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「最後の講義part2」 (1週間たってしまったのだが、)学部の講義に次いで、大学院の最後の講義・演習も終わった。
No:5097
投稿者:三戸
投稿日:2016/02/12 Fri 04:57:46
(次の大学でも大学院はあるが、おそらく院生のレベルは違うだろうから、
今までのような楽しい勉強の場は難しかろう…。さびしい。)
こちらは5〜10人ほどであり、拍手が起こるものではないし、そこでは特筆すべきことはなかったのだが、
関連して書いてみたいがある。
その日の2日前に修士論文の口頭試問があった(4人が無事クリアした)。
朝9時から始まり、午後4時過ぎまであったのだが、
全てを終えて、研究室で仕事を片付けていたところ、ノックがあり、4人の「受験生」が入ってきた。
朝9時代に口頭試問を終えた院生も一緒にいたから
最後の一人が終わるまで6時間ほど待っていたて、一緒に訪れたのであろう。
「ありがとうございました」ときちんと礼を述べ、ブルーベリーの大瓶をくれた。
(近年喧しくなっているから、急いで言っておくが、成績を付けた後であり、物品は成績には影響はない。)
試験前でもない。合格発表後でもない。
口頭試問の後で、感謝の言葉を述べに来てくれたのだ。
彼ら4人は中国からの留学生である。
私の研究室は、彼らの言うところによると留学生に大変人気があるらしい。
(論文指導など相当厳しくしているつもりだが。)
毎年、何人もの研究生・院生が入ってくる。
彼ら中国からの留学生が日本人院生と違う点がある。
彼らは、普段から帰省先から戻ってくるとお土産を持ってきてくれる。
ほぼ必ずと言っていいのではなかろうか?
彼らはそのモノで、手心を加えてもらおうなどとは思っていないはずだ。
申し訳ないが、私はその時「ありがとう」と言うが、誰がくれたかははっきりとは覚えないようにしている。
覚えたら、厳正に指導、評価できるか絶対の自信がない。
持ってこない子に厳しくしなくとも、持ってきてくれる子に何か「借り」ができてしまうのが怖い。
持たせる親御さんの気持ちを考えたら、ついつい、になってしまいそうだからだ。
少し前に、留学生から「先生、日本には”先生の日”はないのですか?」と問われたことがある。
中国には、先生に感謝する日があるそうだ。さすがは「(かつての)礼の国」である。
本名で呼べるのは、親と主君と師だけであり、他のものは字(あざな)で呼ぶ伝統の国である。
(「関羽」と呼べるのは親・主君・師であり、友人・知人は「雲長(殿)」と呼ぶ。)
我が国日本には、様々な「○○の日」が作られているが、「先生の日」は聞いたことがない。
なぜだろうか?
「○○の日」の乱発は戦後であり、戦後、教師は「聖職者から労働者」と自らを規定した。
社会は豊かになり、高教育を受けるものは増え、友人が教師であるのはごく普通となった。
「でもしか教師」などと呼ばれる時代もあった。
先生に対する「敬意」は形としては残ったが、
微妙に変化し、「成績評価者の力に対する恐れ」の方が大きくなってきているのではないだろうか?
しかし、ここでは日本に事情を分析したいのではない。
なぜ中国には「先生の日」があるのか、である。
中国社会の「公(=王朝=皇帝と臣下)」は、日本なら「私」であり、
権力は人民を収奪するために存在していた、と言えるだろう。
水滸伝の108人の英傑は公権力の迫害から逃れたものであり、
生まれ故郷にいられなくなった、すなわち血縁と地縁の保護を受けられなくなった者たちだ。
公権力が信頼できないとき、人々は血縁・地縁・その他のコネクション、
「私的関係」で「相互扶助」しようとし、そこに「信頼関係」を形成するであろう。
彼らにとり、「私縁=信頼関係」以外のものは極端に言えば「人間」ではなくなる。
だから、水滸伝では、追いはぎ、痺れ酒、簡単に人殺し、が満ち溢れ、
現代では、段ボール入り肉まん、毒入り餃子、地溝油、など信じられないことが起きている。
客という「赤の他人」を騙しても心は痛まない。
だからこそ、逆に、師=先生は大切であり、尊敬し、感謝する存在なのではないだろうか?
日本も血縁・地縁が力を持たなくなって久しい。
戦後、代って「社縁」が大きくなり、人々はより良き「社縁」を求めて、いい大学→いい会社にと努力した。
だが、会社は株主のものだ、と言われるようになり、リストラはごく当たり前のこととなった。
また、中国と違って、「公」に対する信頼は驚くほど厚かったが、その信頼も怪しくなってきている。
(日本人が「公(お上)」をなぜ信じるか、については、また別に述べてみたい。)
人は一人では生きていけない。
中国人は「公権力(お上)」が信じられないから「私縁」を大切にし、生き延びて来、生き延びようとしている。
日本人は「お上」と「会社」を信頼してきたが、それは藁でしかなくなりつつあるだろう。
それに気づきだしているのではないか?
なのに、それに代わる「縁」を積極的に探し、求めているようにはあまり見えない。
まさか、SNSやFacebookがその代わりになる、とは思ってはいないと思うが…。
【saigokougi2】
これは、実験としてFacebookと二重投稿している。了解されたい。
○佐々木(16期、2/12,19:45)
昨年骨折した際に埋めていたプレート、スクリューを除去する手術のため数日入院しておりました。
さすがに骨まで達する傷口(施術跡)があるため、痛み止めを飲んでいても中々です。
来週の御宿まで本調子に戻れば…、と思っていますが…。
その民族(という表現は適切でないような気もしますが)が「何を拠り所にして生きる(知恵を持っている)か」について、
先生と学生の関係性の違いから考察されたことに目から鱗の思いで拝読しました。
正月に実家で『峠』を読み返していたのですが、少なくとも江戸末期には「師は選ぶもの」との感覚があったようですが、
昨今の「師と弟子」の関係はそれともまた変容しているように感じました。
「師は選ぶもの」であっても、河井は「師は不要」とは思っていなかったと思います。
しかし、(恥ずかしながら己を省みても)「師の有り難さ」だけでも、わずかばかりを認識するまで、何と時間のかかったことか
と振り返らざるを得ません。
それは、私が特別ぼんやりしていた訳でないとすれば、現代日本が「先生」を社会的に位置づけることができていない、
ということなのでしょうか。
「先生」が「先生」であるには、個々の人格や能力は別として、社会的な「約束事」があって始めてその立場に置かれるのでしょう。
それは先生だけでなく、「生徒=学生」、「親子」、「友人」、皆、社会的な位置づけが宙ぶらりんになっているのだと思います。
(中村君も、もうすぐある日を境に「先生」になります。)
我々「サラリーマン」もまた、その位置づけを自己認識できていないとのご指摘は、非常に耳が痛いことです…。
組織に頼らず、個々の資格能力に頼る風潮の一端であった士業ブームもまた、ロースクールとアカウンティングスクールの
失敗によって日本に馴染まなかったことが露呈されて終わりました。
ではどうするのか?
明確な答えが無いまま、組織の一員として目先に追われています。
まずは、そうであることを自覚したいと思います。
⇒佐々木君、大怪我をしていたこと、全く知らなかったが、大丈夫か?
治ったから除去手術をしているのだろうが、大事にしてくれ。
だからと言って、ブリッジで敵となっても、容赦しないぜ(^_-)
毎回レスしてくれているが、ウレシイ。
読んだら、何か浮かんでくる。
それを文字にする行為により、「思考」となるのではないか?
君は、読んだことから必ず何かを学んでいるだろう。
敬意を表したい。
⇒三戸先生、ご心配いただきどうもありがとうございます。
100%私の不注意で…。
ブリッジでは足を労わって乗る側になるよう集中いたします。
仰る通り、誰かに話したり(液体)、書いたり(固体)しないと、考えたこともいつの間にか消えてしまいますね。
普段は面白かった本の内容を会社の同僚に話してメモ代わりにしております。
今後も書く癖を継続します。
○大内(2期)
なぜ三戸先生の研究室が「留学生に人気があるのか」と考えていて大変大きな気づきを得られましたので書き込みさせていただきます。
「留学生」を「彼ら中国からの留学生」と変換なさっていたのが気づきのきっかけで、そもそも本当のところは「中国からの留学生の中で、真に学問がしたいが国内ではその環境に出会えず日本に活路を見出すべく「留学」してきた人」と変換すべきだ、と考えたときに、アッと思った次第です。
いっしょくたにくくったら誤るな、と。ピンからキリまであってその差は膨大なのはわかっているのに<ニュースを斜め読みして、やれ「空港で騒ぐ」「突然学校から職場から姿を消し・・・」「日本車に火をつける」という、一部、一人の行動が全体のように理解している自分です。日本国内あるいはもっと狭い、会社内、営業所内、サークル内では「多様性」があってなどと解釈しつつ、くくりが広くなれば当然多様性も大きくなるはずなのにそれを無視している。
「国」などという巨大なくくりの危うさ、それに無意識だった自分を再確認し、恥ずかしくなった次第です。
○日々野15期(12:51 2016/02/14)
法治国家であれば「赤の他人」とはいえ害するようなことはしないはずであり、
その意味において、共同体や「縁」の必要性を人々が感じなくなったといえるのでしょうか。
個人主義の拡がりもあって、縁を重んじなくなってしまった結果、
自身にしか関心を持たず、他者や社会に対して関わろうとしない生き方は寂しいと感じますし、
そのような社会・集団は、激しさを増す環境変化に対応していけないと思います。
「公助」の限界が明らかになり、「共助」や「相互扶助」(もっとくだいて言えば、個人が、自身だけでなく周囲や他者を助けること)
が充実した社会であってほしいと思うのですが、
そのためには共同体であったり、縁が前提としてなくてはならないのだと、ようやく気付けた思いがします。
竹田君も書かれていますが、地方で地域密着型の仕事・生活をしているものとしては、「地縁」の可能性を考えてみたいと思います。
○1期古郡です。
最近は中国向けCMを日本で政策することもあります。
どうも高価なものは日本より中国市場で売れる、という風潮のようです。
広告を作る際にはどんな表現が受け入れられるかをさぐるためマーケット資料が作られます。
特定のモノを売るためだけの資料なので正確ではないし実情は違うかも知れませんが、
ずっと見ていると日本との意識の差が垣間みえてきます。
中国でも都市部は核家族化が進んでいます。
形としては村落共同体、家が崩壊していますが、その中にあった絆の意識や目上の人を敬う意識は変わらないようです。
効く広告表現としては以下のような感じが求められます。
「この大型車は祖父母を乗せて一緒に旅が楽しむことができます」
「この高級車は成功した家長(お父さん)がかっこよく乗るためのものです」
こんな方向性は日本では一切目にすることがありません。
日本によくある尻に敷かれてしんみりするお父さんに共感してもらう、みたいなものは中国では少ないようです。
また70后80后(后は年代生まれ)が新たな購買層として育ってきましたが、その意識は
「一人っ子政策で親に大切に育てられたと自覚している世代」
と想定されていて、ここにも世代間をまたいだ意識が見てとれます。
社会の形が変化しても家の内と外を区別する意識はあまり薄れず、目上の人への敬意もしっかり
伝わっている印象があります。そんなこともあって「先生の日」「先生への敬意の表れ(お土産)」があるしれません。
日本は経済が急速に発展したのははるか昔、それを支えた世代はすでにリタイアに差し掛かっています。
それに対し中国はいま、眼の前にいる人がリアルに経済発展を支えている世代です。先人の知恵をありがたく、
尊いものと感じられる機会は多いでしょう。
大事なのは日本も中国も社会の形がどう変わってもこれまでの社会を作り上げ、知恵を蓄積し、
それを系統立てて教えてもらうことに対して感謝を忘れないことです。
【saigokougi2】