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Re:松永さん、ご指摘いただき有難うございます。 松永さん、討論会報告の議長団の表記について、ご指摘いただき有難うございます。
No:2923
投稿者:今村達朗(20期生)
MAIL
投稿日:2010/01/13 Wed 14:08:37
「公と私」について考えが及ばず、後輩に指摘が出来ないばかりか、
それを「面白い」などと書き込んでしまったことを、本当に恥ずかしく思います。
今回自分がこのような書き込みをしてしまったのは、
自分の三戸ゼミ・三戸ゼミナール掲示板への「甘え」が原因であり、
また自分のこのような言動に対し先輩からご指摘いただけるということを有難く感じています。
松永さんから「ウチ・ソト」と「公と私」について大変興味深い問題をいただきました。
現在僕は以前先生からご紹介いただいた土居健郎「表と裏」を読んでいまして、
今回松永さんからいただいた問題についても関連して考えたことを書き込みたいと思います。
>「ウチ・ソト」と「公と私」は、よく似た概念ですが、決定的に異なるところがあるようにおもいます。
>「ウチ・ソト」というときは「ウチ」に重点があり、「公と私」といったときは「公」に重点があるように思います。
という書き込みから、「ウチ・ソト」、「公と私」という言葉には、
それぞれの客観的(概念的)な規定とは別に、より主観的(意図的)な「意味」が加えられていると考えられます。
そこでまず、それぞれに比重を生みだす「意味」を取り除き、普遍的な規定として
「公と私」を「表と裏」、「ウチ・ソト」を「内・外」として考えてみたと思います。
これまで僕は「裏と表」と「ウチ・ソト」は並列的に関連していると考えていました。
しかし、松永さんからいただいたご指摘から、ウチにおいても「公」は当然存在するものと考え直しました。
例えば現在ゼミ生間の諸連絡は携帯電話のメーリングリストによって、
「公」の形をとって連絡・報告がなされています。
また、どんなに親しい仲でも、何かを仲間全体に(特にメール等の文章によって)連絡する際は、
それなりに形をもって、「公」的に連絡がなされます。
これらのことから、「表と裏」、「内・外」のかんけいについて、
以下のような次元の関係を持っているのではないかと考えました。
表 ――――――――
裏 ―――
○○○内○○○○外
つまり、内においても外においても共通して表の側面を持っているが、
内においてはさらに裏の側面を持っているように考えられます。
また裏の側面を持っているからこそ「内」といえるのかもしれません。
「表と裏」については、(完全に一致はしないようにも思いますが、)「建前と本音」と置き換えると
イメージしやすいように思います。
さてこのような認識に立った上で、まず内と外について考えます。
普通人間は、自分を中心に置きものごとを認識し、考え、
また自分により近い人間・集団に対し優先的に大切にし、接するだろうと思います。
つまりどちらをより大切にするか、自分にとって重要な存在か、という観点から、
内に対して重点が置かれると理解しました。
また、「ウチ・ソト」といった場合、ウチを重要視するのと同時に、
ウチ集団が存在し、ウチとソトという人間関係に境界が引かれる(特にソトを認識した際にはじめてウチが認識される)
という集団における人間関係に質の差が存在し生れている、という事実も重要ではないかと考えています。
ここで上に挙げた「表と裏」と「内と外」の関係にもどると、内においてはその内部にのみ存在する「裏」があるといえます。
「表と裏」について、両者はあるものごとの二側面を表し、また表はその対象の目に見え知覚される側面を表現し、
裏は目に見えない側面を表現しています。
特に日本人の場合、「本音と建前」という言葉が存在し、より意図的に裏を隠し、
それを繕うように表を表現しているといえます。
(これに関連して、以前先生から「京都の人間は誠実か」という問題をいただいていました。)
つまり、表と裏を持つ内集団においても、その「裏」を意図的に隠そうとし、そのため「表」の部分を
より重点的に意識し繕わねばならない、と考えられます。
このような観点から、「公と私」において公に重点が置かれると理解しました。
まとめると、人間は本来自分を中心に考え、よりウチの存在を大切にし、重要な存在として認識し扱う。
しかし、ウチにおいては、特に日本の場合、表と裏の二側面を持っており、また裏を意図的に
隠そうとする傾向から、「公と私」において「公」により重点がおかれると考えました。
(ただし「滅私奉公」を考えた場合、「親子関係」が強く関係しているようにも思います。
この点について自分の「公と私」に対する理解がまだ曖昧なため、さらに詰めていきたいです。)
さて、ここで企業のウチ・ソトを考えた場合、企業のウチにおいては「裏」が存在し、
またその裏になんらかの負のイメージが持たれる場合に、その企業がいくら社会貢献活動をしていても、
それを「偽善」として認識されるのだろうと思います。
しかし、日本企業が「家」でなくなり、「ウチ・ソト」が崩壊したならば、企業の「裏」はなくなり、
「偽善」的か否か、という議論もなくなるのではないか・・と考えられます。
あるいは、「家」ではなくなったが、ゲマインシャフト的側面のみが残り「ウチ・ソト」が存在している、
とも考えられますが、この場合「ウチ・ソト」を「家の原理」としてあげることに疑問が残ります。
これまで、すっきりとまとめきれず色々な問題が交錯してしまいましたが、
「表と裏」の概念は、その次元によってとても普遍性を持った視点であると思います。
「オモテは見えるが、ウラはオモテのかげに隠れている。
オモテはしかしただオモテだけを現すのではなく、またウラを隠すためだけのものでもなく、ウラを表現するものでもある。
あるいはウラがオモテを演出していると云ってもよい。
であるから人はオモテを見るとき、ただオモテだけを見るのではなく、オモテを通してウラも見ている。
いや、オモテを見るのはもっぱらそこにウラを見るためだという方が当たっているかもしれない。
このようにオモテとウラは概念的にはっきりと区別されるが、その実、相互に密接な関係にある。
すなわちオモテなくしてウラなく、ウラなくしてオモテなく、両者は文字通り表裏一体である。
オモテとウラは別々に存在するのではなく両者相俟って一つの存在を形造る。
一つの存在を認識する上でオモテとウラの区別が生ずるのであって、この二つは分裂ではなく、むしろ統一を示唆すると云うことができるのである。」
(土井健郎『表と裏』(弘文堂)p.14)
以上の文章から、先生からいただいた次の言葉が浮かびました。
「学生が学生らしく振舞えずに、社会人が社会人として振舞えるか」
オモテとウラは切り離せない統一物ですが、学生においてはよりウラの側面が、
社会人においてはよりオモテの側面が、重視され必要となるように思います。
そして、オモテというのはウラが演出し、人はオモテを通してウラを見る。
三戸ゼミは、学生として自分のウラの部分を学び鍛え、
そして同時にオモテを形作ることも学ぶことのできる場であるのだ、と改めて考えさせられました。