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先生からのメッセージNo:1958「心そこにあらざれば」を考える
No:1960 投稿者:中島大輔(8期生) MAIL 投稿日:2008/09/15 Mon 20:59:53

せっかく先生からお言葉をいただいたのに、
意図を理解することができず、大変恥ずかしいです。
しっかり考えて成長していきたいと思います。

纉cさんの辛さを自分の苦しみとせず、
掲示板につけられた汚れを自分の痛みとすることができなかったのは
わたしに心がなかったからだと思います。
後日、古典や宮城谷の言葉を借りながら、
「仁」についてもじっくり考えていきたいと思います。

T.題名である「心そこにあらざれば」について

@古典での出典:「礼記」大学編第三章(以下書下し文は岩波文庫『大学・中庸』金谷治訳より)

 所謂身を修むるはその心を正すに在りとは、身に忿懥するところ有るときは、則ちその正を得ず、恐懼するところ有るときは、則ちその正を得ず、好楽するところ有るときは、則ちその正を得ず、憂患するところ有るときは、則ちその正を得ず。
 心焉に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、此れを、身を修むるはその心を正すに在り、と謂う。


以上を踏まえ、
→私達の認識が浅いものであり、結果として「視れども見え」ない状況に陥っていることを指摘されている、と思います。
→何が見えていないのか。それをきちんと認識することが最も重要ではないかと思います。
→掲示板に、「ゆとり」的なものを望むのか、「真剣勝負」をするのか、今まで通り曖昧なままにはもうできない、と思います。
→どちらが相応しいのか、考えねばならない時期にあると思います。
 (私は、自分の未熟さをしっかり受け止めながら、これからもパソコンの前で正座していきたいと思っています。)

A心について、先生から教えていただいたこと

 1.「気づく」ためには前提要素として視座・コンテキストの理解が必要となる
 2.人は自分の行為を、“自分の意図”という色眼鏡で見る
 3.「○○をしたい」という“想い”は、相手に受け入れられる形である“こころ”に研磨する必要がある

1.→視座・コンテキストを理解することによって事態を打開する可能性が見えてくるのではないか、と思います。
2.→こうしてあげたい、という想いが、相手のためにならなかったという経験が私は数多くあり身につまされます。
3.→相手が、多くの人が、何を望んでいるのかを分かるために、耳を澄まし、しっかりと見つめていきたいです。

B先生の「新掲示板のスタートに当たって 」No:1939より引用

・三戸ゼミの卒業生も現役生もみな9月1日からもこれまで通りに、書き込むことも、仲間の書込を読むことも、過去の自他の書込を読み返すこともできるようになった。
・私は、6年半前の吉永美幸さんの書き込みから、全て読み返すことから大いに得るものものがあったと感じている。
・この場に求められている「基準」を書いたのである。その基準は、この場で得られるものであり、また何を得た者が評価・表彰されるかを示している。
・ハードルが上がったのは顔見知りの中だけでの「読み捨ててもかまわない情報」から他者と未来の自分が見て「役に立つ情報」がここに書かれるようになったことをどれだけわかっているのだろうか。


→先生が、6年半前から掲示板の書き込みを読み返してくださいました。
 千件を優に超える数の書き込みを読み返してくださいました。
 読み返さねば、と思いました。

 読み返した今、「掲示板が成長していく過程」を一緒に追体験したことで、コンテキストから皆が何を望んでいるのか、感じるものがあります。
 困難な状況においても準則を守りぬいた充実感は、人を輝かせると思います。
 準則、とまでいかなくても、大事に磨いた言葉を書き込みしてもらうと、読んだ側も心の内側からパッと明るくなるような気がいたします。
 (文字にされなかったものは歴史にはならないので、その言葉を拾うためには、新たな器を早急に作らねばなりません)
 (かけがえのない一人ひとり(in-dividual)をこころから大事にしてくれる、あの人がいいと思うのですが、難しいでしょうね)
 (力不足ではありますが、かるた掲示板にコメントなどお寄せいただきますと、メールか書込みでお応えしたいと思っています)

U.本文・学而について

@『創』VOL.24 先生の『ゼミ生諸君へ』(P.7下段l4〜P.8下段l14)を引用いたします。
(3日間あったので、きっと皆さん読んでいらっしゃると思います。引用したことで『創』のページを開く機会を奪ったことにはならないと思います)

 この春、十六期生が卒業していき、(毎年感じることなのだが)急に寂しくなったところに、十名もの新ゼミ生を迎え、一挙に賑やかになった。ゼミでソフトボール2チームができるのは、随分久しぶりのことではないだろうか。
 『論語』の冒頭の言は有名だ。誰でも、この二行目の言は聞いたことがあるはずだ。

学而時習之 不亦説乎
有朋自遠方来 不亦楽乎
人不知而不慍 不亦君子乎
   『論語』「学而」

《 学びて時に之を習う また説ばしからずや
 朋遠方より来たるあり また楽しからずや
 人知らずして慍らず また君子ならずや   》

 私は、この『論語』の冒頭で語られるこの言が好きだ。

 この言の意味は今更解説不要であろうが、人によって訳、解釈が違うのは興味深い。まず、今から40年以上も前1964年に出た 貝塚茂樹『論語』講談社現代新書では、「学問の楽しさ、それは先生から学んだことを時々復習してみる。そしておさらいする度に、何か新しい意味を発見することだ。遠方から友達がやってきて、学問のことをお互いに論じ合う。それは一人で復習しているのと比べて、一段と楽しいことではないか。こういう学問をやっていることは、それだけで楽しいので、自分の学問を人に自慢したり、名を知られたいためにしているのではないから、別に社会に知られないとしても、不満は少しもない。それで平気だという心境になれる人が、君子、つまり本当の学者、本当の人間と言えるのではないだろうか。」
 今年出版された佐久 協『高校生が感動した「論語」』詳伝社新書と比べて欲しい。「大いに学び、学んだことはしまい込まずに実践すると気持ちいいぞ。考えの遠く隔たった者とも語り合い、友達づきあいができるようになると楽しいぞ。周りが自分を認めてくれないからってクサるなよ。オンリーワンになるよう精進しようや。」

 だが、これまでゼミ生諸君に語ったのは、最初の二行だけで三行目の「人知らずして慍らず また君子ならずや」はピンとこなかったため、無視した格好でこれまで来ていた。だから、これまでなら、新ゼミ生の多さを《朋遠方より来たるあり また楽しからずや》という言で表現したであろう。

 人数が少ないのは、寂しい。討論会で他ゼミに比べて人数が少なければ、それだけで見劣りするものだ。だから、一学年6人から、8人位入ってきて欲しいものだと、常々願っている。少なかったり、入ってきても休みがちだったり、出てこなくなると、「確かに大変かもしれないが、いいゼミなんだがなぁ…、なかなか理解されないなぁ…」と思ってきた。
 だが、この考えは、孔子が言う三行目に反していることに気づいていなかった。私は、三行目を理解できていなかった、ということは、一、二行目の理解も実は怪しかったと言うことになる。三行で1セットなのだから。
 この言で始められた『論語』「学而篇」は、次の言で結ばれている。
不患人之不己知 患不知人也  『論語』「学而」※
《人の己れを知らざるを患えず 人を知らざるを患う》

 「自分が世・他者に認められないことは辛く、寂しい。だが、では、自分はいったいどれだけ他者の真価を評価でき、認めているだろうか。そのことの方が大事なことなのだ。」という意味であろう。(※印以外は諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社から取り上げた。書き下し文までは、出典通りだが、意味の方は断っていないものは私の解釈である。)
 全くその通りである。その通りのことだが、誰でも言えることではあるまい。

 孔子が陳国の大臣から
「あなたの生国の魯の君主昭公は礼の心得がおありになるか」と聞かれたことがあった。孔子が
「礼を心得ておられます」
と答えたところ、陳の大臣はしてやったり、とばかりに
「君子は身びいきをしないと聞いているが、君子でもするらしい。昭公は呉国から奥方を迎えられたが、魯と呉では同姓ではなかったか。昭公に礼の心得があるというなら、この世で礼の心得がないものなどないのではないか。」
同姓不婚が礼であるが、当時これを破った君主は魯君が初めてでも何でもなかったのだが、事実は事実であった。
 あとで、孔子は弟子にこう言ったという。
「私は幸せ者だ。過ちを犯すと人が必ず教えてくれる」と。
 私には言えないなあ。「かっこつけて」とか、「負け惜しみを言って」と思う人もいるだろう。私は言えるようになりたいなあ。


以上、引用終わります。

今の掲示板の状況と考え合わせて、物語を造りますと、
学びて時に之を習う また説ばしからずや
掲示板で一つのテーマについて書き込み、別の人の別の視点の書込みから新たな発見を見出す。
その奥の深い喜びというのは他ではなかなか味わうことができない。
朋遠方より来たるあり また楽しからずや
真剣勝負の場に書き込むことは大変なのだけれど、だからこそ、書き込んでくれた人には
こころからありがとう、と言いたくなるし、本当にうれしい気持ちになる。
人知らずして慍らず また君子ならずや
学んでいるだけで楽しいのだから、名利のためにしているわけでもなく、
価値を共有していない人からは評価されなかったとしても不満は少しもない。
それで平気だという心境になれる人を「同志」と呼びたい。
人の己れを知らざるを患えず 人を知らざるを患う
自分のことを分かってくれない、と嘆いても成長できず誰かを救うこともできないのです。
嘆きの連環を止めるためには、自分が相手を評価できていないことを嘆かなくてはなりませんね。


A十五周年合宿で先生からいただいた言葉
 (話し言葉をそのまま文字にしており、引用に当たって工夫が足りずごめんなさい)

 「朋遠方より来る有り、亦説しからずや」
なぜ楽しいのだろう。(会場の声:懐かしい思い出があるから)
そこには朋という言葉は、昔一緒にいたという意味しかないな。どういたのか、というのがないな、その朋には。
朋というのは別の言葉でいったならば、「同じ志を共有する者」じゃないのだろうか。
だから会ったら楽しいのじゃないか。だから会って話が通じるのじゃないか。
そうじゃなくて過去だけを一緒にした者とするなら、懐かしさだけだとするなら、
現在は共有していないわけだから、懐かしいかもしれないけれど楽しいだろうか。
懐かしくても楽しくはないと思う。
ここにいるのは今、16期か。(こちらに座っているのは)1期だ。一緒にいるというのは共通項は何だろう。
それは「伝統」だ、といったとき、その「伝統」というのは別の言い方をすると
「このゼミで学ぼうとすること」で、それを共有しているからじゃないだろうか。
だから楽しいのじゃないだろうか。だから合宿をやるのじゃないだろうか。
パーティだったら人が会うだけじゃないのか。
自分たちがそこで一所懸命過ごし、求めていたものをもう一遍確認しよう、ということだから合宿をするんじゃないのか、という気がする。
懐かしむにはいくら1期生でも早いだろう。
みんなとこうやって会って、十五年こうやってきたんだぜ、その成果がこうだ!と確認して、エネルギーもらって帰らねばなぁ。


十五周年合宿でお聞きしたときもそうでしたが、心にすとーんと収まったときに出る、「なるほど」という声が自然と出てきますよね。

V.まとめ

三戸ゼミ掲示板には、このままでいてもらいな、と思います。
このままでは、私が「こうしたい」という“想い”のままなので、「こころ」に昇華させていきたいと思います。

学生時代に先生からいただいた言葉のなかに、
『Y−Y−N(→Y)』というのがありました。
私が一番大好きな話です。
環境問題や核兵器廃絶など大きな問題について
 一、やるべきか→Yes
 二、やりたいか→Yes
 三、できるか →No
という事柄が非常に多いと思います。
しかし、今はできないとしても、やりたい、すべきだと思い続けることで
「できる」につながっていくのだと学びました。
敷衍させすぎかもしれませんが、
掲示板に書くべきであり、書きたいと思っていれば、
今は時間がまるっきりなくても、いつか書ける時間ができるかもしれません。
今、いい文章が書けなくても、「今の自分」で勝負すること自体が大事なのだと思います。
時間がなくても、切れ味がいまひとつでも、今書けば、次の文章につながっていくのですよね。
失敗することが確実に明日につながる。

そういうことって、私にとって本当にありがたいのです。
一回一回の勝負、負けることは仕方のないこともあります。
でも、それは未熟であるがためであって、次の機会には必ず取り返せるようにすれば
貴重な経験となって私たちを支えてくれる、というのは、皆さんもご存知のはずです。
しかし、悪気がなくても未熟であるがために、他者を傷つけてしまったときには
何がいけなかったのかを真に理解して、謝らないとなかなか先に進めないですよね。
傷つく経験を多くした人は幸運だと思います。
なぜなら、自分が傷ついた言葉を他者に投げかけることは決してないでしょうし、
誰かが傷ついているときには、その痛みに気づくことができるからです。
優しい人は、経験の積み重ねを経て人の痛みが分かるのだろうなと思います。

私たちみんな、三戸ゼミへ強い想いを同じように持っていることを知っています。
言葉を、時間をもっと使って語り合って、
鍋のようにぐつぐつとお互いの味を沁み出させながら、
「和」の世界を目指していけるのではないかと思います。

三戸ゼミ掲示板は、
「これがよいと心から思っている人間が、それに相応しい書き込みをする場」
「成長していくなかで、簡単に手に入れることのできない本当の楽しみを味わう場」
なのだと思います。

初め有らざるなし、克く終わり有るは鮮なし 出典:『詩経』「大雅・蕩」
(はじめあらざるなし、よくおわりあるはすくなし)
 (国も人も)最初は善を慕う心を持っているが、善を全うするものは少ない。
 誰でもものごとのし始めは立派であるが、最後まで貫く者は少ない。
 有終の美を飾ることが出来る者は少ない。


これからもいい掲示板にし続けていくために、
今の掲示板の有り難さを忘れずに、
学びつつ生きて、【刮目勝負】続けていきましょう!

※一番大事なのは上でいう所の、のところがきちんとなっているかどうかだと思うので、
 掲示板の状況に当てはめた文章が妥当なものかどうか、検討できたら全体の成形も少しは
 整ってくるように思います。緑の所(や他のところ)についてご意見・ご感想をいただけますと幸いです。

Pass



Number
Pass
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