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森一族もオリオンに導かれたのでしょうか… |
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岩屋城
(2516)投稿日:2009年06月22日 (月) 23時32分
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うききさんの疑問は、戦時中の海軍将校にあんな沢山長髪の 男が居たのか!ではなくて、やはりラストのあの有り得ない 敵前の総員退去シーンでしたか。あれでは総員溺死か捕虜し かないですが、後者は当時はまずないでしょう。普通の艦長 なら最後の1本の魚雷を命中させ敵艦の艦尾を粉砕した後に 止むを得ず浮上したなら衝突して相討ちを図るところですが 倉本艦長であれば万策尽きた後は、敵の艦長の顔を見たうえ で総員で海中に飛び込み最期を迎える気だったのでしょうか ね。 ところで、↑で書いた「敵タンカーを魚雷で撃沈した直後に 敵の護衛艦の目の前に浮上…」したのは、伊77が護衛駆逐 艦パーシバルとの初遭遇のシーンでして、ラストのベント弁 操作不能ではなくてまだ完全状態の時だったんですよ。
対潜攻撃をする僚艦もいない単艦のあの状況の下で救助停止 という大ポカをやらかしたスチュワート艦長は決して名艦長 ではなく、また一方、小口径の艦砲でも1発受ければ沈没の リスクを負って敵艦の至近距離にノコノコ浮上した倉本艦長 も名艦長とは言えないとも思えましたが、映画ですからね。 この映画のモデルとなったのは20年7月末にテニアン島へ 広島長崎原爆を輸送した後にレイテへ向かう米重巡インディ アナポリスを撃沈した伊58でしたし、その乗組員からも潜 水艦関係のアドバイスを頂いた様です。 そうでしたね、「オーケストラの指揮者になりたかったんだ」 でした。「のだめ…」は私は観たことないのですが、玉木さん はそれが持ちネタだったんでしょうか?
色々書きましたけど、ほんと良い映画だったと思いますし、 レンタル化されたら、また観ます。
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□毛利元就はオリオンに導かれたかった戦国のヒト?/うきき
(2517)投稿日 : 2009年06月23日 (火) 23時12分
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明解なご回答ありがとうございました。岩屋城さま。
髪の毛はもうツッコんじゃいけない領域だと知っていたので…考えませんでした。
私がつい、くり返している「オリオンよ森を導いてくれ。」は倉本艦長のセリフまんまです。水雷科の森さん@水葬シュポーン!!に対してのセリフでした。
>倉本艦長であれば万策尽きた後は、敵の艦長の顔を見たうえ >で総員で海中に飛び込み最期を迎える気だったのでしょうか >ね。
…回天搭乗員にとってはヤな展開ですねぇ…。 艦長に「もったいない。」「実にもったいい。」と言われたまでは、なんだか私もかっこいいと思いましたが、 「回天の整備員に点検させてくれ(思わせぶり)。」「回天の酸素おいしー!君の言葉がヒントで思いついたのアリガト!(ほぼ厭味)」というのはイラッときましたね。 ああいうイライラ展開を繰り広げられて、回天に乗せてもらえなかったあげくに、敵艦に潜水艦ごと突っこんでももらえず…「離艦!離艦!」…て、回天搭乗員可哀想…。
>まだ完全状態の時だったんですよ。 失礼しました。その辺の記憶が飛んでました。
>。「のだめ…」は私は観たことないのですが、玉木さん >はそれが持ちネタだったんでしょうか? 玉木さんは、「のだめ」では、千秋先輩役でオーケストラ指揮者やってます♪ あーあ、みなまで言ってしまいました♪
とにかく、映画、重すぎすによかったですね。 |
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□夏の早朝のオリオンは高校時代に新聞配達してた頃、よく見てましたよ!/岩屋城
(2518)投稿日 : 2009年06月24日 (水) 20時38分
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レスするつもりが間違って、又もや潜水艦スレッド立ててしま い失礼しました〜。 …で、玉木艦長は「のだめ」ではオーケストラ指揮者やってた んですか!重厚なストーリーの中に遊び心を入れた脚本の先生 は偉い! 「オリオンよ森を導いてくれ…」そのヒトが森さんであること が何かの縁なのかもですよ。さらに回天特攻隊員のリーダーは 遠山中尉で、吉田栄作の部下のクールな機関科員は有馬でした し、原作者は戦国江戸期の日本史好きなのかも。 回天特攻隊員は、究極の苦悩の末に死の意義を見い出し納得し 潜水艦で出撃の途についた故、生き残ってしまうという選択肢 は有り得ない心情でしたでしょうが、戦後生きてて良かった! と必ず思ったはずであり、死ななくて良かったです。
玉木さんの倉本艦長はこの映画では海軍兵学校の成績は悪いが、 奇想天外な発想が出来るキャラでしたから「回天の酸素おいし 〜!」とかの演出があったんでしょうかね。一方、海兵同期の 親で、戦死する伊81の有沢艦長は海兵での恩賜の短剣組の超 秀才という設定。ただ、この点は余り描かれませんでしたね。
戦時中でも陸軍と違ってリベラルな(?)海軍将校は長髪は許さ れていて、陸上勤務の方は勿論、軍艦にも長髪の士官も居た様 ですよ。
で、次回の潜水艦連載は趣きを変えて、戦前から潜水艦乗りを ビビらせた、「潜水艦「3」の呪い」について紹介しましょうか。 |
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□潜水艦スレッド、いくつ立ってもOKです(^u^)/うきき
(2519)投稿日 : 2009年06月24日 (水) 22時53分
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岩屋城さまも夏のオリオン座をご覧になったことがおありなのですね〜。でも、ご存じのように天空におけるオリオン座は自分を殺したサソリ座(夏の星座)から逃げて天の真反対にいるという設定なので、映画のように導いている場合じゃないかも知れませんね。…とはいえど、インパクトの強い形状の星座としてはナンバーワンの星座ですね。 オリオンの三ツ星は海の守護・住吉三神にも擬せられて航海の神様でもありますので、もともと潜水艦とは縁の深い存在かも知れません。
あ、もう一つ質問ですが、海軍の皆さまは普通にモールス信号をご存じなのでしょうか?パイプをスパナやらハーモニカやらでガンガンとやってましたけど。モールス信号、小難しそうで教わっても私にはわっかんないだろうなぁ…。 映画では、原文イタリア語だというのに、なんの齟齬もなくモールス信号で日英語で対応できてつらつらと「オリオンよ…」と訳せてしまう彼らはすごい。 しかし、玉木さんはもう一本別の映画でも主役はってんですね。すごいなぁ…。
潜水艦3の呪い、よろしくお願いします!φ(^O^)/ |
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□「3」/岩屋城
(2520)投稿日 : 2009年06月27日 (土) 11時58分
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海軍の兵科では海兵団でも将校養成の兵学校でもモールス信号は 基礎として覚えさえられていた様です。それと手旗信号も。
日本海軍の潜水艦乗りは、3や3の倍数などを不吉な数字として 嫌っていました。乗組む艦が3や3の倍数であると悔やみ、それ でないとホッとしていたそうです。元来船乗りはゲンを担ぐ風習 はありますが、この潜水艦の3はやはり不思議です。 艦番号が3の倍数の潜水艦は戦前から不慮の事故が多いといわれ 戦前で代表的なのは昭和12年に豊後水道で発生した、伊60と 伊63の衝突沈没事故。不幸な偶然が重なり、夜間艦首と艦尾に 規則通り灯を点けて停泊していた伊60に、その2つの灯を別々 の漁船と勝手に勘違いした伊63が直角に激突。伊60は瞬時に 沈没し、死者81名(3の倍数)を出しました。
その他もありますが、戦時中で有名なのは、強烈なダブル「3」 を艦名に持つ伊号第33潜水艦。昭和17年夏に竣工し、トラッ ク島基地に進出するやその翌日にサンゴ礁衝突で損傷し、工作船 に横付け修理中に傾いて艦上のハッチから浸水という信じられな いアクシデントでそのまま水深33mの海底に沈没。この事故で の死者33名。 3ヶ月後に引揚げ内地へ曳航し、呉で修理したのち、昭和19年 6月に瀬戸内海西部の伊予灘で急速潜航訓練中に又しても機関室 に浸水して60mの海底に着底。潜航時に木片が機関室送風弁ハ ッチに挟まるという通常有り得ない偶然の災禍でした。海底で酸 素が尽きる迄、乗組員はそれぞれの持ち場でこの事故の推測され る原因と改善点を遺書として記して亡くなっていました。最後の 脱出手段としてハッチを開放、乗員2名のみ生還したのですが、 艦長以下102名が死亡。 ※以上、正式記録の水深、死者数はすべて3の倍数。(トラック島 、瀬戸内海いずれの事故も) さらに、3の因縁は続きます。 終戦から8年経ち世情もやや落ち着きを見せてきた昭和28年7 月、この伊33の引揚げが行われました。浮きを付けて浮力を与 え、尾道(因島)まで曳航して、潜水艦内部に入ったのですがその 際前部魚雷発射室に入った元海軍の技術関係の方3名が悪性ガス の中毒に倒れ亡くなりました。尚、この前部魚雷発射室は、全く 浸水しておらず酸素は乗員が吸い尽くしていた為、この部屋にい た乗員13名全員は9年経ってるにも拘らず腐敗もなく、まるで 眠っている様に各自整然と兵員ベッドに横たわっていました。 艦長は復旧不能と判った際、、酸素を余計に消費せぬ様、また見 苦しい姿を残さぬ様、総員ベットで横たわって死を迎える様指示 し、乗組員は皆ベットに横たわり従容と死を迎えた様です。
この伊33の話しは吉村昭の作品「総員起こし」で本になってます。 乗組員の遺書の一部を掲載してありましたが、家族向けではなく この事故の原因と再発防止の提言など、他の潜水艦仲間と日本の 将来を思う内容が多く使命感の強い男達だったのだ、と思ったも のです。 でもここまですべてが3に絡んでくると不思議なものです。 「真夏のオリオン」で親友・有沢艦長の乗艦である伊81は壮絶 な最期を遂げましたが、この艦名(艦番号)も3の倍数でした。 |
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□さんざんの3/うきき
(2521)投稿日 : 2009年06月28日 (日) 01時13分
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すごい力作をどうもありがとうございました、岩屋城さま。 こんなサイトのBBSに書きつづっていただけるとは本当にありがたいです。
ご存じのように「死」につながる「四」はゲンを担ぐ武士にも嫌われてたとえば書状に書く四月でも「四」の字を書く代わりに点を4つチョンチョンチョンチョンと打つようなことが行われていましたが…。海においては「3」なのですね。 この「3」の数字は偶然か必然か…拝読するに度重なるエピソードがすごくてゾッとするほどですが、何よりも乗組員の方々は痛ましい思いをなさったのですね。 密室で酸素を吸いつくす世界なんて考えるだけでも…苦しいです…あぁ、やっぱり絶対に潜水艦の乗組員にはなりたくないです。
>まるで眠っている様に 「出口のない海」で、回天の中で主人公が腐敗してなかったのが「えー。」と思ったのですが、そのお話を伺って、不自然ではなくなりました。そっか…腐敗しないのですね。
あと、乗員2名のみ生還のくだりが驚きました、潜水艦から出て生き延びる…そういうこともありあえるのですね。肺が爆発しないように苦しみを押さえてじんわりと上昇しなくてはならない(?)…グランブルーの世界までも思い出してしまいました。
それにしても、遺書…最後まで大多数の利益を考えて尽くす…泣ける話です。 |
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□艦の運。/岩屋城
(2522)投稿日 : 2009年06月28日 (日) 19時38分
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恐れ入ります。書き始めるとついつい力が入ってしまいました。 潜水艦乗りは「3」を忌み嫌ってましたが、他の艦種の将兵は 何ら関係ない3でした。他の艦にはちゃんと名前がついてます からね。ただ、駆逐艦などでも事故で沈んだ艦の名前は縁起を 担いでその後終戦まで同じ名は付けなかった様です。 フネは、その誕生の時=進水式で不祥な事が起きると完成後に 不運な命運を辿る…というジンクスがありまして、戦艦大和型 の3番艦として起工され、途中から空母に変更されて完成した 当時世界最大の空母「信濃」は進水式の際に考えられないトラ ブルに見舞われ、竣工直後、呉へ回航の途中でアメリカ潜水艦 に襲撃され、完成後わずか10数日で沈没…。その横須賀から の航海途中も不運が連続して被雷し、退避の際も不運な不手際 が続いた為に被雷から相当時間後に沈んだにも拘らず1500 名も水没するはめに。 逆に、奇跡的な幸運が危機の度に連続した遂に生き残った駆逐 艦「雪風」を始め不思議な幸運艦もあり、やはり「運」という はヒト同様ある様です。 |
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□畝傍はどこへ…/うきき
(2523)投稿日 : 2009年06月30日 (火) 02時14分
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岩屋城さま: 私としたことが…「3」は潜水艦乗りさん限定のアンラッキーナンバーなのですね。おほほほほ。(^_^;) 今でも自衛隊の潜水艦乗りさんは3嫌いなのかしら…。 でも、そういうエピソードを知っていたら、今の潜水艦乗りさんにとっても気持ちのいい数字ではないでしょうね。
信濃の悲劇は私も何かで読んだことがあります。 でも、進水式って完成前にやるもんなんですか…存じませんでした。(+_+)…そっか、出来上がって初めて浮かべてみて浮かばずにクルンとひっくり返ったりしたら、それこそ苦労が水の泡ですもんね…。 でも、その信濃、1500名もの多くの方々が水没とは…すごい単位ですね…想像を絶する人口…。 そう言えば、潜水艦の艦長はは、戦艦の艦長と違って、艦と一緒に運命を共にする義務はなかったのでしょうか。オリオンでは倉本艦長は「離艦!離艦!」って言って率先して潜水艦から出て行こうとしてた気がするので…。あの時の行動のはやきこと風の如しでしたが…ほんっと、どこへ離艦すんだいっ!…って感じでした。潜水艦は駆逐艦みたいにある意味消耗品レベルだったのですか??
あ、話が変わって失礼します。 先日初めて安楽平城跡に登りましたよ。地元の方に教わった登山口から行くと、道跡がよく判らなくって木に巻いてあるテープを頼りに藪をかき分けて進むような感じでした…。帰りは奇麗な階段が施してある登山道を進みましたが、どの登山道が一番よかったのでしょうか…いや、もう行かないでしょうけど…。山頂付近一帯はチョコボールのような丸い巨石がゴロゴロしていて不思議な感覚でした。 |
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□あらひら/岩屋城
(2524)投稿日 : 2009年07月05日 (日) 11時28分
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うききさん、安楽平山城に登りましたか! 福岡市博物館の常設展示特別展を見てあったので恐らく 登られるとは思ってました。北西の重留から登ったので すね。違う道から降りて親切な方に救ってもらえて良か ったですね。でも山で道を間違えるとほんと危ないです から気をつけてください。 私も4回程登りましたが、初めて登ったのは歴史仲間と 十数年前のことでしたが、私の母系の先祖がこの小田部氏 と縁があると本で知ったのはその数年後でした。私は4回 とも南東の脇山側の、城の原からの正面道(?)から登りま した。その麓は昔は荒平城下町で、そこから車の幅ギリギ リのコンクリート道を進み「城主小田部鎮元自刃の地」の すぐ上が道の終点で数台車も停められます。ここは小田部 鎮元公の自刃の地ですが、この道の登り口の荒平神社にも 碑の様に大きい御墓があります。 道を上がって車を止めたとこからは20分余りで山頂に着 きますが、山城址だけあって登山道は攻めにくく造ってあ って巨石ゴロゴロで結構険しい登山道ですね。 福岡の某 老舗百貨店の元創業者一族の先祖は小田部鎮元公の筆頭家 老でした。 この城も大友家が日向耳川(高城)合戦で大敗した後の混乱 を、龍造寺につけこまれて攻められ陥ちた城でした。 嗚呼、大友筑前支配の瓦解…。
進水式は、フネに上部構造物を付ける前の、船殻・船体構 造が完成した頃に執り行います。海に浮かぶフネを造るう えで大変なのはここ迄で、その後は進水後に「艤装」といっ て艦上にブリッジ等の建物や煙突などを建て、光学機器や 各種兵器を搭載するんです。 で、進水式は大和クラスともなると大変で、特に長崎港の 三菱造船で造られた武蔵の進水式は、湾内に滑り込ませる 方式であった為、突然排水量6万7千トンの巨艦が海に入 った長崎港は一気に海面が上昇し、洪水状態になってしま ったとか。呉の大和の進水式は長崎の武蔵とは違い、海水 を逆に流し込む方式であった為、それはなかった様です。
今の海自の潜水艦は番号ではなく名前が付いているんで「3」 伝説はないでしょう。 潜水艦も駆逐艦と同じく、種別上は軍艦ではなく特務艦艇 でしたから、やはり大量生産・消耗でした。 軽巡洋艦以上は軍艦でその長は艦長でしたが、掃海艇や駆 潜艇などと同様に特務艦艇である潜水艦・駆逐艦の長は潜 水艦長・駆逐艦長であり、艦長に相当する所轄長は数隻の 艦を束ねる駆逐隊司令などの司令でした。 軍艦と特務艦の簡単な見分け方は艦首の菊の紋章の有無です。
戦闘艦艇で艦長がフネに残る、或いは最後に離艦の「キャプテ ンラスト」はイギリス海軍の伝統で、明治初期からイギリス海 軍を先生として大きくなった日本海軍は武士道気質と相まって それが受け継がれました。一方、アメリカ海軍は司令官や艦長 などの優秀な人材の喪失を大損害と見る合理的な考え方でした。 ただ、日本もイギリスも戦艦や空母の司令官や艦長はフネと運 命を共にする義務は決してありませんでしたが、マレー沖海戦 での戦艦プリンスオブウェルズのフィリップス中将、ミッドウ ェーでの空母飛龍の山口司令官と賀来艦長、レイテ沖での空母 瑞鶴の貝塚艦長、そして大和の伊藤司令官と有賀艦長など、総 員退去時の部下の離艦の勧めを断りフネに残り運命を共にした 方は居られます。また逆に無傷のフネに移って指揮を継続する という理由で司令部幕僚共々乗員を残して真っ先に違うフネに 移ってその戦いの後も永く活躍した司令官や、一方その時の状 況で止むを得ず離艦したにも拘らず、その後予備役で閑職に廻 された戦艦や空母の艦長も居られます。
福博の街は山笠の飾り山で賑わってますね。今年はやはり大河 の直江兼継モノが多いです。毎朝前を通る博多口のもそうです。 それから今月19日は南北朝期の菊池武光と少弐氏との大合戦 「大原合戦」から丁度650年。リバレインの飾り山になって ます。 |
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□愛のヒト人形が博多に…/うきき
(2525)投稿日 : 2009年07月07日 (火) 00時54分
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岩屋城さまの今までの登城道は、ちょうど私が山を下った時に歩いた道のようです。 帰りには駐車場らしき一角と「自刃の地」がありましたから。 福岡市内でも、悲劇的な合戦があったんだと、何だか不思議な心地がしてしまいます。 城郭講座を受講した時にスクリーンでみた安楽平城の石垣がどれなのか分からずじまいだったのが 残念ですが。 小田部氏の屋敷跡撮影画像もスクリーンで見ましたが 「この駐車場のヘリっぽいのが当時の土盛りと思われます。」 って「言われなきゃ絶対そんなのわからない〜!!!」ってツッコミいれずにはおれない遺構 でした。
戦艦についても、詳しすぎる解説をどうもありがとうございます。 全てが艦と運命を共にするのは義務ではなかったのですね。 色々なパターンのご紹介ありがとうございます。 俺だけ離艦ってのは何かイメージしたことがなかったので意外でした。 しかしどうして岩屋城さまはそこまでお詳しいのでしょうか…改めて「すごい。」の一言です。 現在の戦艦の艦名はひらがな文字ばかりのように記憶しておりますが、昭和のイメージを切り離すためでしょうか…。
山笠の飾り付け、私が一番気になるのは福岡ドームの「長久手の戦い」です。 どうやら森長可人形もあるようなので見に行かなくては(義務)。 |