだろうか。
有り難い師を持つ幸せが闇鍋の中に溶けこんでいる。

閑話休題、スピーチ大会である。

見事だったのは19期生 藤井くんのスピーチであった。16期生の佐々木真光という先輩を持ったこと、そして、その畏敬と憧れ。本当に良いスピーチを聴いた。
真光というのは三戸ゼミの歴史、ゼミ生史で言えば「中興の祖」であろうか。見事な師範代、見事な男であり、彼がいなければ、いまに三戸ゼミの伝統は繋がらなかったであろうという男である。
それを先輩に持った喜びをひしひしと感じたスピーチであった。「まあ、これが優勝だわ、」と直感的に思ったし、それを実際に証明したのが、その後の「特別審査員」佐々木真光本人のぶった斬りコメントショーである。
言うこと言うこと、まったくもってその通りだし、アドバイスも適切だし、正にこれが「師範代」と呼ばれた男なんだなと思い知らされた。同じ「特別審査員」の6期 松永に少しは話す余地を残しといてやれよ、、、と思うぐらいであった。松永の立場でなくてほんとに良かったと思った。

そして、合宿を1日目の夜に帰らねばならなかった20期 今村くんの書き込み。藤井くんがスピーチで勝って嬉しかったこと、そして、その藤井くんが今村くんらの先輩として「先輩賞」をもらった日のことを書いていた。
私は彼らのゼミ生活を知らない。でも、彼らを見ていて、彼らが三戸ゼミで学んだ日々を垣間見ることが出来る。そういうのが三戸ゼミ25年の喜びなのだと感じ入った。

他の方のスピーチについて少し。

私が共感したのは22期 近藤君の「論文書き」の風景と、24期 石嶺君の「コーナイ炎」。なぜかというと、同じような経験をしているから。
私は自分の部屋で皆で論文を書いているときに、ちょっとバイトの塾講師に出ている間に、冷蔵庫の食材で勝手にカレーを作られて、しかも太田さんちで論文書いていたチームが乱入して、それを食べ尽くし、私には白ご飯と納豆だけが残されていたという思い出がある。それを思い出した。コーナイ炎は、、、鼓とか外山とか島貫とかをどうしても思い出す。もっとやりようがなかったのかな、追い込んでしまったんじゃないかな、あいつらも卒業できてたら今日ここに来れてたんじゃないかな、、そう思うと胸が詰まった。

採点は自分のチーム以外のスピーカー3人に挙手して投票するという方式だったが、私が手を挙げたのは、19期 藤井くん、24期 石嶺くん、25期 浦添くんであった。近藤くんは5分超えたので手を挙げないと勝手に思い込んでしまっていた。

25期 浦添くんに手を挙げた理由は一つ。それは原稿が縦書きだったこと。
日本語とは縦書きである。むしろ、口語ほど縦書きかもしれない。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文も歌詞は縦書きに拘るよなあ。
原稿を縦書きにするというのは工夫の一つかもしれないと思い、そこに手を挙げた。
でも、仮に10点持ってて3人に割り振れと言われたら、藤井7、石嶺2、浦添1であったと思う。近藤くんを入れて採点し直すと、藤井7、近藤2、石嶺1。

それぐらい藤井くんのスピーチが突出していた印象であった。
20周年合宿のときに、11期生の中西くんのスピーチが凄く良かったという思い出があるが、後々語れば、今回の藤井くんのスピーチもそれに匹敵するのであろう。


epi.6討論会

題材は内田樹『最終講義』第5章「教育に等価交換は要らない」である。
討論は「年功序列啓蒙会」vs「チームモンド」、「世代交代推進連合会」vs「ダイソン」だったが、トーナメント方式でやるには実際には無理があった。
途中で司会の20期 中村くんが進行を変えて、議論を踏まえて、各チームの考えをホワイトボードにまとめて発表するという方式に変更した。

私は内田の議論を読み、「これは講演の内容を原稿に起こしているので、議論としての一貫性は若干拙い。故に、ここはというポイントを絞ろう」と考えた。なので、「教える側ー教わる側」の関係性にのみ注目して、そこの変化について主張した。

ところが、三戸先生が最後にまとめた内容が凄かった。

三戸先生も「これは講演の内容だから」とおっしゃったが、私が捨てたのに対し、三戸先生は「再構築」して見せた。
・教育ー投資(前からあった)
・学校ー市場原理(最近)
・教師と生徒ー等価交換→消費者として(最近)
という構造と、その変化に再構築して、「教育の根底にあるものに対する合意がない」という内田の根幹にある考え方を引っ張り出し、それこそが教師ー生徒の関係の混乱を来している原因だと分析された。
一番驚いたのは、学校という場は教育の場であるが、教師には「労働」という側面もあり、それが市場原理と結びつくのではないかということまで引き出した。

三戸先生の分析力の凄みというのは、いつ聞いても圧倒される。

合宿最後の刮目の時間に私が話したことは「気づく力」である。私も三戸ゼミで学んでいる中で「気づく力」が少し身に付いてきたという実感が持てたものの、三戸先生との決定的な違いは「広がり」であるという話をした。

内田樹の議論でも、三戸先生と同じところに気づいてはいるものの、私はひとつのこと以外は捨てているのに対し、三戸先生は捨てない。捨てずに再構築の材料とし、構造を把握し、原理を見いだす。
「原理ー構造ー制度」というフレームワークは何度も学んできたのに、全然学べていなかったと痛感させられた。そして、そのフレームワークを使いこなす三戸先生の凄みをまたしても見せつけられた。

その差は、私が所詮、「自分が納得したい。自分がわかれば、それでいい」としてしまうのに対し、三戸先生は「こうやって考えたら、こういうことがわかるだろう」と他者に納得を求めるところなんだということが決定的なのだと感じさせられた。

三戸ゼミ25年、未だ師の背中は遠い。されど、少しでも近づきたい。

さて、討論会の光景であるが、まあ、OBは言いたい放題である。現役生は議論の俎上にも登れない。3期 杉山さんなどは現役生に話をふったりしていたが、自分から切り込んでくる学生はいなかった。
でも、各チームでまとめている姿を遠くから眺めていたが、現役生だけで話をさせてみると、いろいろ話をしていたのが印象深い。
三戸ゼミは卒業すれば終わりではない。三戸ゼミはむしろ卒業してからが本番。長く学んでいる分、一日の長があるだけか。三戸ゼミ25年の重みがここにも垣間見えた。

司会の20期 中村くん、言わずと知れた師範代であるが、途中で方式をがらりと変えて、それなりの形でまとめたのが見事だった。
終わった後に、「あれは自分の判断で変更したのか?」と聞いてみたら、「いや、もちろん先生とご相談させて頂いて変更しました」とのこと。
「先生にご相談に伺うタイミング」というのもゼミで学ぶ上では大変重要な要素なので、現役生諸君はこういうところも師範代から盗み取るべきだと感じた。


epi.7一日目が終わって。そして、二日目の朝

一日目が終わって、私は自分のスピーチの原稿について、一部のゼミ生にお話した。その理由は、かつて私が「スピーチの原稿は楽譜みたいなものだ」ということを言い、それが今でもゼミで伝わっている可能性があると思ったからである。案の定、20期 中村くんの書き込みを読むと、「楽譜のような原稿を」という話が出ていたので、あれは伝えてよかったと思った。

さて、深夜、歌留多と探泥やったんですよね?ごめんなさい、私、2時40分までの記憶しかありません。
悩んで悩んで悩んだけど、ただでさえ睡眠不足だし、これで2日目の三戸先生の記念講義を聞き逃しては元も子もないし、寝坊したら減点されて負けたことが10周年記念合宿であったし、、、と悩んだ。
ふと見ると、1期生は二人とも枕を並べて寝ていた。やはりこれは10周年記念合宿において、まさかの全員寝坊で1期生大逆転負けの暗い過去があるからか。

なので、私は寝ることを選択しました。

4時30分頃、同室の聞間、松永、中島が部屋に戻ってきた音で目覚めた。
2時間しか寝ていなかったが、下世話に話で恐縮だが、膀胱がぱんぱんであった。
彼らが帰ってきていなければ、まさかの合宿おねしょ事件という伝説を引き起こしてしまったのではないかというほどであった。

6時30分。目覚ましで起床。
洗顔等を済ませ、7時過ぎには玄関を出た。
朝の空気が澄んでいる。
軽くヨガのシークエンスをしていると「年功序列啓蒙会」の面々は外に出てきた。
1期 古郡さんの指導のもと、アシュタンガヨガの太陽礼拝A/Bをやった。
私もちょっとだけヨガをかじっているが、アシュタンガヨガの太陽礼拝は本当にきつい。
軽く汗ばんだところでラジオ体操の時刻、7時30分となった。
全員無事に集合。寝坊減点はなかった。

ラジオ体操も音源はスマホ。時代は変わるもんだ。15周年合宿のときはカセットテープ。その時点でもカセットテープは珍しかったが、そのカセットテープから流れてきたラジオ体操の声は15周年合宿幹事の中島の声だった。あのラジオ体操が今までで一番思い出深い。

ラジオ体操を終えて、三戸先生とOBは御宿の海岸まで散歩した。

御宿の海岸は砂浜が深くえぐれており、我々が学生だった当時よりも段差が大きくなっていた。砂浜はこうして削れていくのか。時間の流れを感じた朝であった。


epi.8三戸先生の25周年記念講義

その前に、池田くんが2日目から朝からやってきた。時間に限りがあっても、なんとか来れるだけでも来たいという仲間がいることは嬉しいかぎりだ。
「合宿において、どこか一つだけしか参加できないとしたら、どれを選ぶ?」と言われたら、三戸先生の記念講義を選ぶだろう。故に、2日目だけでもやってくるのはある意味、正解なのだ。逆に、1日目で帰らねばならなかった今村くんは残念だっただろうなあ。

レジュメのタイトルは「産業社会の終焉〜新しい21世紀社会は?〜」であるが、口火を切った先生の言葉は「形と心」。
「形ー心」に対比して、「巧言令色、少なし仁」。「巧言令色とは、悪いことだろうか?」という問いを投げかける。
「この際の、心とは「自分の心」だろうか?そうではなく、相手の心にあわせるということではないのか?」という問いかけ。
そして、このドラッカーの、1.事業規程、2.顧客規程、3.マーケティング&イノベーションとの対比。
「事業規程とは「何のために?」ということだ。正に「心」にあたり、顧客規程が「形」にあたるのではないか。」

「心ー形」から、論語の一節に及び、そこからドラッカーに結びつける。

全て三戸ゼミで学んだ言葉であるにも関わらず、こうやって結びつけて考えることが私には出来るだろうか。そう思いながら先生の言葉に耳を傾けていた。

三戸先生の講義は続く。
「自由とは責任ある選択である。
とりかえしのつかない結果=取りきれない責任が生じるのが現代の産業社会であり、原発事故が正にそうではないか。」

「自由は終焉している。「自由=責任ある選択」ではもはや無理であろう。」

「キリスト教的・西欧社会の「自由」絶対ではもはや立ち行かない。これからは、人間・知性を特別視しない東洋の「自然」に立脚した「自由」を人間の「本性」と捉えるべきであろう。」

3時間に及ぶ三戸先生の講義のすべてを理解したとは言いがたいが、私にとっては「これから先の見通しを与えてもらった講義」であった。

質問や感想の時間が持たれたが、「これまでの記念講義の中で一番腑に落ちた」という感想が印象的であった。
それは先生の考え方が深まって、より理解しやすくなったのか、それとも学んでいる我々の方の理解が追いついてきたのか。おそらくは、その両方であろう。

私も今回の講義が一番腑に落ちた。

私はいまお茶の稽古をしているが、お茶の世界とは、まさに禅の世界である。
禅における「自由」とは、「環境にとらわれず、それを受け入れて、かつ、そして故に、心が自在であること」ということだろうか。

むろん、それを完全に理解している訳でもないし、実践できている訳でもない。しかし、なんとなく自分が必要ではないかと直感的に感じていたことを、この三戸先生の講義で原理的にも構造的にも、理路整然とはっきりと示して頂けたような心持ちでいる。正直、私は先生の講義を聴いて、目の前が開けたような気がした。

私が残念でならないのは、この先生の講義を上手く文章で表現できないことだ。もどかしい。
ぜひ、あのときの映像をDVDで欲しいものだ。


epi.9 昼食、浩友会総会、閉会式、刮目

昼食のとき、広間の外が騒がしくなった。何人かの子供の声が聞こえる。
なんと8期 植草茂樹が奥さんとお子さんを連れて顔を出してくれた。
植草も見た目がほとんど変わらない。しかし、三戸ゼミOBの中では、おそらくもっとも社会的に著名な人材になった。
日曜日、わずかな時間があったからと、家族を連れて御宿まで車で来て顔を出してくれる。

昼食をとりながら浩友会総会が行われた。

閉会式での三戸先生のお言葉、「器(徳)を大きくするには」。
これについては、3期太田さんが既に書いてくださっているが、私も器とは生まれ持っての要素が大きく、なかなか広がるものではないと思っていた。
しかし、「器の中を占めているものを減らせばいい」ということと、「自分を変えるためのルールを作って、それを実行する」ということを学ぶことができた。
私は昔から器が小さい、徳がないと言われるし、その自覚もある。その器を大きくすることができずとも磨いていこうと思っていたが、そうか、こうすれば、もう少し器を大きくできるのだと思わせて頂いた。

さて、刮目である。
1期生から話していくと、おそらく現役生は全員は話せないだろうなと思っていた。
なので、話をコンパクトにして、かつ、ちょっと面白い話をしようと「御宿ニュー日の丸」の看板に「おんやど」というふりがながふってある話から入って、、、と構成していたが、直前の太田さんの涙の刮目でもらい泣きし、完全にペースを乱された。面白く、かつコンパクトに話せなかったのは、きっとそのせいだ、と人のせいにしておこう。
8期 中島くんが短くも、端的に、見事に刮目を話してくれた。中島は優しい男だから、少しでも現役生のために時間を作ってやろうと心がけたのだろう。

15期 日々野くんの刮目である。
「先生の講義を聴いていて、先生がこんなにも本気で我々に講義してくださってるのを見て、自分は幹事として本気さが足らなかったのではないか」と涙した。
15期 日々野くん、19期 藤井くん、20期 中村くんの3名が幹事として、この合宿を作ってくれた。日々野が涙して反省したように、本当に準備が足らなかったのだろうか。
私はそうは思わない。社会人になって、三戸ゼミの合宿の幹事をするということは、とてつもなく大変なことである。
日々野は本気で準備してくれたが故に、本気さが己を厳しく反省させたのであろう。

実は合宿中、ずっと気になっていることがあった。
幹事として、前に座っていることが多かった19期 藤井くんである。
彼はPC等の操作があるので、前に座っていることが多かったが、その表情はずっと固かった。
「楽しめているのかな?」と思った。
でも、彼は幹事だから、合宿の運営に目を配っているのだろう。だからこそ、あのような張りつめた表情をしていたのだろう。

その藤井くんの見事なスピーチの得点で、合宿の優勝は10期〜22期の「世代交代推進連合会」であった。
「年功序列啓蒙会」としては、敗因は事前の書き込みの差であったが、それも含めて彼らが準備からよく取り組んでいたということだし、藤井くんのスピーチは「チーム優勝の原動力」に値するものだったと私としては納得している。
正直、この期生とは直接、一緒にゼミを過ごしていないから、共有した思い出はそんなにはない。浩友会や記念合宿くらいだ。
でも、この世代がいなければ、三戸ゼミの伝統は繋がらなかった。その代表が佐々木真光だろう。
一緒に過ごした思い出はなくても、こいつらとは同じ釜の飯を食った仲間だという実感がある。
世代が離れていても、そういう実感を持てること、それが三戸ゼミ25年の重みなのだろう。

が、これだけははっきり言っておきたいことがある。特に18期 田中圭くんにだ。
君たちは、その名前の通り、「世代交代を推進できた」。おめでとう。
だが、「世代交代は推進は出来たものの、完了はしていない」ということだけははっきりさせておきたい。
30周年記念合宿で受けて立とうではないか。


epi.10帰りの電車にて

御宿からの電車も自由席なので、席はばらばらであった。
中島が私に声をかけてくる。「岩切さん、席をとってますから、先生とお二人でお座りください」
私は行きの電車で三戸先生を独占したのだから、「中島、こんな機会はなかなかないのだから、お前が座ってお話させてもらえ」。中島は本当に優しい男だ。

私の座った席の隣があいていたから、日々野を呼び寄せた。合宿幹事を務めてくれた日々野にお礼が言いたかったし、彼とじっくり話がしたかった。

15周年合宿のことを彼に話した。
浩友会幹事長としては事務方としては開催に反対したが、中島が幹事を引き受けてくれてやることが出来た。5周年は「プレ」記念合宿、10周年が「初」、次は15周年か20周年かという話があったが、15周年をやってなければ、10年刻みになっていて、25周年合宿はなかったかもしれないという話をした。

日々野が話してくれたこと、「中島さんは今回もいろいろアドバイスをしてくださいました。現役生にも連絡して、こんなものがあったほうがいいよ、こんなことを準備しておいた方がいいよということをアドバイスしてくださいました。」

誇れる後輩がいるということは有り難い。中島しかり、日々野しかり。

26期の渡邊くんがスピーチのアドバイスを求めて席に来てくれた。しかし、自分のスピーチの前の話はほとんど覚えていなかったので、具体的な話はしてあげられなかった。だから、刮目という場を活かす話をさせてもらった。

東京駅に到着し、京葉線のホームから一段あがったところで円になった。
そこで締めようということになったが、3期 杉山さんから「じゃあ、岩切、締めろ」とご指名が来た。
正直、かなりどきっとしたが、ここで締められなければスピーチ大魔王も「スピーチ大会だけの大魔王だな」となってしまうな、、、と一瞬脳裏をよぎった。
まあ、なんとか、面目を保ちつつ、つつがなく締められたと思う。

長いエスカレーターで構内を移動する。
エスカレーターで20期 中村くんを捕まえた。
彼は博士課程に進学するという。ということは、将来は研究者を目指すということだ。
彼も真光のように、見事な師範代になっている。
彼にこう話した、「三戸先生に憧れて研究者を目指したいと言ったこともあるが、僕は先生から「岩切には向かない」と言われ、諦めた。だからこそ、三戸門下から研究者を目指す後輩ができるのは嬉しいし、とても羨ましい」と。

京葉線から東京駅コンコースまで、長いようで短い道のりだった。

そこで別れる。ひとりひとり三戸先生と握手をし、そして別れた。

私は新幹線の切符を持っていたので弁当を買いにいった。
日々野は新幹線の切符を買いに窓口に並んだ。
ここで別れかなと思っていたが、ホームにあがってみると、日々野があがってきた。
聞けば18:30発の新幹線がとれたらしい。私は19時ちょうど発だ。

私は日々野を見送りたいと思った。
彼が代表幹事として取りまとめてくれなかったら、この素晴らしい25周年記念合宿はなかったのだから。

新幹線のB席に座った日々野を外から見ていると、テーブルを出して、弁当を置き、そしてスマホを置いていた。
あ、こいつ、帰りに掲示板に書き込むかもしれないなと思った。
なかなかこっちに気づいていなかったが、やっと外の私に気がついた。
いまは空席の窓際A席の方に身を寄せ、窓のところで、彼は握りこぶしをどんどんどんと数回叩いていた。ゼミの終わりの、あの「儀式」である。

18:30、日々野を乗せた新幹線は静かに出発した。

私の乗った新幹線は19時に出発した。夕飯にかった崎陽軒のしゅうまい弁当を食べ、ちょっと仮眠し、三戸ゼミナール掲示板を見てみた。

そこには日々野の「一番槍!」日々野に一番槍をつけさせてやりたかったから嬉しかった。
すぐさま二番槍をつけた。

こうして、三戸ゼミナール25周年記念合宿は全ての日程を終えた。
私は京都駅から車で帰ったはずなのだが、その道すがら、どうやって運転していたか覚えていない。
合宿の余韻によっぽど浸っていたのだろう。

本当に楽しい合宿であった。
本当に学び得た合宿であった。

はやく次の浩友会が来ないかと楽しみにしている。

三戸先生と、そして、仲間達との再会を、心から楽しみにしている。

(了)


○日々野(12/26 , 02:30)
このところレスポンスが遅れておりすみません。
ですが、このレポートはできるだけ早く反応したいと思いコメントします。
岩切さん、レポートありがとうございました!
とても面白く読ませて頂いて、思いがけず、クリスマスプレゼントをもらったような気分です。

一番の感想は、岩切さんの気づきの豊富さ、視野の広さに、凄いと思いました。
同じ時間を過ごしたはずなのに、自分では気付けていなかったこと、感じ取れていなかったことに、
岩切さんは注目し、心に留めておられたのだと、レポートを読んで知ることができました。
言われてみれば、自分も見覚えがある場面もあり、目には入っていた、気付くことができたかもしれない、、、が、
「心ここにあらずんば・・・」
意識性の違いを感じずにはおれません。三戸ゼミは先輩もすごい!

次の浩友会のときには、先輩方の一挙手一投足からも学びたいです。
有難うございました。


○中村貴治(20期,12/30, 17:50)
岩切さん、合宿レポートを本当にどうも有難うございます。
合宿での思い出がよみがえってきます。
書き込みがされているのを見つけて、一気に読み切ってしまいました。

これほどの文量を見ると、岩切さんがまさに「[No.4641] 私のスピーチの原稿の書き方」に
投稿されていたように、合宿が終わってからすぐに、少しずつでも
書こうとしていることを書き出して、ブラッシュアップさせていったのだろうと思い、
その光景が浮かびました。私もその姿勢を学びたいと思います。(何より現役生も見習わねばならない)

また情景・情感が伝わってくるような書き方だけでなく、
日々野さんもおっしゃられていますが、岩切さんの「気づきの豊富さ、視野の広さ」には驚かされました。
何ごとも、「同じ対象(光景やテキストなど)を見て、どれだけの意味を取り出せるか」が決定的であり、
三戸ゼミでは先生から何度も意識させられることだと思いますが、
“三戸ゼミ25年の重み”を確かに感じさせられました。
(三戸先生の「凄み」、私達との「違い」は、私としても大いにうなづかされました)

ブリッジ(2回目)は、今更ながらすみませんでした…。
ニヤニヤしながら読んでしまいましたが、実は僕も、ブリッジは苦手なんです^_^;
次回のブリッジでは「勝ち越し」を狙いましょう!何とか力を磨いておきます。

○三戸(12/30,23:14)
岩切君、心より礼を言いたい。
 このようなレポートがあることにより、後で色々思い出すことができる。
 
 それ以上に、君がどのように合宿に臨み、
 どのように学んだかが伝わってくる。
 >三戸ゼミは卒業すれば終わりではない。三戸ゼミはむしろ卒業してからが本番。
 と書かれている。
 まさに、合宿に学びに来たことがよ〜〜〜〜〜くわかった。
 後輩たちに対する配慮もひしひしと伝わってきた。
 復習せぬ者は学びが薄い・乏しいと思っている。
 君は優れた「学生」だなぁ…。
 敬意を表したい。
 (君の思いとかけた時間に到底敵っていないが、
  兎に角年内に、と思って取り敢えずresponseした。) 
 
 
【iwakirireport】

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