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倭城の研究
なか●し (2800)投稿日:2010年12月14日 (火) 23時49分 返信ボタン

この前、大阪でご本人さんに注文して、うきき先生もご執筆されている『倭城の研究』が届きました。
「森忠政家研究家」って誤植になってましたですよ。
森可政について勉強します。


□コレ、いいですね。/なか●し (2801)投稿日 : 2010年12月14日 (火) 23時51分

追伸。
なか●し、コレ採用します(^^ゞ

□●の中がどなたにでも100%想像できますね(^_^;)/うきき (2802)投稿日 : 2010年12月15日 (水) 22時28分

 「森忠政家研究家」は、私は何も入れていなかったのですが、Kさんが追加くださいました。きっと森家は森家でも「森忠政の家」の研究家だよという意味と思われますので、誤植ではないと思われます。(゜b゜)シィ〜。

筑紫家度80%のなか●し様!!
8月に津山でもご一緒した城仲間が九州に来ることになり、個人的には二度と行くかいと思った広門の勝尾城にまたしても登る事になってしまいました。今度は麓から徒歩ではなく林道から行きたいのですが、林道へはどこからどう入ればいいのでしょうか?以前ブログにコメント入れてくださっていたので質問してみました。
その日は筑紫家の城三昧です(恐怖)…。(^_^;)
きっと山頂で森家欠損症になってしまいます。

□その節はお世話になりました。/ARI (2803)投稿日 : 2010年12月16日 (木) 00時39分

◆なか●し先生
その節は大変お世話になり有難うございました。

私が、筑紫広門公の勝尾城に初めて登ったのは
平成7年でした。それから15年間で10回ほど登り
ました。山登り仲間や史跡探訪仲間を連れて。
山頂の三段から成る城跡も趣き深かったですが、
その麓をはじめ全体の地形が、以前行った越前の朝倉氏
の一乗谷遺跡を彷彿させ、また豊前の城井谷の様でもあ
りますね。
林の中にも踏み込みましたが、筑紫氏家臣の屋敷群らし
き石垣も確認できました。
そのちょっと下流の四阿屋の清流はすばらしく、昔は
毎年夏には何回も幼かった息子達を連れて行っては水遊
びさせていたものです。
この勝尾城の麓の四阿屋辺りは、鳥栖市民だけではなく、
私ら筑紫野や太宰府の者、久留米市北部の方々にも有名
な処です。
私もこの猛暑の夏もひとりで、筑紫春門と川上左京亮の
戦国最後の一騎討ちの地の槍突き岩と、両者の慰霊碑、
左京亮の墓所に行ってきました。川上左京亮の慰霊碑に
はいつ行ってもお花が手向けてあり、心が和みます。 

◆うききさん
こんばんは。勝尾城には結構登りましたが、あの居館跡
から左と右にある2つの登山道しかないと思うのですが。
居館跡へ登る階段下から延びてるあの歩道は、九千部山
への登山道です。 
九千部山の山頂へ続く林道(車道)は、ここ筑紫野からあ
りますし、何度となく走りましたが、九千部山の支尾根
である勝尾城は…。 ただ、車で九千部山の山頂へ行き、
そこから歩いて勝尾城=城山まで下るルートはあるでし
ょう。

□勝尾城の登り方。/なか●し (2804)投稿日 : 2010年12月17日 (金) 12時41分

林道はですね。筑紫館跡のある谷ではなくて、手前の四阿屋神社から右手の新幹線橋のある河内谷の道を登って勝尾城の東側へ行きます。
しばらく道を登っていくと、交差するように林道がありますので脇道から入って西側へ折れてしばらく山裾を走ってトンネルまで来たらそこで停めてください。

トンネル脇に山道があってそこを山裾伝いに歩いて行くと、筑紫館跡からの登山道と合流します。(トンネル脇の谷から直到しても大丈夫ですがご自由に、笑)

以上です。
案内がないですが注意して下さいませ。

/なか●し (2805)投稿日 : 2010年12月17日 (金) 12時43分

と見てたら、4年前の読売新聞の記事がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saga/kikaku/014/9.htm

参考までに。

□筑紫氏で今年の城おさめ?!/うきき (2806)投稿日 : 2010年12月18日 (土) 00時20分

 詳細な林道情報と読売新聞記事をどうもありがとうございました。
なか●しさんも、ARIさんも「あの筑紫広門の」勝尾城に2ケタ回も登られているとは
すさまじいですね。
なか●しさん渾身の縄張り図は何かの本に掲載されていますでしょうか。
ともかく、私の2回目の勝尾城は麓から登らずに林道経由で済みそうなので安堵いた
しました。
念のため、ストック持参で支城もセットで行ってまいります。
個人的には勝尾城よりも葛籠城の堀切が楽しかったのであっちもゆっくり見たいですわ。
それにしても、私が森家じゃない城で今年の城おさめとは…。(^_^;)
ちなみに私に直登はムリです(笑)。

□今週土日の基肄城…寒いうえに雨の予報。延期の危惧…/ARI (2807)投稿日 : 2010年12月21日 (火) 23時25分

なか●し先生が書かれた勝尾城の車道ルート、だいたい解り
ました。そのルートがあったのですね。
今の処、私は登城予定はないですが、うききさん、気を付け
てそのルートで登ってきてください。

この月・火は東京出張で、いま先程福岡に帰ってきました。
ただ、羽田→日本橋にある支社で仕事(会議)、夜は東京の
同じ部署の連中と飲んで→翌日支社で仕事(会議)→羽田…
で、史跡ナシのいつもの福岡帰着パターンです。

□おかえりなさい/うきき (2809)投稿日 : 2010年12月23日 (木) 01時07分

 東京出張お疲れ様です。私も東京出張ないかな〜武相荘に行きたいンですよねー。

 時に今日発表の天気予報では土日はうまい具合に「佐賀・くもり」とのことですね。そして福岡は雨か雪ですが。積雪だけはよしてほしいですわ…積もると車が出せずに困る。(^_^;)
しかし一日中、広門ん家をぐるぐるしてればいいダイエットにもなりそうですね。久々のトレッキングシューズを履いてのお城登りとなります。

先日は有難うございました。
ARI (2789)投稿日:2010年12月02日 (木) 00時08分 返信ボタン

先日の福岡城探訪、有難うございました。
あちこちの中世・近世のお城や古戦場跡とかには
行ってるものの、地元の疎さを再認識しました。
…で、なか●し先生の事を、私の史跡探訪のメン
バーに電話でその夜話したら、なか●し先生の事
は、かなり昔から知っているらしく、先生の著書
を何冊も持っていて、先生の他の中世のお城の研
究の事も知ってました。その彼は個人事業主ゆえ、
参加で後から教えたんですが、かなり羨ましがら
れましたよ。
で、うききさんと福岡城探訪したうえに、皆んな
で楽しく珈琲タイムも持てて楽しかったですばい。

□深い世界を垣間見るのは楽しいです♪/うきき (2791)投稿日 : 2010年12月05日 (日) 16時32分

ARI様;
お返事遅れてすみません。
先日はどうもありがとうございました。
ARIさんとも久々にお会いできて一層楽しくなりました。
防寒もしっかりなさっていてさすがですね。
私達はそこまで着こんでおらずに「寒い!寒い!寒い!」の連呼でした…。(^_^;)

 なか●し先生は福岡県内の城郭の縄張図も沢山書かれていらっしゃいますんで、
私も、先生と知り合う前から見ていた安楽平城の縄張図の製作者が先生だったり
して、前々から知らずに恩恵にあずかっていたんだなーと。(^_^;)
また機会があれば、そのお友達ともどもご参加いただけるといいですね。

□あの日は寒かったですね〜/ARI (2794)投稿日 : 2010年12月06日 (月) 00時09分

福岡城探訪の際は、いろいろと有難うございました。

「坂の上の雲」第2部、遂に今日から始まりましたね。
豊後竹田出身の広瀬大尉のロシア女性との恋のシーン
が多く、広瀬大尉は彼女にも竹田の話しをしてましたし
ロシアのVIPの場での「荒城の月」の演奏とその後のロシ
アVIPの反応も面白かった。
なか●し先生の竹田の地に、また行きたくなりました。

何度も登った安楽平城の縄張り図の事、事前に知ってい
たら、なか●し先生とその折(珈琲タイム)に話したかった
です〜。その図を見ながら十数年前から何回も登ってまし
たし。大友家が支配していた戦国末期の筑前大友5城のひ
とつで早良区エリアを統治する城でしたし、その城主の
小田部鎮道(鎮元)公は、私の前職の会社と関係あるうえに、
小田部公の子息は、私の母系の先祖に大いに関係ありますから。

□実は原作を読んでおりません。/うきき (2795)投稿日 : 2010年12月09日 (木) 00時24分

 下のガ島トピックのレスを含め、どうもありがとうございます。

『坂の上の雲』
私にとっても楽しみな2部が始まりましたが、タイトルが「死す」の連続。(^_^;)
アリアズナとボリスは戦後、どうなったんでしょうね。
アリアズナに関しては最近、父親のことがニュースになりましたが、その後の
情報まで追っかけられないのかしら…。
しかし、あそこで荒城の月が来るとは思わなかったけど、竹田つながりですね。

クレジットカードのポイントで図書カードを手に入れたので、
なか●し先生も書かれてる『福岡県の城郭—戦国城郭を行く—』を買ってきます(^O^)♪

□ARIアズナ/ARI (2796)投稿日 : 2010年12月11日 (土) 11時59分

昨日発表された毎年恒例の、清水寺の貫主の今年の漢字
は「暑」でしたネ。
今年の夏の暑さは凄まじかったですが、僅か数ヶ月経っ
て寒くなってきた今はそれも忘れつつある…ヒトは忘却
によって生き延びて来れたのかも…。

「坂の上の雲」の戦艦三笠でのシーンは、横須賀の記念
艦三笠(本物)ではなくて、石川県にある実物大レプリカ
で撮影されてるんですよね。20年位前?の沖田浩之と
三原じゅん子(今は先生)主演の日本海海戦を扱った映画
「海ゆかば」では、横須賀の三笠でロケしたんですが、
大事な記念艦だけに多くの爆破シーンでキズ等付かない
ようにスタッフは大変だった様です。未だにその映画の
パンフ持ってます。
先週の「坂の上の雲」は日清戦争で、龍馬が死んで僅か
27年しか経っていないんですよね、世界に冠する海軍
国になりつつあったあの時代、殖産興業・富国強兵。日
本は、坂の上の雲を目指して邁進してたんでしょうね。

今年最後の登山&史跡は、例の歴研仲間を「基肄城」に
ご案内してきます。

□森家の城で〆たいのに(^_^;)/うきき (2797)投稿日 : 2010年12月12日 (日) 00時22分

寒いですね。(+_+)

 昨夜、外にいて凍えそうになっていたら、コンビニからアイスを買って出てきた人と遭遇し、
さらに寒くなりました。あり得ない…orz
 三笠、本物を含めて、石川のも観に行きたいと前々から思っているのですが、
森家に対する時ほど腰が軽くなく、まだ目にしておりません。石川県自体がまだ目にせぬ県。
金沢には織田信長の墓もあるというのに。(^_^;)

私も、年末には友達を案内して基肄城に行くのですよ。
勝ノ尾城の存在にも気づかれたので行くことになったのですが、前回のように
まともに登ってたら討死ぬので、林道をさがして車でそこまで行きます。

□この冬は、アイスよりも冷やっこい「難所ヶ滝」にご案内しましょうか!?/ARI (2798)投稿日 : 2010年12月13日 (月) 00時10分

「坂の上の雲」、いよいよ日露開戦!です。
海軍大学校の教官となった秋山少佐が行なった兵稘演習。
あれは太平洋戦争中でも行なわれていて、作戦実施可否の
重要な判定材料になってました。ドラマのとおり、彼我の
敵艦の砲弾の命中確率はサイコロで行なって判定していま
した。ただ、太平洋戦争時は艦砲ではなく、空母の航空戦
の要素が主で、希望的観測の要素が入って誤判断してしま
って、それが悲惨な結果になってしまったのが明治期とは
違う様です。

私は小学校迄は横須賀に住んでいたんで、「三笠」には
小さい頃から結構行ってましたよ。最近行ったのは5年前
位ですが、三笠は、自宅の近くにあった横須賀の「ペリー
公園(ペリー上陸記念碑)」同様、第2のふるさとです。

私も「基肄城」に行くのは、年末の日曜日ですから、ひょ
っとしたら、遭遇するかも知れませんね。基肄城水門から
史跡を巡ります。

□ 難所ケ滝で氷浴び/うきき (2799)投稿日 : 2010年12月14日 (火) 00時52分

 サイコロ振ってたんですね…あの場面、よく見てなくって何か別の作業をしていて
顔をあげたら場面が反省会になって、さらに次の瞬間には広瀬さんまでいました。
来年の再放送でチェックします。(・。・;

 どうしよう…広瀬どの(ドラマのほう)の、どっしりとした身構え方、かっこよすぎです…
こんな演技のできる役者さんがいたのですね。(-_-*;)
真之の女に関する質問スルーも素敵。
たしか竹田の広瀬神社にはアリアズナの写真や、アリアズナの妹が広瀬さんの身内に
宛てた手紙も展示してありましたよね?
もう一度、色々と意識して見に行きたいですわー。


基肄城、私たちは前日入りになるかと。
モチのロン、あのゴージャスな水門は外せませんが、上に行くのは時間の都合ではしょって
草スキー場に車で登るかと。(^_^;)

ちなみに・・・
しまちゃん (2782)投稿日:2010年11月24日 (水) 11時14分 返信ボタン

 戦闘機って、前座席は操縦で、後部座席は目的地へ向けて風力や速度の計算があり、操縦に失敗すると、前座席の人は助かっても、後部座席の人は逃げ送れて亡くなる確率が高かったそう。義父は、後部座席の訓練を受けていたそうです。

□海軍機いろいろ、男もいろいろ/ARI (2783)投稿日 : 2010年11月25日 (木) 00時32分

あれれ、レスではなくって、またスレッド立てられたん
ですね(笑)
複座式の戦闘機はあるにはありましたが、海軍の複座戦
闘機は、左右の主翼にそれぞれエンジンがある、夜間戦
闘機「月光」くらいで、生産機数も少ないです。
日本に限らず戦闘機は殆ど小型ですばしっこい「単座」
の一人乗りです。(邦語:戦闘機=英名:ファイター)

義父さまの乗っておられたのは、いわゆる戦闘機では
なくって、複座(二人乗り)の艦上爆撃機ではないでしょ
うか? 後部座席の搭乗員=偵察員で、書いてある通り
航法(風力や速度の計算など)の他、敵との交戦中は追尾
攻撃してくる敵機への銃撃が主任務でしたから。
大戦期であれば、99式艦爆、または彗星艦爆… でし
ょうか。或いは攻撃機種ではなくて偵察機であったかも。
ちなみに三座(三人乗り)は、艦上攻撃機(雷撃機)で、
魚雷攻撃や高高度からの水平爆撃が任務です(97式艦攻、
天山艦攻)。

□エヴァに出てくるキャラの名字が戦艦な件/うきき (2784)投稿日 : 2010年11月25日 (木) 23時01分

 おおっ!なんでもツルツルと情報を出してこれるARIさんすごいです。これはカレンダーをお買い上げしないと。
(^_^;)

 うちの祖父の一番下の弟も戦闘機に乗っていたそうですが、敵艦の偵察に行ったまま行方不明になってまだ帰ってきません。
自分の最期がどこでどうなったかも知られぬのも切ない話ですね。

 風邪をひいたことのないARIさんの元気を分けてください。
私も大事な週末のために、今日中(あと8分)に風邪を完治させる予定です。

あ、しまちゃんさま、津山市発刊『美作の山城』にもオマケで岩屋城の縄張図がついていました。(^O^)/

□うききさん、戦闘機カレンダー下され。/ARI (2785)投稿日 : 2010年11月26日 (金) 22時40分

うききさんの祖父さまの弟さんも海軍のパイロットだった
のですか!
良ければ、その行方不明になられた海域(例えば:●●島
の西●キロ辺り)と、年月日(例えば、昭和19年●月●日
●時頃)と、出撃した基地名とかを教えてください。
勿論、メールで。
判るかどうかは不明ですけれども、ただ、今年の3月には、
取引先の女性と飲んで話していていたら、その方の祖母様
の兄で、戦死された陸士出のパイロットの最期の状況が
判らず、知りたいという事を聞いて、↑の様な日時と戦死
された場所のデータを聞き、各種データや本で調べてみた
ら、その戦死された時の状況までが詳しく掲載されている
本を見つけ出し、その本を取り寄せて差し上げた処、涙ぐ
んで喜ばれ、嬉しかったです。 さらに会ったこともない
その親族の方もその本の存在を聞いて取り寄せて読み、
ARIさんは感謝されていたとの事です。 

□扇風機カレンダーなら。/うきき (2786)投稿日 : 2010年11月26日 (金) 23時27分

 以前の日記でも公開した範囲でここに書かせていただきます。

 大叔父(祖父弟)はガダルカナル島「C地区」あるいは「0地区」の偵察に行ってそのままです。
 これは大叔父の履歴書みたいなのに書いてあったのですが、この部分は黒く塗りつぶされた上に紙が貼ってあり、意図的に抹消されていました。工夫をこらしてみて、隠された文字がガダルカナル島であるのはは明白ですが、それに続く「C地区(もしくは0地区)」とは、どこなのかいまだ何かわからぬままです。
ガダルカナル島というだけで、どエライ目に遭ったことは想像はつく訳ですが…。亡くなった日付は「戻ってこないので戦死したとみなす。」とした日だったような…。
詳細はまた実家に帰ったら見てみますので、どうぞよろしくお願いします。
 祖父のもう一人の弟はレイテ島で太ももに銃弾を受け、翌日に至る間に失血死していたとのこと。こちらの弟の最期は、戦後、同じ隊の方が祖父を訪ねて来て語ってくださったということで存じてます。

 長男の祖父自身も当初はノモンハンへやられるところが、脚気になって隊を外されたそうで、でも、それを知らぬ周囲からは祖父は戦死したものと思われてたそうです。
終戦の直前に広島の比治山の部隊にいたところを東京のガスマスク研修に行かされて被爆をせずにすんだのも祖父です(部隊は全員死亡)。
「弟たちがワシを生きのびさせてくれた。」というのが生前の祖父の口癖でした。

□おそらく・・/しまちゃん (2787)投稿日 : 2010年11月27日 (土) 20時27分

 ARI様のおっしゃる通りでしょう。義父はギリギリ出撃しないで済んだ世代だそうです。少し上の年齢の方は、出撃されているようです。なまじっか、サイン・コサイン・タンジェントを学んでいたため後部にまわされたのだそうです。
 来年のカレンダーには、どの戦闘機がのっているかしら?


うきき様
 その縄張り図って、「守る会」作成ですか?私がお祭りで見たのとおなじものかも。

□福岡が寒い/うきき (2788)投稿日 : 2010年12月01日 (水) 01時28分

 しまちゃんさま、確認してみると、私の手持ちの付録の縄張り図は杉岡さんという方の作でございましたよ。(^u^)
別のものでしょうかね。

□ガダルカナル、他いろいろ…/ARI (2790)投稿日 : 2010年12月03日 (金) 00時37分

>ガダルカナル島「C地区」あるいは「0地区」の偵察に…

ガダルカナル(以下、ガ島という)に海軍航空隊が作戦行動
したのは、昭和17年8月7日の米軍ガ島上陸から同年12
月迄です。そのガ島に作戦行動をかけたのは海軍のラバウル
基地のみですから、恐らくそこの基地に居られたと思います。
「C地区」或いは「0地区」というのは、地上の陸軍では
なくて、高空から俯瞰する海軍側のエリア区分と思います。
(そもそも当時の陸軍はアルファベットは使わないし、海軍は戦時
中でも明治以来アルファベットだらけ)ガ島はかなり大きな島です
が、ガ島5ヶ月間の日米争奪の焦点は、島の北東部のルンガ
岬の内側・ヘンダーソン飛行場周辺に限定されますからその
辺りと思います。
ガ島は地上だけで2万余の戦死者と戦病没者を出して、昭和
18年2月初旬には撤退して米軍の完全支配下になりますが、
翌年4月に「い号作戦」って言う、日本海軍のソロモン海域
での大きな航空攻勢が展開され、その折にも海軍の航空機は
ガ島に攻撃を仕掛けています。
で、そのいずれかと思います。
前者の、日本と米軍がガップリ四ツで戦っていたガ島攻防戦
であれば、当時ラバウルに在った海軍小型機の機種は零戦と
98式陸偵しかありませんでしたから、そのいずれかと思い
ます。
日時と搭乗されていた機種、そして所属航空隊の名が判れば、
もう少し判ると思います。

そして、レイテ島! ガ島の戦いから2年後の昭和19年10
月のフィリピン・レイテ島の戦いは、太平洋戦争のすべてを
通しても最も悲惨な陸上戦です。大本営はあの小さなレイテ島
を最後の決戦場と定め、それ迄のフィリピンの主戦場と定めて
いたマニラの軍団を崩してレイテに移し、中国大陸や千島樺太、
台湾の陸軍の精鋭師団や優秀な航空戦隊(陸軍)を惜しみなく
レイテへ一極集中させて決戦を行なった結果、数ヶ月ですべて
木っ端みじんに壊滅。狭いレイテ島の陸上だけで8万人の陸軍
将兵が戦死し、10月の米軍レイテ上陸時に洋上から援護しよ
うとした海軍は、レイテ沖海戦で連合艦隊の軍艦を悉く沈めら
れ、事実上日本海軍は壊滅しました。残った艦は海岸に係留さ
されて浮き砲台とされ、それ以外に作戦行動できた艦は、戦艦
大和を始めとして僅かであり、翌年4月には沖縄特攻とされて
それさえも消えた事は御存じのとおりです。
そんなレイテの地では、大叔父様はほんと御苦労されたことと
思います。

□12月すら過ぎてゆく/うきき (2792)投稿日 : 2010年12月05日 (日) 16時43分

 貴重な情報の数々、どうもありがとうございました。
ここまで情報が絞れてくるのですね。
お時間をかけてお報せくださり、本当にありがとうございます。
もう一度、亡くなった年月を確認してみます。

 祖父は若いころに父母も亡くし、戦争で未婚の弟2人とも
を亡くして家族がいなくなってしまったので、やはり、大叔
父のことも含めて私たちが気にかけてあげるべきなのでしょ
う。

□今日は暖かかつたですね。/ARI (2793)投稿日 : 2010年12月05日 (日) 23時36分

すみません、だらだら書きつなれてしまいましたが
私の知識程度でお役に立てるなら嬉しいですから、
判ればお知らせください。

戦国期や江戸期の史実も日本史上の大事な歴史ですが
65年経ったあの大戦もこれから先、永く後世に残る
歴史です。
まだその当時を知る方が存命であり、すぐの直系の我々
が調べてお伝えすることは意味があると思います。

比叡山に行きたいです。
しまちゃん (2777)投稿日:2010年11月22日 (月) 21時37分 返信ボタン

★ARI様
 同世代っぽいですね。時代劇チャンネルを増設したい私です。栗塚旭の新撰組も好きです(再放送組)
 回天とか戦争物は、家人が興味をもっているので、(家のカレンダーは、毎年、海軍の戦闘機カレンダー)その手の本も本棚にあります。比叡山は行ったことないので、行きたいですね〜。知り合いは、紅葉まっさかりに行って渋滞で身動きとれなかったとか・・・。比叡山も琵琶湖側からも行ってみたいと思ってます。
 その前に、体力をつけておかなくては!この前の吉野行きで体力の低下を痛感した私です。

うきき様
 明日は岡山へ行って参ります。家人のお買い物に付き合って、果たして目的の場所にたどりつけるのか!?がんばれ私!

□うちの毎年のメインカレンダー=SBホークスカレンダー/ARI (2778)投稿日 : 2010年11月23日 (火) 18時29分

私はアラハン。しまちゃんさんの方が少し若いかも
ですね。
家のカレンダーは、毎年、海軍の戦闘機カレンダー!
いいですね。陸軍でなくて海軍の戦闘機というのが尚
イイ。零戦,96艦戦,雷電,紫電改,月光,二式水戦
等の戦闘機がめくる度に出てくるんでしょうか。
ちなみに、尾部プロペラ式の幻の高性能戦闘機「震電」
は福岡の航空機会社で作られ、今も博多の南郊にその
会社がありますよ。

□毎月戦闘機が!/しまちゃん (2779)投稿日 : 2010年11月23日 (火) 20時18分

ARI様 
 練習用「あかとんぼ」の月もあります。プラモと背景のCG合成でしょうか。毎月雄大な自然をバックに、雄姿が大空を舞っています。震電も掲載された年があったと思いますよ。
 ふすまを隔てた裏側は、比叡山延暦寺カレンダーがこれまた毎年吊り下げてあります。

うきき様 
 今日、岡山市デジタルミュージアムに行ったのですが、え〜!?エスカレーターが動いていない!!10時にならないとドアが開かない。ポスターを前に5分ほど動揺する私たち。エレベーターで4Fに行くと、無料の閲覧コーナーになっていて、窓口にカラーパンフレットが!人がいないので、このパンフレット買えるのだろうかと、おそるおそる中に入ると、受付の方が、はいどうぞと無料でパンフレットをくださいました。岡山大学付属図書館の企画展示とかで、土曜日はイベント?があったようです。中国四国地方のお城の絵図特集でした。津山城の図版で一番大きい印刷物は、ミュージアム入り口のポスターでございました・・・。パンフレット送りますね〜。

□森家カレンダーはないのか/うきき (2780)投稿日 : 2010年11月23日 (火) 20時31分

うわぁあ、カレンダーの話題の半分についていけてないです。
(・O・;)

しまちゃん様、パンフいただけるのですか?!
ありがとうございます。
 
今、風邪ひいてます。
周囲はかなり流行っている様子。
おふたかたも暖かくしてお過ごしください。

□嗚呼、赤とんぼ…/ARI (2781)投稿日 : 2010年11月24日 (水) 00時37分

★しまちゃんさん

>練習用「あかとんぼ」…
93式中間練習機 ですね。姿が目に浮かびます。
大戦中の海軍のいかなるエースパイロットであっ
ても初心者の頃はこの機種で基礎を学んで成長し、
又、大戦末期の若い特攻隊員も課程として、必ず
この機種で飛行技術をマスターしたうえで、前線
に向かったものなんです。 
内地の練習航空隊では、初心者の技術習得の安全用
に機体は朱色に近いオレンジ(=赤とんぼ色)に塗ら
れてました。
後部座席に座っている鬼教官から、棍棒で終始ドツ
カレて涙ぐみながら低速度でフラフラ上空を飛んで
飛行技術を修行していた20歳前の青年達を、地上
から見上げる庶民・農民や、基地航空隊の方は、
親しみ込めて「赤とんぼ」と呼んでましたもんね。

こんな超低速の「赤とんぼ」も日本存亡の危機にあっ
た昭和20年7月には、可能性ゼロと解っていながら、
沖縄海域に向け編隊を組んで特攻機として出撃させら
れたんです。
しかし、強大なアメリカ海軍の高性能のグラマン戦闘機
が待ち構える前に、こんなボロ練習飛行機で出撃させら
れた若い彼らの執念ゆえと思いますが、こんな超低性能
で無謀な「赤とんぼ特攻」で、アメリカ駆逐艦に体当たり
して、見事に撃沈した事実があります。書籍にもなって
今も販売してあり私も読みましたよ。

★うききさん
拙者、山登りを始めて2年後の平成8年以降14年間、
風邪をこじらせた事がないのです。厳寒・酷暑の登山
環境の中で調整機能が備わったんでしょうね。
では、週末よろしくです。

♪京都〜大原・三千院〜
ARI (2773)投稿日:2010年11月18日 (木) 23時45分 返信ボタン

■しまちゃんさん
柳生一族の陰謀、影の軍団、魔界転生…
しまちゃんさんと私は子供の年齢からみても恐らく
は同世代でしょうね。
で、面白かったですね、あの時代のアクション時代
劇は。柳生一族の陰謀は最近BSでも再放送をやっ
てて毎週観ていました。

■うききさん
回天の島・大津島を探訪しての熱い思い… 
伝わりましたよ。
私が歴研メンバーを連れて大津島に行ったのは、もう
11年も前ですが、日本人の心に訴える地として永遠
にあのままであって欲しいものです。

ところで先日の土日、突然にレンタカーで帰ってきた
長男の、京都までの復路に便乗し、深夜2時前に福岡
の自宅を出発し、高速道路8時間・650キロを息子
と交代で運転し、急遽京都に行ってきました。
朝京都に着いたその足で、ひとりで元亀年間に信長公
が襲った比叡山延暦寺へ車で登り、根本中堂や大講堂
を巡ってきました。将に紅葉のピークで絵葉書かカレ
ンダーの様に美しく荘厳な堂宇でした。この比叡山は
ずっと昔から行きたかった場所でしたのて、初めて訪
れ感激でした。
翌日は、長男と京都北郊の大原に行ってきました。
三千院へは30年ぶりでしたが、ほんと美しい処です。
そして建礼門院ゆかりのあの寂光院にも立ち寄ってきま
したよ。 秋の京はほんと良き処でした。

□しんけんしらは鳥/うきき (2775)投稿日 : 2010年11月19日 (金) 01時05分

>便乗

なんて、素敵なコトバ…(゜.゜*)
それにもまして仲良く父子でドライブ、素敵ですね。

比叡山におでかけだったのですね。ひえ〜!!
私はその中の西教寺にしか行ったことがないのですが(だって光秀が…)、
お話を伺うと私もメインの根本中堂などに行かなきゃいけないのだろうか
と信長好きとして思っちゃいます。
それにしてもちょうどいいシーズンにおでかけでしたね。
京都の紅葉はこっちとは色鮮やかさが全然違うように感じます。

□比叡〜/ARI (2776)投稿日 : 2010年11月19日 (金) 23時08分

元亀2年の信長公の比叡山焼打ちは、あの光秀が主力
メンバーのひとりで、ご褒美に比叡山を管轄する坂本
を所領に賜ってますからね。まさか、その10年半後
に本能寺の変が惹起するなんぞ、夢にも思わぬ頃。
その当時の信長は、VS浅井朝倉連合への対処、そし
て京に繋がる近江エリアの制覇で必死で将にイッパイ
いっぱいの頃でしたですもんね。
西教寺や三井寺のある、坂本の光秀・琵琶湖平地エリ
アでなくって比叡山にも行ってみてくだされ。比叡山
には、東塔,西塔,横川の3つのエリアがありますが、
メインの根本中堂や大講堂等がある東塔エリアの堂宇
が比叡山の中枢と思いますので、是非。

…で、比叡山の事を書いると、平時に御召艦の栄誉に
服し、戦艦大和の艦橋の試作として改装工事をされ、
S17.11月の第三次ソロモン海戦でガダルカナル沖に
沈んだ「戦艦比叡」を思い起こしてしまいます。

福岡城跡の縄張りを歩く勉強会しまーす。
なかにし (2765)投稿日:2010年11月16日 (火) 21時42分 返信ボタン

こんにちは。お城屋さんです。

うききさんのリクエストにお応えしての福岡城跡を案内する企画。
ようやく、11月28日日曜日、13時から行いますヽ(・∀・)ノ
小雨決行です。

こんな感じですのでよろしくお願いします。
http://nakatake05.blogcoara.jp/nakanishiyalab/2010/11/post-5704.html

□学びます!(^O^)//うきき (2766)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 00時52分

書きこみありがとうございました、なかにし様。
 どちらの掲示板かと思いきや、こちらの掲示板に書きこみくださったのですね(笑)。お探ししました(笑)。

 福岡城探検、いよいよその日が近づいてまいりましたね。
福岡城は森度1%くらいながら、勝手知ったる地元の名城。
しかし、親しみはあるのに知らないことばかりなので、この機会に色々学ばせていただこうと、とっても楽しみです。
m(_ _)m

□ついしん/うきき (2767)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 00時56分

 あ、私チームからは、私を含めて4名参加です。
どうぞよしなに。(^O^)



/なかにし (2768)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 01時18分

よろしくお願いします。
適当なところに転載しておいて下さいませ。
福岡城は桝形虎口が天守台からスタートする縄張りです。
津山城や熊本城と同じグループになります。

でも、森度で行くなら次回は小倉城でしょうか?

/なかにし (2769)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 01時21分

ところで、『倭城の研究』最新号に寄稿されたんですか?
刊行されているのも知らんかった(´д`;

注文しなくちゃ。

/うきき (2770)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 14時48分

>森家で行くなら小倉城もいいですね。
あそこにも見るべきものがあるのでしょうか?
私は北九州出身なので、小倉城こそ昔から見ているお城ですが
観光化のために城の遺構を破壊していると聴きますし、
リバー●ォークなどといったよけいな建造物のせいで
城の景観むちゃくちゃですけど。
以外と知らぬ何かがあれば嬉しいです。(^_^;)

森家といえば肥前名護屋城探検もステキですね。
みんなが搦手といっているほうが実は大手じゃないのかとずっと
ひっかかってるんですが…そこのところ、お城屋さんの眼力では
いかがでしょうか。

『倭城の研究』は「短編でいいから森可政のこと書きませんか?」と
言われてOKしたら「20ページで」とのご指定で(短編ってどこ?!)
、韓国のオール漢字の資料も渡され、私はもぅ盛りこみと引き伸ばしで
書き上げました(笑)。
今回はよくお名前を聴く方の他にも、韓国でお城を掘ってる方々も寄稿さ
れてましたよ。まだ、これから読むところですが…(^O^)

/なかにし (2772)投稿日 : 2010年11月17日 (水) 23時45分

書き間違えました、再送。

小倉城も廻るとけっこういろいろあります。
石垣などは連隊時代に積み直しなどが多いようですが主要部は案外残っています。

肥前名護屋城も写真を撮らねばいけないので機会を見て攻めたいものですヽ(・∀・)ノ

□市役所とリバーウォークが邪魔です。/うきき (2774)投稿日 : 2010年11月19日 (金) 00時59分

 忠政が小倉城縄張りパクリの逸話を裏付けるかのごとく、
小倉城と津山城の縄張りの共通性などを見いだせたら、
とっても嬉しいですね。ヽ(・∀・)ノ
小倉城も唐造りで再建してくれればよかったのに、残念です。

踏査会。
なかにし (2771)投稿日:2010年11月17日 (水) 23時44分 返信ボタン

小倉城も廻るとけっこういろいろあります。
石垣などは連隊時代に積み直しなどが多いようですが主要部は案外残っています。

肥前名護屋城も写真を撮らねばいけないので機会を見て攻めたいものですヽ(・∀・)ノ

国宝の旅は、吉野へ
しまちゃん (2757)投稿日:2010年11月07日 (日) 09時11分 返信ボタン

 ご無沙汰しております。今回は、ほぼ○十年ぶりに、吉野の金峰山寺を訪ねて参りました。昔、蛙とびなど見に行ったこともありましたが、今回は蔵王権現拝観です。
 実は、修験の山、何箇所か行ってる私です。
 早めに行って、静かにご対面できました。対面所も設けてあって、障子の仕切りで分けられていました。できることなら西行堂まで行きたかったのですが、時間と体力が足らず、近辺をさらっと見て、秀吉からプレゼントされたという屏風も見て、ロープウェイで下山。
 その後正倉院展で琵琶を見て、興福寺の五重の塔の一層や、東金堂の裏で、50年ぶりに元の位置に戻っている毘沙門天の弟クン(ウルトラ兄弟?)を拝観後、元興寺へ。
 ここの禅室の屋根裏探検、予約制なのですが、当日空きがあればOKということ。アタックすると、1名空きがありますのご返事。知らない団体さんに交じって、ヘルメットつけて、屋根裏も覗いて参りました。奈良時代の木材と昭和の木材が同じ屋根裏に並んでいるし、鎌倉時代の木材が、天井裏においてあったりと、とっても楽しい?屋根裏探検でした。
 2日目は、長岳寺で地獄絵図と安陪文殊院の獅子から降りた文殊様を拝観後帰途につきました。

BS朝日では、お城の話がはじまって、第1話は藤堂高虎でした。お城もいっぱい出て、銅像もシャープでかっこいい高虎さんでした。

□役小角/ARI (2758)投稿日 : 2010年11月08日 (月) 00時16分

しまちゃんさんは、吉野に行かれましたか。
私は大和路は、奈良市や斑鳩には数年前に
行ったものの、天理・桜井以南には遠〜く
20歳代前半に、山野辺の道を歩き、その
数年後、鎌足さんの談山神社の紅葉に感激
して以来です。
金峰山寺といえば、役小角さまですね。
こちらの脊振山の山頂(1055m)のすぐ下に
は役小角の像があり、登山で通る折には
拝んでおりますよ。

□つい役小角を探してしまう私/しまちゃん (2759)投稿日 : 2010年11月08日 (月) 18時35分

 前鬼・後鬼を従えた役小角さま。山や寺社めぐりのとき、彼の姿がないものか、つい見回してしまう私。いろんな所にさりげに祀られていて、お姿をみると、つい嬉しくなります。山之辺の道もそのうち歩いて制覇したいです。(今は体力不足が・・・)

□山ノ辺の道!!/ARI (2760)投稿日 : 2010年11月08日 (月) 23時38分

山ノ辺の道! 懐かしい! 古代日本の国道一号線。
遠く、大学3年の夏に山ノ辺の道を北の端から南端
まで歩き、社会人になって2年目の晩秋にもまた行き
山ノ辺の道を歩きました。それぞれ20歳と22歳の
時で、現在の私の長男と次男の歳の頃のことですが、
今でもまた行きたい…歩きたいと思っております。

□よきひとのよしの/うきき (2761)投稿日 : 2010年11月09日 (火) 23時19分

秋の吉野とはいいところへお出かけでしたね、しまちゃん様。
色々とお得でラッキーな思い出をつくられたようで。
お宿もお得なお子さんのおうち?(^O^)
 蔵王堂には私も昔行きましたが、桜の葉がピンクになって綺麗なものでした。その時には宿坊したのですが、その時の朝焼けも、まさに「紫だちたる雲のほそくたなびきたる」という感じで見事。下界とは世界が違っていました!!

 正倉院展には私も行ってみたいデスけど、やはり尋常ならぬ人ゴミだろうと
やっぱり森家のほうに行ってしまいます。
しかし、奈良と言えば柳生の里にも興味がある私…。

□柳生の里!!/ARI (2762)投稿日 : 2010年11月10日 (水) 15時09分

柳生の里! 昔から江戸初期の柳生一族に嵌まって
いた私は、遠く23歳の秋に柳生の里に行き2泊し
ました。 奈良東大寺の南東の新薬師寺の裏手から
山中の道を進むのが、江戸時代から奈良から柳生の
里への唯一のルート。
石畳の「滝坂道」の峠道を歩き続けたんですが、途中
には朝日観音、十兵衛が斬ったという地蔵などの
柳生の里へ修行に向かう武芸者と柳生一族自体の伝
説の史跡が点在してまして、さらに進むと忍辱山(ニン
ニクセン)の峠の茶屋。時代劇のセットさながらの峠の茶
屋でした。街道を始め、いずこも時代劇の撮影に使え
る様な昔のままです。
そしてかなり歩いて「柳生の里」に着くとそこは柳生一
族の史跡一色。
正木坂道場や、柳生陣屋(山岡荘八氏が徳川家康を執筆
した地)、柳生歴代墓、枯れた十兵衛杉、紅葉橋、陣屋
跡の礎石…等。当時は宿泊は民宿数軒しかありませんで
したが、今はどうなっているでしょうね。
行った際は、千葉真一の「柳生一族の陰謀」の最終回ロケ
の数年後でしたんで、土産物屋や大衆食堂にはロケの際
に、千葉真一や茜の志保美悦子、少年の真田弘之らとお
店の方が一緒に写った写真がパネルであちこち飾ってあ
りましたね。 柳生の里 また行きたい処です。 

で、大津島は如何でした!?
うききさん日記のコーナーで拝見しましたが、その他所感
雑感があればお知らせください。

□そのうち行くつもりです。/しまちゃん (2763)投稿日 : 2010年11月11日 (木) 22時15分

 山之辺の道に柳生街道。私の脳内では、お出かけ(歩いて制覇)マップに記されています。足腰を鍛えておかなくては!!ナビは徒歩バージョンも備えています。やっぱり歩かなくっちゃ。
 
 柳生一族の陰謀とか、影の軍団とか見てましたよ。ちなみに、魔界転生はジュリーと真田くんバージョンで育った私です。純真な腐女子(汗)だった私がドキドキしたアノシーンは、本来主役だったハズの十兵衛様もぶっとぶシーンでございました。

 そうそう、11月の終わりの土・日、兵庫の竹田城写真展が津山のくらやホールであります。ちらしを見つけたので、見に行ってみようかと思ってます。

□石原●太郎氏が言うところの一番かっこいいのは「自己犠牲」/うきき (2764)投稿日 : 2010年11月13日 (土) 01時27分

あれ…なんか、以前にもARIさまから柳生の里のお話を
伺ったようなデジャヴが!!!Σ(゜□゜;
なんだろう…。

大津島の件ではありがとうございました。
話題に出した大阪城の残念石は遠すぎるようでしたので、行けませんでした。
回天関係のみの訪問で、あとは島でご飯を食べて帰りました。
あの島には猫がたくさんにましたにゃ〜。

回天に乗ること自体が人権無視も甚だしいことであるいは「人間の命を使い捨て
道具にした」と言う人もいるでしょうが、
回天に乗った彼ら自身は、
国から大きな責務を与えられ、自分が国の役に立つ存在になれるのだという
誇りや気構えを持っていらしたのでしょうか、記念館にあった若者たちの写真の
数々や遺品を見て、そんな風に感じ取れました。
今の世の中で若い人が世の中に対する責務を考えさせられる機会は少ない
ですし、自分が主役になるような感情を持つ機会もないですよね。
逆に、今は社会に見捨てられがちな人、見捨てられていると感じている人のほう
が多いような気がします。
そういうことまでどんどん考えていくと、戦争は嫌ですが「意味を持って生きる」
ってなんだろう。と思います。
しかし、何よりも自分を律して厳しく生きる人の姿というのは余人が胸をうつような
気高さがあります。戦争は本当に嫌ですが、彼らを素直にかっこいいと思います。
恋心や、本当にやりたかったこと、誰かに告げたかったこと、色々な気持ちを封印して
多くの人が回天に搭乗して海に出て行かれたのですね。
それが何だか、やるせないほど美しいように感じるのです。

変な流れになってしまいました。忘れてください。

宝満山の祭り日
ARI (2755)投稿日:2010年11月03日 (水) 16時19分 返信ボタン

今年も「RKB宝満登山会」に参加し、下山後に一緒
に登った友人らと温泉に入り今さっき帰ってきました。
登山口の竈門神社駐車場には朝8時前で千名以上と思
われる参加者(登山者)が長蛇の列をつくり、同局の有
名アナの挨拶と号令のあと恒例の鈴付き通行手形を頂
いて出発。この登山者数ですから登山道は渋滞が続き、
又山頂もキャンプセンターもすごいヒトでした。
今日は快晴で実に爽やかな登山日和で、山頂からは
滅多に見えない「壱岐」まで肉眼で望めましたよ。
35年間、毎年11/3に開催で続いてきた、この宝満登
山会も今回で終了とのこと。漸く若い人の登山ブーム
が到来した中で残念でもあります。

…で次回は今月下旬の秋月さんの「古処山」です。

□豊満ボデー/うきき (2756)投稿日 : 2010年11月04日 (木) 23時32分

 またしても宝満山に登っておいででしたか、オスキデスネー(^_^)
RKBラジオで登山会のことは毎年ちょくちょく耳にしておりましたが、
毎朝聴くスタミナラジオでは、なぜか今年はその話題を出さず、中●一
清さんはご参加じゃあなかったのですね。
 登山もそれだけの人数だとあの狭い山頂の滞在時間てどんだけなので
しょう、それでも壱岐まで見えて、さぞ清々しかったでしょう。
よろしかったですね。
津山まで見えればいうことなしですが。

>「古処山」
またしても山登りですか(^_^;)
ご存知のように私は海に繰り出します。

改名ご披露
ARI (2741)投稿日:2010年10月11日 (月) 16時17分 返信ボタン

今回から、永らく御愛顧いただきました「岩屋城」
から「ARI」へ、HNを変更します。
皆さま、今後とも御贔屓に、宜しゅうお願い申し
あげます。(理由は先日のレスに記載…)

で、秋涼の候のこの3連休、
昨日は「英彦山」、本日は「宝満山」登ってきました。
このふたつの山は御存じの通り、九州修験道のペア
でして、英彦山が胎蔵界、宝満山が金剛界でふたつ
でひとつ。日本三大修験の地のひとつです。
英彦山は、やや遠いので実に8年ぶりの6回目で、
大学時代の友人が行きたい登りたい、とせがむので
連れて行きましたが、やっぱ貫禄ある山ですね。
右隣にある求菩提山にも登りたくなりました。
英彦山ガラガラを買って、小石原の混雑をすり抜け
て江川ダム横を通って貯水状況を見ながら帰ってき
ました。一方、宝満山には今日はひとりで登ったん
ですが、一人だとピッチが早くなり、久しぶりに
1時間ジャストの短いタイムで登れました。107回目。

この処、若い女性に登山ブームが起こってて世間で
「山ガール」と呼ばれ話題になってますね。カラフル
な登山ウェアとソックス、山スカートの下にスパッ
ツ(?)いでたちの女性が2人〜グループで登る姿が
大変目立つ様になってきました。天神にいくつかあ
る登山専門店も繁盛している様です。登山の楽しさ
が分かる方が増えていく事は良きことです。

□そ、そんな、もったいない。/しまちゃん (2742)投稿日 : 2010年10月11日 (月) 21時18分

 九州にも岩屋城あるんだ!と思い、親しみを持っておりましたのに!変えなくても・・・ぐすっ。

 ところで、英彦山は、私も(昔あった)若い頃登りました。すっごく登り応えのある山で、案内の方がいたので、とても楽しかった思い出が・・・。英彦山ガラガラって、おかめと鬼とひょっとこ?の3人衆土鈴ですか?小石原って、焼き物のお店がありましたよね。私の湯のみ、小石原で買ったものですよ。

 今月末は、また国宝への旅に出ようかと思ってます。

□山城ガールも増殖/うきき (2743)投稿日 : 2010年10月11日 (月) 23時46分

★ARIさまΣ(゜□゜;アリ?
あっと言う間に新名ご披露…てっきり筑前岩屋城さんと名乗られると思いきや…。
私もしまちゃんと同じく慣れ親しんだHNを「もったいない!!!」と思います。
またお山に登られたのですね。同じ山にそう間もあけずに何度も行く情熱がお持ちになれるとこがすごいです。
宝満山山頂まで1時間ピッチで登ったら、私はもう5合目あたりで息絶え絶えでしょうね。

★しまちゃん様:
 小石原焼ですよね。===模様が入っているのが特徴で昔は気持ち悪いと思っていましたが、今は味わい深いものを感じます。
私は今週は兼山です。

□HNは「ARI48」にしようとも思いましたが、歳が1つ違ったんでやめました(笑)/ARI (2744)投稿日 : 2010年10月12日 (火) 21時46分

あっ、ご両人に波紋を投げかけてしまいました(汗)
お気づかいさせてしまい済みません。
この岩屋城のHNは、初めてネットを始めた約9年前に
関東の管理人さんの戦国モノのサイトの掲示板に初書き
込みした折、とっさに好きな高橋紹運公がよぎり、暫定
的に「風雲・岩屋城」をHNとして書きこんだ処、それ
から常連さん達から「岩屋城さん」「岩屋さん」とか
掲示板で親しく呼ばれはじめて定着してしまい、そのま
ま現在に至ってました。 偉大な紹運公のこの御城の名
をHNに使う私のおこがましさ。後ろめたさを長年感じ
つつ…。
新HNの「ARI」は、某所でも使ってましたし、うき
きさんへはメールを時折送ってますから御存じですよね。
尚、このHPに最初伺った折は、「高杉春風」だった事
をうききさんは覚えてあるでしょうか? (うききさんが
大分の戸次川合戦・長曾我部信親の墓所探索の折…)。

しまちゃんさんも、英彦山に登ったことあるんですね!
英彦山の東隣の求菩提山にも詳しかったですし、津山に
お住まいなのに、なぜにそんなに豊前の山に行ってある
のですか。で、英彦山ガラガラは、魔除けの土鈴ですが、
売ってるのは、天狗(修験者)が一色印刷してある鈴1個
と、2個の掛けるタイプと、口を開けた様な土鈴で小さ
いながら彩色したのが5個ついてて安定感があり、玄関
に置けるタイプがあり、今回は後者を買いました。

山ガールの出現は、我々中年の山好きには刺激がある
のか、最近登ってなかった数人の山仲間から「ARI〜、
この秋どっか登りたいけん連れってくれ」とかの誘いの
メールが届き始めてます(笑)

□涼しいを過ぎて、ちょい寒むになってきましたね/ARI (2745)投稿日 : 2010年10月19日 (火) 22時07分

ホークス… 今夜の最終戦でCSファイナルステージ敗退…
しかも0対7で…。 福岡は今夜は、一時沈滞…です。
ばってん、3月からの144試合の結果のリーグ優勝での
栄冠が実力の証ですけん。

□いざゆけ〜無敵の〜わかたか軍団〜(゜e゜)♪/うきき (2746)投稿日 : 2010年10月20日 (水) 00時34分

兼山に行っておりました。
ただいまです。

 そういえば以前は高杉春風さんでいらっしゃいましたね…。
思い出しました(笑)

>偉大な紹運公のこの御城の名をHNに使う私のおこがましさ。後ろめたさを長年感じ
つつ…。

では、今まで美作岩屋城だったということで!(^O^)
月末、10月30日は美作岩屋城も山城の祭典イベントがあるのですよ。
人口密度がすごいのでしょうね。
http://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/22,24287,c,html/24287/20101006-214140.jpg

そして話は変わりますが、英彦山ガラガラを知らない私なのでした。

□兼山への帰省お疲れさまでした/ARI (2747)投稿日 : 2010年10月20日 (水) 23時09分

兼山、行かれてましたか。森3兄弟の墓所の復元
状況は如何でしたでしょうか。

>そういえば以前は高杉春風さんで…
この際、ARIでなくて晋作先生ゆかりのHMも
考えましたが… やめました。偉人に恐れ多い。

>では、今まで美作岩屋城だったということで…
で、美作岩屋城って最近このHPで知りましたが、
歴史上は地理的に諸将に狙われた処だった様ですが
実際、いくさとか何かあった処なんでしたっけ。

>英彦山ガラガラを知らない私なのでした…
では、5月の宝満山に続き、次回は英彦山登山に
ご案内しましょう!九州修験のメッカの山。宝満
山とはペアで、つまり英彦山=胎蔵界、宝満山=
金剛界で一体不可分の修験の山です。これでうきき
さんは日本三大修験の山のひとつを極められます。
1200mで福岡県最高峰とは雖も、きつさの程度
宝満山程度ですから。 英彦山ガラガラは魔除けで
すから、玄関に置くと各種の効果がある様です。
うききさん&ご友人と一緒に登る際には買って進呈
します。

□ひこさん/うきき (2748)投稿日 : 2010年10月23日 (土) 12時27分

 墓所はきれいに復活しておりました。
バラバラになってしまった墓石もすべて見つかり、安堵しています。

>実際、いくさとか何かあった処なんでしたっけ。
森家が関係しないとよくわからんのですが、もうすぐ『美作国の山城』という
本が刊行されますので、それで勉強してお報せします。

>これでうききさんは日本三大修験の山のひとつを極められます。
英彦山…何度か登った遠い記憶。
山積みの石は修行僧が埋められていると教えられつつ…。(^_^;)
ガラガラは麓かどこかで売っているのでしょうか。
あそこはさすがにお城はありませんでしょうか?

ちくとその前に、今から大阪にモリモリしに行ってまいります。

□「墓」復元おめでとうございます/ARI (2749)投稿日 : 2010年10月23日 (土) 23時09分

ウィキで岩屋城を見てみましたが、戦国期唯一の
玉砕戦を演じた、ここ筑前岩屋城のことが詳しく
書いてあっただけで、美作の岩屋城のことの記述
は全くなかったですね。淡路国,丹波国,大隅国に
は岩屋城はある旨はちょっと書いてありましたけど。

修験の山「英彦山」は大友宗麟が何度か攻めた様で
すが、アウトローの諸将達の欲望の為に侵略されて
明け渡して城を造らされた歴史はない様で幸いです。
あの時代、悲惨な目に遭った庶民や修験の山は悲惨
でしたでしょう。今の時代は戦国武将はかっこ良く
描かれますが、実質は他人の生命と財産を奪う悪党
以外の何物でもないですもんね。

え、帰ってきた途端に今度は大阪ですか。
家庭にかかる金で苦労してる拙者とは違い、自由に
意のままに動けて羨ましいですね。

□英彦山城はないのですか…/うきき (2750)投稿日 : 2010年10月25日 (月) 23時45分

前述のチラシ裏にも美作岩屋城のことがちょっこし書かれていますよ。
http://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/22,24287,c,html/24287/20101006-214140.jpg

ときに英彦山の修験者は戦国時代でもやっぱりお山で修業していたのでしょうかね。
吉野山の修験道では、軍略や呪術も極めた人たちが、結構多くの武将に見込まれて従った
ようなことを吉野で言ってました。いや、今でもなんか大企業の方々が頼ってきてすごい
世界のようですが。
結局、聖も俗も、つかず離れずの世界だったのかぁ…と。(^_^;)


わたくし、昨夜に大阪から帰ってきました。
 荘園制のころから同じとこに住んでる今西さんというお宅がよりによって
昨日という日に1日限定で公開されたのものですから、無理を押して
行ってまいりました。
いやぁ、雨も降ってくるし歩いたり走ったりでヘトヘトです。
かなり運動しても大丈夫と自負していたはずが、久々に筋肉痛というものを
体験しております。

/ARI (2751)投稿日 : 2010年10月27日 (水) 23時15分

ここ数日、冷え込んで来ましてやっと秋らしく
なってきました。紅葉の季節到来という処です

□今西家訪問の関西行き、お疲れ様でした。/ARI (2752)投稿日 : 2010年10月27日 (水) 23時24分

<続き…>
来月月初には又友人と宝満山に登る予定です。
…で、うききさん、英彦山登山はかわされた
様ですが、来年の楽しみに取っておきます?



□今頃、津山では…涙/うきき (2753)投稿日 : 2010年10月30日 (土) 14時08分

福岡も冷え冷えとする日がありましたね。
本気でコタツを出そうかと思いましたよ。
英彦山には城がないので、それは普通の登山というシロモノではないですか…何という恐ろしい…(-_-;)←躊躇
とりあえず、福岡城にレッツラゴーです♪

□英彦山の紅葉もいよいよです/ARI (2754)投稿日 : 2010年10月31日 (日) 22時38分

英彦山には城はないですが、坊跡の数はすごい
ですよ。中腹から山頂迄の幅広で馬でも登れる
様な登山道は…さすが威厳、ですから又いつか
機会があれば、久々に是非登ってください。

…で、福岡城探索よろしくです。



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