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「偽善」で何が悪いのか?
No:2355 投稿者:石井宏通(20期) MAIL 投稿日:2009/05/28 Thu 23:02:01

この企画、是非のらせてください!

私は「偽善」の対極は何かを考えるにあたり、まず「偽善」という言葉が
どのような場合に使われるかを考えてみました。
「偽善」という言葉は多くの場合、行為の対象となる者、或いは第三者が
行為者を評価する場合に用いるのではないかと思います。
または、行為者本人が自らを皮肉って用いるのではないかと考えました。

(@)行為の対象、第三者が「偽善」を用いる場合
この場合、行為の対象となる者、第三者は、その行為自体は「善である」、
と感じているはずです。しかし、行為者のこれまでの行為、或いは動機を
推測し、感情的にその行為を批判したいと感じる時、その行為を「偽善である」
と評価するのではないか、と考えます。
この時、評価の対象となるのは、その行為自体ではなく、行為者そのものである
と考えます。ですから、行為者が対象となる者、或いは第三者にとって、これまで
好感の持てる人物、存在であったか、大方「いいひと」であったかが
「偽善」と「善」の評価を分けると考えます。



(A)行為者が「偽善」を用いる場合
人が行動を起こす時、その動機とは別に自身の評価軸とてらして

@「その行為が善であるから行う」
A「その行為が善であるか、悪であるかを考えずに行う」
B「その行為が悪であると分かりながら行う」

このいずれかの心理が働くのではないかと考えます。
ここで、行為者が自らの行為を「偽善」であると評価する場合、
あくまで行為自体は「善である」と考えている。上記の心理@が働いている
ということになります。
しかし、これまでの自身の行為や心情を顧みた時、これまでの行為、心情が
悪であったと認識している、または他者に認識されている時、
それ自体は「善である」行為を行う自身を皮肉って
『俺は偽善者だな・・・(苦笑)』と思うのではないか、と考えます。
この場合も(@)と同様に、その行為自体が問題なのではなく
行為者自身がこれまでの自分をどの様に評価し、他者からどの様に評価されている
と認識しているかが問題となる、と考えます。



(B)「偽善」は「善」か「悪」か
「偽善とは善であるか、悪であるか」という問いに対し、
現時点での私見を以下に述べます。

「偽善であるか否か」という問題と「善か悪か」という問題は評価対象が異なる。

これまで述べたように、「善であるか悪であるか」という問題は、その行為自体を
評価の対象とし、その行為が自身の評価軸において(行為者、対象となる者、第三者のいずれも)
どの様に評価をするかという問題であると考えます。
しかし、その行為が「偽善であるか否か」という問題になった時、評価の対象となるものは
行為それ自体におさまらず、行為者の人間性や、その行為者のこれまでの行為が
どの様に評価されてきたのか、ということも評価の対象になる、と私は考えています。
したがって「偽善であるか否か」という問題は、感情的なものを含んでいるのではないでしょうか。
「偽善である」と評価する場合、この感情的なものは多くはマイナスの感情であり、
(例えば、これまでの行為者を考え、これまで悪であったから信用できない、であるとか)
そのため、行為自体は「善」であっても、マイナスの感情の作用によって、善いイメージが
そがれてしまう。それだけではなく、悪く感じられたり、
はたまた裏があるのではないかと勘繰りたくなるのではないか、と考えています。

******************************************

「偽善」について理解するために、その対極にある言葉を考えようとし、
そのために「偽善」がどの様に用いられるのか考えてきましたが、
結局今のところ、「○○⇔偽善」の答えの見出せずにいます。
また、私見として結論を述べたところで、推論の域を脱していないな・・・と感じました。
しかし、今のところは、やはり「偽善であるか否か」という問題と
「善か悪か」の問題は、評価対象が異なり、とすれば、「偽善か善か」という
問いでは納得のいく答えがだせないのではないかと思います。

話が変わりますが、行為自体は「善である」にも関らず、「偽善」と評価したり、されたりするのは
悲しいことだな、と感じています。



まだまだ議論していきたいところです!
掲示板を通じて、OBの方々と現役生がこの様に議論を
交わすことができる。本当に有り難く、楽しいです!

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