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森一族もオリオンに導かれたのでしょうか…
岩屋城 (2516)投稿日:2009年06月22日 (月) 23時32分 返信ボタン

うききさんの疑問は、戦時中の海軍将校にあんな沢山長髪の
男が居たのか!ではなくて、やはりラストのあの有り得ない
敵前の総員退去シーンでしたか。あれでは総員溺死か捕虜し
かないですが、後者は当時はまずないでしょう。普通の艦長
なら最後の1本の魚雷を命中させ敵艦の艦尾を粉砕した後に
止むを得ず浮上したなら衝突して相討ちを図るところですが
倉本艦長であれば万策尽きた後は、敵の艦長の顔を見たうえ
で総員で海中に飛び込み最期を迎える気だったのでしょうか
ね。
ところで、↑で書いた「敵タンカーを魚雷で撃沈した直後に
敵の護衛艦の目の前に浮上…」したのは、伊77が護衛駆逐
艦パーシバルとの初遭遇のシーンでして、ラストのベント弁
操作不能ではなくてまだ完全状態の時だったんですよ。

対潜攻撃をする僚艦もいない単艦のあの状況の下で救助停止
という大ポカをやらかしたスチュワート艦長は決して名艦長
ではなく、また一方、小口径の艦砲でも1発受ければ沈没の
リスクを負って敵艦の至近距離にノコノコ浮上した倉本艦長
も名艦長とは言えないとも思えましたが、映画ですからね。 
この映画のモデルとなったのは20年7月末にテニアン島へ
広島長崎原爆を輸送した後にレイテへ向かう米重巡インディ
アナポリスを撃沈した伊58でしたし、その乗組員からも潜
水艦関係のアドバイスを頂いた様です。
そうでしたね、「オーケストラの指揮者になりたかったんだ」
でした。「のだめ…」は私は観たことないのですが、玉木さん
はそれが持ちネタだったんでしょうか?

色々書きましたけど、ほんと良い映画だったと思いますし、
レンタル化されたら、また観ます。

□毛利元就はオリオンに導かれたかった戦国のヒト?/うきき (2517)投稿日 : 2009年06月23日 (火) 23時12分

 明解なご回答ありがとうございました。岩屋城さま。

 髪の毛はもうツッコんじゃいけない領域だと知っていたので…考えませんでした。

 私がつい、くり返している「オリオンよ森を導いてくれ。」は倉本艦長のセリフまんまです。水雷科の森さん@水葬シュポーン!!に対してのセリフでした。

>倉本艦長であれば万策尽きた後は、敵の艦長の顔を見たうえ
>で総員で海中に飛び込み最期を迎える気だったのでしょうか
>ね。

…回天搭乗員にとってはヤな展開ですねぇ…。
艦長に「もったいない。」「実にもったいい。」と言われたまでは、なんだか私もかっこいいと思いましたが、
「回天の整備員に点検させてくれ(思わせぶり)。」「回天の酸素おいしー!君の言葉がヒントで思いついたのアリガト!(ほぼ厭味)」というのはイラッときましたね。
 ああいうイライラ展開を繰り広げられて、回天に乗せてもらえなかったあげくに、敵艦に潜水艦ごと突っこんでももらえず…「離艦!離艦!」…て、回天搭乗員可哀想…。

>まだ完全状態の時だったんですよ。
失礼しました。その辺の記憶が飛んでました。

>。「のだめ…」は私は観たことないのですが、玉木さん
>はそれが持ちネタだったんでしょうか?
玉木さんは、「のだめ」では、千秋先輩役でオーケストラ指揮者やってます♪
あーあ、みなまで言ってしまいました♪

とにかく、映画、重すぎすによかったですね。

□夏の早朝のオリオンは高校時代に新聞配達してた頃、よく見てましたよ!/岩屋城 (2518)投稿日 : 2009年06月24日 (水) 20時38分

レスするつもりが間違って、又もや潜水艦スレッド立ててしま
い失礼しました〜。
…で、玉木艦長は「のだめ」ではオーケストラ指揮者やってた
んですか!重厚なストーリーの中に遊び心を入れた脚本の先生
は偉い!
「オリオンよ森を導いてくれ…」そのヒトが森さんであること
が何かの縁なのかもですよ。さらに回天特攻隊員のリーダーは
遠山中尉で、吉田栄作の部下のクールな機関科員は有馬でした
し、原作者は戦国江戸期の日本史好きなのかも。
回天特攻隊員は、究極の苦悩の末に死の意義を見い出し納得し
潜水艦で出撃の途についた故、生き残ってしまうという選択肢
は有り得ない心情でしたでしょうが、戦後生きてて良かった!
と必ず思ったはずであり、死ななくて良かったです。

玉木さんの倉本艦長はこの映画では海軍兵学校の成績は悪いが、
奇想天外な発想が出来るキャラでしたから「回天の酸素おいし
〜!」とかの演出があったんでしょうかね。一方、海兵同期の
親で、戦死する伊81の有沢艦長は海兵での恩賜の短剣組の超
秀才という設定。ただ、この点は余り描かれませんでしたね。

戦時中でも陸軍と違ってリベラルな(?)海軍将校は長髪は許さ
れていて、陸上勤務の方は勿論、軍艦にも長髪の士官も居た様
ですよ。

で、次回の潜水艦連載は趣きを変えて、戦前から潜水艦乗りを
ビビらせた、「潜水艦「3」の呪い」について紹介しましょうか。

□潜水艦スレッド、いくつ立ってもOKです(^u^)/うきき (2519)投稿日 : 2009年06月24日 (水) 22時53分

 岩屋城さまも夏のオリオン座をご覧になったことがおありなのですね〜。でも、ご存じのように天空におけるオリオン座は自分を殺したサソリ座(夏の星座)から逃げて天の真反対にいるという設定なので、映画のように導いている場合じゃないかも知れませんね。…とはいえど、インパクトの強い形状の星座としてはナンバーワンの星座ですね。
 オリオンの三ツ星は海の守護・住吉三神にも擬せられて航海の神様でもありますので、もともと潜水艦とは縁の深い存在かも知れません。

 あ、もう一つ質問ですが、海軍の皆さまは普通にモールス信号をご存じなのでしょうか?パイプをスパナやらハーモニカやらでガンガンとやってましたけど。モールス信号、小難しそうで教わっても私にはわっかんないだろうなぁ…。
映画では、原文イタリア語だというのに、なんの齟齬もなくモールス信号で日英語で対応できてつらつらと「オリオンよ…」と訳せてしまう彼らはすごい。
 しかし、玉木さんはもう一本別の映画でも主役はってんですね。すごいなぁ…。

潜水艦3の呪い、よろしくお願いします!φ(^O^)/

□「3」/岩屋城 (2520)投稿日 : 2009年06月27日 (土) 11時58分

海軍の兵科では海兵団でも将校養成の兵学校でもモールス信号は
基礎として覚えさえられていた様です。それと手旗信号も。

日本海軍の潜水艦乗りは、3や3の倍数などを不吉な数字として
嫌っていました。乗組む艦が3や3の倍数であると悔やみ、それ
でないとホッとしていたそうです。元来船乗りはゲンを担ぐ風習
はありますが、この潜水艦の3はやはり不思議です。
艦番号が3の倍数の潜水艦は戦前から不慮の事故が多いといわれ
戦前で代表的なのは昭和12年に豊後水道で発生した、伊60と
伊63の衝突沈没事故。不幸な偶然が重なり、夜間艦首と艦尾に
規則通り灯を点けて停泊していた伊60に、その2つの灯を別々
の漁船と勝手に勘違いした伊63が直角に激突。伊60は瞬時に
沈没し、死者81名(3の倍数)を出しました。

その他もありますが、戦時中で有名なのは、強烈なダブル「3」
を艦名に持つ伊号第33潜水艦。昭和17年夏に竣工し、トラッ
ク島基地に進出するやその翌日にサンゴ礁衝突で損傷し、工作船
に横付け修理中に傾いて艦上のハッチから浸水という信じられな
いアクシデントでそのまま水深33mの海底に沈没。この事故で
の死者33名。
3ヶ月後に引揚げ内地へ曳航し、呉で修理したのち、昭和19年
6月に瀬戸内海西部の伊予灘で急速潜航訓練中に又しても機関室
に浸水して60mの海底に着底。潜航時に木片が機関室送風弁ハ
ッチに挟まるという通常有り得ない偶然の災禍でした。海底で酸
素が尽きる迄、乗組員はそれぞれの持ち場でこの事故の推測され
る原因と改善点を遺書として記して亡くなっていました。最後の
脱出手段としてハッチを開放、乗員2名のみ生還したのですが、
艦長以下102名が死亡。 
※以上、正式記録の水深、死者数はすべて3の倍数。(トラック島
、瀬戸内海いずれの事故も)
さらに、3の因縁は続きます。
終戦から8年経ち世情もやや落ち着きを見せてきた昭和28年7
月、この伊33の引揚げが行われました。浮きを付けて浮力を与
え、尾道(因島)まで曳航して、潜水艦内部に入ったのですがその
際前部魚雷発射室に入った元海軍の技術関係の方3名が悪性ガス
の中毒に倒れ亡くなりました。尚、この前部魚雷発射室は、全く
浸水しておらず酸素は乗員が吸い尽くしていた為、この部屋にい
た乗員13名全員は9年経ってるにも拘らず腐敗もなく、まるで
眠っている様に各自整然と兵員ベッドに横たわっていました。
艦長は復旧不能と判った際、、酸素を余計に消費せぬ様、また見
苦しい姿を残さぬ様、総員ベットで横たわって死を迎える様指示
し、乗組員は皆ベットに横たわり従容と死を迎えた様です。

この伊33の話しは吉村昭の作品「総員起こし」で本になってます。
乗組員の遺書の一部を掲載してありましたが、家族向けではなく
この事故の原因と再発防止の提言など、他の潜水艦仲間と日本の
将来を思う内容が多く使命感の強い男達だったのだ、と思ったも
のです。
でもここまですべてが3に絡んでくると不思議なものです。
「真夏のオリオン」で親友・有沢艦長の乗艦である伊81は壮絶
な最期を遂げましたが、この艦名(艦番号)も3の倍数でした。

□さんざんの3/うきき (2521)投稿日 : 2009年06月28日 (日) 01時13分

 すごい力作をどうもありがとうございました、岩屋城さま。
こんなサイトのBBSに書きつづっていただけるとは本当にありがたいです。

ご存じのように「死」につながる「四」はゲンを担ぐ武士にも嫌われてたとえば書状に書く四月でも「四」の字を書く代わりに点を4つチョンチョンチョンチョンと打つようなことが行われていましたが…。海においては「3」なのですね。
 この「3」の数字は偶然か必然か…拝読するに度重なるエピソードがすごくてゾッとするほどですが、何よりも乗組員の方々は痛ましい思いをなさったのですね。
 密室で酸素を吸いつくす世界なんて考えるだけでも…苦しいです…あぁ、やっぱり絶対に潜水艦の乗組員にはなりたくないです。

>まるで眠っている様に
「出口のない海」で、回天の中で主人公が腐敗してなかったのが「えー。」と思ったのですが、そのお話を伺って、不自然ではなくなりました。そっか…腐敗しないのですね。

あと、乗員2名のみ生還のくだりが驚きました、潜水艦から出て生き延びる…そういうこともありあえるのですね。肺が爆発しないように苦しみを押さえてじんわりと上昇しなくてはならない(?)…グランブルーの世界までも思い出してしまいました。

 それにしても、遺書…最後まで大多数の利益を考えて尽くす…泣ける話です。

□艦の運。/岩屋城 (2522)投稿日 : 2009年06月28日 (日) 19時38分

恐れ入ります。書き始めるとついつい力が入ってしまいました。
潜水艦乗りは「3」を忌み嫌ってましたが、他の艦種の将兵は
何ら関係ない3でした。他の艦にはちゃんと名前がついてます
からね。ただ、駆逐艦などでも事故で沈んだ艦の名前は縁起を
担いでその後終戦まで同じ名は付けなかった様です。
フネは、その誕生の時=進水式で不祥な事が起きると完成後に
不運な命運を辿る…というジンクスがありまして、戦艦大和型
の3番艦として起工され、途中から空母に変更されて完成した
当時世界最大の空母「信濃」は進水式の際に考えられないトラ
ブルに見舞われ、竣工直後、呉へ回航の途中でアメリカ潜水艦
に襲撃され、完成後わずか10数日で沈没…。その横須賀から
の航海途中も不運が連続して被雷し、退避の際も不運な不手際
が続いた為に被雷から相当時間後に沈んだにも拘らず1500
名も水没するはめに。
逆に、奇跡的な幸運が危機の度に連続した遂に生き残った駆逐
艦「雪風」を始め不思議な幸運艦もあり、やはり「運」という
はヒト同様ある様です。

□畝傍はどこへ…/うきき (2523)投稿日 : 2009年06月30日 (火) 02時14分

岩屋城さま:
 私としたことが…「3」は潜水艦乗りさん限定のアンラッキーナンバーなのですね。おほほほほ。(^_^;)
今でも自衛隊の潜水艦乗りさんは3嫌いなのかしら…。
でも、そういうエピソードを知っていたら、今の潜水艦乗りさんにとっても気持ちのいい数字ではないでしょうね。

信濃の悲劇は私も何かで読んだことがあります。
でも、進水式って完成前にやるもんなんですか…存じませんでした。(+_+)…そっか、出来上がって初めて浮かべてみて浮かばずにクルンとひっくり返ったりしたら、それこそ苦労が水の泡ですもんね…。
でも、その信濃、1500名もの多くの方々が水没とは…すごい単位ですね…想像を絶する人口…。
 そう言えば、潜水艦の艦長はは、戦艦の艦長と違って、艦と一緒に運命を共にする義務はなかったのでしょうか。オリオンでは倉本艦長は「離艦!離艦!」って言って率先して潜水艦から出て行こうとしてた気がするので…。あの時の行動のはやきこと風の如しでしたが…ほんっと、どこへ離艦すんだいっ!…って感じでした。潜水艦は駆逐艦みたいにある意味消耗品レベルだったのですか??


あ、話が変わって失礼します。
先日初めて安楽平城跡に登りましたよ。地元の方に教わった登山口から行くと、道跡がよく判らなくって木に巻いてあるテープを頼りに藪をかき分けて進むような感じでした…。帰りは奇麗な階段が施してある登山道を進みましたが、どの登山道が一番よかったのでしょうか…いや、もう行かないでしょうけど…。山頂付近一帯はチョコボールのような丸い巨石がゴロゴロしていて不思議な感覚でした。

□あらひら/岩屋城 (2524)投稿日 : 2009年07月05日 (日) 11時28分

うききさん、安楽平山城に登りましたか!
福岡市博物館の常設展示特別展を見てあったので恐らく
登られるとは思ってました。北西の重留から登ったので
すね。違う道から降りて親切な方に救ってもらえて良か
ったですね。でも山で道を間違えるとほんと危ないです
から気をつけてください。
私も4回程登りましたが、初めて登ったのは歴史仲間と
十数年前のことでしたが、私の母系の先祖がこの小田部氏
と縁があると本で知ったのはその数年後でした。私は4回
とも南東の脇山側の、城の原からの正面道(?)から登りま
した。その麓は昔は荒平城下町で、そこから車の幅ギリギ
リのコンクリート道を進み「城主小田部鎮元自刃の地」の
すぐ上が道の終点で数台車も停められます。ここは小田部
鎮元公の自刃の地ですが、この道の登り口の荒平神社にも
碑の様に大きい御墓があります。
道を上がって車を止めたとこからは20分余りで山頂に着
きますが、山城址だけあって登山道は攻めにくく造ってあ
って巨石ゴロゴロで結構険しい登山道ですね。 福岡の某
老舗百貨店の元創業者一族の先祖は小田部鎮元公の筆頭家
老でした。
この城も大友家が日向耳川(高城)合戦で大敗した後の混乱
を、龍造寺につけこまれて攻められ陥ちた城でした。
嗚呼、大友筑前支配の瓦解…。

進水式は、フネに上部構造物を付ける前の、船殻・船体構
造が完成した頃に執り行います。海に浮かぶフネを造るう
えで大変なのはここ迄で、その後は進水後に「艤装」といっ
て艦上にブリッジ等の建物や煙突などを建て、光学機器や
各種兵器を搭載するんです。
で、進水式は大和クラスともなると大変で、特に長崎港の
三菱造船で造られた武蔵の進水式は、湾内に滑り込ませる
方式であった為、突然排水量6万7千トンの巨艦が海に入
った長崎港は一気に海面が上昇し、洪水状態になってしま
ったとか。呉の大和の進水式は長崎の武蔵とは違い、海水
を逆に流し込む方式であった為、それはなかった様です。

今の海自の潜水艦は番号ではなく名前が付いているんで「3」
伝説はないでしょう。
潜水艦も駆逐艦と同じく、種別上は軍艦ではなく特務艦艇
でしたから、やはり大量生産・消耗でした。
軽巡洋艦以上は軍艦でその長は艦長でしたが、掃海艇や駆
潜艇などと同様に特務艦艇である潜水艦・駆逐艦の長は潜
水艦長・駆逐艦長であり、艦長に相当する所轄長は数隻の
艦を束ねる駆逐隊司令などの司令でした。
軍艦と特務艦の簡単な見分け方は艦首の菊の紋章の有無です。

戦闘艦艇で艦長がフネに残る、或いは最後に離艦の「キャプテ
ンラスト」はイギリス海軍の伝統で、明治初期からイギリス海
軍を先生として大きくなった日本海軍は武士道気質と相まって
それが受け継がれました。一方、アメリカ海軍は司令官や艦長
などの優秀な人材の喪失を大損害と見る合理的な考え方でした。
ただ、日本もイギリスも戦艦や空母の司令官や艦長はフネと運
命を共にする義務は決してありませんでしたが、マレー沖海戦
での戦艦プリンスオブウェルズのフィリップス中将、ミッドウ
ェーでの空母飛龍の山口司令官と賀来艦長、レイテ沖での空母
瑞鶴の貝塚艦長、そして大和の伊藤司令官と有賀艦長など、総
員退去時の部下の離艦の勧めを断りフネに残り運命を共にした
方は居られます。また逆に無傷のフネに移って指揮を継続する
という理由で司令部幕僚共々乗員を残して真っ先に違うフネに
移ってその戦いの後も永く活躍した司令官や、一方その時の状
況で止むを得ず離艦したにも拘らず、その後予備役で閑職に廻
された戦艦や空母の艦長も居られます。

福博の街は山笠の飾り山で賑わってますね。今年はやはり大河
の直江兼継モノが多いです。毎朝前を通る博多口のもそうです。
それから今月19日は南北朝期の菊池武光と少弐氏との大合戦
「大原合戦」から丁度650年。リバレインの飾り山になって
ます。

□愛のヒト人形が博多に…/うきき (2525)投稿日 : 2009年07月07日 (火) 00時54分

 岩屋城さまの今までの登城道は、ちょうど私が山を下った時に歩いた道のようです。
帰りには駐車場らしき一角と「自刃の地」がありましたから。
福岡市内でも、悲劇的な合戦があったんだと、何だか不思議な心地がしてしまいます。
城郭講座を受講した時にスクリーンでみた安楽平城の石垣がどれなのか分からずじまいだったのが
残念ですが。
小田部氏の屋敷跡撮影画像もスクリーンで見ましたが
「この駐車場のヘリっぽいのが当時の土盛りと思われます。」
って「言われなきゃ絶対そんなのわからない〜!!!」ってツッコミいれずにはおれない遺構
でした。


戦艦についても、詳しすぎる解説をどうもありがとうございます。
全てが艦と運命を共にするのは義務ではなかったのですね。
色々なパターンのご紹介ありがとうございます。
俺だけ離艦ってのは何かイメージしたことがなかったので意外でした。
しかしどうして岩屋城さまはそこまでお詳しいのでしょうか…改めて「すごい。」の一言です。
現在の戦艦の艦名はひらがな文字ばかりのように記憶しておりますが、昭和のイメージを切り離すためでしょうか…。

山笠の飾り付け、私が一番気になるのは福岡ドームの「長久手の戦い」です。
どうやら森長可人形もあるようなので見に行かなくては(義務)。

「真夏のオリオン」観たあと編・スタート
岩屋城 (2514)投稿日:2009年06月21日 (日) 18時06分 返信ボタン

今日の昼、近くのイオンモールにチャリで行き「真夏のオリオ
ン」観てきました。ここの映画館は初めて入りましたが、数多
くあるシアターでも予想外に小さいシアターが割り当てられて
いたのが…。(大和の映画のときとは大違い)
総じて、良い映画でした。丁寧に作った作品…という感じがし
ます。潜水艦乗組員がハッチをくぐり抜ける所作や魚雷を吊す
チェーンの動かし方、セリフのアクセントや省略(メインタン
クブロー→メンタンブロー)など、スタッフは当時を相当検証
して作品を作ったんだろうなぁ、と思いました。
潜水艦が主役の映画はかなり昔(S40頃?)あったと思いますが
最大の敵である駆逐艦との一騎討ちは日本映画としては初めて
かも。ロバート・ミッチャム主演の有名な米独共同製作の映画
「眼下の敵」を彷彿させました…が、単なる戦争映画ではありま
せんでしたし、また大詰めまで随所に見せる頭脳戦、特に最後
まさか回天を無人で射出し2基並走させて伊77と誤認させて
敵艦をつり出すなど予想外の面白い展開でした。

ただ、そんなん実際は有り得ね〜、も幾つかありました(笑)
伊77も爆雷で沈んだ伊81も潜水艦が水圧で圧壊する寸前
の水深160m位の海底に着底してましたが、舞台である沖
縄南東沖は、そんな浅い海域ではない。また、敵タンカーを
魚雷で撃沈した直後に敵の護衛艦の目の前に浮上するなどの
自殺行為は有り得ず、救助停泊中を撃沈するのは必定。また
米艦も敵潜水艦が近くに居て当方単艦の場合は停止などしない。
また、ラストで浮上して敵前総員退去を命じ、米艦も悠長にそ
れを待っててあげてるとこ(…で大洋で島もなくボートもない
潜水艦からどこに退避するんだろ)。それと回天特攻隊員は
中尉でしたが袖章は大尉のものだった…。

潜水艦の居住性の悪さと、他のフネにはない戦いの際の苦悩
と酸素残量との戦いは余すとこなく描かれてました。
ところで、倉本艦長が、のだめカンタービレのネタをやって
たんですか!映画の中で艦長が「…冗談だよ」って言ったの
は覚えてますが、その前に何を言ってたのかが思いだせんの
です。何て言ってたんでしたっけ?
それから、私に訊きたいことって何でしょうか。

□「オリオンよ森を導いてくれ。」/うきき (2515)投稿日 : 2009年06月21日 (日) 23時50分

 岩屋城さま、ほとばしるような感想文どうもありがとうございました。
映画の大和は沈むのわかってたのでアレなんですが(というか私はストーリーより戦艦を観に行った感じ)、今回のようにドキドキハラハラがあると面白いですね。

>また、敵タンカーを
>魚雷で撃沈した直後に敵の護衛艦の目の前に浮上するなどの自殺行為は有り得ず

 なんかどこかがどうしても修理ができずに、しかももう回天が搭載されてない(?)ので上昇を始めたらもうこの艦は海面に浮上してしまうのであのミサイル一発勝負で敵艦をやっつけないとみんなお終い…とかいう雰囲気だった…というのは私の勘違いでしょうか?(+_+)でも、一番ヤバいとこに浮いちゃいましたね。浮いたとしてもせめて陸に向かって逃げればいいのに。

 私には判りませんでしたが、知識のたくましい岩屋城さまにはツッコミどころ満載でしたね。
でも肝心の「のだめ」を覚えてらっしゃらないのですね…(^u^;)
艦長はハーモニカ少年に自分も音楽が好きみたいなことを言い初めて「オーケストラの指揮者になりたかったんだ。」と一言。その後に笑って「冗談だけどね。」と締めくくってました。
館内で私ともう一人だけがブハッと噴き出してしまいました。

 お尋ねしたいことは、ラストで潜水艦が浮上した時、「離艦!離艦!」と言ってピョンピョンと艦の外に出てきましたが、ボートもないのにあの後みなさんはどう離艦する気だったのでしょうか…。
マイクも「離艦の時間をやれ。」みたいな感じでしたが、何待ち????
…というのが質問ですが、岩屋城さまも同じ所にツッコミ入れてらっしゃるので、やっぱり明らかに変なんですね。
 結局、「オリオン」のエピをもってくるために無理矢理に敵同士がわかりやすくご対面シーンに持って行ったということなんでしょうか…。

真夏のオリオン
しまちゃん (2504)投稿日:2009年06月07日 (日) 13時29分 返信ボタン

 お久しぶりです。原作と真夏のオリオン、両方を息子に買わされた私です。そして、同じとところに「絵本真夏のオリオン」が・・・。手にとった息子が、「すっげぇ!このはしょり!!」うぅ、しかも絵は、潜水艦が鯨のような、灰色の楕円形・・・。絵本になってまで、感動を届けてくれるのでしょうか!?

□真夏のオリオン/うきき (2505)投稿日 : 2009年06月08日 (月) 20時11分

 昨日まで兼山に行っておりました、しまちゃん様。発掘して表面に現れた金山城の石垣を眺めつつ、これは森忠政が改修したのかな〜などと考えて城跡に立ちました。

 「真夏のオリオン」。そもそも星が好きで、落ちこんだ時に何度も星空に励まされたことのある私は、なんか、タイトルだけで胸に響きます。
 「真夏のオリオン」公式サイト「GOODS」を見て、しまちゃん様のおっしゃる絵本ってこのことか〜。と判りましたよ。星空メッセージボードというのがありましたが、みんなが励まされた一言が書いてあって良かったです。
 早く映画で堪能したい!!!

□サブマリン話 その1/岩屋城 (2506)投稿日 : 2009年06月11日 (木) 21時09分

しまちゃんさん、お久しぶりです。
おっ!「真夏のオリオン」で盛り上がってますね、うききさん。
ワタシ的には、日本海軍の潜水艦は乗組員の悲愴さがまず先に
来てしまいます。潜水艦は普通の方はいつも潜ってるイメージ
を持つ方が多い様ですが、潜航してるのは作戦行動の時のみで
通常は戦時中でも船と同じ様に洋上を航行するんですよ。
洋上航行はディーゼルエンジンで走りますが、潜航中は電池で
モーターでスクリューを廻します。もし潜航中にディーゼルを
使ったら、乗組員は即酸欠死です。電池には限りがありますか
ら、潜航の後は、必ずディーゼルで敵に見つかり難い深夜に
洋上を走って電池を充電せねばならず、大戦前半はそれで良か
ったものの、アメリカ海軍が性能の良い対艦レーダーを開発し
た大戦後半は、かなり遠くからでも深夜洋上を走ってバッテリ
ー充電してる日本潜水艦を、的中率抜群のレーダー射撃で一瞬
にして葬るのが簡単になり、闇の中で誰にも看取られることも
なく、殆どの日本潜水艦は太平洋に沈んでいったんですよね。
潜水艦乗組員の死亡率は、海軍艦船乗組員の中でもダントツに
多く、潜水艦乗りで生き残った方の多くは、大戦の後半に異動
で海軍潜水学校の教官などの陸上勤務になった方が多いです。
この映画は終戦まで僅か10日前の話し、折角ここ迄生き残っ
た数少ない潜水艦なら、何とか生き残って乗組員は戦後を迎え
て欲しい…的な気持ちになります。まだ観る前だけど。

□その2もあるのですね!/うきき (2507)投稿日 : 2009年06月12日 (金) 00時03分

岩屋城さま、こんばんは。
梅雨入りしたくせに晴れあがってますね、福岡は。

潜水艦のお話ありがとうございます。
岩屋城さまの書きこみくださったお話を想像するだけで胸が締めつけられるようです。
基本的に「海の中」と聞くとまず呼吸の苦しさを思って自分まで
息苦しくなってしまったりしますが、海の底が死地になった方々は
どんなにか苦しく寂しかったことかと…。
恐るべきアメリカの攻撃を受けて亡くなった方々も、皆、普通の方々…普通の父や兄、弟だったのですよね。悲愴…。

日本の充電…とアメリカのレーダー。
あまりにも対照的なものですね。

映画は来週観に行けたらと思います。

□潜水艦/しまちゃん (2508)投稿日 : 2009年06月12日 (金) 08時50分

岩屋城さま、潜水艦情報ありがとうございました。なんだか、閉所恐怖を感じてしまうようなお話。呉で見学したあの狭い内部を思い出しました。ローレライでも、みなさん生き残っていたようなので、オリオンもそうあってほしいです。

うきき様
 私も兼山に行ってみたいです。夏には、阿修羅を見に行きたいし、職員旅行で熊本行きの話もでていたし、たくさん行きたい所が、脳内にピックアップされてきます。♪知らないま〜ちをあるいててみ〜た〜い

□オリオン座のベテルギウス縮小中/うきき (2509)投稿日 : 2009年06月12日 (金) 23時35分

しまちゃん様:
いつでもご案内しますよ、兼山!(^O^)/
阿修羅…想像するだけでも、すさまじい観覧者の群れにモミクチャにされて疲れてしまいそう…。

□その2もあるのです。/岩屋城 (2510)投稿日 : 2009年06月12日 (金) 23時50分

うききさん・しまちゃんさん、早速のレス有難うございます。
うききさん、遅くなりましたが、兼山への又してもの帰省、
お疲れさまでした。
しまちゃんさん、職員旅行で熊本行きの可能性もあるんで
すね。火の国・熊本は良かとこです。復元成った熊本城の
本丸御殿は今が旬ですが、私としては熊本市の10数キロ
北にある西南の役の最激戦地「田原坂」の史跡がお勧めで
す。阿蘇もよかばってん。

…で、私も今月中には「真夏のオリオン」観に行く予定で
す。 ちょっと潜水艦の雑ネタ知ってたら、より興味深く
観れるかも知れないんで、続きを書きます。

潜水艦の乗組員は、自他共に「ドン亀乗り」と称してまし
た。酸素も満足に吸えず、長い間太陽も見れずに時間感覚
がマヒし、空調はなくて常時高温で汗ダクのうえに風呂も
数十日入れず、100人もの男の汗と機関を動かす油と食
物調理の混ざった臭いが常時充満する中で、敵といつ遭遇
するかも知れず、泳ぎが得意であっても海上の軍艦の様に
脱出することは絶対に不可能な海の中での戦闘がいつ始ま
かも判らない状況の連続。100人の乗組員は一蓮托生で
ない緊張感が、母港に帰らない限りは永遠に続く…。

今の世なれば、誰であっても病気になりそうな環境です。

同じ海軍でも、先般の「男たちの大和」で観た様な巨大で
相当規模のいくさにならなきゃ沈まない巨大戦艦や空母の
乗組員とは環境が全く違いますが、それでも敢えて望んで
潜水艦乗組員を志願した将兵や、玉木君が演じる倉本艦長
の心理も今度の映画で描かれる様です。
当時の海軍であっても、潜水艦乗組員の辛さは海軍のおエ
ライさんも十分認識していた様で、太平洋での長い作戦行
動から無事に母港へ帰ってきたら、戦時中でも乗組員には
数日間交替での温泉ツアーがあったのです。横須賀軍港が
母港の潜水艦乗組員は熱海温泉、呉が母港の艦は湯本温泉、
佐世保が母港の潜水艦ならば嬉野温泉…などでした。
戦艦・空母・巡洋艦や駆逐艦で戦って帰ってきた、他の海
軍将兵にはない特別待遇だった様です。 潜水艦は基本が
単独行動で危険率が高く、また酸素が満足に吸える海上を
走る軍艦の将兵との違いと苦しさは、厳しい戦時中であっ
ても理解はされていたようです。日本でのひとときの温泉
に浸かった後に出撃して、定期無線連絡が途絶えて還って
来ない潜水艦も数多く、単独行動の為、最期の状況と場所
が未だに判らないままの艦が多い様です。  
 …では、その3に続く(笑)

□連載(嬉)!/うきき (2511)投稿日 : 2009年06月15日 (月) 00時49分

 長文をありがとうございます、すごく勉強になります。
…って、汗だくの男臭にまみれて艦内を想像してしんどくなりました。
基本的に海中は苦しいイメージしかないです。
良いことといったらマンボウと遭遇することくらいなもんじゃないですかね。

更に機械的で閉鎖感あふれる潜水艦にいたら病む…私なら間違いなく病む…

温泉もいいですけど、しんどい(艦内)→幸せ(温泉)→しんどい(艦内)の哀楽の激しいイベントの繰り返しって、一番に根を上げる拷問の手法と同じで却って精神的にきそうな気がしますわ…。
温泉につかったらもう、私は二度と艦内に戻りたくないので兼山に行…(天誅)


ときに潜水艦の伊。
玉木君くらいの年齢でも艦長になれるんですか?
早速、今週にでも映画を見れればいいですが…。

 どん亀と言えば、福岡出身の軍人・板倉光馬さんてすごいんですね。潜水艦を「昼間は水上航走、夜間に潜航」で敵のレーダーをかわし、帽ふれで味方のフリして弾をかわす!楠正成もびっくりですね。
その前にお酒に呑まれまくっとるやないかい!!
潜水艦に乗っている時に海に転落してますけど…。
というのもすべて↓wikiで得た情報ですが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%85%89%E9%A6%AC

□連載なんで連日レス(笑)/岩屋城 (2512)投稿日 : 2009年06月15日 (月) 21時26分

艦隊や戦隊単位で作戦行動する水上艦艇とは違い、潜水艦は
基本的に単独行動。勿論、戦隊や司令潜水艦は存在しますが
広い範囲の海域に哨戒範囲(持ち場)を設定され、事実上の
単独です。指揮官が近くの他艦に居て指示を仰げる水上艦艇
と違い、潜水艦長の判断の幅と責任は大きかったでしょう。

海軍のフネの艦長になれるのは海軍兵学校出身の将校だけで
す。海兵を21歳位で卒業して、候補生を経た後は、20代
前半で中尉、後半で大尉、30歳頃には少佐…。平時でもこ
れですから、戦時中は兵隊クラスは招集できても、指揮を執
る初級将校不足は深刻でしたから、尉官クラスの昇進は平時
よりかなり早くなってました。23歳位での大尉も珍しくは
なかったんです。(映画「男たちの大和」で長嶋一茂さんが
演じていた大尉(分隊長)は実在の方で、その年頃でした。)
30歳の潜水艦長や、30歳代前半の駆逐艦長も結構居られ
たんです。平時であればハンモックナンバー(兵学校の卒業
席次)で30代半ば以降は中佐止まり、大佐止まり、提督に
なる方、大将まで上り詰める方と、昇進速度は差がありまし
たが、大戦が始まった後は終戦まで生き延びる考えなど持た
いのが兵学校出の将校であった様です。
板倉光馬さんのこと、よくご存じでしたね。数冊本も持って
て大分昔に読みましたが、海軍将校でもうききさんがお書き
の様な行動が出来る(する)方は潜水艦や駆逐艦等の小型艦
に多い様です。戦艦や空母はめっちゃ規律厳しく、兵員の間
では「鬼の金剛、地獄の山城」等と呼ばれ規律の厳しさを恐れ
られてました(戦艦金剛,山城)。大和はもっと厳しかったで
しょう。その点、潜水艦等の小型艦は暑い時は艦長はじめ肌着
一枚で居っても誰も咎めんという艦もあった様です。
「真夏のオリオン」私も今週末に観にいきたいと思ってます。

ところで、一昨日は1ヶ月ぶりに「古処山」に3名連れて登っ
てきました。曇天で、山頂に近づくにつれガス(霧)は濃くな
り、山頂は生暖かい南風の強風の中で弁当食べてましたが、山
の9合目(標高800m辺り)の古処山本丸址は、霧に覆われ、
これまた幻想的でした。古処山はこれで未だ11回目でした。

□玉木艦長の「のだめネタ」がアドリブなのか知りたい…。/うきき (2513)投稿日 : 2009年06月18日 (木) 00時49分

 霧の中での古処山おつかれさまでした。
そしてまたすごく濃厚な戦艦情報ありがとうございます。
昔、岩村城跡で霧に遭遇しましたが、幻想的かつ、武者が出てきても何の不思議もない状態でした。山ってそういうミステリアスをいっぱい隠しているとこが魅力的ですよね。

 今日「真夏のオリオン」を観てきましたよ!面白かったのに、先入観からか観客がごく少数だったのが残念でした。10名ほどの観客も、戦争の映画を観にいらしたお年寄りか、玉木さんのファンの若者か、って感じでした。あの会場では私だけがきっと「潜水艦」が見たい人でした。
感想は映画を観ないと訳わからない程度のものを日記に書いていますが、自分が思ってたのと違って小気味よい映画でした(笑)。
続きは、岩屋城さまがご覧になってから語らいましょうネ。(*^_^*)
吉田栄作さんやドランクドラゴンの方もよい味出していました。
映画でも、岩屋城さまにいただいた予備知識が方々で役に立ちましたよ、ありがとうございます。


なるほど、玉木艦長みたいに、若くて潜水艦の艦長でも不思議はないのですね。
年上を使うこともあるでしょうから、なかなかに大変なお役目。
ひとつ、すごく質問したいことがありますが、岩屋城さまが映画をご覧になってからですね。(^O^)
楽しんでいらしてください。

岩屋城さまはオリオンの次は「劔岳 点の記」?
で、私は次は「蟹工船」?!

「秋月黒田鎧揃え」行ってきました。
岩屋城 (2492)投稿日:2009年05月24日 (日) 20時17分 返信ボタン

「秋月黒田鎧揃え」23日の昨夜、そして本日の本番、
両方行ってきました。
昨夜の前夜祭。鎧武者20数名が、松明を掲げ2方向
から秋月城址(梅園)へ行軍。松明の灯りで堂々行軍
する鎧武者は圧巻でした。秋月城址(梅園)には薪が
焚かれて武者達を向かい入れ、その後は秋月黒田家・
祈祷寺の現御住職による護摩焚き祈願。荘厳な雰囲気
の中、20時半に終わりました。杉の馬場から城跡へ
の暗い道の両側には蝋燭の竹灯篭が等間隔に灯ってお
り、幻想的な秋月でした。
で、今日の「鎧揃え」当日。
13時に目鏡橋から70名以上の鎧武者が行軍を始め、
その行列中央には、秋月黒田家15代長幹公,16代
長稔公(10歳)が、馬上にて藩侯父子として光彩を放っ
てました。大勢の沿道の観衆の中を進み秋月の商家を
通りを抜け、杉の馬場を進み、秋月城址(梅園)に入り
14代ご当主長榮公と共に、曼幕前での鎧兜の武士団
に拝謁の儀。それぞれの番隊長への献杯そして、家臣団
への訓示・鬨の声。華やかさの中にも荘厳に行われました。
ほんと素晴らしい催しでした。60年ぶりに執り行われた
日本三大揃えのひとつ「秋月黒田鎧揃え」。私も実施され
た実行委員の方々には感謝している者のひとりです。
今日は大学生の長男と行き、長男は専ら写真を撮り、私は
ビデオを撮ってました。先ほどビデオを見ましたが、すご
いものだと再認識しました。

隈部館の主、隈部親永は、あの肥後国人衆の首領的な方で、
佐々成政の検地に他の国人衆と共に反乱を起こし、佐々さん
は治められず秀吉激怒で尼崎にて切腹…。 その後は新たな
支配者である加藤清正と加勢の立花宗茂ら西国大名によって
最期を遂げます。

沖ノ島の5月27日は、日本海海戦を記念してのことの様で
す。上陸する男子は裸で海水で禊をしての上陸が必須の様で
あります。




□おかえりなさい♪/うきき (2493)投稿日 : 2009年05月26日 (火) 01時26分

わー♪
詳細なレポートをどうもありがとうございました岩屋城様。
その場面折々の素晴らしい光景が目に浮かびます。
得に夜の武者の行軍というのは幻想的でしょうね。
それにしても2連チャンでお出かけとはすごい熱意ですね。

>日本三大揃えのひとつ
そんなのあるんですカッ!!それはいつ命名されたのでしょうか。
Σ(゜□゜;
ちなみに…あとの2つは何?
信長関係あり??

>長男は専ら写真を撮り、私はビデオを撮ってました
撮影父子Ww


>隈部館
もしかして以前、岩屋城さまが「(血のように)赤い躑躅でいっぱい」とお話くださった場所でしょうか?
違ったらすみません…。


>沖ノ島の5月27日
明日ですね。ニュースをチェックします!
そういえば、福岡にもとうとう新型インフルエンジャ患者が出現しましたね。
会社からマスク指令が出てしまうのかしら…。
世の中、過剰なほどに神経質すぎる気もしますが、私が発生源にならぬように、手洗いうがいはちゃんとやってます。

/岩屋城 (2494)投稿日 : 2009年05月26日 (火) 23時11分

有難うございます。
「秋月黒田鎧揃え」は素晴らしいものでした。
福岡の民放のニュースでも流れていたと聞きました
というか、私が幕前で藩公が鎧兜の武士団に拝謁の儀を
ビデオ撮ってる左横で福岡民放2社
のカメラマンが並んで撮ってました(汗)。

http://sites.google.com/site/kurodayoroisoroe/

/岩屋城 (2495)投稿日 : 2009年05月26日 (火) 23時42分

◆手違いにて途中で送信された模様にて、続き…(汗々)

…で、↑のサイトは、この催しのHPでして、この中の
「鎧揃え前夜祭画像」と「鎧揃え画像」をご覧いただけれ
ば概要が分かると存じます。拙者の拙い写真よりも解かり
易いでしょう(笑)

隈部館の件、よくぞ覚えていてくださいました。
仰せのとおり、「(血のように)赤い躑躅でいっぱい」と
書いた処です。以前、初めて探訪したのが偶々5月初めで
あったのですが、広い隈部氏の館跡地の入口から奥までの
すべてが真っ赤な躑躅で染まっていたのが印象に残ってい
ます。その他の色の躑躅や別の種類の花が全くないのは、
何故かなとも思いました。
佐々成政さんと肥後国人衆との激戦地や城跡も探訪しまし
たが、探訪して実情を知るにつれ、当時の肥後の地を治め
るのは佐々さんでなくとも大変だったと思いましたよ。

そういえば、明日は104年目の日本海海戦記念日ですね。

/岩屋城 (2496)投稿日 : 2009年05月27日 (水) 00時21分

うききさん、ご質問の回答を忘れてました。
■「日本三大揃え」とは、
@相馬藩(福島県相馬市)の「馬揃え」
 …毎年7月にある「相馬馬追い祭」は全国的にも
  有名です。この祭りは戦国以前、鎌倉期から
  の相馬氏の式典の様です。但し、現在行われ
  ている戦国騎馬競争は有名ですが歴史は浅い
  様です。
A土佐藩(高知市)の「旗揃え」
 …その由緒は知り申さず。

B秋月黒田藩の「鎧揃え」
 …寛永14年の島原の乱出陣直前の1月3日に
  執り行われた軍事演習。秋月黒田藩は島原の
  乱の「原城の戦い」で武勲を評価されたゆえ
  に重大な意義を持つ出来事となり行事となっ
  た様です。

□東郷ターン!/うきき (2497)投稿日 : 2009年05月27日 (水) 23時17分

 104年目の日本海海戦記念日ですね〜。
西日本新聞サイトに行きましたが沖ノ島上陸ニュースは載っていませんでした、残念!

「天●人」は主役の織田信長も爆発し、森長可も橋を放火したことですし、「坂の上の雲」早く見たいですね。


「秋月黒田鎧揃え」情報の追加ありがとうございました。
今、前夜祭だけ見てきましたよ。

>日本三大揃え
秋月黒田藩の「鎧揃え」はそんな深い由緒があったのですね。
相馬の馬追いもドキュメンタリーを見たことがあります。あのお祭りの時は、相馬のお殿さまが来るので、他の人がお殿さまを上から見下ろすことがあってはならないと、歩道橋に登ることが禁止になってました。そこだけ覚えています(笑)。

>当時の肥後の地を治めるのは佐々さんでなくとも大変だったと思いましたよ。
佐々つぶれてくれ、むしろやっつけられてくれ…それが秀吉の狙い?
黒田長政も「城井どのに酒の肴を」なんてやってましたが、肥後筑後に限らず、各地で同じように国人衆から反発を受けたりしたのでしょうか。新天地って怖いですね!
 森忠政は国人衆のたいした反乱もなく津山に入れてよかったです☆むしろ家中で切り合ってスッタモンダしてましたけどね!

□OKINOSHIMA/岩屋城 (2498)投稿日 : 2009年05月30日 (土) 11時01分

28日の西日本新聞朝刊に「沖ノ島大祭」の記事、
写真入りで大きく載ってましたよ。
沖ノ島が世界文化遺産の暫定リストに登録されて
から話題性が高まったのでしょうね。
27日は神職ら30名、全国各地からの一般人希望
者260名の計290名が、裸で海水で禊をした上
で上陸。中腹の沖津宮本殿に拝礼したとのこと。
前日から筑前大島に宿泊し、漁船等に分乗して海上
50キロを1時間半かけて到着したそうです。
沖ノ島は周囲4キロの小島ですが、出土品8万点が
国宝に指定されてるそうで吃驚。
大和王権の国家的祭祀の拠点であり、海と航海安全
の神であるこの島のすぐ北5〜10キロで東郷艦隊
がバルチック艦隊を奇跡的大勝利で壊滅させ、日本
最大の危機を乗り切ったのも、ここの神様のお導き
であった様な気がしてならないのは私だけでしょう
か。
「坂の上の雲」今年の秋が楽しみです。

「秋月黒田鎧揃え」のHPご覧いただき有難うござ
います。当日の画像も見られました?馬上の秋月黒
田家15代と16代(少年)。 藩公の直系の方には
風格と気品があられます。
相馬のお祭りでは、ヒトがお殿さまを上から見下ろ
すことがあってはならないんですね、今回の秋月で
は私を含め多くの方が良きカメラ[ビデオ]アングル
を求めて高いところを探しては撮ってました(汗)

>…各地で国人衆から反発を受けたりしたのでしょ
うか。新天地って怖いですね…
肥後は格段に国人衆が強い地でしたからね。支配者
も長期戦で懐柔するか殲滅するかしか方法はなかっ
たんでしょう。佐々さんはそれ迄の経緯があったん
で後者を選ぶ道しかなかったんでしょう。

早いものでもう6月です。会社もクールビズ開始で
街は夏の風景。明日はまた宝満山に登る予定です。

□今日は冷えますね/うきき (2499)投稿日 : 2009年05月30日 (土) 18時03分

岩屋城さま:

 沖ノ島大祭の記事、ネットには出なかったので会社の取り置き新聞で読んでみますね。
女の私は永遠に上陸することのできない地…。
特に上陸が許された人も沖津宮本殿で見た事は他人に語ってはならないとか何とか伺いましたので、そこのところは永遠に私にとっては謎なのですね…。
宗像大社で国宝展があった時に沖ノ島のお宝を沢山見ることができました。
元寇に対する神風も、ここの神様のお導きかも?
色々と、海に囲まれていて本当によかった日本!

黒田鎧揃えの当日も見ました。
ご当主は大水牛形兜の方ですか?手前がお子様かしら、お子様に品がありますね。

 先日、大名にある飯田の大銀杏を見に行きました。
知人によれば、飯田覚兵衛と言えば、築城の名手…なんですね。
初めて知りました。
朝鮮で西生浦倭城にも携わったし晋州城攻めでも大活躍したと
教わりました。GWで学んだことと何気に色々つながっている!!!
そんなすごい方とは知らず…これならば黒田長政に(無役だけど)高禄で召抱えられるはずですね。

「清正公の重臣植えた「大銀杏」」
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/98270

宝満山、お気をつけて登っていらしてください。
私もバッテリー対策に車でどこかに出かけます。

□飯田屋敷跡地/岩屋城 (2500)投稿日 : 2009年05月31日 (日) 22時15分

大名の某社敷地にある「飯田屋敷の大銀杏」。
私は10数年前まで、その某社は営業での担当先
のひとつでして、しょっちゅう営業で行ってまし
たんで、その度に大銀杏を仰ぎ見ておりました。
昔のことですが、今でもその某社の製品は20代
以来ずっと毎日愛飲(吸)させて頂いております(笑)。

ご当主というか15代様が大水牛形兜の方で、手前
の少年が16代様です。すごい落ち着きと風格があ
りました。

今日は快晴で風も爽やかな登山日和でした。学生時代
の友人を連れて宝満山登ってきました。山頂で飯食っ
て、岩にゴロっとして真っ青な空を見上げる…。寒風
に震えることもなく、死ぬほど熱い熱波に焼かれるこ
ともなく、爽やかなこの時季の宝満山が一番良いです。

□光秀がくる〜!!!/うきき (2501)投稿日 : 2009年06月01日 (月) 23時57分

 岩屋城さまはあの大銀杏とはすごいお知り合いですのね。
今は事故がないように枝が落とされてちょっと可哀想な姿になっていますが、福岡にこんな歴史を感じさせる大樹があるなんて嬉しいです。

 うぉ。岩屋城さまはお煙草をお吸いになるのですね。
山登りして「空気ウマー!」という超健康イメージなので意外デス。
 宝満山おかえりなさいませ…えと、93回目あたりでしたっけ?
この調子ならば、今年で100回目を迎えてしまいますね。
せっかくなので山頂に「俺様登頂100回記念樹」なんて植えたら怒られますか?岩石城のとこにも登頂1000回記念樹が植えてあったので…(*^_^*)


 昨日、私は名護屋城跡に行っておりました。何度見てもすごい城です。
韓国で倭城や文禄・慶長の役の史跡を見たあとだけに、いつもの名護屋城跡がまた違った感じがしました。
 そして今は穏やかな名護屋のあの海にも当時は沢山の軍船が走っていたのでしょうね。
若い森忠政が日本軍の出陣(海)を見送っただろう景色に、なんだかグッときました。

/岩屋城 (2502)投稿日 : 2009年06月04日 (木) 00時15分

私は歴史的に大友系ゆえ、銀杏と縁があるのでしょうかね。
また、私はJTを経由して多くの税金を支払っている優良
国民なのです。登山の際の休憩や山頂で美味しい空気の中
で吸う煙草も旨いものです(吸わない方から見れば不健康の
極みでしょうがw) 
宝満山96回になりました。秋には100回の予定です。
山の掟として、個人やグループの登山記念のプレート等は
全国的に設置禁止が常識で、福岡や周辺の山では守られて
ますが、他では何度か山頂のちょっと隠れた場所等で見か
けたこともあります。山頂ではそうですが、登山道での
道標や、ルート指向の赤テープ、山頂までの距離や時間を
記した個人やグループが設置したプレート等は有難いもの
ではあります。以前、初めて登る登山道では助かったもの
でした。
うむ、また名護屋城跡に行かれてましたか。
是非、うききさんは名護屋城登城100回記録を達成して
ください。

ところで、「真夏のオリオン」 いよいよ13日に封切です。
「男たちの大和」以来の本格的な海軍の漢のドラマです。
終戦間際の昭和20年8月、沖縄沖での伊号77潜水艦と
アメリカ海軍駆逐艦の超頭脳戦の死闘。玉木君が艦長です。

□行ってきマンボウ/うきき (2503)投稿日 : 2009年06月04日 (木) 19時12分

おおお!!宝満山、あと4回なのですね!!

>全国的に設置禁止が常識で
登頂記念銅像はおろかプレートなどもダメなのですね。
いつかお金持ちになって金山城跡に森長可の銅像をさりげなく
設置してくるのが私の夢なのですが…。

「真夏のオリオン」情報どうもありがとうございました!!!
私も観に行きます!伊号!
玉木さん(千秋先輩役がこびりついていますが…)のしっかりした演技に期待!

名護屋城跡はようやく陣跡めぐりに着手し始めました。
在番衆の森忠政の陣跡はどこにも記録がないのですが、
もしや、森軍自体がそれほどの数来てないのかしら…。

そんな私は、今週末は金山城跡に登ります♪
楽しみデス!!!

岩屋城 (2474)投稿日:2009年05月06日 (水) 15時47分 返信ボタン

おかえりなさいまし。
昨日の、晋州からの英文書き込み拝見しました。
晋州城をしっかり探索なさった様で、意義深い旅だ
ったことでしょうね。

さてGWも今日で終わり。昨日75回目の宝満山に
登った以外はさして近隣以外しか動かなかった様な。
膝も問題なく、近年では最短の1時間で登れました。
GWだけあって、宝満山の登山道と山頂は結構な賑わ
いでした。
先般の滑落は、登山靴のソールが摩耗気味だったのも
一因と思われましたんで、今日登山用品専門店でシリ
オの登山靴を買ってきました。早や登山で3足履き潰
し、4足目となりました。2万7千円は高いですが、
他はどうでも靴は登山の最重要パーツですからね。
で、今週末は秋月種実の牙城・古処山に登ってきます。

/岩屋城 (2475)投稿日 : 2009年05月06日 (水) 19時48分

今日がGW最終日ゆえ、今日6日がお帰り日と推定して
いましたが、或いは有休延長にて未だコリア滞在中とも…。
明日は蔚山城探訪だったりして。
うききさんが今回の旅で感激して、今後は兼山や津山の様
に韓国帰省を続けそうな予感がします。
私も先月、アラウンド60過ぎの前職の韓流好きの元上司
の昔山仲間の方から、6月に韓国に行こうぜ…とのお誘い
受けていたのですが、その内容は歴史・史跡には全く関連
ない単なるお遊びツアーの様だったんで、先月お断りした
とこでした。(実際は、子供の学費等で …ですんで(笑) 
金のかからない登山でもやってます[が本音] )

それから↑の宝満山、誤】75回目→ 正】95回目 
の入力ミス(汗)

□ただいま〜。/うきき (2477)投稿日 : 2009年05月06日 (水) 23時10分

 宝満山登頂ご成功おめでとうございます、岩屋城さま。
全快&絶好調のようでなによりです。
週末も登山ですか…ふふ、そちも好きよのぅ(*^_^*)

私は、本日の夜、コビーにて無事、福岡に帰国してまいりました。
念願の晋州城を見ることができたのも嬉しいながら、倭城が想像以上にデカくて驚きました。
蔚山倭城は初日の一番に参りましたし、黒田長政の築いた機張(キジャン)倭城にも行きましたよ♪
(倭って、よくない字ですが日本軍の城と韓国の城に名称分けする
ために、学術的には日韓共通にこれで通っているようで。)
本当によい経験をすることができました。

□今日は古処山でした。/岩屋城 (2480)投稿日 : 2009年05月10日 (日) 00時16分

帰国後の「近況報告」も拝見しましたが、
良き旅であった様で何よりでしたね。

今日の私は、4日前の宝満山に引続き、
そのライバル秋月種実さんの古処山に
登って来ました。山頂近くの本丸の他、
大将隠し・奥の院などの秘境も数年ぶり
に登ってきました。
倭城もいずれ行きたいですね。

□大将は今も隠れていらっしゃるのです/うきき (2481)投稿日 : 2009年05月10日 (日) 22時19分

 お暑い中の登山、お疲れ様でした。
はて秘境とは、どのような…?(勝手にそこだけ涼しいイメージ)

 RANMARU!サイトのほうに韓国旅行記をアップいたしました。よろしければ読んでやってください。
 秋月種長の林浪浦倭城にも行きましたよ。火災でハゲ山になってました。こちらではもう見ることのできない日本の近世城郭遺構を見ることができてとても良かったです。
平壌にも小西行長の城があるらしいのですが、ここを見るには、一命を懸けて亡命するしかない(それでも見れる確率が)?

□古い/岩屋城 (2482)投稿日 : 2009年05月10日 (日) 23時44分

秀吉出兵の史跡、韓国の方々も探訪しているのでしょうか。
で、古処山の山頂到着後、さらに東の屏山方向に縦走して
20分ほど険しい岩場を下って「大将隠し」と「奥の院」まで
分け入ってきました。特に奥の院へロープでの崖下りは
一応の登山経験者でないと無理ですし危険です。
この「奥の院」暑い日中でも、あの高く屹立する狭い岩と岩
の空間は、真冬の様に息は真っ白になる程に寒く、天然の
クーラーで、涼しいを越えて震える程でしたよ。 
古処山登山で、この大将隠しと奥の院を訪れたのは、今回
で6回目でしたが、何回いっても感激する険しい山中の名所
です。往時は秋月氏の宿敵・大友との戦いの最終決戦に備え
た所だったでのしょう。
その後は、山頂に戻って反対側にやや下り、古処山9合目
の通称「馬攻場」と呼ばれる、秋月家の古処山城の「本丸跡」
に又行きました。この本丸周辺の堀切・土塁は、何回見ても
凄いものです。

□古い?/うきき (2483)投稿日 : 2009年05月12日 (火) 01時15分

 倭城は、韓国の方々も探訪なさってるし、土の下にもいらっしゃるし(城内あちこちに土饅頭の墓があったんです!!!)、また石垣の上も畑になったり、家の土台になったりして暮らしの中に溶けこんでしまっている倭城もありました。
 一昔前は、韓国も建物たてるのに、倭城をどっかんどっかん破壊していたようですが、最近の経済の冷え込みという事情でストップしている感じです。
でも、城によってはきれいに整備してくれているようで。西生浦倭城や順天倭城なんかはすごく手を入れて復元してありましたよ。それには日本人観光客を呼び込もうという狙いもあるようですが、やっぱり「日本のモノに金をかけるな」という地元の反対もあるらしくてすんなりとはいかぬようです。
倭城の将来を憂いてしまいます。
 
 ときに、すでに今日も私の部屋は暑くてたまりません…(扇風機を実家に取りに行かなくてはいけないのです)。ああ、ひやっこい奥の院に入りたいです。
でも、奥の院などは普通の方はまったく近寄れないんですね。そういう秘境好きなんですが、残念。

/岩屋城 (2484)投稿日 : 2009年05月14日 (木) 19時37分

倭城には韓国の方も訪れるんですね。数年前に家族で釜山に行った折、日本人に親切なとこと明らかに・・のお店がありました。近代の歴史上でも色々ありましたからね。また韓国は行きたいですね。ところでビートル(コビー)は如何でしたか? 浅い海底に眠る日本海海戦でのバルチック艦隊のイメージは湧きましたでしょうか?(それは無理か。) 爽やかというより暑くもある昨今ですね。うききさん、エアコンは今のうちに買っておかねば。真夏の熱風を掻き回す扇風機では、夏は乗り切れませんぞ〜。

/岩屋城 (2485)投稿日 : 2009年05月15日 (金) 22時48分

今日から、政府の「エコポイント」スタートです。エアコンも地デジTVにも結局な額のポイント付く様ですばい。家電量販店各社も自社特典と連動させてる様ですし、今がエアコンと地デジの購入のチャンスかもですよ。

□雲と海と/うきき (2486)投稿日 : 2009年05月15日 (金) 23時00分

 私も、韓国は不機嫌そうになさってる店員さんが結構いて、驚きました。時々、話しかけてきて怒ってんのかとも思いきやそれは「韓国語には”激音”という発音があるから、どうしても強い調子になってしまう。」と教わりましたけど。
いや、チョッパリ(日本人への差別用語)とも呼ばれてしまいましたよ。ははは。勉強になりました、色々と。
 ビートル(往路)では、「日本海海戦!」と思いながら果てしない海を見ておりましたが、海の上の雲ってすごく低い位置にあるのですね、驚きを以て美しいと感激しました。復路のコビーでは、自分自身が撃沈(眠)しておりましたので、何も記憶にございません。
 我が家にはエアコンもあるのですけど、狭い家ではすぐに冷えすぎる状態になるので、やっぱり扇風機も必要なんです。
うう…福岡市内はどうやっても暑いですよね。実家は冬はしんどいですけど、夏は風通しよかったです。

□ETCもまだ持ってない最後の人間/うきき (2487)投稿日 : 2009年05月15日 (金) 23時06分

あら。返信しているうちにまた新たな書き込みありがとうございます。
エアコンは大家さんが最初からつけてくれています。(*^_^*)
なんか地デジはもっと安くなる気がするので、最後までアナログで頑張り抜きます!
いや、何よりも、兼山に行くのでまたお金が!!!

□旅行記拝見しました/岩屋城 (2488)投稿日 : 2009年05月17日 (日) 14時32分

旅行記拝見しました。
倭城って日本の城の石垣に似てますね〜って日本人が造っ
たんだから当たり前ですね。各城跡の写真を拝見し、本の
中で読んだ各武将の在城のイメージが湧きます。倭城に建
っていた建物も日本の館の様に板塀や漆喰の建物だったの
でしょうね。で、あの晋州城の中世欧州や琉球王国の様な
外のグルリ状の城壁の築城技術を日本がは持っていたのは
知りませんでした。また、食べ物の写真を見て、あのタコ
の生喰い料理を思い出しました。ハッパ巻いて食べた同じ
種類の焼き肉も。 以前から思ってましたがうききさんは
旅行記の編集が上手いですよね。

>海の上の雲ってすごく低い位置にあるのですね…
韓国行きの際の対馬海峡は、「天気晴朗なれど波高し」では
なかった様ですが、視界は利かなくてもその景色は幻想的
でしょうね。海上の雲は霧の様に低く垂れこめるキリ雲状
態は聞いたことあります。実は、あの日本海海戦当日は、
東郷艦隊から発せられた無電にある様に「天気晴朗」でした
からこそあの様なパーフェクトゲームが出来たんですが、
その前日までの対馬海峡は荒れた天候で、雲も視界が利か
ない程低く垂れこめており、もしもバルチック艦隊の対馬
海峡到達が1日早ければ、視認での砲撃しかできない当時
は殆どを討ちもらし、大艦隊はウラジオへ入港して日本へ
大攻勢をかけ、既に国力・戦力は疲弊し風前のともしびと
なっていた当時の日本はどうなってしまったことか…。
バルチック艦隊は、バルト海のリバウを出港し8ヶ月もの
大航海でしたから、1〜2日のずれは十分あり得、これも
山本権兵衛が運の強さを見込んで抜擢した東郷平八郎ゆえ
の結果でしょうか。

>地デジはもっと安くなる気がするの…
そうですね、恐らく性能が良いのがもっと安くなってくる
でしょうね。

新型インフル、ここ数日で関西圏で拡がってきています。
福岡市地下鉄でもマスクを付けてある方を散見します。

□戦国の城壁の鉄砲狭間は蜂の巣状のランダム穴だったそうです/うきき (2489)投稿日 : 2009年05月17日 (日) 19時10分

 旅行記お読みくださり、どうもありがとうございます岩屋城さま。倭城は日本の城跡よりも明確に判りやすい日本の城でございました。
>外のグルリ状の城壁の築城技術
山城にグルリとめぐらすために必然的に石垣もななめに登ってゆくので「登り石垣」と呼んでらっしゃいましたね。登り石垣は平坦なまっすぐではなくて、変化をつけていて、「雉」という石造りのでっぱりが存在しました。あちらの国に行って、独自の応用をしているのですね。

各城の居館跡の上にはしっかりと現代の建物が建っていました。
瓦を焼いていた場所なんかも発掘されたそうです。
秀吉ひとりの死で今までのすさまじい苦労と労力が水の泡になっちゃいましたが、朝鮮出兵によって、全国の大名に築城は石垣でやるとかっこいいという共通認識が生まれたのだそうで。得に「土盛り九州弱小大名」にとっては、他の大名の技術を目の当たりにして色々と学んだことも多かったのでしょうかしらね〜。
編集を岩屋城さまにお褒めいただけて嬉しいです♪

行きのビートルの左側の窓から途中、長い大陸が見えていましたが、あれは対馬だったのでしょうか。
「沖ノ島」と思っていたら、会社の人に沖ノ島はそんなにデカクないよ、と言われました。

□あの肥後国人衆の拠点、やっと国史跡。/岩屋城 (2490)投稿日 : 2009年05月18日 (月) 23時35分

倭城の立派な石垣の上に韓国の現代的住宅とは…
悲しい様な気もしますよね。

>全国の大名に築城は石垣でやるとかっこいいという
>共通認識が生まれたのだそうで…
なるほど…。それが関ヶ原戦後のあの全国の大名達が
狂った様に取り組んだ「慶長築城ラッシュ」の根源だ
ったのですね。繋がりました。

>行きのビートルの左側の窓から途中、長い大陸が見え
>ていましたが…
はい、それが対馬です。対馬は山ばっかですが、史跡も
多い山の島です。沖ノ島はその反対側(東)にある小さ
い島です。この5月27日には禊をして男子のみが上陸
できる島です。
ところで熊本北部の「隈部館跡」が一昨日、やっと国史跡
に指定されました。

□5月27日って、奇しくも海軍記念日!/うきき (2491)投稿日 : 2009年05月20日 (水) 01時15分

「隈部館跡」
わぁ、隈部館跡のことをよく知らないので、リアクションわかりませんが、おめでとうございます!
>慶長築城ラッシュ
穴太衆は各国の大名への就職率すんごくよかったらしいですね。
あと、朝鮮の亀甲船がインパクトあったのか、大坂の陣や関ヶ原合戦の時分あたりでも、日本の海上には亀甲船のパッチもん(made in Japan)が浮いていたそうです。想像すると面白い…。
加藤清正が朝鮮の晋州邑城を落とす時に考案した亀甲車も気になるこの頃…亀甲車というのに、牛の生革と生首をつけた車だったとかで、その車に兵士が乗りこんで城の壁の下に穴を掘って城壁を壊し、敵がくると、車につけた紐を後ろから引っ張ってピューッと逃げていたと先生がおっしゃってました。
まずは、生首をつける必要性があったのかという疑問。

沖ノ島…ああ、女人禁制で入島できないまでも、この目で拝めればよかったです…。気づきませんでした。
岩屋城様は沖ノ島にはおでかけになったことがありますか? 

韓国のお菓子
しまちゃん (2478)投稿日:2009年05月09日 (土) 08時08分 返信ボタン

 韓国のセブン○レブンで、その、エンゼルパイのようなのとか、中にもちもちっとしたものが入ったエンゼルパイのようなのとか、すごく毒っぽいガム、えびせんもどき、いろいろなお菓子を買いました。日本でみかけるお菓子も、ハングルで書いてあれば、なんだか不思議。本屋さんで、日本の漫画がハングル語訳でたくさん出ているのにもビックリ。ほぼ、日本とズレがなく発売されています。もう一度行きたい韓国。

□パクリ菓子/うきき (2479)投稿日 : 2009年05月09日 (土) 23時56分

 元ネタというか、日本のお菓子をコピーしているのがまるわかりのものが多数ありましたね。味は違いましたが。
一方、朝鮮人参ガムやひまわりのタネはオリジナリティーにあふれすぎていましたが。

かくいう私は、毎日、暑くてアイスばっかり食べていました。
本屋さんにも立ち寄りましたが、ハングルづくしで目がチカチカ、何も買わずに出てしまいました。

私の時は・・・
しまちゃん (2473)投稿日:2009年05月03日 (日) 18時55分 返信ボタン

 どちらかというと、テロ対策で、ペットボトルも何やら機械の上にのっけてましたし、帰りにお土産の袋が重そうに見えて、入国係の方が、袋を開けてくださいなど言われましたが、今年は、新型インフルエンザですよね。

 地元新聞の文化財紹介で、森関係がいくつかあったので、また、まとめて送りますね。

□ただいマンボウです!/うきき (2476)投稿日 : 2009年05月06日 (水) 22時53分

韓国の旅から無事に帰ってまいりました〜。あとは発病しなけりゃOKですよね!
出国・入国時にはA型インフルエンザに関するアンケートにも答えましたが、サーモグラフィー検査もやってましたよ。検疫にパスしたという証明ももらいました。

>また、まとめて送りますね。
ありがとうございます!(嬉)

登山復活近し。
岩屋城 (2458)投稿日:2009年04月19日 (日) 19時23分 返信ボタン

今日は2ヶ月ぶりにテスト登山で、近くの天拝山に登って
きました。登りは休憩なしのハイピッチで登り、この山で
は過去2番目に早い20分で山頂に着きました。 下山の
急坂でも痛みはなく、登山復活宣言できそうです。
で、GWには宝満山に登ってきます。2ヶ月間のロスタイ
ムでした。
天拝山は低いので普段登ることはなく久々でしたが、快晴
の中、多くの家族づれが登ってあり、登山道にはシャクナ
ゲやツツジ、道端には紫や黄色の野花が咲き乱れ、ほんと
春爛漫の風景でした。下山後、天拝山の登山口近くにある
九州最古の御寺様「武蔵寺」に立ち寄りましたが、名物の
藤が満開で綺麗でした。

功山寺の裏手の墓地。私は大内義長の墓碑しか行きません
でしたが、詳しい先生と行かれて解説付きとは羨ましい。
私もこの15年間、歴史仲間との史跡探訪で九州各地や
中国地方の多くの墓所を訪れたものです。お墓でいつも
気分が悪くなったり頭痛がするという方は確かに居られ
る様で、時々耳にします。

福岡市博物館の「安楽平城展」行かれましたか!
私も近いうちに行く予定です。
安楽平城は、立花山を筆頭とする筑前大友5城のひとつ。
大友家が支配していた博多エリアのうち、現在の早良区
方面を統治していた城で、最後の当主は小田部鎮道(紹叱)
公です。山頂に安楽平城のある「安楽平山(荒平山)」には
もう4回程登りましたよ。低山ながら戦国の城らしく要害
の登山道ですし、山頂の馬蹄形の本丸,二の丸,三の丸,
出丸は歩きましたが要害の城です。天正7年・龍造寺隆信
の侵攻により落城し、当主の小田部紹叱公は亡くなりまし
たが、登山道の中腹の亡くなられた地に立派なお墓があり、
登山の度にお参りしてました。地元の方々が、麓にある安
楽平神社内のお墓同様にお世話なされていると聞いたこと
があります。
私の母系の先祖はこの安楽平城に縁がある様で、このこと
は私が大友贔屓になったり宝満山登山を始めたりの、ずっ
と後になって知りました。歴史のうえでも登山のうえでも
その他会社関連でも大友繋がりが多くあり、不思議なもの
です。宝満山も安楽平城同様に筑前大友5城のひとつです。

□もう復活済みでは…(汗)/うきき (2459)投稿日 : 2009年04月21日 (火) 00時04分

 春の色とりどりの風景を楽しみながらの登山成功おめでとうございます、岩屋城様。これでまた大物(山)と対峙できそうですね。
どうか今度はお怪我はなさらないように充分にご用心くださいね。
しかし、登山に要したタイムを計りながら登ってらっしゃるもんなんですね。
20分…金山城跡と同じくらいかしら。
九州最古のお寺は「武蔵寺」というのですね。
存じませんでした。(゜.゜*)

>小田部紹叱公は亡くなり
福岡市内でも戦死している武将がいるものなのですねぇ。
小田部さんというジモティーな響きがなんとも言えません。
福岡市博物館の安楽平城展は瓦や書状資料はいろいろでしたが、
城跡や墓などの写真がないのが寂しかったです。
以前、別クチで受講した講座では、小田部さんの居館を紹介していました。でも、駐車場に土塁の残欠らしきものが、かすかに存在するだけのようでした。

□GW間近。/岩屋城 (2464)投稿日 : 2009年04月25日 (土) 17時34分

GWも近づき、初夏の様に暖か暑い昨今です。
さて、GWは何をしよう。ヤフードームは3日しか試合が
ないし、ETCで高速はかなり渋滞しそうだし、連日登山
ということもないしで。

>小田部さんというジモティーな響きが…
小田部というと福岡市早良区にある地名としての方が有名
ですね。 安楽平城のある安楽平山(荒平山)は、福岡市民
が多く訪れる油山から尾根つながりで、油山からも山中を
歩いて行けるのですが、誰も行くヒトいないというか、誰
も知らない様。

5月23・24日の土日に「秋月黒田鎧揃え」というイベ
ントが筑前秋月で開催されます。30年ぶりの開催とのこ
とで、23日が前夜祭・24日が本番で、HP見ると仲々
面白そうで両日とも行く予定です。
   ↓
http://sites.google.com/site/kurodayoroisoroe/

□来週末には森家ツアー海外編(初)/うきき (2465)投稿日 : 2009年04月26日 (日) 17時45分

 GW…家の壁に石を埋めこんでロッククライミング練習場を造るとか、福岡市美術館に福澤諭吉展を観に行って「どこかで見たと思えば、お札の人ダァ!!」と感激するとか、奥さまの代わりに男子厨房に入って伊集院名物「鶴の吸い物」を作るとか…よそ様のご家庭はどう過ごされているのかよく判らないですけど登山以外も頑張ってください。その頃私は倭城めぐりです。(^e^)。

「秋月黒田鎧揃え」。
福岡市博物館にチラシがあったのでもらってきました。でも、兼山行きを控えているので私は行けません(:_;)。
ぜひ、イベントの模様と感想をお聞かせくださいね。
 秋月はいつも武者行列やってた気もするんですが…30年ぶりなんですね…ここ数年、武者イベントを始める自治体が多いですよね。(*^_^*)

 明日は、いきなり寒いようです。どうか油断なさらないでくださいね。

□倭城めぐりでしたね/岩屋城 (2468)投稿日 : 2009年04月29日 (水) 11時07分

おお、そうでした。うききさんはGWは韓国倭城めぐり
の旅でした。これで韓国の倭城にハマッて、兼山や津山
の様にうききさんの韓国帰省が始まるのかも!?
森忠政さんは名護屋城に居て朝鮮半島には渡海してない
んで、それはナイかな?
海面上を高速でぶっ飛ぶビートルにて、バルチック艦隊
が眠る日本海海戦戦跡巡礼(?)もしてきてください。

さて、今日29日から世間はGWですね。特段やること
なく書き込みしてますが、3日からの4連休の一日くら
いはETCでどこか走ってこようかな。その他の一日は
登山。 どっかで歴史系の面白いイベントとかやってな
いでしょうかね。

□日本海海戦見てきます!/うきき (2470)投稿日 : 2009年04月29日 (水) 22時07分

GWは、下関・先帝祭がおすすめです!
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/time_l/kaikyo_fes/index.html
私も昔は、源平武者行列を見に毎年でかけておりました。
赤白の軍旗を押し立てて安徳帝や武者達が船で進む「源平船合戦 海上パレード」は圧巻です。
(現在はどうかわかりませんが)早朝には平氏は赤間宮、源氏は亀山八幡宮に集結して出陣式をしていたので、そこから見始めておりました。あと、安徳天皇御陵の扉が開いているのを、私は、このお祭の機会にしか見たことがありません(もちろん奥に入ることはできないデス)。

 それから火の山の麓の「みもすそ川古美術館」はあまり知られていませんが、歴史好きにはパラダイスです。
http://www.urban.ne.jp/home/mimosuso/oto/museum/index.html


>森忠政さんは名護屋城に居て朝鮮半島には渡海してないんで、それはナイかな?
おっしゃるように忠政は運よくお留守番でしたが、森忠政の叔父さん・森可政(当時は秀吉の黄母衣衆)が渡海してます。

『一、朝鮮征伐の節は、丹後国田邉の城主木下宰相秀雄の手に加り
朝鮮国におゐて木下判官の城を(一に釜山海の城を乗取る時武功有りと云々)乗取し時高名有り(『森家先代実録』)』

田邉の城主・木下秀雄って誰よ?というとこも私にとっては謎ですが、
「木下判官の城を乗取し時高名有り」
を倭城研究家の先生に伺うと、
「これは「モクソ(牧使)の城」と日本側に呼ばれ、憎しみを受けた晋州城の話ではないでしょうか?」

とのことなので、倭城めぐりとともに、晋州城にも連れて行っていただくことに!!いや、森家スポットに行けるからこそ行くのですが!

/岩屋城 (2471)投稿日 : 2009年05月01日 (金) 20時21分

連休のスポットご紹介頂き有難うございます。一昨日は、福岡市博物館に「安楽平城展」観てきました。三井寺展はパスで、安楽平城ひとすじでした。大内支配時代と大友の時代、興味深く見てきました。また安楽平山に登ろうかな(5回目)。 倭城探訪に賭けるうききさんの情熱伝わりました!

□Have a nice GW!/うきき (2472)投稿日 : 2009年05月01日 (金) 21時23分

>三井寺展はパスで、安楽平城ひとすじでした。
三井寺展には超初公開の秘仏がありますのに(笑)。
安楽平城の瓦って…アレ、本物なんでしょうか。
城を瓦ぶきにするもんなんでしょか。
あの瓦、現代の墨書きが激しかったですね。

では、お互いに素敵なGWを過ごしましょう♪
東郷ターン!

スパローテイル
うきき (2466)投稿日:2009年04月27日 (月) 23時39分 返信ボタン

一体、何が起こったのだろう…。
ttp://blog.livedoor.jp/myselfishdqn/simg/41.jpg



□これは、/岩屋城 (2467)投稿日 : 2009年04月29日 (水) 10時47分

スズメが雪中にヒトが節分の際に撒いた豆のかけらを
見つけ、必至でくちばしで取ろうとしている画。
…てなことないですね。

□スズメ〜♪/うきき (2469)投稿日 : 2009年04月29日 (水) 22時04分

隣にいるスズメさんすら「何やってんの?アンタ。」って顔してますね…。

新緑の後楽園
しまちゃん (2460)投稿日:2009年04月22日 (水) 08時28分 返信ボタン

 吉村作治先生の古代エジプト展を見るために岡山に行った私。平日でゆっくり観てまわることができました。エジプトの神々の解説では、山岸涼子さんの「イシス」とか、芝崎みゆきさんの「古代エジプトうんちく図鑑」を思い出して、ひとりクスッとほくそえむのでした。

 その後、県立博物館で特別展の宇喜田から池田へを見ようと、後楽園に行くと、なぜか博物館が休館!看板には、無休と書いてあるし、だいたい、昨日は火曜日。火曜日に休む博物館って!?月曜日が祝日だったわけでもないのに!!哀しくて、後楽園で丹頂鶴や鯉を見て、緑の後楽園と金がアクセントの黒いお城に心を慰めて帰りました。

/うきき (2461)投稿日 : 2009年04月22日 (水) 23時09分

 おお、サイバー大学学長さんの古代エジプト展!山岸凉子さんのエジプトものは「ハトシェプスト」なんかを読みましたが、「イシス」というのもあるのですね。(゜.゜*)

ところで、岡山市内は縦に行くバスはあるのに、横にいくバスがないですよね〜(勝手な印象。)

せっかくの日に博物館が休館とは残念でしたね。
>火曜日に休む博物館って!?
世の中には「なんでこのタイミング?!!」というような不可思議な事が起きるものですね。
以前、松代城跡に行った時に見学不可だった時には、いつまでも柵にかじりついてショックをおさえられませんでした。
先日訪問したばかりの篠山城も、一番見たかった場所が「工事中で一時的に立入禁止」という…切ないオチ。

>黒いお城に心を慰めて帰りました。
黒いのを見ると、「ああ、織田・豊臣系のお城だナァ(*^_^*)」と思います。
特別展、池田さんのことが気になりますね。長久手に散った御先祖のことまで出ていますでしょうか。
あ、あと、後楽園のツルに、手を出してガブッとやられたことがあります。クチバシには歯がないので、カブられても大丈夫なものだろうと思いきや、しばらく止まぬ激痛でした。「痛い。」と思いつつ歩いた後楽園。

でも、何はともあれ、しまちゃん様が津山に住んでいらっしゃることが、私には羨ましすぎなのです。それに尽きます(話逸れまくり)。

□ハトシェプストをご存知なのですね/しまちゃん (2462)投稿日 : 2009年04月23日 (木) 21時48分

 私の持っているのは、文庫版で、イシス・ハトシェプストが入っています。古代エジプトうんちく図鑑は、内容もおもしろいのですが、ゆるキャラ系のイラストがおもしろいのです。これを読んだあと、エジプトの神話を読み直すと、笑えます。

 県立博物館の「宇喜多から池田へ」は、新聞に、豪姫が秀家の無事を祈った願文から、秀家の出生年が確定できたとか載っていたので、この願文がみれる!と喜んでいたのですが。ゴールデンウィークに再チャレンジしてみます。新聞でみた、願文、内容がかわいかったです。

 こちらでは、花がいっぺんに咲いて、例年なら、ゴールデンウィークが見ごろの花も、もう終わっています。今日は、つつじの名所に行ったのですが、もう、花が散っていました。ぼたんも、今週かな?という感じでした。いったい、どうなっているの?

□福岡でも放送される「月刊 岡山 トラのアナ」/うきき (2463)投稿日 : 2009年04月24日 (金) 00時46分

 山岸凉子さんの本は、短編集を買うたびに「あれ?これ、他の短編集で見たことあるぞ。」というダブリを見つけます。イシス…きっとこれも短編なのでしょうね。
この漫画家さんは、唯一、「若武者は絶対月代を剃るべし。」と思える、ハゲ部分があったほうが魅力的という絵を描いてくださいますよね。神隠しでしたっけ。その時にそう思いました。

>県立博物館の「宇喜多から池田へ」は、
 豪姫の願文ですか、それは楽しみですね。さすがにGWには開館してますでしょ。楽しんでいらしてください。(^O^)

こちらも、藤の盛りが一気に過ぎ去ろうとしております。日々は本当に足早。



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