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白熱教室(2013年第5回) 《白熱教室 (2013-第5回)》
No:4575
投稿者:三戸
投稿日:2013/10/25 Fri 21:46:08
久しぶりに、「議論」をしてみたい。
『AERA』(13.10.28)で取り上げている、2テーマを論じたい。
(アエラの「論調」は多方のメディアと同じだ。)
○「台風26号による大島の災害」
大島の大水の災害に関して、行政の責任としている。
役所が適切な避難指示を出さなかったかもしれぬ。
だが、住民たちは大雨警報も、避難所のことも知っていたはずだ。
自分が住んでいるところが「危ない」かどうかも、
毎年起こっている各地の被害を見れば、わかるはずだ。
(夜中に大雨になる前に避難できなかったとは思えない。)
「“自分の命を守るための避難”をしなかったものが命を失った」
と言ったら、言いすぎか、冷酷か?
マスコミが「情報を出せ」と「行政の責任」ばかりを連呼するうちに、
人々は「自分で判断して、自分で自分の命を守ること」を
忘れてしまい、できなくなってしまったようだ。
【しゃべり場】
○中村貴治(20期,10/30,12:50)
「制度や法律といったシステム面に原因・責任を見出す」という意味では、
昨日夕方のニュースでは、話題になっているホテルのレストランメニュー“誤表示”について、
原因をメニュー表記の基準を定めた制度が未整備だからだ、としていました。
それはそれであるかもしれませんが、すぐにそこに問題をもっていき、
そしてそれに疑問を感じない世界が出来上がっていることに違和感を持ちます。
また、それ程に細かな規則を次々にもうけてどうするというのか、
そういった世界観の限界も感じました。
また、最近、個人的に老人ホームを訪れる機会があったこともあり、
どうも社会の中で、“お年寄り”を「無能力な弱者」として扱い、
子供と変わらないような扱いをする傾向が過剰なのではないか、と感じています。
大企業を中心とする組織に所属することで、地位や機能を得る「産業社会」の弊害でしょうか。
今回の件も、お年寄りをあまりにも「無能力」という前提として扱っている、象徴のように思われます。
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○「みのもんた(親)に責任はあるか?」
みのもんたの次男の犯罪に関して、
「みの(親)の責任のある・なし」が議論されている。
みのもんたの次男は就職やその後で親の「援助・援護」を受けているように報道されている。
なら、その「代償」として親に「責任」があるのではないか?
まず、私はそう思う。
だが、みのもんたのような力・富を持たぬ親ならどうか?
と、問うであろう。
「一般論としての”親の責任”論」を問うであろう。
以下のQに答えて欲しい。
Q1.「家族は助け合うべきだ」と思うか?
Q2.「成人になったら、親は援助すべきではない」と思うか?
Q3.「子供と言えども”独立人格”である」と思うか?
⇒Q1がYesなら、Q2はNoにならないか?
Q2をYesとするロジックは”独立人格”であろうが、
なら、Q3の答えはどうなる?
子供の責任は親にあるのか・ないのか?
子供がいくつになれば、親に責任はなくなるのか?
いくつになっても、なくならないのか?
【しゃべり場】
○木田世界(25期 10/29 12:38)
先生、ご紹介ありがとうございます。
やはりこの「白熱教室」がないとゼミ掲示板<らしく>ないですね。
どうしても今時間がとれませんが、金曜日の夜か、遅くとも土曜日には何かしら投稿をする予定です。
◯木田 世界 (25期 11/3 16:54)
Q. 1助け合うべき
Q. 2何らかの援助をしても良い
Q. 3「独立人格」というのを、自らが自らの行動の結果に責任を負わねばならない者とするならば、
子供もある程度独立した人格だとは思います。成人する前は全く責任なく、成人すれば全責任があると
明確に区別できないのではないでしょうか。
AERAの記事を読んでみました。
僕はやはり、子が成人したとしても親が責任を取る必要があるのと思います。
親が育てる時に、何をするべきで何をするべきではないかをしっかりと示していれば、
子は成人した後も立派に振る舞うはずですし、
子が善くないことをしているなら親は良い手本を示していなかったということでしょう。
子の意思決定に親がその場で直接関与していなくても、親の教育の影響は子供に残り続けているはずだと思います。
AERAの記事で、いつまで親の責任があるかというアンケートがあったのですが、回答の多かった順に
1位:ずっと責任がある 33% (67%は責任はある時点までになくなると考えているということですね)
2位:大学卒業まで 21%
3位:高校卒業まで 18%
4位:就職するまで 10%
5位:20代まで 9%
6位:実家を出るまで 5%
………
年齢で区切るのか、その他の質的要素で区切るのかはっきりして欲しいところではありますが
(卒業も就職も実家を出るのもだいたい20歳ですし、この答えを見る限り
20歳前後に責任はなくなると考えている人が多数派とも言えます。)
20歳前後までで親の責任がなくなるという論の根拠は、このアンケートから考えると
@高等教育の修了→社会的行動における選択に必要な判断能力がある
A就職 (子が経済的に独立、自分で稼いで暮らす一人前の大人になる)
B生活空間が分かれる (子の意思決定に直接関わる機会が減る)
C息子が法的成人になる(この根拠も判断能力と言えそうです)
でしょうか。
@BCはどれも、意思決定を行った個人その人が責任を負うという思想から論じられていると言えます。
Aをどのように解釈すればいいのかはっきりとはわからないです。
また、成人しても親に責任があると言うなら成人という儀式の意味がなくなってしまうのではないか
という意見も載せられており、
成人すれば主として責任を負うのは子だが親にも何らかの責任があるという以外に反論が思いつきません。
意思決定に影響を及ぼす要素は無限にあるが、
責任の帰属範囲は限定しなければ責任を社会を機能させる原理として用いることはできないということでしょうか。
○中村貴治(20期,11/3,19:00)
三戸先生、議論の場を有難うございます。
参加が遅くなりまして、申し訳ございません。
Q1.「家族は助け合うべきだ」と思うか?
⇒ YES
Q2.「成人になったら、親は援助すべきではない」と思うか?
⇒ NO
Q3.「子供と言えども”独立人格”である」と思うか?
⇒ NO
直感的に答えれば、このようになります。
大きな理由は、@子供を育てたのは親であり、子供が反社会的行為を犯しても、
そのように子供が行動したのも親の子育ての結果といえるため、
ということで、恐らく木田君とあまり変わらないと思います。
また、A「親の責任」という視点で考えたとき、ある年齢に達すれば、
一定の年齢に達したら親に責任はない、という主張に違和感があるという理由もあります。
しかし、人間に"独立人格"という枠組みを敢えて与えているのは、
そちらの方が社会、もしくは個人にとって「いいこと」という考えがあるからといえるでしょう。
木田君に紹介してもらったAERAの記事の中では、「成人式」の意義についての言及が気にかかりました。
なぜ成人式があるのか、「成人」とは何なのか。
ドラッカーは「責任なき選択をするものは"人でなし"である」と言いましたが、そのように考えれば、
"成人"=人に成るために必要なのは、意思決定の責任を「自分で」とることであるのは、納得できます。
実際、「自分の行動の責任が他人にもある」という意識をもてば、
意思決定への心理的な負担が軽くなり、軽率な行動を取りやすくなるということはあるでしょう。
しかし、成人が「社会の成員として、社会がよりよくなるための役割を果たす」ことが求められる存在と考えると、
意思決定の責任を「自分で」とるかどうかは、密接に関わりつつも絶対的な条件ではないように思えます。
殺人を犯した場合など、その行動の責任を一人の人間がとることなど非現実的であり、
また、できないことなのではないでしょうか。
そう考えれば、責任を共同体単位で分散することで、
「セメ」に対して少しでも応答をしようという考えの方が、まだ現実的であるという見方もできるでしょう。
どちらが適切だ、という考えには至っていませんが…。
もう少し考えたいと思います。
【giron1025】